今夜は新月だったので、とりあえず大人になってみたけど止めました。
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 僕が果てたのを確認すると、リンさんは早々に身体の重なりを解いて、ベッドを去って行ってしまった。
 気まぐれなんかじゃなく、決まって僕はとり残される。撫でる髪すらなくて手持ち無沙汰になった僕は、射精した際の倦怠感と喪失感だけを腰に携えながら、シーツに寄った皺を丁寧に直していく。あるいはベッドメイクをして、汚れていたら取り替えたりして、そうして僕が、彼女がいた痕跡を消して逢瀬が終わるのが常だ。
 きっとこの関係が終わるときも、こうやってシーツの皺を直しているに違いない。根拠はないけど、多分そうだと思う。
 ふわっと夜風が吹いて、開け放たれた窓から食べ物の混ざった匂いが運ばれてきた。向かいの竹林飯店とかいう中華料理屋だ。室外機の熱気がその匂いにこもって、やけにむさ苦しい。少し遅れて、タールの濃い煙草の匂いがそこに加わる。昔は嗚咽もしたけど、いつだか慣れてしまった。今では、会う度に感じるギャツビーのメンズワックスの残り香だって全く気にならない。
どうやら、鈍くなったのは鼻だけではないらしい。
 けど、未だに期待を捨てきれずにいられるのは、鈍いままで良いと妥協しているお陰なのかもしれない。そんな期待の仕方があったっていいじゃないか。僕はまだ十八歳だ。
それに、【女性は肉体関係を持つと心を許したと感じ、もっと一緒にいたいという欲求が出てきます】って、ネットの記事にも書いてあった。
 実際、そうだと思う。だって、リンさんは一度きりじゃなくて何度も僕と会ってくれるし、会いたいと言えば拒むことだってない。僕の身の上話や悩み事だって、嫌な顔せずに聞いてくれる。それって僕に心を許しているってことだ。
 ……いや弱ったな、僕は女の子なのかもしれない。
 だとしたらこれは、リンさんが事後そっけなくなるせいに違いない。僕が男になるよりも先に、リンさんに男を奪われてしまったのだ。
 いつの間にか窓は閉まっていて、窓辺にリンさんの姿はなかった。
 僕はずり落ちるようにベッドを降りて灰色の絨毯に座り込むと、おもむろにベッドの側板に背中を預けた。ひんやりとしていて、ちょっと心地いい。そのままぼうっと天井を見上げる。頭上を照らす輪状の蛍光灯は、薄暗い部屋の中にうっすらとオレンジ色の光を広げていた。明るさも色も距離も何もかも違うけれど、月みたいだ、と思った。
 リンさんも、月を見上げたりするのだろうか。故郷の、中国から見る月のほうが綺麗だったりするのだろうか。
 遥か昔、詩人のおっさんが異国の空から日本の月を見たように、リンさんはここではないどこか遠くの場所を見つめている。それだけは確かだ。
 そう思うとなんだか堪らなくなって、急いで立ち上がり、窓の傍まで迫った。
 そうして覗き込んだ先には、どこにも月は無かった。そういえば今日は新月だった。空には夜の帳だけが降りて、町全体を包んでいる。僕は小さくため息をついた。
 深い夜の帳は月を際立たせる効果がある。今日はまだ、その時ではないのだ。
 そういえば、僕が初めて夜を知ったようなあの時も、月の姿は無かった気がする。
 
 そもそも、リンさんと知り合ったのは大分昔で、初対面はまだ大学にも入りたての頃、町はずれにある喫茶店にバイトの面接を受けにいった時のことだった。
 店に入った時、リンさんはテーブルを拭いていた。その、前屈みになった際に垂れた長い黒髪や、そこに収まった顔の輪郭や、虚ろな目から零れる退廃的な雰囲気といった類のものを目の当たりにして、とっさに僕の脳みそは、それを美しい、と判断した。
