淡い明かりと冷たい風と
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 男は、目の前に並んだかつての栄光ある遺産を見ながら静かに物思いにふけった。昔から今に至る歴史を思い返しながら、次第に感慨めいた感傷が脳裏から湧いてきた。
 スマートフォンも、パソコンも、ただのがらくたに過ぎない。目の前にある物は、もはや何の役にも立たない。金属や樹脂を収拾するためのただの資源に過ぎない。
 かつては、人々によって貴重な道具として使われたにも関わらず、今ではもう電気をつけることもできず、膨大な量の情報にアクセスすることもできず、ひたすら無用の長物に過ぎないからだ。
 だが男はそれらを全く意に介さなかった。むしろ、もう使い道を失ってしまったものだからこそ、なおさら価値のあるものだと思った。
 男のそばには友人がいた。男に比べるとやや角ばった輪郭で、老けた顔をしていた。
「いや、面白いもんだ。未来に生まれてきて本当に良かったよ。ご先祖様が築き上げたものが、今ではこれっぽちの価値もないくずと分かったんだからな」
「もうそいつらは墓の中さ」
 友人は得意げに語る彼の顔を冷ややかに眺めた。この男は、事実を語ることに関しては熱心だが、そこにしばしば露悪的な言い回しを含める癖がある。
「語りたいもんだ。俺と同じような学識を持った人間と」
 友人は、男のそういう情熱や知的好奇心に関しては敬意を払っていたが、その根底にあるものとなるとどうしても好意が持てない。
「やめておけ洋蔵(ようぞう)。お前と趣味の合う人間なんてそうそういないんだぜ」
「この世は、いつだって不思議に満ちているもんさ。一体だれが、こんな新世界の到来を予告しえたんだよ。俺たちは、彼らが予想できなかった未来に生きているんだからな」
 そう言い切る男の顔は、確かにある種の愉悦に満ちていた。
「パソコンとかスマホとかが効力を持っていた時代を生きた人々は、さらにその前の人間がパソコンとかスマホを予想できなかったのを笑っていただろうよ、俺みたいにな」
 この先、世界がどうなるのか、男には分からない。ただ、もうあの輝かしい過去は二度と訪れないことだけは確かだった。だからといって、そんな薄暗い未来にさほど暗澹とした気持ちになっているわけでもない。それもまた人間が織りなすドラマの一シーンだと割り切っている。
 ――俺はこうして歴史の、生き証人となっているわけなのだから。
 だからと言って男はこの薄汚れた時代に安住するつもりもなかった。必ずこの手でかつての繁栄を取り戻して見せるのだ。先祖が、いまだ予期しなかったやり方で。
 この先、大きな苦労を経験することが分かっていても、その希望にすがるしかないのだ。
 千景(ちかげ)は、洋蔵の顔を冷ややかに眺めていた。まだ、日は沈み始めたばかりだ。申し訳程度の照明が、二人の輪郭を暁に焼き付けようと必死だった。

 あたりはすでに日が昇り、再び人間の活動する時へ突入している。
 人々が短い死から起き、今日もまた変わらない活動を始めようとしている。というのに。
「ねえ、いつまで寝ているの?」
 朝倉和美は、友人がものうい様子で藁の上に臥しているのを気だるげに見つめていた。
「あと……あと五分……」
 和美は、腕を組んであきれるように、
「あんた、清流会(せいりゅうかい)を支えるんでしょ。総会でも言ってたじゃない」
「あれは苦しまぎれに言っただけだよ。俺はちっともあんな奴らの元で働きたきゃないんだ」
 和美はあきれて、視線を外側に巡らし、薄くかすんだ空を眺める。空の下に、黒ずんだ壁がいかめしく広がっている。
「それ、総理に聞かれたらどうするの?」
「あ、ああ。俺は何も言っちゃいないぞ。何も言っちゃいないんだ」
 五十嵐は、がばっと跳び起きた。
 清流会が自分たちのことを『ちくる』人間にどれだけ厳しいかを思えば、この程度の失言でも激しく咎められるのは言うまでもない。
「お前、何も訊かなかったよな?」 相変わらず、冷汗をかいて。
「もちろん。何も聞いていないさ。私たちを24時間みそなわす監視カメラを除いてはね……」
 二人は白い衣をはおっていた。安物の布を綴り合せて作った、粗末な衣だ。
 彼らは階段を降って下に降りると、建物の間の小さな路地を小走りに走った。
 遠くでは、もはや途中で折れ、無残に朽ち果てたビルの残骸がその姿を申し訳なさそうに晒している。
 残った建物も、緑の蔦や草むらに包まれ、もうすぐ自然の中に帰ろうとしている。
 千年(ちとせ)の集落は、かつては大都市のとある一角であったが、今ではその周囲が軒並み空虚な無人地帯となったことで人間の生存を証明するささやかな砦となっていた。そこでは、昔とはもう比べものにならないが、今もなお変わらない――と言い続けたい――営みが続いているのである。
 あちこちから香ばしい匂いが漂い、炊事を意味するであろう煙が時折空へと立ち上っている。
 この辺りは確かに、百年前まではフグの卵ほどの数の人間がひしめく文明の中心地であったのだ。しかし、ある時突然起きた『何か』によって人影が消え失せてからは全く何ら得る物のない不毛な瓦礫の野原と化しており、彼らが住みつくようになったのはごく数十年前のことに過ぎない。
 彼らの先祖が生きていた時代には、このような場所に住みつくのは大いにメリットであったはずだが、和美たちにとってはここにいたからと言って別に得をするわけでもない。木の実や作物がとれるわけでもないのだ。
 せいぜい、周囲から身を守るための砦か、あるいは先祖の遺産の中でかろうじて有用なものを利用しているに過ぎない。
 和美と庸平以外の人間も、大体同じような服装をしていた。和美の目には、彼らの顔がみな、何となく似通っているような気がしていた。
「巫女どの、敵襲はなかったか?」
「ああ。大丈夫だったよ。ここはビルとかに囲まれて守りが堅いし、外からは見えにくい所だからね」
 和美はごく当然なことを言ったつもりだったが、相手は和美がことさら尊い存在であるかのように、か細い目つきで見返した。
「いや巫女どの、あなたが守ってくださるからだよ」
「巫女だなんて……」
「やっぱり君は特殊な力の持ち主だ。ここに来るべく定められていた、私たちの巫女だ」
『巫女』――そういう風に和美は呼ばれていた。
 和美自身はそんな仰々しい称号などつけられたくはないと言っていたが、群衆があまりに巫女だと呼ぶので、渋々そう呼ばれるのを受け入れていた。
「朝倉和美さん。急遽、他の会との会合がある」
 そして、遠くからこちらの存在に気づき、背広姿でサングラスをかけた高身長の男性が近づいてきた。
「はい、分かりました」
 清流会の中に生きる人間にとっては、黒色が高貴な色なのだ。
 何でも『制服』という服らしい。昔の人間にとっては割とよく着用する衣裳だったようだが、今では昔の人と同じような服装であるということが地位の高さを示していた。

 清流会の本部は普通の家に比べれば若干は高い、方形の建物の中に入っていた。
 総理は、ホールの中で椅子に座り、背を曲げて両手を握っている。
 総理の傍には『サラリーマン』が仕えている。腰には刀を佩いている。こういった慣習も、先祖が確かにしていたものだ。
 津村力彦。清流会の二代目の総理大臣だ。
 まだ日が昇り始めてさほど経ってもいないだろうに、その表情は一日中働いたとでも言わんばかりに憔悴している。事実、彼にとっては実にのっぴきならない事態が発生していたからだ。
「一刀会が近年になって沼津を攻め落とし、この関東地方に押し寄せようとしている」
 力彦はびくびくしながら言った。
「奴らは近くの食料を集めただけでは満足しないというのか? 実に強欲な奴らだ……!」
 大人たちは深刻な面持ちで向かい合っている。
 一刀会のすぐそばに暮らす黒龍会からも使者が訪れていた。
 服装は清流会とは若干違っていた。紫色の服を着ており、その表面には若干繊細な模様が描かれている。
 すぐ隣に控えていた、この客人が続けて言うには、
「一刀会の首領とやらは華人というではないか。我々とは相容れぬ存在だ。西の海を越えて来たと思ったらもうすでにこれほど近くに来ているとは、あまりに不気味な奴らではないか?」
 力彦はすっかり動揺しきっていた。これまで長い間さして変わらない日々を送っていただけに、あまりにも急変する事態に、脳の理解が追い付いていないのだ。
「日本国も信頼できん。かといって一刀会もよくわからぬ」
 力彦は途方に暮れたように肩をすくめた。
「どうなさいますか、総理」 側近が尋ねる。
「日本国の連中も外をうろついているからなあ」
 日本国。あの壁の内側で、安逸をむさぼっている奴らだ。
 かつては、この列島全体を支配していた時代もあったというが、もはやこの城壁の中で縮こまっているに過ぎない。
 この列島全体を暴力で従える力すらあったという日本国だが、今ではもはやその勢いはもうなく、かつてその支配下にあった人間はそれぞれの主を慕って、まるで自然の中に見え隠れする稀少な要素に過ぎない。
「日本国に恭順を誓うか、あるいは一刀会に従うか。どちらにしても苦労せざるを得ないのは明白だ」
 総理は難しい決断を迫られていた。
 そして、導き出した結論はあまりにも無難なものだ。
「やむを得ん、どちらにも反感を買わぬようにふるまうほかはない」
 そしてようやく、和美に向き直って、
「巫女よ、私たちはどのようにすればいい」
「臆することはありません。神霊の加護により、我らが会を敵を調伏するよう祈りの儀を差し上げますから」
 和美は涼しい顔で言った。本当は神など信じてはいないし、祈った所ではどうにもならないのだが、彼らの期待に応える時にはそういうことも苦ではなかった。
 庸平は、部屋の隅で彼らの会議を聞いていた。
 庸平は、和美がどのくらい本気でそういう表情を浮かべているのか判断しかねたが、元々がどこか冷めた所のある彼女の人柄からすれば、多分半分くらいはその場の思い付きで話しているに過ぎないのだろうと思う。
 いや、そう思うのは力彦の冴えない容貌のせいもある。少しばかり顔の肉付きは良くて、恰幅はいい方なのだが、少しばかり丸みを帯びすぎている。
 先代は血なまぐさい粛正を通して会を統治したというのに、その息子はおおよそ親に似ない不肖の子だ。よく言えば温和な人間だが、悪く言えば覇気がない。
 一刀会という謎めいた連中が現れてきたのだ。そして衝突する瞬間を時々刻々と待ち構えているのだ。
 昔だったら、そういう奴らはさっさと戦って始末すればよいだけだった。
 ああ、あれくらい殺伐としていた時代の方が良かったのではないか。
 庸平は昔を懐かしまずにはいられなかった。人と人が繋がり合うと、そこでどうやって人間同士うまくやっていくか、考えなければならないようになる。そうして種々の問題が起きるようになる。
 和美から庸平はそう聞いていた。過去の様々な戦争はそれが原因で起きているのだと。
 それに比べれば、たまたま人間同士が出くわしてしまい、お互いが信頼できないせいで殺し合いになるなどとてつもなく些細ないさかいではないか。

 帰る途中の道で、庸平は和美に切り出した。
「昔は良かったよな。気に食わない奴がいれば死ぬまでぶん殴ったり崖から突き落としたりするような豪胆さのある人間が会長になってたってのに」
「あんなのが俺たちの総理なんだぜ。果たしてこの会が存続できるのかどうか」
 清流会が発足した当時は、誰もが生き残るのに必死だった。そもそも人に出くわすこと自体が希だったから、他人の顔色をうかがうという文化がなかった。
 それが今では、人間関係を円滑にするのに苦労しなければならない。
「なら逃げて行けばいい。別に会のために人間が存在しているわけじゃないんだし」
「俺にとっては会は家族と同じものなんだ。お前みたいにいつでも別れられるものじゃないんだよ」
 庸平は、物心ついた時から清流会に所属していた。親が清流会の人間だったからだ。
 だが庸平は、和美にとってそうではないことを知っている。
「私はたまたまそこで生きていけそうだったから、利用してるだけだよ」
「誰もがそんな風に生きていけるわけじゃない」
 庸平はそういう生き方にあこがれると同時に、縁遠さを覚える。庸平には、この会に所属している人間以外とのつながりがない。
 庸平も、昔の世の中について聞いたことが全くなかったわけではない。
 ビル群は空の向こうからやって来た宇宙人に建造されたものだとか、そういう荒唐無稽な話ばかりだからだ。もっとも和美と出会う前は、そういう荒唐無稽な伝説を本気で信じ込んでいたわけだが。
 彼女はこの会の前に、たまたま現れた。
 会の人間は最初、新参者に対して冷淡だった。基本的に会の人々は他の会の人間と合流することは稀だったし、もし遭遇したならトラブルになるのを避けて追い払ってしまうからだ。そうでもないと、十中八九騒ぎになりかねない。
 しかし、和美にはどこか不思議な、神秘的な雰囲気をたたえた威厳があった。
 和美は、彼らに対して臆することなく言い放った。
「私はあなたたちを導くためにやって来た」
 住人たちは、疑った。
「なら証拠を見せろ」
 彼女は、会の人々に本を読んで聞かせてやった。それだけでも大層感心されたのは、字を知っている人間が希少だったからだ。それから九九の段とか四則演算も教えてやった。彼女がどうやら優れた技能を持つ人間であると分かると、民衆は彼女を一目置くようになった。
 そうして和美は次第に、清流会の中に溶け込むようになっていた。
 そういうわけで庸平たちは彼女を一目置いていた。もっとも和美程度の技能を持つ人間など、昔はその辺にいたことなど今では庸平くらいしか知らない。この会は閉鎖的な集まりであったし、氏素性のしれない人間を歓迎するなどまずありえなかった。なにしろ、人と会うこと自体が今の世の中ではめったにない現象なのだから。

 人間と会うことが少ないことが良くも悪くも、この世界で生きるにあたっては大きく作用する。それを和美はよく心得ていた。
 人間の数が急激に減り、人のつながりそのものが怖ろしく希薄になった現代だが、一応、人と人が集まって暮らす程度には文明は回復している。とはいえ、それはかつての文明が誇っていた水準には及ぶべくもない。よそから来た人間と出会うだけでも奇跡的。
 物心付く年齢に達するだけでも、あまりに過酷な時代だ。自分が生まれてきたのも本当に奇跡的なことだと恐らく、和美は思う。
 この島においては、まだまだ、わずかな家族単位で各地を放浪し、採集しながら生活している人間が多い。日本海沿岸では恐らくそういう集団がほとんどだろう。以前生活していた街での噂で聞いたことだ。
 だが太平洋側になるとまた事情は異なる。
 会――関西から東北に至るまでの地域には、大なり小なりそういう名称を名乗る組織が分立している。
 旧体制が支配力を失った後、人々が生きるために集まって作り出した集団だ。
 人間は、一人では生きていけない。そのためにまとまって暮らすのが昔からの真理だった。
 まとまるにしても、何か人々の心を一つにするような拠り所がなければならないはずだ。そして旧体制においては、人間の心を一つにするための拠り所は、いくらでもなった。宗教とか、政治的な信条といったイデオロギーが強い力を持ち、それが疑うまでもなく価値のあるものだと信じられていたからこそ、彼らは集団になりえたのだ。
 だがそれが、突然起きた変化に対応しなければならなかった彼らの先祖には、何もなかったのだ。

