寿国演義 銀鈴、都へ行く 急行列車と動物支障と家出娘 |
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芸能学校なんて無理です!」 銀鈴は、学堂の日帰り遠足を兼ねた社会見学で、州都の江中(こうちゅう)へ行った時、本屋で買った後宮劇団の男役女優の姿絵を思い出して言った。 「受かる見込みがなければ、推薦しないわよ。少なくとも一次面接なら、可能性は十分あるわよ。確かに、銀鈴たちが知っている後宮太学出身者は、後宮劇団の役者や楽師、歌い手なんかが多いわね。それだけじゃなくて、官人(かんりょう)になったり、官人や皇族と結婚したりする人もいるわよ。十二歳のあなたには少し早いとは思ったけど、後宮太学の太学生募集はいつもあるわけでもないしね。後宮で働いている妹弟子から、『いい子がいたら推薦して』と頼まれてたし」 「えっ、師母の妹弟子さん、後宮で働いてるんですか?」 「そう。あなたの叔母弟子よ。わたしも若いころ、後宮で働いてたわよ」 「師母も? はじめて聞きましたけど、何でこんな田舎で学堂の教師やってるんですか?」 銀鈴は、心底意外な顔で聞いた。 晏如は、大きくうなずいた。 「もっともな疑問ね。去年亡くなった前の天子様のお若いころのことよ。私は、宮仕えに肩がこってたから、早くに引退したけど。この村の前の村長がちょうど学堂の教師を探していたし、汽車の窓から見てこの辺りの景色が気に入ったの」 「そうだったんですか」 「そう。それに、引退するとき、前の天子様にあいさつに行ったら、前の天子様はこの村の辺りに『天性の無邪気を感じる』っておっしゃっていたわ。妹弟子、薛霜楓(せつそうふう)は、不肖の姉弟子と違って、出来が良くてね。去年即位された新しい天子様の養育係よ」 「すごいですね。でも、わたしなんか、美人でもないし、髪は鳶色だし、歌や踊りがうまいわけでもないし……」 「そんなことないわよ、銀鈴。後宮劇団といえば、演劇、歌、踊りだけど、ほかにも『詩文朗読』もあるわよ。あなた、声はきれいだから、みがけば光るわよ。だから、授業で朗読頼んでるけど」 「はい」 「それに、教室に飾ってある屏風」 「ああ」 銀鈴は、晏如にそう言われて、学堂の教室に飾ってある屏風を思い出した。その屏風の題は『科挙唱名(かきょしょうめい)』、つまり高等官――官人――登用試験合格発表式。大礼服たる冕冠に身を包み玉座に座す皇帝、殿舎の前庭――というより広場――にひざまずく新進士――合格者――、そして合格者名簿を手に、高らかに合格者の名を読み上げる天女のような女官の場面を。 「声がきれいなだけでも、武器になるわよ。宴席でも、即興で詩を詠むことも多いしね。詠み手が自分で読み上げて披露してもいいけど、声がきれいな女官が読み上げれば、場が一層華やかになるしね。二年間、後宮太学で勉強すれば、後宮劇団や官吏がだめでも、後宮自体の下働きの職もあるわ。礼儀作法はじめ一通りの教養が身につくから、都の官吏や豪商といった、それなりのお屋敷に奉公に出る道もあるし」 「……でも」 「今回の募集は、新しい天子様の花嫁選びも兼ねているし」 「そんな、いくら何でも無理ですよ!」 「天子様とまではいかなくても、宴席の場で皇族方や、有力官人に見初められる、ってことはよく聞くわ」 「結婚なんて」 「まだ早いわね。でも、後宮太学に入ればお菓子食べ放題よ」 「お菓子食べ放題! 受けます、受けます!」 銀鈴は満面の笑みで叫んだ。 「でも、長洛まで行くとなると、大変で」 「だいじょうぶよ。面接は、一次面接と本面接の二回だけど、一次面接は江中で行われるの。わざわざ長洛まで行く必要はないわ。本面接は長洛だけど、汽車賃は出してもらえるし、後宮泊まりだから、お金はかからないわ。一次面接さえ通過できれば、タダで都見物できるわよ。長洛なら、異国の珍しいお菓子もあるし。本面接も、受からなくても、受けただけで、はくがつくわ。奉公先も、長洛の豪商とまでいかなくても、江中の小商人の家ぐらいなら、有利に働くわよ」 「フフフ! 都見物! 異国のお菓子!」 銀鈴は気持ち悪い笑い声をあげた。 「師母、異国のお菓子ってどんなのですか?」 「聞くことって、そっち? まあ、いいわ。長洛には泰西のお菓子を出す茶館があるわ。チョコレートが人気よ」 泰西とは、この最大大陸の最も西側の地方。帝国、王国、公国、都市国家が入り乱れる地。 「ちょこれーと?」 銀鈴が、晏如に尋ねた。 「カカオっていう豆から作ったお菓子よ。そのまま食べたり、ケーキやクッキーという泰西の焼き菓子にしたりするわよ。日持ちもする物もあるから、お土産にしてもいいわね。それから、珈琲(コーヒー)という煎り豆茶もあるわ」 「チョコレートに珈琲!」 銀鈴は、ますます気味悪い笑い声をあげて、熱心に帳面に書き付けをした。 「……授業ではあまり書き付けをしないのに、お菓子のこととなると熱心に書き付けるのね。卒業後の進路は聴いてなかったようだけど」 晏如はそう言って、銀鈴に後宮太学面接試験の注意事項が書かれた小冊子を手渡した。 「これ、ちゃんと読んでね。一次面接は、来月の初めだから」 「はい」 銀鈴は神妙にうなずいた。 「まあ、やる気にはなったようね」 「ニャー」 そこに、寿国一の珍獣、大熊猫(パンダ)と同じ、白黒柄の猫がやって来た。村一番の親分猫、大熊猫である。 「あら大熊猫、来たの?」 大熊猫は、銀鈴の足元にすり寄った。銀鈴は、大熊猫を抱き上げた。 「いつものことだけど、銀鈴、あなた不思議よね。わんぱくな男の子はもちろん、力自慢の若い男たちすら怖がる、この大熊猫がなつくなんて」 晏如は、そう言いながら台所へ向かった。 「はい、これ。晩のおかずに買っておいたの」 戻ってきた晏如は、銀鈴に淡水魚のしっぽを渡した。銀鈴はそのしっぽを、大熊猫にあげた。 「この子、大工の棟梁を引っかいたり、男の子にかみついたりしても、わたしがそばに行くと、おとなしくなりますよね。そんなに怖がらなくても、結構かわいいのに。ねえ、大熊猫」 銀鈴は、笑顔で膝に抱いた大熊猫をなでなでした。 ●書類選考 某日、長洛の皇城、十六歳の新皇帝、紀仁瑜(きじんゆ)の私的な住まい、竜床殿(りゅうしょうでん)。その書斎。紫檀の家具が置かれ、程よい狭さで、早春の光が心地よくはいる部屋。 寿国において、皇帝は竜の子孫とされている。 男性文人が好む絹の袍衫(ほうさん)をまとった仁瑜は、机の上に積み上げられた書類に目を通して、掌をかざしていた。ちなみに、この書類は後宮太学受験者が、一次面接の際に面接官面前で書いた自筆履歴書である。 「結婚など、よく分からぬが」 そうこぼす仁瑜に、側近であり、兄弟子の越忠元(えつちゅうげん)――二十三歳――が声をかけた。