 その日は簡単な自己紹介以外の会話をすることはなくて、ほぼこちらがただ一方的に視線を送っていただけのコミュニケーションだったが、当時の僕はそれでも有り余るほどの満足感を得ていた。
 
 そこから、何をするにもリンさんを意識していたけど、バイトにも慣れてきた頃のある日、決定的な出来事が起こった。
 それは厨房で、二人で洗い物をしていた時のことだった。僕が食器を洗って、リンさんが拭く役目だった。食器を洗っては渡しの繰り返しの中で、マグカップに付いた洗剤を落とし終えた僕はいつもの流れで、拭きものをしていたリンさんにカップを渡した。リンさんは本体ではなく柄の部分から受け取ろうとした。僕が持っていたのは柄の部分だった。ふいに手と手が、触れてしまった。
 もし僕が、リンさんの手に故意に触れようと画策していた事だったなら、きっと無知のままでいられたのかもしれない。
 けど、あまりにも唐突な刺激に思わず頭が真っ白になって、気づいた時には、僕は勃起していた。
 そこでようやく自分の気持ちを理解した。僕は、恋をしたのだと。
よく、男は股間で物事を考える、なんて揶揄されるけど、僕はあながちそれは間違ってないと思っている。少なくとも僕はそれだ。
 恋の高まりに比例して情欲も昂る。手をつなぎたい、抱きしめたい、キスしたいという欲が出るほど、ペニスを挿入したいという願望が生まれる、なんて。卑しいと思うだろうか。
 
 だからといっては元も子もないけど、いてもたってもいられなくなって、あくる日の晩、バイト終わりの時刻を合わせ、彼女をご飯に誘った。リンさんは二つ返事で、いいよと言ってくれた。
 高すぎず、安すぎない位のイタリアンに行った。外には三色の国旗が掲げてあって、内壁は煉瓦で、頭上にはシーリングファンが回っているような、雰囲気の良い店だった。
 僕は色んなことを喋った。バイトの事、大学の事、それから過去の恋愛の話なんかもした。リンさんは基本、受け身になって僕の話を聞いてくれた。だから余計に、夢中になって喋った。  時々、息継ぎをするようにパスタを口に入れて、また喋り続けた。レストランを出た後、恐る恐る、もう少し一緒にいたい、と言ってみた。リンさんはこれも二つ返事でいいよと言ってくれた。
 それから僕たちは、しばらく夜道を歩き続けた。じきに、店のあった路地を抜けて、大通りに出た。会話はまだ無い。僕は辺りを見渡した。まだ夜も酣だというのに、人通りはやけに少なかった。ときおり耳に付く車道をひた走る車の音が、やけに慌ただしい。
 ポケットから無造作にスマホを取り出して、電源をつけた。ラインの通知も、新着のメールもなかった。9時半か。ぼそっとそれだけ呟いて、再びポケットにしまった。
 やがて僕たちは大きな交差点に差し掛かった。このまま横断歩道を渡って、まっすぐ進めば駅だ。信号は、しばらく青になりそうにない。僕は目を瞑る。空を見上げて、月が少しでも出ていたら、まっすぐ進もうと心に決めた。今日は雲一つない快晴、それを知っていた。
 目を開けて空を仰ぐと、あんのじょう空は一編の曇りなく晴れていて、大きな星がゆっくりと瞬いていた。ずっとアスファルトを見ていたから、そんなことも気づかなかった。何の星座なのかはさっぱり分からないし、ひょっとしたら飛行機の光か何かと勘違いしているのかもしれないけど、とても綺麗だと思った。
 でも、月はどこにも見当たらなかった。そういえば今日は新月だった、それを忘れていた。
僕は左に曲がった。
 ベッドに腰掛けて、膝の上に手を組む。水が滴る音が聞こえる。その音に視線を向けて、まだその時ではないことを悟り、息をついて視線を膝に戻す。
 きっと今まで数えきれない位の人達が、僕と同じ体勢で、僕と同じ時間を過ごしてきたんだと思う。その時、彼らは思い、何を感じていたのだろう。緊張? それとも興奮? 達成感とかもあるかもしれない。人の感情の機微なんてそれは様々なのだろうけど、怖れを抱いていたという人間は結構レアなんじゃないだろうか。