 清流会の場合は、団結の原動力などといえば単なる生存本能に過ぎなかった。彼らは政治や宗教などの虚構にすがる発想を持たなかった。あらゆる恩恵を失い、ひたすらひもじくさまよう他なかった人が暴力によって屈服させられ、服従させられ、また他の人間を服従させるという流れによって自然と形成された集団だ。
 清流会はかつて放浪するだけの集団だった。食糧が見つかったらそこにしばらく住み着き、食糧が尽きたら、また別の場へと旅に出る。その繰り返しを何十年か続けていた。
 だがこの千年――厳密にいえばそれを含む高津(たかつ)という地域――に来てから、清流会はほぼその地を離れたことはない。
 清流会はこの地をある程度整備する必要があった。建物の中を掃除して住めるようにしたり、ビルを解体して資材を集めたり、アスファルトを剥がして土を耕したり、試行錯誤の末にようやくここでの生活が板についてきた感がある。そして宗教も――人間以外の何かに頼ろうとする感情も取り戻しつつあった。
 千年の中心には、小さな祠があった。かつて神社が存在した場所の上に。あらゆる歴史を無に返した人口の激減だが、土地の記憶だけはどうしても拭い去ることができなかった。
 祈りをささげるために、朝倉和美は神社に入った。
 素朴な木で作られ、苔むした鳥居の向こうには小さな小屋があった。
 その小屋の内部はごく狭く、小さなフィギュアが簡素な祭壇の上にちょこんと載っているだけでしかない。少女の姿をした簡素なフィギュア。
 少し前に土の中から出土し、住民に祭られるようになったものだ。
 清流会の構成員は、この神社にある程度は愛着を持っているらしい。
 和美も、彼らと同じように神社には敬意を払っていた。
「女神様、どうか私たちに加護をお与えください」
 緑色の髪、青い目、黒い髪を着たつぶらな目の女性像だ。和美はそれが本当は女神でも何でもないことを知っている。
 かつてそういう女性が実在したのか、あるいは完全な虚構なのか、それすら判然としなかったが、和美は少なくとも信じるという営みに損失のないことは知っていた。和美は神を信じてはないが、それを平気で辱められるほど無宗教な人間でもなかった。

 神に向き合って祈りを立てている間にも、大人たちはいつになく張り詰めていた。何かが変わりつつあることを彼らは自覚していた。
 忍び寄る一刀会の陰。
 そして、日本国の怪しい動き。
 清流会はさして土地やこだわる団体ではないはずだった。狩猟採集生活を営む数人の集いでしかなかった。
 もし食い物が足りなくなれば、そこから離れればいいはずだった。
 しかし昔に比べれば大きくなったこの団体は神奈川一帯に定着して活動する内に、食料や水をこの土地に依存するようになっていた。この資源の維持こそが、清流会にとってもっとも重大な課題であり、他の会と騒動になる時もこの資源の奪い合いが最も大きな原因であると言ってよかった。
 そして清流会の首領は管理を構成員に任せていた。無論末端の構成員たる和美と庸平もその仕事を任されていた。ただ単に、祈ることだけが少女の仕事ではないのだ。
 神社から帰って、また集落の方に戻って庸平に会うと、すぐ最近のことに関してよもやま話が始まった。
「にしてもだよ。こんなにピリピリした雰囲気の中で食料を守る必要があんのかよ? つい数年前はちょっとした手元にある物で満足してただろうに」
「北の方にいる奴らは今でもそうだろうね。あっちではごく小さな集団が無数にひしめいているけど、そもそも人の数が少ないから」
「いつか私たちの会が大きくなったら、もっと大きな争いになるだろうね」
「じゃあ、なおさら俺たちはこの会を守らなきゃいけないってことだろうが」
 頭をかく庸平。
 資源の奪い合いで戦いが起きるとは、犠牲者が出るということだ。庸平は嫌な気分になった。
 今までではごくわずかな人間と喧嘩じみた争いをすればよかった。
 だが、自分たち以外の集団の規模も段々大きくなってきている。そうなれば数人を倒したところでまた別の敵が次々に現れてくるのだ。
 これからは、何となく戦いの規模が一層大きくなりそうな気がする。
 庸平はしかし、こういった心配事の解決策を和美に訊く時間がなかった。和美には和美のやらねばならないことがある。
 庸平は森の中で不審者がいないか警備しに行かなければならないのだ。これは危険は少ないがそれでも重労働であることに間違いなかった。
「じゃあ、またな」 軽い調子で庸平。
「生きてたらね」
 和美はいつもと変わらない声で言った。
 ああ、一体こんな挨拶をして、本当にまた会えなくなってしまった人間をどれだけ見てきたことか。そうやって過去を振り返ると、和美は、胸底が焦がれる感じがした。
 二人には別々の仕事がある。いつも一緒と言うわけにはいかない。
 和美に命じられているのは、食糧庫の見張りの番だ。巫女なのにそんなささいな仕事をしたいのかとは言われたが、あくまでも彼女は、神社での祈り以外はあまり特別な仕事はしたくない、と申し出ていた。それで日ごろは、基本的に雑用をやっていることが多い。
 彼女が見張る対象は、清流会の本部の近くにあり、大昔のコンテナを引っ張ってきて再利用した建築物である。もう何十年経つか分からないがすこぶる物持ちが良く、非常に評判のいいコンテナとして知られていた。
 朝から昼にかけてはさして何も起きなかった。和美の他に一人警備員がいたが、平穏な時間に飽きが来ていたのか無邪気にあくびをするのがしばしばだった。
 和美は、時折仲間とたわいもない話をしていた。庸平のように、ずけずけと薀蓄を垂れ流せる相手でもないので、ちょっとした要点だけまとめた話をしていたのである。
 だが夜になると話は別だ。人間だけでなく獣にも気を付けなければならない。
 何も起きないのが一番いいのだが、決してそう平和にことは進まない。
 和美は、ミクガミに対して心の中で加護を祈っていた。昔に比べれば、生きる上での恐怖が多すぎるのだ。神に頼らなければ、この恐怖には決して打ち勝てないだろう。それがまた、彼らをこの地で必死に這いつくばらせる糧となっていた。

 かつて人間を構成する細胞と同じくらい人間は存在した時代には、人々は星を見上げることなどほとんどなかったという。小さな黒い、平べったい妖精の言ったり書いたりすることにばかり気を取られ、他の必要な生活の動作がなおざりにされていたとか。
 その辺は、今の時代の方がましなのではないかと和美は思う。今では目の前の光景、肌で感じ取れる感覚だけが全てだからだ。
 だが、そうやって周囲への関心が薄れていたまさにその時。
 小さく土を踏む足音で、和美は一気に現実へと引き戻された。
 歩く音で分かる。奴はここの住民ではない。
「誰だ?」
 和美は、すでに臨戦態勢を整えていた。
 ここにあるのは、食料。当然ながら狙われないはずもない。
 突然、仲間の一人が首を掻き切られた。
「敵――」
 覆面を着ていた。顔は見えない。しかし、その向こうにある悪意は本物だ。
 奴らは無言で襲いかかって来た。
「このやろ!」
 和美は持っていたナイフで一人の首を切り裂いた。そいつは無言のままバランスを失い、地面に崩れ落ちた。
 まだ、三人から四人はいる。しかし和美は恐れない。たとえ何人いようが、全滅してやるまでだ。
 もう一人を素早く刺した。左右から二人が襲いかかって来るが、和美は軽い身のこなしで一人に飛び膝蹴りを喰らわせ、もう一人に頭からぶつかり、気絶させる。昔から石頭は自慢なのだ。
 敵はまだいる。和美はさして慢心することもなくそいつにとどめをさすべく飛びかかっていた。
 しかし、敵はただではやられるつもりはなかった。
 和美のナイフを手にしていた警棒で防いだのだ。そしてうろたえることなく和美の頭上からその金属の塊を思い切り振り下ろした。
 それをかろうじて防ぐ和美。わずかに、表情が怯える。
 それから二つの武器が火花を散らし空中に複雑な軌道を描きながら何度も衝突した。
(一体こいつ、どこでこんな技能を学んだの!?)
 和美は驚いた。
 そして敵に感心すると同時に、恐怖した。これほど苦戦するとは思わなかったのだ。死との距離が一気に近くなる。
 だがこの戦いは突然、終結した。
 後ろからがつんとくる衝撃が、和美を打ちすえたのだ。激痛よりも先に、少女の体が一気に重くなった。
 和美の手からナイフが離れ、地面に落ちた。膝を落とし、それから腕がついた。
 少女は抵抗の意思を捨てていなかった。
(こいつらに……やられてたまるか――)
 気を失う最後まで、敵に対し怒りのにらみを向け続けていた。
 しかしその後は、もうどうしようもなかった。
 和美を後ろから叩いた覆面は、低いが鋭い声で部下に命じた。
「捕らえろ!」
 手下たちがそれに従い、和美の腕に縄を巻いた。そして外に連れ出すと、さびついた青白い電気自動車の中に乱雑にその体を放り投げた。奴らは間断なく車の中にどんどん乗り込むと、すぐさまそこから走り去っていった。

 庸平の方でも、最初は何ら異常はないはずだったのだ。時折野生動物に出くわすことがあり、その際はできるだけ距離を取りながらやり過ごすのに時間をかけるものだが、今回は幸いそうした目にも合わなかった。
 しばらくして休めそうな岩の上に座り、大きく背伸びをしてから川で顔を洗った。こうしてちょっとした休憩を取ると、
「じゃあちょっと俺、あっち行ってくるわ。大丈夫、すぐ帰って来るから」
 五十嵐庸平は林の間を進んだ。そして、思いがけない者たちと出くわした。
 木立の向こうに、十人以上の隊列を成して何者かが行進していた。
 その先頭で、革でできたチョッキを着た、一人の女性が赤い旗を掲げている。
 ゆっくりとした足取りだが、それでも他者を寄せ付けない物々しさがあった。
 この地に、あれだけの人間を用意できる組織と言えば清流会と黒龍会以外には考えられなかった。だが彼らの服装はその二つの組織とはまるっきり違っていた。一つの可能性に思い当たり、庸平は直感で悟った。
(あいつらが、一刀会――か)
 庸平は、かっこいいと思ってしまった。女性やその後ろに従っている人々が、力彦よりもずっと勇ましく強そうに見えたからだ。
 だが当然ながら庸平は相手に存在を感知されるわけにはいかなかった。素早く動き、かつ音をたてないようにして
 庸平は、不思議な気分のままだった。あれが一刀会だとするならば、彼らについていきたいと思ってしまったのだ。今まで清流会以外の繋がりを持たず、持ちたいとも思わなかった庸平にとってはこの感情は実に衝撃的だった。
 すぐ少年は本隊に戻った。いたって澄ました表情を浮かべて、彼らの前に現れた。
 隊長は何かに気づいたのか、怪訝な表情になった。
「どうした、庸平。少し時間がかかったようだが」
「奴らがいたんだ」 庸平は、できるだけ自分の本心を気づかれないように報告を始めた。彼らに警戒心以外の感情があったなどと、少しでもさとられてはならないのだから。

 和美が目覚めると、そこは牢屋のような場所だった。
 檻の向こう、見るからに老けた、小汚い中年男性がにやにや笑いながら腕を組んでいた。
 その時点で、自分が置かれた状況を直感で理解し、
「ここはどこなの!?」
 和美は叫んだ。
「俺たちだってこんなことを好きでやっているんじゃないんだぜ、お嬢ちゃん。食い扶持が足りねえんだからな」
 人さらいであるのは明らかだった。まさか自分が狙われるとは思わなかった。
「お前を売った金で、俺はこれから新宿で裕福に暮らすつもりなんだ。お前らよりもよっぽど贅沢な、タワマンでの生活をしようと思ってな」
「私をどこに売り渡すつもりなの」
「さあな。高い金で買ってくれる奴ならどこにもでも売ろうと思うぜ」
 和美は悪びれもせず、逆に檻に顔を近づけて、
「なら、私がいい取引先を教えてあげようか」
「いちいちしゃべんじゃねえぞ。電化製品ごときが」
 口をへの字に曲げる和美。
「お前みたいな奴がどれくらいの値打ちがあるもんやら……。そうだ、南人(なんじん)の商人にでも売り飛ばしてやるか」
「南人? それならいいよ。奴らの方がその辺の連中よりももっといい待遇をしてくれるだろうからね」
「いいやがったな小娘。てめえにはいい目を見る人権などないんだぞ」
 気炎を吐く商人。『人権』という言葉の使い方に疑問を抱いたが、それを尋ねている場合ではなかった。
 この男からどうやって逃げ出すか、それだけが喫緊の課題だった。
 和美はさして不安ではなかった。この程度の経験など、旅の途中でいくらでもしている。そしてその対処に失敗したことなど一度もない。
 もし失敗していたら、そもそもここで生きていないのだから。

 庸平がこのことを知らされたのは、日が昇る直前の頃、市街地の外縁をめぐる警邏から帰ってきてのことだった。仲間たちは、実に申し訳なさそうな顔をした。はっきり言えば、悄然としていた。
「和美がいなくなっただ!?」
『巫女』と呼ばれるほどの人間だ。この共同体においては密かに、注目を集める所となっていた人物である。無論、庸平にとってはもっと別の意味で衝撃的で、辛いことなのだが。
「ああ。朝になって見回りに行ったら急に急にいなくなったんだ。吉内(よしうち)が殺されていた」
 和美の仲間は非常に申し訳なさそうな顔で五十嵐に説明した。
「じゃあ、誰かが食糧庫に忍び込むのを見たのか?」
「目撃情報があったよ。でも一刀会の奴らじゃないかもしれないな。襲撃者の遺体から、南人や華人などではない。多分日本国の奴らかもしれない。一刀会じゃないのは確かだ」
「じゃあ、今はどこにいるか分かるか?」
「恐らくは日本だろうな……」
 五十嵐は血気盛んな若者だ。どうしても苦労を受け入れなければならぬというのなら、喜んでこの苦労を受け入れるつもりだった。
「なら日本に行って何が何でもあいつを取り戻す」
「よせ! 日本の警備は重大だ。あいつらは拳銃を持ってる。一度見つかったら終わりだ」
 だが日本国が科学技術を保っていようが、日本国が外敵に容赦しまいが、庸平はどうでもよかった。そんな難しい話は、総理が考えることだ。
「俺はあいつから聞きたいんだ。もっとこの世界のことを」
「世界だと? こんな世界の何に、知るべきものがあるってんだ」
 男は何の感慨もなさそうにいらえた。彼にとっては、世界はこの狭い空間だけで存在しており、未知のものなど何もない。庸平は、それがかつての自分の姿であることを知っていた。別にそれを批判したいわけではない。ただ、一度世界が広いと知ってしまった以上は、もはや無知の中に安住してはいられない。この時代においては、何かを知ること自体が大変難しい機会。
 五十嵐にとっては彼女の話を聞くのは、ほとんど生き残るために貴重な時間を蕩尽してしまう中で貴重な娯楽なのだ。それが聞けなくなるだけでも庸平には耐えがたかった。

