とある盗撮魔の日常 前編
<<一覧に戻る | 作者コメント | 感想・批評 | ページ最下部
 列車に乗り込み、お目当ての女の子の傍にそっと腰を下ろす。女の子はスマートフォンに夢中でこちらのことなんか眼中にない。いくら冬だからといって防寒用のマスクにニット帽、眼鏡という出で立ちは不審者に見られても仕方あるまい。おまけにこれから行う行為について僕は少々の後ろめたさを感じている。「犯罪行為である」と認識した上で行おうとしているのだ。
「…………」
 こうして機会を窺って女の子の横顔を覗き込むという行為も傍から見たら不審者丸出しだ。しかし、今日はあいにくの日曜日(この使い方は誤用だが……)。平日の朝と違って通勤ラッシュもないので、車内はがらんとしている。
(……よしっ、今だっ!)
 そう心に決めて僕はシャッターを押す。この行為のために買った一万くらいのデジカメだ。今の時代はこれくらいの値段のものでも相当鮮明な写真が撮れるのだから、この時代に生まれた幸運に僕は感謝すべきなのだろう。
 女の子は相も変わらずスマホに夢中。隣に座ったのが男か女かも分かっていないみたいだ。この無関心さのおかげで僕はこの行為に及べるのだが、危機意識のあまりの無さに心配したくもなる。
(もうちょっと周りを見た方がいいよ……?)
 と、心の中で声をかけるのだ。
 やや金色の染めた髪の毛をショートボブにしている女の子。目はクリっとしていて可愛い。僕はもう少し、この女の子の傍に寄って体温を感じたくなるが、止めておく。犯罪行為は一つで充分だ。
 手元のデジタルカメラをポケットの中で握りしめる。彼女のキュートな顔写真が入った宝物だ。自宅でじっくり吟味することにしよう……。

 いつからこのような行為に興奮を覚えるようになったのか、それは分からない。ただ、性的嗜好が他の男と違うことについては、少なくとも高校時代には自覚していた。
「ほら、見てみろよ」
 そう言って差し出される旧友の手には人気者らしいAV女優が、こちらに媚びでも売るような笑顔を浮かべたパッケージ。僕は「ふーん……」と素っ気ない反応を返したように記憶している。友人も僕の反応を見て、それ以上話すのを諦めたようだった。申し訳ない気持ちが先に立ったがしょうがないではないか。
 僕は商業用に飾り立てられた女、つまりはAV女優に何の関心も抱けなかった。
「やっぱりこれだよな」
 先ほど撮った画像をパーソナルコンピューターに取り込む。一覧が表示され、女の子がスマホに夢中な様子が写し出される。この瞬間が僕はたまらないのだ。お前の知らないうちにお前を撮ってやったぞ、というような、背徳感のようなものが僕を包み込む。同時に、他の人にはできない、自分が何か特別な人間になったかのような錯覚に酔い痴れる。
 女の子の顔はブレずに撮れていた。初めの頃は緊張のあまり、手に汗をダクダクとかいてシャッターを切ったものだった。それが今はどうだ。素人の技とは言え、こうして落ち着いてシャッターを切れているじゃないか。
 何の自慢にもならないのに僕は誇らしくなった。
 誰もいない室内。もう少しこの、犯罪者めいた気持ちに浸っていたかったのだが、この部屋も賃貸なため、月々家賃がかかる。三万五千円。決して高くはない価格だが、何もせずにお金が入ってくるような、不労所得があるわけでもない。
「……寝るか」
 僕は一介のフリーター。この、他人に言えない趣味を続けるためにも、とにかく働き続けなければいけいないのだ。

 僕はとある清掃会社に勤め、カルチャーセンターにおいて器材の運び出しやら教室のセッティング等の仕事を受け持っていた。清掃業なら他人と喋らずに、黙々とやっていればいいだろうと清掃会社に応募したのに、配属されたのはこの、別の部署だった。初めは納得がいかなかったが、すぐに慣れた。そんなに強い気持ちでもって清掃業を志願していたわけではないのだから。
 それに勤め先のカルチャーセンターは百貨店の屋上に位置している。百貨店と言えば女性の店員さんも数多く働いている。ただの清掃業と比べ、目の保養になるものがそこかしこに居るのだ。嬉しくないわけがないじゃないか。
 朝の一連の仕事を終えた後にはパンフレット配りという仕事が待っている。百貨店内の決められた位置にパンフスタンドがあり、パンフが減っていれば補充するのだが僕はこの作業が好きだ。百貨店内を歩き回れることは息抜きにも繋がるし、職場以外の人間を目にすることができるからだ。
 つまりは、若くて、綺麗な女性の店員さんたちだ。
 僕は屋上から地下に向かって歩き出した。やはり女性の店員さんたちが真剣な眼差しで仕事の資料を見たり、商品を補充したりしている。こちらに目を向ける人なんていない。 誰も僕を意識している人なんていないのだ。余暇には女性を盗撮している、こんな人間なのに……。
 その思いが胸にあふれ、思わず笑みがこぼれる。
 地下まで行ったら宝石品売り場だ。時計にネックレス。売られている商品も高価だが、働いている女性たちはもっと高価なように見える……。
 誰もが小奇麗な格好をして働いている。肌に張り付くようにスーツを身にまとい、働いているOLさんたち。その脚線美まで透けて見えそうだ……。
 いかんいかん、あまり眺めていたらいくらなんでも疑われてしまう。僕はそそくさと宝石品売り場を後にした。
 化粧品売り場はどうだ。皆一様に同じ制服を着ている。白の上に紫の線が入ったやつ。CMで流れているやつだ。そう思うと、この光景がやたらに貴重なものに思えてくるから不思議だ。カメラに収めたい……そのような願望を抱くのに時間がかかるはずもなかった。
 なぜなら僕は盗撮魔なのだから。しかし、その事実を知っているものはこの売り場で僕一人しかいないのだ。
「ふふっ……」 
 思わず笑みがこぼれてしまう。そんな僕の様子をお客さんであるおばさんがギョっとした顔をして通り過ぎて行った。いかんいかん、ここでは一般人を演じなければ。
 ちょうど怪獣が現れた時に変身しだす特撮ヒーローみたいなものだろうか。ああいうヒーローも普段はそこらの会社に勤めるサラリーマンだったりする。
 まあ、僕は正義の味方でもないのだけれど……。
 たくさんのお姉さん方を尻目に僕は仕事の休憩室へと戻って行った。