役所から抜け出してきました、と言わんばかりの、文官朝服の丸襟の欄衫(らんさん)姿だ。 「陛下、婚礼の儀は早くても二年後ですから、そこは考えなくても、だいじょうぶですよ。それよりも、傾国級の邪気を持った受験者がいないかを優先して調べてください」 “書は人なり”。筆跡には、書いた本人の気が現れる。 「忠元の言う通りですよ、大家(だんなさま)。先の大家が、大家に恵まれたのは、かなりお年を召してからでしたから」 いにしえより伝わる深衣姿の薛霜楓(せつそうふう)は、忠元の言を引き継いで言った。上品な中年の婦人だ。 霜楓は、先帝の時代より後宮に仕え、仁瑜の養育係である。また仁瑜・忠元の学問の師の妹弟子、つまり仁瑜・忠元から見て、叔母弟子に当たる。 「さすがに、傾国級の邪気の持ち主はいないが」 仁瑜はそう言いながら、一通の履歴書に目をとめた。受験者名は「張銀鈴」、応募動機は「お菓子食べ放題」。 「この子、気になるのだが」 仁瑜はそう言って、忠元と霜楓に、銀鈴の履歴書を差し出した。 「『張銀鈴、十二歳』? 確か今回の最年少の受験者でしたね。推薦者は師叔(ししゅく)の姉弟子さんですよね」 忠元は銀鈴の履歴書の文字を指差した。続けて、履歴書に添付されている面接官の所見に目を移した。 「ええと、『健康状態に異常なし』『権力欲なし』『容姿十人並み、ただし美声』ですか」 「そう、先の大家が『天性の無邪気を感じる』とおっしゃっていた村よ」 霜楓が答えた。 「父上が、そう言っていたのか」 仁瑜は、先帝を思い出しながら言った。 「はい、大家」 「確かに、ほかの履歴書は、邪気と言っては悪いが、多かれ少なかれ、権力を欲したりこびたりする気があった。だが、この履歴書にはまったくない。この子に、後宮に来る前に会ってみたいのだが」 「何言ってるんですか? 御召列車を仕立てて、張銀鈴に会いに行ったら、張銀鈴が後宮に来るまで待っても、同じですよ。それに、御召列車の運転は、めちゃくちゃ手間がかかるんですから。鉄道院に言えばすぐ出せるってわけでもないんですよ。正副機関士と機関助士は、その線区の最優等列車で三カ月は毎日練習するぐらいですよ」 忠元がたしためた。 鉄道院とは、官有鉄道を運営するとともに、交通・旅行関係を管轄する役所。 「師兄(しけい)、何も皇帝として公式に会いに行く、とは言っていないが」 仁瑜は、鉄道を例えにするのが忠元らしいと思いながら、言葉を続けた。 「おしのびですか? 即位前ならともかく、時間取れますかね?」 忠元は、予定表を見た。 「四月の終わりごろなら、何とかなりそうです。ちょうどそのころなら、後宮太学の本面接と時機が重なりますから、長洛行きの列車内で張銀鈴と会えば、自然な形になりますかね」 「わざわざ汽車の中でって、師兄が汽車に乗りたいだけでは?」 仁瑜が忠元につっこんだ。 「汽車に乗りたいのは否定しませんが。汽車の中なら、空間が限られていますから、相席になるのは自然ですし、知らぬ者同士でも打ち解けやすい場でもあるんですよ。それに、私の名前は鉄道院に知られていますから、ある程度は融通を利かせてもらえます。張銀鈴の出迎え役は師叔にお願いします」 「分かったわ。さすがは“長洛駅切符売り場宮中分室”ね。地方から上洛する後宮太学の受験者は、女官が出迎えに行くことになってるしね」 霜楓がうなずいた。 「陛下には、“後宮劇団の男役女優”で通してもらいますよ。皇帝がのこのこ歩いているとバレたら、いろいろ面倒ですからね。いいですね?」 忠元が仁瑜に、クギを刺した。 「また、女の子のふりをするのか? 小さいころから皇城を抜け出したとき、身分がバレそうになったら、師兄が『この子、男の子っぽい女の子だから』とごまかしていたが」 仁瑜は、いつものことだが、と苦笑した。 「毎度のことですが、わざと女装しろとは言いませんよ。陛下は、小さいころから、そのままでも『男装の麗人』と言っても、十分通用しますからね。“後宮劇団の男役女優”で通せば、後宮を知っていたり、態度が男ぽっかたりしても、自然ですし。ですよね、師叔」 「ええ」 霜楓もうなずいた。 「では、手配りは私がしておきます。作戦はこれで――」 忠元が告げた。 ●江中駅 四月下旬、某日、夜九時前、江中駅。 江中は、千湖州の州都で、寿国の東西を流れる二大大河のうち、南江(なんこう)の中流にある城市(とし)。都、長洛から鉄道線路で、南東に九百粁(キロ)余り。古来から、寿国を南北に貫く陸路と東西の水路とが交わる交通の要所。 江中駅は、夜光石の琥珀色の光に照らされていた。屋根瓦は、四方が天に向かって反り返っている、瑠璃紺――深い青――色。柱は真朱色。軒先は緑色。“鉄道院駅舎基本建築様式”である。 銀鈴は、普段の野良着ではなく、よそ行きの桃色襦裙に身を包んで、両親と晏如、霜楓と一緒に歩廊(ホーム)に立っていた。 歩廊には、煙を吐き立て客を待つ列車が止まっていた。編成は、急行型蒸気機関車を先頭に、郵便手荷物車一輌、一等寝台車一輌、一等座席車一輌、二等寝台車三輌、二等座席車二輌、食堂車、三等寝台車二輌、三等座席車三輌である。 「× 番線停車中の列車は、二一時一五分発、東江本線(とうこうほんせん)、両洛本線(りょうらくほんせん)経由、長洛行き急行『烏兎(うと)』でございます。この列車の食堂車、車内販売の営業開始は、明日朝六時でございます。お食事など、ご入用の物のお買い忘れなきようご注意ください。繰り返します。× 番線停車中の列車は――」 「銀鈴、食べ物や飲み物を何か買っておく? 汽車に乗ったら明日の朝まで何も買えないわよ」 晏如が、そう銀鈴に尋ねた。 歩廊の売店から、保温符に包まられ肉まん、あんまんのいい匂いがただよってきた。 「だいじょうぶです、師母。乗ったらすぐ寝ますから」 銀鈴は、緊張したようすで返事をした。 「そうね。今朝は早かったし、もう遅いしね」 銀鈴の両親は、霜楓とあいさつを交わしている。 銀鈴と銀鈴の両親は、今日の午後、晏如から霜楓を紹介されていた。 「銀鈴、そろそろ乗りましょう」 霜楓が銀鈴に声をかけた。 「はい、師叔」 「娘をよろしくお願いします」 銀鈴の両親が、霜楓に頭を下げた。 「霜楓、銀鈴を頼むわよ」 晏如も言った。 銀鈴と霜楓は、急行「烏兎」の二等寝台車に乗り込んだ。栗皮色で、竹筒を二つ割りにして伏せたような丸屋根を載せ、窓の下に二等車を表す青帯を巻いた車輛だ。 「お待ちしておりました」 昇降口(デッキ)には襦桍に身を包み、前掛けをした、列車給仕が待っていた。いかにも“宿屋の若手代”という雰囲気の男性だ。 「切符を拝見します」 「はい」 銀鈴と霜楓は、列車給仕に切符を手渡した。 