ノヴァの遺志
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  ノヴァの遺志

「やめてくれ、私はノヴィストではない。福音も知らない」
 男は、審問台の上で叫んだ。乞うように。縋るように。その悲痛に満ちた声は、教会のステンドガラスにこだまして切迫した雰囲気をより一層際立てた。
 司祭のエフレムは、薄灰色のローブをはためかせながら審問台の男へと歩み寄ると、うつむいた男の顎にそっと手を添えた。
 くいっ、と顎を持ち上げられた男の視界が、ほほえむ司祭の顔で埋まる。
「ならば、踏めるであろう。邪教の祖ノヴァの顔面を。どうした?」
 エフレムはそう言って、微笑んだまま小首をかしげる。男は、その圧力に押されるようにノヴァの顔が彫られた銅板を見やり、そしてもう一度司祭に視線を戻した。
 エフレムは、引き攣った笑いを浮かべる男の顎から手を離すと、審問台を囲う手すりに持たれかかり、大げさに手を広げた。
「……単純にしてよく出来ているとは思わないか、この踏み絵というやつは。東方の国で考案されたらしいのだがね。痛めつける必要がないから、とても楽だ。仰々しい拷問器具を引っ張り出してくる必要もない。そして何より時間がかからない。直ぐに判るからね、邪教徒かどうかは反応を見れば。そう、直ぐに判る」
 深淵をのぞき込むような司祭の瞳に、男は骨の髄に染み渡るような恐怖を覚える。
「———ッ、待って、待ってくれ。踏むさ勿論。タップダンスでもしたい位だよ、ハハ……」
 男は呼吸を整えると、再び足元の銅板と向き合った。
「そうだ、それでいい。見ろ、こんなものはただの絵だ。……絵の端でよい、撫でるように触れてもよい、どんな踏み方でも構わない。さあ、足を上げて」
 その声に突き動かされるように男の足が上がる。そしてその足は暗雲のように絵の上を覆った。後はそれを下に突き落とすだけだ。
 もはや一寸の迷いなく絵を踏まんとする様子を見た司祭は、男の耳元に口を当てると、そっと囁いた。
「———きっとノヴァならこう言うだろう。踏みなさいと。これでいいのだと。私が同じ立場ならきっと踏むだろうと。命を、家族を、愛するものを守るために踏むのです、とね」

その瞬間、迷いなく振り下ろされようとしていた男の足が止まった。はっとなって体を小さく震わすと、すぐさま眼を大きく見開いてエフレムを睨んだ。そしてその顔は驚きと狼狽、そして悔しさで満ちていた。
「決まりだ、このノヴィストめ」
エフレムは男を睥睨し、吐き捨てるようにそう言うと、審問室の後方で待機していた侍祭たちに男を連れて行くように命じた。
「いやだっ、やめてくれ」
男は、侍祭たちに引きずられながらもなお、救いを求めるようにエフレムへと手を伸ばす。
「おいおい、手を伸ばす方向が違うんじゃないのか?」
 侍祭たちが笑いながらノヴァの踏み絵を指さすと、男は侍祭を睨みつけて沈黙した。
こうして連れていかれたノヴィストの男は、修道会の監修のもと、家族もろとも修道院で改宗措置を受けることになる。修道会は半数近くが元邪教徒で構成されており、措置を受ける邪教徒達は、その修道士の過去や言葉に共感を覚えながら、次第に正教に導かれていくのである。
「相変わらず鬼畜ですね」
 エフレムの傍らで、そのやり取りを見ていた助祭がここで初めて口を開いた。呆れを孕んだ口調で、だがエフレムにとってはいつものことだった。
「……信心深い連中ほど、自己暗示も上手いからな。先に逃げ道を塞いだまでさ」
 エフレムは被っていた宝冠を脱いで髪の毛を整えながら、少々鬱陶しそうに受け答える。
「はあ。しかし多少苦戦していたようにも見えましたが」
「あいつはましな方さ。本当に厄介なのは自治区にいる連中だ。あいつらは共同体として完成しちまってるからな、隙がない」
 司祭は宝冠を再び深々と被りなおすと、助祭に付いて来いと合図をして歩き出した。
「はぁ……。そうでした。今日はノヴィスト自治区と決着をつけに行くんでした」
 助祭は、嫌なことを思い出したとばかりにわざとらしく顔を手で覆うと、トボトボとした足取りで司祭の後に付いていく。誰一人いなくなった教会は、すました顔で天井を見上げるノヴァの絵一枚を残して、再び静寂に支配された。

