スーサイド・ゴースト(『死にたがりの幽霊』のリメイク) |
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【注意】一部、過激というか胸糞悪く感じられる表現があるかもしれません。苦手な方はご注意ください。 *** 人間、素晴らしい要素を最適な形で享受するというのは、なかなか難しいことなのかもしれない。 僕、楚谷終夜はそんなことを思う。 素材がいくら優れていても状況が悪ければ、幸福には至れないものだ。 例えば僕の最近の朝のルーティーンを例に挙げてみよう。 美少女が毎朝起こしてくれる、なんていうシチュエーションは全世界の青少年が憧れるもののはずだ。 現状、僕はそのシチュエーションの中にいる。 だが安心してほしい。きっとこれに対して嫉妬に狂うような者は存在しないだろうから。 「除霊師さん、起きてください。朝ですよ!」 一人暮らしの高校生という身分にしてはかなり広めの、3LDKの賃貸アパートの一室。 そこに少女の声が響く。 彼女は必ず、目覚ましが鳴るより少し前に、待ちかねたように僕を起こそうとするのだ。 名前は双葉アカリ。十四歳。 彼女は確かに可愛い。美少女と言って良いほどだ。 しかしそれでも、それを打ち消して余りある最悪な要素が三点ある。 一つ、彼女の目が病んだように暗く淀み、その下に濃い隈が刻み付けられていること。 二つ、彼女の身体がよく見ると透けていて、そして実際物体を透過すること。 そしてもっとも致命的な三つ目が、彼女が頻繁に口にするある台詞だ。 「おはようございます、除霊師さん。今日こそわたしのことを殺してもらいますからね」 こんなふざけた台詞から始まるのだから、本当にろくでもない朝だ。 きっと今日一日も、またろくでもないまま終わるのだろう。 彼女――双葉アカリさんは、自殺志願者の浮遊霊なのだ。 *** 例えば朝。僕が部屋で朝食を食べているときなど、彼女は傍らでフヨフヨ浮かびながらこんなことを言う。 「人は何のために生まれるのでしょうか?」 「朝から重たい話題だね」 双葉さんは時々、生とか死とか、そんな如何にも重厚そうなテーマの話をしてくる。だが蓋を開けてみればそれらはいずれも中身がなく、陳腐で下らないものばかりだ。 「人は何故生まれるのでしょうか?」 さらに似たようなことを問う双葉さん。ぼくは焦げた食パンを齧りながら、機械的に答える。 「さあ……」 「両親が性欲に負けたからでしょうか」 「やめなよ」 こんな具合。これが最近の僕らの日常。 「そもそも、人の人生なんて大して意味がないのかもしれませんね」 「なんか悟っちゃったよ。……まあ、それはそうかもしれないけど」 「それなら、一人二人手にかけたところで、何でもないことなんじゃないですか?」 「朝からセンシティブ過ぎない?」 「と、いうわけで除霊師さん。ちゃちゃっとわたしのこと殺しちゃってくださいよ」 「何が『というわけで』なのか分からないけど……無理な相談だ」 やれやれ……また始まった。 食べ終えた食器をシンクへと運びながら、僕はもう幾度となく突きつけられた無茶ぶりにため息を禁じ得ない。 「まったく……よりによってこんな面倒くさい霊の担当になるなんて。自殺志願者の浮遊霊なんて聞いたことないぞ?」 見ての通り、双葉さんは既にご臨終していて、立派な――いや立派ではないが、とにかくどこからどう見ても浮遊霊だ。 しかし、そんな彼女は何度も僕に対して『死にたいから殺してくれ』などと無理難題を突きつけてくるのだ。 曰く―― 「仕方ないじゃないですか! 苛められた挙句自殺までしたのに、まさか自分が幽霊になるなんて! こうやって意識が持続しているなら生きてるのと変わりないじゃないですか! わたしは消えてなくなりたかったんです!」 ……と、いうことらしい。 本当に、勘弁してほしい。 言いたいことは分からないでもないが、彼女の護衛担当である除霊師の僕に言って良いことじゃない。 「あぁもう……確かに君の前世は気の毒だったかもしれないけどさぁ……だからこそ早く成仏してよ。来世まで記憶が引き継がれる事例は極まれだし、それにもしかしたら、次こそ幸せな人生を送れるかもよ?」 仕方なく、僕は自分の立場に従って、手垢のついた一般論を口にしなければならない。しかしそれもすぐに反論されてしまう。 「いーやーでーす! わたしみたいな運の悪い魂は、どうせ来世でも悲惨な人生を送るのが目に見えてるんですから! いいから早くわたしを殺してくださいよ! 霊体じゃ自分で死ぬのも無理ですし……除霊師さんなら、霊を殺す能力があるんでしょう!?」 やはり感情論は強い。 「あのねぇ……何度も説明したけど、ぼくら除霊師の能力は霊感のある人間や浮遊霊を襲う”怨霊”を倒すためにあるんだよ。罪もない浮遊霊を殺したりなんかしたらどんな罰則が待ってるか見当もつかない」 「それは何度も聞きました」 「何度も話したからね。……それに、ぼくは君を怨霊から守るための護衛なんだよ。国の──“アストラル局”の施設がいっぱいだからって、面倒な仕事を押し付けられるこっちの身にもなってくれ」 「……確かにその話も確かに何度も聞きました。けど……」 「けど?」 「その、怨霊というのは、本当に存在するんですか? わたし、死んでからそこそこ経ちますけど、遭遇したことないですよ?」 ここにきて双葉さんは、浮遊霊が抱きやすい典型的な質問の一つを口にしてきた。 幸い、僕は何度か、過去にこの手の問いに答えさせられていたので、模範解答が脳内にしたためてある。 「そりゃ……世界中で交通事故が多発してるのに、当事者になることは滅多にないのと同じ理屈じゃない?」 「あ……なるほど」 納得の双葉さん。 話が一段落ついたっぽいところで、僕は通学のための準備を開始する。具体的に言うと着替えだ。 「どわぁぁあああ!? 脱ぐんなら脱ぐって言ってくださいよもぉーっ!!」 壁をすり抜け、律儀に部屋から出ていく双葉さん。 「僕の部屋だし勝手でしょ」 端から浮遊霊なんて同居人にカウントしていない。 「誰もあなたの下着なんか見たくないですよ! このバカ! エッチ! 変態! チカン!」 「小学生みたいな悪口だね」 「うるさいデリカシーゼロ男! 変質者! 強姦魔! 人殺し! 放火犯! テロリスト!!」 「罪状がどんどん吊り上がってく」 「このっ……外患誘致罪常習犯!!」 「絶対いねぇだろそんな奴」 *** 浮遊霊と一緒に登校し、浮遊霊を傍らに置いたまま授業を受ける。 双葉さんの護衛役である僕は、常に彼女と一緒にいないといけない。彼女は学校という場所が嫌いらしく、多少嫌そうな態度を取るものの、一人は心細いからか、素直についてきてくれている。 「楚谷ー、帰ろうぜー」 「悪い。ちょっと寄るとこあるんだ」 「んだよ今日もかよー。付き合いわりーなー」 やがて授業が終わっても、部活に励むわけでもないくせして、僕らは真っすぐ帰らない。放課後は、双葉さんに関係した日課があるのだ。 声をかけてくる友人を適当にあしらうと、僕らは教室を出た。 *** そうして僕らは保健室を訪れた。 一階の花壇に面した、消毒液の匂いが漂う特別教室。 調度品などは几帳面に整頓され、執拗に白で統一されたインテリアが特徴的だ。三分の一が掃き出しの窓からは、カーテンが全開のため校庭が一望できる。無駄に健康的で開放感のあるこの雰囲気が、僕は何だか苦手だった。 室内では、キャスター付きの執務椅子に腰かけた白衣の保険医──湯ノ沢 倫先生が、目と鼻の先を漂う双葉さんと向かい合う形を取っている。 「はい、じゃあカウンセリング開始ー」 「……おねがいしまーす」 湯ノ沢先生の軽薄な勧告に、双葉さんがよく通る声で、怠そうに応対した。 そして今日もまた、『カウンセリング』と称した茶番が展開されていく。 「双葉ちゃんはさー、なんかやりたいこととかってないのー?」 「皆無です」 即答。いつも通り。 「じゃあー、この世に未練とかない感じー?」 「皆無です」 「それなら成仏してよー。楽しい来世が待ってるよー?」 「絶対に嫌です! どうせ来世もろくでもない人生に決まってます! わたしは消えてなくなりたいんです!!」 「そっかそっかー。うんうん。まあ、それなら仕方ないね。わたしは双葉ちゃんの意思を尊重する。君が思うようにすれば良いと思うよ〜」 「ですよね! 先生もそう思いますよね!? ……と、いうことで除霊師さん。さっさとわたしを殺してください!」 「カウンセラーが自殺を推奨してんじゃねぇ」 あまりにもあんまりな結論に、彼女らの傍らに座る僕はたまらずツッコミまがいの苦言を呈した。不快感のあまり変に力が入り、尻の下でストゥールが大きな軋みを上げたほどに。 「……頼みますよ、先生」 だというのに湯ノ沢先生はまるで悪びれもせず、爽やかな微笑まで浮かべながら、僕らを追いやるように出口を手で指し示してくる。 「はいはい、タイマーピピピ。時間だからもう今日の面談終わりー。二人とも帰った帰ったー!」 「仕事は真面目にやってくださいよ」 「何言ってんのかにゃ? 仕事はテキトーにやるものだよ」 こういう大人にだけはなりたくないと、この人と相対するたびに思う。 「それでもカウンセラーですか」 「う〜ん……成仏推奨カウンセラーとか言ったって、民間の場合ちゃんとした資格があるわけでもないしねー。霊感ありゃ誰でもなれるよぶっちゃけ。霊感自体が希少だし」 軽薄な態度を崩すことなく、あろうことか自身の肩書をボロクソにこき下ろす湯ノ沢先生。 「うわぁ……業界の闇語らないでくださいよ」 「肩書なんてそんなもんよ」 「いや、肩書って看板みたいなものですよね。重要じゃないんですか?」 「そんな無垢な反論が出てくるなんて、楚谷くんもまだまだ子供だねぇ。重要であることと中身がないことは、必ずしも矛盾しないんだな〜これが」 長い手足を組み、人の神経を刺激する特有の微笑をたたえつつ、栗色のミディアムヘアを揺らしながら頷く湯ノ沢先生。 本当に、この人と話してると調子が狂う。ついつい言い返したくなってしまうのだ。 「それじゃ駄目でしょう」 「ん? 何で駄目なの〜?」 「いや、だから……その……」 「えー何で何でー? 何で駄目なの〜? お姉さん理由言ってくれないと納得できなーい」 うわウッザ。 「……名前詐欺じゃないですか」 苦し紛れに、咄嗟に浮かんだ単語を口にする。 