おとぎ話に幕引きを
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「『この世は舞台、人はみな役者だ』」
 
 空に膝丈のスカートをひらめかせ、彼女はそう言った。しゅるりと細長いポニーテールが風に揺れる。なんせ先輩が立っているのは屋上のフェンスの上だ。風を遮るものなんて何もない。
「なんですか、それ?」
 しかしそのまま放置しては今にも下着が見えてしまいそうで、僕は先輩を見上げて声をかけた。
 彼女はにんまり笑って振り返る。
「『お気に召すまま』だよ。喜劇のセリフさ」
 朗らかに答え、それからようやくすたん、と猫のようにしなやかに屋上へ着地。いや、?すたん?というのはあくまで僕が脳内で勝手につけた効果音だ。感想と言ってもいい。実際のところ、彼女の歩みには音は伴わないのだから。
「誰の―――」
 問いかけてしまってから後悔した。彼女の紡ぐセリフは一体誰の書いたものなのか? なんて、聞くまでもない。
 床に座る僕にすたすたと近づいてきて、先輩は斜め下に僕を見る。
「もちろん、シェイクスピアだよ少年」
「……ですよね」
「君、演劇部だろう? 勉強が足りないんじゃないかい?」
「演劇部なら知ってて当たり前みたいに言わないでください」
 僕、先輩みたいなシェイクスピア狂いではないので。
 嫌味を含んだ言葉は口に出さずに飲み込み、曖昧に笑って返す。先輩はふふん、とでも言いたげに目を細めて微笑んだ。
「そうかい?」
「そうですよ」
「シェイクスピアはこんなにも素晴らしいというのにね、なんともったいない」
 楽しげにそううたう声はまるで恋する乙女のようで、思わず笑ってしまう。この先輩は出会ったときから大仰で堂々としていて、恥じることはないとばかりに明朗に語る。『この世は舞台、人はみな役者だ』というセリフのとおり、彼女は呼吸するように日常を演じているのだ。
 なんとなく浮世離れした彼女と話すのは、楽しいんだけれども。
「そうだ! せっかくの機会だ、君に彼の作品のおすすめを教えてさしあげよう!」
「いえ、別に……」
「遠慮することはないよ少年、君と私の仲じゃないか!」
 出会って数ヶ月の仲じゃないか。
 先輩に聞こえないよう、そっとため息をつく。いつだって彼女はこんな調子だ。屋上に行くと必ずそこにいて、嬉しげに笑いかけてくる。
「まずは何がいいかな?定番中の定番、とっつきやすさでおすすめするなら『ロミオとジュリエット』? いや、ここはあえて『真夏の夜の夢』でもいいかもしれないね!」
 先輩は顎の下に手をやってふうむ、と考え込む。目を伏せた彼女から、僕は目を逸らしていた。背後の壁に寄りかかるように上体を後ろへ倒す。
 先輩と初めて会った日も、こんな風に晴れていた。珍しく早く終わった部活のあと、配られた台本を読む場所を探してさまよい歩き、屋上にたどり着いたのだ。
 思わぬ夕日の眩しさと春一番に目を細めて、―――見上げたフェンスの上に、先輩は立っていた。
 呆然とした。考えてもみてほしい。そこは六階建ての学校の屋上、そんな場所なのだ。人は普通、そんな場所には立たない。
 声を失った僕を振り返って、彼女は目を丸くした。それから音も立てずにフェンスの上から飛び降り、こちらへ駆け寄る。
 近寄ってきた彼女は、どこにでもいるような普通の女の子だった。ただ、浮かぶ表情だけが違っていて、
『やあ、嬉しいなあ! 私が見える人がいるなんて、思いもしなかった。はじめまして、少年。歓迎しよう―――私はここの幽霊だ!』
 彼女はにんまり笑ってそう言った。
 幽霊。そう、先輩は幽霊なのだ。その証拠に、僕は先輩に触れることができない。
「―――少年?」
「え、なんですか?」
 しまった全然話を聞いていなかった。我にかえり背筋を正すと、先輩は僕を見てぱちりと目を瞬かせる。いつの間にやら覗きこまれていたようで顔が近い。
「珍しいね、考えごとかい?」
「少し回想のようなものをしていまして」
「なるほど?」
 立ち上がった先輩の、学校指定の黒いハイソックスを履いた細い足が一歩二歩、遠ざかっていくのを見つめて僕は口を開く。
「先輩」
「なんだい、少年」
 足はくるりと反転し、彼女の目に視線を移す。
「あのフェンスの上からは、何か見えますか?」
「気になるのかい?」
「多少、興味はありますよ」
「少年はあそこに立ってはいけないよ」
 少し乾いた声で先輩は言った。てっきり少年も立ってみるかい? なんてからかい半分に言われるんじゃないかと思っていたから、真面目な返事は少し意外だった。
「そもそも、そんなところに立てませんよ」
「それもそうだ」
 笑った僕の表情を確認するように見て、先輩も微笑む。
「特に面白いものなんて見えないよ。あの白い棺桶の屋上が見えるくらいなものさ」
 なんでもないようにそう言って指さした先には、見慣れた白い建物があった。葬儀場だ。どこの市にもひとつずつ建っている。
 ?処分ナンバー?を与えられた人たちが、安楽死を迎える施設だ。世界人口と資源の兼ね合いによって厳正な抽選で選ばれた人は、十六の誕生日を迎える日に一足早い死を迎える。
 おとぎ話や戯曲のように、世界は優しくない。
「今日は何人が眠りについたのだろうね」
 夕焼けに後れ毛を金に輝かせ、幽霊の先輩は優しくうたうように呟いた。
 僕は返事をしなかった。
 
