スイーツの効果
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  嫌なことは重なるものだ。進藤傑はその日、まず会社でのリストラに合った。
  以前から社内でも噂されており、今回のは大々的になると囁かれていたのよりも、その数はさらに酷かった。人事部では結婚しているがまだ子供はいないからと、傑がリストに入れられたのだろうが、リストラされる方としたらたまったものではない。
 1ヶ月前に予告はあったものの、どうしても受け入れられず、心の準備をしてないことが一番辛かった。人事の人間から告げられた傑は、暗澹とした気分で重い足取りで家に帰った。
 しかもそういうときに限って、玄関を開けたところで佇む妻の美登里はやけに冷たい態度に見えた。
 別にその日だからというわけではないだろう。妻との仲は冷えていた。傑は他の男がいるのではないかと、ずっと思いながらも見ないふりを続けてきた。
 美登里はパートに出ているが、前々から怪しいのではないかと傑は疑っていた。よそよそしくなる態度に、趣味が変わったと思える服、やけに気にするスマホなどなど、細かいところを上げればキリがない。
 そんなふうだったから美登里には今日リストラに合ったなどとは、どうやっても切り出すことができなかった。
 その夜、どうやって喧嘩に発展したのかさえ、傑には思い出せない。いつものように下らないことがきっかけになったらしいが、そんなこと思い出しても仕方ないけれども。
 喧嘩の最中についリストラのことが口から出てしまった。最悪の形で美登里はその知らせを受ける。こういう状況でしてしまう喧嘩は、溜まっていたもの、あるいはそれ以上のこびりついたものを吐き出すものらしい。
「前々からいっていたように、もう私は限界が来ました。ここを出ていきます」と、美登里がきっぱりといった。
「出ていくって、おい、いきなりか」
「いきなりも何も、ずっとそうだったじゃないの」
 本当のことなので、そうすると傑は押し黙ってしまった。
 さっそく、旅行鞄に着替えを詰め込んでいる。
「実家に帰ります」
「他に行くあてがあるんだろ。知っているさ、オレは。どこのどいつか知らんがたまに会っているヤツがいることくらい。馬鹿じゃねえんだから」
 美登里は感情的な女であり、自分の思ったことはいう性格だ。でも、その夜は無表情で出ていってしまった。それがどういうことか、傑には痛いほどよくわかった。情けなすぎて引き止めることも、後を追うこともできなかった。
 冷蔵庫を覗いてみるがいつも買い置きしてあるビールがない。さらにはタバコさえもが最後の一本だった。些細なことだったが、余計に虚しい傑の心に沁みた。
 オレはもうおしまいだ、とそんな気分になった。死んでもいいさ、とさえ思う。実際のところ、美登里がいなくなり、明日からどうすればいいのかさえわからない。傑は薄いジャケットだけ肩にかけて、夜の外へ出た。
 少し歩いたところの、夜でも車通りの多い街道へと出た。向かい側を渡ろうと横断歩道のところへいこうとすると、先に赤の信号を待っている一人の女の姿があったが、傑は気にもとめていなかった。小雨になりかけていた。霧のような雨であり視界はよくなかった。そのときに傑の少し前で一人立っている女の身体が前方へのっしりと動いた。青に変わったものだと思い傑もつられて身体を出そうになった。
 ギュー、とけたたましい音が聞こえた。急スピードでかなり車道よりで右折してきた車の音が傑の耳に響いた。前方の信号機はまだ赤のままだった。とっさに傑は自分の腕を突き出して、ふらついている前の女をつかもうとした。車だ、危ない、と叫んでいた。
 けっきょく大ごとにはならずに済んだ。小柄な女性だったというのもある。幸いなことに後ろから服を掴んだ形になったので、女性の身体に後方に倒れこんだ。道路に落ちた女性のカバンを拾い上げる。
「赤信号だったぜ。危なかった」
 差し出したカバンも受け取らずに、腰をかがめていた。スカートから出ている膝を気にしていたようだったが、血が出ていたのは肘からだった。傑は慌ててポケットを探り、ティッシュを差し出した。足は大丈夫なようだ。
「あの、何ていっていいのか」と、途切れとぎれの小さな声でいった。
「そんなことどうでもいいけどさ、それ、血が出ているだろ。どうにかしなくちゃ。ほら、向こう側に知っている喫茶店があるから絆創膏をもらいにいこう」
 傑はそういって、女を道を渡ったすぐのところにある喫茶店へと入った。空いている店内だった。傑は事情を告げて、店員から絆創膏をもらった。それから洗った傷口へと絆創膏を貼った。
「これでとりあえずは大丈夫だな」
「本当にありがとうございます」
  相向かってちょこんと座っている女は、ペコリと頭を下げた。ツヤツヤの長い髪が小雨に降られていた。終始下を向いていて、ひどく大人しい女だった。
 控えめな口紅を塗っているが、とても可愛らしい。きしゃな身体をしていて、紺のシャツを着ている上からでもよくわかった。年齢的には傑よりも一回りくらいは若いに違いなかった。