 庸平と出会った時から、とかく和美はあまり自分自身について語らなかった。
 相当な苦労をして、西から来たこと以外はほとんど何も。しかし手のごわごわした痣や汚れから、相当苦労して高津にまでたどり着いてきたことは察せられた。そして何より、ほとんどの人間が知らないことを知っていた。時には円周率の十桁まで暗誦してみせたこともあった。
「でも、何でお前はそういうことを詳しく知ってるんだ?」 気になってしかたのない庸平。
「神様がそう教えてくれたからかな?」 わずかにほころぶ顔。
 庸平ははぐらかされたような気がしたが、周囲の人間は本当にそれを信じ込んでいる様子だった。庸平は神など信じなかった。なぜならかつて清流会に疫病が流行った頃、神に救いを求めながら死んでいく人間をいくらでも見たからだ。
 そういう時に和美は、
「知ってた。昔の人は神なんかに頼らずに、自分の技術で疫病を克服したんだって」
 と、庸平にささやいたのだ。
「何だって? じゃあどうやって疫病に勝ったんだよ」
 和美は静かに、笑って、過去の人々がどうやってそれを成し遂げたか話した。
 ワクチンとか、聞きなれない用語が多数出てきたが、とにかく、昔の人間が今よりずっと優秀で、神の恩恵など必要としなかったことを知った。それで庸平は、ますます神など信じなくなった。
 神を信じていないのは和美も同じだった。
 神に祈っても救われないことを和美は自分の経験で知っていた。
 自分の生存を保証するのは自分しかいないのだ。
 そのためなら何でもする。少女のささやかな、しかし確固とした知恵だ。

 檻の中で、途方に暮れているとばかり見えた少女にも、突如として転機が訪れた。
 和美はひらめいた。そして、突然地面に転げ落ちて、苦しみ始めた。
 大げさすぎず、かといってささやかなものでもない、微妙な調子で。
「ねえ、水が欲しいの……」
 和美は深刻な表情と口調で、商人に訴えた。
「その様子からするとただごとじゃねえな?」
 あっさりと相手は騙された。
「てめえは大切な製品だからな。ここで死なれちゃ困るんだよ……」
 男は檻を開き、和美に手を差し伸べた。
 和美はこの瞬間を待っていた。
 こうやって人間を騙し、陥れることには慣れている。決して罪悪感など感じることはない。この世界ではそうしなければ生きていけないのだ。かつて旧来の社会体制が崩壊し、人々が全く違う秩序と倫理観の中で生きて行かねばならなくなった時に、このような営みを堂々と行える人間だけが生き残り、子孫を残すことができたのだ。
 和美の行動は早かった。和美は思い切り強く男の手を握りしめると、力の限り弧を描くようにして彼を檻の中に投げ飛ばした。
 そして、すぐさま錠をかける。
「何だ、俺に何をした――」
 和美は人間を騙した事実に何ら悪びれることもなく、陰険な笑顔を浮かべる。
「残念だけど、私はスマホにもパソコンにもなるつもりなんかない」
 そしてそのまま振り向いて走り出しながら、
「私は、ただ生きて、死ぬだけなんだからね」
 相手に聞こえることなど何も考えずに、そう吐き捨てる。
 少女は逃げた。しかし本人にとっては逃げたという感覚は薄かった。これもまた、果てしない旅路のほんの一部なのだと自然に割り切っていた。どうせこの先、脅威に怯え、離れなければ機会などいくらでもあるのだから。
 であるにしても、実に遠い所まで来た、と我ながら思う。
 この島でどれだけの長旅をしようが、世界全体の大きさからすればたかが知れた距離でしかない。だが和美が経て来た旅路は、確かに多くの身体的、精神的な変化をもたらすほど重大なものだった。
 和美は、自分が経て来た旅路を思いだしながら、人気のない通りをひたすら走って行った。
 確かに、ここはすでに日本国の内部だ。建物の壁の質感が違うし、何より空気感が違う。
 こんな鼻についたにおいはしない。
 和美はひたすら道を進んだ。
 ようやくぽつぽつと人影が見えてきた時、和美はかえって安心した。
 この程度の群衆なら紛れ込むことができると確信したからだ。追手から逃れるには実に都合がいい。
 日本語よりも外国語の方がけたたましく聞こえてくる。インドネシア語や中国語の類だ。
 大阪でも、名古屋でも、もはや日本語よりはそれ以外の言語の方で話す人間の方が多いくらい。もっと言えば、西の方で海外からの移住者を見ないのはまれと言っていい。
 建物の横に張り出した看板。そして文字。
 日本の外では街中の文字はほとんど摩耗している。千年でも、かつて街を埋め尽くしていたであろう文字は、長い間人の手入れがなされなかったためにかすんでいき、ほとんど読めなくなってしまった。
 最近貼られたであろうポスターには確かに意味のある文章があるし、もう百年ほど前に建てられたきりの看板の横に、また別の新しい看板が立っていることもある。看板の他には、無造作に広告が貼られ、何やら利益に訴えて見る人を釣っているようだが、どの文章も、かつて和美が読んだことのある書物の文章に比べればさして関心をそそられなかった。こんな文章を書いた人間の誰が論語や徒然草を読んだことがあるというのだろう。
 書物が少ないのは無理もない。湿度の多い島の気候は、文字の摩耗を手助けした。
 何とか時間と環境の変化を生き残った書物も、黄色く干からびて、朽ち果てようとしている。

 閉じた街並みから外へと出てくる途中で、次第に見えてくる高層ビル。
 日本国の外ではこの手の建物は老朽化でほとんどが倒壊してしまったが、この国ではなお技術者たちが涙ぐましい努力によってなお数百年前の光景が今なお維持されている。
 旧文明の優れた技術力で造営された日本タワーや日本スカイツリーがまだ遠くにそびえている。
 翻って、和美のすぐ近くにある建物の壁一面を彩るのは、物々しい装いの政治家の写真に、肌の露出の多いアニメや漫画の絵だ。和美は美的感覚にさして富んだ方ではなかったが、あまりセンスのないものだろうと直感で判断した。何しろ、語彙が単調過ぎるのだから。
「スゲー! ヤベー! エレー!」
「俺らん大総理最高!」
 極彩色の女の群れの隣に白黒写真とは、実に珍妙な組み合わせではないか。
 かつてはこの国の内閣総理大臣とかいう称号を持つ支配者はかつては民衆の合議で選ばれたというが、つい最近では一人の人間の、特別な、尊い血統によって無条件で親から子へと継承されるようになって久しい。
 和美は政治には疎かった。それでも分かっていることだが、清流会などの色々な人間社会とかかわって来たが、大体話し合って物事を決める団体の方が多かった。だが日本国においては大総理の権限は偉大なものだ。大総理が決めたことにはその側近ですら逆らえない。何となく『大総理コエー、サカレーネー』という無言の了解が成立しており、すでに抵抗する意志を放棄しているのだ。
 これが何とも理解しえない。外の世界では、たとえ組織の総理が何かを決めても、数人に反対されればできずに終わってしまう。それなのにここでは、一人に与えられた決定力があまりに強すぎる。一人や二人で逆らえばすぐに潰される。
 それを見るたびに和美は、人間にとって集まって暮らすというのはろくでもないという思いを強くする。
 この日本では、戦慄するほどたった一人の、あるいはごく少数の人間の意見が大多数を左右する。
 人影が増えて来た頃にはもう和美の周囲から侏離(しゅり)としたあいさつが聞こえて来た。そして、露店が広がっていた。どうやら市場まで来たらしい。
 果物を一杯に詰め込んだ方形の箱が至る所に敷き尽くされ、人間がその隙間を行き交っている。
 うまいこと、少女はその中に忍び込んだ。
 こっそりと箱の一つに手を伸ばして、木の実の一つを盗み食いしようとした。だがその時、声をかけられた。
「お前、この辺では見ない顔だな。何もんだ?」 随分としわのよった、やつれ果てた顔。
「壁を越えてやってきたのさ」
「壁だと? 壁外から来たのか」
「まあ、そうなるかな」
 相手は実に怪訝そうな目で、
「見た所何も持っていないようだが、まさかどうしようとしていたんだ?」
 和美はあくまで沈着に、
「あたしは、盗みなんてしない。そんなことしたら絶対に危険な警察につかまって殺されてしまうからね」
 この男も、決して裕福な感じには見えなかった。泥棒を警察に突き出せばそれでいい報酬をもらえるかもしれないが、最近はどうやらその金額も下がってきているとの情報だった。最近になって電化製品の身分から解放され、清流会に戻って来た人間の証言である。
 和美は好意で彼との会話に応じたわけでもなかった。いざという時に、囮にすることだってできる。
 角を曲がって、人気のない通りに入ると、和美は本音を打ち明けた。
「それにしても、この街はどこもかしこも大総理を唱えるか、性的な何かを主張するようなメッセージしか目に入らないね」
 初老の男は壁に手をついて、静かにため息をついた。
「そりゃ大総理マンセーが日本の国旨だからな。大総理にとっては俺たち貧民のことなんて知ったこっちゃないのさ」
「そりゃ辛いね」
 相手は暗い顔をしている。
 きっとこの辺りは元からそういう感じなのだ。金と権力のある連中は、もっと内部の方に住んでいる。そしてひたすら、生き残ることだけに必死になっている。
「そんな所にいるくらいならさ、逃げ出せばいいのに」
「ああ、逃げようとしたよ。けど、だめだった」
 初老は段差になっている所に腰を下ろした。
「俺には勇気がない。確かにやってできないことはないが、実際その後生き延びられるかどうかとは全く別の話なんだからな」

 和美がこうして遠く離れた場所でさまよっている間にも、庸平は彼女を取り戻すべく奔走していた。
 庸平にとっては、無論日本国に対して報復せねばならないという大義名分を掲げておく必要があった。内心では、こんなとりとめのない願望を秘めながら。
(善は急げだ。もしここで遅れれば、俺はもう二度とあいつの話を聞けなくなる)
 庸平は清流会本部まで出向くと力彦の前に出て、自分のなさねばならぬことを切り出した。
「何、お前、和美を救いに行きたいだと?」
「はい。どうやら日本国にいる可能性が高いそうです」
 力彦はわずかな希望も見せたが、それでもまだ憔悴の方が大きい顔つきを見せていた。
「ああ。彼女はいつも我が会の安寧を守ってくれている。だが我々がどうやって巫女さんを助けるというのだ? 大体我々が日本国に干渉したら、奴らに攻撃の口実を与えてしまうのではないか?」
 力彦は怯えている。用心深いのは確かに美徳ではあるだろう。しかし、あまりにも用心深すぎると、かえって決断できないとか、優柔不断であるとかいった欠点に繋がりやすい。
 力彦は庸平をたのみにするような声で、
「彼女は我々を救ってくださる巫女です。私は彼女の側におりますゆえ、彼女がいないという異常事態がどれだけ怖ろしいことが分かっているのです」
 庸平はわざと、大げさなことを言って見せた。
「確かにあいつは不思議な力を持った少女だ。あの子がいなければ我々に未来はない」
 ここぞとばかりに、彼の不安をあおって見せる。
「彼女が消えたとなれば我らの清流会に災いが起きるのは避けられないでしょう。清流会がここまで勢力を拡大してきたのも、彼女の加護によるものなのですから。ですが彼女がいなくなったとなれば、果たして私たちがこの市街地で生き続けられるかどうか」
 力彦は狼狽した。
「そ、それはならん! 今すぐに、彼女を取り戻さねばならん」
「どうか、ご決断をお願いいたします」
「……分かった。日本国に和美がいるのなら、お前に巫女を連れ戻すよう命じても良いが」
「ありがとうございます」
 しかし、まだ庸平の真意を測りかねているように、眉をわずかにひそめている。
「だが、そのために何の力を借りるというのだ? まさか一刀会とでも言うまいな?」
「……私は、生き残るためには手段を選ばなかった人間ですから」
 庸平は恭しく頭を下げ、退出した。そして、部屋から出る時、微妙に薄ら笑いが出てしまった。
 庸平は知っていた。人間に、そんな風に世界を動かす力などないのだ。いや、物心ついたばかりの頃は、人間には何か自然や動物を動かす、何やら超常的な力を持つ者が存在しているのではないかという恐怖を何ら疑うことなく受け入れていたのだ。
 そんな恐怖から解き放ってくれたのが和美だった。
 和美は決して赤裸々に自分の過去について語ることはしなかったが、それでも話し合っている内、分かって来たことがある。
 世の中にはいつでも、愚者が多い。
 インターネットという異世界と繋がっていた時代ですら、適当におだてれば勝手につけあがってくれるような単純な人間は存在した。ましてや前時代よりも遥かに劣っているこの時代ならなおさらだ。
 官邸から外に出て、建物の間を通りながら千年まで向かう途中で、庸平は顔見知りの佐々木に出くわした。庸平は力彦への謁見について詳しく聞かせた。
「総理は、巫女さんの救出に前向きな姿勢ってわけか?」
「ああ。とはいえ日本国に俺らみたいな外国人が軽々しく入れるわけがない。だから一刀会と接触しようかと思うんだ」
「一刀会だと? あの得たいの知れない奴らにか?」
 無論、潜入して何とか和美を探しに駆け回る方が現実的だし、あまり事態をかき回さずに済む。
「少なくとも、最近になって島に上陸してきたわけじゃない。そいつらも数十年前前から関西の方にいたんだ。ならもう少しは話は通じると思ってな」
 庸平は若干唇で弧を描いた。緊張と、対立だ。
 緊張と対立、今の状態に対する不満の感情によって人間は道を切り開いてきたのだ、と和美は教えてくれた。何でもカントという偉い人が言い出したことらしい。
「清流会だけが日本に攻撃をしかけても撃退される。なら大勢でかかればいい」
 これからやることは難儀なことだ。だが難儀なことでなければ、男の流儀ではない。
 これから相手にするのは、日本国。かつては東京と呼ばれていた城郭だ。
 昔も、今でも、変わらず繁栄を極めている。そこを大勢で襲って、大きな揺さぶりをかけてやるのだ。
「……一刀会と組んで、戦争をふっかけようってのか?」
 佐々木は動揺している。
「何を言ってやがる。俺たちがたびたび他の会との戦いで経験してきたことだろ」
「お、俺は嫌だぞ。お前が話す所だと一刀会はでかい軍隊を持ってるって話じゃねえか。そんなやべえ所と協力なんてしたらどう扱われるか分かったもんじゃない」
 彼らの臆病さに庸平は辟易してしまった。
(ちぇっ、どいつもこいつも自分自身のことしか頭の中にねえのか……)
 だが憤ることなく、体を乗り出して片桐に近づき、啖呵を切って見せる。
「監視カメラが俺たちの勇気を見守ってくれる。監視カメラが俺たちの活躍を後世に残してくれるんだ」
 一刀会の部隊を直接見たことがないのだから仕方ないのだろうと庸平は思った。もし彼らを直接目にしたら、同じように魅力的に感じるかもしれないのに。
 とはいえ庸平は清流会の一同を説得してあげようとするほどお節介な性格ではなかった。彼は、自分自身がいい目を見ればそれでよかった。別に他人に酷薄という意識はなかった。自分が生き残るために他人を犠牲にせねばならない、こんな世の中で生まれれば自然とそういう価値観になるものだ。
(ただ単に力を借りるだけじゃなくて一刀会に仕えるのも悪くないかもしれないな)
 何かが変わろうとしている。そしてそれを悪いことだと庸平は思いたくなかった。