 なにか大切なことを知ろうとすれば、往々にしてそれなりの危険を伴うものだ。それは例えば国家の重大な機密だったり、世の中を回してる物事の本質、身近なところでいえば自分に向けられた感情なんかもそうだ。僕の場合は自身の仕組みについてだった。
 正直、本当は納得なんてしていなかった。リンさんを好きな気持ちが、このどうしようもなく愛しい気持ちが、勃起と共にやってきて射精と共に消えてしまうような、そんな浅ましいものだなんて、あるはずがない。僕の純情を、自ら信じられる確信が欲しかった。
 実は、以前に一度、自分で試してみたことがある。方法は、リンさんを思い浮かべてオナニーをしてみる、というものだ。馬鹿らしいけど、それが一番確実だと思った。そうして射精をした後で、それでも僕の心にリンさんを好きな気持ちが残っていれば、それこそは純情なんだと、自分を信じてあげられるではないかと考えた。
 結果は、成功だった。射精した後の虚無感の中でも、変わらず僕はリンさんの事が好きだった。
 でも、それは違う気がした。まだ奥につっかえたままの二度目の射精が、そうさせているだけのような気がした。でも僕は二度目のオナニーをしなかった。
一度勇気を振り絞って試してみたことが、かえって二度目を臆病にさせていた。
 だから未だに、恐れは胸にべったりと張り付いたままだ。精液みたいに、液化して流れていってはくれない。
 けど、セックスなら話は別だと思った。もしもあんなに『好き』が間近に差し迫ったら、あるいは『エロい』のすべてを目の当たりにしたなら、いくら僕の馬鹿な脳みそでも、一度の経験で理解するはずだ。それに、受け入れてもらえたという事実さえあれば、それの成り立ちがどうであろうと自分を否定せずに済むような気もした。でもそんなこと叶うはずもないから困っていた。
 なのに、いつのまにか、こうして僕はラブホテルのベッドに腰掛けている。足を小刻みに揺らして、深く息を吐いている。未知が、可能性が目の前に迫っている。ドライヤーの吹く音が響いた。
 しばらくして、その音も止んで、ガラスのドアが開いて、ほんのり湯気を纏ったリンさんがバスローブ姿で現れた。
 髪が、ほぐれていた。僕の視線に気づいて軽く微笑み、おもむろに隣に座った。胸元に白い起伏が垣間見える。視界が消えて、いや塞がったのは口か。窒息しそうだ。視界が開けた。ベッドのスプリングが撥ねて、枕に髪の束が広がる。見下ろした先には、首筋だ。
 大丈夫、よく思い出せ。僕がリンさんを好きになった理由を。
 そうだな、まず、思いやりがあるところが好き。
 それから、他者を気遣うことが出来るところも。
 それに、そう、一緒にいると居心地がいい。
 えっと、優しい。
 いや、どれもしっくりこない。
 震える手でバスローブの帯を解いた。乳房が丸出しになった。陰毛は黒色だった。眩暈がした。かかっていた靄がすべて晴れて、そこには全部があった。
 艶やかな黒髪、そこに収まった顔の輪郭、虚ろな眼差し、流線の滑らかなうなじ、スレンダーな体躯、健康的で白い肌、ピンク色の乳首、それから――
 朦朧とした自我の中で、ひねり出すように、ゴム、と小声で呟いた。リンさんは、ゆっくりと首を横に振った。横、確かに横だ。僕は、それでもどうにか理性を保って踏み留まって、やっぱりゴムはつけましょうと言った。
 つもりだった。
 気づいた時には、僕はリンさんの中にいた。頭がその感触に追い付かなくて、白目を剥きそうになってしまった。声にもならない声が漏れた。
あったかい、が一番初めの感想だった。続いて、纏わりつくような快感がやってきて、それから好きが込みあげてきた。
 リンさんが、遠くから見ていただけのリンさんが、今僕のそばにいる。
