絲綢之路、旅程未だ半ばなり 『春』『旅』『うさぎ』
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 長安の都には、酔う程に牡丹の香りが漂っていた。
 長くない顎髭を撫でながら、真成は春風駘蕩とした長安の通りを彷徨っていた。
 唐の六代目皇帝である玄宗の開元一五年。西暦紀元でいえばAD七二七年にあたる。
 真成は朝から自棄飲みをしていた。今年もまた大勝負に失敗したので、飲まずにはいられない。
 泥酔できぬまま、真成はほろ酔いで街を散策していた。日輪は南の大雁塔の真上を通り過ぎた辺りだ。
 詩人駱賓王が「山河千里の国 城闕九重の門 皇居の壮なるを観ずんば 安んぞ天子の尊きを知らん」と詠んだ長安は、失意の真成をよそに殷賑繁華を極めている。
 今年中に決着せねばならぬ問題が真成の傷心の脳裡に思い浮かぶ。来年は齢三〇の路に入ってしまう事実。一時でも嫌なことを忘れたくて飲んだのに泥酔できなかった。
 雪の如く真っ白な馬に跨り巡邏中の金吾衛の兵士が、哀れな酔客に一瞥だけを残して通り過ぎて行く。この時期には、真成だけではなく、昼間から酔い潰れている若者も多いのだ。
 昨日、今年の進士及第者の名前を揚げた竜虎榜が出された。本名の面影を残しつつも漢人らしい名はそこに無く、大雁塔に自らの名を記すことはできなかった。
 向かい風が吹く。真成の脇をすり抜けて流れ行く。
 その風に乗って甲高い狂騒的な声が耳に入ってきた。
 そちらに目を向ける真成。八歳か九歳くらいの童女一人が、むさくるしい男三人相手に口論している。男の一人は太っていて顔中髭だらけで、一人は背が高くて髭が無い。もう一人は両者の中間でこれといった特徴が無い。
 言い争いは始まったばかりなのか、まだ周囲の人は誰も気づいていない。
「あの三人の方が私よりも溺れているな」
 三人の男達はかなり酔っているらしい。少し離れた場所に立つ真成の所まで、熟柿臭さが漂ってくる。三人とも呂律が回っていない。唐で生まれ育ったわけではない真成の方が明瞭な発音ができている。真っ昼間からみっともない程の泥酔っぷりだが、今の真成には寧ろ彼ら三名が羨ましいくらいだった。
 童女は、あと一〇年もすれば、胸や腰などにまろみを帯びて豊満な美女になりそうな雰囲気を漂わせていた。長い緑の黒髪は、真夏の夜空に帯となって横たわる銀漢のように煌めきに満ちている。
 一〇〇万人も人間が犇めいていれば、諍いは必ず起こる。気にしてはいられない。自分のことで精一杯な真成だ。見て見ぬふりをして通り過ぎようとした時だ。
 突如。童女が「父上!」と叫んだ。
 近くに童女の父がいたのか、と一瞬思った真成。だが、童女は真成の濃緑色の衫袖を掴んで、潤んだ瞳で真成を見上げている。
「え?」
 真成は三〇歳目前にして独身を貫いていて、子はいない。
「なんら、おめぇ。この子の、父親ぁ、なのがぁ?」
 童女に引きずり込まれて、揉め事に巻き込まれてしまったらしい。
 状況を素早く理解し、どう対処するか考える。
 暴力沙汰に発展するのは良くない。泥酔者とはいえ三対一では不利だし、相手は懐に小刀くらいの武器は隠し持っているかもしれない。
「ついて来い!」
 真成は童女の手を掴むと、駆けだした。反応が遅れた三人の酔漢たちが「待てぇぃ。待つんら!」と叫びつつ追いかけてきた。呂律が回っていない。
 往来の人々を右に左に避けて走る。握った童女の掌が汗ばんでいるのが感じられる。
 交差点に出る。坊の墻壁沿いの溝に従って左折する。長安の街は真っ直ぐな街路が縦横に走っている。真っ直ぐ進んでいては、相手の視界から逃れて振り切れない。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
 童女の手を握る真成の息が荒くなっていた。
 今年二九歳。勉強ばかりで運動は不足がち。もう若くはないと思い知る。
 童女の方が持久力に恵まれているらしい。さほど息も切らさずに遅れずに走っている。恐らく真成を巻き込まなくても童女一人で走って逃げることができたはずだ。真成の巻き込まれ損だ。
 酔いどれ達の声はもう聞こえない。振り返っても三人の姿は見当たらない。あっさり逃げ切ったようだ。進士という万里の長城以上に堅固な壁に比べたら、笑ってしまうほどに鎧袖一触の成功だ。
 それでも念のため、ほとぼりが冷めるまで三人に見つからない隠れ場所がほしい。
「ちょっと。いつまで手を握っているのよ。なれなれしいわね」
「あ、す、すみません」
 自分より二〇歳ほど年下の童女にきつい口調で言われ、思わず頭を下げて丁重な言葉で返してしまった。手を放しても、南海の真珠さながらの肌の滑らかさと温もりが、真成の掌に残っていた。
「ねぇちょっと聞いてよ。私、あの太った男に『太ったくまーっ!』と本当のことを言ってやったのよ。そしたら連中、なぜか激怒しちゃって」
 確かに太った男は熊のような容貌だった。だが畜生に例えて馬鹿にすれば、怒って当然だ。ましてや相手が生意気な童女だったら尚更だ。
「そうそう、私、瓊姉に会いに行くんだった。どうも上手く行かないから、今すぐ私の踊りを見て助言してほしいのよ。でも私みたいな美女は、また変な男に絡まれるかもしれないから、あんた、護衛として一緒について来ていいわよ」
 無理はあっても道理は無い物言いだった。幼いので美女というよりは美童女だし、先刻の事例は男に絡まれたのではなく自分から絡んだのだ。出会ったばかりの真成には、名も知らぬ童女の命令を聞く筋合いは無い。が、気になる部分があった。
「姉に会いに行くのか?」
「そうよ。瓊華姉上。私にとっては歌や踊りの師匠みたいな存在よ」
 この童女の姉ならば、さぞかし美人であろう。
 昼間であっても広大な長安の街を童女に一人歩きをさせるのも気が引けるし、美人の姉を一目見てみたいという興味本位の気持ちが勝った。護衛という役割を引き受けることにした。
「こっちよ」
 今度は童女が真成の手を握り、引っ張った。


♯♯♯


 童女は馨しい香りを漂わせながら、風のように軽やかに急ぐ。
 二人は風にそよぐ御柳に見送られ、皇城の景風門の近くから、京中の諸坊で比べるものの無いほどに喧呼の満ちている崇仁坊に入って行く。
 童女は酒肆らしい大きな建物に迷わずに入った。扁額には唐建国の頃の顔師古を髣髴とさせる溌墨淋漓たる楷書で「資聖楼」と書いてある。尺牘書疏は千里の面目と言うだけあって、上手い文字は輝かしい。
「こんな子供が酒場に……」
 とは思ったが、真成も中に入った。一階は大部屋になっていた。幾つも卓子が並んでいて、それぞれの席で二〇人ほどの客達が静かに飲んでいる。奥は舞台で、琵琶を爪弾きながら紅毛碧眼の美女が詩を吟唱している。臍下丹田から吐き出された澄んだ声が空間に響く。遠き西の国から来訪しこの酒肆専属の妓女となったのだろうか。
 齢は二〇歳過ぎくらいだろう。彫りの深い顔だち。高い鼻。波打つ豊かな髪。西方人の特徴である透けるほどの白い肌。小ぶりながらも深紅の薄絹の衣装を押し上げる二つの乳房。三本の弦の上で踊る繊指。胡姫の美しさは真成の視線を吸い寄せた。
 金髪や青い目を持つ胡人など長安では珍しくはない。それにしても女のあでやかさは際立っていた。座布団の上に座って琵琶を抱えた胡姫の姿は、大輪の牡丹もかくやの華やかさだ。
 客達は、身なりからして上流階級の者が多いか。酒や女の容姿よりも、吟唱の美しさに酔っている様子だった。
 真成も詩吟に耳を欹ててみると、瞬時に胡姫の紡ぎ出す世界に引き込まれた。