「うおお……よく撮れてるじゃないか」
 職場の休憩スペースで撮影した動画を見て、思わず呟いてしまった。映像には化粧品売り場で働く女性の後ろ姿。ほっと一息入れているところを僕は背後からスマートフォンで撮影したのだ。
 僕ら清掃員の休憩スペースとは別に百貨店で働く従業員の誰もが利用できる休憩所がある。汗臭い僕らの休憩所とは違い、その休憩スペースには実に多くの、女性の従業員がくつろいでいる。スマホをいじったり、食べ物を食べたりして皆各々の時間を過ごしているのだ。
「これは一生の……宝物になるかもしれないな」
 動画を再生しつつ、僕は呟いた。満足感を覚えつつも、この先、徐々にエスカレートしていくんじゃないかと不安でたまらない気持ちも当然あった。
 今日はスマホで撮影したが、デジカメで撮影した写真はすべてパソコンに取り入れてあった。こうして自宅に帰って見返してみれば、ただ女性の全体像を撮ったに過ぎない。そして、僕も、こうして改めて撮った写真を確認する頃には、実際に行為に及んだ頃の興奮など忘れ去っている。一体なぜ、あんなにも興奮して事に及べたのか、脳が一種の興奮状態にあったのか? 分からない。
「……今はおそらく賢者モードというやつなのだろう」
 明日には明日の風が吹く、ではないけれども、きっと明日も現場に出たら興奮してくるだろう。脳内麻薬というやつだ。僕の普段の生活には刺激がない。働いて、食って、寝て、の繰り返しだ。世間の人等も同じかもしれないが、一体なぜ退屈を感じないのか、不思議でしょうがない。
「愛する人が居れば違う……のか?」
 思わずそんなことを呟いてしまう。結婚して家族を持つこと。そうすれば、人は犯罪などには走らないのではないか……確証はないけれど。
「まあ、今のところ、僕にそのような予定はないし……」
 というわけで、今のところ、僕には夢中になれるものと言ったら盗撮しかないのだ。これをしている時だけ、生きている実感を得られる……。
 これ以上、思考を巡らすと完全にヤバい人だ。
 僕は風呂に入って、ご飯を食べ、寝る準備をした。明日も仕事だ。無意識に仕事をしている時だけ、僕は「普通の人」でいられる……。
 そんなことを思い、僕は眠気が訪れるのを待ち続けた。