 パーソナルスペースよりも、ハグよりも、もっともっと近い場所にいる。
 嬉しい、幸せだ、好きだ。
 こみ上げるそういった飾り気のない気持ちだけを、押し出すように、打ち付けるように、ただひたすらに腰を振り続けた。
 そうして気持ちを伝えきるよりも先に、瞬く間にオーガズムはやってきて、僕は果てた。
出したというよりは、出させられたといった感じだった。
 空気に射精するのとは違う、なんとも言えない閉塞感を股間に感じながら、そのままリンさんの胸に倒れこむ。
 初めてだった。いつも自分の中に溜まったまま、自慰によって不完全に消化され続けていただけだったこの愛情が、息をする空気を得ることで、じんわりと染み出てきたような感覚。
 そして同時に、これがセックスか、という感慨が胸に湧いた。
 もし、それが間違っていたとしても、確かに感じたことだ。
 僕はセックスを知った。
 そこからしばらく、僕とリンさんに会話は無かった。ただ僕は、リンさんの胸の中に自身の体重を預けたまま、乱れきった呼気をゆっくりと落ち着かせていた。
 でも、とても心地よい静けさだった。夜道を歩いていた時のそれとは違う。
 リンさんの呼吸に合わせて、僕の頭がゆったりと浮き沈む。暖かな海に揺蕩っているみたいだ。昂った性のフィルターを通して感じた、あの蝕むような激しさを帯びた熱とは異なる、柔らかくてじんわりとした肌の温もりが僕を包んでいる。どこか懐かしいようで、眠気すら感じさせ、きっとまた戻ってきたくなる。
 当てはめる言葉があるとするなら、人はこれを安心と呼ぶんだろう、そう思った。
 そして僕は、リンさんに愛の告白をした。
 好きです、僕と付き合ってください。驚くほど、スッと言葉が出てきた。目を見て、身体を起こし、真っすぐ向き合った。正確にはわからないけど、おそらく人生で一番凛々しい顔をしていたんじゃないかと思う。
 でも、考えればその理由ははっきりしていた。
 最低かもしれないが、僕がもし仮にコンドームをつけてセックスをしていたなら、いや、もっと言えば、膣に精液を中出ししていなかったなら、僕はリンさんに告白をしなかっただろう。
 というのも、僕がセックスを経て、自分なりの恋愛を理解したからに他ならない。
 これは俗説だが、ペニスが、キノコの傘のような返しのある形状をしているのは、他のオスが出した精液を掻き出して、自分の精子を受精させ易くする為なのだという。
 要はそういうことだ。
 自分の精液で、メスを独占したい。だから告白をした。
 多分、僕は焦っていた。拠り所が、そういったこじつけに近い生物論しかなかったから。
 一刻も早く、リンさんと交際する必要があった。
 とはいえ自信はあった。はい、と言わせておいて、後出しで告白したようなものだったから。
 なのに。リンさんは首を横に振った。横、確かに横だ。姿勢を起こして、真っすぐ僕と向き合っている。出した答えに不安はないようだ。
 あれだけ、あれだけ食事の誘いにも、ホテルの誘いにも、僕の欲望を軽々と二つ返事で快諾してくれたリンさんが、僕が最も欲しているものに限って、首を横に振る。
 それ以上言葉は出なかった。理由も聞きたいとは思わなかった。
 もちろん驚きはしたし、気落ちもした。でも何故か、妙にあっさりと納得が芽生えて、大きくなって次第にそれらを均していくのを感じた。
 ペニスの形状に意味があるように、僕の恋愛にも何かしらの意味があるのだと、そう思いたかった。けど、どうやらそれは違っていたらしい。
 間違いを間違いだったと教えてあげること。
 それが、僕とリンさんの初の共同作業になった。
 いつしか、身体の火照りは影を潜め、滴る汗や荒い息で出来た熱気の膜もさっぱりと剥がれてしまっていた。肌に残った冷ややかさをブランケットからはみ出た肩先で感じながら、さっきまで包まれていた肌の温もりの成り立ちは、愛とか慕情とか安らぎなんかで出来ているのではなく、単にセックスの余韻であったことに気が付いた。