未必由詩得(未だ必ずしも詩によって満足を得られないかもしれないけれど)

将詩故表憐(将に詩によって気持ちを表したいのです)

聞渠擲入火(聞くところによると彼は詩を火に擲って入れてしまったとか)

定是欲相燃(きっとこれはお互いに燃えたいと欲したのでございましょう)


 のびやかな高い声。巧みな節調。喉だけではなく、体全体、手足の指の先から気を集めて、詩に乗せている。
 どこかで聞き覚えがある詩だ。記憶を辿ると『遊仙窟』の作中に登場する詩と思い出す。詩などの作品によって気持ちを表現したいというのは、詩吟に限らず芸術の道を志す者にとっての共通の願いだろう。
 胡姫が吟じ終え琵琶を置き一礼すると、最前列に座っている白髪の老人が緩慢な動作で疎らに手を叩く。拍手で称賛したのは顔色の悪いその老人のみ。他の客は、特に何もしなかった。
 吟唱が悪かったからではない。皆、次を待っている。女は再び琵琶を抱く。
 掻き鳴らされてせつない和音を紡ぎ出す琵琶。二句三息で紡ぎ出す声が唱和する。


此地別燕丹(此の地にて別れる、燕国の太子丹と荊軻と)

壮士髪衝冠(壮士荊軻の髪は悲憤慷慨に逆立ちて冠を衝きあげるほど)

昔時人已没(戦国末期の昔時の人はすでに没してしまってこの世に亡いが)

今日水猶寒(今日もまた風蕭々として易水はなお寒々としている)


 駱賓王が『史記 刺客列伝』を踏まえて詠んだ五言絶句、『易水送別』だ。
 荊軻は秦国の王を仕留める刺客として、この地を出発するところだ。燕の太子丹と部下達は喪服で見送る。暗殺に成功してもしなくても、荊軻が生きて帰還を果たすことは無いという壮絶な任務だ。
 結局秦王は生き延び、後に中原統一を果たし始皇帝となる。その秦も滅び、遥かな年月が過ぎた。
 荊軻の悲壮感と四時気が巡り巡る時の哀愁。異国の美女は五音七声の羽声に慷慨の念を籠めた。
 見事な吟唱だった。西の佳人が琵琶を置いて軽く一礼する。観客の間からは拍手や歓声などは起きず、静かに、感歎の溜息が小さく幾つか聞こえるだけ。噛み締めて味わう詩に対して、賑やかな喝采など必要無い。真成もまた、その場に立ち尽くし甘く染まった吐息を洩らした。
 人種の坩堝として世界各地から人が訪れている大唐帝国の首都長安でも、これだけの吟唱の技量を持っている者は、そう多くはないはずだ。そもそも詩の知識、楽器演奏の技術、持って生まれた声の質など、様々な要素が揃わないと、人の心を動かす良い吟唱はできない。
 真成がふと右下に目線を落とすと、童女もまた詩吟に聴き惚れている様子だ。そういえば、童女の姉を探しにこの酒肆に来たのだが、どこに居るのだろう。客席には見たところ男しか居ないようだ。裏手で掃除でもしているのか。
 琵琶を置いた胡女は立ち上がり、座布団を後ろにずらした。
 胡女は数回足で床を突いて拍子を取ると、その場でつむじ風のように回りながら舞い始めた。
 踊っている様子そのままの名前である、胡旋舞だ。
 回る。回る。
 舞う。舞う。
 伴奏は無い。が、女は頻繁に頭を動かしながら、舞台を踏む足で意図的に大きめの音を立てて拍子を取っている。舞いの中に金甌無欠の音楽世界を現出していた。
 舞姫の体の動きに応じて、手首や腰に付けている絹の細帯が空中に優雅な弧を描く。衣装の深紅の煌びやかさもあって、その動きはまさに神聖な炎そのものだった。
 炎は単調に燃えるものではない。時に予想もつかない滑稽な動きが出てくる。胴体や手を震わせてみたり、左右の肩を交互に前後左右させたりと、優雅さの中に諧謔が無理なく同居している。
 座って琵琶を持っている時には分からなかったが、胡姫の衣装は上と下に分かれている。丁度、臍の所は白い素肌が露出している。回り回る動きの中で幾度か臍が垣間見える。波打つ髪が拡がる。金の耳環が小さく輝く。
 小ぶりな乳房も小さく揺れる。お腹がのぞく。炎のように踊る。
 真成は息苦しさを感じた。胡旋舞に没入して、口だけ大きく開けたまま呼吸を忘れていたのだ。
 一際力強く舞台を踏む足音と共に炎は消えた。
 時間も止まった。
 観客からは溜息すら漏れて来ない。皆、真成と同じで一瞬息を忘れていた。
 胡姫が再び座布団に座って琵琶の準備を始めた頃になって、観客は呼吸を思い出す。生半可な拍手や歓声よりも、その反応こそが能弁な評価だった。


帰去来兮(帰りなんいざ)

田園将蕪胡不帰(田園将にあれなんとす。なんぞ帰らざる)

既自以心為形役(既に自らの心を体のしもべとしてきたのだから)