 
 −−−
 
 
「『生きるか死ぬか、それが問題だ』」
 
 降り注ぐ雨が体を打つ。先輩は驚いたように僕を見た。
 驚くのも当然だ。僕は普段、こんなことはしない。先輩がひとりで戯曲のセリフをうたっているだけだ。
「『どちらが立派な生き方か、気まぐれな運命が放つ矢弾にじっと耐え忍ぶのと、怒濤のように打ち寄せる苦難に刃向かい、勇敢に戦って相共に果てるのと』」
 流石と言うべきか、先輩は慣れ親しんだ詩のようにその続きを口にした。絶え間ない雨音の中、彼女は目を細めて笑う。
「ハムレットだね。尊敬する父王を殺された王子が、苦悩した果てに復讐を遂げる物語だ」
「よく覚えていましたね」
「私はシェイクスピアオタクだからね。彼の名作を知らないはずもないよ」
 自らを揶揄するようにオタクと称し、それから先輩は僕へ目を向ける。
「誰かに復讐でもするのかい、少年」
「誰に?」
 なんでもないように投げられた問いに、問いを返す。質問に質問を返すなんて褒められたことじゃない。
「誰に、復讐したらいいんですか?」
 でも、それ以外に言葉なんて見つからなかった。詰まりそうな息を無理矢理に通して、また問いかける。先輩には意味なんてまったくわからないだろう。
「とりあえず、屋根のあるところに入ってくれないかな。気休めではあるけれどね、そこよりはマシだと思うよ」
 言葉はただ柔らかく落ち着いていて、苛立ちも怒りもなかった。その声に少しだけ呼吸が楽になって、彼女が促すとおり屋上への入口の横、少しだけある屋根の下に入る。
 思っていたよりもずっと濡れていたようで、肌に張り付くワイシャツが気持ち悪い。これは風邪をひくかもしれないな、と思い顔を上げると先輩はまだ僕の前に立ったままだった。
 雨粒がコンクリートの床を打つ。
「先輩も、隣に―――」
 引っ張り込もうと手を伸ばし、彼女の腕を僕の手がすり抜ける。彼女はそれを見てから、目を合わせてにこりと笑った。
「私は屋根なんていらないさ。濡れないもの」
「……そう、でしたね」
「それで、何があったんだい?」
 ざくりと思い切りよく、先輩は切り込んだ。僕だったらさんざん迷い相手の様子をうかがった挙句に聞くのをやめてしまいそうな質問も、彼女は構わず口にする。
 たまに眉をひそめたくなるその聞き方は、今の僕にはほどよく響いた。
「友人が、死にました」
「それは、」
 俯いて、言葉を絞り出すようにぽつりと呟く。どうして死んだのか? と問いたかったのか、それともご愁傷さまですと言いたかったのか。僕は先輩の言葉の続きを待つことなく続ける。 
「処分ナンバー、だったそうです。昨日が誕生日で」
「……少年」
「知ってはいますよ、そういうものだって。何十人か、世界では何百人が死んでいるって」
 下げた目線の先、先輩の着ているカーディガンのボタンの一つを見つめ、こみ上げる熱を込めて冷えた拳を握る。
「でも、どうして紡だったんでしょうか」
 脳裏に友人の姿を思い出す。茶っぽい長髪に、綺麗な顔立ちをしていた。笑顔も、子供っぽくむくれる顔も目の前にあるように鮮やかに思い浮かぶ。
「紡は毎日楽しそうにしていて、まわりに優しくて、友達も多くて。とても嬉しそうに……幸せそうに、好きな人のことを話していて」
 私ね、好きな人がいるの。打ち明けられたのはもう二年も前だ。中等部の二年生の時。それでねそれでね、といつになく楽しそうに話しているのを、告白されたという噂はたまに聞くのに彼氏ができないのはそういうわけだったのか、と思いながら聞いていたのを覚えている。
 悩んだり恥ずかしがったり、それでも増えた笑顔はひどく幸せそうで、羨ましくなるくらいだったのだ。