 リンさんは沈黙を破るようにベッドを降りて服を着終えると、ホテル代を置いて、早々に部屋を出て行ってしまった。

 それで、僕とリンさんの関係は終わったのだと思っていた。
 しかしその三日後くらいに、バイト終わりにリンさんの方からホテルへの誘いが来た。
 驚いたし、気まずさやらなにやらで普通なら断るものなんだろうけど、僕は割とすぐに首を縦に振った。
 実のところ僕は、一度否定され、二度否定してなお、未だリンさんへの想いを断ち切れずにいた。
 もちろんリンさんが僕に求めているものは色恋の関与しない関係だということは理解しているつもりだ。その利害はたまたま噛み合ってしまっただけで、僕の気持ちが理解され、認められたからではない。
 かといって、その誤りを修正し、アタックし直そうにも、どうすればいいか勝手がわからない。
 ならば、リンさんの傍にいることで、なにか正解のヒントが貰えるかもしれない。
もしくはリンさんの気が変わって、僕の好きが正しい好きになる可能性だってある。
 それに、この関係が一番ニュアンスが近い気がした。
 僕の脳が勝手にそう認識してるだけかもしれないが、それはこの際気にしないことにする。
 と、まあ色々考えてはみるものの、思惑や利害なんかがどうあれ、リンさんとまだ一緒にいることが出来るなら、僕はそれだけで嬉しかった。
 理由なんて全部後付けで、結局はそれがすべてだった。

 そうして何度かホテルでの逢瀬を重ねたのち、僕はリンさんの自宅に招かれた。
 正直、心が躍った。きっと、リンさんの中で何か気持ちの変化があったに違いない。そう思ったのだ。
 リンさんの自宅は、バイト先の喫茶店から歩いて五分位の場所にある、二階建ての古びたアパートだった。
 リンさんがドアノブを回して、顎先で入るよう促す。
 僕は恐る恐る、意味もなく背筋を丸めて、そっと玄関に入った。
 柱や絨毯、柔軟剤の香り、家の香りが鼻腔をついた。落ち着いた、いい匂いだ。
 六畳、一DK。一人暮らしなら、少しは余裕のある空間。その時はまだ、そう思っていた。
 きっと、僕はどこかで驕っていたのだろう。何度かセックスにありつけたという事実が、いつしか修正液で塗った白地にべったりと上書きされてしまっていたらしい。
 恋は盲目というけれど、ただのセフレを恋人と見間違うようなら、それはもう眼科に行った方がいい。僕はもはや、裸眼では生活できなくなっていた。
 そう。きっと歯ブラシは二本同時に磨いた方が、効率がいいのだろう。そうに違いない。
 パツパツのショーツよりも、ゆとりのあるトランクスを履く女性だっている。
 女が精力剤を飲む時代がすぐそこまで来てる。
 なら子供が間違えて他人をママと呼ぶことだって……
 ないか。ない。そこまで曇ってはいないよな、君も、僕も。
 そういえば歯ブラシは三本あったかもしれない。
 頭を撫でると、にっこりと笑って指でピースを作ってくれた。可愛いね。
 リンさんには子供がいた。
 シュウ君、近所の小学校に通っているらしい。僕とは時間が被らないが、店によく遊びに来るらしい。それから、産んだのはどこで、赤ん坊のころはどうで、それから……
 いつのまにかリンさんの声は耳に入ってきていなかった。ただ、打ちひしがれていた。無力に、愚かさに。何がリンさんを独り占めだ。何が避妊具なしのセックスだ。あんなの、あんなのもう掻き出しようがないじゃないか。
 僕はそうして、密かに抱いていたリンさんと結婚する夢をあきらめた。
 そうしてわずかに残った恋の残滓に後ろ髪を引かれて、錆びついた滑り台みたいになだらかに関係をスリップさせ続けた。そしたらいつのまにか時が経って、季節は四回も変わったけど僕は何一つ変わらないまま、歳だけは嵩んで大学二年生になった。