街の六割を囲う広大な『ノヴァの福音』自治区。その中心部に位置するヴィティルダム大聖堂では今日、聖供物の儀式が取り行われていた。
聖供物の儀式は、『ノヴァの福音』において毎月行われる神聖な儀式である。
創世記によれば、『ノヴァに毒を盛って暗殺した弟子カリムは、事後に内なる罪の意識に苛まれ、ついに、冤罪にかけられていた召使いをかばって自ら命を絶った』とある。この一節を、後に伝道師セパネが体系化したのが儀式の起源と言われている。
以降、戒律を破った者や信仰に背いた者は、その罪を象徴子と呼ばれる祖の代理人に告白し、赦しを得て聖供物として祖に捧げられる。
女は肺と心臓を。男は腸と心臓を。その身を捧げた二人は貢聖子と呼ばれ、祖のみもとへ還って安寧を得るのである。

祖は、自らの肺を投げうってそこに魂を吹き込んだ。
それは女となった。
祖は、自らの腸を投げうってそこに魂を吹き込んだ。
それは男となった。
祖は、自らの心臓を投げうって二つの魂に命を与えた。
するとそれは意志をもって歩き始めた。人間の誕生である。

 『ノヴァの福音』創世記にはそう記されている。与えられた腸と肺、そして心臓。それを租へと捧げ、返上する。そうすることでノヴィストたちは祖への信仰を示し、また豊穣と平穏を祈ってきた。
 
鈍く震える鐘の音が茜色に染まった聖堂に響き渡る。福音、それは祖の祝福である。
 象徴子が、煌びやかに金箔で包まれた供物台に向けて祈りの辞を読み上げ、黙祷を行う。するとそれに続き、聖堂に集った信徒たちが讃美歌を高らかに歌う。
 讃美歌と共に執行人が供物台に向かった。執行人は、ノヴァの弟子カリムが自刃した際に使用したものを模した、刀身の婉曲したナイフで貢聖子の肉体を手際よく切り開くと、迅速に臓器を取り出した。供物として捧げられる人間は、実はこの時すでに絶命させている。儀式を滞りなく行うための措置として、近年ではこれが主流になっていた。
 そしてその取り出された供物を、二段構造になっている供物台の上段へ運び、丁重に供えようとしている、まさにその時だった。聖堂の重厚な扉を、信徒にそぐわない荒々しい所作で開け放つ集団の姿を、執行人の視界が捉えた。
「静粛に。こんにちは、アンセリウム正教です。約束通り話をつけに来ました」
 集団の代表らしき男が、讃美歌を中断されてざわめく信徒を沈黙させる。そして自身に注目が集まったのを確認すると、後ろの集団に向けて合図を出した。
 すると、丸っこい小さなパンが乗った皿が三枚、聖堂の中に運び込まれた。
「何を……これは一体どういうことだ」
 信徒の一人が戸惑いの声を上げる。
「おや……説明が行き届いてないのですか?」
 代表らしき男は、供物台の近くにいた象徴子に涼しげな視線を送る。しかし象徴子はその視線には応じず、毅然とした表情でそっぽを向いた。
「まあいい、説明いたしましょう。まずご理解いただきたいのは、私達にとってあなた方のしていることは宗教活動でも何でもない、ただの人殺しとしか思えないという事です。聖供物? 貢聖子? 知ったことじゃない。毎年二十人以上の罪なき市民の命が、あなた方の自己満足で意味のない儀式によって奪われているのです。この街の司祭として、それは看過できない」
「この街の司祭? いつから自治区は街に入ったんだ?」
 先程の信徒が、再び口を挟む。『ノヴァの福音』自治区は、街の行政管轄から外れたいわば特区として存在していた。
「なら供物にされた犠牲者は! ……いつ自治区の住人になったのです? いつノヴァの福音を信仰した? 信徒でもない市民に、戒律に背いたといって、その行為を告白させ、儀式を強要することが、本当の信仰なのか! そこにノヴァの意志があるというのか!」
 その凄みをきかせた司祭の声色に怯んだのか、信徒の男は押し黙った。
「……失礼しました、話を戻します。我々はその儀式を看過出来ませんが、こちらの要求をあなた方は拒んだ。このままではらちが明かない。そう思った私は象徴子にある提案を持ち掛けたのです。それがこちら」
 司祭は、信徒一同を視線を再びパンに向けさせる。
「ご存じの通り、こちらはパン・サレというこの街特産の塩パンです。ふっくらとした食感に、濃厚なバター生地、ほどよく効いた岩塩の風味、今にも涎が沸いてきそうだ。しかし残念なことに、この至高のパンをあなた方は食べることが出来ない。そうですね?」
『ノヴァの福音』では、小麦を食す事が戒律で禁止されていた。創世記において小麦は、母なる大地を侵した悪魔の植物とされていたからだ。戒律を破った者は、共同体を追いやられる。たとえ象徴子であってもそれは例外ではない。
「ですがこの塩パン、三つのうち二つは小麦が全く使われておりません。みな同じに見えるでしょう。ふふ、そう見せるために、とても手間をかけましたからね。これを手掛けたパン職人は、それはそれは苦労したと言っていましたよ。さて、ノヴァはその昔、毒の入ったぶどう酒を見破れずに死んだらしいですが……」
「デタラメを言うな! そんな事実はない!」
 すぐさま怒声が飛ぶ。しかし司祭は予想通りといった顔で冷静に信徒をなだめる。
「ええ、そうでしょうとも。我々の聖書が誤りを記載したに違いない。だから、これで証明しましょう。祖ノヴァの代理人たる象徴子どのが、三つのうち一つだけ紛れた小麦入りパン・サレを見破って見せるのです。いや、いっそ一つだけ食べていただき、それが小麦パン・サレでなければ、あなた方の勝ちでいい。
あなた方の勝った暁には、我々正教は今後一切あなた方の行いに口を出しません。干渉もしません。供物に選ばれれば喜んでその身を差し出しましょう。しかし、万が一小麦の入ったパン・サレを口になさった場合は、あなた方の戒律に従って象徴子どのは追放、聖供物の儀式は今後一切禁止、自治区も縮小していただきます。……とまあ、こういう取り決めを私は象徴子どのと交わしていたのです。ねぇ、象徴子どの」
 