「え〜? 名前詐欺ぃ? あはは。面白いこと言うね」 と。 思わず食い下がっていた僕に対して、今までとは質の異なる冷たい声が返ってきた。見ると、湯ノ沢先生は意地悪そうに口角を上げていた。 「な……何ですか」 たじろぎながらも、僕はこの性格の悪い保険医と過度に無駄話をしてしまったことを後悔していた。 「君だって人のこと言えないでしょ。除霊師とか名乗ってても、実際は迷える浮遊霊のお守りばっかでしょ? 詐欺じゃん」 「……そ、それは…………」 「お姉さん、君が自分から怨霊やっつけるところなんて見たことないけどなぁ〜?」 「………………」 僕は黙る――ほとんど本能的な選択だった。 腹の底から湧き上がりそうになる感情を押さえつける。意識から目を逸らす。 「何? 怒っちゃった?」 湯ノ沢先生は嘲笑の気配を絶やさない。 死ねば良いのに。 「双葉さん、帰るよ」 「あ、はい……」 僕は、やり取りの真意が分からずに困惑しているであろう双葉さんに声をかけると、彼女を連れ立ってその場を後にした。 *** 「あー死にたい」 「はいはい」 学校からの帰り道――双葉さんの言動は相変わらずだ。 「首吊って死にたい」 「はいはい」 「凍死も良いなぁ。イメージだけど」 「やるならお金の勉強とかちゃんとしてからの方が良いよ」 「トウシ違いですよ!」 「日本語は難しいなぁ」 時刻は夕方。茜空の下。日本中探せばどこにでもありそうな平凡な住宅街を、僕は歩き、双葉さんは浮遊していた。 「一瞬で凍えて全身の感覚なくなって気持ちよく死にたいんです」 「……はいはい」 病んだ浮遊霊の戯れ言に、機械的に相づちを打ち続ける。 「でも焼死とか溺死とかは嫌」 「そうなんだ」 「苦しんで死ぬのって嫌じゃないですか。死ぬときは楽〜に……逝きたいんです」 「如何にも自殺志願者が言いそうなことだ」 下らないことを話しながら踏み出すこの足は、どんよりと沈んだ僕の内心と同じくらい重い。 湯ノ沢先生に言われたことが原因なのは言うまでもなかった。 本当に、嫌な人だ。 ……けれど、彼女が言ったことは間違ってはいなくて、そのことがより一層僕を悩ませる。 現状の僕は、落ちこぼれの除霊師と言って良い。浮遊霊の護衛役を命じられた時点で、戦力外通告を受けたのと同義だったのだ。 このままで、良いのだろうか。 唯一の肉親である妹は、今でも果敢に怨霊討伐に励んでいるというのに。 僕だけが、こんな── 疑問を孕んだ不安だけが胸に募っていく。 「どうして日本には安楽死の制度がないんでしょう……こんなに死にたがってる人が多いのに」 僕が一人悩んでいる間も、呑気な自殺志願者は下らない話を延々続けている。もはや呆れを通り越して感心してしまうレベルだ。 「ねえ、除霊師さん。聞いてます?」 「えー? あー、うん。安楽死ねぇ……」 僕は適当に応対する。 「確か、スイスならそういう制度があるらしいよ。スイスで死んで来たら?」 「スイスだって幽霊じゃ無理でしょうに」 「そりゃそうだ」 彼女も多少は頭が回るらしい。 「わたしが総理大臣だったら、安楽死制度なんて秒でOKしますよ。いえそれどころか、国民を片っ端から死刑にしてやりますよ」 前言撤回やっぱコイツ普通に頭おかしいわ。 「……いや何でだよ。ただただ暴君じゃん」 僕は面食らいながらも、一応はツッコミをくれてやる。 「何故なら人は皆、無意識に死を求めているはずだから」 「思想が凶悪な方面に強すぎない?」 下らない会話は続く。 「あ、そーだ。わたしは除霊師さんには触れるんだから……除霊師さんの首とかに縄引っ掻けて首吊るとかどうでしょう。……あダメか。まずわたしが縄触れないから」 「いやそれ僕まで死ぬくね?」 おそらくは僕らが家に着くまで延々と── 「ところで、除霊師さんはどうやって死にたいんですか?」 「まず死にたくないんだけど」 ──かのように思われた。 その時までは。 「……何ですかあれ…………」 一瞬前とは打って変わって、双葉さんが明らかに怯えを孕んだ声を発する。 その時、僕らの目の前に降り立ったソイツは―― 「怨霊……」 「こ、これが……」 おぞましい姿だった。 腐敗した人間の生首の、両耳の穴から腕が一対突き出ている。それらは生え際から手首まで針金細工を連想させるほど細く、肘のあたりで『Z』の字のような曲がり方をしている。そして腕とは対照的に、手の部分は通常の三倍以上肥大化しており、足の役割を果たしていた。 ソイツの耳元まで裂けた口が大きく開かれるのと、僕が双葉さんを背後に隠れさせるのはほとんど同時だった。 ソイツの口から、先端が刃状になった舌が飛び出してくるのと、僕が鞄から刃渡り四十センチ超えの大型シースナイフを取り出したのも(当然銃刀法の規定に抵触するため、鞄にはこれをうまく隠すための偽装が施されている)、ほぼ同時。 邪魔な鞄はアスファルトに落とす。 ――現実架装・基礎式、一章三節、“纏”。 除霊を前提とし、霊子操作や霊体干渉を体系化した術――現実架装。その基礎の一つを使い、僕は自身の霊気をナイフの刃に纏わせた。 直後、怨霊の舌とナイフが衝突する。 思わぬ防御に警戒したのか、怨霊が後方に飛び退いて僕から距離を取った。 「な? 実在するだろ……取り敢えず僕の家まで一人で逃げろ、双葉さん」 後方の双葉さんに声をかけるも、彼女はどうやら腰を抜かしていて、声も出せないようだ。 ……勘弁してくれ。 僕は前方の敵を見据え、シースナイフを構える。 そして、自分を鼓舞するように、無意識に独り言が一言、零れる。 「……怖くないっ」 「――――え?」 直後、僕は疾駆した。 手の震えを無理矢理に押さえつけて。 勝負を勝つ方向で決めるなら、これ以上時間は掛けられない。 恐怖の渦はもう、首元までせり上がってきている気がする。それに飲み込まれてしまえば、たちまち身体の制御を奪われてしまうだろう。 鼓動が、心臓と密着しているのかと思うほど近くに感じる。 ……大丈夫、この距離なら双葉さんに攻撃は届かない。奴が下手に近付いてくる前に、こちらから向こうの射程に飛び込んでしまった方が良い。 まずはあの長い舌を防ぎ、そのまま一気に走りこんで本体の生首を両断する――直後に訪れる戦闘のイメージを身体に刻み付ける。 見たところ、敵には舌以外に大きな脅威は見当たらない……大丈夫だ。 刹那、怨霊の舌がうねり――僕のナイフに衝撃が走る。金属音が迸り、唾液と共に舌は弾き飛んだ。 敵の攻撃をどうにかいなすことに成功した僕は、速度を緩めず走り続ける。Uターンしてきた舌に追い付かれるよりは速いはずだ。 だが、怨霊の本体に刃が届こうという段階で――その口から二本目の舌が飛び出してきた。 「――ッ!?」 再び、空間に金属音が拡散する。 すんでのところで攻撃は防いだが、体制が崩れ、後退を余儀なくされた。 二又になった怨霊の舌が、僕を連続で襲う。 ……時間切れだった。 僕は足の先からつむじまで恐怖に覆われてしまっていた。 金属音が間を空けずに木霊する中、思考が混乱していく。 何度目だろうか――僕はまた恐怖に屈していた。 もう、攻撃を仕掛けるべきタイミングも計れない。 舌の攻撃を受ける度、腕のしびれが増していく。 そして――いよいよもう限界かと思われた、その時。 「──現実架装・戦式(イクサシキ)、五章八節、“烈線舞々(レッセンマイブ)”」 よく知った声が住宅街に響いた。 直後、霊子によって構成された複数の糸が出現し、怨霊に巻き付く。 怨霊は宙に釣り上げられ……一瞬静止したかと思うと、各部位ごとに解体された。 血が迸ったのは僅か一瞬のことで、すぐにその残骸は霧散して消えていった。 安堵と同時に、僕の身体には別種の緊張が走る。 「葛葉……」 現れたのは、僕と同じ高校の制服を身にまとった中肉中背の少女。 肩まである黒髪をポニーテイルに纏めており、形の良い切れ長の目が特徴的。 その円らな瞳が、睨めつけるようにこちらを向いていた。 「相変わらずね、兄さん」 「い、妹さん!?」 素直に驚きの声を上げる双葉さん──鬱陶しいので今は意識から除外する。 僕は、おそらく引きつっているであろう笑顔をできるだけ自然なものにしようと、四苦八苦しながら妹との会話を試みた。 「そ、その……助かったよ。危ないところを──」 「勘違いしないで。わたしは除霊師の義務を全うしただけよ。それに、あれは元々わたしが追っていた怨霊だし」 久しぶりに会っても相変わらずの、軽蔑が染み込んだ声。 「そ、そっか……ごめん…………」 つい反射的に謝罪の言葉が口を出ると、樟葉は露骨にため息をついた。 「相変わらず、馬鹿の一つ覚えみたいに何でもかんでも謝れば良いと思ってるのね。会うたび情けなくなってるみたいで身内として恥ずかしいわ」 言葉を浴びせられるたびに、腹の底が重たくなっていく。 そしてふと、その中に違和感を覚えた。 『元々わたしが追っていた怨霊』と樟葉は言った。しかし彼女ほどの除霊師が、あの程度の怨霊を取り逃がすとも思えないのだ。 ということはまさか、僕の反応を見るために怨霊をこちらに誘導したとでもいうのだろうか。 また、僕を試すために? そして……僕は再び、彼女を失望させたと。そういうことか? 真偽は不明だが……そこまで考えると自己嫌悪のあまり頭痛がしてきた。 「……あなたも気の毒ね。こんな腰抜けが担当だなんて」 「え?」 ふいに樟葉が、気まずそうに浮遊する双葉さんに声をかけた。 「”アストラル局”からしたら”順番待ち”浮遊霊の身の安全なんて、本気でどうでも良いということみたいね……」 心底憐れむような樟葉の口調に、双葉さんもいよいよ困惑の表情を深めていく。 「アストラル局……? 順番待ち……? 何ですかそれ」 いやそっちかよ。 「嘘……そんな根本的な説明もしていないの?」 「されてないです」 「いやしたよ僕も湯ノ沢先生も! 聞いてなかっただろ君! アストラル局っていうのは霊界関連の事案を統括する政府の機関で、“順番待ち”っていうのは──」 「あなたみたいな立場の浮遊霊のことよ」 僕の説明の先を樟葉が引き継ぐ。 「“アストラル局”には浮遊霊を保護し、成仏をサポートするような設備が整っているけれど……一日の死者の数は膨大であるため、その全てをケアすることはできないわ。すると当然、成仏する見込みの高い者が優先される。