「僕は、紡に死んで欲しくなかった。終の、あんな顔も……見たくなかった」
「……それでも、世界はそうして回っている」
 先輩の諭すような声に、目頭がじわりと熱を持つ。こらえきれず落ちた涙を袖でぐいぐいと乱暴に拭う。
「わかってるんです。そういうもので、それが当たり前で、…………でもどうして、僕が生存ナンバーなんだろう」
 とうとう敬語もとれてしまって、それでも泣いてしまいたくなくて、嗚咽を押し殺す。顔は上げられない。今、僕はきっと酷い顔をしている。先輩に、見せられるはずもない。
「やることなすこと、全然うまくいかないし、生きてる理由とか、なんで生きてるのかなんて、そりゃあ生きている方が楽だからなんてただの惰性で、毎日毎日、努力してるようなフリをして、友達と話して」
 真面目だね、とそう評されたのはいつだっただろう。本当は全然そんなことはないのだ。そう言った人の方がずっと努力しているように思えた。でも、否定なんてしなかった。貼られたレッテルに甘んじて、周りの人と同じようにやっているフリをしていれば楽だったから。
「やりたいことも、うまくなんてできなくて、思うようにできなくて、小さい頃に転んだ僕を助けてくれて、ずっと憧れてる人みたいに、優しくなんてできなくて、僕は、あの人みたいになりたかったのに」
 幼い頃、転んだ僕に向かって大丈夫かい、と差し伸べられた手を思い出す。水道で傷を洗って、きれいなハンカチを膝の傷に巻いてくれた。その子も子供だったから上手くなんてできなくて、水は傷にしみてベソをかいたしハンカチは家に帰りついたときにはずり落ちてしまっていた。
 それでも、その人は優しかった。ヒーローみたいだって思ったのだ。
「…………でも、なれてない」
 優しくしようと思っても、わざとらしくなってしまう気がしていた。傷つけてしまわないように優しい言葉を選んでも、優しく対応しても、自分の中でもっともらしく、?優しくした?と正当化されるだけ。憧れたものとは全然違っていた。
 毎日、ひどい悪夢を見ているみたいだ。やり直したいと何度願ったかも忘れてしまった。こんな僕が、どうしてあんなふうに。
「紡みたいに、幸せに生きられるなんて全く思えないのに。……どうして、紡が生存ナンバーじゃなかったんだろう。なんで、僕が処分ナンバーじゃないんだろう」
 吐いて、吐いて、吐き出して。衝動のままに言葉を吐き散らす間、先輩は何も言わず、身動きの一つもせず、ただ立っていた。
 とんだ弱音、意味のわからない泣き言だ。迷惑だろうに、先輩はどんな顔をしているだろう。嫌な顔をさせてしまったかもしれない。
 たっぷりと雨音が響いて、不意に先輩は素早く身を翻した。
 顔を上げた僕の目の前を背を向けたまま歩き、ひらりと猫のように高いフェンスの上に立つ。
 謝るべきか、とその背に歩み寄り、
「『死ぬとは―――眠ること、それだけだ』」
 足を止めた。そのセリフはなんだったか、するすると先輩は紡いでいく。
「『そう、眠れば終わる。心の痛みも、この肉体が受けねばならぬ定めの数々の苦しみも。死んで眠る、ただそれだけのことなら、これほど幸せな終わりもありはしない』」
 それはつい先程、僕が投げ先輩が続けたセリフの続きだった。
 彼女は朗々とうたい、雨の中にその余韻が消えるのを待って、そうしてようやく、振り向いて僕を見下ろした。
「その質問を私にするのかい、少年」
 あれほど窺いたかった表情を見て、僕はようやく後悔した。
 先輩は、もう二度と雨に濡れない体で、もう二度と落ちることのないフェンスの上に立って、初めて見る顔で―――眉を下げ、困ったように笑っていた。
 