……


 次の吟唱が始まった。東晋時代の田園詩人陶淵明の『帰去来の辞』だ。
 官位を辞して故郷に帰る心境を詠んだものだ。
 未だ進士及第していないし官位も得ていないが、いつかは故国へ帰りたいという念を持つ真成の心にじっくりと染み入る。
 どこか牧歌的な弦の音が六律六呂を和して心を溶かす。真成の視界が少し潤んで滲んだ。舞台上で吟じている女の緑色の目が一瞬真成の方を流し見たようだった。確証は無いが、真成本人は胡姫が自分を見てくれたと思い有頂天外だった。
 本日の舞台は『帰去来の辞』で終了だった。吟唱の春鶯が観客たちに一礼する。夜光杯に残っていた葡萄酒を飲み干して勘定を済ませて店を出る客もいれば、まだ残って新たな酒を注文する者もいる。舞台を降りた胡姫は琵琶を置き、手の甲で軽く額の汗を拭った。そこへ童女が駆け寄る。
「瓊姉! お疲れ様でした!」
「え? この人が瓊華さん?」
 童女は黒髪黒瞳に、少し黄色みがかった肌の色。漢人である。
 瓊華は、名前こそ漢人のものだが、紅毛碧眼に透き通る白い肌。姉妹とは思えないほど似ていないどころか、人種が違う。義理の姉妹ということだろうか。
「ありがとう小環。今日も良い芸ができたわ。隣の殿方は、どなた?」
 吟唱の時よりも、少し低い、落ち着きを感じられる声だ。逆にいえば吟唱の時は、気が入っているということだ。
「この人はね、名前も全然知らない人よ。勝手に私について来ちゃった」
「おいおい」
 確かにお互いに名乗っていなかった。
「瓊姉! 私、踊りの練習をしていて、どうしても上手く行かない気がして、今すぐ教えてほしいと思って来たの!」
 瓊華は深い瞳で真成と小環を見比べる。
「どうも妹の小環がお世話になったみたいですから、あなたのお話を先にお聞きした方が良いですわね。あちらの席にどうぞ」
 説明する前に瓊華の目は真実をほぼ全て見抜いているようだった。
「私の踊りは?」
「後で教えてあげますから。恩人の方に失礼があっては、おじ様に申し訳ないでしょう」
「はい。分かりました瓊姉」
 暴れ馬女児の小環も、姉に対しては素直だった。容姿は似ていなくても長幼の序を弁えて懐いているらしい。
 客達は既に半分が帰っていた。あの老人も億劫そうな足どりで出て行ったところだ。空いた卓子を囲んで真成、瓊華、小環の三人が椅子に座り、店の主人に注文を出す。店では三勒漿、龍膏酒、胡餅など四方の珍奇というべき様々な酒や食べ物を取り揃えているようだが、真成は今更酒を飲む気になれなかった。最近急速に流行し始めて「茶」という字で書かれるようになってきた飲み物を真成は選んだ。瓊華は葡萄酒、小環は茉莉花で香りをつけた茶だ。
 茶で喉を湿らすと、真成は名乗り、成り行きで小環を無頼漢達から助けた経緯を説明した。瓊華は口を挟まず静かに聞いている。小環もまた真成の説明を邪魔せず、茉莉花茶の香りを楽しんでいる。
「そうでしたか。妹を助けてくれて、ありがとうございました。ほら、小環もお礼を言いなさい」
 立ち上がり、腰を折って頭を下げる瓊華の仕草も絵になる。渋々といった感じではあったが、小環も立ち上がって姉と一緒の動作で頭を下げた。
 再び席に着き、今度は瓊華が語り出す。
「妾は楊瓊華といいます。名前は漢人のものですが、見ての通り、西域出身の胡人です。妹は黒髪で瞳の色も黒い漢人ですが、異母姉妹なのです」
 ということは、二人とも母親似だったということだ。
「小環の生まれは蜀ですが、妾は玉門関より楼蘭よりカシュガルよりも遠い西の出身です」
「疏勒より遠くというと波斯国辺りですか?」
「ペルシアより北のクワーリズムという地の生まれ育ちです。アムダリア川がアラル海という塩水の湖に注ぎ込む辺り、砂漠の中の数少ない緑地だったはずです。そこに住んでいたのは幼い頃だけですので、記憶が曖昧ですが」
 異国の美女の話を聞くだけで、真成の心中には広大な砂漠の風景が浮かび上がった。毎年、春になると遙々西から飛んで来て空が曇る霾晦を思い出す。あの黄色い砂塵は彼女の故郷近辺から旅立っているのかもしれない。
「聞いたことがあります。『大唐西域記』の中で『貨利習弥伽国』と記していた土地のことだろうかと」
 玄奘三蔵の旅行記の中で「縛蒭河の両岸に順い東西二、三〇里、南北五〇〇余里ある。物産、風俗は伐地国と同じであるが、言語は少しく異なる。」と記されている地だ。玄奘は塩水の湖である西海の畔までは至っていないが、それなりに近くは通ったらしい。
「さあ、妾は詩に触れる機会は多いですが、『大唐西域記』は未読です。しかし三蔵法師様は、自らの目的のために遥かな長い旅をして、目的を果たし故郷に帰って来た、私にとって偉大な旅人で尊敬している方ですわ」
 窈窕たる美女は目を輝かせた。
 三蔵法師という尊称で知られる玄奘は高名な僧侶だ。教典を求めて天竺まで旅をして、帰国後は大慈恩寺にて持ち帰った梵経の漢訳に勤しんだ。その持ち帰った教典や仏舎利などの宝物を保管するために建立されたのが大雁塔だ。春に健やかに伸びる土筆のように、途中に節のような屋根を六つ重ね、七つ目の屋根は蒼穹を摩するが如く天へと突き出している。広大な長安の中でも特に目立つ格調高い建物だ。進士及第者は記念として大雁塔内の壁に署名をするという風習がある。真成には遠い場所だ。
「妾の故郷の付近は、砂漠の中の少ない緑地を、宗教や民族の異なる者達が激しく奪い合っていて、心が安まらなかったようです。妾の母は、妾がまだ幼い頃に亡くなったのですが、父は私を連れてサラセン軍の侵攻を逃れて移動して、やがて蜀まで至ったのです」
 胡旋舞の華やかさの裏には、苦難の人生が軌跡として潜んでいる。長安には世界中から色々な人が集まる。真成もまた外国から来朝して刻苦勉励しているのだが、真成だけが苦労人ではない。
「妾はここで、琵琶を弾きながら詩の吟唱を主に行っております。幸い妾の芸の実力を認めていただき、良きお客さんが来てくれています。素質ならば、この小環の方が妾などよりも遥かに上なのですけれどもね。最近この子、伸び悩んでいて……それはそうと、こちらのお店が良き演奏の場を提供していただき、大変感謝しているのです。演奏や詩吟や舞いができる実力があっても、場所が無いと困ります。路上では時々不届き者に絡まれる危険もありますし、資聖楼のように安心してはできません。刑部の司門員外郎である張文成さんが身辺の護衛をしてくださるのです。一番前の席にいらっしゃった、白髪のご老人です」
 刑部というと、司法を担当する部署で、司門員外郎といえばさほど高い位の役職でもないはずだ。でも、張文成という老人には何か独特な権威を持つ名士なのだろう。張文成の名前もどこかで聞いたような気がすると同時に、「成」の字が入っているので親近感を覚える真成であった。
「妾は今、自由に琵琶を弾いて詩吟をして、胡旋舞を演じて、可愛い妹の成長を微笑ましく見守って、大変幸せで充実しています。でも幸せであればある程、遠く離れたきり忘れかけている故郷が懐かしく恋しく、情勢が心配なのです」
 遠く離れた故郷が気になる心情は、真成も同じだ。
 茉莉花茶を飲み干した小環が、主人に対して二杯目を注文していた。
 会話が途切れた。
 気が付いてみると、真成も茶を既に飲み干してしまっていた。
 時だけが緩やかに流れる。
 ようやく真成は気づいた。瓊華は概ね語り終えた。次は真成が話す番だ。瓊華は催促しないので、話したくないことは話さなくても良いということだ。
「私は留学生です。今年も進士に落第してしまい、自棄酒を飲んでいました。今後どうするか悩んでいるのです」
 進士落第者。それが、今の真成の肩書きだ。
「私は唐国に来て一〇年になります。国子監の四門学に入って九年。今までは、学費をはじめ住居や生活費など滞在にかかわる時服糧料が唐国の負担だったのですが、今年限りで在学期限が来てしまい、費用も切れてしまうのです」
 進士の試験を受けるのに出身地制限も年齢制限も無い。「明経科は三〇歳でも老人、進士科は五〇歳でも若輩者」といわれるほど、一段階下の官吏登用試験である明経よりも難関であり、花形だ。だが実際に高齢で受験し続けられるのは、裕福な貴族に限られる。
「新羅国も、留学期限は一〇年としていると聞きます。新羅国は地続きですから、費用が打ち切られたら帰国すれば良い。でも私の場合は迎えの船が来なければ帰るに帰れません」
「東の海の向こう、なのですね」
「はい。日本国です」
「東の海の向こうには徐福道士が行った蓬莱の島があると聞きます」
 いつの間にか小環が静かだと思ったら、卓子に伏して居眠りしている。少し横に向けた寝顔が可愛らしい。
「それは伝説ですからね。いや、日本国の中のどこかに不老不死の秘法が眠っているのかもしれません」
 遠い目をして、真成は酒肆の天井を見上げた。少し煤けている。
「でも現実には不老不死の法は無いから、郷里に残してきた父母も、永遠に待っていてくれるわけではない。なんとか期待に応えたいと思っているのです」
 父母、という言葉を聞いて、瓊華は唇を結んだ。
「知人の紹介ならば、下級役人への道はあります。だが易きに流れるのが正しいのか。それに、私は現在二九歳なのです。来年は三〇になるので、そろそろ結婚も考えたいのです。故郷を出る時に父母が、良い嫁を見つけておくから向こうで結婚せずに帰って来い、とは言っていましたが、さすがに帰れるかどうかすら不確定の中では現実味が無いので。と、言いましても、唐国で結婚するにせよ、相手がいなければ話にならないのですが」
「意中の方がいらっしゃるのですか?」
 どこか悪戯っぽい目をして、美女が問いかける。
「平康坊の妓館を稀に訪れる以外には宿舎に引き籠もって進士に向けた勉強ばかりしていましたから。出会い自体がありませんでしたよ。今、こうして瓊華さんと出会ったのが運命的ともいえるくらいです」
 少しだけ、瓊華ははにかんだ。資聖楼には新しい客が入ってくる。瓊華の舞台目的ではなく、酒や料理を楽しむためだろう。
「私はこの二つの問題を抱えて、迷っているのです。在唐一〇年と三〇歳を目前にしてあと一回の機会に賭けて進士に挑むか、諦めるか。それと、こちらも来年三〇歳を迎えるにあたって、結婚をどうするか。独身を貫き、故郷に戻ってからにするか。こちらで良き相手を探すか。どうしたら良いと思いますか?」
 一瞬考える瓊華。葡萄酒の酔いが少し回ったのか、透明感のある白い頬が、わずかに赤く色づいている。
「あと一回機会があるなら、諦めずに受けたら良いのではないでしょうか。試験が行われる秋まで半年、一生懸命勉強すれば及第の芽はあります。諦めないことです。妾だって、故郷に帰ることができる可能性が少しでも残っている限り、諦めてはいませんし」
「やっぱり、努力を継続すべきでしょうか」
「ご結婚に関しては……もし真成さまに好きな方がいらっしゃるのでしたら、一緒になるのも良いのではありませんか。日本から来られた他の方も、こちらで結婚しておられるのでしょう?」
「はい。同僚の出世頭などは、張子寿大夫の三女殿と結婚しましたし」
「張子寿大夫とは、張九齢さまのことでしたか。神味超逸の詩人の」
「はい。張大夫は官吏として栄達しておられるから、そちらの方が著名だと思っていたのですが、やはり瓊華さんの見る目は、あくまでも詩人としてなのですね」
 詩に関することならば瓊華の知識は、進士に向けて勉強をしている真成も舌を巻くほど豊富だ。
「同僚が、家柄が良いこともあって太学に入って五年で進士及第しました。私だって、彼ほどの才知ではないにせよ、時間を費やし努力すれば進士に及第する可能性があると考えたのです。しかし四書五経を覚える勉強だけならまだしも、自分が詩を作るというのは持って生まれた素質も必要で荷が重いです。どうすれば良いのでしょう」
 瓊華はそれについては返答はせず、長い睫毛を煌めかせるようにして瞬きしただけだった。
 再び会話が止まった。瓊華も、真成も、故郷を離れて長安に至った経緯を話し終えた。起きていれば賑やかなはずの小環は、今は夢の住人だ。踊りについて教えてほしいと言っていたのに、このへんが小童だ。
「もう、手のかかる子ですわ。妾は小環を連れて帰るので、本日はこれで失礼します。よろしければ、またここへ観に来てください。真成さまは妹の恩人で、異国出身である妾と境遇が似ているので親近感を覚えますわ」
 瓊華は普段着の胡服に着替えてから、幼い妹を背負い、酒肆を出た。空を舞う蝙蝠の群れと共に家路につく。
 見送った真成は甘い溜息を吐いて、胸に手を当てた。