そうでない浮遊霊は、俗に“順番待ち”と揶揄され、出来の悪いカウンセラーや護衛が付けられて、空きが来るの延々待たされるの」 「それが、わたし……」 今さらのように自分の現状を理解する双葉さん。 「そうよ」 「じ、じゃあ、わたしってあんまり良くない立場にいるんですね……」 「そうね。空きを待っている間に未練を拗らせて怨霊化する例もあるというくらいだから、決して良いとは言えない。その場合は担当の除霊師に祓われるみたいだし。“成りたて”の怨霊は例外なく、兄さん程度でも殺せるくらいには弱いから」 樟葉が滔々と説明を終えると、双葉さんはそれとは対照的に、場違いにも目を輝かせだした。 「え、てことは……自分が怨霊になれば、除霊師さんに殺してもらえるってことですよね!? 盲点でした!」 「彼女は何を言っているの?」 さすがに困惑した樟葉がこちらに疑問を向けてくる。僕は言葉を選んで、かいつまんで説明を試みた。 「…………つまり、その……この子は転生するのを嫌がってるんだ」 「ふうん? ……そうなの。そういう人もいるのね……」と、納得しているのかしていないのだか分からない様子で頷く樟葉。「……でも、それはそれとして……あなたさっきの見てたでしょう? あんな化け物に変化することを許容できるの?」 「あ。……それは盲点でした」 君は盲点が多すぎるよ。 樟葉は呆れたとばかりに小さな溜め息をつくと、再度口を開いた。 「それより、あなたは自分が怨霊に襲われる危険を心配した方が良いんじゃないかしら」 「……と、いうと?」 双葉さんによる要領を得ないリアクションを受けて、樟葉は二度目の溜め息を発する。 「……良い、浮遊霊さん? さっきの戦いからも分かるように、わたしの兄に『護衛』なんていう役目は果たせないわ」 再び、冷酷な軽蔑の気配が、殺気のように僕へと向けられた。肩が強ばる。 「この男は、除霊師なんて名乗っているけど、怨霊が怖くて戦場から逃げた恥知らずなのよ」 その瞬間、あの日の記憶の全てが凝縮され、僕の脳天を高速で掠めたように感じた。 「樟葉ッ!!」 直後、脊椎反射のように無意識に妹の名前を叫んでいた。 「黙りなさい。『それ以上言わないで』なんてあなたに言う権利はないから」 今の僕の表情を言葉で代弁され、すぐに否定される。 何も言い返すことはできなかった──できるはずがないのだ。 逃げ道を探すようにあらぬ方に視線が泳ぐ。気付けば骨が軋むほど両の拳を握り締めている。自分の身体の制御を失ったように。 視界の端──樟葉が口を開けてしまう。 「この男は、目の前で両親が怨霊に殺されているにも関わらず、恐怖に負けて逃げ出した。そしてその後は、下級の怨霊との戦闘すら怖がるようになってしまったの」 僕の過去なんて要約すれば一瞬のことだった。 首筋に不快な感触をした何かが張り付いている気がした。 自身の体温を殊更強く意識する──焼けるほど熱いと感じ、それが収まるよりも前に強烈な悪寒が訪れた。 樟葉がまた言葉を継ぐ。 「あなたを護衛しているのは、とんだ人でなしのクズよ」 *** 樟葉が去った後。もはや歩く気力すらなくなった僕は近くの公園に入り、ベタなことにブランコに座って項垂れていた。 傍らには当然のように双葉さんが漂っていて、双方何も話すことはない。 何だか、授業中に皆の前で先生から怒られたときのような気まずさがあった。 「……………………」 「……………………」 そんな重たい空気に耐えかねてか。 「……みっともなかっただろ。妹にあんなこと言われて」 やがて僕は、半ば無意識に口を開いてしまう。 こんな台詞を言う方がよほどみっともなくなるということに思い至った頃にはもう手遅れだった。 「……そんなことないですよ」 少し間を置いて紋切り型のフォローが返ってきた頃には少し驚くと共に、より一層自分が情けなくなった。 この子にすら気を遣わせてしまった。 だが、僕の自己憐憫はまだ止まらない。 「情けないよな……でも事実だからしょうがない。樟葉が言ったことはすべて本当だ。僕は家族を見捨てたんだよ。引いたでしょ正直?」 「そんなことないですってば」 「いや。あんなみじめな姿見て引かないはずがないね] 「引いてないですって」 「除霊師のくせに怨霊と戦うのが怖いなんて、バカみたいだろ?」 「そんなことな──」 「どうせ僕はカスだよ」 「あーもう!! そんなことないって言ってるじゃないですか鬱陶しい!!」 そこで、結構な声量の怒鳴り声が、僕の言葉を遮った。 「それとも何ですか『はい』って言ってもらいたいんですか!? 何がしたいんですかあなた!?」 僕は双葉さんにブチキレられていた。 ちょっと意外だった。 「……ご、ごめん」 ほとんど何も考えず、反射的に謝罪の意を口にしてしまう。 「マジで面倒くさいです発言のすべてが鬱陶しいです慰めてほしいの丸見えでウザいです!」 ……凄い。いつも僕が思ってるのと全く同じこと言われてる。 「……凄い。いつも僕が思ってるのと全く同じこと言われてる。……あ」 ヤバい声に出てた。 「何をう!? 幽霊パーンチ!」 怒声と同時に肩に鈍い衝撃が走る。 「痛った!!」 数秒後、年下の女子に肩パンされたのだと理解した。 「殴りますよ!?」 「殴った後に言う台詞じゃないよねそれ!?」 結構ガチでジンジンするんですけど。 しかし僕の抗議は無視され、 「……とにかく、あれくらいで引きませんよ。わたしを何だと思ってるんですか自殺者ですよ? 現実逃避に関してはプロ並みなんですからマジ舐めないでください」 「胸張んなや」 双葉さんは何事もなかったかのように、何故かしたり顔で話を続けている。 「良いですか? わたしだって人のこと言えた義理じゃないんですから、わたしの前で自己嫌悪なんて感じる必要ないんですよ」 独特の慰め方をする双葉さん。 「……そうかな」 「わたしも、除霊師さんと同じです。人生逃げてばかり」 「……『同じ』、か」 そう言われると、何だか胸にモヤモヤが募る。焦燥感と不快感が混じったような不思議な感覚だ。 彼女は続ける。 「なんかわたしたち、意外と似た者同士だったんですねぇ」 モヤモヤが胸のあたりから喉元までせり上がってきた。 うーん……『似た者同士』、と来たか。 何だろう、そこまで言われると、それは── 「それは……嫌だな」 「今の流れでその反応はおかしくないですか!?」 いけない。思わずハッキリ言ってしまった。……いや、まあ良いか。もうここまで来たら全部言い切ってしまおう。 「確かに、君の意見は正しいかもしれない。今ので何で君を見てるとイライラするのか分かった気がするし」 「ハッキリ言いますね!!」 「僕が自分のことが嫌いで、かつ同族嫌悪も激しいからだ。このままだと君のことも嫌いになりそうだ」 「ハッキリ言いますね!! わたしは別に除霊師さんのこと嫌いじゃないのに!」 霊体の唾を飛ばしながら、怒りとも悲しみとも付かない感情を露にし続ける双葉さん。 同感だった。 「何ですかもう!」 よほど不満なのか、彼女は空中で地団駄を踏むような仕草を始める。 「……僕だって、できれば君のこと嫌いになりたくないよ」 だがその一言で、ご機嫌斜めな浮遊霊の表情は多少落ち着いたものに変わった。 「これから先何か月も、嫌いな人と一緒に過ごしたくなんてないからね」 最後まで言うと、地団駄は止み、少しだけ何かに納得したような眼差しを向けられる。 そして数秒の沈黙を挟んで、彼女は言った。 「なんかわたしたち、このままじゃ埒が飽きませんねぇ」 呆れと嘆きを足して二で割ったようなその台詞は、僕の気のせいじゃなければだが……今までよりほんの少し、ポジティブなニュアンスを含んで聞こえた。 「……本当にその通りだ。……ねえ、」 「何です?」 だから僕は思いきって、先ほどから何となく頭に浮かんでいたとある提案を口にしてみた。 「良い機会だし、お互いここらで少し変わる努力というのをしてみないか?」 言った後、何かの間が二拍ほど空いた。 「……本気で言ってます?」 そして彼女は訝しげに問うてくる。 「うん。『人の振り見て我が振り直せ』って言うしさ」 「努力って、具体的には?」 更なる問いに、僕は僅かに言葉を探す。 「……僕は、また怨霊と戦えるように特訓する。このまま妹だけ戦わせるのは正直嫌だ」 それはあの日からずっと、胸につかえていた本心だったはずだ。 「……できるんですか?」 双葉さんによる三度目の問いは、何かに怯えるような表情で発された。その様子を見て、まるで自分自身を説得しているかのような気分になった僕は、それ故にか、自然に言葉を続けることができた。 「できるかは分からないけど……変わる努力をしたい。努力もしないで不満だけぶちまけてる人がいかにダサいかって、散々見せつけられたからね」 「それわたしのこと言ってます?」 「他にいないでしょ」 「クッソブーメランじゃないですか!」 またまたキレ気味に反論してくる双葉さん。忙しい人だ。 僕は宥めるように言葉を継ぐ。 「分かってるよ。だから、君も努力するんだ」 「……わたしも?」 きょとんとした目で見つめられた。……いや、そういう話だったでしょうが。 仕方がないので、僕は控えめに説得を試みることにした。 「君だって、このままじゃまずいのは分かってるだろう? 選択肢は二つに一つ……成仏するか、絶望を募らせた結果怨霊になるかだ。さっきも話した通り、後者の場合は殺してあげられるけど――」 敢えてそれを言ってやると、案の定双葉さんの表情は曇った。 「あんな化け物になるのは、ごめんですね」 先ほど生で怨霊の姿を見たのが少しは効いていたのだろう。幸いにも彼女は即答してくれた。 「だよね。良かった」 「う〜ん……成仏する努力かぁ」 けれどそれでも、彼女は空を見上げながら、思案げに呟く。 渋っているようにも見えるが……しかし選択肢が限られていることは当人も自覚しているのだし、もう一推しといったところだろう。 「ね? やるだけやってみようよ」僕はありきたりな例えで言葉の追撃をする。「サイコロを振る前から目の数は分からないんだし、希望がないわけじゃないでしょ」 すると彼女は、渋々といった様子ではあるが、顔の角度を戻して、再度僕を見た。 「まあ確かに、転生先がまた悲惨な人生である可能性も、百パーセントなわけじゃないですし……」 「そうそう。良いぞ良いぞ。