「こんなにたくさん……仲間っているものなんだなぁ」
 ネットには実にたくさんの趣味嗜好を持った人間がいる。こうして女子高生の画像を掲示板にアップロードしている連中も、普段は真面目な会社員だったりするのだろうか。
 アップされている女子高生の画像には顔にボカシが入っているものや、そうでないものもある。個人的にはボカシが入っていないものがタイプだ。写真の投稿者は足元から、上を見上げるように、つまりはスカートの中身が見えるか見えないか、その瀬戸際を狙ってシャッターを切ったように思える。完全にスカートの中が見えているものはダメだ。掲示板の管理者に削除されてしまう。あくまでもこの掲示板は女子高生の日常風景を投稿する、という趣旨に則って運営されているのだ。投稿するなら、それを忘れちゃいけない。
「僕の投稿した画像はっと……」
 あった。書店で、雑誌を丹念に見ている女子高生を背後から撮影したものだ。こうしてデジカメを持って街を徘徊するようになってから、初めて撮った、いわば僕の処女作とも言える写真だった。
 ボカシはもっと濃く入れた方がいいですよ。所在地が分かってしまいます(笑)
 写真にはこうしたコメントが投稿されていた。確かに背景には書店の新刊情報を載せたポスターやらカレンダーやらがぼんやりと映っている。これでもウィンドウズの標準ソフトを使ってボカシを入れたつもりだったのだが……足りなかったか。
 他の投稿者の写真を見てみると確かに被写体以外の部分については黒く塗りつぶされていたり、濃い透明色で背景が丸きり分からないように工夫されていた。
 いやはや、ここまでやらなければならないのか……。
 僕は愕然とした思いでそれら、他の投稿者の写真を巡回していた。
 投稿者の中には、単に写真として完成度が高いようなものを投稿してくる人もおり、そうした写真を見ていると僕はハッとしてしまう。単なる盗撮写真として見ていたものが、大げさかもしれないが、芸術作品のように思えてしまう瞬間があるのだ。
「この写真は特に良いなぁ……」
 ちょっと憂いを帯びたような女子高生の表情。彼女は電車の優先席に、短いスカートを穿いているにも関わらず、足を組んで座っていた。写真の投稿者がカメラを構えるような仕草を、きっとこの女子高生の前でやっているのだろうけれども、物思いに沈んでいるのか、きっと彼女は気づきもしなかったのだろう。そこを投稿者がパシャっとシャッターを切る。その瞬間が僕にはありありと想像できた。なんたって僕は同業者なのだから。
 素敵な写真ですね。
 このようにコメントを残し、僕は画像を保存した。もちろん、自分のお楽しみのために……。
 目は口ほどに物を言う、というような諺があるが、僕は顔も、それに当てはまるのじゃないかと思っている。被写体の表情を見ていると、この子、今、落ち込んでいるのかな? と思わず心配したくなる瞬間が僕にはあるのだ。単に馬鹿笑いしている女子高生より、何か悩みを抱えているような表情だったり、真剣な表情だったりする女子高生を僕はカメラに収めたいなぁ……。
 などとぼんやり考えて掲示板を巡回しているうちに時刻はもう夜の十時。気づけば身体もガタガタ震えているではないか。寒さをこらえてネット巡回している自分に思わず苦笑しつつ、そろそろ切り上げ時かと考える。
 僕の処女作。背後から撮った写真だから当然のことながら彼女の表情は見えない。見えないからこそ、いいじゃないか、という意見もある。
 この女の子は間違いなく美人ですね!(笑)
 画面をスクロールしていくとこんなコメントを見つけた。同志よ。などと声に出さず内心で呟きながらも、しかし、今度こそは顔撮りに挑戦したいな、と思う僕がいた。

 とは言ってもいくらなんでもそればっかり、つまりは盗撮ばかりしていては生活が成り立たない。今現在、一人暮らしの僕。実家は近くにあるのだが、家で思いっきりオナニーがしたい!(笑) という男性特有の悩みから、僕は実家を出たのだ。
 ……というのは冗談だけれども。
 家で思いっきりオナニーがしたい、というのはとあるお笑い芸人のウィキペディアに一人暮らしを始めた理由として載っていたからだった。今回、それを拝借させていただいた。
 とはいえ、一人暮らしに憧れていたのは事実だった。家賃三万五千円の学生が住むようなアパートだが、その価格の割に小奇麗な空間なので僕は気に入っている。
「とはいえ、住人の中では僕は最年長っぽいんだよなぁ……」
 思わず、そう呟いてもみる。上の住人や隣の住人とは直接は顔を合わせたことはないけれど、何かの拍子に他の住人の姿を目撃することがあるのだ。会社や学校からの帰りとかで、たまたま彼らが部屋へ入室する瞬間を目撃することがあるのだが、皆、いかにも学生風だったり、大学出たての新入社員風情だったりするのだから、必然、僕が最年長だと思い込んでも仕方がないというものだろう。
 冬の季節、僕は相も変わらず同じ会社に勤め続けていた。このカルチャーセンターに配属されてからかれこれ七年の月日が経過している。元々はとある夢を追いかけるために(この夢については後日、機会があったら話すことにしようか……)始めたバイトなのだが、いつの間にやら居心地が良いのか何なのか、自分でもよく分からないうちに続けてしまっていた。続けていれば一応、少額だが毎月お金は入ってくるし、ともかく一人暮らしを継続するためには毎月、決まった額のお金が必要なのだ。
 当たり前だけれども。
「星野さんも給料の割りには高い所に住んでますよねぇ」
「そうだけど……仕方がないんだよ」
「もっと郊外とか、探せば安い所あると思いますよ」
「うーん、そうなんだけどねぇ……」
 相変わらず了承を得ない返答をする人である。
 ここは休憩室。タコ部屋という言葉があるが、まさにこの休憩室はその言葉にふさわしいのではなかろうか。狭い部屋にして換気も行き届かない部屋。仕事の書類やら何やら、とにかく雑多な物が溢れていて、中には冷蔵庫もあるのだから、実際、僕らが動けるスペースは四畳半もないのではないか。よくこんな所で休憩できるなぁ……と我ながら飽きれてしまうのだけれども、七年という歳月がそういった感覚を我々から奪ったのだ。月日が経てば人は慣れる。
 星野さんは相も変わらず、何を考えているのか分からない表情を浮かべて佇んでいる。いや、無表情と言ってもいいかもしれない。同じ空間に、つまりはこの職場に数十年は居るという星野さん。今現在、六十歳手前、独身。二十代の後半にこの職場にやってきて以来、ずっと同じ仕事をし続けている。ちなみに正規の社員では、ない。
「ほんとですよ、星野さん。探せば都内でも安い所はあると思いますよ」
 こちらは森岡さん。背が高くてヒョロっとしている。それは僕と同じ体形と言えなくもないけれども、森岡さんの方が、いわゆる「骨と皮のみ」といった体形をしていて、何か病気に罹っているんじゃないか? と疑われるほどに痩せている。けれども、本人は見るからに至って健康そうだ。
 森岡さんはとある有名大学を卒業しているのだけれども、ずっとフリーターとして飯を食っている。時々、学歴なんかの話になると「お前は何も知らないな〜」と僕を馬鹿にしてくるのだけれども、三十代の後半にもなってずっとフリーターで、就職試験の一つも受けたことのない人に言われたくはないと思う。
 ていうか、三十代の後半にもなれば学歴じゃなくて職歴だろと思う。
 口に出しては言わないけれど。彼、怒る時はすごく怒るから。職場で顔を紅潮させるほど怒るとか、感情をむき出しにするのは常識外だ! と言いたいところなんだけれども、マトモに働いたこともない人だから分からないのだろう、と思ってここだけの話、僕は留飲を下げているのだ。
「ふふ……」
「ん? どうした?」
「あ、いや、なんでもないです。」
 内心で思っていることに自分がウケそうになっている。まずい、まずい。
 森岡さんは契約社員である僕とは違って単なるパートである。主婦が片手間でするような……。だから、稼げる額は月に10万円、いくかいかないかくらいではないだろうか。具体的に聞いたことはないのだけれど。それで、一人暮らしをしているのだ。本人の話によると食事には金をかけないということだし、それはつまり、食べ物には興味が無いとのことだから、日頃は食パンに蜂蜜をかけて食べたり、納豆は一日2パック食べたりして栄養を摂取しているらしい。
 食事とは栄養を摂取するためのものだ、と以前偉そうに豪語されたことがあるのだけれども、ともかく、その主張を地で行くような食生活をしているらしい。結構なことだ。
 星野さんも星野さんで昼食はこの、クソ狭い休憩室で摂ることを常としているし……。階下に食堂があるのにも関わらず、だ。見知らぬ他人の食べている所を見られるのが嫌らしい。
 誰もそんなに、他人を気にしていないと思うのだが。
 ともかく変わった人のオンパレード。それがこの職場の人たちなのだ。
 まあ、僕も裏では「盗撮」なんかしているのだから、人のことは言えないのかもしれないが……。