♯♯♯


 翌日もまた、長安は朝から晴天に恵まれて、春を謳歌していた。
 空を仰ぐと、絹糸のような細い微かな煌めきが飛んでいるのが見える。虫が吐き出した細い糸が飛んでいる遊糸だ。柳絮と並ぶ長安のうららかな春の風物詩の一つだ。
 本来は宿舎で引き籠もって勉強しているはずの真成は、朝から長安市内を美童女小環と歩いていた。
「本当は勉強したいのだが……」
「留学生っていうのは、唐国の制度とか文化とか色々なことを学ぶんでしょ? 論語だけ勉強するんだったら、海を渡って唐に来ないでも自分の国でできるでしょ?」
「それはそうなのだけど」
「だったら引き籠もってばかりいないで、長安城内を観て回って世の勉強をした方がいいわよ」
 小環の言うことはもっともだ。だが、真成とて長安に来て一〇年近くになる。その間には長安城内のあちらこちらを見物したことくらいはある。
「見て見て真成! 波斯人の剣呑み芸だわ!」
 上半身裸で筋肉質な異国の男が、天に向かって大きく口を開けている。そこに、陽光を照り返して妖しく輝く剣を、刃先から入れて行く。
「見て見て真成! こんな所に、駱駝をたくさん飼っている所があったなんて!」
 大きな屋敷に隣接して柵に囲われた広い敷地がある。その中に一〇〇頭くらいの双峰駱駝がいた。西の砂漠地帯へ大がかりな旅に出る商人だろうか。
「見て見て真成! あの店の人たち、慌てて出荷しようとしているから、たぶんその内、落としちゃうわよ」
 陶器商人らしい。副葬品として使われることの多い唐三彩の壷や置物を慌ただしく運び出している。誰か、ある程度身分のある人が亡くなったのだろうか。唐三彩は模様こそは芸術品として美しいが、脆いため、落としたらすぐ割れてしまう。虎、兎、貴婦人、武将、獅子などの置物を運んでいる。小環の言葉通り、大鳥の置物が地面に落ちて瓦礫になった。
「見て見て真成! あの屋台で焼いているのは羊肉串だわ。買って買って!」
 鉄串に刺した羊肉を、唐辛子と茴香と大蒜で味付けした西域の焼肉料理だ。仕方ないから買った。屋台の胡人の発音はシシカバブと聞こえた。小環は喜んであっという間にたいらげた。美味しい物を食べた時の素直な笑顔は子供らしくて可愛い。
 それにしても、すっかり呼び捨てが定着してしまった。儒教の国は年長者を敬うのではなかったのか。
 午後になると、小環は踊りの練習をするからと言ってまさに旋風のように帰って行った。
 真成も帰って、勉強を再開した。しかしあまり手につかなかった。目を閉じれば瞼の裏に瓊華の華麗な胡旋舞が浮かび上がる。すっかり魅せられている。
 翌朝、小環がまたやって来た。真成はあまり驚かなかったが、少し困惑した。
「勉強に集中したいのだけど」
「瓊姉が、急用ができたとか何とか言って朝早くからどこかへ出かけてしまったの。心配だから様子を見に行きたいんだけど、どこに行っているのか分からないから……真成も一緒に探していいわよ。真成も瓊姉に会いたいでしょ?」
 真成は浩瀚な書を閉じた。小環が来てしまってはいずれにせよ勉強は無理だ。それに真成自身も瓊華に会いたいと思っていた。だが。
 長安は広い。歩き始めてから気づいたことだが、目処も無いまま特定の一人を捜索するのは極めて困難だ。本日も風は優しく暖かかった。
「……結局、遊興か……」
 人捜しであるのを忘れているのかどうか、小環は満面の笑顔で東市の長興里を歩く。真成は朝日を浴びている終南山の残雪に目を留める。あれを題材に五行六韻排律詩を詠むとしたらどうなるだろうか。