「住んでいるのこの近くなんだろ」
「はい」
「よかった。じゃあ、オレそろそろ帰るから」
 そうして伝票をとろうとしたところ、
「あの、本当にありがとうございました。わたし、その、ついうっかり考えごとをしていて」
「ああ、そんなの誰にでもあるさ。オレだって、ツイてない日だったからさ、よくわかるよ」
「そうだったんですか?」
「ええ、まあ、リストラにも合ったし」と、つい知らない女にまで、そんなことをいっていた。長年連れ添ってきた女にはいえず、見ず知らずの女にはつい口から突いて出てきてしまった。
  女は相変わらず小さく縮こまって座っている。手持ちぶさなのか、テーブルの上で指をいじくったりしている。
 「ホント、人生っていろいろありますよねぇ」
 そんなふうに気の抜けた声で年下の女に同意されても、困るしかない傑だった。まあ、あなたにはまだわからないだろうが、リストラされて、妻に逃げられたアラサー男の行く末なんて、どうでもいいに違いないんだろうに、と内心思った。
「わたしも、つい人生のことについて考えちゃたりしてました」
  傑はそれには答えなかった。
「なあ、ちょっと食べてもいいかな、なんかお腹空いちゃってさ」と、傑はいってみた。
「ああ、それいいですね。わたしもお腹とっても空いちゃいましたから」
 と、髪の毛でふさがりぎみの顔を上げて、嬉しそうに答えた。
 ちなみにこの喫茶店は昔よく美登里ときていたことがあって、ちょいと懐かしい場所だった。気がついたら、いつからかいっしょにはこなくなってしまっていた。
 確か美登里はここのレモンケーキをよく食べていた。あの頃はよくいろんなところに食べに出かけたものだった。
「オレはサンドイッチにするよ。あ、あなた、お名前は?」
「あ、沙織といいます」
「傑です」
「えーと、わたし、あの、甘いもの食べちゃってもいいですか?」
「あー、そんなこと気にしないでどんどん食べて下さいよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 そういうと沙織は嬉しそうに、メニューを広げる。夜なのでそうないのかもしれないが、店員さんに注文する。
 沙織は、チーズケーキを頼んだ。
 ベイクトしたもので、上部があるこんがりとキツネ色にしっかりと焼けていて、三角に切られた断面はきれいな黄白色をしている。
 女性が人目を気にせずに食べるのは見ていて気持ちがいいものだ、と傑は思った。しかも早食いではないが、けっこうなペースで進んでゆく。
「すいません、なんか一人だけ食べちゃってしまって。1日中ずっと何も食べてなくって、急にお腹空いてきて」
「そんなの気にしないよ。あ、オレはホットコーヒーするけど、なんか食べる?」と、傑が
 一応聞いてみたら、すぐさま、
「あ、もう一ついいですか。じゃあ、あの、ここのスイーツとっても美味しんで、じゃあシュークリームを私は頼みます」
 と、沙織は照れくさそうにまた体を縮こませる仕草を見せる。この細い身体のどこにこれだけのスイーツが入るのかと思わないでもないが、まあ女性というものは甘いものが大好きなので、そういうものなのだろう。
「甘いものが好物なんだね?」
「あ、はい、好きです。普段はそうでもないんですけど、今日だけはやたらと恋しくって。あ、あの、これ少しですけど食べますか、シュークリーム。美味しいですよ」
「あ、いや、オレはもうこれでけっこうです。さっき今日は何も食べてないっていってたけど、大丈夫なの。なんかあった?」
「いや、というか」
「ストレスとか、会社の人間関係?」
「まあ、そんなもんだよな。みんなストレス溜め込んじゃっているしな。オレはさ、ちなみにリストラ合っちゃってさ。ホント、お先真っ暗って感じ。明日からどうしよう、ってさ」
 目の前にいるのが女性だったからか、美登里のことはさすがにいえなかった。
 見ず知らずの人から同情をもらっても一時の慰めにしかならない。やっぱりこういうことは、まずきちんと自分と向き合ってゆくしかないのだ。
 と、頭ではわかっていても、なかなかできないのが人間だ、と傑は思った。それにリストラと美登里が出ていったのと、ダブルだもんな。ダメージは大きい。
 だからこうして今日知り合ったばかりの人でも、誰かいてくれるだけでもよしとしなくてはいけない。明日からは一人なのだから。
 傑はトイレにいき、戻ってくると、テーブルの上には一羽の鶴が置いてあった。何かの紙で作られた折り紙の鶴だった。それでも、丁寧に折りたたんであるのがわかった。
「へえー、折り紙したんだね」
「はい、あの傑さん、よかったらこれ、お守りとしてでも持っていて下さい。きっとうまくいくと思いますから。わたしもここでこんなにスイーツ一人で食べさせてくれてありがとうございます。気分はかなりよくなりました」
「あ、それはよかった」
「スイーツ効果です」
「え?」
「甘いものって、一時的な即効性だけは優れているんです。ずっとこれだとマズいですけど。でも、傑さんもお気をつけて。きっといいことは起こりますから」