司祭はそう言って象徴子に視線を注いだ。するとそれまで沈黙し、動きを見せないでいた象徴子が、歩き出して司祭の前で止まり、おもむろに口を開いた。
「…ふふ、小麦入りパン・サレ? 私はノヴァのお言葉を賜る奇跡の存在ですよ。馬鹿にするのも大概にしてください」
 象徴子は、もったいつけず、迷う様子もなく、まるで小麦入りのパン・サレがどれかわかっているような様子で、右端のパン・サレの前に立った。侍祭が差し出した椅子に座り、毅然とした表情のままナイフを取る。
そして気品に満ちた所作でパン・サレを切り分け、フォークに刺した一切れを口元に運んだ瞬間、———エフレムは勝利を確信した。象徴子の選んだパン・サレに小麦は入っていなかった。それでもエフレムは勝利を確信した。なぜなら、小麦入り以外のパン・サレには毒が入っていたからだ。つまり、小麦入りパン・サレを食べれば象徴子は追放、食べなくても毒で抹殺することが出来る。どちらを引いても貧乏くじ、小麦入りパン・サレに毒を混ぜなかったのは、万が一毒味を迫られた時の保険だった。
エフレムの目的は、『ノヴァの福音』の共同体から象徴子を排斥することである。貢聖子の選定をする象徴子がいなくなれば、供物として連れ去られる犠牲もなくなる。また、信仰を纏める象徴子を失えば、宗教的統率は瓦解する。そうなればエフレムにとって、付け入ることなど容易かった。
 ———そうだ、そのまま口に放り込むんだ。咀嚼しろ、飲み込め。胸から溢れそうなその期待がエフレムの口元を緩める。高ぶる気持ちを悟られないように落ち着けて、再び象徴子に目をやると、そこでエフレムは目を見張った。
パンを口元に運ぶ象徴子の表情が、ノヴァの肖像画を手掛ける画家ジャン・ロヴァンスの名作「愚者の晩餐」に描かれたノヴァの表情に重なったのだ。
しかし困惑は一瞬だった。
愚かだ、余りにも愚かだと、刹那にエフレムは痛感した。
 果たして、象徴子はパン・サレを食べた。
そして間もなく、胸の奥からこみ上げてくる苦痛に顔を歪ませる。
それから声も上げずに二、三度痙攣した後、象徴子は静かに息を引き取った。
 