そうやってポジティブに考えるのは良いことだ」 「幸せな人生が送れる可能性も、ゼロじゃないですし」 「良い調子良い調子」 「努力するのに大きなリスクがあるわけでもなし、減るもんでもなし」 「うんうん。良い調子」 「もし転生先で嫌なことがあったら、また自殺すれば良いですし」 「うんう……ん?」 何やら雲行きが── 「そうやって人生リセマラ繰り返してけば、いつかは幸せになれるかもしれないですしね」 「お前の死生観狂気の沙汰だよ!!」 普通に叫んでしまった。 だって……調子悪くなるの早すぎるんだもの! いや悪いどころか最後の脱線絶望的すぎるんだもの! 「よし、分かりました。やるだけやってみますよ。成仏する努力」 「……後半絶対間違えてるけど…………まぁ、その気になってくれたから良いか」 ……いや、本当に良いのか? 結論がカオス過ぎて僕にはちょっと判断が付かないかもしれない。明らかに道徳的に重要なラインをぶっちぎってる気がするし。 ともあれ、 「それで、具体的にはどうすれば良いのでしょう?」 一応は成仏の決意をしてくれたっぽい双葉さんから、当然の疑問を投げられる。 まあ僕はこれでも霊界に携わる者の端くれなので、ざっくりではあれどその辺の知識はあるつもりだ。 「そうだね……まずは、自分の未練が何なのかを知ることかな」僕は柄にもなく講釈を垂れる。「双葉さんさ、先生との面談のときはいつも『皆無です』なんて言ってるけどさ、本当はそんなことないはずなんだ。未練がないのならこの世にとどまっていられるはずがないし……自分が気づいていないだけで、何か心に引っかかっているものがあるはず。それを考えてみてよ」 僕はそう説明する。 あといい加減ブランコからも立ち上がっといた。 「……未練…………わたしの、未練……」 そして双葉さんは目を瞑ると、深く考え始めた。 *** 中学二年生に上がってから間もなくのこと。幾つかの面倒くさい揉め事を経て、わたしの毎日は文字通り地獄と化した。 給食に虫の死骸や動物の糞を混ぜられたり。缶ジュース一杯分程度の小銭のために河原に住むおじさんたちとセックスさせられたり。生理が来なくなるほどたくさん殴られたり蹴られたり。一度吐き出した吐瀉物を無理矢理飲まされ、また吐かされ、といったことを延々続けさせられた挙げ句に便器の水に顔を沈められたり。教卓の上で肛門にモップの柄を刺された状態で全裸オナニーを強要されたり……そんな日課が数ヶ月続き、やがて終わった。 終わったのは良いものの、主犯格のクラスメートたちが若くして少年院送りになった頃には、わたしの心は脱け殻みたいになっていた。世の中の何に対しても、興味も希望も抱けない状態だった。 色々なものを、酷く下らないことのためだけに使い果たしてしまった感覚。あらゆる行動を起こす気力は皆無だった。 人生において必要なコストの全てを、前払いとして既にこの年齢で支払い終えてしまったような気になっていた。こんなに辛い目に遭わされたわたしは、これから先何も頑張らなくて良いんだって、半ば本気で思うようになった。 だから、それからのわたしは徹底的に楽な生き方をできるように専念した。嫌なことは全て、まだ“払うべきコスト”が残っているであろう他人に押し付けた。 だって、それくらいしないと割に合わないから。 けれど、それにも関わらず。周りはわたしが振りかざす、当然の我が儘に反発した。 誰もわたしの状態を理解してくれなかった。 自分はどこまで不幸なのだろう──自己憐憫だけが肥大化していく。 起きている時間が苦痛だったので、部屋に引きこもってずっと寝ていることで対処した。 意識があるから辛く、考えるから苦しい。 やがてわたしは、その問題を究極的に解決する方法に思い至った。 死ねば良いのだ。 わたしは自殺志願者になった。 それは一種の復讐で、この世界がわたしをどれだけ追い込んだのかを思い知らせてやるという意味もあった。 わたしは臆病者だったので、実行するまでには随分時間がかかり、その間に皆──家族でさえも、わたしのことなんて相手にしてくれなくなってしまったけれど。 ……あ、いや、皆というのは間違いか。 正確には一人だけ、わたしのことを見てくれる友達がいたのだった。 *** その日もわたしが自室のベッドに潜りながら虚ろに身を任せていると、ノックの音と共に彼女の声が響いた。 「アカリ、入るよ」 「嫌だー」 怠さに鞭打ってどうにかそれだけを答えた。 だがドアは勝手に開けられる。そして、ほぼ唯一の友人と言って良い里穂が姿を露にした。 「もー。里穂ちゃんってば、拒否しても入ってくるなら訊く意味ないじゃん」 「こんなの引きこもりへの挨拶みたいなもんでしょ」 せいいっぱいの抗議の声はまったく意に返されず、よく分からない論理でいなされてしまう。 なので、次いでわたしは、できるだけ不満げに聞こえるように『むぅ』と唸り声をあげて睨むんでみる。……しかし、まったく効果はなかった。 くやしい。 ならせめて、会話の主導権だけは渡してなるものかと、我先にといつもの台詞をぶつけてみることにした。 「で、里穂ちゃん。何の用? ようやくわたしのこと殺してくれる気になった?」 「んなわけないでしょうが。いつまでそんな無茶苦茶なこと言ってんの?」 返ってくるのはやはり、当然の反応。 「それより、おばさんから聞いてるよ。まだ学校行ってないんだって?」 「だって……また変なことされたくないし……」 あーもうやっぱりその話題。抵抗するようにベッド上で足をバタつかせながら言い訳するも、これまた効果はなかった。 「あの連中ならもう捕まったし……誰も何もしないよ。大体転校してるんだから関係ないじゃん」 「いやーそれがさ〜……なんかもう、学校自体が嫌になっちゃったんだよねぇ」 言うと、呆れたような沈黙が数拍。 その隙に追撃を試みる。 「……学校の話なんてされても、余計死にたくなるだけだよ」 「…………あー、もう……分かったよ」 自分の命を人質に畳み掛けてみたら、珍しく彼女は折れてくれたようだった。やったね。 「フフン、今日は話が早くて助かるね」 「じゃあもう、無理に学校行けとかは言わないからさぁ……」溜め息混じりに、彼女はわたしの右手首のあたりを指差す。「……せめて、そういうことするのはやめてよ」 その意味を把握すると同時に、わたしの胸の内をザワザワと落ち着かないものが刺激し始め、自然に口角がつり上がった。 ここにきてやっと、彼女は“わたし自身”のことについて興味を示してくれたのだ。 「あ、気づいた? ジャーン、見て見て。ついに右の傷も一ダースに達しちゃいました〜」 わたしは適当に巻いていた包帯をはずし、まだ塞がりきらないそれらを里穂に見せてあげた。 だというのに、 「何でそういうことするの?」 彼女は、まるで理解できないものを見るような目をこちらに向けてくる。 起こりかけの興奮はすぐに覚めてしまった。 またこれだ。しょっちゅう来るくせに、里穂は相変わらずわたしに歩み寄ろうとしてくれないのだ。 「仕方ないじゃん。わたし、こういうことにしか喜びを見出だせない、気持ち悪くて陰気なキチガイなんだから」 わたしは弁解するような口調で言う。 「そうじゃないでしょ? 変なこと言うのやめてよ。こっちがちゃんと訊いてるんだから、そっちもちゃんと答えて」 そう言われてもなぁ……と思いつつもわたしは一応他の言葉を探してみる。 「…………だって……誰もわたしのこと分かってくれないんだもん」 これでも一応は、自分なりに考えて絞り出した答えだった。 でも、 「意味分かんない。因果関係成立してないでしょそれ」 と里穂。 いやいや。そっちが訊いてきたくせに、答えが気に食わないとそういう風に言うなんておかしくない? 今の返しにはちょっとばかしイラっときた。 だからわたしは言ってやる。 「分かんないなら考えてよ。友達のこと、心配じゃないの?」 「心配に決まってるでしょ。心配だからこうやって話してるのに……アカリが真面目に聞いてくれないんじゃない!」 彼女も負けじと言い返す。 けれどわたしは、その一言で彼女の欺瞞を見抜いた。 「ほら、やっぱり」 「何が、」 だからまた、言ってやった。 「『心配してる心配してる』って言って……外から話しかけてくるだけでわたしと同じところには絶対来てくれないの」わたしはそこで身を起こし、上半身を少しだけ彼女に近付ける。「ねえ、里穂ちゃん気づいてる? わたし、あなたと話してるこの瞬間ですら寂しくて死にそうなんだよ?」 「…………っ、」 里穂の困った表情を見ると、多少は気分も慰められた。 しかし、それでも彼女は口を開くのだ。 「そ、そんなこと言ったって……アカリはずっと受け身なだけなんだもん……部屋に引きこもってるだけじゃ、人から理解なんてしてもらえないよ……」 その日の里穂は珍しく、困惑だけでなく、表情の中に悲しそうな色を混ぜて言葉を紡いでいるのに気付いた。もっとも、どんな状態であろうと、それがわたしに届くことはないけれど。 「仕方ないじゃん、向いてないんだから」 だってわたしは、本当にどうしようもない奴なのだ。 「何が!」 それは確固とした事実として、確かな質量を持って、常に目の前に存在している。 「ちゃんと生きることに」 どうすることもできない。 「……向いてるも何もないでしょ!」 「わたしはあなたみたいに生きる才能がないの。だから……早く死んじゃいたい」 その日もいつもと同じだと思っていた。わたしと里穂の話は平行線。お互いに譲らずに同様の主張を繰り返すだけ。 でも、実際はその日は違っていた。 少しの沈黙を挟んだ後、 「わたしは、アカリに死んでほしくないよ……」 そう言って、彼女は泣き出してしまったのだ。 「え……? え……?」 しくしく、とかじゃなくて、ワンワン。ガチの号泣。 「ち、ちょっと……!」 わたしは慌てて、泣きながら床に崩れ落ちそうになる里穂に駆け寄り、その身体を抱き留めた。 甘い香りが鼻腔をくすぐる。 「ど……どうして里穂ちゃんが泣くのよ!?」 わたしは完全に面食らっていた。 里穂が人前で泣くなんて滅多にない。 今までの蓄積が、気の強い彼女をこんなにしてしまったのだろうか。 そう思うとこの時ばかりは、自己憐憫と孤独で凝り固まったわたしの心が、ほんの少しだけ、他人のために痛みを覚えた。 気がした。 「ごめんね……アカリ」 「何で謝るの?」 