 傑は沙織とすぐに別れた。沙織はまたぺこんと頭を下げる。こうして見ると、なかなかキュートな感じの子ではあった。
「またどこかでお会いしましょう」と、沙織は別れ際にいった。
 真っ暗の家に帰るとそれだけでぐったりとなってしまいそうになるが、それでも何とか睡眠だけはとらないといけないので、一人でベッドに入る。沙織が折った鶴は、いつも鍵を置くところへ置いておいた。
 翌朝になると、うって変わっていい天気だった。こういう日はつい怠け者になってしまう。昼間からソファに座り、テレビをつける。つい考えてしまうのは、美登里のことだった。
 結婚してまだ5年しかたっていない。いや、もう軽く10年くらいはたっているように思えた。知り合ったのはお得意先の職場で顔を合わしていたのが、偶然にある飲み会で会ったのがきっかけだった。
 傑よりは3つ年下で、故郷も近いというのも偶然だった。当初はいっしょにいろんなところへ出かけた。一度は専業主婦になったものの、子供にも恵まれなかったこともあるのか、早々に別のバイトを探してきて復帰した。
 そのあたりからだと思う。歯車が少しずつ狂ってきていたのは。当初はすれ違いと呼べないほどの小さなものだったと思うが、いったん傾き出すとどうしようもなくなっていて、できることいえばフリをして過ごすことだけになっていた。
 これをなんでもかんでも価値観の違いだけで済ませてしまってよいものなのか、傑にはわからない。もともと、夫婦なんて赤の他人なわけだから、価値観が違うのは当たり前なのに。
 ともかく、傑は何かしなくちゃと背中に押されるように、ネットでの求人を探したりしてみる
 だが、どれもイマイチのところばかりだ。それでもこれだけ求人はあるのだから、こちらとしてもできるだけの妥協はしたくないというのが当たり前ではないだろうか。
  試しに足を運んでみたハローワークでも傑よりは年下であろう男性に、最近はなかなか求めるところが見つけにくいというのが現状でして、一度少し待遇を下げてみて、広い目で見てみたはどうでしょうか、と真顔でいわれてしまった。
 なんだかよけいにイライラしてたり、落ち込んだりしてしまう傑であった。せっかっくのいい天気なのに、クソ暑くて鬱陶しいと感じられてしまうのは、やはり傑の今の精神状態を反映しているだろうか。
 沙織は帰り際に、きっといいことは起こりますから、といった。単なる気休めでも傑にはかなりこたえた。何しろ、そんなことをいってくれるはずのパートナーは、違う男のもとへといってしまったのだから。まあ、希望的観測を込めて、たぶんとしておこう。
 これだけ求人はあるはずなのに、どこにも自分が求めている会社はなくて、それどころかもはや自分を必要とする会社なんてものが存在すらしないのではないかと、思えてくる。履歴書を書いても辿り着くべきところへは届かない。そうなってくると、じわじわっとブローのように徐々に効いてくる。
 マイナスの思考だけがグルグルとしつこい夏の夜の蚊のように追い回される。どうやってもその抜け道が見つからず、探そうとすればするほどに出口からは遠ざかってゆくようでもある。
 あの夜にいった同じ喫茶店へと出向いた。
 沙織は一時的なら甘いものって脳にはよいんですよ、といった。へん、と頭の中でいう。普段はあまり甘いものを口にしない傑だったが、美味いと評判のレモンチーズケーキを頼んでみた。
 確かに美味い。悪くはない。そういえば、とまた傑は過去のことを思い出す。最初は美登里がこうやっていろんなところのスイーツを食べるのが好きで、よくあちこちに付き合っていったってけなあ、とそんなに昔のことでもないのに、感傷的に思い出してしまう。
 やはり沙織のようにメニューを見つけて思ったものを頼み口にする。そうして美味しそうに頬張る美登里を見ているだけで、けっこういい気分でいられたものだ。
 いつからだっけな、そんなことしなくなってから。
 決定的な証拠もなく、美登里もそれらしいことはいっていないが、やはり他に男がいると考えるのが妥当だ。夫婦の営みがあったのはいつだったろうか、あるにはあったがあまりにおざなりなものだった。それでもなんとか、今までずるずると持たせてきたのだ。
 もしかして、と傑は思う。自分は浮気などしていないのに、外へ出かける美登里のことばかりをずっと避難してきたように思う。
 まてよ、と考える。もしや美登里の気持ちにいつのまにか気がつかなくなっていたのは、傑の方ではなかっただろうか、と。
 見たくもない現実をまざまざと見せられた気がする。傲慢で冷たい人間に感じられて、ひどく怖くなってしまった。
 傑は思わず、スマホをとり、カバンを持ち上げると、ここから出ていきたくなった。とりあえずはどこかにいこうと、階段を下りて、レジに向かう途中で、あれと傑は思った。
 下の席で俯き加減でスマホをいじっているのが、沙織のように思えたのだ。沙織、といおうとして近づくと、それは沙織ではなく別の女だった。