   
 −−−
 
 
「『ああ、どうしてあの方はロミオなのでしょう』」
 
 静かな―――静かな屋上で、そっと呟いてみる。すかさずあとを続ける声は聞こえてこない。今日、どうしてだか先輩は屋上にいなかった。僕が来る時には、必ず先にいるのに。
「『ロミオ様、どうかその名前はお捨てになって。そうすれば、私のすべてをあなたに差し上げてしまえるわ』」
 ……それとも、もう彼女はここにいないのだろうか。やはりこの前の雨の日、機嫌を損ねてしまったのだろうか。
 そこまで考えて、あれ? と首を傾げる。僕は今日、どうやってここに来たんだったっけ?
「『お言葉通り頂戴致しましょう』」
 バン! とドアが開いた。驚いて振り返ると、ポニーテールを揺らした先輩は入口に堂々と立っていた。
「『ただひとこと、僕を恋人と呼んでください。その言葉こそ新たな洗礼、その時からもう、僕はロミオではなくなります』」
 いつもと変わりのない先輩の姿にほっとして胸をなで下ろす僕に構うことなく、先輩は床に座る僕につかつかと歩み寄り膝をついた。胸に手を置き、目を細めて微笑む。まるで恋人に愛を囁くようなその仕草に思わず顔が赤くなる。
「先輩……いたんですか?」
「いいや、今来たところさ。『恋の翼を広げ、こんな塀などひとっとびです』ってところかな?」
 くすくすとからかうように笑い、それから先輩は立ち上がった。“休め”をするように、手を後ろに回す。いつもの先輩だ。どうやら、本当に機嫌を損ねてはいないようだった。
「さて。今日は少し、私の話を聞いてくれるかな?」
「先輩の話、ですか?」
 思わず、姿勢を正した。こうして先輩が真面目に話を切り出すのは初めてだ。背筋も伸びる。
「そうとも、私の話さ。ああ、愉快な話ではないから期待はしないでもらいたいけれど」
 先輩はくるりと半回転、フェンスの金網の方へすたすたと歩いていく。僕は慌てて立ち上がり、彼女の後ろ姿を追いかけた。
 立ち止まった彼女はその胸に左手をあて右腕を広げて、お手本のような笑顔を浮かべた。
「私は、?処分ナンバー5284?だった」
 ゆっくりと振り向き、先輩はそう言った。吹き込む風が、スカートを揺らす。
 特に、驚きというものもなかった。そうじゃないかな、とは思っていた。幽霊なんて見るのは彼女だけだけれど、十六歳くらいが死ぬ理由なんてそれくらいしかない。
 彼女は続ける。
「幼い私は、死の運命をなんとも思っていなかった。友人と遊び回り、日々を楽しんで生きている、普通のどこにでもいる女の子だったのさ。だが、転機が訪れた。同じ処分ナンバーを与えられていた従兄弟が死んだんだ。寡黙で優しい彼は、冷たい亡骸になってしまった。彼の葬儀は沢山の人が来ていたよ。泣いている人もいた。ああ、人が死ぬのはなんと悲しいことだろうか。幼い私はそう思った。だが時は流れ従兄弟の家を訪れたとき、そこにもう彼の部屋はなかったんだ」
 先輩は俯いた。右手を力なく脇に下げ、ぽつぽつと呟くように言葉を紡ぐ。
「幼い私は怖くなった。こうして消えて、いつしか誰の記憶からも失われていくんだろうか、と……そう思うと、死ぬのが怖くてたまらなくなった。だから、?私?を演じることにした」
 ぱっと顔を上げる。それから彼女は、カーテンコールを迎えた役者のような、大仰なお辞儀をしてみせる。
「?私?は演劇かぶれの変わり者。夢の舞台に立つ役者のごとく、人が転べばひざまづいて手を差し伸べ、胸に手をあてて悲劇を嘆き、溢れる熱を込めて愛をうたう。こんな人がいたと、誰かの記憶に残れたらいいと思ったのさ。―――ところで君はご存知かな。この屋上のフェンスだが、昔はもっと低かった」