 初老の言葉は聞いているだけでも世知辛いものだったが、世の中の世知辛さを十二分に知っている和美は話を勝手に切り上げるほど冷酷にはなれなかった。
「今の日本は前にも増してブラックになっちまったよ」
『ブラック』といえば基本的には日本の体制を形容している。
 文明時代によく会話の俎上に上った、『ブラックキギョー』という表現の縮んだ言葉だ。
「政府は我々が逃げ出そうとするのを色々と邪魔しようとしているが、無駄骨さ。必ず今の体制は崩壊する。しかし、ほとんどの人間はそれを怯えながら待つしかない」
 初老はそこから声のトーンを少し変えて問うた。
「壁の外はどうなっているんだ? 人は増えてきているか……」
「あまり。海外から移住してくる人間ならいくらでもいるけど」
「やはりそういうものか」
 老人はため息をついた。
「私は逆にこの島から逃げ出そうとしたことがある。だが彼らと違って勇気がなかった」
 そこから初老が始めた話と来たら実に耳寄りな情報だった。
 何もかもが不便になり、もはや食い扶持も得られなくなった結果、今の生活に絶望し、この地を捨てて新しい土地のもとで生きることを選んだ人々がいた。
 新潟を始め北陸からどんどん朝鮮半島に向かった。朝鮮半島はこちら側に比べても古くからだいぶ人口が減少しており、社会の解体が急速に進んでいたという。戦乱が続く不安定な政情ではあったが、移住を決意した人間はそれでも進むことを選んだ。
 一部の人間は向こうでの激しい闘争の後定着し沿岸に住み着いた。日本ではラジオのニュースがまだ放送され続けているので、こういう遠い国の話を聞いて知ることができるのだ。
 初老の老人も、この日本を出て、海沿いの港に行ってまでこの危険な船旅に突き進もうとしたのだ。しかし。
「だが結局戻って行ったよ。勇気がなかった。もちろん故郷での生活が悲惨なのは分かっちゃいるが、海の向こうでどんな暮らしをするのかと思うともっと恐ろしい気がしてね。俺は膨大な金を無駄にして結局日本まで帰って行くしかなかった。するといつの間にか法律が変わっていたんだ。人権は国家の意思によって付けたり外したりできるようにな」
「何それ……」 愕然とするしかなかった。
「人権を剥奪された人間はもう街の中にはいられない。外に出ていくしかない。だが俺は外に出るのが怖いんだ。もう二度とあんな経験はしたくない」
 和美は、『人権』という言葉の用いられ方に違和感どころか、拒絶反応を覚えていたが、辛抱強く耐えるしかなかった。
「ところで、君の名は?」
「朝倉和美」
 まだ彼らの狂った常識に対する衝撃から未だ解けなかった。
 一方老人の方は和美の当惑した様子を察しながらも、それも仕方がないとあきらめるように淡々と話し続けた。
「私は穂積(ほづみ)アイフォンだ。最近はほとんど日本人らしさのないキラキラした名前が増えたものだが、まだ壁の外には古めかしい名前の人間がいるんだな」
 アイフォンと言えば、旧文明でふんだんに使用されていた種族の名前ではないか。一体両親がどんな気持ちで旧文明の妖精の名前を付けたのだろう。
 しかし、彼らはこれ以上のどかに話していることはできなかった。
 やけに鈍く、大きい足音が道を出た所から響いているからだ。
「まずいぞ……」
 彼らの姿が見えた。
 鎧のような重装備だ。
 外見からして、人を寄せ付けない威圧感がある。
 和美はその詳しい様子を見ようと路地から一瞬走り寄ろうとしたが、アイフォンが制止。
「危ない! 警視庁だ。こういう場所に本来俺はいるべきじゃない。何しろ人権レベル2なんだからな。レベル3に格下げでもされたらたまったもんじゃない」
「でも何でレベルなんて……!」 和美が質問しようとした途端、
「知らなくていい。知った所で絶望するだけなんだからな」
 アイフォンはほとんど聴き取れない早口でささやきつつ、
「では、私は元の貧民窟に戻る。君は元気に生きていてくれ」
 肩をつかみ、和美を自分の逃げる道とは反対の方向に押し出して、去って行った。
 和美は、もう少し穂積の話を聞いていたかったが、このような緊急事態でそんな欲望を抱くのは愚中の愚というものだ。
 和美はもう穂積のことなど忘れて、この日本から脱出することだけを考えた。

 庸平は一刀会の集落に少しずつ近づいて行った。
 彼らの居住地は柵に囲まれていた。警備員に対して自分の身元を明かすのはかなり緊張した。見知らぬ人間と会って話をするなど、和美以来のことだからだ。
 しかし、和美の助言を思い出して、彼は嘘偽りを一切言わずに率直に意思を伝えることにした。何もかもが分からない、暗闇の中を生きるしかない人生では、自分をごまかすことは何のためにもならない。
「私は清流会から参りました、五十嵐庸平と申すものです」
「何の用だ?」
 警備員は尋ねた。
「一刀会が日本国に対し攻撃の準備を始めているというので、ご相談にうかがいたく」
「証明するものがあるのか?」
「こちらに」
 庸平は力彦の手紙を渡した。力彦の署名が入っており、清流会がその内容を発表した主である、という風に公の認識ではなっている。
 庸平は不思議な感覚を覚えた。
 人間は二人以上になると、そこには必ず誰か一人にその全体の役目を負わせようとすることに。たんに二人以上の人間の集まりでしかない、本来ならそれ自体の意思など持たない集団が、これまた別の、人の心など持たない集団とあたかも心を通じ合わせているような演技を始めることに。
 だがそれでも、意味があると信じざるを得ないのだろう。こんなごっこ遊びで、数千年間人間は繁栄してきたのである。和美の言葉によると。
「少し待て」 番人は無感情な声。
 庸平は少し緊張した。目の前に見える街は大分人の気配がした。
 庸平は警備員に連れられ、ある大きな建物に連れていかれた。それは清流会の本部よりももっと大きなビルだった。縦長の看板には、かつては入居している施設の名前が書かれていたのだろうが、今ではかすんでいてよく見えなかった。
 庸平を驚かせたのは、内部の照明エレベーターが機能していることだ。日本国以外で電気が通っている所があるとは全く知らなかった。
 狭い部屋に押し込められ、肩身の狭い思いをしながら十階以上は登っただろうか。そこを出るともう彼らの長の執務室につながっていた。これまた広く、天井の高い空間。セピア色で塗りつぶされ、暖かみもあるが、同時に気高さも感じられる内装。
 一刀会の首領は、実に年季の入った、彫りの深い顔をしていた。
 それは総理に比べても実に威厳がある人に見えた。
 総理は、その間近に控えていた人間に対して不思議な言語を話した。
 縞の言葉に比べて、音の高低がだいぶくっきりした印象を与える。具体的に例えれば、あまり余韻を添えない、乾いた雰囲気がある。
 和美を文明が崩壊する直前には、海外から多数の不法移民が侵入してきていたらしい。理由は戦争とか貧困であったりして様々だが、彼らの子孫は今では島の至る所にいる。彼らは島の言葉を学ぼうとしなかった。そしていつか、その必要すらなくなった。なにしろそれを学ぶ相手がいないのだから……。そして目の前の首領もその一人なのだ。
 彼もまた島の言葉には興味がないように見える。長い間島の住民と混じり合わなかったせいで、先祖の慣習を保ったまま生き永らえてしまったのだ。
「一刀会総理は、『清流会には日本国に対抗できるだけの、何があるのか?』と」
 庸平は過去の凄惨な暴力について話そうと決意した。九死に一生を得た、苦々しい記憶ではあるが。

 庸平は紅十字会との戦いを経験した。
 敵は、顔を赤く塗り、額には黄色い十字をけばけばしい色彩で塗っていた。
『北センチネルこそ理想』と隅に書いた極彩色の旗を敵はかかげていた。
 敵は、凶暴だった。何より、ほとんど人間らしい言葉も上げず、恐怖を催すようなおたけびを挙げて襲いかかって来たのだ。
 彼らは、巨大な空洞と化した都会を脱出して山奥を放浪し、動物と戦っていく内に農耕の概念を捨てた狩猟採集民だ。
 人間であることを捨てた彼らに、清流会はなすすべもないはずだった。
 だがその状況を逆転させる手段があったのだ。
 銃。
 金属でできたこのより強力な弓矢を使用することによって、紅十字会に勝利したのだ。
 庸平たちにとっては、この勝利は喜ばしいものでありながら罪深いものでもあった。自発的に誰かの命を奪うなど、経験のないことだったからだ。
 それでも、相手が異様な服装であったことは庸平たちの過度な防衛本能を刺激した。
 戦いが勝利に傾いた後、清流会は紅十字会のメンバーを殲滅することに決めた。
 だがこれにより、当時清流会の総理だった力彦の父も重傷を負った。生き残った女が隠し持っていたナイフで敵の腹を切り裂いたからだ……。だが彼らを一人残らず滅ぼすことはできた。罪悪感などさして起きなかった。
 庸平は恐ろしい思いもしたが、それでも当面の脅威が消え去ったことに安心感も覚えた。
 いや、安心感が訪れたのはほんのわずかな間のことだ。また、別の新しい敵が現れて清流会を滅ぼすとも限らない。
 これらの銃は周辺にあった軍事基地の跡地から入手するか、東南アジアから輸入したものだ。
 東南アジア。和美だけでなく庸平たちにとってそこはなお強大な経済力を持った伝説の国だ。
 島の人間にとっては決して生涯訪れるはずのない所なだけに、この怖ろしく強い武器を生み出している海の向こうに何とも言えない感慨深い気分を覚えた。

 穂積がどうなったのか知る前に、官憲の追跡からすっかり離れてしまった。幸いにもこの辺りは建物がぎっしりと詰まっており、曲がりくねりながら道を進むことで姿を隠すことができるのだ。
 和美は、何とか逃げおおせた。
 ふと横を見ると、バスが走っている。
 こんな高価なものは、ここから遠く離れた町で見たきりだ。昔はこういう車両も石油で動いていたのだ。所が石油を調達することができなくなった今では基本的には電池で動いている。だが、西の方にいた頃でも、車というものはだんだん見かけなくなっていったような気がする。何しろ、石油によって動く車と違って電気で動く車は寒い場所では使えないのだ。
 しかしそれ以上に和美がどうしても注意を向けざるを得なかったのはその中で荒れ狂う人ごみ。
 何より、そこから悲鳴が上がっている。
 何回かけたたましくサイレンを鳴らした後、バスがついに止まった。ただでさえ限界を超えて人間が詰まっているのに、座席の先頭あたりでもみ合いになったからだ。
「私たちには自由があるんです!」
 先頭に方にいた男ががなり立てる。
「そんな自由はもうない。お前たちには人権はないんだ」
 もはやこれ以上、耐えられなかった。いつの間にかバスの側にまで立ち止まり、窓を見上げる。
「それ、どういう意味?」
 和美は怒った。
「人権がないって、そんなのありえないと思うんだけど」
 男は何の迷いもなく、
「人権は国家が与えるものだぞ、知らなかったのか?」
「違う、人権は生まれつき――」
「うるさいな! お前たちは電化製品だ!」
「……一体何様のつもり?」
 和美は憤っていた。
「何でも、日本では人権はレベルで区分けされてるって聞いたけど、ほんとなの?」
 相手はさらに憤るかのように、ひたすらがなり立てる。
「お上の決めたことだ! 文句があるのか?」
 和美はもはや、この街の狂った常識に耐えられなかった。
「ありえない。絵本で読んだことがある。人権とは人間に無条件で与えられているものであって、付けたり外したりするなんてありえない。あんたたちは誰もがもらっている人権を踏みにじっているだけだよ」
 ドアから、何人か屈強な男が降りて来た。
「野郎ども、こいつを――」
 しまった。関わり過ぎてしまった。だが、悔いても遅い。
「彼女たちを解放したまえ」
 まるで清流会の偉い人間のように黒い服を着た男が澄ました声で歩いてきた。
 黒服は険悪な雰囲気に何ら物おじすることなく、殺気立った男に札束を渡した。
 それを見ると相手は顔色を変えた。
 黙ってバスから女たちを連れ出して、荒々しく言い放った。
「今からお前らは晴れて自由の身だ! どこでも好きな場所に行っちまえ!」
 女たちはすすり泣いたり、あるいは怒りで呼吸もままならないような荒い吐息を吐きながら逃げた。
 それから男が相手に見せた恭しそうな様子に、和美は吐き気を催しそうになった。黒服に比べると、この男の卑しさが一層極まった。
 そんな顔色を見ても、黒服は何ら嫌そうな顔を浮かべなかった。
 端麗な顔だ。おおよそ、日本の外や、貧民の過酷な生活を経てこなかったかのように綺麗な肌をしている。
 バスは再び走り去った。汚い煙を後ろから排泄しながら通り過ぎて行った。
 和美は、何となく黒服が自分と合わない人間であるかのような気がしていた。
 しかし、黒服の方からこっちに向かって、話しかけてきたのだ。
「聞いていたよ。『人権』について君は正しい知識を持っている」
「そういう本を読んだ覚えがあったから」
「本を読める人間がいるのか。殊勝なことだ」 喜んだように顔を明るくする。
「そんなに珍しいことなの?」
 黒服は口を曲げて、肩をすくめた。
「ああ。この街の人間は、字は読めても文章は読めない奴らばかりだからな。道理であの程度の知識しかないわけだ」
「にしてもあのバス、大阪で見たのと同じバスじゃない。まさか同じのが使われてるなんて思わなかったな」
 洋蔵は意外そうに、
「君は大阪から来たのか?」
「うん。ここに来たのは、捕まったからだけど」
 相手が単純に悪い人間ではない、というのは直感で判断できた。こういう人間に対して嘘をまくしたてられるほどの奸智は和美にはなかった。
「あんたがいなきゃまた私は電化製品にされてた所だったよ。ありがとう」
「そうか、それは大変だったよ。にしても君はなかなか博識だな。伊達に遠い所からやって来たわけではないみたいだね」
 男は訳ありな様子で褒めた。
「結構、色んな経験をして来たんです」 和美は、少しはにかんだ。

