遠い記憶
<<一覧に戻る | 作者コメント | 感想・批評 | ページ最下部
 遠い記憶
 一
 何度も繰り返された空襲警報の不気味なサイレンの直後、轟音を響かせて福井市上空にやってきたのはB—二十九といわれた、当時のアメリカの主力爆撃機百二十七機だった。
 昭和二十年七月十九日深夜の出来事だった。 約八万五千名の市民が罹災し、福井市の八十五%の住宅が焼き払われた。郊外へ疎開している人や、防空壕に避難した人もいたが、それでも死者数は千六百人に達した。
 当時四才の安達浩介は母方の祖母・キネと、母よし子の妹である叔母・早苗との三人で家から三十メートルほど離れた用水路に架かる橋の下で足を水に浸けて、我が家の焼け落ちるのを恐怖に震えながら見ていた。
 それまでの戦局の経緯から、この福井空襲が予想されなかったわけではないが、頻繁に繰り返された防火訓練も、この大規模な空爆に対してはなんの役にも立たなかった。
 浩介の家は彼のほかに両親と二歳下の妹を含めた四人家族だったのだが、父浩一は前年春に出征し、母よし子と幼い妹はその後六月と九月に相次いで亡くなり、残された浩介一人が、よし子の看病のためにお手伝いに来ていたキネと早苗に育てられていたのだった。よし子たちの死因は結核とされていたが、医者も薬も食料も十分ではない時代に、浩一の不在中、生活力のないキネや早苗にはよし子を救うことが出来なかったのであろう。
 浩介には母の記憶というものが、まったくない。彼がかすかに覚えているのは家の奥の部屋には絶対に行ってはいけない。そこは怖いところだ、というように聞かされていたことである。今思えばそこは、よし子と妹が寝ていた部屋であり、浩介に病気をうつさないようにという周囲の配慮であったのだろう。
 母たちの死が空爆によってではなく、その前年であり、畳の上での病死であったことを、息子の浩介としてはせめてもの慰みとすべきだという人もいるが、そういう気持ちには彼はなれない。
 幼児期の浩介の記憶は前後の区別のつかない断片的なものが多いが、今も鮮明に思い出されるのは悲しい思い出ばかりである。
 そのひとつは父浩一との別れの記憶である。
 小さな家の狭い玄関先でゲートルを巻き、戦地へ向かおうとする父の姿を見たときには、幼い浩介にも父が遠くへ出かけるということが分かったのであろう。父を追おうとして泣き叫ぶ浩介をキネは抱きかかえて浩一の出て行くのを見送ったが、父が出て行った後も、いつまでも泣き止まない浩介を、福井駅まで連れて行った。
 当時の福井駅には小銭を入れると数分間揺れ動く電動の木馬があったようで、子供の浩介はそれに乗せられただけで機嫌を直し、泣き止んで、家に帰ってきた。

 家が焼け落ちた後、どこをどう逃げ歩いたのか、浩介は知らない。
 彼の記憶にあるのはキネに背負われて火に追いかけられて、早苗とともに町中を逃げる様子である。火は道路を川のように流れ、彼はただただ背中が熱かったことだけを覚えている。