八水終南見

残雪白雲浮

……

 続きが浮かんで来ない。最初の二行もいまひとつだ。この先、韻まで合わせて考える余裕が無い。
「それでは全然駄目でしょうね」
 小環にまで貶されてしまった。
 微かに落ち込んで項垂れていると、小環に袖を引っ張られた。
「見て見て真成。あれは抓飯の店だわ」
 掲げた看板には「畢羅」とある。実際に食べてみると、炒めた米に羊肉や胡蘿蔔、玉葱、乾葡萄などの菜蔬を加えて炊いた料理だった。調理人の胡人の発音では、ピラフに聞こえた。
「けっこうお腹いっぱいまで食べちゃった。太りすぎないためには、ちょっと体を動かした方がいいわね。真成に私の踊りを見せてあげましょう」
「この場所でか?」
 東市の往来の真ん中だ。多くの人が普通に行き交っている。
「さっき、真成がちょっと詩を披露してくれたでしょ。今度は私の番だわ。瓊姉ほどではないけど、私の踊りだって大したものよ。そのへんの人々の足を止めさせて称賛を浴びるくらいには良い踊りをできる自信はあるわ」
 力強く宣言した。
 そして、その言葉は決して針小棒大の誇張ではないことはすぐに実証された。
 まだ小さな体を精一杯に動かして舞う。限界まで爪先立ちして両手を天にのばす。優雅さをためつつ、風を切り裂くように鋭く回る。少しよろめく。道行く人は何事かと怪訝そうな表情を浮かべる。それがすぐに、感歎の笑顔へと変化する。
 激しく動いてもさほど息を切らさず、小環、舞う。黒髪が遅れてついて回る。更に加速する勢いで回転する。姉よりはやや単調ながらも、しっかりとした胡旋舞だ。炎よりも風よりも激しく、踊りに没入している。
 最後に小さく跳ねて、両足で地を踏み締めて動きを止める。遅れて、宙で乱れていた髪が落ち着く。見物していた人々から称賛の声と拍手が浴びせられる。得意満面の小環に対し、真成は小さな妹の成長を喜ぶ兄の心境で大きく頷いた。小環は決して大口を叩いていたのではない。実力は本物だ。恐らく、歌や楽器の演奏に関しても、本当に卓越した技術を持っているのだろう。
 異母姉と容姿は似ていないが、芸達者なところは似ている。こちらは父親譲りということなのかもしれない。
「見た見た真成? 私の舞い」
「見た見た。上手かったよ」
 優しい笑顔で褒める。小環は少しくすぐったそうな表情をした。集まっていた人々が解れて行く。
 しかし真成には、小環の師である瓊華が言う小環の伸び悩みについても、なんとなくではあるが感じるような気がした。技術としての観点ならば小児ながらも優れているが、もっと根本的な部分で轍と車輪が合っていないようなもどかしさを抱えているような気がしてならない。
 もうすっかり姉捜しは忘れ去られて、昨日同様に長安城内散策が主目的に変わり果てている。
 真成も勉強は諦めて、小環との逢い引きを楽しむことにする。瓊華は用事があると言って出かけたそうだから、小環と真成が押しかけてその用事とやらを邪魔する必要も無いだろう。
「見て見て真成! なんか、石みたいな見たことの無い果物がある。あれ買って、まず真成が味見してみて!」
 仕方ないから買った。赤茶色の硬い皮の果物だ。大きさは松の実より若干小さい程度。聞くところによると、傷み易いため特別高速便で殖業坊の都亭駅に届けられた南方の珍品らしい。皮を剥くと白い果肉が出てくる。甘くて果汁たっぷりだった。真ん中に大きめの種がある。
「わぁ! こんな美味しい物がこの世に存在したなんて! 大人になったら偉くなって、この茘枝っていうのを飽きるくらい大量に買って食べるんだ!」
 昨日今日と、長安を満喫して楽しんでいるのは、明らかに真成よりも小環だった。
 日本から来たばかりの頃は、真成の目にも長安の街は刺激的に映った。いや、今でもあちこちに新たな発見のある面白い街だが、あの頃とは真成自身の境遇が違う。
「来たばかりの頃は、進士に及第して出世するんだ、と夢を描いていた。今は崖っぷちだけど」
 思わず漏れた真成の独り言が、貪るように茘枝を食べていた小環の耳に入った。
「無理に難しい進士を受ける必要あるの? 唐の制度や文化を学ぶために役人になりたいんでしょ? もっと簡単に役人になれる方法があるなら、そっちを選べば良いでしょ。真成は試験に受かりたいのか、役人になりたいのか、どっちなの?」
 遥かに年下の童女に言いこめられて、言葉に詰まった留学生。考えてみれば、進士は最終目標ではない。高級役人に栄達するという目標のための手段だ。目標と手段を混同してはいけない。
「結婚だって無理にすることじゃないでしょ。真成が故郷に帰って、両親が用意しているお嫁さんを見てからでも良いんじゃない? 両親なんだし、息子の真成のことは良く知っているはずでしょ。その両親が見立てたお嫁さんだから、悪い人じゃないよ。もしそのお嫁さんが気に入らなければ、その時はきっぱりと断ればいいでしょ」
 次々に茘枝の皮を剥いて食べながら、小環は言った。進士についても結婚についても、姉とは正反対の意見だった。
「家柄とか付き合いとかあるから、簡単には断れないけどね」
「んじゃ結婚だけして、好きな人を、おめかけさんにすれば?」
 子供とは思えないほどませた、あっけらかんとした意見だった。
「小環の言う通りかもな」
「天子さまは、正式の奥方である正妃の他に、後宮には星の数の妃を囲っているのは知っているでしょ。自分も、それくらい器の大きな男になりなさいよ」
「そうだな。でも、まず最初に、気になる女性に振り向いてもらえるようになりたいものだ」
 真成は空を見上げた。故郷に帰れば結婚するなら、唐国にいる間にこそ、自由な恋を楽しむのが、人生の得策ではないか、と遅ればせながら思い始めた。
「真成の悩みには、私が簡単に答えを出してあげたわよ。そもそも、真成の悩みなんて私の悩みに比べれば、ちょっと考えればすぐに答えが分かるような単純なものだからね」
 さすがに遥かに年下の幼女に馬鹿にされた口調で言われて憤然とした。そもそも人の悩みなんて、他人と大きさを比較する性質のものではないのではないか。
 小環の悩みとは、先日言っていた踊りに関する伸び悩みだろう。考えて解決する問題ではなさそうだ。
 二人はしばらく無言になったが、すぐに小環が何かに興味を抱き、真成を引っ張る。
 巍巍たる秦嶺の山々と潺湲と流れる渭水をはじめとする長安八水に囲まれ、海棠や桐の花に彩られ、柳と楡と槐の緑が濃くなる、春爛漫の長安。美女と並び歩くのならば、姉の方が良かったのに。そう思いつつも、小環との散策もつまらないわけではない。
「見て見て真成! ……」
 呼び捨ても二日目だ。慣れてしまえば、親近感として受け容れられる。
 小環と一緒ならば、見慣れた風景も新鮮に思えて、時間が充実しているよう感じられた。
 結局、昼過ぎになっても姉を発見することはできなかった。当然だ。
 小環は昨日と同様に、一人で踊りの練習をするから、と言って帰った。
 帰り際に一言、言い残した。
「私の名前は玉環よ。小環というのは小さな妹としての愛称なの。だから真成は、今度から玉環と呼びなさいよね」
 小児扱いを嫌うあたりが小児らしい。
 昨日もそうだったが、今から帰って勉強を始めても、既に気力も削がれてしまっているので捗らないだろう。四書五経を繙いて中身を覚えるだけなら勉強すればするだけ成果は出るだろうが、苦手な詩賦は雪窓蛍机の苦労を重ねるだけでは伸びないものだ。
 真成は開き直って心の洗濯をすることにした。閉じこもってばかりいないで様々な事物を見て感性を育てることが大事なはずだ。
 過日の酒肆に行ってみると、客達は慌ただしくざわめき、不機嫌そうな顔で文句を言ったり、悲しそうな表情で俯いたりしていた。せっかく来たのに早々に帰ってしまう客もいる。
「文成さんが亡くなったのだよ。昨日だけど」
 疲れた表情の店の主人が真成に話しかけてきた。
 張文成老。先日、初めて真成がこの資聖楼に来た時、舞台に一番近い席で瓊華の吟唱に聞き入っていた白髪の老人だ。役職はあまり高くないようだが、何らかの名士らしいので、華やかな唐三彩の副葬品と共に眠ることになるのだろう。
「本日は彼女の舞台は無いよ。彼女もまた文成さんの喪に服している」
 身内ではないから、瓊華が数カ月服喪するということもなかろう。それにしても、先日までは元気そうだった張老が突然亡くなるとは。徐福の不老不死を持ち得ぬ人間は、短い人生を有意義に生きなければならないものなのだ。
「彼女、明日からすぐ舞台に復帰するって言っていたから、また明日来なさい」
 店の主人の言葉に、素直に従う以外に道は無かった。
 言葉を交わしたことは無いが、白髪白髭の張老の酔顔を思い出す。瓊華の舞台を熱心に観覧していた。この広い長安城内でも、最も瓊華の芸の素晴らしさを理解してくれていた人なのだろう。
 翌日は、真成は昨日までの遅れを取り戻すべく、朝から勉強に勤しんだ。儒学の知識を蓄え、時務策について考えを巡らし、有名な詩を模写して素読する。
 充実した勉強をできた真成は、気持ちを改めて資聖楼へ向かった。
 少し遅い時間に着くと、舞台の上では普段着の胡服のままで瓊華が吟じていた。客は少なく閑散としていて、古びた天井の煤けぶりが目に付く。


……

辺声乱羌笛(辺境の歌声は異民族羌の笛を乱し)