 和美の母は島の人間だったが、父親は大陸から海を渡ってやって来た。要するに、他の国の人間だ。
 かつては、境界線が国と国の間を厳しく分かっていた。
 境界線を越えようと思えば、晦渋な法的な手続きを経ねばならないはずだった。しかし、今ではその手続きを請け負う組織はもう存在せず、誰もが好き勝手にその境目を横断し続けている。ちょうど、半島の北東に渡って行ったように。和美の父も、そうやって境界線を越えてやって来た人間の一人だった。
 父はいい暮らしをしていたようだ。ある程度の教育を受けた人間であることは明らかだった。
 家の棚には、旧文明の書物が積んであった。和美は別に誰かに強いられたわけでもなく、自然に本を読むように育っていった。
 ある時、街が外からのならず者に襲撃された。バイクを鳴らしながら、市街地を暴れ回った。和美が見た父の最後の姿は、書物を暴徒から守るためにライフル銃を持って外に出ていく様子だった。
 和美は母親と逃げなければならなかった。そして、大阪を去らねばならなくなった。
 それからどれだけの苦労を経て来たか、もはや覚えていない。母親も、終わりのない逃避行の途中、病気でなくなってしまった。
 清流会の元にやって来たのも、それ以上の意味はない。そこが安息の地になるなどと全く期待していなかった。案の定、彼女はまた別の土地に運び込まれることになったのだ。しかし、それを完全に嘆き切っているわけでもない。
 危険はゆりかごだ。
 無意識のレベルで、本能がどこかに定着することを拒否している気がした。
 和美は、限られた知識を使って生き抜くしかなかった。
 和美にとっては、崩壊した街でも、図書館や本屋を尋ねてはそこにある本を読み漁った。もはや貨幣経済もとうの昔に消え去っており、本を買う人間も売る人間もいないこの時代にあっては、そういう店はもう存在すら忘れ去られていた。文化とか教養という言葉すら耳にしなくなっていた。
 だがこのご時世には珍しく、そういうものを重んじる人々もいた。この島に古くから住み続ける人間ではないが。
 例えばムスリムがいた。彼らの先祖は遥か西の国からやって来たのだ。
 思えば、この島で訪れたことなる地域共同体の中でもそこがだいぶ治安が良かった気がする。数百人程度の大きな集落だった。旧文明で使われていた
 集落の中央にマスジドと呼ばれる礼拝所がある。これはかつては仏教の寺として建てられていたが、寺の名前を示す石碑の銘文はすでに削りとられた後だった。
 信徒たちは門をくぐり、伽藍の中に入る。仏像はすでに撤去され、虚空に向かって平服する。しかし彼らは、その虚空の先に聖地マッカがあると信じていた。
 イスラームにおいては一日に五回の礼拝が義務とされているが、その時間になると境内にある鐘――もっともこれは正統派の慣習ではないようだ――を鳴らし、住民に祈りの時間を教えるのだ。
「ラー・イラーハ・イッラッラー(アッラーの他に神はなく)、ムハンマドゥン・ラスールッラー(ムハンマドはアッラーの使徒である)」
 鐘の音を聞くたびに住民はその言葉を思い出し、神への信仰へと意識を集中する。
 これを唯一の方針として人々は生活していた。その周囲には神道や仏教を信じている人間もいた。そして、宗教の違いによってこの地域は分断されていた。
 彼らはお互いに対してあまり交流することはなかった。あいさつを時たますることはあるが、それ以上に干渉することはしない。あたかも相手を存在しないものとして見なし、生活することを平和を維持する方法として学んだかのようだ。
 日頃から必要最低限にしか人と接さない和美にとっては、好きでもない人間といつも隣り合って暮らさなければならない大変さはことさら煩わしい物に思えた。
 人間と人間が分かり合うことが、これだけ難しいのかと思わずにはいられなかった。
 その気になれば、彼らの宗教に入信してそのまま住み着くこともできなくはなかった。だが彼女はそこからも結局立ち去った。誰かに強制されることが彼女は一番嫌いだった。必要ならいつでも立ち去ることのできる、そういう身の上にずっと安住し続けてきたから。

 男は洋蔵と名乗った。何でも先祖代々医者の家系だそうだ。
 和美は、しばらく洋蔵との会話に付き合った。この男が悪意で自分に対して接しているわけではない以上、冷たくあしらうわけにいかなかった。
 この辺りまで来ると、為政者による権力の誇示は一層露骨になった。
 大総理の顔を載せた旗が左右に並んでいる。時たま日の丸の旗を束みたいに脇に抱えた者が目前を横切り、消えていく。
 旧文明のアニメキャラのポスターが貼りついている。これもまた、大総理を称え、貧民を見下す実に見るに堪えないようなメッセージを側に配置している。
 白黒絵で、男女があられもない姿で抱き合っている絵すらあった。ここでの娯楽がそういうものしかないということを和美は理解し始めていた。
「文明が崩壊する以前からあの手の広告は増え始めていたそうだ。それを批判する人間もいはしたが、むしろこういう広告が広がるのを快く思うどころか批判した人間を燃やす奴らすらいたそうだ」
 それが比喩なのか本当にそんなことをしたのか、和美はもはや質問する気にもならなかった。
「全く、ああいうポスターがなければこの街はもっと美しくなると思うのだがな」
 洋蔵は珍しく感情をあらわにした。
「どれもが、本当はもっと高尚な理念を掲げていたはずなんだ。所ではもう、その深みを理解しない人間ばかりで、先祖たちに申し訳なくなるな。俺はもう一度、このコンテンツに本当の意味を取り戻さなければならないと強く思うよ」
 しばらく歩いて建物の並びがしばらく絶える所で、棚先に楽器を並べている店があった。端の壁の上に、色あせた、青い髪の少女の絵が描いてあった。ミクガミの面影を何となく彷彿とさせた。一体、どのような意図で描かれているのか見当がつかなかったが、これまでに見かけた女性の絵に比べれば随分ましな見かけだった。
「あいつらは一体何なの? どいつもこいつも、まるでちっとも世の中のことを分かってないじゃない」
「大総理にとっては今の状態のままの方が都合がいいのさ」
 洋蔵は低い声で語る。ここでこの言葉を語るのが、実に危険なことだと分かっているように。
「この百年で国民は教育の重要性を忘れたし、政府はもはや社会がどうやって作られたかも忘れ、ただ人間たちをどうやって家畜のように扱うかだけを考えるようになった」
 それから妙な笑いを浮かべ、嘲るように、
「もう誰も人権という言葉の意味を知らない。そんなものはせいぜい人間を尊く見せるためのアクセサリー程度にしか思っていない。だが俺と君は違う」
 その目には、悪意ではないにしても、どこか見下すような調子があった。いかにも自分が選ばれし存在だと誇示しているような風があった。
 しかし和美にとっては、いつまでも男のきざな様子やの街の異常さに気分を煩わされている場合ではなかった。
「私は、今すぐにここから逃げ出さないといけない。勝手に『国』に連れてこられたんだから」
 和美はそっけない口調で、
「ここももう十分見飽きた。これ以上新しい発見もないだろうし」
 洋蔵は、和美がすでに自分との会話に飽きたことを知っていた。バスでの不愉快な会話からして、この少女がこの日本の雰囲気に対して拒否反応を示していることなど察していた。
「だが、ここから出るには面倒な手続きが必要だ。悪法も法である以上、逆らうわけにはいかんからな」
「じゃあ、どうするの?」 和美は洋蔵の几帳面な言動に、つい面食らってしまった。
 だがそれ以上に、彼がこの街の他の住民よりだいぶましな部類であることへの安心感も否定できなかった。実際、洋蔵は和美に対して少しもやましい視線を向けないでくれた。
「しばらく私の家にいるといい。どこも治安が悪いからな。野宿なんてそれこそ自殺行為だぞ」
 二人は駅から電車に乗った。リニアモーターカーなので、むしろ便利になっている、と洋蔵は吹聴した。和美もさすがに鉄道には乗ったことがなかった。日本の外ではすでに鉄道など解体しているからだ。
 どれもあまり変わり変わりばえがなかった。時折外をのぞくと、旧文明の街並みをほぼ残していた。しかし人間だけが違っていた。

 二人は江戸川区の駅で降りた。灰色のコンクリートに覆われた世界だった。「そう見飽きたような顔をするな。もうすぐいい物が見られるんだ」
 洋蔵は横から顔を和美に近づけた。
 和美は不安げな表情を浮かべながらも同行し、水元という場所にまで歩いた。水辺に近いからか、涼しい風が吹いてきた。緑一面の芝生の上で、時折虫や鳥が駆けまわっていた。
 洋蔵の屋敷はその側に建っていた。建てられたのはごく最近だが、まるで百年ほど前からそこにあったかのように瀟洒で古めかしい雰囲気が漂っていた。
「どうだ、素晴らしい家だと思わないか? 昔の建築技術を学んだ人に建ててもらったんだ」
「そうなんですね」
 和美は、その表面や輪郭を詳しく眺めた。見れば見るほど、単に見よう見まねで作り上げたわけではない、精巧な設計のようだ。
 瓦葺の家だ。日本の外にも同じような家はまだ沢山残っているが、どれもここまで綺麗な形を保ってはいない。
「私の家に上がって欲しい。一緒に過去の歴史について語り合おうじゃないか」
「ぜひとも」
 緊張や不安がないわけではなかったが、和美は堂々と家に上がった。何となく、幼い頃住んでいた家と雰囲気が似ていたからつい居心地の良さを感じてしまったのだ。
 洋蔵は網戸を開けたままにしておいた。
「これまで話してきただけでもうかがえるが……君は色々なことを学んでいるようだね」
「親に教えてもらったものですから」
「教養のある人間であることは分かった。でもあまり、なぜ旧文明が滅びてしまったのかはよく知らないようだね」
「ならあなたは知っているの?」
「知っているとも。何しろ本当に大切な情報何て、書物だけじゃ得られないものだからね」
 和美はさっさと、前ぶりを切り上げたくて、
「じゃあ、教えてよ。何があって私たちはこんな世界に生きなきゃいけなくなったのか」
「なら特別に教えてあげようじゃないか。過去、この世界がどうやって崩壊したのか……その答えをね」
 洋蔵は和美を奥の書庫に案内した。薄暗い明かりのもと、数百枚の紙を綴じた、ぶ厚い巨大なファイルが積み上げられていた。
「これはツイッターや5chのデータを紙にして印刷したものだ。偉大な先人たちが、僕たちのために残しておいてくれたものなのさ」
 かつて『インターネット』とかいう情報媒体が人間を支配していた頃、特に精神的にも物質的にも社会に大きな影響を与えていた賢者だという。彼らはその口を通して人々に教えを与え、導いた……。
「名前は聞いたことがある。人々を繋げ、その声が届き合うように世界中を闊歩したそうな」
「いや、ツイッターはミニブログで、5chは匿名掲示板さ。それとも君は一次資料に当たったことがないのかい?」
「私は、図書館とかで本を読みあさっただけだから。インターネットの情報なんてアクセスしたことがない」
「それは残念だ。インターネットこそ、二十一世紀を物語る重要な資料なのにな」
 最後らへん煽るような口調がないわけでもなかったが、和美は大して腹を立てなかった。
 棚を指さして洋蔵は静かに言った。
「見ろ。ここにスマホやパソコンがある」
 ほとんど修飾のない、そののっぺりした姿を見て、和美はため息をついた。親からも、知人からも、噂で聞いていたばかりで、実物を見たことはなかったからだ。便利、便利ともてはやされていたからには、もう少し派手な見栄えとばかり見込んでいたのだが。
「大きいですね」
「大きい? これでも昔に比べれば大分小型化したのだがね。何よりこのパソコンができる半世紀前のパソコンは、もっと大きくて使いにくい代物だった。だがわずか数十年の間に、人間はそれを手で持ち運べるくらいに小型化することに成功したんだ。これだけでも彼らの技術力の高さが分かる」
 和美は、目の前の精霊の遺骸を凝視してみたが、その使い方に関しては皆目想像できなかった。
「こんな小さな機械から、昔の人はインターネットにアクセスしていたんだよ。確かにインターネットは偉大な発明だった。生まれたばかりの頃はな。だがそれも、次第に権力の介入とか、広告の増加とか、サービス終了とかで、便利でも何でもなくなってしまったのだが」
 そこで洋蔵が小休止を置くと、和美はぐっと肩を落とした。
「でも、今の私はそういう話を聞くには少し疲れている」
「そうか。なら今日は休め」
「冗談じゃない。よく知りもしない人間の家で休めっての?」
 和美はやや気色ばんだ。この日本において女性が性的なイメージとしてどれだけぞんざいに使われているかを見れば、性に対する規範がどれだけ乱れているかは推して知るべきだ。だが洋蔵は純粋に、和美をあくまでも興味深い話し相手として扱っているようだった。
「安心しろ。鍵はついてる」
 彼は、奥の個室にまで和美を案内した。そこは、ベッドに机と棚の用意された、狭いがほどよく質素な、決して悪い感じの場所ではなかった。
「もし私があんな奴らと同じ程度の知能しかなかったら、あのバスには目もくれなかったろう。もっと隠れた場所で売り買いするはずだ……、いやこの話はやめよう」
 その穏やかな表情を見ると、少なくとも和美は、彼が獣のような人間ではないことだけは信頼できた。

 事実洋蔵は、一切和美に対して手出ししなかった。
 数日間、和美は一人で考えごとをしていた。一体、庸平がどれだけ心配しているかとか、清流会は無事なのかどうか、そういうことしか考えなかった。洋蔵の専門的な知識にどう対応するかなど、まるで考えられなかった。こういうことで人と会話することにそもそも慣れていなかった。
 次の日も、まるで一日中うつろな表情で空を眺めている内に、拉致される直前、人を殺めた時の感触が蘇ってきて吐き気を催したりもした。人間が死ぬ瞬間を見たのはこれが最初ではないし、流血にはある程度慣れてはいるが、いざ自分が同じような罪を犯すとなると実に不快感があった。少しでも気に障った人間に手を挙げることにはさほど躊躇がなかったが、人間を切り裂く感触がどうしても受け付けないのだ。昔読んだある本では、旧文明が栄えていた頃にはこういう殺し方をして捕まる人間がいくらでもいたそうだ。世の中には、殺しという営みにためらいのない人間がいたのかと、鼻白むほどの話だった。