「……そうなんですか?」
 切り替えるように問いかけられた言葉にやっとのことで返す。正直、ついていくのもやっとだけれど、止めようとは思わなかった。今語られているのは、先輩の生きていた話だ。出会った時には、もう死んでいた先輩の。
「あらゆる物事には理由がある。このフェンスが高くなったのは、私が飛び降りて死んだからさ」
 先輩は微笑み、フェンスの方へ振り返る。
「これは私の墓標だ。今でも、鮮やかに思い出せる。落ちた自分の頭は、熟したざくろのように割れて中身をこぼしていた。ああ、人間の頭とはかくも簡単に割れるものか!……そう思った」
 金網に先輩の手が伸びる。撫でるように触れる彼女の表情は窺えない。
 体の横で両手を握る。飛び降り。痛かったのだろうか。アスファルトの地面にぐったりと横たわる先輩の姿を思い浮かべ、顔をしかめる。
 ポニーテールを振り回すように、先輩は勢いよく振り返った。
「春の四ツ谷公園。私は十一年前、転んだ少年にハンカチを貸したことがある。おそらく君ではないかな、―――くん」
 え、と言葉にならない声が漏れる。あの子が、先輩?目線を下に向け記憶を掘り返せば確かに、役者のような言動といい重なるところはあるけれど。
 彼女は目を細め、冴えた笑みを見せた。
「考えたんだ。少年、君はね、もっと好きに生きていい。君のなりたい人だって、こんなものだよ? 好き勝手にやって死んだだけ。優しさなんて自己満足。周りが勝手に評価をつけるだけさ」
「そんなこと、言われたって」
 僕は俯いた。確かにそうかもしれないが、それはまわりを切り捨てろと言うのと同じではないだろうか。評価なんて気にするな、なんて、そんな簡単に捨てられるわけがない。先輩みたいに、周りと違うことをする勇気は僕にはないのだ。
 目線すら合わせない僕に向かい、からりと明るい声で先輩は先を続ける。
「まあ、ね。こんな言葉で君が楽に生きられるだなんて私も思っちゃいないよ。でもね、私は君を助けたいんだ! あのとき、君が笑ってくれたのが、私はすごく、すごく嬉しかったから」
 あのとき、とはいつのことだろう。いつも僕は、先輩の言葉に笑って、その明るさに元気をもらってばかりなのに。
「だから、私は君に生きる理由ってやつを押しつけてみようかと思う」
 たたっ、と素早く先輩が僕へ歩み寄る。思わず顔を上げた僕にその言葉の意味を問いかける時間すら与えず、彼女の手は僕の手に伸びて、しっかりと掴んだ。
「……え、」
 驚くまもなく、後ろへ、後ろへ手を引かれる。先輩の背がフェンスにぶつかりそうになって、ようやく止まる。突然のことで勢いを殺しきれず、よろめいた僕の肩をつかんで―――目を見開く僕の唇に、先輩は口づけた。
 やわらかな感覚。感情が感覚に追いつかない。
「どうか死ぬまで、私のことを忘れないで」
 耳元で、そう囁かれる。そうして、驚きの冷めやらぬ僕を、思い切り突き放した。
 フェンスの向こうへ。
 手を伸ばす僕の体は、幽霊のように金網をすり抜けて、
「先ぱ―――」
 フェンスの向こう側、落ちていく僕に向かって先輩は晴れやかに笑った。
 地面を失った足が空を掻く。ジェットコースターに乗ったような浮遊感。
 青い空と、彼女の姿に白くもやがかかり、消えていく。
「さあ、君の舞台はまだ続いているよ、少年!」
 最後に、そんな声が聞こえたような気がした。
 