 わずかな手荷物を持ち、着の身着のままで家を焼け出されたキネは無我夢中で郊外へ向かった。そこは市街地から数キロ離れていたため戦火を免れた西安居(にしあご)地区というところだったが、村人たちは逃げてきた人たちにお茶とおにぎりを配り、お寺での一夜を過ごせるよう世話をしてくれた。
 しかし、いつまでもそこにいるわけにはいかない。途方にくれたキネは一度だけ法事に行ったことがある京都の安藤という親戚の家を思い出してそこへ向かうことにした。とくに親しくしていたわけではなく、この戦争がなければ、すでに両親をなくしているキネが訪問することはなかったと思うが、ほかに心当たりもなく藁にも縋る思いだった。
 金閣寺のすぐ前にあったそこは、小さな家ではあったが幸いにも二階に空き部屋があり、落ち着き先が決まるまで、という約束で三人はそこに住むことになった。
 しかし、安藤家も決して余裕があるわけではなく、応対に出た息子からは、当然ながら食事の面倒まで見ることは出来ない、と言われ、この安藤家の妹が嫁いだ滋賀県甲賀村の大原という部落にある村田家なら、農家なので少しぐらいの古米を分けてもらえるかもしれない、ということを聞き、翌日早速、浩介を連れて電車で村田家を訪ねた。
 キネは必死であった。西安居地区でもらったおにぎりはすぐに食べつくし、前日は安藤家でもらった少々のさつま芋で飢えをしのいだが、その日からは全く食事のあてがないという状況だった。
 村田家では訪ねて行った安藤の妹はすでに亡くなり、息子の代になっていたが、キネのことはよく知っていて話を聞いて同情し、浩介に、おにぎりを作って食べさせてくれた。余程おなかがすいていたとみえて、小さな体で大きなおにぎりを二個、あっという間に平らげてしまった。
 二
 福井から京都までどうやってたどり着いたのか、浩介は知らない。疲れ果てて祖母の背で寝ていたのであろう。安藤家は間口二間ほどの小さな工場兼住宅で、一階の奥には使われなくなった機織(はたおり)機が数台置いてあった。戦争が始まる前は西陣織の下請けの仕事をしていたようだった。
 京都での浩介たちの生活は悲惨なものであった。村田家からは少々の米を貰ってくることは出来たが、とても三人が長く暮らしていくほどの量ではなく、部屋のまん中に置かれた七輪で炊かれていたのは毎日少量のおかゆだけだった。それも茶碗の中には、いつも、ご飯つぶが数えられるくらいしか入っていない、お湯に近いような粥を朝晩、梅干を添えてすするだけのひもじい食事で三人は命をつないでいた。
 毎日が飢えとの戦いであった。キネも早苗も仕事はなく、毎日、食べ物のことばかり心配しながら空しく日が過ぎていった。
 そして、やがて戦争は終わり、京都の町にも進駐軍のジープが走り回ってくるようになった。浩介たちは進駐軍に何をされるかも分からず、ただ怖くてジープの姿を見ると家に走りこんで震えていた。
 京都の生活は彼にはかなり長かったような気がしているが、実際には一〜二か月ぐらいだったのかもしれない。このままでは死を待つばかりだと判断したキネは、村田家へ無理やり浩介の養育を頼み込んだのであろう。キネや早苗と別れ、浩介一人だけが大原の村田家へ預けられ、田舎暮らしをすることになった。
 大原での食糧事情も貧しいものではあったが、田舎のことなので餓死するようなことはなく、彼はさつまいもの蔓が入ったお粥や、イナゴの蒸し焼きにしたようなものであれば、おなかいっぱい食べることが出来た。
 あるとき、玄関先に吊るし柿が干してあったのが目に付いた。浩介の背丈ではちょっと届かない高さだが、あまりに美味しそうに見えたので、思わずそこへ手を伸ばそうとしたとき、家の主人に見つかって、こっぴどく怒られたことがあった。
 怒られてしょんぼりした浩介の姿が余程みじめに見えたのだろう、その夜、飼っていた鶏を一羽つぶして囲炉裏で鶏汁を炊いて食べさせてくれた。ぶつぶつと油が浮いたその鍋は、一生忘れることが出来ない、生まれて初めての、おいしい食べ物だった。
 半年間ぐらいの短い期間ではあったが、そこでの彼は近くの同年輩の子供たちと一緒に近所を駆け回ったり、その子たちの家へ遊びに行って、みかんを貰って食べたりして貧しいながらも平穏な子供時代を過ごしたのである。
 三
