奥歯
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 夜中にベッドの中で、犬の甲高い鳴き声が聞こえ続ける。夜も深いのに近所迷惑だな、僕も迷惑だな、と思いつつ。こんな声を出させるのは、ウチの家の犬を散歩し続けている母だけだなと思う。耳を塞いでもなお聞こえそうなその機械質な高い音に、僕は酷くいらいらしながら、じっと耐える。歯の奥が妙にうずき、舌でべろべろと舐め続けていると、それがぽろりと落ちた。口内の歯茎からは大量の血が噴き出し、鉄っぽい膿っぽい味が一杯になり、共に大量の痛みが襲ってきた。喉に引っかからないようにと、慌てて口中から取り出すと、ところどころ黒ずんだ奥歯があった。見事に根元から丸ごと抜け落ちたものだと半ば感心しつつも、歯茎の奥の出血と痛みはとうとう耐えがたいものとなった。起きて、洗面所に行き、その冴えない髭だらけの顔を横目で覗き、何度もうがいをして、血を吐き出した。消毒できるものが欲しいと思ったが、無論ここにはない。
 すると後ろに母が来て。
「どうしたの?」
 と言う。
 事情を話すと、一瞬で理解して。
「そう、大変、居間に行きましょ。応急手当する」
 と言う。
 歯にハサミで切ったハンカチのようなものを何十にも被せ、数十分の止血の後、ようやく血は止まった。ただ、痛みは全く治まらない。歯の奥に、鈍く、時に鋭くうずき続ける。
 居間は驚くほど整然と整理されていて、机の上には何一つ無駄なものはなく、棚の上の熱帯魚の水槽も苔一つ付いていない。しかしながら、ただ一点、そこでの不調和を母も見逃さなかった。
「なに、これ。贈答用の本のように、きちんと帯も付けて保管してたのに」
 帯が外れている本があった。北村薫の「空飛ぶ馬」。古典ミステリの名著だ。その文庫版の第一版。表紙には中性的なショートカットの大学生の女の子の絵が描かれている。昨晩、僕が取り出して読んだのだった。
「ごめん」
「だめよ、許さない」
 母の声はヒステリックになった。
「ごめん」
「この棚の本は全部、大切な完全品なのよ」
 棚にはずらりと帯までもかかった、新品同様の本が並んでいる。誰にも読まれていない美品なのはわかっていた。母本人にすら読まれていないのだと。
「僕に贈ったものだと思ってくれよ」
「だめ、これは全部わたしのものなの」
 母の声はいよいよ甲高くなった。
「だって、誰も贈る人などいないじゃないか。母さんには。こうやって、何もかも誰にも与えず、分かち合わず、ただ、持っているだけで、なんなのさ」
 母は当然のように答える。
「これはわたしが所有しているの。わたしの所有物なの。絶対に誰にも渡さない。死ぬまで。いえ、死んだ後まで」

 ベッドから目覚めた。歯が抜けて、朝一番に歯医者に行くことにして、軽く睡眠をとろうとしたのだ。歯が痛く、痛く、痛く、とても眠れない。と思っていたが、思っていたよりも、うとうとすることが出来た。銀色に縁どられた目覚まし時計の緑色の時計盤を見ると、時間は午後1時。歯医者に間に合うかと心配になるが、身体が思ったように動かない。一気に老人になったかのように身体が重い。布団が身体に引っ付いて離れない。布団ごとベッドからずり落ちて、スキー靴を脱ぐように毛布からはい出る。
 窓の外の景色は、はきはきした新緑。庭先に植えたゴーヤの苗が鮮やかだ。眩しい程の初夏の日光が差し込み、朝を告げている。空はテレビで見たイタリアの青の洞窟のように青い。心持ち暑いが、それ以上に窓から抜ける風が爽やかで心地いい。
 パジャマから着替えようと思っていたが、元から普段着のまま寝ていたことに気付いた。のろのろと誰もいない居間から、マスクをつけて光溢れる外へと歩む。アリが芝生の上でこちょこちょ進軍している。錆びた銀色の自転車に腰かけて、目的地へと向かう。道先で数人の5、6歳の子供たちが楽しそうに追いかけっこをしていた。
えんがわ 

2023年05月02日(火)10時15分 公開
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2023年05月03日(水)23時05分 えんがわ  作者レス
>ベールさん

どうもー。ありがとです。
ストーリーとしてしっかりしておらず、残念な感じになってしまい、すいません。

感覚的に書き過ぎてしまいました。反省。

pass
2023年05月03日(水)22時53分 ベール Q30owsDo8A +20点
歯が抜けて医者にいこうと決意するまでと途中の母の本の話や母との会話が、全体としてどうつながるのかがよくわかりませんでした。一つ一つの情景描写や比喩表現は豊かなのですが、物語全体として何が言いたいのかな、というのが率直な感想です。着眼点はおもしろかったです。
36

pass
合計 1人 20点


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