一瞬の静寂、信徒たちの悲鳴がヴィティルダム大聖堂に響き渡る。しかしそのパニックが伝播しきる前に、司祭エフレムがそれを御する。
「皆さん、落ち着いてください。ここであなたたちが騒いでも、目の前の事実は何も変わりません」
「ふざけないでよこの裏切者! 何が小麦よ、入っていたのは毒じゃない!」
女の信徒が涙ながらに叫ぶ。その傍らでは皺だらけの顔をさらに皺くちゃにして、老婆が嘆き悲しんでいる。
「ええ、認めましょう。確かに私は毒を盛りました。象徴子どのを殺したのは紛れもなく私です。……しかし、おかしいとは思いませんか皆さん。象徴子どのが本当にノヴァの代理人たる奇跡の存在ならば、小麦の入ったパン・サレは勿論、下賤な私の盛った毒など簡単に見破って見せたはずです。そして決して毒入りパン・サレには手を出さなかったでしょう。それどころか私の悪事を糾弾し、優位な立場に立って交渉を進め、あなた方の信仰を、『ノヴァの福音』を守り抜いたはずだ。だが彼は死んだ。あれだけ大見栄を切って、豪語したにもかかわらず、毒入りパン・サレを何の疑いもせずに頬張った。聡明であるはずの象徴子様がなぜ? 理由は簡単だ。象徴子の奇跡は、まやかしだったのだ。 ノヴァの代理人を騙り、罪なき人々を殺し続けた狂気的な殺人鬼。いや、そもそもノヴァもまた、一人の人間にすぎないのだろう。ノヴァも象徴子も、奇跡は起こせなかった……」
エフレムは口を動かし続けながら、信徒たちの表情を確認した。象徴子の敗北、それは絶対的信頼の崩壊。さらに襲い掛かるダメ押しの根拠の数々。それを一身に受け止めてそこに浮かび上がるのは、戸惑いと煩悶、そして微かな———納得。あと一押しだ。エフレムは放つ言葉の抑揚により一層力を込めた。
「……さて皆さん、無価値で無意味なあなた方の象徴はいなくなった。そして貢聖子を選定できる人間もいなくなった。これで聖供物の儀式という殺戮行為は出来なくなった。……だがあなたたちは決して悪くない、ただ少し、ほんの少しだけ、信じるべきものを間違えていただけなのです。今まで信じていたものが失われるのは辛いことだと思います。しかし気を落とす必要はありません。アンセリウム正教はいつも、あなた方の味か」
「甘言に耳を貸してはいけない!」
 司祭の演説を切り裂いて、威勢のいい声が聖堂に響き渡った。その男は薄灰色のローブを脱ぎ捨てると、信徒たちの前に立った。
「助祭!? 貴様、何を……」
司祭の戸惑いを無視して、男は信徒たちに訴えかける。
「私は、何年もこの司祭の傍で理不尽な蛮行を目の当たりにしてきました。数多の同胞が精神の凌辱を受け、強制的に思想を変えられていた。聞こえのいい言葉で人を惑わし、奈落に叩き落とす。それがこいつらの常套手段です。その非道極まりないやり方は、まさしく悪魔そのものだ。騙されてはいけない。信じるものを見失ってはいけない。ノヴァはいつも我々の傍におられるということを———忘れてはならない。
確かに象徴子様は敗れました。毒の入ったパン・サレを見破ることが出来なかった。あなたのおっしゃる通りだ。あなた方の聖書に記載された歴史も、きっと正しいに違いない。現実に奇跡は起こらない。しかし忘れてはならないことが一つ。象徴子様は、小麦を食べていない。勿論、見破って避けたわけではないでしょう。事実、象徴子様は死んだ。だが小麦を口にしていないのも純然たる事実だ。……確か、約束はこうだったはずですね司祭さん。象徴子様が、小麦入りのパン・サレを食べた場合はアンセリウム正教側の勝利、そして小麦入りのパン・サレを食べなければ———『ノヴァの福音』側の勝利だと」