 僕の過去は、それですべてだ。
 記念日なんて大層なものはあるわけもなくて詳しくは覚えていないが、こうして夜空を見ればあの日との距離だけは正確にわかる。でも、はっきりとしているのはそれだけで、あとは気持ちも答えも未来も過去も、全部あやふやで曖昧なまま今もこうしてセックスを繰り返して、いつも通りに取り残されて、不安になって夜空を見上げ、過去を思い出している。
 でも、正直それでいいとも思っていた。
 曖昧だろうが何だろうが、変わらずこうしてリンさんへの想いを抱き続けられている。他の異性に目移ろいせずにいられることが自分の中での誇りになっている。それに僕は彼氏すら知りえないリンさんの色んなことを知っている。
 例えば……
 あれ? 例えばなんだろう。
 僕のバイト先の先輩でセフレ。中国人。黒髪で、綺麗な人。子供と彼氏がいる。
 それだけ? 
 …………。
 何も、知らない。 
 何も知らないじゃないか!
 あれだけ近くにいたのに、あれだけ一緒にいたのに、僕はリンさんの事を何一つ知らなかった。
 僕は僕を通してしか、リンさんと接していなかったのだ。僕は愕然とした。
 知る機会はいっぱいあったはずだ。でも、僕はそれをしなかった。
 それだけ、自分の恋愛に我儘で、相手を雑に扱っていたということだろうか。
 あるいは、相手の多くを知らずとも、二人の心と体さえ通じあえば結ばれるだろうと愛を信頼していたのか。多分どちらも違う。
 認めたくないけどきっと僕は、知るのを避けていたんだ。そして知るのを怖れていた。
 知るというのは、往々にして偉大なことだと思う。どんなことであれ、自分の生活や、考え方、人生に至るまで、幅広く道を示してくれる。もし必要のないことを知ったとしても、それが必要で無かったことを知ることが出来る。すべては自分に帰結する。だから、人々はみな知識に飢える。
 だけど、知識は不可逆性のものだ。一度知ればもう昔には戻れない。
 僕はずっと、可能性に、未知に期待して生きてきたし、多分これからもそうだ。
 人が死を恐れるのは、いまわの際の痛みを味わうのが嫌だからではなくて、自分の目標や夢、未来のパートナーや子供たち、まだ見ぬ景色や感動や興奮、そういった可能性たちが死ぬのを恐れているんだと思っている。老人が死を恐れないのは、それらすべてを体験し、知り尽くしてきたからだ。
 だから、大人になるということは、知ることなんだと思う。
 色んなことを知って、成功や失敗を繰り返して歩んでいって、ふとしたときに急に童心に帰りたくなって、駄菓子を食べてみても、玩具で遊んでみても、あのころ味わった興奮と同じものは得られないことに気づく。
 そうして、一つの事を二度することは出来るが、二度知ることは出来ないことを知るのだろう。
 それは、果たして幸せなことなのだろうか、と思う。
 一度見た映画は、二度と同じ映画にはならない。
 一度芽生えた恋は、二度と同じ恋にはならない。
 知識がもたらす量は決まっているが、想像は無限だ。夢は無限だ。いくらでものびのびと思い描くことが出来る、まだ見ぬ一度目に期待を膨らませて、それをずっと撫でていることが出来る。
 なら、想いを馳せればいい。それに幸福を見出せるなら、それを支えに生きたっていい。
 そのままじゃいけない、歩みを止めちゃいけないって人は言うけど、どういけないのだろう。
 星の名前も正体もわからぬまま綺麗だと思い続けるのはどういけないのか。
 性格や素性すらろくに知らぬまま、人を想い続けるのはどういけないのか。
 妥協するぐらいの方が、幸せでいられるんだ、きっと。
 あと一時間もしないうちに、リンさんは僕を帰るよう促して来るだろう。
 そうならないうちに、知識がやってくる前に僕は身支度を始める。