 扉の外に出されたパンを食べコーラを飲み終えて、とうとう和美が部屋を出ると、廊下の奥にすぐ洋蔵が待ち構えていた。
「そもそもなぜ、発展し続けていたはずの現代文明が突然崩壊したか、知っているか?」
 挨拶すら交えず、洋蔵は切り出した。今にもさっさと話し合いたくてたまらないようだ。
 その意をくみ取り、すぐ会話を始めることにした和美は、ごくわずかな根拠を元にこう言った。
「あまりに高度に発展していたせいで、ちょっとしたミスでも致命傷になるくらい繊細なものだった。だから小さなエラーを起こした途端、突然崩壊した。私はそれくらいしか知らない」
 突然、だ。和美には、最盛期がどんな時代で、どんな文物があったか、そういう情報に関してはいくらでも知っていたが、そこから今に至る間何が
「『死人に口なし』って言うしな。崩壊していく間の情報というのは極めて少ないし、あったとしても極めて矛盾が多く、錯綜している。そこから真実を見つけ出すのは極めて困難だ。だが私は、先人が残してくれた大量のSNSや匿名掲示板の書き込みのコピーから本当のことを知ることができたんだ」
 洋蔵は和美のために椅子を引いてやった。
「かけたまえよ。ここで過去の真実を話そうじゃないか」

 それから洋蔵の長い話が始まった。
 二十世紀以後、人類の総人口は急激に増加に転じた。農耕に関する技術革新によって生産性が飛躍的に向上し、飢餓が克服され、十分に生きることができる人間の数が驚くほど増えたからだ。
 しかし、停滞した。科学技術も停滞した。人類はこれ以上ないほどの平和を実現しつつあったが、それはもはや先がなくなってしまったことを
 二十一世紀後半、世界人口は急激な減少に転じた。少子高齢化が東アジアでは特に問題となっていたが、この人口爆縮によって被った影響は甚大なものだった。単に人間の生活が困難になるだけではなかった。自然環境や生態系までもが、人間という様々な有益なものをもたらしてくれる塊に巨大な空洞ができたせいでその機能を十分に果たさなくなったのだ。人間がどんどんいなくなったせいで、人間に依存してこれまで存続していた虫や家畜が大量に死んだ。
 気候変動もだ。非常に長い間安定していたはずの地球の気候は、二十一世紀の初頭から次第に乱れてきていたが、二十年代に入ってついに、まっとうに社会を維持できなくなるほどの不調をきたした。
 国家は様々な政策によって何とかこの悪影響を押しとどめようとしたが、焼け石に水だった。
 科学技術が断絶し、都市から人間の姿が消え、ごくわずかに残った人間は各地を放浪するようになった。
 そして、前触れもなく起きた長期間の太陽フレアを起因として世界規模の通信障害が発生。旧文明を支えたラジオ、テレビ、インターネットはことごとく無用の長物と化した。デジタル上に残された情報は、今ではもうほとんどが散逸してしまっている。
 こうして、人類全体の文明水準は急速にかつ凄まじく低いレベルにまで低下した。この事態を突き付けられた時、どれだけの人間が現実を認められたか。
 何より、これ以上文明が発展することはないだろうと思われた瞬間に、いきなり原始時代の生活を強制させられたのだ。
 それに適応できる人間の数などたかが知れていた。昔から変わらぬ素朴な生活を続けていた人間は、ほとんど影響を受けずに生きてのけたろう。しかし科学文明の元、たった一人で生きる努力もせず惰眠をむさぼっていた者は、真っ先に淘汰されたのである。
 食料と水を得るための、ただ生存本能のためだけの闘争が果てしなく始まった。
 アインシュタインの「第三次世界大戦でどのような兵器が使われるは分からないが、第四次世界大戦では石と木の棒が使われるだろう」という予言はこうして実現したのである。
 単に生きのびるためだけではなく、奪われないために努力することにも尽力しなければならなかったが、人々には、他人に奪われる恐怖を穏便に解決する方法など思い付きはしなかった。暴力で他者を支配する手段しか考えられなかった。
 国家や他の共同体が消滅した世界では、人間は孤独な存在として生きていくほかない。
 特に日本ではずっと前から地域を結ぶ共同体の概念が消失していたので、あらゆる紐帯を失った人間が好き勝手に放浪するような社会に突入するのは比較的早かった。旧東京への人口の集中と、地方自治体の解体はほとんど同時に起きたのである。
 こうして見捨てられ、忘れ去られた大地には次第に獣が住みつくだけではなく、海外から難を逃れたものが次々と勝手に侵入していくようになる。福岡でも、大阪でも、名古屋でも。
 旧文明が存続していた時代から、すでに多くの移民が移り住んでいた。他の国に比べても、その数は決して少なくなかった。
 だが政府は彼らの存在を認めなかった。島の人間は均一の民族であるという幻想が指導者から民衆に至るまで脳裏に刻まれていた。
 本来ならこうした異分子をできるだけ社会に溶け込むように住まわせて教育し、調和を図るべきだったのだが、政府の政策は大いに下手に出るものだった。
 外国人が島の人間と接することなく、島の文化になぞまないまま定着してしまったのだ。こうして、文明が辛うじてもっていた末期には、島にいくつもの民族があたかも自分の国を持っているかのように分断されていた。気づくとその状況はもはや誰の手にも負えないほどに深刻になった。島の人間ではない彼らが互いに争い、それに島の人間が巻き込まれ、犠牲になる。かつての国家のまとまりなど回復すべくもない。
 和美にとっては非常に心当たりのある説明だ。一刀会などがまさにそれではないか。彼らの首領は大陸からやって来た。日本市内ですら、南人などの海外から来た移住者が我が物顔で闊歩しているのだ。
 民衆はどんどん規律を失い、ばらばらになっていった。そしてそれは、これからもどんどん続く。いつかまた、人間が再び絶滅の危機を迎える時まで。

「彼らは悪くない。時の政治のせいなんだからな」
 洋蔵は今にもがくっとのけぞりそうな姿勢でつぶやいた。
「そして結局、そのつけを私たちが手遅れになりつつある……」
 冷や汗をたらしながら、窓の方を見やった。だんだん雲の量が増えていき、その隙間からオレンジ色の光がさしている。その静かな空模様に似つかわしくない、小さいが不穏な音が静寂をかき乱している。

 一隻の船が監視の目をすり抜けて東京湾を漂っていた。
 十数人の男たちが乗り込んでいた。
「俺たちは海上から日本を討つ」
 主な乗組員は清流会の組合員だが、彼らを指揮するのは一刀会の指導者だ。
「その入り口を切り開くために、ここ江戸川区に展開するわけだ」
 JR南武線の跡に建つ城壁には爆薬を仕掛けている。これはまだ日本国が島全体に広がっていた頃に建てられた、軍事基地の遺構から拝借したものだ。
「大総理の専横には大臣たちも耐えきれなくなっているようだな。警官もストライキに走ろうとしている。これならばたやすく侵攻できるだろう」
 これらの説明を聞いただけでも、一刀会の今回の作戦は大分前から計画を立てていたことがよくわかった。
 彼らは実に、集団として行動することに長けている。逆らえば恐ろしい目に会うわけだ。
 庸平は、この中に今立っており、静かに戦いの時を待っていることに恐怖感を感じないわけではなかった。
 だが、こうして多くの仲間に囲まれ、いつでも敵襲に備えることができる安心感も覚えた。何より、何に所属し、任務を遂行するという特別なひと時が、庸平にとっては甘美なのだ。

 無論ながらこの街に住む人間にとっては、それは嘆きを引き起こす絶望の時間でしかない。
 洋蔵は、日本で以前から怪しい動きが起きていることを知っていた。
 下層民たちが、外からの侵略者と内通して騒擾を引き起こそうとしている噂が、洋蔵を始めとする比較的富裕な人間の間ではささやかれていたのである。
 それは恐らく事実だろうと洋蔵は思っていた。この日本でどれだけ多くの人間が虐げられているかを思えば、彼らの恨みがいつか爆発するなど自明のことではないか。
 しかし洋蔵は大総理たちが都市を守ってくれるとは微塵も期待してはいなかった。奴らの毒牙に自分がかかるとしてもおかしくないと覚悟していたのだ。
「この街は、そろそろ持たない。ここもまた、外と同じような状況になってしまうだろう」
 洋蔵はうなだれた。だが、どこか他人事のような雰囲気があった。
 遠くからサイレンが聞こえてきた。
「何が起きた?」 心臓の鼓動が速くなる和美。
「ああ、このあたりじゃ普通のことさ。気にしなくていい」
 平然としているように見えて、憔悴のような負の感情が洋蔵の口元に鬱積している。彼はさらに早口になって再び語り始める。
 産業革命以前の生活を強いられることになっても、わずかな間だけ前時代の秩序は維持されていたようだ。しかしその時代のことについては、もはや知る術がない。インターネットによって記録されていた史料は、今となってはほんのわずかしかうかがえないのだから。
 いずれにしろ人口の爆発的な減少と自然環境の荒廃が極限に達した結果、もはや国家の存続は不可能になった。教育も医療も意味をなさなくなった。国を守る人間すらまともに確保できなくなり、島に次々と不法入国者が忍び込んでくることを防ぐこともできなかった。
 政府は完全に社会の存続を諦め、『国家再編法』を発した。この法令は、日本国の領域を定義し直し、旧東京とその周辺地域に限ることを命じていた。こうして日本国という言葉は旧東京とほぼ同じ意味を持つようになったのである。
 あまりに高度で、維持の困難なインフラが崩壊した結果、便利な生活を捨て去らねばならなかった人間の運命は悲惨なものだ。恐らくこれによって一層多くの人間が息絶えたに違いない。原始時代に誰もが持っていたはずの狩猟採集の能力などすでに過去の遺産であったし、それを特殊な技能として身に着けていた人間がいたとしてもごく少数だったろう。
 人々にはもはやかつての社会を取り戻す力もなければ、意志もなかった。誰もがその日暮らしの厳しい生活に追われ、どんどん知性なり教養なりを捨ててしまった。だが、文明が表立って崩壊する前から、いずれこんなことが起きるのは分かっていたことなのだ。
 あまりにも高度な知識を求められるようになり、それに適応できず生活を破綻させてしまう人間の増加がずっと問題になっていたのだし。技術革新が人間の衰退を後押しした。
「こんなことが起きても、人類の繁栄を取り戻すどころか、妨害する奴がいた。奴らは美しい理念を唱えはするが、実際に何かを変えることはちっともできはしなかった」
 洋蔵の話は今や別の方向に向かおうとしていた。
「誰が、それを引き起こしているの?」
 何かの燃える音がする。
「リベラルとフェミニストたちによってだ。邪悪なフェミニスト、リベラルによって旧文明は虐げられ、滅ぼされたのだ。彼らは社会正義の名の元にあらゆる自由を奪った。彼らは善人の仮面をかぶった盗賊だったのだよ」
 洋蔵はどんどん陰険な顔になった。
「左派は、いつも体制には反対するが自分たちでは何も生み出せない。そんな奴らを叩き潰す機会はいくらでもあったはずなのに、右派はそうしなかった。彼らもまた、社会をただす力を持ちえなかった。衰退するのは当然のことだ。奴らは今でもこのせせこましい壁の中で争いを続けている。君たちが住む壁の外にも左翼がいるのだろう? 共産主義が跋扈しているんだろう?」
 知らない言葉がどんどん出てきたので、和美は聞き取れているかどうか不安になってきた。ただ、洋蔵の発言は危うい典拠に基づいているように思えた。
 洋蔵が事実に基づいたものだとは思えなかった。本当にそれを確信しているならば、こんな責めさいなむような物言いになるはずもない。
 そういう言葉も和美はかつて学校で教えられていた授業の科目である社会の漫画を通して知っていたが、それは単なる思想的傾向の一でしかなかったはずだ。
「今こそ美辞麗句を並べたてる左派どもに反旗を翻すべきだ。このままでは、世界は滅びる。お前が協力してくれなければ、滅亡は早まるばかりなんだ」
「あんたが言っていることが事実かどうか、私には興味がない。もう、全てが昔のことなんだから」
「頼む、協力してくれ。この世界は古い思想にかぶれた悪党どもによって蹂躙され、今にも滅びようとしているんだ」
 洋蔵の苦しみは本当なのだろう。
 しかし和美は、そんな大それた理想に見入られている暇などなかった。良くも悪くも、彼女は時代に流され、消えていく大多数の一人だったのだ。
 いや、そもそも洋蔵が世界の現状を正しく把握しているとは思えなかった。
 大体、右とか左とか、そんな政治的信条を掲げる人間は日本の外には存在していない。
「私に言わせれば、この日本と言う都市がまるで新しくできた世界の中で未だに残っている淀みのように思えるけれど」
「違うんだ。日本は必ず復活する。不死鳥のようにな。確かに経済発展に失敗したかもしれないが、もう今の状態以上にひどくなることなんてありはしない。ここから先、必ず復活する。それが歴史の法則だからだ」
 洋蔵は必死になって説き伏せた。
「復活した後はまた繰り返すだけだよ。衰退を」
「そう言いたいなら言っていろ。だが私は、必ず新しい、正しい秩序を作り出して見せるんだ」
 洋蔵にとっては、その繰り返しに甘んじるのがどうしても耐えがたいのが痛いくらい伝わって来た。
「好きに生きて好きに死んでいくのが、なぜ悪いの?」
「そうやって何もせずに生きるのなら間違っているぞ。それは人間として最も恥ずべき生き方だからだ」
 洋蔵の理念を否定したいのではなく、ただ単に気に食わないのだ。
「私はもう、何かの理念に従って生きていく力なんて残されていないんだよ。私はさすらうことしかできない」
 和美は今すぐこんな会話を切り上げたかった。
「あんたは、これからを生きることに専念していればいい。私は過去のぬかるみの中で這うだけだからね」
「だが、それではいけないんだ」 叫ぶ洋蔵。
 二人の間には、あまりにも大きな溝ができていた。
 別に敵対したくて敵対していたわけではない。ただ、ちょっとした認識の違いが、邪魔をしているだけなのだ。その邪魔が、あまりにも致命傷なだけで。
「短い間ですが、お世話になりありがとうございました」
「おい、お前にはここから出るための手段も何もないんだぞ。帰れるはずがない!」
 洋蔵はあせって落ち着いた様子をとりつくろったが、もはや彼女の心を取り戻すことはできなかった。
 和美は最低限の節度を守って、雑に一礼した。もう、洋蔵の顔など見たくもなかった。
 屋敷から出た。
 もうすでに洋蔵のことなど和美は忘れていた。もうさっさとこの日本を脱出することしか頭の中になかった。それどころか、清流会に戻りたいという気分すら霧散していた。ただ単に、飽きてしまった。ある程度の領域や規律に縛られて生きていくのもそれはそれで安心感があるが、危険という揺籠の中で生まれて来た和美にとっては、もうそんな環境に飽きが来てしまったのだ。
 先ほど、部屋の中に騒々しい音が混じって来たのは幻聴などではなかった。もうここは戦場と化していた。
 電池で動くパトカーがけたたましく鳴り響いている。
「警視庁特別護衛課だ! 今すぐに降伏しなさい!」
 鎧を着こんだ警官が、群衆に向かって盾を構え、威圧的な雰囲気を押し出して行進していく。
 炎が、やけに綺麗だった。不謹慎だとは分かっているが、そう思わずにいられなかった。歴史の終わりを象徴するような絵に見えてならなかったのだ。
 民衆たちは当然逃げ惑った。炎と喧騒から離れようと必死に離れていた。だがわずかに数人、むしろ喜んだ様子で、混沌の中につっこむ者もいた。
 たとえまともな武器がなくても石やコンクリートの破片を拾って投げつける者もいれば、警官を組み伏せて銃を奪い、逆に発砲する者もいる。
 和美は、これが単なる不満を持った市民による暴動ではないことを察した。
 遠く壁の方から煙が立ち上っているからだ。建物からではなく壁の上で火の手が上がっている。そして、そこから叫びが聞こえるのだ。
「ふん、争ってろよ。こんな町なんてどんどん荒れ果てればいいんだ」
 怒りの咆哮の隙に、銃声が混じる。
「でも、あなたもその犠牲になるかもしれないんですよ」
「知ったことか。俺は暴れる理由が欲しいんだ」
 そういうと彼はカオスの中へ走り出した。
 そこまで、人間は闘争心や破滅願望を刺激されるものなのだろうか。
 和美にも無論そういう風に精神が共鳴する瞬間がなかったわけではないが、いざとなるとどうしても平静になってしまうのである。
 というより、自分の生死が危うい状況で他者を相手に戦ったり暴れたりすることができるだろうか。自分が生き残るために必死になるしかないではないか。
 和美は、水辺へと走った。とにかく、こんな騒擾で殺されるのはまっぴらだ。
 川沿いに一隻の細い船が停泊していた。そこから、懐かしい声が聞こえた。
「おい、和美!」
「庸平!?」
 和美の顔を見た庸平に、一瞬喜びの感情が見え、すぐに消えた。
「生きてたのか?」
「うん」
 庸平は一瞬早口で何かを言いかけたが、すぐ沈着な表情に子どり、
「一刀会の奴らが壁を越えたんだ。もうここは危険だ」
 和美はもたもたせず船に乗り込んだ。
「一緒に脱出するぞ。この川沿いももうすぐ奴らの血で染まる」
 庸平の姿は、日光によって黒い影に覆われ、何を着ているか、どういう表情をしているかほとんど分からなかった。
「この船の燃料も持たなくなってきてるんだ。あまり落ち着いている暇はない」
 東京湾を通して、街から火の手が上がり、金属の鳴る音や人間の叫ぶ声がひっきりなしに耳をつんざいた。
 和美は、こんな地獄に巻き込まれずに済んだことで、心からほっとした。とはいえ、そういう地獄に巻き込まれざるを得なかった人間がいるにも関わらず安心している自分に、罪悪感も覚えた。
「あんたも戦うんでしょ? あいつらと」
 庸平はふと後ろを振り返った。彼らは明らかに清流会の人間ではなかった。和美の姿を見て、慣れない様子でまごついている。
 男たちが和美に手を出さないようににらんだらしかった。
「俺たちはここで敵を迎え撃つ用意さ。和美はとにかく船の後ろに隠れているんだ」
 洋蔵は無事だろうかと思った。すると、これまで出会ってきた人間の無事までもが思い出され、うっかり感傷にふけりそうになった。
 けれど全ては、結局悲壮ごっこに過ぎない。