「こちらでございます」 指定の寝台に案内された。 二等寝台は、枕木方向に二段寝台が並んでいて、反対側が通路だ。 寝台は既に組み立てられていた。真っ白な敷布(シーツ)が敷かれ、窓の真ん中にある柱からは折り畳み式のはしごは引き出されて、寝台を覆う深緑色の帳(カーテン)も取り付けられていた。窓側には枕とたたんだ毛布と寝間着が置かれていた。 銀鈴と霜楓は、再び昇降口に立っていた。 「銀鈴、わがまま言うんじゃないぞ」 「おみやげのお菓子、楽しみにしてるわ」 銀鈴と銀鈴の両親が話をしている。 「銀鈴、これ持っていきなさい。だいじょうぶ、って言っても明日の朝まで買えないから」 晏如が銀鈴に、夜食と飲み物の包みを手渡した。 「ありがとうございます」 銀鈴が晏如にお礼を言った。その時、発車を知らせる銅鑼が鳴り出した。 「行ってきます!」 銀鈴がそう言って、手を振った。それと、同時に列車給仕が扉を閉めた。 汽笛一声、列車が発車した。 銀鈴と霜楓は、指定の寝台に戻って、下段に向かい合って座った。 銀鈴は、物珍しそうに辺りを見回していた。そして、通路側にある折り畳み式の小卓を出したりたたんだり、読書灯をつけたり消したりした。 「銀鈴、寝台車は初めて?」 「はい。三等の座席車は何度かありますけど」 「座り心地は?」 「村長さんの家の椅子より、座り心地はいいですよ。でも、背もたれが」 銀鈴が、背もたれに背中がつくよう、深く腰かけると、足が床につかない。足が床につくよう浅く腰かけると、背もたれに背中がつかない。 「履き物を脱いで、寝台に上がり込んで座るといいわよ、榻のように」 霜楓は、銀鈴にそう言って、履き物を脱いで、寝台に上がり込んで正座した。 「はい」 それを見た銀鈴も、同じように寝台に上がり込んで、正座した 「こっちのほうがいいです」 「間もなく消灯します、間もなく消灯します」 列車給仕が触れ回ってきた。 「そろそろ寝ましょうか?」 「はい、おやすみなさい」 「帳を引いてから、寝間着に着替えるといいわよ」 「はい」 銀鈴は、霜楓に言われた通り、帳を引いて、その中で寝間着に着替えた。そして、体を横たえた瞬間、眠りに落ちた。 ●朝餉(あさげ) 江中を出た翌日、朝の七時過ぎ。 銀鈴は目を覚まして、帳を引いた。 霜楓は、すでに起きていて、寝間着から深衣に着替え、髪を結い、身支度を整えていた。 「おはようございます、師叔」 「おはよう。あらその寝間着、だぶだぶね。よく眠れた?」 銀鈴には、備え付けの寝間着は大き過ぎた。 「はい。ぐっすりと」 「それは良かったわ。着替えてきなさい。洗面所の隣に、更衣室もあるわ」 「はい。行ってきます」 銀鈴は洗面所に向かった。 通路の窓の帳は既に開けられていた。車窓は、銀鈴にとって見慣れた水田、湖、大小の河川は姿を消し、麦畑の平原に変わっていた。 「戻りました」 銀鈴は、桃色襦裙に着替えて、いつものように髪の毛を耳の上で二つのお団子に結っていた。 「お帰り、銀鈴。ところで後宮太学が、なぜ芸能学校と思われているのを、知ってる?」 「いえ」 「歴代の皇帝や皇后の中には、芸事を好む方もいたの。芸事って、極めると自分でたしなむだけでは物足りなくなってくるのよ。だから、だれかに教えないと気が済まないのよ。自ら教鞭をとって、女官に歌、踊り、楽器、演劇などを教えていた皇帝・皇后もいたわ」 「そうなんですか」 「そう。それがだんだん発展してきて、後宮劇団になったの。後宮劇団が、歌や踊り、劇を広く披露するのは、皇帝の権威を高めることにもなっているしね。それに、もともと歌や踊りは、神様を祭る国の儀式で必要だしね」 そこに忠元がやって来た。仁瑜も一緒だ。 「師叔、同じ列車でしたか。その子が?」 「そう、後宮太学一次面接に受かった、張銀鈴よ。銀鈴、この二人は、後宮太学の教師で、宮中御用掛の越忠元と、後宮劇団の男役女優の潘涼謹(はんりょうきん)よ。二人とも、私の兄弟子の弟子、つまり私から見て、甥弟子よ」 霜楓は、銀鈴に仁瑜を偽名の“潘涼謹”で紹介した。 「はじめまして」 銀鈴は忠元と仁瑜にお辞儀をした。顔を上げて仁瑜を見た。 「どうした? 急に顔が赤くなったが」 仁瑜が銀鈴に聞いた。 「……何でも」銀鈴はそう言うと、うつむいた。「遠足で江中へ行った時、『後宮劇団女優名鑑』買ったけど、お姉さん、載ってましたっけ?」 「私、まだ新人だからね。載ってないよ」 「えー、こんなに格好いいのに!」 「ありがとう」 「師叔、まだでしたら、食堂車でご一緒に朝餉を」 銀鈴と仁瑜のやり取りがひと段落したところで、忠元が誘った。 「ええ、ご一緒しましょうか」 霜楓が応じた。 「じゃ、行きましょ、銀鈴」 午前八時過ぎ、食堂車。大きく取られた窓から、晩春の朝日がさんさんと差し込む明るい車内。食堂車は、食堂とは別に車輛間通り抜け通路――外廊下――が設けられているため、別車輛に通り抜ける客を気にせず、落ち着いて食事ができる。 「銀鈴、食堂車も初めて?」 霜楓は、物珍しそうに品書きを見ている銀玲に、そう尋ねた。 「はい。でも師叔、思ったより料理は少ないですね」 載っていたのは、朝餉定食と飲み物類だけだった。 「この時間は混むので、定食だけだからね。昼なら、もっといろいろあるよ」 忠元が口をはさんだ。 注文した朝餉定食が出された。 銀鈴は、小さな釜に入った粥を茶碗に移しながら、隣の仁瑜を見て、顔を赤らめた。 (……このお姉さん、顔もだけど、動きがきれい。すごい) ちなみに、朝餉定食の献立は、米の白、小さく角切りにした火腿(ハム)の赤、えんどう豆の緑が鮮やかな粥。豚挽き肉、たけのこ、しいたけのしょうゆ味の餡がかかった豆腐脳――半固まりのくみ上げ豆腐――。しょうがとにんにくの芽の炒め物。砂糖添えの温かい豆乳。付け合わせは、搾菜(ザーサイ)と豆腐のみそ漬け。 「どうかした?」 仁瑜は、銀鈴にそう言った。 「ううん、何でも」銀鈴は慌てて首を振って、粥を口にした。「おいしい」 「火腿からいい出汁がでてますね」 霜楓も続いた。 プシュー! 「釜の蓋を閉めて!」 忠元が叫んだ。 それと同時に、食堂車の女性給仕たちが叫んだ。 「お客様、食器を押さえてください! 列車が急停止します!」 非常制動(ブレーキ)がかかって、列車が急停止した。 「プッ!」 銀鈴が噴出した。見ると、銀鈴の斜め向かいにある別の卓の客が粥まみれになっていた。 「笑っちゃ悪いわよ」 霜楓がそうたしなめた。 「……気の毒に。汽車に乗り慣れてなさそうですね。慣れていれば、『プシュー!』の音で、食器を押さえますから」 軽く後ろを振り返った、忠元がそう言った。 そこに、武官朝服と同型――つまり馬に乗りやすく動きやすい――、濃紺地の丸襟の袍姿の車掌が現れた。 