 何も見ぬまま知らぬまま、僕はこれからもこの関係を続けるつもりだ。
 お邪魔しました、発音しただけの挨拶を置いて、リュックサックを背負った。廊下のハンガーに吊られた革のジャンパーを羽織り、靴のつま先で何度か玄関をつついて、銀色のドアノブを回す。夜の闇が僕を出迎える。もう後ろは振り返らない。明かりは月かまばらな街灯ぐらいがちょうどいい。
 僕は、大人にならないことを選んだ。

 それから何か月かたったある日のことだった。僕がいつものようにリンさんのアパートに行くと、何故かドアが開け放たれていた。
 当然不審に思い、中に入ると、そこには誰もいなかった。
 家具や家電はそのままだったが、生活用品や小物といった類のものは、跡形もなくなくなっていた。靴も、鞄も、調味料やコンドームすら無い。どうやら、小さくトラブルがあったとか、そういう段階ではないであろうことは容易に想像できた。
 歯ブラシが三本あるのを嫌がる反応はしたけど、0本にしてとまではいってない。
 リビングのテーブルの上には合鍵と、指輪の箱が置かれていて、その間を縫うように、灰皿から一筋の白い煙が立ち上っていた。
 今日いきなり忽然と姿を消すなんてまったく想定してなかったことだけど、でも、なんとなくやっぱりかって思った。
 今の僕には、この意味ありげに置かれた指輪の箱が何であるのかも、それを巡ってどんな事件が起こったのかも、今リンさんがどうしているのかも何一つ知らない。
 最初から何も知らなかったし、多分これからも知ることは無いんだと思う。
 仕方ない、僕が選んだことだ。
 でも、あえて、僕が知っていることを挙げるとするならば、それは知らないことを知っている、ということだろう。
 それは、リンさん、あなたに出会わなければ、知りえなかったことだ。
 僕は今でも子供のままだけど、それを知ったことによって、ちょっぴりだけ大人になってしまったのかも知れない。
 僕は知ることだけは頑なに避けていたのに、不思議なものだ。
 あの晩月が出ていなかったのがいけなかったのだろうか。
 いけない、また知ろうとしてしまった。
 こうやって知らないことを知りたいと無意識に思うようになるのも、大人になるってことなのかもしれない。
 揺れるカーテンの向こう側、夜空を覗き込んでみると、まばゆく光る月が頭上を照らしていた。そうか、忘れていた。今日は満月だった。
 僕は月に向けて嫌味たらしく肩をすくめ、視線を部屋の中に戻した。
 薄暗い室内にひっそりと佇むベッドが映りこむ。
 シーツには、相変わらず皺が寄っていた。


羽島 雀 

2020年02月01日(土)15時53分 公開
■この作品の著作権は羽島 雀さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
子供ではないけど、大人でもない、そんな年の青年の心模様を書いた話です。
ゼミのリレー小説で書いたものなので、話単体としての設定の必然性は弱い部分がありますが、物語そのものは初見の方でも伝わるように書いています。


この作品の感想をお寄せください。

2020年02月02日(日)10時02分 羽島 雀  作者レス
エアさん、感想ありがとうございます。
性描写につきましては、性的欲求を推進、刺激する目的では無かったので、大丈夫なつもりでいたのですが、以後気をつけます。ありがとうございました。

pass
2020年02月02日(日)09時32分 エア 
拝読しました。
主人公の恋愛感情が上手くまとまっていたと思います。
でも、こちらはR18作品の投稿は禁止なので、今回は点数評価なしにさせていただきます。
21

pass
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