 和美が日本のその後を知ったのはそれからもうすぐのことだった。
 内部に潜入した工作員の陽動によって外部への警戒が手薄になった後、一刀会は特に防備の手薄な海上から船を使って一気になだれこんだのだ。
 襲撃者はロケット・ランチャーやドローンを装備していた。
 無論警視庁も武装においては襲撃者に決して劣ってはいなかった。拳銃やマシンガンもあるし、ヘリコプターという金属でできた鳥も飼っている。
 しかし襲撃者は意気軒昂としていた。一刀会の元で他の会との戦闘を重ね、鍛錬を積んだ強敵の前には、弱々しい市民に対しイキるだけが得意な警官などまるで相手にはならなかった。警官たちは、相手が強く、到底勝ち目がないと分かると、烏合の衆と化した。
 襲撃者は建物に押し入り、金目の物を強奪した。殺人や強姦が巷で巻き起こり、大小さまざまな死体が川や海に投げ込まれた。しかし国会議事堂は被害を免れた。堅固な要塞として築かれ、外から人間が乱暴に忍び込めない作りになっていたからだ。だがその外にあるものはいくらでも奪われるか、壊された。日の丸の旗が庭先からもぎ取られ、渋谷駅の入り口前に建っていた忠犬ハチ公の像も持ち去られた。
 日本タワーとスカイツリーが残酷な地上の様子を無感情に見下ろしていた。
 大総理は民を守ることすらなく一目散に退散した。そして北の埼玉へと落ち延びて行った。三日ほど、破壊と混沌の宴が街を覆った。
 その後には、屹立するビルの間から黒い煙が立ち上り、まるで何の目的もなく燃料を焼き続ける煙突みたいに見えた。
 生き延びられた人間と、殺された人間の落差と言ったら悲惨だった。
 東南アジアからやって来ていた富豪などはあらかじめ奥多摩の田園やビルの上の階に隠れたりして無事だったし、捕まっても高い身代金を払って無事に元の生活に戻ることができたようだが、身ぐるみをはがされ壁際に転がされた死体は、アスファルトに焼かれたまま朽ちるのを待つしかなかった。
 一刀会は、日本にそのまま居座ろうとしなかった。彼らは戦利品を心のまま獲得して満足すると、そのまま引き上げていった。
 ただ、奪いたかっただけなのだ。そこにいかなる大義もない。
 だが洋蔵の言っていた通り、これは確かに歴史の変わり目なのだろう。
 停滞と衰退が、このまま続くはずもない。
 しかしそれを血で切り開くしかないのなら、人間とは何と愚かな生き物なのだろうか。

 千年まで戻る途中、和美を見つけ出すまでの出来事を五十嵐庸平は語って聞かせた。
 庸平は、和美の姿を必死で探した。しかし、和美はどうしても見つからなかった。
 時折警官や一般民衆の死体を踏み越えながら、どこに和美がいるのかを必死に見つけようとした。
 だが日本が広大である以上、そもそもどこにいるかも分からない一人の人間を探しようもない。
 ただ、あの秋葉原、娼館が立ち並び、人身売買が積極的に行われているソドム(これは和美が教えてくれた街の名前だ)にいるのではないかという目星はついていた。
 だから、一刀会が日本から敵軍を駆逐し、完全に支配下に置いた後でしらみつぶしに話でも聞こうとしていたのだ。だが嬉しいことに、和美とはすぐに再会することができたのだ。
 こうして和美と庸平は一刀会と清流会の人間に連れられ、千年にもう一度戻った。
 和美にとって日本での滞在がどれだけ忌まわしい時間だったか、庸平はその表情で察した。
「まあ、そういうものか」
 と言って、あまり詮索しないでくれたのが和美にとってはありがたかった。人権レベルとかマンセーとか言う言葉について説明するなどたまったものではない。

 数週間後、力彦が高津から追放された。清流会の中で政変が起きた。彼らはもう、惰弱な総理に対して忠誠を尽くす意味を失っていた。
 それだけではなく、一刀会に彼らは鞍替えした。もう一刀会は清流会の支配領域を併合してしまったのだ。彼らは元清流会の本部の正面に、赤い垂幕を掲げた。表面に、剣が描かれている。指導者たちは、その旗への敬礼を命じた。見かけねば、かならず頭を下げて敬意を示さねばならない。
 そして、一刀会の首領に対する忠誠を住民に約束させたのである。それは清流会にはない、一種強圧的なものだった。
 だがそれ以外は驚くほど、何も変わっていなかった。
 若干顔ぶれが変わってはいるが、それでも以前と同じような生活を送っていた。
 まだ、壁の向こうから煙が立ち上っていた。
 和美はだが、もうそろそろここでの生活に飽きが来ていた。
 何かと血なまぐさいのだ。
 無論大阪も暴力の絶えない街ではあったが、集団が悪意を振り向けるような陰湿さなど感じなかった。
 誰もが生きるのに必死だったからだ。
 だが一刀会の荒くれ者たちを目にした時、和美の脳裏に浮かんだのは全く違う心象だった。
 一刀会の人間たちには、生きる以外の何かがある。人間を狂わせ、さらなる暴力に導きかねない何かが。 一刀会がこの高津に住み着いてから、その『何か』は一層力を持ったように思える。
 それは日が経てば経つほど増長し、人間を狂わせて行っているのではないかと思えてならなかった。
 この頃にもなると千年では島の言葉だけではなく、大陸の言葉も聞こえるようになった。一刀会の上層部に海外からの移住者もざらにいるので、そういう人間ともやり取りをするために言葉を学ぶ必要があるのだ。
 和美は、何かが動き出しつつあると思っていた。このような『兆し』がなければ、歴史というものは動かなかっただろう。
 生きている限り、人間は必ず何かを起こさずにはいられないのだから。
 この日の朝も、和美は、神社で再び祈った。この一刀会が長く栄えるように、必死に信心を捧げていた。
 若干、雑念が混じった。日本国にしばらく囚われていた記憶が強いのもあるが、一刀会の人間を『支配』しようとする意志が我慢ならなかったからだ。これもまた、和美に対して『何かに属して生きる』ことの虚しさを存分に刻み付ける。
 神社から帰ると、親しげに、だが意気揚々とした声。
「和美! うまく祈れたか?」
 庸平が向こうから走り出してきた。庸平は安心して、ぎゅっと和美の手をにぎりしめた。
「ちょっと、少し痛いんだけど」
「ああ、すまねえな」
 すぐに、力を緩める。
 少年もまた、すこぶる壮健な様子だった。いやそれ以上の変化があった。
 庸平の服装は黒かったからだ。サラリーマンのように立派な服装。
「何か、ちょっと変わったみたいだけど」
「もう俺は一刀会の人間だからな。清流会は逃げ出したんだ。もう彼らはこのあたりにはいられなくなった。また狩猟採集の生活に逆戻りしたんだろう」
 彼の背後には、数人の住民が集まっていた。まるで彼に仕える臣下のように、ありがたく教えでも聞くように庸平の後ろ姿を凝視していた。
「いつの間に庸平、そんなに偉くなったの?」
 偉くなって当然だ。彼は清流会から一刀会に寝返り、彼らを放逐したのだから。
 和美の声には庸平を批判する雰囲気はなかった。そういうことをする人間だからといって彼を否定する資格などないと和美は思った。自分も庸平と同じように誰かを裏切ったり陥れたりした経験はいくらでもあるのだから。とはいえ、相容れない要素もある。庸平は、明確に『出世』を意図して清流会への裏切りに及んだのだ。
 和美にとっては複雑な心持ちだった。無論同じ屋根の下で数年を過ごした仲間なだけに、その栄達を喜ぶ心がないわけではない。だが庸平が、以前とは少し違う存在になってしまったことに対する寂しさが若干胸の底によどんでいた。そのよどみが、和美に何かを決意させていた。
「俺は旧清流会のメンバーを統括する役目を仰せつかったんだ。前に比べれば白いおまんまを食えるようになったしな」
「いいことだね」 そっけなく。
「なあ、和美、お前もこれまで通り巫女として我らが一刀会に尽くしてくれるよな?」
 庸平の期待には答えたい。だが。
「飽きた」 即答。
「……え?」 庸平は困惑する。以前と同じ、あどけない少年の顔に戻る。
「私は、やっぱり何かには属せないや」
 後ろで庸平の部下が大声をあげた。
「おい、課長の命令に逆らうのか?」
「よせ。声が大きい」 少しばかりきつい声で制止する。
 庸平は少し振り返ると、大声をあげた奴に対してまなじりを向けた。
 たちまち肩をすくめて縮み上がった。庸平はこういう時に限っては誰よりも怖い。
「私はもうここの生活に飽きた。そんなに骨をうずめるに値する場所とも思えなかったからね」
 それを聞くと、以前と変わらない表情、
「まあ、お前がそういうならとどめはしないさ。俺にとってあんたはやっぱり不思議な人間のままなんだから」
「でも巫女がいなくなるというのは、街の人間にとってはさぞかし不安なことでしょうね……」
 庸平はここぞとばかりに切り出した。
「こう言っておけばいい。『巫女として、他の人を救うための旅に旅立ったんだ』って。お前はこれまでもずっと誰かの役に立ってきたんだろ? それがお前らしい言葉なんじゃないかと思ってさ」
「ふうん……好い言い訳じゃない」
 庸平は、一瞬だけ得意げな表情になったが、急に寂しくなった。もう彼女の、旧社会に関する知識を聞けなくなると思うと何だか楽しみが一つ減った気がした。
「でも、俺は知ってるぜ。きっとお前は、俺みたいに真に仕えるべき上司を見つけるんだ」
 その言葉で、和美の心のどこかがぴくりと揺れた。
 和美には、ここまで何かに所属する庸平がひたすらよそよそしく見えた。

 和美は驚くほどあっさりと清流会を離れた。こう何か別れの挨拶でも人々に告げるのかと思ったが、彼女はそういう催しを一切拒否してひっそりと行ってしまったのだから。みんなに別れを告げるわけでもなく、まるでさすらう獣のように彼女はこの集落からいなくなったのだ。だがとにかく、せめて気持ちに踏ん切りをつけるため、庸平は和美が無事に旅立てるように神社で祈った。彼女はこれまで祈って来たのと同じ形で、庸平もまた祈った。
 しかし、雑念は混じる。元から神に対する信仰心がそこまで篤いわけではないのだから。
 それに彼は、今までは考えたことのないことについて考えなければならなくなった。何しろ彼はすでに一刀会の領袖として、首領の命令を奉じる立場にいるのだから。
 彼は元々コンビニと呼ばれ、今は酒場に改装されている方形の建物に行くと、和美に対する思いをごまかすようにして、友人の佐々木(ささき)と語り始めた。
「俺たちの会は、もっと大きくなるんだ。そうなったらもっと人が増えて、ここは大きな町になる。きっと産業も栄えていくんだろうな」
 庸平は和美から聞き知った語彙を交わしながら、未来の展望を語った。
「俺たちは歴史に責任を負っている。先祖みたいな愚行を繰り返すわけにはいかないんだ」
「やけに張り切っていやがるな。お前、急に元気になったみたいだが」
 飯を口元にかきこみながら、
「そりゃ、あんな優柔不断な奴の元で働かなくてもよくなったからな」
 庸平は、少し虚ろになった感情を満たすべく、仕事を求めていた。この高津において一刀会による支配を確固たるものにしなければならない。そのために貢献すれば、もう少しはこの空虚な感情も満たされるというものだ。
「俺たちに不安要素はまだ多く残っている。何より清流会の人間がまだいる」
 彼らは外れの集落に住み、まだ自分たちの総理を探し出す意志を捨てておらず、一刀会への反旗を翻そうとしている。
 仲間もまた、一刀会への忠誠を果たすべく、自分の案じていることについて語る。
「この先どんどん一刀会が大きくなるとすると、他の集団と接触するケースも大きくなる。戦いが減るどころか増える一方だ」
 佐々木の懸念を、庸平もよく理解していた。
「ならそういう奴らは叩き潰せばいい」
「しかし、黒龍会とも対決せねばならんだろう。あいつらにも自分たちの領域がある。水源を共有している状況があるしな」
 庸平は冷たく言った。
「じゃあ、黒龍会も倒すしかないな」 全ては生存のためだ。生存のために他者を蹴落とすのは当然のことだ。
 それが実に過酷な道であることは理解していた。だがそうしなければ、今度こそ人類の種が絶えてしまうだけなのだ。それを繰り返さないことに庸平の意識は注がれている。
 ――闘争というものが、これほどまでに生きる意味を見出してくれるものとは、庸平は知らなかった。