 家に帰る。ふっーとため息をつき靴を脱ぐと、いつものように鍵を置こうとしたら、床に折り紙のツルが落ちた。腹を上に向けて横になっている。と、傑はふと思うことがあり、床に落ちている折り紙を拾った。
 もしや、と思う。これは。
 急いでツルを元の紙にしてみると、そこにははっきりと何かが書いてあるのがわかった。ペンで書かれた文字は丸っこくて、

  岡崎フルーツ西岡店 仙道沙織

 と、書かれてあり、すぐ横にはスマホのLINEで使われる笑い顔のマークが、描かれていた。電話番号は書かれていなかった。まあ、普通はすぐには番号なんか書いて渡さないよな。しかも、異性だしな、と傑は思った。傑はすぐにその店へと出かけた。なんでこんなことに気がつかなかったのだろう、と思いながら、店の前までくる。中に入るも沙織の姿はなく、人のよさそうな店員に尋ねてみた。
「あ、あの子ね、彼女はつい1週間ほど前に辞めてしまいましたよ」と、パートらしき年上の女性はいった。
「なんでも、つい3週間ほど前にお母様を亡くされてね、それで何日か実家へ帰っていたんですけど」
 母を亡くしただって。
 傑の中では、そのことだけですべての合致がいくようだった。3週間前といえばちょうど、あの夜のころだ。そうか、それで。 そうだったんだ。
 ホント、人生っていろいろありますよねぇ。
 人生のことについて考えちゃったりしてました。
  些細な一言かもしれないが、もし沙織が母を亡くしていたのなら辻褄が合う。それにあの道路で赤信号なのに前にいこうとしたことなども、母をなくして普通の状態とは違っていたと考えれば、別におかしなことではないように思える。
 傑は父を数年前に亡くしていたが、やはり肉親の死は辛いものだ。沙織は若い。母も若かったのかもしれない。
 今さらながら、あのとき少しでも何か事情を察してあげていられればなあ、と思わずにいられない傑だった。鈍感だったというか。まあ、俺もあの時は死にたいくらい落ち込んでたからなあ、といいきかす。
「彼女の連絡先とか知りませんか?」
「いや、私は知らないんです。今日はきてないですけど、もう一人のバイトの子がよく仲良くされてましたから。年も同じくらいでしたしね」
「そうですか」
 もしや、と思う。あの夜あんなにスイーツを食べたのは、あれはもしかしていわゆるやけ食いというか、肉親の死があってその埋め合わせみたいなものだったのではないか。同じ課だった女子社員の顔が浮かぶ。彼女もストレスが溜まると食べてしまう、と聞いた。
 一日中何も食べてなくて。
 沙織の何気ない一言だったかもしれないが、やはり傑には気になってしかたなかった。
 母のことを考えて、何も喉に入らなかったのではないだろうか。
「あの、ちょっと変なこと伺いますが、あの、沙織さんって、いつもからかなり食べるのが好きでしたか? 例えば、スイーツとかの甘いものを」
「いやあ、それは若い子ですから、わたしなんかと違って、彼女たちはあまり食べないんですよ。まあ、ウチはご覧の通り甘いものを扱ってますけど、わたしの知っている限りでは、あまり食べなかったんじゃないでしょうかね。わたしからすると、甘いもの食べないのによくこんなところで働いていられるなあ、と思っちゃいますがね、はは」

 それから3日後になって一社だけ面接をしたいといってきたところがあった。傑はすこぶる気分がよかった。自分が考えるような会社とは違っているような気がするが、そんなことはどうでもよかった。とにもかくも、一歩だけ前進しているような手応えがあった。
 面接に行く前に、傑は甘いものを食べたくなった。タバコを減らしていたというのもあるかもしれない。傑はあんこクリームを食べた。
 その日、受けた面接はまんざらでもないような手応えだった。まだ結果はわからないが、この日、初めてここはダメでも何とかうまくいきそうな感触を掴んでいた。それでも久々の面接だったので、脇の下が汗ばんでいるのが感じられた。それに今日は暑い日だった。