朔気捲戎衣(朔北から来る風は軍服を捲る)

雨雪関山暗(雨と雪が降り関所となっている山は暗く)

風霜草木稀(風と霜の寒さで草木も稀だ)

胡兵戦欲尽(敵兵の戦力は尽きようとしているが)

漢卒尚重囲(漢軍はなお包囲を重ねている)

……


 西方の異民族に対して漢人が輝かしい勝利を飾ることを祈念した詩だ。作者は宮廷詩人杜審言。著名な詩人を多数輩出している杜氏の一人だ。
 腹からだけではなく、自らの胸の肋骨を楽器として震わせて声を出している感じだった。力強く、でもどこかせつない瓊華の声。
 瓊華のような若くて美しい女が、華やかな恋愛ではなく、無骨一辺な詩を吟唱することに一瞬違和感を覚えた真成だったが、彼女の境遇を思い出して納得した。故郷が異民族の圧迫を受けていると言っていたはずだ。瓊華の故郷を想う気持ちの強さが表れている吟唱だ。
 杜審言の『蘇味道に贈る』が終わると、次の吟唱も胡旋舞も無く、瓊華は疎らな客に向かって深々とお辞儀をして、舞台から降りた。
 そのまま、茶を飲んでいる真成の卓子にやって来た。
「真成さま、昨日は舞台に立てずごめんなさい」
「事情は店主から聞きました」
「文成さんは、大切なお客様だったのです。胸に黒い穴が開いてしまったような気分です」
 二人、無言。言葉が続かなかった。注文せずとも、店の主人が瓊華に葡萄酒の夜光杯を出してくれる。
「これは、一つの契機なのかと思うのです。妾、故郷に帰ってみたいと思っています」
 瓊華の言葉は真成の胸で雷のように炸裂して煩雑な音を奏でた。
 玉門関の西。黄塵の舞う遠い異国。今、彼女がそちらへ向かったら、もう真成とは一生まみえる機会は無いだろう。真成はただ口を開けて、無様に喘ぐばかりだ。
「故郷を離れたのは、妾がまだ幼い頃です。物心がやっとついたばかりの。記憶の中の情景は段々曖昧になってきています。もう一度、自分の目に焼き付けておきたい」
 寂しげな笑顔を浮かべる瓊華。故郷を離れつつも長安の都で自らの生き方を貫いている姿。そんな眩しい瓊華に真成は惹かれていた。三〇歳になるまでに結婚したいと思い、自分の隣に瓊華が立つ未来図を心に暖めていた。いずれは一緒に日本へ連れて帰り両親を驚かそうとも、漠然とではあるが思い描いていた。
「西の異国人である妾と、東の異国人であるあなたとが、この長安の都で出会えたのは運命といえましょう。しかし、もうお別れしなければならないようです」
「出会ったばかりではありませんか。早すぎです」
「妾の故郷である西の遠方は近年、タージーともサラセンとも呼ばれる者たちの侵略を受けているのです。故郷がどうなっているのか気になるのです」
「そんな物騒な所へ女が行くのは危険でしょう。」
「危険は承知です。でも、故郷を簡単に見限ることはできません」
 真成は一気に茶をあおった……つもりが、間違って瓊華の葡萄酒を飲んでしまった。芳醇な味わいと香りのはずが、妙に苦く感じられた。進士落第の時に飲んだ自棄酒よりも不味く感じた。
「家庭の事情もあるのです。おじ様は良くしてくださりますけど、やはり妾のこの容姿では、嫁に出す先を探しにくいらしいのです」
 店主に新しい葡萄酒を注文しながら、瓊華は自らの髪をそっと撫でた。特徴的な紅みがかった金髪。
「おじ様とは?」
「父は、小環が生まれてほどなく病を得て亡くなっていて、小環まで含めて妾たち姉妹は皆、おじ様の家に厄介になっています。小環から聞いていません?」
 聞いていない。やはり複雑な家庭事情のようだ。
「家の事情に加え、良きお客様であり大変お世話になった文成さまが亡くなられ、喪失感の大きさに苛まれています。聞いた話では、西域へ向かう隊商が駱駝などの準備を整えて近々長安を出発するそうです。本物の商人も随行するらしいですが、隊商の本当の目的は西域情勢を探ることみたいです。妾も、それに加えてもらって西へ旅立とうかと思っているのです」
「そんな急な。そんな危険な任務を帯びた隊商に、芸人の女を簡単に加えてくれるか疑問です」
「それが、本来の目的を隠蔽するためにも、女がいるのは都合が良いようです。おじ様が政治的に力のある方でして、そちらの方に口利きをしてくださっています」
「そんなに良い家柄だったのか」
 ならば、瓊華は資聖楼で吟唱や胡旋舞などをして稼がなくても生活に困ることは無いはずだ。それでもなお舞台に立っているということは、純粋に吟唱や踊りが好きなのだろう。
「妾たちは、高い家柄の方が多く邸宅を構えている宣陽坊に住んでいます。美丈夫として名高い高仙芝将軍もご近所なのです。わが家には妾以外に、漢人の女子が小環も含めて四人いるのです。その内一人でも、天子様か太子様の後宮にお仕えさせるのだと、おじ様は目標を持っておられます。それくらいの力はあるのです。だからこそ逆に言えば、妾のような容姿の女は異端なのです」
 瓊華が長い睫毛を伏せる。真成が今度は間違えずに茶を飲む。苦みを楽しむ飲み物とはいえ、苦さに顔を少し顰めた。
 胡姫の舞台が早々に終わってしまったせいか、客たちは次々に帰って行く。いつの間にか、楼内に残っている客は真成と瓊華の二人っきりになってしまっていた。静けさが寒々しかった。今日は酒を飲むだけの客も来ないのだろうか。
「あとは、妾が西域へ行くか行かないかの決断をするだけ、と言ってもいいでしょう」
 夜空に燦然と輝く北斗七星のように強い光を宿して、瓊華の翡翠の瞳は真っ直ぐに真成を見つめた。
 真成は両膝から力が抜けていくような感触を味わった。折角出会って親しく会話をするようになった西域の美女が、幻のように消える。残るのは未だ幼い小環だけだ。
「そうだ。小環はどうするのです。小環は、楊玉環は楊瓊華という姉を慕っているでしょう。小環が寂しがるのではないですか。舞いや歌など、瓊華さんから教わることも多々あるでしょうし」
「小環は、きっと妾の事情も理解してくれるはずです。あの子は、歌や踊りが優れているだけでなく、頭も良い子ですから。きちんと練習を重ねれば、才能が活きてしっかりと伸びますわ」
 瓊華は一瞬、春秋時代の美女として名高い西施のように眉を顰めた。
「本来ならば文成さまのご葬儀が終わって喪が明けるまで待つべきですが、事情が逼迫しています。またあまり長く留まりすぎると、小環の寂しさが募ってしまうでしょうから、思い立った時こそが最大の好機として出立するのが良い。というのが妾の考えです」
 あまりにも話が急すぎる。真成はついて行けない。
 だが翻って自分のことを思い出してみると、弱冠一九歳という齢にして郷里から送り出され大海へと挑んだのだ。良家に生まれ育った真成が遣唐使に参加する利害については諸々計算済みではある。でも、海を渡り長安に至るだけで命がけの旅に出るというのは、最後は利害云々ではなかった。勢いと勇気、情熱が全てだった。行くか行かないか。二者択一。迷う暇を与えられず、決断しなければならなかった。
 そして真成は船に乗ったのだ。
「そういうことですので。さようなら真成さま。妾は、出立の準備もありますので、これで帰らせていただきます」
 引き留める言葉を持たず、真成はたった一人残った客となった。
 真成は黙って瓊華の飲み残しの夜光杯を呷った。甘い香りの葡萄酒は痛い程に喉を灼いた。気管に入り、大きく咳き込んだ。
「ほらほら、しっかりしなさいよ」
 いつの間にか、小さな手が背中をさすってくれている。息苦しさの中から意識が戻って、薄暗い酒肆の情景に双眸の焦点が合う。小環が心配そうに真成の顔を覗き込んでいた。
「ん、小環。小さい子が、一人で出歩いたら、危険、だぞ」
「小環じゃなくて玉環よ。小さい子扱いしないでよ。それにまだ夜になるには時間があるから。坊の扉も閉じられていないし」
「ところで、さっきまで瓊華さんがいたのだが、来る途中にすれ違ったかい?」
「いいえ。そういえば、昨日も今日も用事があるとか何とか言って瓊姉とは顔を合わせていないわね。時間が合わないのかしら」
 それは妙だ。瓊華の方が意図的に小環を避けているのでない限り、広い屋敷内であったとしても全く会わないのは不自然だ。
 いや、まさに瓊華は意図的に妹を避けているのではないか。
 そう思った真成は、瓊華が長安を辞して西域へ行こうとしていることを小環に説明した。
 本来ならば、当然のこととして小環も知っているはずの話だ。
 劇的に、小環の顔色が変わった。
「そ、そんな、急な話。嘘よ。私にはそんなこと、一言も話していなかったわ。おじ様だって、特に何も言っておられなかったわ。嘘よ、嘘。真成、あんた、嘘つき」
 小環が大きく目を瞠き、戦慄きながら叫ぶ。
 真成は悲しかった。瓊華が最愛の妹に別れを告げずに長安を去ろうとしていることが。
 この場で議論しても何も始まらないので、とにかく二人で瓊華を探すことにした。