「わたし、アカリに死んでほしくないのに ……あなたの気持ち分かってあげられないの……どうして良いか分からないの……だからきっと、今日も、酷いこと言っちゃったんだよね……ごめんね……」 「……えっと、その…………」 多分、言葉で返しても埒が明かない状況なんだと思った。 だから、 それからわたしたちは久しぶりに、互いの両親に知られたら卒倒されかねない行為を数十分かけて行った。 そしてその最中、わたしは思った。 里穂と一緒に死ねたら、最高に幸せだろうなぁ──と。 きっと、それを口に出さなかったことが、わたしに残された唯一の良心だったのだろう。 わたしは考える。 本当は、彼女と一緒に生きるというのが、お互いにとって最善の道なのかもしれない。 でもそんなことは不可能だ。わたしにはもう何をする気力も残されていないのだから。 選択肢なんて最初からないも同然。 だったら、逃げ続けるしかないではないか。 …………でもかといって、やっぱり自殺は怖いし。 誰か、わたしを楽に殺してくれないかなぁ。 *** わたしがかいつまんで──もちろん、刺激の強い部分は省いて──里穂のことを話し終えると、除霊師の少年はこう言った。 「その友達の住所は、分かる?」 と。 ……里穂とは幼稚園のときからの友人だ。住所くらい知らないはずはない。だが、何故そんなことを訊くのだろう。 わたしは質問の意図が掴めないまま、取り敢えず首肯した。 すると、 「じゃあ、さっそく会いに行ってみよう」 一瞬、何を言われたか分からなかった。 時間差で、驚愕と緊張が霊体の全身を貫いた。 「え……は? ……い、今からですかっ!?」 *** ほどほどに都心に近いことだけが取り柄の、首都圏の某地方都市を走る私鉄。 平日の夕方とはいえ、里穂宅の最寄りが鈍行でしか停まらないため、わたしたちが乗った電車はかなり空いていた。 「………………、」 一通り悩んだ末、 「……何を話せば良いんでしょう?」 ボックスシートの端に腰を下ろしていた除霊師に、わたしは問う。 果たして彼の答えは。 「うーんと、その……話したいことを話せば良いんだよ」 いやそりゃねーわ。 「はぁ!? 何ですかそのトートロジー!! 湯ノ沢先生以下のアドバイスですね!!」 あまりに酷い回答にわたしが容赦なく罵倒すると、彼はあたふたと取り繕うように弁明を始める。 「あ、いや……確かに今の返しはあんまりかもしれないけど……でも────」 本当、言い訳ばかりだなこの人。やっぱりわたしみたい。 まあ別に良いけど。 「──友達との会話って普通そんな一生懸命考えてするもんじゃないだろ?」 「それはそうですけど……」 会話の内容以外にも、懸念はいくつかあるのだった。 まず一点──里穂はわたしと会って嬉しいのだろうか……という問題。 大体わたしは、彼女がしてほしくないと言っていたことを真っ向から実行してしまった人間なのだ。彼女はもうわたしのことなど嫌いかもしれない。 それに──── 「とにかく、君がその里穂って子のことで引っ掛かりを覚えているのは確かなんだから……会うだけでも何か解決の糸口が見いだせるかもしれない。そうすれば、成仏に向けて一歩前進するじゃないか。善は急げだよ」 ──より根本的な懸念が、もう一つある。 わたしはそれについて彼に問いただしてみることにした。 「ところで除霊師さん、いったんその話は置いておいて、一つ大事なことを忘れてませんか?」 「え? 何?」 「わたし、もう死んでるんですよ。浮遊霊なんですよ」 「あ」 これは盲点だった、とばかりに間抜けな声を出す除霊師。 「霊感のない里穂ちゃん相手に、わたしはどうやって話せば良いんですかね??」 「あ……えと……」 間が空く。 それからいつまで経っても場繋ぎ言葉の先が綴られることはなく、電車の振動とジョイント音だけが空間を支配した。 その沈黙が答えだった。 「何にも考えてないんかいっ!!」 これだけ大きな声を出しても、わたしの声が他の乗客に聞こえることがないのは幽霊の特権だろう。 「珍しく行動力発揮したなと思ったら中身すかすかだし!! 所詮引きこもりの陰キャ、普段予定立てる習慣がないもんだから計画が立てられないんでしょうねぇ!!」 「ちょ……待ってくれ。僕みたいな奴はそういう言葉にはかなり繊細だぞ」 「わたしも今自分で言ってグサッと来ましたよ!!」 「よし利害は一致したな。……一旦黙ってくれ」 「良いですけどその代わり何かアイディア思いついてくださいね!!」 大声で促してやる。すると除霊師は腕を組んで、うーんうーんと、しばらく考える素振りを見せた。 「……えっと……あの、なんかその…………イタコ的な設定で……」 わたしはいよいよブチキレた。 「たわけェェ!!」 「たわけ?」 「本当に馬鹿なんじゃないんですか!? 地獄に堕ちたらどうですか!?」 「……二十一世紀に『たわけ』?」 「ゴー・フォー・ヘル!!」 「間多分『トゥー』だぞ?」 わたしは目一杯の声量で叫ぶ。 「イタコとか怪しさ極まりないわァァ!!」 *** 「あー着いちゃう着いちゃう……この角曲がったらすぐですよ…………何話せば良いんだろ……」 わたしたちはどこにでもありそうな住宅街を歩いていた。 里穂の家まで、あとほんの少しの距離である。 「まあ、話しながら考えるって手もあるし……」 「行き当たりばったりすぎでしょ!」 「そ、それは……ごめん……」 しおらしく謝る除霊師。 「ていうかそもそも話の内容以前に『わたし見えない問題』解決してないじゃないですかぁ! 存在自体信じてもらえるかどうかって状況じゃないですかぁ! あ〜もうこんなノープランなら来なきゃよかったな〜!!」 「待って、僕も着くまでに他の案を考えるから……」 「考えるって言っても里穂ちゃんちもう目と鼻の先ですよ!? この角曲がってちょっと歩いたら着きますよ! ザ・エンドですよ!」 「……『ジ』、だぞ?」 そしてわたしたちは角を曲がった。 「は〜い、もう角曲がっちゃいましたーここから二軒先が里穂ちゃんの家でーすすぐでーす! もう数えましょうか!? はいいっけ〜ん、にけ〜ん、はいタイムアウト〜! 時間切れ〜! 金返せ〜! ……って、あれ?」 「金返せ? ……あ、いや……どうしたの?」 「この表札……苗字違う」 *** 「あ〜、あの一家なら、何か月か前に引っ越したよ」 近所のおじさんの話に、わたしと除霊師の少年は顔を見合わせた。 「どこに引っ越したか分かりますか?」 彼が訊く。 「う〜ん……詳しい場所までは分かんないけど、確か……」 おじさんの声は、不思議とどこかここよりも遠くで聞こえているように感じた。 ──また、移動。 手がかりを求めては移動することを繰り返す。まるでチマチマしたお使いゲーでもやらされているような気分だった。 里穂宅の表札が変わっていることに気付いてからというもの、ずっと胸騒ぎを感じていた。じんわりとした焦燥感を。 けれどできるだけそれを気にしないようにして、わたしは彼と共に里穂宅の捜索を進めた。 そして、やがて辿り着いたのは……彼女の葬儀場だった。 郊外にある大きめのセレモニーホール。 入り口に立て掛けられた看板には、紛れもなく彼女の名前が記されている。 「嘘……」 お腹の中が空っぽになったような心地がした。 息を吸ってるんだか吐いてるんだか分からなかった。 「ふ、双葉さん……」 除霊師の発する心配そうな声──どこか遠くから聞こえるようだった。 「何なのよこれ……」 わたしは吸い込まれるように建物の中へ入っていった。 一般葬らしく、会場には大勢の人がいた。この時間なら多分お通夜だろう。 式はまだ始まっていないらしく、おじさんとおばさんが参列者たちと話しているのが目に入った。 わたしは会場をある程度進み、正面を見据えた。 棺は閉まっていたが、遺影は間違いようもなく彼女のものだった。 これ以上ないくらい絶望的な景色に思えた。 目眩がした。 五感が覚束なくなる中、近くの参列者が話す声が聞こえていた。 会話の全ては聞き取れなかったが、間の『持病』という単語を耳が拾った。 「まだ中学生でしょ? 気の毒にねぇ……」 そこまで馬鹿でもなかったので、何を話しているのかの推測は難しくなかった。 だからこそ耳を疑った。そんな話一度も聞いたことがなかったからだ。 疑念が胸の内を満たし、何もかもが信じられなくなってしまいそうだった。 わたしは疑うのがとても得意だ。自分にとって都合の悪いことは全て疑ってきた。 彼女のことも例外ではなかった。彼女の口から出る言葉はほとんどわたしにとって都合の悪いことだったからだ。 でもそれらはきっとわたしのために発されていた。 また別の参列者が、彼女が死んだのはつい一昨日だということを話していた。 聞きたくなかった。 目を逸らしていたかった。 わたしは目を逸らすのも得意だ。 彼がもう少し早くわたしを説得していれば――と、あろうことか彼を憎みかけた。 誰かのせいにしたかった。 誰かのせいであってほしかった。 わたしは責任転嫁も得意だ。 わたしは今まで際限なく、色んなことを周りに押し付けていたから。 でも、それももう今日で終わりだ。 成すすべがなかった。 この圧倒的で、モヤモヤした色んなものが痛みを伴うほどに凝縮された体験を前に、わたしの心は屈服していた。 負け続けの人生についに訪れた敗北の限界――わたしはとうとう自分の心の欺瞞にすら負けたのだ。 湧き上がる感情の重さに立っていることすらできず、膝から崩れ落ちる。 涙が溢れ出る。 『死にたい、消えたい、殺して』。 何かを失うたびにわたしの中に湧き上がる三大ワード。 一瞬前まで、頭の中を埋め尽くしていた。 “死んでほしくない”と彼女は言った。 わたしが欲しいのはそんな言葉じゃなかった。 欲しくない言葉なんて意にも解さなかった。今思うとその態度はもはや暴力と同義だったのに、平気で友達の思いを軽視した。 わたしは常に受け身なくせに一方的で……たった一人の友達の苦しみすら、気に かけるどころか気付くこともなく、飛んだ。 ただ、自分はこんなに可哀想なんだって分かってほしかった。 こんなに苦しんでるんだって理解してほしかった。 落ちた後の、醜くつぶれた自分の身体を想像するのが楽しかった。こんな姿になってしまうほどわたしの人生は悲惨だったんだと、皆に認めてほしかった。 