車掌は拱手の礼をして、こう言った。 「お食事中のところ、失礼いたします。ただ今の急停車は、動物支障のためでございます。安全が確認され次第、発車いたします。繰り返します。ただ今の急停車は――」 「ドウブツシショウ?」 銀鈴が声を上げた。 「動物支障というと、夜間に山間を走っているとき、イノシシにぶつかるようなことが多いんですが」 忠元は、外廊下をはさんだ内窓・外窓の二重の窓越しに、外に目をやりながら答えた。 窓外は、麦畑が広がっていた。 「こんな朝っぱらですし、周りに森や林があるわけでもないんですが」 銀鈴たちは、食事を終えて自分の席へ戻ろうとしていた。 「……まだ、動かないんですね」 銀鈴がそう言った。 「そうね。もう、四、五十分はたってるわね」 霜楓は懐中時計を見ながら答えた。 「ただの動物支障ならそろそろ動いても良さそうですが」 忠元も口をはさんだ。 昇降口(デッキ)で、列車給仕が扉を開けて身を乗り出し、列車の先頭のほうを眺めていた。 「わたし、ちょっと見て来る!」 銀鈴はそう叫んで、地面に飛び降りた。ちなみに、列車の踏み段(ステップ)から地面までの高さは、七六糎(センチ)。 「私も行って来る!」 仁瑜も叫んで、飛び降りた。 「お客様!」 列車給仕が制止したが、後の祭りだった。 「二人とも、何やってるんですか! 土の地面ならともかく、下は砂利なんですからね! 転んだらケガしますよ! それにここ複線だから、線路防護が済んでないと、対向車にはねられますよ!」 銀鈴は、忠元が自分と仁瑜に向けて叫んだのを聞いた。 銀鈴と仁瑜は先頭の蒸気機関車のそばに来た。 「何、これ?」 銀鈴がつぶやいた。 「確かに動物支障ですね」 追い付いた忠元が言った。 豚の大群が線路を占領していた。大工のような衣姿の機関士と機関助士は困り切った顔をしていた。 「困ります、お客様。線路に降りられては」 車掌がやって来た。 「申し訳ありません」 忠元が車掌に謝った。そして、身分を示す印綬を見せて、「宮中御用掛」の肩書が入った名刺を渡した。 「これは越大人(たいじん)でしたか」 「このふたりが飛び降りたので、私も降りざる得なかったんですよ」忠元は、銀鈴と仁瑜を見て言った。「車掌さん、線路防護は済んでるんですか?」 「はい、既に済んでおります。最寄り駅に連絡して、この区間への列車侵入禁止措置も取りました」 「それならいいんですが。それにしても、豚たちをどかさないと動けないですね」 「この豚さんたち、どこから?」 銀鈴も聞いた。 「この先に古州(こしゅう)火腿工房直営の養豚場があるんですが、そこの豚たちが逃げ出しまして。その養豚場は、食堂車の取引先なので、あまり強引なことはしたくないですし」 車掌は、食堂車を見ながら答えた。 「ということは、朝餉の粥の火腿も?」 仁瑜が口をはさんだ。 「はい。その養豚場の火腿工房産でございます」 「あのおいしい火腿!」 銀鈴が叫んだ。 「ねえ豚さんたち、通してくれない? みんな困ってるのよ」 銀鈴は豚の大群に近付いた。 「危ない! やめなさい!」 仁瑜が叫んだ。 豚たちが銀鈴の周りに集まり、銀鈴をなめ始めた。 「襲われてるのか?」 「なつかれている、ですか? 少なくとも攻撃されているようには見えませんが」 困惑した顔で、仁瑜と忠元は顔を見合せた。 「ちょっとちょっと、やめてやめて! くすぐったい!」 銀鈴の叫び声が響いた。 「大歓迎だな」 仁瑜がつぶやいた。 「しかし、ほっておくわけにもいかんでしょう」 忠元が言った。 「そうだな」 仁瑜はそう言って、銀鈴に近付いた。 「銀鈴、とにかく豚たちを養豚場に戻すぞ」 「あっ、お姉さん。分かったわ」 銀鈴はそう言ってから、豚たちに語りかけた。 「豚さんたち、おうちに帰りましょう。案内して」 「ブヒ、ブヒ」 豚たちがうなずいた。 豚たちは、養豚場のほうへ向かって行った。 豚たちに案内されて、銀鈴たちは養豚場に着いた。 「豚さんたち、おうちはここ?」 銀鈴が聞いた。 「ブヒブヒ」 豚たちが大きくうなずいた。 「豚たちが帰ってきたぞ!」 養豚場員が、豚たちを豚舎に入れていく。 養豚場長が、一緒についてきた車掌と、いつの間にか列車から降りていた食堂車厨師――食堂車の責任者――に謝った。 「このたびは、とんだご迷惑をおかけし、お詫びします。どうも、作が腐っていまして。鉄道院さんの損害のほうは、いかほどでしょうか」 「損害の件は、地方鉄道局のほうからお話し合いさせていただきます」 車掌はそう言って、銀鈴を見た。 「豚たちが戻ったのは、あちらのお嬢さんのおかげですよ」 養豚場長は、銀鈴の所へやってきた。 「このたびはありがとうございました」 そこに楽器の琵琶のような紙包みを持った養豚員が現れた。 「よろしければ、こちらをお持ちください。当工房の火腿です」 「えっ、いいんですか?」 「銀鈴、いただいておきなさい」 「師叔! いつの間に?」 「気になったから、給仕さんに頼んで降ろしてもらったの」 霜楓は養豚場長に頭を下げた。 「姪弟子がお世話になりました」 「こちらこそ、お嬢さんにはお世話になりました。豚たちを連れ戻していただいたおかげで、大損害にならずに済みました」 「銀鈴、ずいぶん豚たちになつかれていたが?」 仁瑜が感心した顔付きで言った。 「うん。小さいころから、なぜか動物さんたちに好かれるの。村で、小さい子が鶏小屋の戸を閉め忘れて、鶏が逃げ出したときも、わたしが捕まえに行ったら、おとなしく小屋に戻ったし。村一番の凶暴猫も、なぜかわたしにだけはなつくし」 「それはすごいな。銀鈴、君の人徳だな」 「そんなことは」 銀鈴は、仁瑜にほめられて、うつむいて顔を赤らめた。 銀鈴たちが列車に戻る途中。 銀鈴は、琵琶型骨付き火腿を下げていた。 「こんなに食べられないわよ。それにこれ、たまにもらうことがあるけど、そのまま食べても、塩辛いだけでマズいし。炒飯(チャーハン)や煮物に入っていればおいしいけど」 「その火腿、そのまま食べるものではないんですよ。二時間ほどゆでて、塩抜きしないと。あまり知られていないことなんですが」 厨師が口をはさんだ。 「これは失礼しました。料理のこととなると、気になってしょうがない性分でして。もちろん、炒飯や煮物ならそのままでも結構いい味が出ます。ゆでて塩抜きしただけでも、ゆでる前とは全然味は違いますよ」 銀鈴たちは、厨師の火腿講釈を聞いているうちに、列車に着いた。昇降口から降ろされたはしごを登って、列車に乗った。 「このたびは、おかげさまで大事に至らず、ありがとうございました」 車掌が礼を述べた。 「結構止まっていたんじゃないですか?」 