 ふと、ひょんなことから傑は美登里は何しているだろうか、と思った。気がつけばあれからもうずっと声を聞いていなかった。離婚はしていないから、これでもまだ夫婦なのだ。傑はあまり認めたくはなかったが、美登里が出ていってからというもの、やはり妻のことが寂しかったと思わずにいられなかった。
 何をしているだろうか、と純粋に考えた。
 これまですべてをずっと美登里のせいにしてきたように思えた。仕事で疲れているからという言い訳をいつも自分にしてきたような気がする。美登里は冷たくなった。美登里はオレのことはもう気にしなくなった。美登里が、美登里が......。
 だったら、俺自身は何か妻のためにしてきたのか、といえば、残念ながらノーといわざるをえない。生活費を稼ぐという当たり前のことはおいておき、美登里に対して努力もしなかったし、聞いてあげようという姿勢すらなかったように思う。
 傑は思い切って、美登里に電話をかけてみることにした。美登里はすぐに出た。話すことというほどでもなかったが、それでも少なくとも声を荒げることなく、ごく平静に話すことができたと思う。
「けっこう元気そうな声しているじゃないの。まあ、安心したわ」と、まで美登里はいってくれた。
 傑は電話を切ってから、やけに元気になっている自分に気がついた。
 あのリストラされたときよりも、何かが確実に変わっているんだ、という実感があった。今は小さいことでしかなく、大きな結果ではない。でも、また一度風は吹いてきているのだと、思えてくる。
 傑は軽々とステップを踏むようにして、あの喫茶店へと足を向けてみる。そしたらどうだろう、沙織がちょうどレジのところに立っているのが見えた。
 今度は見間違えではなかった。細い身体で、またペコんと頭を下げる。
「傑さん!」と、沙織は名前を覚えてくれていた。
 何だか傑は空腹を覚えた。何も悲しいときや辛いときにだけ食欲を覚えるわけではない。こうして嬉しいときだって、お腹は空くものなのだ。席についた。
「お母さんを失くしたんだってな、バイト先にいったよ」と、傑は聞いてみた。
「あ、そうでしたか。ちょうど傑さんと会えてよかったですよ。今から思うと自分でもわからないうちにかなり気落ちしてたんだと思います。赤信号で前にいこうとするなんて」
 沙織は恥ずかしそうな顔を浮かべる。そういうところからも、今はある程度は立ち直ったように思える。
「そういうもんだよ。肉親をなくすときはさ」
  傑は沙織に、あれからたまに甘いものが欲しくなるようになった、といった。若い子らしく、白砂糖の弊害とか血糖値のうんちくをいっているのを、傑は黙って聞いていた。
 それから、傑の妻のことに話が及んだ。もう別に隠してもしかたのないことだった。沙織は静かに話を聞いてくれていた。
「でも、傑さんところは聞いている限りだと、まだ迷っている段階なのだという気がしますけどね。最後に電話したときもまんざらでもなかったんですよね。これが、好きな男のところに行っていたらそこまでいかなかったと思いますよ。単にわたしのカンでしかありませんが、傑さんと奥さんはまだ修復可能なんじゃないかって、思えてしかたないんですよね。子供はいないっていってましたよね」
「でも,服装が変わったというのは」
「浮気心くらい女だってありますよ」
「おい、それは他の男と寝たってことか」
「また、男の人って、そういうとこホントに気にしますよね。それは男性の弱点ですよ。女はね、心さえ奪われてなければなんとかなるものなんです」
  傑は一瞬、ポカンとしている。
  もしかしたらオレの美登里への態度がよくなかったのかなあ。やっぱり、そう認めざるをえないなあ、と心の中でつぶやき、納得する。
「おい、でも、美登里について本当にそう思うのか?」
 沙織はまだ美味しそうに、むにゃむにゃと、頬張って、幸せそうな顔をしている。
 傑は腕を組んで、沙織を見ていた。
 まあ、騙されてみるのもいいかな、と沙織を見ながら傑は思った。
「もちろんですよ。トライする価値はあると思います」