あの怨嗟が詰め込まれた肉体を思いっきり地面に叩きつけてやれば、きっと皆に伝わるだろうと本気で思い込んでいた。 “地球全体に、届け――わたしの想い!” そんなことはなかった。どん底に到達しただけだった。 本当に馬鹿だったと思う。 でも、それでも。 底の底に来て、ようやく悟れたこともある。 疑念と憎悪と責任転嫁と希死念慮……下らない感情を全て使い果たしたわたしの手元には今、きっと本当に大切な気持ちだけが残っているはずだ。 過去ではなく、これからの目的が見える。 ならばそこに、全力で手を伸ばさなければ。 今そうしないと、わたしは今度こそ、本当に“終わって”しまう。 *** セレモニーホールからワンブロックほど離れた児童公園のベンチにて。スマホで数分間誰かと話していた除霊師は、ふいに通話を終了させ、言った。 「“アストラル局”に問い合わせてみた。つい昨日、担当の成仏推奨カウンセラーから成仏済みの報告があったそうだ。だから、彼女の霊は既に現世にはいない」 その報告に、わたしは胸を撫で下ろしすぎて全身が溶けたかと思った。 少しの間安堵を噛み締めた後、確認のために彼に問う。 「じゃあ……里穂ちゃんは、怨霊になったりせず、ちゃんと向こうに行けたんですね?」 「うん。それについては僕が保証する」 何だか珍しく彼が頼もしく思えた。 わたしは目一杯息を貯めて、すぐに吐き出す。 「…………そっか、良かったぁ……いえ、良くはないんですけど……」 彼女が死んでしまったことに変わりはないのだから。 だが、それでも一番最悪の可能性を回避していたのは不幸中の幸いと言っても良いはずで。 そして、それが確認できたのなら、わたしも次のことに意識を向けなくてはならない。 「除霊師さん」わたしは彼に呼びかける。「彼女のことは残念です。でも、だからこそ……決めました。わたし、絶対に成仏して見せます。自殺もしないし、絶望に負けて怨霊になったりもしません。きちんと成仏して、向こうで彼女と会います」 わたしにしてはかなり頑張って、素直な気持ちを言い切ったつもりだった。 だがそこに来て、脳裏に湯ノ沢先生から聞いた断片的な知識が過り、明らかな懸念を生んだ。だからわたしはそれを加味した上で、再び言葉を継ぐことになった。 「……でも、成仏の後には所謂“転生”をしなくてはならず、それまでの期間は、四十九日しかないことも知っています。だから、それまでに……できるだけ早く、残りの未練を自覚して、消化して……彼女の元に行きたいんです!!」 最後まで言うと、除霊師は感心したような、ちょっと気圧されたような顔になった。 わたしは改めて彼の目を見つめる。 「協力、してくれませんか? 改めて」 今度は、『殺してくれ』とかの無茶なものではなく、一方的でないお願いを、まっとうにしたつもりだった。 既に成立した約束を、きちんとした形で上書きする儀式。 想いが通じたのか、彼は快く微笑んでくれた。 「そっか……分かった。僕にできることなら、何でも手伝うよ」 「ありがとう……ございます」 わたしはお礼を言うと同時に、ちょっとビックリしていた。 除霊師の笑顔が、思わず甘えたくなってしまうほど頼もしく、思いの外素敵なものに見えたから。 そんな顔をしてくれるとは思ってもいなかったので、わたしはちょっと彼のことを、ガチな意味で好きになりかけた。多分気のせいだろうけど。 そして、そんな思いもあって心が緩んだからか、脳裏ではずっと引っ掛かっていた不安が顕在化してきていた。 ──期間内に成仏したとして、彼女から拒まれたら、世話ないなぁ、と。 もう彼女が成仏してるということは、この世に未練がなかったということだ。向こうにいる彼女にはわたしのことなどどうでも良いのかもしれない。 何せわたしは、自殺をすることで彼女の気持ちを真っ向から裏切っているのだ。下手したら嫌われていたっておかしくない。 ……と、そこまで考えると、今度はそれに反発する希望的な意見も浮かんでくる。 そもそもを考えると『未練』という概念自体彼女に不釣り合いだ。過去に執着すること自体が里穂らしくない……という風にも思える。 ひょっとしたら、わたしのことを信じて待っててくれてる……なんていうのは、さすがに希望的観測が過ぎるか。 色々考えてみても、結論が得られるわけではなかった。 まあ何にしても、まずは成仏してみないことには何も分からないし始まらないわけだ。 わたしは再度、決意を固める。 今度はわたしの方から、彼女の元に向かわなければならないのだ。 *** 除霊師宅の最寄り駅に着いた頃には暗くなり始めていた。 季節が春とはいえ夜は冷える。幻肢痛的な錯覚かもしれないが、幽霊にも夜風は冷たく感じられるものらしい。 二人で改札を抜けたところで、彼はふと思い付いたようにこんなことを言った。 「双葉さん、少し寄り道していきたいところがあるんだけど、良いかな?」 それに対し、成仏を目指す意識高い浮遊霊と化していたわたしは脊髄反射でこう答えた。 「でもわたし、できるだけ早く成仏しなきゃ……」 そこまで言って、さすがに発言が極端だと思い至る。 彼も同意見だったようで、クスリと笑った。 「そんな、今日明日のうちにパパッとできるようなものじゃないでしょ。早く成仏したいんなら、気分転換も大事だからさ……ね?」 他に断る理由がなかったので、わたしは従うことにした。 そうして彼に連れていかれたのは、少し意外で、とても素敵な場所だった。 *** 「凄い、こんなに星がよく見える場所、わたし初めて来ましたよ」 そこは住宅街から外れ、林の中を十五分ほど歩いたところにある廃旅館の屋上だった。 人工の光から隔絶され、上空には星空が丸裸にされたように露になっている。 「こんなザ・廃墟みたいな分かりにくい場所、よく知ってましたね?」 「昔、天体観測が趣味だった時期があってね。まだ仲違いする前、たまに葛葉と二人でここに来てたんだ」 「そうだったんですね。意外な一面」 「あいにく、今日は望遠鏡の類はないけど」 除霊師が何故か、照れたようにそう付け加える。どうでも良いことだった。 「そんなのなくて良いですよ。普通に見ても十分奇麗なんですから」 実際はここよりもよく星空が見えるちゃんとしたスポットなんて腐るほどあるんだろうけど、そもそもわたしは今まで星などというものを意識したことはなく、ほぼ初見に近い感覚だった。星明かりはとても新鮮で、お世辞とかじゃなく素直に綺麗だと思った。望遠鏡なんてなくても。 「確かにね。楽しいとき、悲しいとき、退屈なとき…………」うわこの人突然何か語りだした怖。「……いつ見てもその美しさに違いがないのが、星の良いところだ」 「除霊師さん、意外とロマンチックなんですね。普通にキモいです」 「その流れで罵倒するか!?」 つい脊髄反射で罵倒してしまった。 だってこの人わたしに似てるんだもん。 彼は彼らしく、しどろもどろになって弁解のようなことを始める。 「……い、いや、その……原始的な感動っていうのは、余計な思考を伴わないからさ。良い気晴らしになるかと思って…………ね」 「キモさ加速してますよ」 「分かったよ黙るよ! 黙れば良いんだろ!?」 「嘘ですよ。冗談です。ほんの照れ隠しですって。わたしそういう性格じゃないですか」 「それ絶対自分で言うやつじゃないからな……」 悲しげなツッコミが静かに星空へと吸い込まれていく。 「除霊師さんには、感謝してますよ」 「本当か?」 「ちゃんと、分かってますから」 それからわたしたちはしばらく、無言で星灯りを鑑賞していた。 わたしの胸は温もりで満ちている。それはいくつかの嬉しさの混合物だ。美しい景色が見えたこと。その体験を誰かに与えてもらえたこと、そして共有できたこと。 こんなわたしを、誰か一人でも応援してくれているというのが分かったこと。 除霊師の少年に感謝しているというのは本当のことだった。 彼が今日連れ出してくれなければ、わたしはずっと、何も知らないままだったかもしれないのだから。 でもきっと、彼みたいな人には、言わなきゃ伝わらない。 ちゃんと、言葉を尽くさないと伝わらない。 「除霊師さん」 だからわたしは、敢えて心地の良い静寂を破って口を開いた。 「ん?」 「今日は、ありが――」 だが、その先を言うことは叶わなかった。 突如として。 屋上の壁と柵を登って現れたらしい、影のように黒く巨大な……トカゲのような化け物がわたしを丸呑みしたからだ。 *** 「……は? は?? はぁ????」 現れたのは巨大なトカゲ型怨霊だった。体長は大人四人分くらい。大きく開かれた口とその上に縦向きに付いた一つ目以外に顔の部位はなく、全身が黒く塗りつぶされているようだった。鱗なども確認できない。星明かりに照らされていても、その表面には不気味なほど光沢がない。 ソイツがとった行動。 まず、細長い尾が、凄まじい速度──夕方の生首の怨霊とは比べ物にならない──で双葉さんの身体をかっさらい、そして、待ち構えていた本体の口へと投げ込み……飲み込んだ。 それが起こってから完結するまで、ほんの一瞬だった。 あまりに突然の出来事に、思考が混乱し混濁しぐちゃぐちゃになった。 人が前を向けた瞬間に初めて立ち合った。自分がそれに少しでも貢献できたことが、きっと物凄く嬉しかった。 調子に乗っていたのかもしれない。 誇らしさに陶酔していたのかもしれない。 こんな自分でも、誰かの役に立てるんだって……。 馬鹿じゃないのか? 警戒が足りていなかった。 護衛のくせに。こんな人気のないところに連れ込んだりして。 本当に最低だ。 彼女は前を向いたのに、僕は何にも変われないままだ。 僕はトカゲ型怨霊を睨みつけ、得物のシースナイフを取り出した。 「お前らのせいだ……」 ナイフの刃に霊気を纏わせていく。 「あの時と同じだ。いつだってお前らは、容赦なく奪っていく……!」 誰かのせいにしたい。 誰かのせいであればどれだけ良いか。 胃に滴り続けていた黒い感情が閾値を越えたのか、口から絶叫の形を取って抜けていく。 刃を振りかざす――そして。 怒りと恐怖と混乱の中、僕は考える。 誰かの助けになることができた。そんなささやかな陶酔すら、過去からの逃避の一環だったのではないのだろうか、と。だって、僕自身はまだ何も成していないのに。僕の問題は何も進展していないのに。そのくせ良い気になって。 二人で目的を共有しようなんて、それらしいことを言って。