 
 −−−
 
 
「『さあ来い、無情な道案内、さあ、味気ない先導役、おまえはやぶれかぶれの舵取りだ』」 
 
 上演中、落ちた照明が後頭部に当たって意識不明の重体。僕は三日間も昏睡状態だったらしい。
 抜糸も済み、もうすっかり痛みも引いた後頭部に触れて、僕は空を見上げた。
 太陽は少し西に傾いている。夕焼けはまだ遠い。
「『 波に揉まれて疲れた小舟を今こそ岩にぶちあて、打ち砕け』。我が、―――」
 続きのセリフは声に出さず、目を伏せて飲み込む。もう、うたうようにセリフを紡ぐ先輩はここにいない。
 どうして病院で眠っていた日、ここに来たなんて記憶があるのか。まぶたの裏に鮮やかに蘇る、あの日の屋上を思い出す。
 記憶が混濁している、とも捉えられるが、やはりあれこれおかしい。
 あのとき、確かに先輩は僕に触れた。幽霊の先輩には触れられないのに。しかも、僕は屋上から突き落とされ、フェンスをすり抜けて落ちて、落ちて―――それなのに、まだ生きている。
 感触を思い出すように、手を眺める。
 もしかしたら、あのとき僕は幽霊にでもなっていたのかもしれない。そうすると、先輩は僕を連れ戻しに来てくれたのだろうか。『さ迷う幽霊は死んで、そうして生き返った』……なんて。
 おとぎ話のような夢物語だ。けれど、そう信じてしまいたいのはやはり、
「先輩、 そろそろリハしますよー!」
「はーい、もう戻るー!」
 開け放したままの入口、階段の下から後輩の声が響いて、僕はそう返した。
 さて、と気持ちを切り替え、大きく伸びをする。
 あれからも毎日、悩みは尽きない。けれど、少し息をするのが楽になったような気がしている。
 今度、終の家を訪ねてあの話をしよう。いい加減、紡の墓参りにでも連れ出すべきだ。先輩のように、笑わせられるかはわからないけれど。
 最後に、フェンスの向こうを眺めてみる。灰色の街並み、白い棺桶。窓ガラスはきらきらと光を反射する。
 なんとなく、先輩が最後に言った言葉を思い返す。
「僕、恋に生きるには向いてないんだよなぁ」
 死ぬのは怖い。ここから落ちるだなんてもう二度とごめんこうむる。それに、だ。
 あの人に忘れないで、なんて言われちゃ、死ねないじゃないか。
 僕は先輩を真似て、目を細めて笑ってみる。
 