 それを聞いたエフレムは、途端に狼狽して辺りをせわしなく見渡した。するとそこには、先程まで沈み込むように司祭の甘言を聞き入っていた信徒たちがどこにも存在せず、一変して明確な敵意と、確固たる意志を瞳に宿した者たちだけが聖堂に、自分たちの信仰を背に立っていた。結束の完成した共同体は付け入る隙が無い、それは目の前の助祭にも教えたことだ。もはやエフレムに勝ち目はなかった。
「くっ、助祭貴様ァ!」
悪魔の形相を纏った聖職者の、劈くような甲高い怒号が聖堂にこだまする。だが助祭はそれを受けてなお顔色一つ変えず続ける。
「長い間、僕はあなたの言いなりだった。ノヴァへの信仰を捨て正教に誓いすら立てた。そしてこれからもそれは続く予定だった。でも、象徴子様がお亡くなりになられた時、僕ははっとしたよ。象徴子様は僕に遺志を託していたんだ。それは、たとえこの身が屈しようとも、魂に宿る信仰だけは、決して屈することはないという、鋼よりも固い意志をね」
「違うッ! 象徴子は負けたんだ! 屈して、敗北したんだ! それがなぜ分からないんだ、バカ者が! そこにいるお前らもだ、ははっ、この背徳者どもめッ」
 司祭は顔を引きつらせながら喚き散らす。被っていた宝冠を床に叩きつけ、咎めようとする侍祭の腕を強引に振りほどいて、ノヴァの福音の信徒たちに罵声を浴びせる。
 乱心するエフレムに、助祭だった男は肩をやさしく触れる。
「もう、いいのですよ。もう……終わったんです。そんな顔しないで、笑ってください。笑顔が一番似合っていますよ。……ああそうだお義父さん、実はとてもうれしい報告があるんです。僕の妻が、貢聖子に選ばれたんですよ。やあ、おめでとうと言ってください。きっと喜びます」
 義理の息子は爛漫な笑顔でそう言った。その言葉には皮肉めいたニュアンスも、そこはかとない悪意も一切なく、ただ純粋な喜びだけで彩られていた。
「何を言っている? 俺の娘はノヴァの福音など信じていない。自治区の人間でもない」
「お義父さん、あなたは先程、なぜ自治区の外の人間を巻き込むのか、とおっしゃっていましたよね。巻き込むなどとんでもありません。ただノヴァの御心がその方を選んだだけのことです。ですから、たとえアリーチェさんが祖ノヴァを信じていなくても、祖ノヴァはアリーチェさんのことを信じておいでです。ですから、貢聖子に選ばれたことを誇り高く名誉に思うべきなのです」
「殺した俺の娘を、豚の餌にでもするというならばまだ理解できるがな。……今のお前は、ノヴァの福音においてすら背徳者だ」
 エフレムは、吐き捨てるように言うと、踵を返し、足早に歩きだした。
「……聖堂を出る必要はありませんよ。アリーチェさんなら、そこにいらっしゃいます」
 エフレムは、強張った首筋を捻じるようにして顔を回転させる。すると、義理の息子が穏やかな微笑みと共に視線で指し示すその先に———供物台が見えた。
その瞬間、エフレムは弾かれたように走り出した。声にもならない声を上げ、覆い被さっていくように走った。ただ前に、一歩でも前に体を前に押し出したい。しかしそんな切実な感情すらも、急くばかりの足と共にから回ってはもつれていく。
スローモーションで流れゆく曖昧な視界が、色彩豊かなステンドガラスでカラフルに染まる。そしてその刹那的な時の中で、娘と一緒に作った思い出の数々が頭の中を巡っては消えていく。
 ようやく供物台にたどり着き、震える手で娘の顔を覆う布を外す頃には、エフレムの視界は溢れ出た涙のせいで、もはや見えなくなっていた。
 厳かな鐘の音が、自らの慟哭に隠れて微かに聞こえてくる。聖堂に吹き込むそよ風がやけに冷たく感じる。
 エフレムは祈った。己の神に祈った。乞うように、縋るように、異教徒の聖堂で手を重ね合わせた。
 