彼女の弱さに依存して。 彼女のためを思っていたとはとても思えない。 だって現に、こうして彼女が危機に直面しているというのに。 僕はあの時と同じで、手が震えてうまく戦えない。 彼女に死んでほしくない――そう思っているはずなのに。 やがて、僕より先にトカゲ型怨霊の尾が動き――直後、強い衝撃と共に僕の意識は暗転した。 *** 記憶の中を転がり落ちていき――やがて忌まわしい過去に到達した。 三年前の、大規模怨霊集団との戦闘。数十年に一度あるかないかの非常事態で、除霊師という除霊師が動員された。まだ子どもだった僕や葛葉も例外ではなかった。 そこはまさしく戦場で、行われているのは害獣駆除なんかではなく、正真正銘の戦争といって差し支えなかった。 敵の攻撃が一度行われるたびに十人規模の味方が引き裂かれ、体液と臓物をほとばしらせながら絶命していった。 近くに居た人の血やゲロが僕の顔に何度もかかり、生暖かさと気化熱による冷気が交互に訪れたのをよく覚えている。 地獄の風景を前に、僕はクソ小便を垂れ流し、泣きじゃくりながら内心で後悔していた。 除霊師になんてなるんじゃなかった。僕は隣で果敢に戦う妹や両親とは違い、周りに流されるように、ただ何となくこの場に居るだけだったのだ。 それでも戦場にいる以上、僕は機械的に得物を振るい、必死に前に進むしかなかった。 だが、いずれ限界が訪れた。 その時。 目の前で負傷した両親が、怨霊に食われていた。 残酷なのは、それが当時の僕の力では敵わないこともないくらいの相手だったことだ。 さらに残酷だったのは、両親はその時まだ生きていたということだ。 それでも僕は身動きが取れなくなっていた。 あの光景を前に、何かの線が切れてしまったかのように。 それ以上、ほんの少しも戦うことはできなかった。 僕はあたりを見まわし、必死に探した──戦わなくても良い理由を。 それはすぐに見つかった。妹の葛葉だ。足を負傷していて、こちらは物理的な意味で身動きが取れなくなっていたのだ。 “しめた”――ハッキリとそう思った。 その時の僕には、妹の命なんて本気でどうでも良かった。ただ、逃げる口実ができたのが嬉しかった。 数分後、僕は負傷した葛葉を背中におぶって、戦線の逆方向に全力疾走していた。 「兄さん、戻って! お父さんとお母さんが死んじゃう!」 背中でそんな悲痛な声がしても、僕の足は止まらない。 「も、もう無理だ……手遅れだ……」 「どうして逃げたりしたの!? 兄さんの力だったら……」 それでも、声は僕の背中に容赦なく突き刺さる。当然痛みはあった。 「し、仕方なかったんだ……」 僕は足を動かしながら、必死に言い訳を口の中で転がしていた。 「僕だって万全の状態じゃないし、樟葉も怪我してる……あのまま戦ってたら、樟葉まで死んでたかもしれない……!」 「嘘でしょ……何よ、それ……?」 妹の声の質が、明らかに変化した。 「わたしを、理由にするの……?」 振り返らずとも分かった。 どす黒い軽蔑の眼差しが、容赦なく僕の背中を射貫いていることを。 もう何も言い返すことはできなかった。 夢の時系列は飛び、それから数ヵ月後。 その時の僕はまだ楚谷の本家に居た。 『異動要請──成仏推奨カウンセラー補佐、兼、臨時浮遊霊護衛員』と書かれた書類を手にしており、傍らには葛葉がいて、蔑むような視線をくれていた。 「事実上の戦力外通告みたいなものよ、それ」 「……分かってる」 俯いたまま、僕は力なく答える。 「じゃあ、わたしはあなたにもう関係ない、除霊師の仕事があるからこれで失礼するわ」 葛葉が冷たく告げ、その場を立ち去ろうとする。 「待って、」 それを僕は引き留める――具体的な理由があるわけじゃなかった。 「何?」 「樟葉も、除霊師なんてもうやめたらどうだ?」 口をついて出たのはそんな言葉。即興で考えた台詞だが、内容は一応、本心のつもりだった。 「一応訊くけど、何故?」 葛葉が目つきをより一層険しくして問うてくる。 「危険な仕事だからだよ。君に危ない目に遭ってほしくないんだ」 僕はそれでも、真剣に説いたつもりだった──しかし。 「……嘘つき」 「え?」 「わたしが死んたとき、罪悪感に溺れるのが怖いだけでしょ」 一際冷たい口調で、そんな胸をえぐるような言葉を浴びせられ、一瞬目の前が霞んだような気がした。 「ち、違うよ! ぼくは──」 僕は必死で否定する。 そんなんじゃないんだ。 自分が一番可愛いだなんて、そんなこと思ってる人間じゃないはずなんだ。君のことが一番大切なはずなんだ。 でも不思議なことに、時々、そうじゃなくなることがある。 恐怖を前にすると、僕は僕じゃいられなくなる。 それがたまらなく嫌で、僕は自分自身から目を逸らしてしまう。 「安心して。わたしはあなたみたいな、怨霊が怖くて戦えなくなったような人とは違うから。そう簡単に負けない」 「く、樟葉……」 僕はこれでも葛葉のことが好きだ。 本当なら、兄として胸を張って君の隣にいたい。 「あなたはいつも逃げてばかり。自分の感情からも、目の前の現実からも……」 それができない自分が嫌で、受け入れられなくて、僕はきっと、より一層逃げ続けてしまうんだ。 *** 悪夢から目を覚ますと、何故か目の前に見知った顔があった。 「あ、目覚めた?」 「湯ノ沢先生……? どうして……」 訊きながら、芝生に横になっていた上半身を起こした。全身に打撲したときのような鈍痛がこびりついているようだった。 「実はわたしんちこの近くなんだ。危ないところだったね。わたしが偶然、気まぐれに星なんか見に来ていなかったら、君もアレに食われてたよ」 彼女の言葉で、気絶する前の記憶が濁流のように、脳裏に蘇った。即座に緊張が走り、毛穴から脂汗が滲む。 「ふ、双葉さんは……?」 「君も見てたでしょ? あのトカゲみたいなやつに丸飲みにされた」 「その怨霊はどこに……」 「逃げたよ。一応、霊気から位置はマーキングしてるけど」 そう言って湯ノ沢先生は、携帯端末のようなものを差し出してきた。画面には地図と移動する逆三角形が表示されている。 数秒間かけて現状を整理すると、頭が急激にパニックになった。 「…………み、見捨てたんですか!? 双葉さんを……!」 胃に沈殿していた黒いものが限界に達して、あり得ない言葉が喉から飛び出してきた。 湯ノ沢先生の表情が、露骨に歪む。 ――いつだって誰かのせいにしたかった。 ――いつだって誰かのせいにしてきた。 ――自分にとって都合の悪い物事がすべて自分以外の誰かのせいならどれだけ良いか…… 「は? 人聞き悪いこと言わないでよ。わたし戦闘なんか専門じゃないし、追っ払うので精いっぱいだったんだから。第一他人に命張る義理ないし」 当然の反論が浴びせられ、僕はみっともなく狼狽する。 「す、すみません……その、今のは動揺しててつい……」 いつだって言い訳ばかりしてきた。 両親のときもそうだった。人の命が絡んでいる局面でさえ、思考より先に建前が口をついて出る。 「うん。……そういうインスタントな反省ウザいから良いよ」 先生からは、冷たく、突き放すようなことを言われてしまう──当然だ。 「え、えっと……」気まずい思いをしながらも、僕はどうにか口を開く。「あれから、何分経ちましたか……?」 取り敢えず、必要な情報を得なければならないことにようやく思い至ったのだ。脳をそちらの方向に切り替えていく。 「まだ五分も経ってない。あの子が怨霊に消化されるまでは、まだ時間がかかるだろうね」 「応援を要請する時間は……」 「んー……一応“アストラル局”に通報したけど、なんか他でも捕食事件起きてるらしくてね。多分、連中が着く前ににあの子はどろどろになってるよ」 「クソッ……!」 僕は悪態をつき、思わず歯を食いしばる。 何でよりによってこのタイミングなんだ!? 大体何のための怨霊警邏隊なんだよ肝心なとき役に立たないなら意味ないだろもっと人員増やすなり何なりしろよ――他人への不満が溢れ出しそうになる。 ……違うだろ。今そんなこと考えたって仕方ないだろ。 大体、僕だって連中と同じ除霊師じゃないか。 今回双葉さんを守れなかったのは、誰の責任だ? 「ねえ、どうするの? 黙って考え込んでたって何も進展しないでしょ?」 ――いつだって誰かのせいにしたかった。 ――いつだって誰かのせいにしてきた。 ――自分にとって都合の悪い物事がすべて自分以外の誰かのせいならどれだけ良いか…… 「まあ、わたしはどっちでも良いけどね。一応、これは渡しておくよ」 湯ノ沢先生が、デバイスを差し出してくる。 「逆三角のマークが、双葉ちゃんを丸呑みした怨霊ね。しっぽ以外の動きは遅いみたいだし、走れば追いつけないこともないんじゃない?」 “僕のせいじゃない”――願望は無意識に思い込みにすり替わる。 いつだって目の前のことから目をそらして、恣意的な鈍感さに依存して、自分の人生から逃げてきた。 でも、きっとそれは正しくない。 認めよう――これは僕の責任だ。 僕が自分の意志でやらなきゃいけないことなんだ。 僕はデバイスを受け取り、立ち上がった。 「……行くの?」 自分に責任を負えるのは、きっと自分だけ。 いつだって、事態に直面しているのは自分自身なんだ。 「……もちろん」 だったら、きちんと自分の足で進むしかない。 「ここでまた逃げたら、今度こそ僕は本当に、“終わって”しまう」 僕は走り出す。 ――それに……約束したんだ。 *** 双葉アカリは目を覚ますと、よく見知った場所に居た。 「こ、ここは……」 そこは他でもない、彼女が飛び降り自殺をはかった、母校の屋上だったのだ。 「何で、こんなところに?」 奇妙だ──確か自分は、あの少年と星を見ていたところを突然怨霊に襲われたのではなかったか。 アカリは狼狽して辺りを見回す。 すると、そこが彼女が知っている場所と完全に一致するわけではないことに気付いた。 柵の向こうに広がる景色はまぎれもなく母校の屋上から見たものだったが……その後ろの空間がやたらと縦に長く続いているのだ。入り口の扉などは見えず、一〇〇メートルほど行った先が白い霧で覆われている。 これは一体、どういうことなのか。 「アカリ……」 ふと、後ろで声が聞こえた。 振り返ると、そこには居るはずのない人物が立っている。 「里穂ちゃん!?」 