忠元が言った。 車掌が懐中時計を見ながら答えた。 「二時間十五分ですね」 「微妙なところですね」 「……ええ」 車掌は微苦笑した。 「では、発車させますので」 車掌はそう言って、昇降口から半身乗り出し、片手を高く上げた。 汽笛一声、列車が動き出した。 ●家出娘 銀鈴たちが、自分の席に戻る途中の二等寝台車内。 多くの寝台は、敷布が外され深緑色の座面を見せ、枕・毛布も片付けられ、寝台を覆う帳も外されていた。その中に一席、帳に覆われたままの寝台があった。 「お嬢様、お加減のほうは?」 列車給仕が、心配そうに帳の中をのぞき込んでいた。 「お嬢様のお加減、まだ悪いのか?」 車掌が列車給仕に問うた。 「はい、専務。相当汽車に弱いようで」 専務とは、専務車掌の略。 「急病人ですか?」 忠元が車掌に尋ねた。 「ええ。……大人なら、お話しても良いでしょう」 そう言って、車掌は声を潜めた。 「そちらの寝台のお嬢様、実は易(えき)前礼部尚書(れいぶしょうしょ)のご令嬢で」 礼部尚書とは、教育・儀礼・外交を司る大臣。 「そうでしたか。前尚書とは、簡単な面識はありますが」 「左様でしたか。何でも家出されたとかで、本日未明、途中駅で保護の要請がありまして。なにぶん、要請があったのが未明のことで、お休み中のところを起こすわけにもいかず、正規の切符をお持ちなので、無理やり降ろすわけにもいかず、でして。その上、先ほどの動物支障がありまして」 「この列車は長洛行きですが、ひょっとして長洛のお兄さんの所ですかね」 車掌は、書き付けに目を落とした。 「保護の要請では、『長洛の兄の所へ向かう可能性がある』とのことです」 「前尚書よりも、お兄さんのほうが親しいですね。同じ汽車好きとして、話が合いまして。確か十歳年下の八歳の妹さんを、かなり溺愛している感じでしたよ。それで妹さん、汽車に限らず、舟でも、輿でも、馬車でも、とにかく乗り物に弱くて、すぐに酔う、とは聞いていました。そのときは、『大げさでは?』とは思ったんですが、そうでもなさそうですね。ところで車掌さん、乗り物酔いの薬を持ってますよね?」 「はい。お渡ししようとしたんですが、『薬は嫌だ』とおっしゃって」 「分かる! だってお薬、苦いもん」 銀鈴が叫んだ。そして銀鈴は、帳が引かれた寝台をのぞき込んだ。 「見せて?」 「銀鈴、やめなさい」 仁瑜が制止した。 「何、この子?」 「失礼しました。易前礼部尚書のご令嬢の瑠璃(るり)さんですね? 私、あなたのお兄さんと知り合いの、越忠元といいます」 忠元も寝台をのぞき込んで、瑠璃に頭を下げた。 「えっ、何? 越大人? どういうこと? 車掌、汽車を止めなさいよ。せっかく止まっていて、少し楽になったのに、動き出して、また気分が悪くなったじゃないの」 瑠璃が言った。 「越老師(せんせい)、このお嬢さんとお知り合いなんですか?」 銀鈴が聞いた。 「直接会うのは初めてだよ。ただ、お兄さんとは知り合いで、よく妹さんのことを聞かされていたからね」 忠元は銀鈴に説明した。 「ちょっと待ってて。ツボの本、取ってくるから」 銀鈴がそう言って、自分の席に戻っていった。 銀鈴は、ツボの小冊子を持って瑠璃の寝台に戻った。 「ちょっと足見せて?」 銀鈴は瑠璃の足元に腰かけると、瑠璃の毛布の端を持ち上げた。 「銀鈴、やめなさい。お子さんといっても、女性よ。人目もあるわ」 霜楓が制した。 「車掌さん、瑠璃お嬢さんを一等寝台の私の部屋にお連れしてもいいですよね? 個室だから人目もないですし」 忠元が車掌にこう言った。 車掌は、座席整理表を見て答えた。 「一等寝台でしたら、二人用の個室が空いてますね。そちらのほうが広いから、よろしいかと」 「そうですね」 忠元も同意した。 「君、一等寝台の二人部屋に布団を敷いて、準備をしておくように」 車掌は、列車給仕に指示した。 「かしこまりました」 「歩ける?」 霜楓が瑠璃に聞いた。 瑠璃は、弱々しく首を振った。 「では、私が抱いて行こう」 仁瑜が瑠璃を抱き上げた。 銀鈴たちは、片側に二人一組、反対側に四人一組の向かい合わせの座席が並ぶ一等座席車を通り抜けて、一等寝台車に入った。 一等寝台車は個室だ。枕木の方向に、一人室の扉が五面、二人室の扉が五面並んでいる。 その中の一室から、列車給仕が出てきて、銀鈴たちに会釈した。 「ちょうどお支度が終わったところです。こちらを」 列車給仕はそう言うと、部屋の鍵を忠元に手渡した。 「お手数おかけしました」 忠元が答礼した。 「うあー、すごい! これが汽車の中?」 歓声を上げた銀鈴の目に、窓をはさんで榻が二台置かれた、一等寝台二人室が飛び込んできた。素木の木肌が美しい室内だ。 「一等寝台の個室は、“走る書斎”って言われているからね」 忠元が銀鈴に説明した。 寿国において、書斎とは単なる物書き部屋ではなく、士大夫――知識人・文化人――が疲れた心身を休める重要な場所と考えられている。 仁瑜が部屋に入って、白い敷布に包まれた布団に瑠璃を寝かせた。 布団が敷かれていない反対側の榻は、真ん中に足が低い四角い卓が置かれ、卓をはさんで深緑色の分厚い座布団が敷かれている。二人座ると、ちょうど縁台将棋のようだ。 「じゃ私たち、部屋を出てますから。私の部屋は先頭側の二号室なので。師叔、銀鈴、後はよろしくお願いします」 忠元は、そう言って仁瑜と一緒に二人室を出ていった。 「ちょっと見せてね」 瑠璃の足元に腰かけた銀鈴は、そう言うと、ツボの小冊子を見ながら、瑠璃の足の人差し指の爪の生え際をつまむように押した。乗り物酔いに聞くツボ“中レイ兌(なかれいだ)”だ。 「どう? 気持ちいい?」 「ああ、楽になってくる。ところであんた、だれ? わたしは易瑠璃、お父さまは前の礼部尚書よ」 「わたしは、張銀鈴。後宮太学の本面接に向かうところなの」 「なんで、あんたみたいな田舎娘が一次面接に通ったのよ? それに、なんで越大人と知り合いなの?」 「一次面接合格は、よく分からないわ。師母から『受かる可能性はある』って聞いてたけど。越老師は、師母の甥弟子さんで、たまたま乗り合わせて、食堂車で朝餉を一緒に食べたの。そうですよね、師叔?」 「そうですよ、瑠璃お嬢さん。申し遅れましたが、わたしは後宮女官で、この銀玲を迎えにいった、薛霜楓と申します。銀鈴の師母は、わたしの姉弟子で、わたしの兄弟子の弟子が、越忠元でして」 霜楓が瑠璃に自己紹介をして、銀鈴の説明を補足した。 「それに、わたしをここに運んでくれた女の人、だれ? 女にしては男っぽかったようだけど」 瑠璃が銀鈴に重ねて聞いた。 「あのお姉さんは、後宮劇団の男役女優さんで、潘涼謹さんっていうの」 銀鈴が答えた。 「潘涼謹? 