♯♯♯


「西域へ行くのだから、あの駱駝がいた商家から出発するはずよ!」
 言うより先に小環は飛び出していた。崇仁坊を出て、過日見かけた商人の屋敷を目指す。陽は傾きつつあるが、まだ多くの人で賑わっている往来を、行き交う人々をすり抜けて急ぐ。小環の後を真成もついて行く。息が切れるが、顔を真っ赤にしながらも辛抱する。柳絮が雪のように舞う。
 追いつけるのか。追いついたとして、引き留めることができるのか。
 悩みは尽きない。が、悩む時間すら無い。まずは瓊華に追いついてもう一度話をするのが優先だ。
 真成と小環の二人が、長安の街を走る。最近の真成は小環と長安内を縦横無尽に駆け回ってばかりだ。
「あっ! くまーっ!」
 小環より幾分遅れて、息を切らせながら真成が到着した時に、小環は屋敷から出てきた三人を指差して叫んでいた。一人は太っていて顔中髭だらけで熊を髣髴とさせる容貌、一人は背が高くて髭無し。もう一人は両者の中間で没個性。
「くまーっ、がなぜここに居るのよ?」
「居て悪いかよ! 俺達は隊商の護衛としてちょっと遠くへ行くんだよ」
「遠くとはどこですか? 海南へ茘枝を仕入れに行くわけではないでしょう」
 追いついた真成が問う。南へ行くのに必要なのは駱駝ではなく早馬だ。
「行き先は、部外者には言えねえよ。てかお前、父親じゃねえか。暴れ馬の手綱くらい握っていろよ」
 本日の三人は素面ではあったが、真成と小環の関係を勘違いしたままだった。訂正する暇も惜しいので、真成は問題の核心に迫る。
「楊瓊華という女を知っているでしょう。この小環の姉なのです。どこへ行ったか教えてくれませんか?」
「えっ、この子供があの女の妹なのか? 似てねえな」
 言ってから「しまった」という表情をした熊男だが、口から出た言葉はもう元に戻らない。瓊華を知っていると暴露してしまった。
「しょうがねえな。あの女なら、長安の見納めということで、晋昌坊へ行ったよ。これだけ言えば分かるだろ?」
「分かったわ! ありがとう、くまーっ」
「だから熊って言うんじゃねえ」
「真成! 行くわよ!」
 いつの間に手に入れていたのか、小環は手に持った柳の枝を鞭のように振るって真成の尻を叩いた。馬扱いだ。
 情報を得た小環は水を得た魚のように元気に走り出した。真成も追う。
 離れた場所からでも一目瞭然で分かる、晋昌坊に聳える背の高い塔。
 大慈恩寺の大雁塔。天竺への旅から帰唐した玄奘三蔵が建立した塔である。
 瓊華は仏教信者ではなさそうだが、三蔵法師のことは、志を果たして故郷への帰還を果たした人物、ということで自分の境遇と重ねているのか、尊敬していると言っていた。
 大雁塔は、長安出発前に最後に訪れるに相応しい場所だ。
 南に向かってかなり長い距離を駆けて、真成だけでなくさすがに小環も疲れ果てた頃、やっと晋昌坊に入る。
 大慈恩寺の敷地に入る。酔う程に牡丹の香りが強く強く漂っていた。大慈恩寺は長安随一の牡丹の名所として名高いのだ。境内の真ん中で立ち尽くし、高い大雁塔を見上げている若い女の姿があった。流れる豊かな紅毛は光を受けて、牡丹よりも鮮やかだ。背後から見ても一目で分かる。
「瓊姉!」
「あ、あなたたち……どうしてここへ」
「瓊姉に……これを」
 恐らく小環は泣いて姉への恨み言を並べ、行かないように引き留めるだろう。そう真成は予想していた。だが、小環の行動は意外なものだった。懐から、細長い物を取り出し、最愛の姉へと差し出した。若々しい緑色が目映く芽吹いている。
「柳の枝?」
 先程鞭として使ったものだ。
「お別れの時には、柳の枝を折って名残を惜しみながら見送る、というのが風流な習慣でしょ。瓊姉の旅立ちを止めることは誰にもできないから、せめて最後にきちんとお別れをしたかった。だから、皇城の堀端の御柳を折ってきたの」
 九歳くらいの童女とは思えぬ、大人びた口調と内容の言葉だった。
 瓊華が、言葉に詰まった。何かを言おうと口を開くが、声が出てこない。
 ようやく、真珠のような歯の間から、吟じ手としても優れた瓊華が美声を紡ぎ出す。
「小環の顔を見てしまったら、別れが辛くなって旅立ちの心が揺らぐのではないかと恐れていました。でも、小環の顔を見て思い出しました」
「え、何?」
「あなた、妾をお手本としていますが、踊りの方針が素質に合っていないのではないでしょうか。妾は痩せた体形で速さと切れを重視した胡旋舞を得意とします。ですが小環は、もっと成長したら、今の世の好みに合う豊満な美女になりそうな感じです。虹霓のような美麗な裳裾や羽根の衣がふわふわと靡くようなゆったりした動きこそが、小環には合っていると思うのです」
「瓊姉とは違う、自分だけの、独自の路線を行けということですか?」
「それだけのことです。小環は天賦の才を持っています。妾を見習う時期はもう過ぎています。吟唱も楽器も舞も、もっと大きく羽ばたきなさい」
「はい。分かりましたわ、師匠」
 瓊華は破顔一笑した。
「素直な良い返事です。最後の最後に小環に助言ができて、良かったわ」
 皆それぞれ悩みを抱いていた。瓊華は自身の決断により故郷へ帰ることを選択し、小環は姉の言葉を受けて迷いを払った。
「まだ迷っておられますわね、真成さま」
 風の中で瓊華は的確に言い当てる。
「ご自身の目的は何で、そのための手段が何なのか、考え直した方がよろしいかと存じます。進士科及第を目指すという目標は尊いものではありますが、明経ではなく進士でなければならないのでしょうか? 進士でなければ、官吏として栄達は不可能なのでしょうか? 進士に及第した人は必ず良き官職を得られるのでしょうか?」
「あ……」
 快刀乱麻を断つが如き言葉に、真成は胸を打たれた。
「そうだ。私は、進士に及第したいのは確かだが、それが最終目標ではない。官職を得て唐に仕えて、その中で色々学んで、成果を故国に持ち帰るのが目的だ。進士はそのための手段でしかないのだった」
 進士及第者だからといって、必ずしも官僚として出世できるわけではない。四書五経の知識や詩作の素質や技術があっても、実務能力が優れているかどうかは、また違った素養や努力が必要になる。長安に来て進士落第を繰り返す年月の中で、いつしか目的と手段を混同していた。
 明経科を受けよう。真成はそう思った。進士程の格は無いが、官吏登用試験であることに違いは無い。大事なのは、任官してから努力して実績を残すことのはず。明経は主に儒学の知識を有していれば良い。進士と違って真成の苦手とする詩賦の出題が無いので有利だ。
「真成さまも清々しい表情になられましたから、ご自身の進む道を見つけることができたようですわね」
 優しく微笑む瓊華は、長安中のどんな牡丹よりも美しい。真成もまた笑顔を咲かせた。
「瓊華さんと出会えたことで、私の進む道が照らされた。感謝します。名残惜しいですが、道中、お気を付けて」
 真成は周囲を見渡した。渭水の畔ではないので、手折るのに丁度良い柳は一見しただけでは見つからなかった。皇城を囲繞している御柳を手折って来るとは、小環は用意周到だった。
「妾は玉門関を出て万里の長城の向こう、西域へ行きます。絲綢之路を旅します」
「絲綢之路……」
 古来より絹の道とも呼ばれた悠久の交易路。なんという、遠い響きを持った言葉であろう。
「絲綢之路というのは、もの凄く長い道です。西は、妾の故郷よりも更に西のローマという街まで続いていると聞いたことがあります」
「羅馬というと、大秦国の都でしたでしょうか。水晶でできた宮殿があるという」
 東の国の出身である真成には、西は謎に満ちた未知の領域だ。
「長安の都だって、絲綢之路の途中です。長安に住む者は皆、絲綢之路の旅人なのです」
「じゃあ私も、旅人なの?」
「勿論小環も歴史の中の旅人です。絲綢之路は長安より東は洛陽まで続いています。一説ではその更に東、海を渡って真成さまの故国である日本国のナラという土地の都にまで続いているといいます」
 寧良ならば真成にも良く分かる。平城京は長安をならって建設された都だ。
「卓文君作と伝えられる『白頭吟』に『溝水東西に流る』とあるように、この長安では人もまた堀川の流れのように西と東に分かれ行くのです。妾が西域に帰り、真成さまがいずれ日本国へ帰り、小環が長安に残る。それでも三人とも、同じ道の途中です。一本の道で繋がっているのです」
「ずっと長安に住んでいても、私も旅人なんだ。えへへへ」
 小環は未来の傾国の美女の片鱗をうかがわせつつ完爾と笑う。
「それでは元気でね、小環。いえ、楊玉環。真成さまもお元気で。無事に故郷の土を踏めることをお祈り申し上げます」
 歌うような優しい声で言って、瓊華は小環と真成に背を向けた。大雁塔を一人で見上げ、振り返ろうとはしなかった。
 三人それぞれの絲綢之路、本当の旅路はこれからだ。