「それじゃ、よろしくお願いします」
「はいっ!」
 背筋を伸ばして、緊張気味に僕は返事をした。
 返事の相手は伊藤さんという、三十代後半の女性である。直接、本人に年齢を聞いたわけではもちろんない。女性に年齢を聞くのは失礼……といった常識くらい、この盗撮魔である僕も持ち合わせているのだ。
 ……自慢にもならないけれど。
 彼女の年齢は森岡さんに聞いた。なんでもこの職場を一旦辞めて、正社員として就職したらしいのだが、三年くらい前に出戻りして働いているとのことだった。正社員をしている間に何かあったのか? 別に興味はないけれど。
 フロアを見渡せば女性のパートさんが皆、テキパキと動いて仕事をしている。中でもこの伊藤さんは「もう少し、肩の力を抜いて仕事してもいいんじゃないの?」と声をかけたくなるほどに、テキパキとし、いや、全体的に動きが固いのだ。
 それは伊藤さんがこの職場に出戻りして以来、一貫して続いていることだから別に緊張してのことではないと思う。素のままで、とにかく動きが固いのだ。
 僕への指示を飛ばした伊藤さんはせかせかと持ち場へと戻っていく。セミロングくらいの髪の毛を後ろに一つに縛っている。その髪の毛は少々茶色っぽいのだが、その茶色さは地毛というか、自然体としての茶色、という感じである。
 ここだけの話、僕は少々伊藤さんのことが気になっている。もちろん、盗撮対象としてではなく、その……色恋の対象として。
 伊藤さんも僕に対して「仕事、お願いします」と頼んできたり、その仕事をやったら「ありがとうございます」等と言った朴訥な返事しかしないのだけれども、その瞳を見るとなんとなく僕に対して悪い印象は抱いていないように思う。
 悪い印象を抱いていない、イコール好き、というわけではもちろんないだろうけれども。
 楽観しすぎだろうか? よく分からない。今の今まで色恋沙汰とは無縁だったもので。
 僕は伊藤さんの姿を視界の端に捉えながら、黙々と作業をした。好き……とはいかないまでも気になる人が職場に居るのは良いことだ。自分はまだまだこの職場で働き続けるだろう、といった確信に繋がるのだから。
 伊藤さんは相も変わらず、テキパキと働き続けていた。表情も一切変えないため、実のところ、何を考えているのかわからない。それでも、彼女が、どちらかと言えば「可愛い」部類に入る女の人だという事を僕は分かっていた。森岡さんに彼女をどう思うか、つまりは恋愛対象としてどう思うか? と冗談交じりに聞いてみたことがある。
「勘弁してくれよ」
 というのがその答えだった。あれは絶対に面倒なタイプの女だよ、とも言っていた。僕にはそこまで判断がつかない。童貞だからであろうか?
「ともかく……」
 伊藤さんはいい女だ!
 仕事を終え、更衣室にて着替えている最中に、そう確信した僕であった。
 