 戦争の悲劇は理屈では誰もが分かっているものだが、その本当の苦しみは体験したものでないと決して身にしみて理解することはできない、と浩介は思う。夫に赤紙がきて出征するのを、病気の自分は見送ることさえ出来ず、幼い息子を残したまま、もう一人のわが子とともに死んでいった、二十七歳の母よし子の気持ちがどのようなものだったか、それは浩介の想像を超える苦しみであったと思う。
 そして父浩一もまた、生前多くを語ることはなかったが、病気で寝込んだままの妻と幼い二人のわが子を残したまま、生きて帰れるかどうかも分からない戦地へと向かわなければならなかった気持ちはどうだったであろうか。
 戦地で妻たちの訃報を聞いたときには自分も死ぬつもりで、銃弾の飛んでくる中を立ち上がってふらふらと歩き回ったそうである
 そしてキネもまた、自分の娘と孫が病魔に侵され、血を吐いて死んで行くのを見守り、その悲しみも癒えぬうち、空襲で家を焼かれ、もう一人の娘早苗と孫の浩介を連れて戦火に追われながら、落ち着き先を探さなければならなかった気持ちというのも大変なものだったのに違いない。
 ずっと後になって浩介が妻から聞いた話によると、キネと浩介が京都にいたころのある日、金閣寺まで散歩に行ったときに、その池のほとりで、生活に疲れたキネがいきなり池に飛び込もうとしたことがあったそうである。そしてそれを一緒にいた幼い浩介が必死に止めようとした、とキネが述懐していたという話を早苗が妻に話したそうである。
 浩介にはそんな記憶はなく、キネはもちろん、早苗も亡くなってしまった今となっては、真相を確かめるすべはない。
 金閣寺の池というのは飛び込んで溺れ死ぬほどの深さはないと思うが、思いつめたキネにはそんなことを考える余裕もなく、発作的にそういう行動に出たのではないだろうか。
 七十五年も昔のことではあるが、それぞれが抱えた深い苦しみを思うとき、次の時代の人々がこういう悲劇を繰り返すことがないよう、語り継ぐことが自分たちの務めではないかと浩介は思う。
 四
 大原の部落でひと冬を過ごした浩介は春の暖かい日の午後、駅前の広場で近所の友達と一緒に地面に炭で絵を描いて遊んでいた。
 そこに着いた電車から降りてきたひとりの軍人さんがいた。その人が子供たちに問いかけをしたとき、浩介はすぐにその人が長い間待っていた彼の父だと分かった、
 (浩介か?)
 (お父ちゃん)
 一緒にいた子供たちが呆気に取られて見守る中、浩介は嬉しくて飛び上がって喜び、父の先に立って、世話になっている村田家へ向かうときにも、元気な姿を父に見てもらいたくて宙を飛ぶようにして走り込んでいった。
 げっそりと痩せ、ぼろぼろの軍服を着て、重いリュックを背負ったみすぼらしい父の姿を見たとき、子供心にも戦地での父の苦労を思ったものである。
 その後、福井へ帰ってきた父と浩介は、ようやく貧しいながらも少しずつ安定した生活を取り戻していった。
福井駅に近い三の丸というところで浩一は金物店を開いた。店舗と畳の部屋を合わせて三坪ほどの、番小屋のような、狭い店だった。そしてその狭い畳の部屋での浩介たちの生活が始まった。畳部分の床下がどぶ川になっていて、床をまくって用を足すような部屋だった。
 浩一は戦地から持ち帰ったリュックを背負い、幼い浩介を連れて夜行列車で大阪へ出かけて行った。大阪市内の工場や問屋を回って焼け残った商品を仕入れ、それを背負ってまた夜行列車で帰ってきて、翌日リヤカーで近郊の小売店を回って売りさばき、残った商品は店に並べる、という繰り返しで少しずつ商いを増やしていった。
 それからしばらくすると隣の小さな旅館で働いていた女中さんが彼らの家に住むようになった。父浩一の再婚相手であり、浩介の母となった亜希子である。
 終戦後のモノの無い時代なので何でもがよく売れ、仕入れたものが売れ残るということはほとんどなかった。やがて一人、二人の店員も雇いいれ、一年後には店から二キロほど離れた足羽山の麓の常盤木(ときわぎ)町というところに小さな古い家を買い、三人はそこに住み、浩一はそこから自転車で通うようになった。
 まだ、人々の生活は戦後の混乱期を脱してはいなかった。油断をしていると、こそ泥に狙われることも多かった。ある日、浩一が店から帰り、玄関先で靴を脱いで、家の中に入り、一服していると、近所の人が、今、男の人が、お宅から靴を持って出てきて、自転車で走って行ったようだが、泥棒ではないだろうかと言ってきた。見ると、今脱いだ靴が見当たらない。浩一はあわててすぐ、泥棒が逃げたという方向へ自転車を走らせたが、しばらくして、見当たらない、と言って帰ってきた。