「久しぶりだね」 その声も、姿も、アカリの記憶に残る親友のそれと全く同じだった。 ──里穂ちゃん。 感情がほとばしった。 むせ返るほどの切なさと郷愁。 乱暴なほど刺激的に、容赦なく脳を突く興奮と多幸感に目が眩んだ。 「里穂ちゃん、わたし……!」 涙が込み上げ、そこから先は酷く聞き取りにくい雑音と化した。 それでも里穂は優しく微笑み、アカリを制す。 「良いのよ。何も言わなくて」 ──里穂ちゃん。 ──話したいことが溢れそうなほどたくさんあるの。 ──謝りたいことが零れるくらいたくさんあるの。 アカリの中で色々な感情がない混ぜになって腹の底でうねる。忙しなく蠢く。 ──わたしこのままじゃ、破裂しちゃいそう。 「良いのよ」 里穂はその全てを、真っ向から受け入れるように微笑みを深める。 「ごめんね、今まで歩み寄ってあげられなくて」 「え……?」 理由は分からない──正体不明の違和感がアカリの意識を過る。 直後、里穂が柵の向こうを指差した。 アカリは釣られるようにそちらを向いた後、すぐにまた里穂に視線を戻す。 「これからはずっと一緒に居られるよ」 里穂がそう発すると。 アカリの瞳が徐々に、色を失っていった。 何かに魅せられたように、その口角が上がる。 「本当っ?」 アカリは虚ろな目つきとは不似合いな、弾んだ声で問い返す。 数秒前の違和感はとうに霧散していた。 「もちろん。さ、」 里穂の姿をした“ソレ”が、手を差し出してくる。 「もう一度……ここから飛びましょう。今度は、二人で一緒に」 その空間は“包獄”と呼ばれる、怨霊の持つ観念的な胃袋だった。 所謂“異界”と言われるものの一種である。 集合的無意識に束縛された共有世界──俗に言う“現世”──から遠く離れ、持ち込まれる概念も限られているため、その輪郭には偏りが生じる。 故に物理法則は確定しておらず、個人の精神的指標に内部の現象が左右されやすい。 この場合は、双葉アカリの心象風景が、“包獄”空間の基本的輪郭を構成しており、そこに主である怨霊の“食欲”が紛れ込んでいる形だ。 通常、怨霊は食事の後、食した魂がきちんと自身に適合するように、“包獄”内で獲物を精神的に陥落させる必要がある。 “消化”の準備は着々と進行していた──。 *** 先生から借りたデバイスで怨霊の位置を確認しつつ、僕は夜道を走る。 奴はこの町の廃工場地帯に向かっているようだ。飲み込んだ双葉さんを消化するまで邪魔が入らないよう、本能的に、こことはまた別の人気がない場所を目指しているのだろう。 「怖くない、怖くない、怖くない……!」 アスファルトを必死に蹴りつつ、時折、口から独り言が飛び出てくる。 無意識に。 自分を鼓舞するように。 決意をした後でも、恐怖が消えたわけではなかった。 それでも── 樟葉が自分を見る目付きが脳裏に焼き付いている。 今、ここでまた逃げたら、僕はもう本当に終わるんだ。 またあんな思いをする方が、怨霊と戦うより何百倍も怖い。 それに── 僕はアスファルトを蹴り続ける。 脳裏を焼く映像が双葉さんの顔に切り替わる。 「それに……ぼくは、彼女と約束したんだ」 デバイスの画面を見ると、怨霊の位置が、もう大分近くなってきたことが分かる。 僕は、現実架装・基礎式、一章四節、“霊気同調”により、“包獄”に侵入する準備を始める。 *** “包獄”内。 差し伸べられた里穂の──姿を借りたモノの手。 ゆっくりと、吸い込まれるように、アカリはそこに自らの手を重ね、握った。 「里穂ちゃん……」 「アカリ……」 「本当に、一緒に行ってくれるの?」 「勿論ダヨ……最期マデ、ズット一緒ニイヨウ」 ソレの声はもはや里穂のものではなくなっていたが、今のアカリが気付くことはない。 「里穂ちゃん、大好き」 「ワタシモダヨ、あかり……」 何かが舌なめずりするような音が空間内に木霊するが、今のアカリが気付くことはない。 「でも、どうしよう……里穂ちゃん」 「ドウシタノ?」 「わたし、また前みたいに……ダメになっちゃった」 「良インダヨ。あかりハあかりノママデ……ワタシハドンナあかりでも大好キダヨ…………」 二人は一歩ずつ、屋上の柵に近付いていく。 その下では、巨大な爬虫類の口のようなものが出現しており、大きく開かれたそこからは涎が際限なく滴り落ちていた。 だが、今のアカリがそれに気付くことはない。 彼女たちは屋上の柵に手をかける。 ──そして、 「その自殺、ちょっと待ったぁぁあああああああ!!」 突如として響き渡った大声に、アカリは弾かれたように目を見開き、里穂の姿をした何かは露骨に顔をしかめた。 二人とも、その声を知っていた。 礎谷終夜──怨霊を祓うことを生業とする除霊師の一員。 そして、双葉アカリの護衛担当。 二人は同時に振り返る。 終夜は霧の向こうからこちらに、全力で駆けてきていた。 「除霊師さん!? どうしてここに……!」 一応は正気を取り戻したらしいアカリが、狼狽した声で問う。 「何言ってんだ、約束しただろ! 一緒に変わるって!! 一人だけ約束破ったら許さないからな!!」 終夜はアカリの十倍くらいの大声で答えを返してきた。 そして、それを受けた彼女の感情は混乱していた。何を感じたら良いのか分からなかった。 「い、意味分かんないです……そこまでしますか? 普通……」 困惑が頭の上で渦を巻いているようだ。 「いや、何で分かんないんだよ!? 君のためにこんなとこまで来たんだぞ!?」 「そんな……何で、わたしなんかのために……」 だって、彼とはあくまで他人同士のはずだ。 いくら自分の護衛担当とはいえ。 そして、いくら護衛担当の枠を越えた約束を交わしたといっても、親友である里穂とは違うのだ。 それに何より、『怖くて怨霊と戦えない』と、彼自身言っていたではないか。 この空間がどれくらい危険かは、アカリも肌で感じ取っている。 こんな事態になってしまった以上、後は“アストラル局”とやらに任せっきりにすることもできたはずだ。 なのに、自身の命を危険に晒してまで、たった一人でアカリを助けに来てくれる道理が、彼女には見当たらない。 「何でって、決まってんだろ────」 しかし。 「君に、死んでほしくないからだよ!!」 その一言を聞いた途端、疑問ははたと消えた。 何だか、それだけで十分な気がしてしまったのだ。 不思議と言葉の内容を理解する前に、胸が熱くなっていた。 感情の情報量が論理を上回って、力ずくで彼女を納得させてしまっていた。 本当に不思議なことに……アカリの胸を満たすこの温度は……赤の他人である少年に向いているはずのこの気持ちは…… ──”わたしは、アカリに死んでほしくないよ”。 ……親友である里穂に抱くものと、酷く似ているのだ。 「何ぼーっとしてんだよ! 僕がこんなに必死に走ってんのに!!」 再び響いた終夜の声に、アカリは我に返った。 「君も少しは──」 咄嗟に、里穂の姿をした何かに視線を向ける。ソレは、表情を憎悪に歪めながら、アカリの手を握りしめていた。 「違う、あなたは……里穂ちゃんじゃない!」 アカリは力の限り里穂の偽物の手を振り払う。 直後、怨霊が真の姿──巨大な黒いトカゲ──を現し、彼女は後退る。 「――走れっ!!」 同時に、終夜の声も聞こえていた。 彼の元に向かいたいという欲求が、瞬時に全身を駆け巡る。 『心が動く』という現象の本質を、アカリは体現していた。 「除霊師さん!!」 アカリもようやく走り出した。 二人の距離が縮まり、やがて手が触れ合う。 瞬間、怨霊の牙と終夜の持つ刃が同時に煌めき──直後に金属的な衝突音が響き渡った。 「現実架装・戦式────」 *** 人間、素晴らしい要素を最適な形で享受するというのは、なかなか難しいことなのかもしれない。 僕、楚谷終夜はそんなことを思う。 素材がいくら優れていても状況が悪ければ、幸福には至れないものだ。 例えば僕の最近の朝のルーティーンを例に挙げてみよう。 美少女が毎朝起こしてくれる、なんていうシチュエーションは全世界の青少年が憧れるもののはずだ。 現状、僕はそのシチュエーションの中にいる。 だが安心してほしい。きっとこれに対して嫉妬に狂うような者は存在しないだろうから。 「除霊師さん、起きてください!」 眠っている僕の上から、少女の声が聞こえてくる。 名前は双葉アカリ。十四歳。 彼女は確かに可愛い。美少女と言って良いほどだ。 しかしそれでも、それを打ち消して余りある最悪な要素がいくつもある。 「大丈夫ですか!? 生きてますよね!? 除霊師さん!?」 一つ、彼女の目が病んだように暗く淀み、その下に濃い隈が刻み付けられていること。 二つ、彼女の身体がよく見ると透けていて、そして実際物体を透過すること。 「やりましたよ! 怨霊、めちゃくちゃやっつけましたよ!! 除霊師さんがやったんですよ!? ほら、起きてください!」 極めつけは性格が悪くて後ろ向き、悲観的で、面倒くさいことばかり言う。 「死んだふりしてたらわたしが最終手段でキスして起こしてくれるとか思ったら大間違いですからね!? ていうかそれじゃ立場逆だし!」 こんなふざけた台詞から始まるのだから、本当にろくでもない朝だ。 今日一日も、またろくでもないまま終わるのかもしれない。 「除霊師さぁーん!!」 ……と、そこまで考えたところで、僕はこのときばかりは、何故かルーティーンから外れた思考を抱いた。 『でも、そんな人の声で始まる朝があっても良いじゃないか』──と。 寝起き直前特有の混乱した意識で、具体的な記憶には結びつかない記憶の残滓が、そう思わせた。 ぼくだって彼女と似たようなものだから。 彼女みたいな人じゃないと、分かり合えないこともある。 ろくでもない一日でも良い。 「除霊師さぁーん! ……って心臓余裕でバックバクじゃないですか! いい加減起きないとキレますよ!?」 地道に、また一歩一歩、進めていこう。 目標を本当の意味で共有できる道連れがいるというのは、何だか安心するものがある。 多分、今日からは一人じゃない。 |
標識 FRRNX1U8ZU 2023年01月01日(日)12時58分 公開 ■この作品の著作権は標識さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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