 満員電車――人によっては毛嫌いする向きもあるだろう。僕もそうだ。できることならば避けたい。しかし、職場を東京に選んだ場合、どうしても乗らざるを得なかった。
 時刻は七時を少し過ぎたところ。けれども、ここ――小田急線の車内は相当に混雑してきていた。七時の段階でこれだから、これよりもう少し遅い電車に乗ったならば、更なる混雑が予想されるだろう。
「やれやれ……」
 と思わず呟きたいのが人情というところだが、誰もが無言な車内、独り言めいた呟きは抑えておくのが筋というもの。
 車内にはいつものOLさん、くたびれ気味のサラリーマン、それに学生などが乗っている。いつも決まった乗車口から乗り降りしているので、周囲の乗客も自然と決まったメンツになってくる。
 もちろん言葉など交わしたことはないけれど。僕が彼らに対し、一方的にシンパシーを抱いているだけだ。
 そんな中、僕は一人のOLさんに狙いをつける。イヤホンをして、つい先ほどまでは手元のアイフォーンを見ていたのだが、今は目をつぶって電車の揺れに身を任せていた。かなりお疲れのご様子。朝からご苦労さん、と思わず声でもかけたくなるほどだ。
 そんな彼女の横顔をスマホでパシャリ。ネットで何か検索でもしているフリをしながら少しずつ、カメラのレンズを彼女の横顔の方に向けていくのだ。
 周りの乗客の事を気にかけながら。
 不審な動きをしている人物がいる、と周りに気づかれてはいけない。僕はこの時、いつも冷や汗をかきそうになるが、周囲の様子を伺うと大丈夫だ、と安心できる。
 スマートフォンという機器の開発は本当に、盗撮魔としてはありがたい。僕は内心でスティーブ・ジョブズに感謝したくなる。もうこの世にはいない人だけれど。
 周りの乗客は各々、スマホの画面を注視していて、僕に注意を向ける人物なんていやしない。これは社会的に問題なのではなかろうか? と思うけれども、僕一人が問題提起したところで社会なんか早々変わらないのだ。
 僕は僕なりのスタイルで生きていけばいい。
 彼女は相も変わらず目をつぶってイヤホンから流れてくる音楽に身をゆだねているようだった。彼女の肩から下げている鞄には後ろから、物でも入れられそうなくらい大きな空間が空いている。僕はそこに自宅で書いてきた紙切れをそっと忍ばせた。いわゆるラブレターだ。
 僕はほくそ笑みながら、電車の揺れに身を任せていく――。

 好きです。付き合ってください。
 などと書けば一般のラブレター(もちろん、僕はラブレターなんて書いたことはない。ラブレターなんて書くほど、女というものに近接したことがないためだ)になってしまうが、僕は彼女と付き合いたいだとか、交接したいだとか、思っているわけでは決してない。
 ……と言い切れるくらい自信があるわけではないけれど。けれど、今すぐに彼女とどうこうしたい・なりたいと思っているわけではないのは本当だ。
 彼女は代々木上原という駅で降りていく。ここで千代田線に乗り換えるのだろう。眠たげな眼を擦りつつ、彼女は電車を降りて行った。自分の鞄に何やら怪しいものが入れられたなどと疑うこともなく。

 小田急線の〇〇駅から乗車しましたね? いつも見ていますよ(ハートマーク)
 このような内容の事を昨日、僕は酒を飲みながら書いたのだった。ちょっぴり自分のオリジナルのイラストも添えて。こういったイラストを添えたり、男なのにハートマークを書いたりして自分をちょっと気持ちの悪い男に見立てるところに僕はセックスアピールを感じる。
 彼女に対しての。
 いや、セックスアピールというよりもなんだろう、僕のことに気づいて! といった存在の主張を感じるのだ。どうにも、あなたのことを見ている男が一人いますよ、と否が応でも伝えたい心理が僕にはあるのだろう。
 ……なら、彼女が好きなのだろうか? いや、それとはまた違う、と山手線に乗りながら僕は考える。
 新宿から池袋行きの山手線に僕は乗っている。小田急線は乗車時間が長いから、先ほどのようなロマンス、ではなく、気になる女性とかを見つけることができるがしかし、山手線ではそうはいかない。乗車時間は約八分と言ったところだ。上部に設置されているモニターを見れば分かることだ。
 山手線の乗車率はそこそこと言ったところだ。人が密集状態になる小田急線とはえらい違いである。時刻は七時半と言ったところなのに、乗客が互いに密着することもない。これなら痴漢魔はさぞやりにくいことであろう。埼京線だとかは朝のラッシュがとんでもないものだとどこかで聞いた。僕が痴漢魔だったら当然、埼京線を選ぶことだろう。
 ……ってそんなことはどうでもいい。小田急線内で出会った彼女について考えていたんだった。
 池袋に到着。他の乗客につられるように僕も降りる。しかし、僕はなぜ彼女にあのような行為、つまりは手紙なんかを鞄に入れたんだろうと考える。彼女は別段、そこまで美人でもない。年齢的にもきっと大学出たての24歳くらいだろうか、そこまでOL歴が長いようには見えない。奥二重の目に白と黒のチェックのパンプスを穿いている。
 チェックのパンプス!
 珍しいものなのだろうか? 女性のファッションに詳しくないからアレだけれども、僕はこの点に反応したと見た。僕というか、僕の動物的な部分、というと分かりにくいか、つまりは僕の陰部は彼女の履いている靴に反応したのだ! フェチズムとでも呼ぶべきもの……。
 僕はいつものように池袋のキヨスクで新聞を購う。しかし、この売店の兄ちゃんもアレだな、他に何か仕事ないのだろうか? 売店はオバちゃんがやるのが一番なのになぁ……。僕は職場に到着した。