 田舎では家人の留守に入り込んだ泥棒に、他のものは何も盗られず、米びつの中にあったご飯だけを持って行かれた、という話をよく聞いた。そういう時代であった。
 ときたま、進駐軍からの援助品として、珍しいコンビーフの缶詰などが配給になることがあった。アメリカと言う国の豊かさが感じられたが、何十年か後に日本もそういう国になるなどとは、そのころの浩介には想像だに出来なかった。
 五
 家の裏手はすぐ足羽山となっていたので、浩介達の遊び場は当然、山が中心となった。家からは山に向かって右五軒ほど行ったところに黒龍(くろたつ)神社、左十軒ほどのところからは長い階段を登った先に藤島神社があった。近所の友達と一緒に、黒龍神社横の獣道(けものみち)を登って行き、ぐみや山栗などを取って食べたり、蝶やトンボを追いかけたりした。藤島神社では階段横の長い溝を、草を束ねてお尻の下に敷き、滑り降りるという遊びを誰かが考案して、危険だとして親から止められるまで、浩介たちはしばらくそれに夢中になった。
 当時の浩介は子供ながらにすでにいろいろな困難を経験していたので、人よりは、ませていてもいいと思うが、実際はそうでなく、まだ人の職業というものがよく理解できていなかった。
 あるとき、近所の年長の子供が、家の前を自転車で通る人を見て、あれは先生だ、といっているのを聞き、先生というのは動物の一種かと思い、それにしてはなんと人間によく似た動物なのかと思っていたのだが、翌年足羽小学校へ入学して、初めて、先生というのが人の職業だということを理解することが出来た。
 一年生となった浩介たちの授業は、若い先生と年配の先生とによって交互に行われていた。
 ある日、年配の先生の授業で時計の見方についての話があった。
 九時五十分を指したものを示し、これは何時ですか、と聞かれたので、手を挙げた浩介は家でいつも言っているように、十時十分前です、と答えた。
 すると意外にも先生は、違います、といい、他に誰も手を挙げなかったので、正解としてこれは九時五十分です、と言った。浩介の答えについて、ただ、違います、と言っただけでなにもコメントしなかったので、家に帰って母に不満を言ったところ、あの人は代用教員なので融通がきかないのだろうという話だった。
 当時まだ教員の数は十分ではなく、浩介たちの授業は正規の資格を持った若い先生と、年配の代用教員とが二人で受け持っていたのである。
 六
 足羽小学校は浩介の家から足羽山を二キロほど北側に回り込んだところにあり、近所の友達と一緒に田んぼ道を抜けて通(かよ)った。秋になると、遠くの景色が見えなくなるくらいにイナゴの大群が田んぼを覆っていた。今はトンネルが出来ていて、田んぼ道を通らず、三分の一ぐらいの距離で学校まで行けるようになっている。
 一年生になった年の六月のある日の午後、学校から帰った浩介は近所の材木置き場で友達と遊んでいた。すると突然、地面が大きく揺れて、積んであった材木が崩れてきた。びっくりして家に飛んで帰ってくると、隣の家は壁が崩れ、地面のコンクリートにはひびが入ったり、向かいの家は柱が傾いたりしていた。
 母も近所の人々も皆、家の前に飛び出して不安そうに我が家を眺めているだけだった。昭和二十三年六月二十八日午後四時十三分に起きた、マグニチュード七・一の福井地震であった。
 浩介たちの自宅付近は足羽山のふもとで地盤が固いため全壊するような家はなかったが、一時間ほど後に自転車で帰ってきた父の話によると、町の中心部では多くの家がつぶれ、駅前では福井市のシンボル的なビルであった大和百貨店が今にも倒れんばかりに傾いているということであった。
 記録では死者、行方不明三千七百余名、全壊家屋三万六千戸余りとなっている。
 福井空襲で焼け落ちたあと、やっとの思いで建てた粗末なバラック住宅が多かったこともあり、空襲後三年を経て町は再び壊滅状態となった。
 地震の後、余震が続き、いつ家が倒壊するかも分らない、ということで、数日間は隣家の前の畑にゴザを敷いて食事をし、蚊帳を吊って寝た。初夏だったので寒くはなく、幸い、雨も降らなかった。蚊帳や炊事用具を家から持ち出すときは、いつ余震が来るかも分らず、急いで最小限の荷物だけを持ち出してきた。浩介たち子供には、そういう暮らしが珍しく、楽しかった事を憶えている。