後宮劇団の『女優名鑑』は持ってるけど、そんな女優、載ってたっけ?」 「まだ、新人さんだから、載ってないって。あんなに格好いいのにもったいない」 「ふーん、気分が悪くてよく見てなかったけど、あれだけ格好いい新人なら、もっと大々的に売り出しても良さそうなものだけど。それに、男役といっても、女にしては男っぽくすぎない?」 「涼謹は、忠元の妹弟子でもあるんですよ。後宮劇団は、先輩・後輩の上下関係が厳しいから、見どころがあるといっても、新人を大々的に売り出すのはやりにくいんです。それに、男役女優は、舞台の外でも“男”を演じるものなんですよ」 霜楓が、瑠璃に説明した。 「ふーん、そんなものかしら」 瑠璃は、首をかしげながらも、そう言った。 「そうそう、あんた、銀鈴っていったわね。指圧、じょうずじゃないの。うちの侍女に指圧してもらっても、痛いばっかりで全然気持ち良くないし。もっとやんなさいよ」 瑠璃は銀鈴に、さらなる指圧を要求した。 「いいわよ。それじゃ」 銀鈴は、ツボの小冊子を見て、万病に効くと名高い、足三里のツボを押した。 「ああ、気持ちいい。ここのところ、あまり食べる気がしなくて」 「だったら、ここね」 銀鈴は、再びツボの小冊子を見て、瑠璃の寝間着の襟を開いて、みぞおちの近くにある、巨闕(こけつ)、中カン(ちゅうかん)のツボを押した。両方とも食欲不振に効くツボだ。 「ああ、気持ちいい! 銀鈴、なんであんたみたいな田舎娘がこんなに指圧がじょうずなのよ? うちの侍女たち、へたなのに。それに、どこで学んだのよ?」 「どこで学んだ、って言われても、うちの薬箱に入っていた、この本を見ただけよ。師母が、わたしが指圧すると『気が良く整う』って言ってるわ。師母に、よく指圧を頼まれるの」 銀鈴はそう言って、ツボ、指圧、灸の小冊子を瑠璃に見せた。 「そう」瑠璃がうなずいた。「指圧してもらったら、急にお腹がすいてきたわ。きのうは、おやつをひと口食べただけで、夕餉(ゆうげ)の前に屋敷を出たので、夕餉は食べてないし。汽車に乗ってからは、酔って何も食べる気がしなかったし。この列車に、食堂車あるわよね? 汽車好きのお兄さまから食堂車のことはよく聞いているから、行ってみたいの」 「食堂車ならあるわよ。でも、定食と飲み物しかなかったわよ」 銀鈴が、食堂車での朝餉を思い出して、答えた。 「そんな。聞いてた話と違うわよ」 「それは、朝だからですわ。昼なら、料理もいろいろ選べますわよ」 霜楓が、銀鈴の答えを補った。 「それなら行くわ。寝間着のままじゃいけないわね。髪も結ってないし。銀鈴、わたしの席に行って、わたしの荷物持ってきなさい」 とても逆らえぬ“気”を出して、瑠璃は銀鈴に命じた。 「荷物って、どんなの? わたし、見てないから分からないわ」 銀鈴が困惑顔で聞いた。 「ああ、そうね。こういう荷物だから」 瑠璃が銀鈴に、荷物について説明した。 「分かったわ。取ってくる」 銀鈴が、瑠璃の風呂敷包みを抱えて戻ってきた。 「それよ。ちゃんと持ってきたわね」 瑠璃がそう言って、風呂敷包みを開いた。包んでいた瑠璃色――青色――の絹の襦裙に着替えた。 「さあ、銀鈴。髪を結いなさい」 瑠璃は、そう言って銀鈴に風呂敷包みから、櫛と髪油を渡した。 「いいけど、簡単なものしか結えないわ」 「仕方ないわね。それでいいわ」 「瑠璃お嬢さんの髪、漆黒で、サラサラでうらやましい。わたしの髪なんて、鳶色だし、縮れてるし」 銀鈴は、瑠璃の髪に櫛を通した。 「あんた、本当に新しい天子さまの花嫁、ねらってんの?」 「天子さまの花嫁なんて、無理に決まってるわよ。師母から『後宮に入ればお菓子食べ放題、本面接に落ちてもタダで都見物できる』って聞いたから。うまく受かれば、それなりにいいところへ奉公できるようだし」 「ふーん、そうね。あんたは“皇后さま”って感じじゃないわね。せいぜい、後宮の下働きってところね。わたしも、後宮太学を受験したくて、お父さまにお願いしたの。『もう少し大きかったらな』ですって。受けさせてくれなかったのよ。後宮太学の面接試験は、これを逃せば次があるか分からないのに! こんなにかわいくて、気品と教養のある子って、そうはいないわよ。家柄だっていいし。わたしが皇后になれば、易家にとっても、いいことなのに!」 一気にまくし立てる瑠璃を見て、銀鈴と霜楓は顔を見合せた。 「師叔、瑠璃お嬢さん、後宮太学の面接を受けてたら、受かったんですか?」 「さあ、どうかしらね。確かに、易家は代々、位の高い官人を出しているから、家柄はいいわね。でも、それだけじゃないから。後宮太学の太学生募集は、皇后選びだけが目的じゃないわ。まあ、今回はお代替わりの直後だから、ほかの年に比べて、皇后選びの比重は高いけど、皇后が決まるのは、早くても二年後よ。後宮太学の成績もあるけど、最終的には天子さまとの“気”の相性ね」 「そうなんですか」銀鈴は、髪油で汚れた手を見た。「師叔、手を洗いに行ってきます」 「わざわざ部屋を出て洗面所まで行かなくても、いいわよ。そこの卓の蓋を開けてみなさい」 霜楓は、銀鈴にそう言って、窓の下の卓を指さした。 「はい」 銀鈴は、窓下の卓の蓋を開けた。小さな洗面台が現れた。開けた蓋の内側は鏡になっていた。 「こんなものもあるんですね。すごい! ちょうどお湯も出る。これじゃ、ほとんど部屋から出る必要はないですね」 銀鈴は、蛇口をひねって、手を洗いながら、心底感心した。 「そうね。食堂車で食事を取るか、お手洗いに行くとき以外、外に出る必要はないわね。いや、食事もお弁当や肉まんぐらいなら、給仕さんに頼んで持ってきてもらえるわよ。そこの紐、給仕さんを呼ぶための鈴を鳴らす紐よ」 霜楓は、そう言って、壁の一角にたれている紐を指差した。 「髪、まあまあね」瑠璃が洗面台の蓋の鏡をのぞいた。「洗面台、なかなか良く出来てるじゃない」 「瑠璃お嬢さんも、寝台車はじめて?」 銀鈴が、瑠璃に聞いた。 「そうよ。わたし、乗り物に弱くて。だから、あまり遠くへ連れってもらえないのよ。お兄さまは、汽車好きでよく乗ってるの。その話を聞いて、乗ってみたかったのよ」 扉をたたく音がした。 「入っても構いませんか?」 忠元の声がした。 「どうぞ」 銀鈴が扉を開けた。 「具合は、少し良くなったようですね。しかし瑠璃お嬢さん、お兄さんから『妹は乗り物に弱い』と聞いてましたが、何でおひとりで汽車に乗ってるんですか?」 忠元が瑠璃に尋ねた。 「……新しい天子さまのご即位のお祝いの式典で、お父さまもお母さまも忙しくて構ってくれなくて。つまらないから長洛の国子監にいるお兄さまの所へ行こうとしまして」 瑠璃がそう答えた。 国子監とは、官吏養成の最高学府。 