 昼食を食い終わると事務所では星野さんが飯を食っている。いつもの、ファミリーマートで購入したと思われる弁当。階下にコンビニがあり、そこでセルフで温められるというのにそれもしない。今は冬。星野さんは冷気によってすっかり冷たくなった弁当を食べている。僕は星野さんのこういうところに、今の今までずっと独身だった理由があるのではないかと疑っている。
「星野さん…星野さんは女性の脚に反応……というか、女性の脚を好きだったりしますか?」
「もちろんだよ! 大泉君!」
 爛々と輝きだす星野さんの目を見て、僕は言うんじゃなかったと後悔しだすがもう遅い。
「特に女性のパンスト…パンストを穿いた脚が最高だね!」
 特に森さんの! と星野さんの言葉は続いていく。森さんというのはこの職場に居る、40代くらいの女性である。僕から見ても確かに昔は綺麗だったんだろうな、と思わせる顔をしているのだ。
「…………」
 それを聞く森岡さんの顔は無表情……というか、どう反応したものか、判断に困っているような表情だ。
 いつもの、お決まりの会話だ。僕はもうかれこれ、この職場に七年在籍していることは先に述べた通りだ。だから、僕はおよそ七年間もこうした、無意味極まりない会話を続けていることになる。
「それでね……」
 星野さんはなおも話し続ける。森岡さんは苦笑交じりにその様子を眺めるだけだ。僕はと言えば、適当に相槌を打ったりしているが、もちろん真面目になんか聞いちゃいない。星野さんの声は右耳から入ってすぐに左へと流れていく……。
 まるでルーティン作業だが、星野さんが満足すればそれでいいと思っている僕がいる。星野さんはまだ六十手前だが、独身で、家にはもちろん人っ子一人いない。そんな生活を寂しく思う時もあるだろう。そんな時、話の受け手が一人でもいれば、どんなに救われるか、僕も想像上だが、分かるような気がしているのだ。
 だからこれは介護なのだ、星野さんにとっての。
「大泉君も女性の脚が好きなんだろう! ええ!」
「……好きですよ。パンスト云々はちょっと分からないけれど」
 そうかぁ……とやや落胆顔で呟く星野さん。そりゃ分からないって。
 気づけば星野さんはコンビニ弁当をほとんど食べ終わっている。冷たいだけの、無味乾燥な弁当だが、星野さんは黙々と食べている。星野さんは二十代の後半からこの職場に居るから、かれこれ三十年近く、こういった昼食を続けているのか? 昔は外にも食べに行っていたみたいだが、ここ二十年くらいはずっとコンビニ弁当なのだとか。よく飽きないものだ。
「ん〜……やっぱり森さんは良いなぁ……」
 そんなに気になるなら話しかければよいのに。
 僕も、そして森岡さんも星野さんがこの職場の、女性従業員と話している姿というのをあまり見ない。女性従業員だけじゃなくて、男性従業員とも星野さんは話をしない。いや、実際、しないのではなくできないのだろう。星野さんくらいの年齢なら、もう妻子が居て当たり前なのだから。そういった男性社員も居るのだが、星野さんの事を変人のように思っているのか、自ら率先して話しかけてくる社員は居ないようなのだ。
「可哀想な星野さん……」
「え? なんか言った?」
「あ、いや、なんでもないです」
 そろそろ仕事再開の時間である。僕は気合を入れなおし、午後の作業に取り組んでいった。

 ある日曜日の午後、僕はよく利用するスーパーで食料品を購い、帰りの電車に乗ろうとしていた。日曜日とあってホームにはあまり乗客はいない、そんな午後だった。
「……あっ」
 目の前には木曜日の朝(なんと僕は彼女といつも会う曜日まで記憶していたのだ!)、いつも会う、あのチェックのパンプスを履いた女の子。女友達とだろうか、スマホを耳に寄せ、楽し気に話している。
「…………」
 こうして見ると一般の大学生に見えなくもない。季節は夏とあって、当然のことながら薄着だ。肩を出したピンクのシャツを着ていて、その健康的な肌の色に僕は思わずドキマギしてしまう。
 彼女はそんな僕の視線に気づかずに通話を続けている。何か楽しい約束でもするのだろうか? 現在地……つまり今のホーム名を相手方に伝えているようだ。漏れ聞こえてくる会話から、そのようなことが推察される。
「じゃあ、一旦家に帰ってからでいい? またかけるね〜」
 おっ、なんだ、今から家に帰るのか? 邪な気持ちが僕に生まれる。このまま後を付けてってみようか……。どうせこの後、すぐに帰ったところでやることなどないのだから。憂鬱な顔をして明日の出勤を待つだけだ。
「よしっ!」
 付けてってみよう。ちょうど電車も来たところだ。彼女は何気ない顔をして小田急線に乗り込んだ。僕も一つ隣の乗車口から乗り込む。彼女はイヤホンをしてスマホを眺めたり、時折車窓から景色を眺めたりするばかりで僕の方に注意を向けることもない。
……楽しみだな。
 果たしてどんな家に住んでいるのか。付けてって別に何するわけでもないけれど、退屈な日曜日が少し変化しようとしている、その予感に僕はワクワクし始めていた。