 了
Yes 

2020年04月27日(月)23時44分 公開
■この作品の著作権はYesさんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
スイーツをストーリーにどう絡ませてゆくかを苦心しました。


この作品の感想をお寄せください。

2020年05月11日(月)01時35分 Yes 
神原さま、返信させていただきます。

>>まず思ったのが、この作品は一人称で書いた方がよかったのでは? と言う処、人称が主人公の名前になっていますが、地の文がほとんど主人公の考えている事になっています。<<

三人称一視点、つまり傑に寄り添った視点で描いていたつもりが、確かに言われてみるとそうですね。たぶん僕の癖なのだと思いますが、心理描写というか説明に偏りがちで、情景描写が疎かになりがちなのです。これは神原さんのコメントを読んでいて気がついた点で、また下記の指摘とも密接に繋がっていることがよくわかりました。どうしてなのか具体的な理由がわかった気がします。


>>説明に頼っている文がかなりの分量であります。
みたいに行動(描写)で表す癖をつけた方が良いかもしれません。<<


こうして丁寧に説明してもらうとまったくその通りで、描写をしていないんですね。まさに癖であり、初心者的なことでありながら、というか最近はそんなことすら意識せずに描いていたので(汗),ご指摘には深く感謝します。速く書きすぎてしまうと、どうも説明調に逃げてしまう傾向があるようです。推敲のときに厳重チェックして直してみます。


>>それと、文章の中におかしな日本語が散見されました。ちょっと二三ピックアップしてみます。<<

自分で書いておきながら、ホントに変ですね。ありがとうございます。



>>作品の内容について。

最後の文章が少し気になります。この物語の主人公は傑です。ですので、

≫沙織はまだ美味しそうに、むにゃむにゃと、頬張って、幸せそうな顔をしている。
 傑は腕を組んで、沙織を見ていた。
「もちろんですよ。トライする価値はあると思います」
 まあ、騙されてみるのもいいかな、と沙織を見ながら傑は思った。≪