忠元が、ふとことから飛信(ひしん)はがきと矢立て――墨壺と筆を一緒にした筆記具――を取り出した。 「そうでしたか。私のほうから、お兄さんに知らせておきます」そう言って飛信はがきに筆で何やら書き付けた。「臨兵闘者皆陣列在前、飛べ!」 そう唱えて、気を込めて、飛信はがきを空に飛ばした。 グー! という音がして、瑠璃が顔を赤らめて、腹を押さえた。 「時間的にも、そろそろ昼餉時ですから、食堂車で昼餉(ひるげ)にしますか? 瑠璃お嬢さんも食欲が出たみたいですし」 忠元が懐中時計を見て言った ●昼餉 再び食堂車。 車両間通り抜け通路に面した四人かけ卓の窓側に、銀鈴と瑠璃が向かい合って座って、銀鈴の横には仁瑜、瑠璃の隣には霜楓が座った。忠元は、食堂内通路をはさんだ、二人がけの卓だ。 「うあー、いっぱいある」 銀鈴が、品書きを見て歓声をあげた。 定食と飲み物しかなかった朝餉の時間と違って、品書きには数々の料理の名が並んでいた。 「銀鈴、遠慮せずに好きなものを頼みなさい。瑠璃お嬢さんも、ご遠慮なさらずに」 霜楓が、銀鈴と瑠璃にうながした。 「それじゃ、遠慮なく」 銀鈴と瑠璃がうなずいた。 ほどなくして、前菜と羹(スープ)が出された。蒸し鶏、青菜と豆腐のあえ物、薄切り火腿、豚肉とたけのこの羹。 「師叔、火腿、頼みましたっけ?」 銀鈴が霜楓に尋ねた。 「頼んでないわよ」霜楓が銀鈴に答えて、食堂給仕に聞いた。「火腿、注文してませんが」 「厨師から、先ほどのお礼に差し上げるようにと。火腿は下茹ゆでしてあります」 食堂給仕は、小声で答えた。 「ありがとうございます。ではいただきます」 霜楓がそう答えて、おじぎした。銀鈴もそれにならった。 食堂給仕が去った。銀鈴は、火腿の薄切れをひと切れ、口にした。 「これがあの塩辛い火腿? 辛くないし、おいしい」 「蒸し加減、まあまあね」 瑠璃が蒸し鶏を口にした。 前菜と羹を食し終わったところで、主菜の豚の角煮と、角煮の煮汁で煮た煮卵、主食の花捲(ホアジュアン)――肉まんの皮に具を包まずに作った蒸し麺麭(パン)――が出された。 「花捲にはさんで食べるとおいしいわよ」 霜楓はそう言って、花捲の切れ込みに豚の角煮をはさんだ。 「ほんと、トロトロ」 銀鈴も、箸で豚の角煮を切ってから、花捲にはさんだ。 「本当に、ふたりでよく食べるな。お腹、だいじょうぶなのか?」 最初に頼んだ分だけでは足りず、追加注文した豚の角煮と花捲を次々に平らげる銀玲と瑠璃を見て、仁瑜はつぶやいだ。 銀鈴と瑠璃の豚の角煮の皿は、煮汁が花捲で拭き取られ、ピカピカになっていた。 「そろそろ食後のお茶にしない? お菓子もあるわよ」 霜楓が、そう言って銀鈴と瑠璃に品書きを差し出した。 「じゃ、緑茶と寿桃(ショウタオ)を」 銀鈴が、そう頼んだ。寿桃とは、桃をかたどった蒸しまんじゅう。 ほどなくして、小さくて丸い竹蒸籠と蓋椀(がいわん)が運ばれてきた。 銀鈴は、竹蒸籠に入れられた寿桃を食べた。 「師叔、師母から聞いたんですが、長洛にはチョコレートや珈琲を出す茶館があるそうですね」 「師姉(しし)は、それであなたを釣ったのね。あるわよ。人気なのは角笛亭(つのぶえてい)ね」 「珈琲ってどんな味なんですか? チョコレートを使ったお菓子って、どんなのがあるんですか?」 「珈琲は、そのまま飲むと苦いけど、牛乳や砂糖を入れると、苦さと甘さがちょうど良くなるわ。チョコレートを使ったお菓子は、ケーキっていう泰西の焼き菓子ね。そのなかでも、角笛亭の“ザッハートルテ”は有名よ。つやがあって光っている黒に近い茶色で、泡立てた生乳脂(クリーム)がそえてあるの。黒いザッハートルテと白い生乳脂の対比は美しいわ。ただ、珈琲もチョコレートも、寝る前に飲んだり食べたりしちゃダメよ。眠れなくなるから」 瑠璃は、蓋椀を受け皿ごと持ちあげて、蓋で茶葉をよけながら、緑茶を飲んだ。 「お母さまといつも飲んでいるお茶と比べると落ちるけど、まあまあね。お兄さまから、旅行の話はよく聞いたけど、泰西菓子の茶館の話は聞かなかったわ。長洛に着いたら連れてってもらわなくちゃ」 そう言いながらも、瑠璃は笑顔だった。 ●長洛着 日が傾いた、午後五時半ごろ。列車は、定時より約二時間遅れていた。 都、長洛の城壁が見えてきた。 列車は南の正門をくぐって、城壁の中に至った。ちょうど、短い隧道(トンネル)だ。門の上には、二階建ての建物が載っている。 銀鈴たちは、荷物を持って昇降口に立っていた。 「鉄道院をご利用いただきありがとうございます。お急ぎのところ、列車が二時間二分遅れましたこと、おわび申し上げます。急行券は、規定により払い戻しとさせていただきます。急行券、寝台券ご呈示の上、歩廊上の駅係員までお申し付けください。繰り返します、――」 扉の前にいた列車給仕が拱手の礼をして、こう言った。 「急行券返ってくるの? だいぶもうかったわ」 銀鈴がうれしそうに言った。 「残念だけど銀鈴、君のは無理だ。切符をよく見てみなさい。『官用乗車』の朱印が押してあるだろ? 後宮太学の面接受験者に渡す切符は、官吏の出張と同じで、駅からタダでもらってくるから、お金払っていない。だから、返ってこないよ。瑠璃お嬢さんは、普通に切符を買ってますよね? 払い戻しになりますから忘れないように。機関士はがんばったんですけど、惜しかったですね。あと三分、速く着けば、遅れは一時間五九分。二時間切るので、急行券払い戻しは免れたんですけどね。払い戻しの案内を、ここまで待ったのも、ギリギリまで払い戻しの判断ができなかったんでしょうね」 一緒にいた忠元が説明した。 そうこうするうちに、列車は終点、長洛駅の歩廊に滑り込んだ。 長洛駅は、「凹」字の閉じたほうが北、開いたほうが南の、三層の楼閣。色遣いは鉄道院駅舎建築基本様式通り、屋根が瑠璃紺、軒が緑、柱が真朱。三方に建物があり、南に門を開けた城壁がある三合院造りだ。始発駅、終着駅にふさわしい、頭端式(とうたんしき)――行き止まり式――の駅である。 列車が停止し、列車給仕が扉を開けた。 銀鈴たちが歩廊に降り立った。 瑠璃は、兄を見付けて、兄に飛びついた。 「お兄さま!」 「瑠璃! 勝手に屋敷を抜け出して心配したぞ」 瑠璃の兄は、瑠璃にそう言ってから、忠元に頭を下げた。 「越大人、妹がお世話になりありがとうございました。大人と一緒になり、助かりました」 「うまく飛信はがきが届いて良かったですよ、易さん。瑠璃お嬢さんのお世話をしたのは、この子、後宮太学の本面接に向かう途中の張銀鈴ですよ。たまたま乗り合わせまして」 忠元は、瑠璃の兄に銀鈴を紹介した。 「ありがとう。妹がお世話になったね」 「どういたしまして」 「銀鈴、世話になったわね。