 さて、戻ろう。日常が、僕らを待っている。
なめろう 

2020年03月19日(木)15時14分 公開
■この作品の著作権はなめろうさんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
2年前、高三の最後の部誌に載せた作品です。


この作品の感想をお寄せください。

2020年04月02日(木)20時10分 ふじたにかなめ 
拝読させていただきました。

先輩のキャラクターは個性的で良かったと思いました。
シェイクスピア好きという印象が強いですよね。
文章は読みやすかったです。
また、先輩が出す雰囲気も良かったと思いました。


設定についてですが、
SF的な世界観は良いと思いますし、ドキハラな理由になって良かったです。
ただ、部活の練習で屋上に行く主人公の設定と、主人公の自殺願望の設定は合わない気がしました。
前者は生きることに積極的な感じですし、後者は何事もやる気のない印象です。


次に構成についてですが、
最初に先輩のキャラクターを印象的に描いてあるので、
彼女との関係性を物語的に強く感じました。
ですが、途中から友人の死と主人公の自殺願望の問題が出てくると、
主人公と他キャラとの関係性が複雑になり、趣旨が分かりづらくなったような印象を受けました。

また、転んだ主人公を助けてくれた人に憧れを抱いていたという説明がありましたが、
その設定が後から出てきたのと、伏線自体も見当たらなかったため、その助けてくれた恩人が○ ○ だったというオチに唐突感がありました。
こういう過去ネタを入れるなら、一番最初のシーンに描いたほうがいいと思いました。
次に主人公の自殺願望を描き、屋上に行ったら先輩に会ったという流れのほうが、
自殺願望の問題を解決した話のラスト的に良かった気がしました。


自分のことを棚に上げて色々と気になる点を書きましたが、
あくまで個人の意見ですので、合わなければ流していただいて構いませんので!
お互いに頑張りましょうね。
ではでは、失礼しました。

20

pass
2020年03月19日(木)18時21分 あおいしょう  0点
読ませていただいたので、感想書かせていただきます。

全体的な印象としては、深いことを言っている感じはあるけれど、実感として胸にしみてこない。という感じでした。
友人が死んだこと、『あの人』になりたかったこと。それらが会話だけで進んでいるので、ただの説明に近い感じで、胸に迫ってきませんでした。

友人である紡と終との関係が、紡が死ぬ前に描写されていたらまた違ったと思います。
直接登場してもいいですし、先輩に友達たちと何かしたエピソードなどを話すとかでもいいですし。
とにかく友達たちが、主人公にとってどれだけ大切な存在かというエピソードが欲しいです。

個人的には、先輩と主人公だけの空間、みたいなこの作品の雰囲気が好きなので、友達たちは直接登場しない方が雰囲気がそのままになるかなぁ、とか思います。

ちなみに言うと紡と終が人物名に見えなかったので、名前が初めて出てきた時は一瞬「ん?」ってなりました。(読みはつむぐ、と、しゅう、でいいでしょうか)

私なら

「でも、どうして紡(名前の読み)だったんでしょうか」
 脳裏に紡の――友人の姿を思い出す。

という風に書くでしょうか。

『あの人』になりたかった、というところも、別の章で描写が欲しいところですね。この作品だと、友達が死んだことへの気持ちを吐き出してる時に一緒に吐き出されているので、なんというか『強い感情× 強い感情』で印象が相殺されてしまってる感じで、心に残りにくいと感じました。
心に残る描写があったなら、先輩がその人だったとわかった時はもっと強い感動を受けたかもしれません。

と、色々描きましたが、この作品の雰囲気はとても好きでした。若くして処分されてしまうという設定も、そして先輩の最後の行動もよかったです。

というわけで感想を終わらせていただきます。
20

pass
合計 2人 0点


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