(神よ、愚かな、余りにも愚かなこの私と、異教の民たちにどうか……、どうか……)
ふと、祈りの途中でエフレムは思い直した。踏み絵や、象徴子の顔や、信徒たちの憎悪に満ちた表情が、次々に脳裏に浮かんでは消えた。

もし、それでも与えるということに意味があるのならば……

悲しみに冷えていた心が、おもむろに暖まっていくのを感じた。
最愛の娘は失った。司祭という立場も、信頼も無くした。ノヴァの福音に干渉することは、今後困難を極めるだろう。
しかしそれでも、不思議とエフレムに迷いはなかった。
 彼の中には、新たな信仰が芽生えていたからだ。
エフレムは毅然とした表情で、それでいてどこか穏やかな表情で、床に落とした宝冠を再び深く被りなおした。
 この時エフレムの中で生まれた信仰によって、神は死んだ。
         
                                     完


『ノヴァの福音』の祖ノヴァ。その最後は、ぶどう酒に毒を盛られてのものとされている。
 しかし宗教学の権威、ピーター・マルティネスによればその死因には、いくつか不可解な点があるのだという。
 友人であるアンセリーの宴に招待されたノヴァは、そこで弟子のカリムから酒を勧められ、それを口にした。その酒には毒が入っていた。それをノヴァは毒だと分からずに飲み、そして死んだ。あらゆる歴史書や宗教画は、ノヴァの最後をこう、もしくは類似した内容で記している。
 だが、そもそもおかしいのはノヴァがぶどう酒を飲んだということだ。ノヴァは生前、数々の教え子に禁酒を説いてきた。宴には、教えを受けた弟子たちがいた。その中で、勧められただけの酒を何の躊躇もなしに飲んだというのか。
 もう一つ不可解なのは、毒を盛った人物はノヴァの弟子カリムだったということだ。
ノヴァを慕い、ノヴァを信じ、ノヴァに救いを求めまでした彼が何の動機もなく、誓いを立てた自らの師を殺したというのか。
 そこでピーターはこれらの疑問と、近年発見された聖歴二十年付近の古文書の記載をもとに、ある仮説を立てた。
『殺されるはずだったのは、実はノヴァではなく友人アンセリーのほうだった』
 つまり、ノヴァの弟子カリムはノヴァを殺す気など毛頭なく、ノヴァの友人アンセリーに向けて毒を仕込んだということである。
 ではなぜ、カリムがアンセリーに殺意を持ったのか。
 それは、アンセリーがノヴァの教えに従っていなかったことに起因する。彼は確かにノヴァの良き友人であったが、彼には彼なりの信念があった。そしてノヴァも、彼の信念を尊重し、受け入れていた。しかしノヴァに師事し、その教えを深く享受していた弟子のカリムにとって、アンセリーはノヴァの教えを否定するイレギュラーでしかなかった。
 よってカリムは凶行に至った。談笑に明け暮れるアンセリーの目を盗み毒を盛ったのだ、宴に呼ばれたノヴァとその弟子たちだけは、決して誤って飲むことのないぶどう酒の中に。
 そして、体に毒を巡らせてのたうつアンセリーに向け、白々しくこう言う筈だったに違いない。
「禁酒の教えに、ノヴァ様の教えに背いたので天罰が下ったのだろう」と。
 しかしアンセリーは死ななかった。ノヴァがそのグラスを奪ったのだ。
 飲む必要はなかった。指摘するだけでよかった。いやそうでなくともカリムをかばうことくらいは出来たはずだ。しかしそれでもノヴァはぶどう酒をあおった。そうしなければ、弟子に、教えを伝えることは叶わなかったからだ。
 飲まされたのではない、ノヴァは飲んだのだ。命を落とすと知りながらなお。

 無論、今を生きる我々がその真相を知ることは叶わない。限られた文献と痕跡の中で憶測を働かせたに過ぎない。この仮説も、ノヴァが毒を見抜いていた前提として初めて成り立つ危うげな俗説であり、真実ではない。
 しかし、そう考えると奇しくもつじつまが合ってしまうのも事実だ。毒を盛ったカリムにノヴァを殺す動機がなかったことも、ノヴァが自らの教えに背いてまで酒を飲んだことも。
 よって、もしこの仮説が真実とまではいかずとも、その片鱗を少しばかりでも掠めていた可能性があるならば、膨大な時間と信仰の織り成すめぐり合わせによって、その遺志を継ぐ者が現れていたとしてもおかしくはないだろう。
氷頭 