 浩介は昭和十六年に生まれ、三年後の昭和十九年には父と別れ、母と妹にも先立たれ、翌二十年には空襲とともに家を無くし、遠い親戚宅を移り住み、飢餓体験をし、その後父の帰還、金物店の開店、再婚、住宅購入、小学校入学、そして地震と、わずか七年ほどの間に、普通なら数十年に一度ぐらいしか経験しないようなことを目まぐるしく体験した。
 不幸な幼年時代ではあったが、子供の彼はそれを不幸と認識することはなく、ありのままに受け入れただけであって、むしろそういう不幸を幼年時代に経験したことによって、今日、衣食住にはなんの不自由もなく、安全な生活環境で、カーナビ付きの乗用車に乗り、テレビやパソコン、スマートフォンなども操作し、時には海外旅行に出かけるなど、平和な毎日を過ごしているとき、自分はなんという幸福な、そして贅沢な人生を送っているのだろうかと思わざるを得ない。

                  了
中小路昌宏 

2023年01月03日(火)21時26分 公開
■この作品の著作権は中小路昌宏さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
 今年2月に始まったウクライナの戦争では、街は破壊され多くの人命が失われていますが、遠い国の事なので時の経過とともに人々の関心は失われつつあります。
 日本でも78年前には同じ悲劇に見舞われていたのですが、その記憶を持つ人は年々少なくなくなってきています。戦争を知らない人たちに少しでも戦争の悲惨さを分かって頂きたくてこれを書きました。


この作品の感想をお寄せください。

2023年02月16日(木)21時10分 中小路昌宏  作者レス
  ドリームさん有難うございます。

 78年前に、日本であのような悲劇があったというのに、今でも人類は懲りていません。

 ウクライナの戦争ではウクライナ側の兵士や市民だけでなく、ロシア側でも多くの若者が無理やり前線に送られて、無駄死にさせられています。プーチンにとっては自分のメンツの方が何十万人のひとの命より大切なものになっています。

 ロシア国内でクーデターが起きてプーチンが失脚すればこの戦争は終わるかも知れません。そうで無ければ核戦争が起きて人類滅亡に向かいかねません。

 こんなに危険が迫っているのに、まだ、世界の人々はなんとかなると思っているのでしょうか?私はもう、どっちみち長く生きられるわけでは無いので平気ですが、世界中の政治指導者たちは呑気過ぎるように思えてなりません。

pass
2023年02月16日(木)19時56分 ドリーム  +30点
拝読しました。

約八万五千名の市民が罹災し、福井市の八十五%の住宅が焼き払われた。

福井でも激しい空襲に見舞われたのですね。
私は戦後生まれで、戦争のことは知りませんが
子供の頃、アメリカ兵がジープで来て、チョコレートなど貰いました。
子供だから物を貰えれば良い人だと思って居ました。

被害にあった人は複雑でしょうね。
遠い記憶、しかと心に記憶させてもらいました。
14

pass
2023年02月10日(金)14時01分 中小路昌宏  作者レス
 リビアヤマネコさん、お読み頂きありがとうございます。

 昭和から平成、令和へと平和な時代が進むにつれ、戦争の悲惨さは忘れられ、そしてもうしばらくすると、その記憶を持つ人は一人もいなくなり、完全に歴史上の出来事になってしまいます。そうして戦争に対する恐怖感が薄れた頃、再び領土の保全、拡張、資源確保の名目で新しい戦争が起きるのではないかと危惧しています。
 二度とあのような悲劇を繰り返してはなりません。そういう気持ちを一人でも多くの人に共有して頂きたいと思ってこれを書きました。

pass
2023年02月09日(木)20時29分 リビアヤマネコ  +20点
こんにちは。『遠い記憶』読みました。
心の衝動のままに語ったという感じで、話は散らかっている感じですし、また文章も必ずしも整っているわけではない箇所もかなり散見されるのですが、読みやすくはありました。
物語としての筋は無いですが、あくまでも戦争の悲惨さを伝えるための体験談ということなので、これはこれできちんと役割を果たしている文章になっています。
いい文章でした。

10

pass
2023年02月09日(木)14時19分 中小路昌宏  作者レス
どなたもからも読んで頂けないのかと思って、
確認するのが遅れました。ごめんなさい。
ありがとうございます。
この物語の主人公は私自身です。
私自身の実体験です。

なおこの作品は1月3日に福井新聞に1ページ使って
私の写真付きで掲載されました。

pass
2023年01月25日(水)01時15分 祈矢暁月  +20点
すごいですね
とてもよく表現されていると思います
戦争の悲惨さが伝わってきました
主人公はこの後、元気に育ったのでしょうかね…?
9

pass
合計 3人 70点


お名前
E-Mail  公開しない公開する
↑作者レスをする場合は、作品投稿時のメールアドレスを入力して下さい。
−− メッセージ −−
作者レス
評価する
 PASSWORD(必須)  トリップ 

<<一覧に戻る || ページ最上部へ
作品の編集・削除
PASSWORD