人間、あるいは
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 人が集まっていた。古ぼけたアパートの一室を覗き込んでいる数人を先頭に、彼らは長蛇の列を作り、道路を挟んだ向かいにある公園をぐるりと囲い込むようにして整然と並んでいる。数十メートルはあるであろうか、その列を成している人々は各々どこか苛立ち、それでいて、皆がまるでアトラクションを待っているかのような喜色をその顔に滲ませている。
 外壁に染みが目立ち、どことなく傾きさえしている古いアパートの一室――それは一階の角部屋だった――を覗き込み、何かを口々に囁き合っている先頭の一群、その一群は後ろの者がどれだけ非難を浴びせようと、決してその場を動こうとはしない。が、しかし後ろの者達も罵声を浴びせる割にはどこかふざけるような、あるいは耳の聞こえない者が見れば冗談を言っているかと思うほど、その表情はあくまで柔和であり、穏やかで時には笑顔さえ見られた。人々を待たせ、列をより長くすることだけが自分たちの使命であるかのように、彼らはいつまでもそこに居座り続ける。
 ふと、アパートと公園を隔てている大通りを一つの線で繋ぐかのように横切っている一群の中から、一人の男が列を飛び出した。彼は胸を張り、あたかもそれが己の有している当然の権利であるかのように、列の最前へと進んでゆく。無論、列に並んでいる他の人々は彼の意図を察して敵意を露わに非難を浴びせるのであるが、彼はあくまで前方を見つめたまま足を止めない。部屋を覗き込んでいる群れの後ろに立つと、彼は襟を正し、遠慮を含んだ声音で、しかしはっきりと彼らに述べた。
 「少し、場所を空けて頂きたい」
 先頭の数人――全部で四人だったが――が一斉に振り返って、彼を見た。二、三分彼らは睨み合ったまま、動かなかった。が、一人の男が皮肉な笑いを浮かべ、何か施しを与えるような態度を以て彼の為の空間を空けてくれた。この為、部屋をのぞいているこの一群はより窮屈に、隅の者などはまるでドアの縁にしがみつくようにして中を覗き込まねばならくなった。しかし、それでも場所は空いた。男は礼を述べてそこに滑り込み、中を覗いた。
 「あの男は、何をしているのでしょうか」
 後ろから飛んでくる憎悪の言葉の数々にかき消されぬよう、一語一語を明瞭に発音して男は問うたが、周りの者達から答えは返ってこない。まるで彼の言葉など聞こえなかったかのように――耳元で怒鳴るように聞かれた以上、そんなことはあり得なかったが――彼らは無表情で部屋の中に居る男を見つめ続けていた。
 部屋の中の男は、古く染みだらけの長椅子に腰を下ろしていた。腰を下ろしているかと思うと、すぐに立ち上がり、周囲を無造作に歩き回った。そして不意にまた、長椅子に腰を下ろした。そんなことを何度も、訳の分からない何事かをつぶやきながら繰り返していた。それは何かの儀式のようにも見え、あるいはただの狂人のようにも見えた。
 そもそも、部屋の内装からして奇妙だった。壁紙は一面真っ赤であり、家具と言えるようなものは、長椅子と割れた鏡台があるのみだった。それ以外のものは、机さえない。さらに奇妙な印象を与えたのは、戸口の正面の壁に掛かっている肖像画だった。真っ赤な唇と右に折れた鉤鼻、それに豆粒ほどの目を持った、女とも男とも判別の突かない人物の肖像画……。それはあまりに滑稽で、しかし何か妙に象徴的でもあった。あるいはゴーゴリの小説のように、それが夜な夜な飛び出し何事かを秘密裏に行っていると言われても真実味のあるような、そんな容貌だった。ただし、どこをどう見ても、金袋を持っているようには見えなかったが。
 鏡台の机の上には、一冊の聖書が置いてあった。その、厚さからみて恐らく新訳のみが入っているであろう聖書は、一本の果物ナイフで刺し貫かれていた。何度も何度も刺したと思われる痕跡も見受けられ、もはや書物としての用を果たせそうには無かったが、しかしそれでもかろうじて繰り返し読んだ痕を確認することは出来た。聖書の横に添えるようにして置かれてある金色の十字架と対を成し、奇妙なコントラストを形作っている聖書は、その状態はともかくとして、非常に重要な、持ち主にとって大切なものであるのだろうという印象を見る者に与える不思議な効果を持っていた。かといって、持ち主は敬虔な信者であるに違いない、といった聖書を所有している人間に対して往々にして抱く確信を導くものではなく(どうして敬虔な信者が聖書をナイフで刺したりするだろうか! )、何か弱者に対する憐れみとでも言ったような、そんな感じなのだった。
 「聖書を……あのような男がどうして聖書を読んでいるのだろうか……」
 男は呟いたが、周りの者達は相変わらず反応を示さない。部屋の中の男もまた、変わらぬ動作を繰り返していた。何かを呟き、呟き、頭を抱え自分の手を見、両手で顔を覆う、そしてまた何かを呟く……。その間、何度も立ったり座ったりを繰り返すが、決まって座る前に「愚劣だ! 」と一言叫ぶのだった。叫ぶと、それがまるで合図であるかのように、体中の力が抜けたかのようにして長椅子に崩れ落ちる。
 「あの男は……あの男は……気が狂っているのではあるまいか……? 」
 男は恐ろしかった。何か異様な、それでいてどこか身近ささえ感じさせる部屋の中の男の挙動が、途方もなく恐ろしかった。その恐怖を埋めるため、誰かと話をしたいと思ったが、しかし変わらず誰も相手にはなってくれない。が、今度は男も諦めなかった。右隣の男――彼の為に場所を空けてくれた、あの男だったが――の肩を揺すり、あれは気狂いですよね、ね、そう思いますよね、と執拗に問い続けた。肩を揺すられた男は最初こそ無反応に部屋の中を見つめ続けていたが、次第に意識を取り戻したかのように、その表情に露骨な憎悪の相を現し、ついに振り向いて吐き捨てるように言った。
 「見りゃあ解るだろ、あれはキチガイだ! 」
 「やはり! しかし、どうして気が狂ったのでしょうか……? なにか理由が……」