2023年06月15日(木)21時29分 公開
■この作品の著作権は氷頭さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
過去作ですが、同人誌に記載するためリメイクしました。テーマは愛です。よろしくお願いします。


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2023年09月13日(水)22時18分 朱鷺 充(とき みつる)  +10点
 拝読いたしました。朱鷺 充(とき みつる)と申します。宗教を扱った重厚な作品でした。面白かったけれども、最後だけ、説明が不足していると感じました。
 本作では、アンセリウム正教のエフレム司祭がノヴァ教徒(ノヴィスト)を摘発し改宗を促します。作中で司祭はカトリック教会の異端審問官の役割を演じています。
 物語では、まずエフレム司祭が踏絵を用いて隠れノヴァ教徒を狡猾に摘発する場面が描かれます。
 つづいてエフレム司祭は、『ノヴァの福音』自治区でノヴァ教徒の弾圧を試みます。
 司祭は、ノヴァ教徒の宗教的指導者である象徴子に、小麦入りの塩パン、パン・サレと、小麦の入っていないパン・サレを差しだします。象徴子が、祖ノヴァが食べることを禁じた小麦入りのパン・サレを食べればノヴァ教徒の戒律に従って追放となる。そして、象徴子が小麦の入っていないパン・サレを食べれば毒で死ぬように取りはかったのです。いずれのパン・サレを選んでも、ノヴァ教徒は宗教的指導者を失い瓦解するだろう。かならずノヴァ教徒を無力化できるはずでした。
 象徴子は、小麦の入っていないパン・サレを選び、毒で死にます。エフレム司祭は、ノヴァ教徒たちを扇動して改宗を促そうとします。しかし、司祭に従っていたアンセリウム正教の助祭が、象徴子は小麦を食べていない。だからこれは、事前の約束のとおり『ノヴァの福音』側の勝利であると宣言します。
 司祭は激怒し絶叫します。
「象徴子は負けたんだ! 屈して、敗北したんだ! それがなぜ分からないんだ、バカ者が!」
 助祭はエフレム司祭に、司祭の娘であり、助祭の妻であるアーリチェが、ノヴァ教の貢聖子に選ばれて供物台に捧げられていることを告げます。
 エフレム司祭は、肺と心臓をノヴァ教の祖に捧げた娘のアーリチェを前にして、アンセリウム正教の神に祈ります。司祭は、最愛の娘を失い、司祭という立場と信頼をなくしてしまったのです。
 もし、それでも与えるということに意味があるのならば……
 もはやアンセリウム正教の司祭ではなくなったエフレムの内に新たな信仰が芽生えます。エフレムの中で生まれた信仰によってアンセリウム正教の神は死をむかえます。
 物語の中で、エフレムの新たな信仰についての記述はありません。しかし、そのヒントが『完』以降に記載されています。
 ノヴァの友人のアンセリーはノヴァ教徒ではなく、彼なりの信念を持っていた。ノヴァはアンセリーの信念を尊重していた。
 弟子のカリムはノヴァに心酔していた。このためカリムはノヴァ教を否定するアンセリーの毒殺を決意する。ノヴァは禁酒を説いていた。そこでカリムは、ノヴァとノヴァ教徒が飲むはずのないワインに毒をしこんだ。しかし、アンセリーは死ななかった。
 ノヴァが、自ら説いた禁酒の教えに反して、アンセリーが飲むはずだった毒入りワインをあおったためである。
 こうして、ノヴァは落命した。弟子のカリムに教えを正しく伝えるために。
 ここから感想を羅列します。
 象徴子が小麦の入ったパン・サレを食べれば、追放となる。小麦の入っていないパン・サレを食べれば毒で死ぬ。どちらを選んでも良くない結果になる選択を『悪魔の選択』と呼ぶそうです。フレデリック・フォーサイスの小説にそう書いてありました。
 ならば、エフレム司祭は生きながら悪魔となっているわけですね。そういえば、隠れノヴァ教徒にたいする対応も悪魔っぽい。人を陥れることがきわめてうまい。
 ノヴァ教は、降雨がほとんどない地方に住む遊牧民の間に生まれた若い宗教と考えれば、矛盾なく成立すると感じました。
 『完』以降の話しは、祖ノヴァは(たぶん)アンセリウム正教の祖であるアンセリーの信念も尊重していた。アンセリウム正教の教えに(おそらく)敬意を払っていた。
 ノヴァの遺志とは、自分だけが正しいという偏狭な考えで他者を否定するなら、自分が大切に思うものまで失くしてしまう、というものなのでしょう。
 エフレム司祭は、踏絵で隠れノヴァ教徒の信仰を奪い、パン・サレで象徴子の命を奪い、扇動で信徒たちの心の安息と寛容を奪った。そして、最愛の娘を奪われ、司祭という立場を奪われ、他者の信頼を奪われた。
 もし、それでも与えるということに意味があるならば……
 自分の最愛の娘を奪ったノヴァ教徒に寛容を与えて許し、失った信頼と司祭の地位に許容を与えて心の安寧を得る。アンセリウム正教の神に頼ることをやめて、すべてをありのままに受け入れる。
 ひたすら奪うばかりであったエフレムは、ノヴァの遺志に目覚めて、仏教でいう『悟りの境地』に至ったのでしょうか。
 最後の部分は、読者に対して説明が不十分と感じました。
 全体としては、緊迫感のある面白い物語でした。
 執筆お疲れ様でした。次回作も楽しみにしております。
《蛇足》
 得点は、以下のように判定しています。
 0点:ラ研の平均的な作品の得点。
10点:簡単には付けてもらえない高得点。
20点:平均20点がコンスタントに取れたら公募に応募できるという目安になる。
30点:職業作家の最低水準。一定数の読者が金を払ってその作品を読む。
40点:職業作家の平均的な水準。
50点:一流作家の最高傑作水準。(こんなところに投稿してないで、さっさと出版しろという裏の意味がある)
 はじめて感想を書いた時に、作者様から「この程度の作品にこんな点数をつけたら『あらし』と思われてラ研から追い出されるよ」とのお言葉とともに、上記の基準を教えていただきました。その後は、この基準で判定しています。
17