(……おいおい、本当にこの坂登っていくのかよ……)
 内心の動揺を悟られないように僕は彼女に付いていく。
 小田急線生田駅で下りた彼女は商店街を突っ切り、住宅地に続いているだろう坂道を登り始めたのだ。付近には昔からあるような八百屋やらクリーニング屋やらが点在している。自分の最寄り駅からわずか一駅しか離れていないのに、僕はこの辺りのことをよく知らない。地理に興味がないからかもしれない。星野さん辺りは東京の清瀬市というところで生まれ、一人暮らしをし出して都内のアパートを転々としているからか、地理には詳しい。また、都内の地理に多大なる興味を寄せていたりする。
 僕にはその手の興味がまるでない。理由は色々と考えられそうだけれども、単純に面倒くさいのだろう。それにそんなに動き回らなくても僕の住む付近にはコンビニもあるし、スーパーもある。地図を片手にウロウロするなんて無駄すぎる。
 合理化こそが僕の人生だ!
 ……って決まったわけではないけれども、ともかく、普段の僕は非合理に思える行動はとらない主義だ。
「……ってそんなことは今はどうでもいいか」
 彼女は少しも疲れていないような顔で(といっても後ろ姿を追いかける僕からじゃ、彼女の顔は見えないのだけれども)ずんずんと登っていく。日頃から歩き慣れているからか、速度を落とさない。一方、僕はと言えば結構音を上げている。時刻は夕刻といってもいい時なのに、気温は一向に下がらない。照り付ける太陽に、こうして歩いている間にも汗はダラダラと流れてくる。
 彼女はまだまだ登っていく。通りすがりのカップルを見かけるが、ヒーヒー言っている僕とは違って笑顔にあふれている。男女ともに。一体どこまで上がるんだ!? と思ったそばから彼女は僕の視界から姿を消す。やばい、見失ったか!? 実は怪しまれないように、慎重に慎重を重ねて距離を取っていたのだ。その距離が今は命取りだ。僕は駆け出す。彼女が曲がったと思われる角を曲がる。
 ……居ない。
 付近には森やら畑やらの他、一軒家がポツポツと建っている。すると彼女の住まいは一軒家か?
「……完全に見失ったなぁ」
 せっかくここまで来たのに。後ろを振り返ると今まで歩いた道が延々と続いているように思われる。ここからまた駅までのルートを辿るのは至難の業というか、今まで歩いてきた道のりを思い出すとご遠慮願いたいのだが。
 ともかく彼女の、おおよその住まいの位置が分かったのは収穫である。できることなら確実に分かりたかったけれども。少々、距離を取り過ぎたな……。
 それにしてもこんな坂道を彼女は毎日、会社から帰るたびに登っているのだろうか? ご苦労なことだ。
「ご苦労様、と次回の手紙にはしたためるようにしよう……」
 そう呟き、僕は帰宅のルートを探した。

 帰宅のルート探しは思ったより難航した。適当に歩いてりゃ、線路が見えてくるだろう。線路沿いに歩いていけばどこかの駅に着くはずだ。……と思っていたのだけれども。
「一向に着かないじゃないか!」
 と、思わず叫びたくなるほどに周りには田んぼしかない。まさか、神奈川にこんなところがあるなんて。意外と田舎なんだなぁ……と感心している場合ではない。
 早く家路につかなければ。明日も仕事なのだ。
 焦れば焦るほど僕は森林という名の迷宮に入り込んでいく。上を見上げれば緑一色だ。虻だの何だの、よく分からない虫たちがブンブン飛んでいるのが聞こえる。散歩するには最適なコース・景色なんだろうけれども、今はそういった景色を味わっている暇などない。とにかくあるのは焦りだけだ。
 昔、見知らぬところで迷子になって必死に「お母さん!」と呼んだ記憶が蘇ってきた。いや、実際にそういった出来事があったかどうかは不明だが(!)、ともかく、なんだろう、隣のトトロに出てくるメイという女の子が心細げに泣いているあの感じ、の感情を今の僕も味わっていると言えばいいだろうか。
 しかし、メイちゃんはまだ小学生に上がる前の女の子だろう。30過ぎの僕が「お母さん!」と大声で泣きわめくわけにはいかない……。
 気づけば街道に出ていた。よかった、助かった。森林の中よりもまだ見通しが良いのではないか? 中学校がある。一人の坊主頭の中学生とすれ違った時、僕に訝し気な視線を投げかけたような気がした。いや、絶対に投げかけた。
 急いでいて、必死な形相をしていたからであろうか? そんな気がする。盗撮を始めてからと言うもの、他人の視線に敏感になったような気がする。精神衛生上、よろしくない、やめた方がいい、と誰かが僕に言ってくれたら僕は即座に今持っているデジカメを地面にぶつけて壊すだろう……という事は今のところ、する予定はなし。せっかくできた趣味なのだから。
 辺りがすっかり暗くなった頃、僕はようやく稲田堤という駅に到着した。乗車する人たちの顔には何の表情も浮かんでいない。きっと何百回とこの駅を利用しているので、この駅を利用することに何ら感情を動かされないのだろう。僕はと言えばもちろん、違う。
 ヤッター! と声を大にして叫びたいところだけれども、それをしたら先ほどの中学生が投げかけたような視線を、いや、それ以上に訝し気な視線を乗客全員に投げかけられる恐れがあるのだから、止めておいた方が賢明だろう……というのはさすがの僕でも分かるというものだ。
 これでも30過ぎているのだから。