 それから、月日が経った。
 和美はまたいつものように目的地もなく放浪していた。放浪の果てに、霞ヶ浦の湖辺にたたずむ小さな村落に立ち寄っていた。
 彼女たちが住むのは森の奥だ。ここには外から誰かが来訪してくることはほとんどない。
 千年よりも一層ひなびた、世間から隔絶した場所だ。だがむしろここは、千年よりも居心地が良かった。何しろ、他の人々と食料を奪い合うこともなく、戦いという言葉を絶えて聞かないからだ。和美はもうほとんど崩れかかった、かつては旅館として使われた館の一室で子供たちと過ごしていた。昼間親たちが薪や金属片を集めている間、彼らは和美の元にやってくるのだ。
「ねえ、和美様、私たちにもっと面白い話を聞かせてよ」
「うん。でも今、忙しいんだ」 和美は針で糸を通しながら、必死に子供に着せる服を編んでいる。
 先ほどまでは字を教えていた。父に昔見せてもらった漢字ドリルを真似したプリントを子供たちに見せ、字を暗記させていた。数十分ほどかけてこの授業が終わると、衣服が足りないとのことなので、休憩時間も挟まずに裁縫を始めたわけだ。
 和美は裁縫に没頭していた。清流会と違い、強制的に命令に従う必要はない代わりに、何でもかんでも自分でこなさなければいけないのが大変だ。
 ここの会は、清流会や一刀会とも違い、階級や部署がほとんどはっきりしない。これといった指導者が存在せず、誰もが立ち寄っては去っていくし、そもそも一つの組織と形容できるかどうかもあやふやな寄り合い所帯だった。
「今、話してもいいか?」
 さっき話しかけてきた子供の父親が部屋に上がり込んできた。
「どうした?」
「今日の夜ミーティングだ。お前も呼ばれている」
「……また、ここから移ろうってこと?」 さして、名残惜しくもなく和美は言った。
「そろそろ食料も尽きそうなので、別の所に移り住まねばならないとのことだ」

 そこまで誰かと別れを惜しむ習慣のない和美にとっては、こう誰にも何も言わず一人で去って行きたい気分の方が強かった。つれなく去って行ったとしても別に名残惜しいと言ってくれる人たちでもないのだから。
 しかし、この際和美にはまだ仕事があった。まだ住民が残っているかどうか確認しなければならない。別に同行したくないならそれでもいいが、弱っている人間を見捨てる訳にもいかない。
 そして実際、この集会に出席していない人間が一人いた。森の小道を抜けた先に一人の医者が住んでいるおり、このあたりでは誰もが懇意にしていたのだが、なぜかまだ姿を現していないのだ。
 和美は、その医者の家を訪れた。すると、家の入口に彼はもう立っていた。
 医者は、異様な風貌をしていた。
 このあたりに住む人間では、明らかにない。
 高い鼻と白い肌をしていた。遥かに海を越えた、東の国からやって来たという。和美にとっては、あまり日を浴びていないのかと心配になるくらいの白い肌だったが。
「あなたはどうしても来なかったの?」
「すまないな。ちょうど客が来ていたんだ」
 医者は、力のない笑顔を浮かべた。まだ若く、和美とそこまで年も離れていないはずだがかなり老けて見えた。大分、思い悩んでいることがあるらしい。
「何かこう……大変なことがあったのかと思って」
 医者は、非常にこの国の言葉が達者だった。
「心配させてすまないな。別に大したことじゃないんだ」
 犬小屋から自分の同志たる犬も連れ出すと、ようやく和美に連れられてこの薄暗く細い道を降って行った。
 二人は森を抜け、かつての人里へと下って行った。この辺りは旧文明が存続していた時代からすでに過疎化が進んでいたらしく、高津よりも人の跡はより早くから消滅していた。それでもまだ、残っているものもある。
 アルミ缶、プラスチックの袋やケースだけが道端で朽ち果てもせずに残り、電柱が家と家の間をまたぐように広がっている。どこにも未来などありはしない。過去だけが無限に広がっている。
「なぜ、遅れたの?」
 医者は説明した。
「故郷の仲間が訪ねて来てくれたんだ。船での長旅も厭わずにやって来た。私を探しに来てくれた。でも、帰りたくても帰ることはできないことを納得させるのに時間がかかってしまってね。それで随分長く話さなければならなかった」
「東の国から?」
「ああ。大陸のあちこちに停泊してまでやって来た」
 どうやらこの島よりは技術が進んでいる、というより昔の水準の物が保たれているのだろうということは理解できた。
「それで何でここが分かった?」
「電報を送っていたからね、お互いにどこにいるかはきちんと把握していたさ。だがもう、あの道具を持って行くわけにはいかないから、もう放置するしかなさそうだが」
 男は大きなリュックをしょいこんでいた。
 その中には数日分の食料も入っているようだ。そして、荷物の角張り方からしていくつかの器具も恐らく含まれている。
「故郷が恋しくないの?」
 どこか遠い場所を眺めるように彼は言った。
「恋しいさ。しかし、私は罪人として追われた身だからね。迷惑をこうむることになる」
「罪人?」
 すると、医者の表情がどんどんこわばって行った。言いたいが、言いたくない、絶妙な間を眉毛と瞳が往来している。
「あまり言いたくないことだ」
 彼は黙り込んだ。きっと軽々しく漏らせない何かがあるのだ。
 和美はそれを根掘り葉掘り聞こうとは思わなかった。それくらい重い過去は、いくらでもあった。
 医者は、空を仰ぎながら言った。
「だが安心してくれ。かりに帰れるとしても、もう、私はここの生活に慣れてしまったからね。故郷の風習なんてすっかり忘れてしまった」
『故郷の風習なんてすっかり忘れてしまった』という言葉に、和美は何とも言えない哀愁を覚えた。この島においては、旧文明の遺産の元でどこでも大体似たような生活や知識が共有されている。だからそこまで帰りたいというような感慨はわかない。だがこの医者は全く違う国から来たのに、もう帰ろうとする意志を失っているのだ。人間はそこまで過去に対して踏ん切りをつけられるものなのだろうか。
「私も、帰りたいとは思わない」
「そうなのか?」 医者は不思議そうに顔を傾けるが、和美にとってはわざわざそうするまでもなく、当然な結論だった。
「いつだって、私はこの世界の人間じゃないような気がして来た。そしてここも、私のいるべき場所じゃない、そんな風に思いながら呼吸している」
「そうか。君は、自分のいるべき場所を求め続けているんだね」
 医者は、何やら納得したように。和美は、それ以上自分の本心を明かそうとはしなかった。
 和美は、なぜか空を見上げる気分にならなかった。夕焼けの最後の残照が山際にとどまっているとしても、底から登って来る日差しは決して暖かなものではないのだから。

 和美が降りてくるころには、もうあたりはすっかり暗くなっていった。彼女が降りて来たのを見て、みんなは息をなでおろし、この主な顔ぶれの間でようやく会議が開かれた。特に誰かが仕切っているわけでもなく、ここでは誰もが対等な立場で発言することができた。
 空には淡い明かりを灯した星が浮かんでいた。冷たい風が時折吹いては肌をさした。人々は何とか寒さをしのぐため、焚火を中心にして話し合っていた。
 和美を見ると、誰もが立ち上がって彼女を招き入れてくれた。そして、これまでの会議のいきさつを話し、深刻な面持ちを見せた。
「もう、俺たちはこれ以上ここにとどまってはいられない。そろそろ離れなきゃいけない時がきている」
「じゃあどうするんだ。全員でここから離れるのか?」
 ここには自由がある。とはいえ、決して快適な自由ではない。この島では、貧しさと自由とは大抵同梱しているからだ。
「私たちも、一刀会に降るか、あるいは一致団結して立ち向かうか、考えなければならない時が来ていると思うんだけど」
 和美は、彼らもまた同じような結論に達してしまうかと思うと嫌な気分になった。
 彼らも清流会や一刀会のようにまとまってしまうのだろうか。
「その必要はない。そこには必ず無駄な諍いが現れるから」
 即答する和美。
「いいのか? これ以上こんな風に『去る者は追わず』な感じでやっていくのは厳しいと思うが」
「一刀会とか清流会で、階級なんて作り出した人間が何をしでかすか分かってるでしょ。私たちはあんなのをあんたたちに経験して欲しくないの」
「彼らの方が、より便利な生活を送っているぜ。食糧も安定的に供給されてるって話だし」
 あの手の集団生活がどれだけ排他的か知っている和美には、あまりあこがれを持ってほしくないのだ。
「でも、彼らには自由がない。それに、人間が人間を虐げる光景があそこではいくらでも展開されている。そんなことはみんなしたくないでしょ」
「……和美がそういうのなら」
 結局、彼女の説得によって彼らは団結しなかった。
 そして、組織はひとまず解散ということになった。十人にも満たない、小さな集団に分かれて、荷物をまとめて、彼らは別々の方向へと散ることになった。
「じゃあ、俺たちは北に」
「私たちは南に……」
 和美は、彼らに対して特に寂しいとも思わない目で見やっていた。そしてその表情のまま、彼らがある程度いくつもの集団に分かれるのを眺めていた。
 それから和美は、自分の意志を告げた。
「私は一人で行く。誰も迷惑をかけたくないから」
 けれど、和美の前には一人だけ、まだどの集団にも入っていない年下の子が一人いた。
「そんな。それじゃ、危険じゃないですか」
 なぜこの子がまだどこにも行かないのだろう、と訝しみながら、和美は口だけ笑って、
「大丈夫だよ。私、一人で生きて来たけどそんなに困ったことないし」
 しかし、その子は納得しなかった。どうしても、和美について行きたくて仕方がない様子だった。
 その子だけではなく、医者もまだ彼らのいずれかに入るか決めかねている様子だった。ただ、和美と子供の話に、どちらに肩入れするわけでもなく、黙って聞いていた。
「いや、私は和美さんと一緒に行きたいんです。和美さんは私に字を教えてくれたし、世界が広いってこと教えてくれましたから」
「で、でも……」 和美は困惑した。誰かと一緒に旅をすることなどこれまでほとんどなかったからだ。
 自分が道中で他人を頼ることはあっても、他人にこんな風に誘われることは今までなかった。古代に関する知識を披歴して、誰かに殊勝な気分を起こさせることはあった。けれどもその時には、ただ『風変わりな奴』と思われるだけで、一人の人間として見てもらえなどしなかった。その必要など、まして感じてはいなかった。
 だがこの少女は、和美を和美として尊んでいるのだ。
「私は和美さんと一緒に行きたいのに……」
 和美は悩んだ。自分が危険な旅路を歩んでいることを思えば、そんな死出の路に誰かを道ずれにはしたくなかった。ましてや、誰かと一緒にいるということ自体が、二人以上でいることが、清流会や一刀会のあの暴力的なあり方に繋がっているのではないかという嫌悪感をうっすらとかき立てるのだ。
 しかし、彼女の強い意志に満ちた眼差しを見つめる内に、考えが変わって来た。未知の経験をすることが大事なのだ。これまでと同じことを続けるだけじゃ、つまらない。
 これもまた、一つの学びと思うことにした。これまで一人での旅では学びえなかったことが、誰かとの旅なら学べるかもしれないのだ、と。
「分かったよ。なら、一緒に行こうか」
 こうして和美もまたある種の集団を形成することにした。
 人々はそうやって散って行った。
 しかし、医者だけは誰にも属さなかった。彼は、周囲の人間が仲間同士塊になっても、なお犬を連れて一人のままでいた。
「お医者さんは、ここから離れないの?」
「私は、まだここに残ろうと思います。またここに尋ねてくる人間のために役に立ちたいので」
 誰もが医者の意思を尊重した。

 洋蔵はまだ全てを失ってはいなかった。
 敵は街の奥深くまで侵攻して警官隊と激闘を繰り広げてはいったが、沿岸地帯はさほど戦闘の舞台とならなかったために比較的敵の略奪を免れたのだ。
 しかし、暴徒たちによってこの都市につけられた傷は決して浅くない。
 洋蔵が日ごろから通う光景はもはや変わり果てていた。どれだけ歪な形であっても最低限の秩序と美を保っていたビルやアパートの装いはもはやそれさえもはぎと取られ、無残に崩壊していた。窓やバルコニーが少しでも欠けていない箇所は一つもなかった。
 荒れ果てた街を眺めながら、
「ポリコレどもめ!」
 と言いかけ、瓦礫につまづき姿勢を崩しそうになる男を、何とか千景が助け起こす。
「まだ言いやがるのか。今時そんな言葉を知る人間すらいないんだぞ」
「だが昔は確かに意味を持っていた言葉なのだ!」
 こいつはこうなったら聞く耳を持たない。千景はあきれつつも根強くたしなめ続ける。
「インターネットは今頃お前を小馬鹿にしているに違いないよ。お前が敵視している奴らはもうこの世に存在していないのに、まだお前はそれをあると思っているんだからな」
「いや、奴らはこの世に存在する。そして、またいつか俺たちを迫害してくるに相違ないんだ」
 洋蔵は、一刀会という名前も知らなかった。清流会と結託して日本を襲撃してきたことも知らなかった。ただ単に、反社会的な勢力が国外にいる左派勢力と結託しているものだとばかり考えていた。大総理がまっとうな人間であるわけでは無論なかったが、その政権を継いだものが一層醜悪な人間である可能性は大いにある。
 洋蔵にとって、日本市外とは左翼の巣窟であった。そこでは、社会秩序の再建を拒む人間がそこかしこにおり、かつての文明の復興を妨害しているのだ。彼らを何としてでも押さえつけ、もう一度この退廃を脱しての進歩こそが喫緊の課題であると教えてやらなければならない。
 大総理が逃げ出した後、新政府が急速に結成されたとはいえ、彼らがまたもや国外の空気に同調してますます日本を衰えさせないとは限らない。
 洋蔵はともかく、ツイッターのタイムラインを印刷した紙が被害に遭わなかったことを心から神に感謝した。これを見せつけ、奴らの悪事を白日の下にさらさなければならない。
 日が高く上っていた。まだすることはたくさんあるのだ。
鱈井元衡 
http://mypage.syosetu.com/453129/
2023年08月23日(水)17時59分 公開
■この作品の著作権は鱈井元衡さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
文明崩壊後の世界を描きました。


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