 呟くように、ただし相手の目をしっかりと見つめながら男は問うた。が、やはり右隣の男はそそくさと視線を戻し、部屋の中を見つめることを再び始める。男は露骨に不快な表情を浮かべ、右隣の男の後方へと唾を吐きかけた。すると、周囲の男達は依然と部屋を見つめ続けてはいるが、各々いらいらした表情を浮かべ始め、列に並んでいる人々からの罵声が大きくなった。ただ、部屋の中を覗いている男達は何もしゃべらない。男が振り返り後ろの列の者達を睨み付け、再び周囲の男達の表情を伺ったときには、すでに彼らの表情から感情は消えていた。
 (やはり、何か理由があるに違いない。何か強烈な、身の毛のよだつような理由が……)と男は思ったが、彼にその理由を突き止める手段など無かった。(そもそも……そもそも、あのような部屋で生活をしていれば、気が狂うなど当然なのではないか……? )鏡台と長椅子、肖像画、あとは聖書・十字架だけが置かれた部屋。確かに、それは気狂いを生み出すには十分すぎるほど、条件が整った部屋の様に思えた。しかし、男にはそれだけでは足りない、とも思えるのだった。何かが足りない。しかし、何が足りないのかは解らない……。強烈な、何か。
 ふと、男の周囲で歓声が起こった。部屋の中の男が床に額を着け、肖像画の丁度真横に位置する窓に向かって、懺悔を始めたのだった。何か呟きながら、ひたすら頭の上で手を合わせている。それを部屋を覗く男達が嘲って哄笑し、訳が解らぬながら後ろに並んでいる者達も笑った。
 「なぜです・・・・・・! なぜこの私が・・・・・・! 」
 彼は唐突に叫ぶと、額を床に打ち付けだした。鈍い音と共に男の額には血が滲み出し、床にも血飛沫が飛ぶ。その様がよほど可笑しかったのか、哄笑はさらに大きくなり、部屋を覗いている男の一人などは――場所を譲った男だったが――腹を抱えて笑い出し、幾ばくかのあいだ呼吸困難に陥ったほどだった。
 「何がそんなに可笑しいのですか! 早くあの男を止め無ければ、死んでしまいますよ! 」
 しかし、男の叫びは哄笑の渦に飲み込まれ、誰にも届くことはない。そもそも、そのように部屋の中の男を心配するそぶりをみせた男の顔も喜悦に歪んでいるのだったが。
 「吐き気がする! こんな奴らと一緒にいてはこっちまで気が狂う・・・・・・」
 早く立ち去りたい。その呟きは、確かに男の本心だった。だが、体は動かない。まるで足が地面に張り付いてしまったかのように、微動だにすることが出来ない。その目もまた、部屋の中から逸らすことが出来ないのだった。
 部屋の中の男が動きを止め、頭を抱えて嗚咽を漏らす。哄笑がため息を合図に嘲笑に変わり、皆はニヤニヤと憎らしい笑みを顔に張り付かせて部屋の中を窺い続けている。
 「ああ・・・・・・ああ・・・・・・」
 地獄の底から聞こえてくるような、悲痛な叫び声を上げ、部屋の中の男は頭をかきむしる。目に見える雲脂が床に散った血飛沫の中に飛び入り、奇妙な斑点を作り出した。
 「あの男はきっと何日も風呂に入っていないのだ・・・・・・」
 解りきったことを男は呟いたが、それが誰かの耳に届くことはない。大勢の人に囲まれているにも関わらず、途方もない孤独感が男を襲った。
 「私は・・・・・・私は一人なのだ・・・・・・!」
 男は両手で顔を覆い、小さな闇の中でこみ上げてくる悲痛をぐっと堪える。涙がどっとあふれ出そうなほどの悲しみが彼を包んだ。
 (あの男はこれ以上の孤独の中にいるに違いない・・・・・・)
 ふと、男は思った。すると奇妙な同情が、男の中に沸き起こった。部屋の中にいる男の孤独と、外にいる彼との孤独が少し繋がった様な気がするのだった。
 「あの男はどうなるのだろう・・・・・・。死んでしまうのか、あの状態で生き続けるのか・・・・・・」
 男は誰かに問いかけるかのように呟いた。しかし、それはもう、誰に対する問いでもなかった。彼にはもはや誰も見えてはいなかった。
 「死ぬのだ……! きっとそうに違いない。あの男はきっと、果てしない孤独の中で死ぬのだ。苦しみ抜いて、絶望の苦味と甘味とを味わいぬいて、そうしてやっぱり人生への絶望を抱えつつ死ぬのだ。たとえどんな人間であったにせよ、この孤独に耐え抜けるはずがないではないか……! 」
 男は叫んだ。が、同時に部屋の中の男も叫んだ。それらは混ざり合い、得体のしれない混沌を生み出す。いずれの叫びも、誰かにとって意味のあるものではありえなかった。
 「しかし、どうやって……? あの男はどうやって死ぬのだろうか。あの男の絶望には、どんな死に方が相応しいのだろう……」
 部屋の中を覗いていた人々が、一斉に振り返り、視線が一挙に男へと向けられた。彼らの目は軽蔑に満ち、嘲笑を秘めている。男の呟きは、相変わらず意味をなしてはいなかった。それはただ、早口に何かを唱えている、狂人の所作に他ならない。
 「お前はクズだ」
 男に場所を譲った男が、叫び声を上げ、哄笑した。それに追従するかのように周りにいたすべての者が哄笑をする。
 「部屋の中に戻れ! 」
 誰かが男に向けて叫んだ。それと同時に、似たような怒号が各所で上がる。彼らは一様に《《狂人が部屋の外に出てきたのを》》咎めている。
 しかし、男はまるで何も聞こえてないかのように、その場に立ち尽くしていた。
 「水に身を投げるか……? いや、そんな悲哀じみた方法はあの男には似合わない……。ならば、己の身体に火をつける……? しかし……」
 罵声が大きくなる。男は微動だにしない。周囲の人々は苛立ち、唾を吐きかけ、中指を立てる。が、まるで彼と周りの間では世界が違うかのように、男は動かない。
 しびれを切らしたのか、先ほど場所を譲った男が男の元へ歩き出し、彼の腕を取って外へ連れ出した。人々から少し離れたところで彼は男の背中を押し、元の場所へと戻ってゆく。その後、男は何事もなかったかのように何かを呟きながら、その場を後にした。
 彼の背中では、罵声と哄笑が部屋の中と外にいるそれぞれの狂人に向けて絶え間なく鳴り響いていた。
かむ 