と前後を入れ替えて〆めた方が良いかもです。<<


ここも気がついていませんでした。ありがとうございます。かなり勉強になりました。
10

pass
2020年05月09日(土)23時30分 神原  0点
こんにちは、感想返しにまいりました。

まず思ったのが、この作品は一人称で書いた方がよかったのでは? と言う処、人称が主人公の名前になっていますが、地の文がほとんど主人公の考えている事になっています。

また、下の様に

≫真っ暗の家に帰るとそれだけでぐったりとなってしまいそうになるが、それでも何とか睡眠だけはとらないといけないので、一人でベッドに入る。沙織が折った鶴は、いつも鍵を置くところへ置いておいた。≪

説明に頼っている文がかなりの分量であります。

たとえば、

家に帰ると薄暗闇につつまれた玄関に明かりと付ける。鶴を鍵と共におくとベッドへと潜り込んだ。
「眠らないと」
呟いて傑は瞼を閉ざした。

みたいに行動(描写)で表す癖をつけた方が良いかもしれません。

それと、文章の中におかしな日本語が散見されました。ちょっと二三ピックアップしてみます。

≫幸いなことに後ろから服を掴んだ形になったので、女性の身体に後方に倒れこんだ≪
幸いなことに後ろから服を掴んだ形になったので、女性の体「は」後方に倒れ込んだ。

≫ツヤツヤの長い髪が小雨に降られていた。≪ 小雨に降られていた、と表記すると今現在小雨の中にいるような感じになります。長い髪がが主語。長い髪が降られていた。と言う表記はありません。
ツヤツヤの長い髪に小雨が降り注ぐ? ↓ 店内にいるので。
ツヤツヤの長い髪が小雨で濡れていた。あたりが妥当でしょうか?

≫結婚してまだ5年しかたっていない。いや、もう軽く10年くらいはたっているように思えた。≪
いや〜は前述の事柄を否定する物。思えたと言うのは主人公の感覚なので、事実を思った事で否定する文は少しおかしいです。
書くなら。
結婚してまだ5年しかたっていない。それなのにもう10年は一緒にいたように思えてくる。
くらいでしょうか。

______________

作品の内容について。

最後の文章が少し気になります。この物語の主人公は傑です。ですので、

≫沙織はまだ美味しそうに、むにゃむにゃと、頬張って、幸せそうな顔をしている。
 傑は腕を組んで、沙織を見ていた。
「もちろんですよ。トライする価値はあると思います」
 まあ、騙されてみるのもいいかな、と沙織を見ながら傑は思った。≪

と前後を入れ替えて〆めた方が良いかもです。

以上から私は普通です。を置いていきたいかなと思います。これからもがんばってください。

12

pass
2020年05月04日(月)14時59分 Yes   0点
鱈井元衡さま、読んで頂いてありがとうございます。

>>ほのかな希望の感じられる結末がいいです。男女の、それもあまり親しくない者同士の会話だからこそ話せることもあるわけですね

結末は、導入部の暗めの入り方と対照的にしたいと思いながら書き進めていき、ああいう結果になりました。人って案外そういうところがあると思っていて、身近にいる親しい人だからこそ言いにくいこと、あるいは自分のことをほとんど知らない人だからこそ、言えてしまうこともまたあるような気がします。

>>名前に読み仮名がふってあった方がよりよいと思いました。スイーツが題材であるなら、食事の描写はもう少し凝っていてもよかったかと。
傑の妻との通話ももう少し掘り下げて知りたい所です。

自分もよく人物の名前の呼び方がわからないことがあると集中して読めなくなるので、以後気をつけます。もっと描写があっていい部分を指摘してくれて助かりました。ありがとうございます。知りたかったのは、どこを書き加えればよくなるかということだったので感謝です。自分では客観的に読み返しているつもりでも、やはり他人の目は違いますからね。
8

pass
2020年05月03日(日)11時50分 鱈井元衡  +10点
ほのかな希望の感じられる結末がいいです。男女の、それもあまり親しくない者同士の会話だからこそ話せることもあるわけですね。

名前に読み仮名がふってあった方がよりよいと思いました。スイーツが題材であるなら、食事の描写はもう少し凝っていてもよかったかと。
傑の妻との通話ももう少し掘り下げて知りたい所です。
13

pass
合計 4人 10点


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