♯♯♯


 絲綢之路を西域へ向かった瓊華がどうなったか、知る者はいない。ただ歴史の事実として、繁栄を誇った唐は斜陽の時を迎え、サラセン軍は勢いを増して領土を広げていった。その勢いは高仙芝将軍でさえ食い止められなかった。
 楊玉環は長じて後に玄宗の寵愛を得て、楊貴妃という名の絶世の美女として宮廷に花を添えた。ただし唐を衰退へと導いた傾国の美女としても歴史に名を残した。
 真成は志半ばにして開元二二年に三六歳の若さで亡くなった。次の遣唐使が長安に到着して合流を果たしていたので、もう少しで日本に帰れるはずだった。恋い焦がれた故郷への帰還を果たせずに倒れた真成の無念はいかばかりであっただろうか。
 井真成、亡骸は既に異国の土に埋葬されてしまったけれども、魂は絲綢之路を東進し故郷の日本に帰ることをこいねがってやまない。
kanegon 

2023年02月18日(土)09時14分 公開
■この作品の著作権はkanegonさんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
タイトルは、しちゅうのみち、りょていいまだなかばなり、と読みます。
ミチル企画のお題『春』『旅』『うさぎ』で書きました。というか、以前書いた作品の改稿です。
もちろんこの作品はミチル企画本番には出しません。ので、文字数は完全オーバーですけど気にしないでください。
ミチル企画では、同じお題から色々な方向性の作品が読める、という部分を味わってたいだけるとありがたいです。


この作品の感想をお寄せください。

2023年07月09日(日)10時05分 kanegon  作者レス
きゃつきゃつおさん感想ありがとうございます。

出てくる人名地名その他用語がどうしても馴染みの薄い難しい感じになってしまうため、ストーリーやキャラはシンプルにするように書きました。というか、元々字数制限のある匿名企画に出した作品だったので、ストーリーについては複雑にするのは最初から不可能でした。
最近の匿名企画(ミチル企画)では、上限が100枚だったり400枚だったりというのがあるので、この時に書けばもうちょっと練り込んだ物語にできたかなという部分もあるのですが、長くなるとコンパクトにまとめるのが難しくなるので、悩ましいところではあります。


pass
2023年06月21日(水)10時46分 きゃつきゃつお  +30点
kanegon様

 拝読させていただきました。
 私も中小路さん同様、数十年前に読んだ井上靖の「天平の甍」や「敦煌」を思い出しました。
 冒頭より、不思議と難しい内容のような感じを受けるのですが、理解しやすく読み進めることができました。
 こういうのを文章力、表現力と言うのでしょうか、到底私には身に付けられないもののように感じ、改めて文章を書く難しさ、表現の難しさを痛感しました。
 奇妙な出会いから繰り広げられる三人の関わり合い、その時々の心情が分かりやすく描かれていて、とても面白かったです。
 ラストで描かれた三人のその後も、自ら選んだ人生を三人それぞれが、それなりに歩んだであろうことが描かれていて、読んだ後に読者自身が良い意味で考えられる余韻を与えているのも良かったと思います。
 つまらない感想しか書けずにすみません。
 とても良い気分にさせていただきました。ありがとうございました。

30

pass
2023年02月24日(金)22時51分 kanegon  作者レス
中小路昌宏さん感想ありがとうございます。

たとえば留学生にふりがなを付けると、るがくしょう、になってしまって、かえって煩雑になる等の諸々の事情により、この作品ではふりがなは採用していません。

自分は世界史ものを幅広く手がけたいと思ってはいますが、その中では唐とシルクロードが一番好きなところです。
日頃から、唐を描いた歴史小説を読んだり、漢詩を読んだり、あるいはたまに自分で漢詩を作ってみたり、墓誌出土のニュースなども興味を抱くようにしています。井真成の存在も墓誌の出土で明らかになりましたし、李訓墓誌に名前が記されている吉備真備らしき人物なども大変興味深いところです。

唐以外の時代や国を描いた作品を書こうと思ったら、あれこれ資料を買って付け焼き刃の知識で書く形になります。12月までそんな感じでインドを舞台にした16万字の歴史小説を書いていました。



pass
2023年02月24日(金)17時28分 中小路昌宏  +50点
先日はパソコンの画面上で読んだだけですが、今日改めて印刷してあったものを読ませて頂きました。
 井上靖の天平の甍を思い出しました。
 
 井真成というのはおかしな名前だと思っていたら実在の人物だったのですね。井真成と童女・小環との出会いの場面、そしてその姉・瓊華も含めた個性ある登場人物、長安の街の風景など、何処をとっても文句のつけようがありません。素晴らしい作品に出合えて感動しています。

 小環が後の楊貴妃になったというのも事実だったのですね。
 この作品を書くために調べた訳ではなく、普段からよく勉強されているのだと思います。頭が下がります。
44

pass
2023年02月18日(土)11時24分 中小路昌宏  0点
ただ、大衆読者の一人としては、人名や地名、そのほか難解な文字にはふりがなを付けて頂いた方が読みやすかったと思います。
40

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2023年02月18日(土)11時01分 中小路昌宏  +50点
読みました。おっさんだったとは知らず、褒めて損しました。

 こちらを先に読めば、とても中高生だとは思わなかったはずですが、長い方は後回しになりました。

 凄い大作で驚きました。アマチュアでこれだけ描ける人がいた事にビックリです。
 印刷してあとでもう一度、ゆっくり読ませて頂きうとうと思っています。
50

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合計 2人 80点


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