「それにしても今日は疲れたな……」
 などと呟きつつも僕は今、風呂から上がってゆっくり寛いでいるところ。
 手元にはあの子へのラブレター。あの子というのは当然のことながら、今日の夕刻頃、後を付けて行った彼女のことだ。僕は今度食事へ行きましょう、などと適当な文句を書き連ねていた。本当に行きたいわけではなく、彼女がいつかこの僕の存在に気づいてくれたら、そうして、少しでも恐怖を感じてくれたら、などと思っているのだ。
 僕が彼女を認知していて、彼女は僕の存在のことなど微塵も知らない。相手からは見えていなくて、僕は相手の事を認識している。この状況がとにかく僕を興奮させるのだ。なぜ、こんな性癖になってしまったのかは分からないけれど……それは神のみぞ知ることだ。
 僕は自分の携帯の番号とメールアドレスも書き添えた。本当に連絡が来るなんて思っちゃいない。前述したように、彼女がこの番号に電話をもしかけてきたら……その状況を妄想するのが楽しいだけだ。実際にかかってきたら、嬉しいには嬉しいけれど、吃驚する気持ちの方が大きいだろう。
 夜が更けてきている。明日も仕事だが、今日起きたことの興奮と、手元の手紙を書き連ねていくにしたがって徐々に高まってきた興奮とでとてもじゃないけれども、寝られそうにない。けれども、寝ないと明日の仕事に響く……。
 僕は食後に飲んでいたウーロンハイをさらにもう一杯追加して、無理やり寝床に入った。

 次の木曜日も彼女は相も変わらず同じ乗車口から乗り込んできた。付近に居るのはいつも同じ男なのに(当然のことながら、それは僕)彼女は気にする素振りもない。少しは気にしてほしいなぁ……といった気持ちが働くが、周りの乗客からターゲットを厳選し、盗撮やら尾行やらをしている僕の方がおかしいと言えばおかしいか。
 そんな、自らのみの議論に決着を付けつつ、今日も僕は(正確には僕と彼女は)小田急線に揺られていく。相も変わらず、朝の乗客は誰も口を開かない。皆、無言といった体だ。僕は日本人だから、こうした状況に慣れているけれども、たとえば海外の人が見たらどうだろうか? と考えることが時たまある。一つの車内にこんなに人が仰山いるのに誰も口を利かないなんておかしいじゃないか。そうした声が一つくらいあってもいいのではないか。
 彼女は毎週行っているように少しスマホを眺めたら、イヤホンを取り出し、それを両耳に装着して目を閉じた。毎週木曜日には決まってやる儀式のようなものだ。途中、手前のサラリーマンが電車の急な揺れに対応できず、彼女のすぐ傍の壁に手をついた。彼女は一瞬だけ、嫌そうな(少なくとも僕にはそう見えた)顔をしたが、それ以外はずっと目をつむり続けていた。
 変な手紙を入れたのはこのリーマンだろうか? そうした疑いの目を向けることはなかった。
 ――あれぇ? いくらなんでもあの紙切れでは手紙だと判別しにくいか? もう少し、「手紙然」とした用紙を使えばよかっただろうか?
 僕は急に後悔しだした。ほんのメモ書き程度の手紙だったから、彼女が手紙だと認識せずに捨ててしまった可能性も否定できない。
「失敗だったなぁ……」
 と胸中で呟く。ここは朝の満員電車。独り言を口に出して言うのはご法度だ。
 電車は代々木上原の駅に着いた。この電車は千代田線直通のため、新宿方面には行かない。なので、僕はこれを降りて新宿方面の電車に再度乗らなければならない。彼女はこのまま千代田線のどこかの駅で降り、会社へ向かうのだろう。一度、その会社の方面まで付いて行こうと思わなくもなかったが、木曜日は僕も出勤日だし、まさか仕事を放り出してまでストーカーするわけにはいかないだろうと諦めたのだ。本当にそこまでしたら、それはそれで「ストーカー気分」が盛り上がって面白いのだろうけれども……。
 僕は降りた。彼女に「さようなら。仕事、頑張ってね」と目で訴えたが、疑わし気な眼差しが帰って来て思わずビクっとする。いかん、バレたか!? 僕が変な手紙を入れているのが、バレたのだろうか……。
「バレてほしいような気もするんだよな……」
 新宿行きの電車に乗り換えてから胸中で呟いた。だって、それは僕の存在が彼女に認知された証だから。嬉しいことじゃないか。
 ……といってもこんな気持ちに共感してくれる人は世の中には居ないのだろうな。
 ネット上の、盗撮した写真を掲示板にアップロードする連中なら分かってくれるかもしれないが。そんなことを思いつつ、僕は電車に揺られていった。
清掃員 

2022年05月15日(日)15時29分 公開
■この作品の著作権は清掃員さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
昔とある文学賞に出した作品です。結果はもちろん一次落ちでしたが……初めて最後まで飽きずに書き切れた作品ということで、読んでいただけたら幸いです。


この作品の感想をお寄せください。

感想記事の投稿は現在ありません。
合計


お名前
E-Mail  公開しない公開する
↑作者レスをする場合は、作品投稿時のメールアドレスを入力して下さい。
−− メッセージ −−
作者レス
評価する
 PASSWORD(必須)  トリップ 

<<一覧に戻る || ページ最上部へ
作品の編集・削除
PASSWORD