2020年04月17日(金)15時51分 公開
■この作品の著作権はかむさんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
乗りと勢いで書きました。ご批賜れれば幸いです。


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2020年05月07日(木)11時31分 鱈井元衡  0点
ドグラ・マグラかな? この、理性と狂気がはっきりしない不安な様子がとてもお気に入りです。
男と、部屋の中の男の区別があいまいで、ややこしいのが気になります。もう少し風景描写が分かりやすければいいのですが。

>そもそも、そのように部屋の中の男を心配するそぶりをみせた男の顔も喜悦に歪んでいるのだったが。

この矛盾するように見える心情がたまらないです。こういうテーマはとても掘り下げがいがあると思います。この粗削りぶりはなかなか捨てがたい。
11

pass
2020年04月26日(日)08時18分 Yes  +10点


読ませていただきました。

カメラにたとえた映像的な描写が終始、続いてゆく作品ですね。

乗りと勢いで書いた、というところをみる限り、冒頭からあるイメージだけを頼りにどんどん書き繋げていったという感じでしょうか。と仮定するなら、その方法は僕もよくやります。絵のデッサン的なやり方なので、書く方にとってはいい練習になりますよね。

ただ、導入部が弱い感じがします。一つは、これなら思い切って肝心の部分で一気に入ってから、細かい描写をするというのがいいように思えました。
御作は背景の説明を省いたまま進むので、映画ならいいですが、小説だと文字なので読んでいる方にやや負荷がかかるように思います。という点を踏まえると、冒頭の描写は削ってもいい部分がかなり出てくるような気がします。ちょっと冗長なんですね。推敲が必要です。そのくせ、肝心の部屋の中が、特に一番最初のくだりが淡白すぎるのではないでしょうか。<部屋の中の男は、古く染みだらけの・・・> ここに冒頭のような厚い描写がもう少し加えた方がいいように思います。これだけ引っ張っての、読者の目に映る大事な最初の描写ですから。むしろここはうざいくらいにした方がいいと思います。その方が書く練習にはよほどなるような気がします。

頑張ってください。
13

pass
合計 2人 10点


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