pass
2023年08月21日(月)17時43分 鱈井元衡  +10点
荘厳な雰囲気の描写はよくできていると思います。宗教をめぐる論争は人間の歴史においてどこであれ繰り広げられてきたものですし、それをドラマとして取り上げるのは着眼点が鋭いと思います。
『象徴子』などの用語にギリシア正教っぽさがあります。架空の宗教の教義は僕の知的好奇心を引き付けるものです。ただ固有名詞が多くなりすぎるととっちらかるという難点はありますね。
アリーチェに関してもうちょっと掘り下げて欲しかった所です。序盤でエフレムの心境を彼女にからめて描写した方がもっと話にまとまりができたでしょう。異端とされた少数派の連帯や紐帯という所に話が収束していくわけですから、最終的に信徒たちがエフレムをどう思ったかも聞いてみたいですね。
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2023年06月30日(金)22時13分 カイト  +10点
はじめまして、カイトと申します。

作品、一気に読んでしまいました。深い奥行きを感じさせる世界観に引き込まれました。面白かったです。
これだけで一つの物語というよりは、大きな物語の一部であるという印象を受けました。そのため、時々「?」となる部分や説明過多に感じる部分(主に設定の説明箇所)もありましたが、背景に物語があると思えばそこまで気にならなかったです。

面白かったのですが、一方で歴史の資料を読んでいるような物足りなさを感じました。登場人物についてもう少し深堀りした方が良かったのではないかと思います。
たとえばエフレム司祭について、外見描写が何もないため、「若くして司祭にまで上り詰めた人物」だと思い込んで読んでいたので、終盤で結婚するような娘がいることに驚きました。また、助祭はせめて名前を明かして欲しかったです。

最後、エフレムの見出した信仰がなんなのかが少し分かりにくかったです。最後の「神は死んだ」の一文も。困難にめげずにノヴァ教徒を改心させること、かなと思いましたが、どうでしょう。
「完」以降のストーリーは、かなり好みです。こちらはかなり「愛」を感じられるものでした。

以上です。合わない意見は流してください。
創作活動応援しています。

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合計 3人 30点


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