気に入ったわ。後宮太学の面接、落ちたらうちに来なさい。お父さまに頼んで、侍女兼指圧師として雇ってあげるわ」 「瑠璃、受験生に『落ちる』は禁句だぞ。申し訳ない。両親が年を取ってからできた子なので、わがままに育ってしまって」 「お兄さま、せっかく長洛まで来たし、新しい衣や髪飾りがほしいの。買ってくださる? それに長洛には角笛亭っていう泰西茶館があって、チョコレートを使ったケーキ、ザッハートルテがあるそうね? なんで教えてくれなかったの?」 「おいおい、瑠璃。……これは参ったな。とんだ物入りだ。私が甘いもの苦手なのは知ってるだろ?」 「角笛亭は、甘いものが苦手でも、だいじょうぶですよ。甘い菓子類だけでなく、仔牛肉の揚げ物、肉団子の羹、焼き腸詰(ソーセージ)、甘藍(キャベツ)の酢漬けといった簡単な泰西料理も出しますから」 忠元が、瑠璃と瑠璃の兄のやり取りに口をはさんだ。 「大人、それなら助かります」瑠璃の兄は、忠元にそう言ってから、瑠璃に向き直った。「瑠璃、明日か明後日にでも、その角笛亭に行こうか?」 「うぁー、お兄さま大好き!」 瑠璃が、瑠璃の兄に抱きついた。 「赤巾(せっきん)さん」 忠元が、そばに待機していた手荷物運搬人を呼んだ。“赤巾”の名の通り、赤い頭巾を巻いて、そろいの印半纏姿だ。 「荷物、お願いします」 「かしこまりました」 赤巾が、銀鈴たちの荷物を担いだ。 「そろそろ行きますか。混雑するからはぐれないように」 忠元が、銀鈴たちに言った。 「ほんと、人が多くて、にぎやかね。江中駅も、大きな駅だからにぎやかだけど、それ以上ね」 銀鈴は、首を左右に回して、辺りを珍し気に見回している。 「銀鈴、手を離すなよ。迷子になるから」 仁瑜が銀鈴の手を握った。 「うん」 さすがは寿国一の大駅、長洛駅。寿人はもちろんのこと、世界の西から、東から、人が集まってくる。頭に白い長巾を巻いたり、緑の房がついた赤くて丸いつばなし帽子をかぶったりした、西域人。琥珀色の髪をした、西域よりさらに西の泰西人。寿人の衣と似ているが、微妙に異なった衣の、東の島国の和人。その間を縫って神業的技術で、荷物を満載した台車を押す運搬人。 銀鈴たちは、集札口で切符を渡し、集札口前の広間に出た。 広間の一角には、立ち食いの点心屋があった。店の前に大きく書かれている品書きには、「羊肉の串焼き」「羊肉泡モー(ヤンロンパオモー)」「肉夾モー(ロージャーモー)」をはじめ、各種麺類、餃子。 「おいしそう! 『羊肉泡モー』『肉夾モー』って何?」 銀鈴が、よだれをたらして叫んだ。 「おいおい、昼に食堂車であれだけ食べて、まだ食べるのか? それにもう五時だぞ。もうすぐ夕餉だ」 仁瑜があきれ顔でたしなめた。 「一応説明すると、羊肉泡モーは堅い焼き麺麭を細かくちぎって、羊肉の羹に入れて、軽く煮たもの。米の代わりに麺麭を使った雑炊に近いか。肉夾モーは、醤油煮の豚肉を焼き麺麭にはんだものだよ。銀鈴は、羊肉が珍しいのかな? 列車が定時に着いていれば、三時半過ぎだったから、おやつに羊肉の串焼きを、二、三本つまんでいっても良かったけどね。長洛から西のほうは、宗教上の理由で豚肉を食べない人も多いので、肉といえば“羊”っていう地方も多くなるよ。長洛は西域への玄関口だからね」 「はい、越老師。羊はあまり食べたことがないので。せっかくだから、一本買ってきます」 「わたしも!」 瑠璃も、銀鈴に続いて、点心屋に入ろうとする。 「銀鈴、やめなさい。涼謹も言ってたけど、もうすぐ夕餉よ。夕餉が食べられなくなるわよ。しばらく長洛にいるんだから、羊肉を食べる機会はいくらでもあるわよ」 霜楓が銀鈴を止めた。 「そうですね」 銀鈴と瑠璃は、羊肉の串焼きを買うのを思いとどまった。 「そういえば、食堂車で食べた花捲は、いつも買う肉まんやあんまんの皮より、おいしかったです」 銀鈴は、昼餉の花捲の味を思い出した。 「粉が違うのよ。この辺りは、“黄土平野(こうどへいや)”っていうんだけど、黄土平野の土は、麦に向いているのよ。だから、長洛は花捲、麺、餃子などの“粉もの”がおいしいわよ。何食べても当たりはずれはないしね」 「そうなんですか、師叔」 銀鈴は、“粉もの”に思いをはせて、うれしそうだった。 「大人、銀鈴ちゃん、皆さん、お世話になりました。では、私たちはここで」 瑠璃の兄が、銀鈴たちに頭を下げた。 「銀鈴、さっきも言ったけど、あなた本当に気に入ったわ。後宮太学に落ちたら、いや卒業後でも、うちに来なさいよ。ちゃんとした老師を就けて、指圧と髪結いを仕込んであげるわ。易家のひとり娘の侍女よ。いい話よね」 瑠璃は銀鈴に、住所を書き付けた紙片を渡した。 「えっ、わたしまだそんなこと考えてないし」 「しばらく時間があるから、ゆっくり考えなさい。まあ、とりあえず気楽に都見物を楽しめばいいわ。へたに悩むと良くないわよ」 霜楓が銀鈴にそう言った。 「瑠璃、下宿先に行くか」 「うん」 銀鈴たちは、下宿先に向かう瑠璃兄妹を見送った。 「それにしても、瑠璃嬢といつの間に仲良くなったんだ? 易家のご令嬢はそれなりに気位が高いのに」 仁瑜が銀鈴に尋ねた。 「うん。乗り物酔いのツボを押したり、瑠璃お嬢さんの髪を結ったりしたら、なぜか気に入られちゃって」 「今朝方の豚にしても、瑠璃嬢にしても、よく気に入られるな、銀鈴。人徳だな」 「……そんな」 銀鈴は、顔を赤くした。 「恥ずかしがることはないぞ。それにしても、妹っていいものだな」 「そうね。わたしも、お兄ちゃんほしいな」 銀鈴は、瑠璃兄妹のようすを頭に描いた。 「私じゃダメか?」 「えっ、涼謹お姉さん、“女”じゃない。妹、いないの?」 「それはそうだが。私、一人っ子だから。それに、身近に同じ年ごろの子もいないし。わりと年が近いのは忠元師兄ぐらいで」 「そうなの。わたしも一人っ子よ。あんなお兄ちゃんいればな」 「銀鈴、わたしたちもそろそろ後宮へ行きましょうか」 霜楓が銀鈴にうながした。 「はい」 「銀鈴、また後でな」 仁瑜が言った。 「涼謹お姉さん、また会えるの? じゃ後でね」 涼謹お姉さん、ほんと格好いいわ、と最後まで仁瑜を“女”と思い込み、あこがれる銀玲だった。 |
ドラコン http://https://twitter.com/avBg6271D1rpawO/status/1555164273474605058 2019年11月22日(金)12時12分 公開 ■この作品の著作権はドラコンさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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