寿国演義 無邪気皇后銀鈴、茶番で投獄されるのこと |
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普通に後宮の草むらよ」 「私も草むらで捕まえようとしたけど、逃げられて、仕方なく虫屋で買ったわよ」 「そう? わたしが草むらで探したら、この子のほうから寄って来たわよ」 銀鈴は、自慢のコオロギを指に這わせながら、言った。 「ほんと銀鈴は、人徳があるわよね。虫にも好かれるんだから」 棗児は、銀鈴の人徳に感心した。 「勝たせてもらったお金を元手にして、大会では優勝して、大儲けするわよ。団体戦なんだから、二人もしっかりね」 銀鈴は、茘娘と棗児に向かって、得意げに言った。 「はい」 茘娘はそう答えて、銀鈴に軽く会釈をした。 「銀后さま、期待してますわよ。今まで負けた分を取り返してください」 棗児も、茘娘に続いて銀玲に軽く頭を下げた。 「こういうときだけ、“皇后扱い”するのね。まあ、いいわ。任せなさい!」 銀鈴は、そう言って胸を拳で叩いた。 寿国後宮では、皇后は下の名の頭文字に、「后」を付けて呼ぶのが習わし。だから、「銀后(ぎんこう)さま」とは、「銀鈴皇后さま」のこと。 銀鈴と、茘娘、棗児は、女官養成機関――というより、一般的には「芸能学校」と認識されている――「後宮太学(こうきゅたいがく)」の同期生。同期生同士は、あまり身分の上下は気にしない。また、銀鈴自身が、皇后の自覚が薄く、“皇后様扱い”で敬語で話されることを、「気持ちが悪い」と言って嫌がっていた。個人差もあるが、後宮太学の同期生同士なら、相手が皇后の銀鈴であっても、公の場など、特別な理由がなければ、敬語を使うことは少ない。 皇后である銀鈴が、なぜ緑色の女官着を着ているかというと、銀鈴が“いかにも皇后”な袖が大きく、裾を引きずり、動きづらく、かつ目立つ衣裳を嫌ったからだ。女官着の形は、町娘や村娘が普段着ている衣とそれほど変わらない。しかも、緑色の女官着は「人を隠すなら人の中、木を隠すなら森の中」で、着ている者の数が多いので目立たない。したがって、銀鈴が“皇后”と知らぬ人から見れば、ただの“新人女官”にしか見えない。銀鈴にとっては、このほうが気楽だった。 数年前、先帝が崩御し、今上皇帝、紀仁瑜(きじんゆ)が即位した。それに伴い、仁瑜の花嫁選びも兼ね、「後宮太学」の学生募集が行われた。そのときに、元後宮女官で、銀鈴の出身村学堂の教師が、銀鈴を強く後宮太学に推薦した。 銀鈴は、最初はそれほど乗り気ではなかった。だが、学堂の教師から「仮に不合格でも、本試験まで進めれば、タダで都見物ができる。何より、合格すればお菓子食べ放題」と聞かされた。 そう、この「お菓子食べ放題」に釣られて、後宮にやって来た。 銀鈴は、その日の食にも困る極貧層出身ではない。だが、一族に大臣、将軍、学者、文化人を多数輩出するような名家の生まれでもない。ごく平均的な農家の娘である。 なら、容姿が特別優れているか? というと、これも十人並み。ただし、美声の持ち主。 したがって、銀鈴が“皇后付きの侍女”になれれば、大出世だ。 なのに、“皇后”になってしまった。なぜか? それは、銀鈴の“天性の無邪気の気”である。 銀鈴に限らないが、予備面接で受験者は、面接官面前で自筆の履歴書を書き、提出する。その自筆履歴書は、仁瑜が目を通す。皇帝自らがわざわざ受験者の履歴書を見るのは、受験者の“気を見る”ためだ。“書は人なり”。書には、書き手の“気”が自然と移る。面接官面前で履歴書を書かせるのも、確実に受験者本人の筆跡を手に入れるためだ。 その中で、仁瑜が特に気になったのが、銀鈴の履歴書だった。後宮太学志望動機に「お菓子食べ放題」とあったこともある。それ以上に魅かれたのが、“邪気”のない“天性の無邪気の気”だった。 さらに、先帝が生前、当時後宮女官だった、銀鈴の学堂の教師に、銀鈴の出身村を「“天性の無邪気の気”を感じる」と話していた。 国母たる皇后にとって、最も大事な素質は、“邪気がない”こと。「“邪気”の持ち主を皇后に据えると、国が亡ぶ」と、代々戒められている。“邪気”がない、“無邪気の気”に比べれば、家柄や容姿など、二の次、三の次だ。 仁瑜が履歴書から、“気”を感じ取ったところ、銀鈴以外の受験者の履歴書からは、“傾国の邪気”とまではいかぬが、多かれ、少なかれ、媚びたり、権力欲を欲する“気”があった。ただ一通、銀鈴の履歴書だけが“無邪気”“無垢”“天真爛漫”の“気”だった。 特に強力な後ろ盾もない、銀鈴が、皇后に選ばれても、その“天性の無邪気の気”のおかげで、他の女官や宮女――普通文官の身分で、後宮に仕える者――の嫉妬を買うこともなく、皆と仲良くやっている。 ただし、その対価なのか、変な事件に巻き込まれることもあるが。 扉を叩く音がした。 「はい」 扉の側に居た棗児が、扉を開けた。 二人の男性が入ってきた。 「はい、動かない! 触らない! コオロギだけは壺に戻して!」 二人のうち、年上の越忠元(えつちゅうげん)が、入るなり叫んだ。忠元は、卓の上の桶と現金を目に留めていた。 忠元は、二十五歳。仁瑜の最側近であり、皇帝直属の最高司法機関「太法院(たいほういん)」の長官「太判事(たいはんじ)兼後宮太学の教師。 銀鈴、茘娘、棗児は、自分のコオロギを壺に戻した。 「これは、どういうことです? 賭けてましたよね?」 「はい、賭けてました」 銀鈴は、忠元の追及に答えた。 「賭博の現行犯ですね。きっちり、話を聞かせてもらいます」 忠元は、銀鈴たち三人にそう言ってから、仁瑜に顔を向けた。 今上皇帝、紀仁瑜、十八歳。“男装の麗人”に間違われるほどの女性的な顔立ちの美男子。 「陛下、この三人から、永巷(えいこう)で話を聴きたいのですが、よろしいですね?」 「師兄(しけい)、分かった」 「師兄」とは、同門の兄弟子に対する敬称。皇帝の学問の師、帝師に入門したのは、忠元が先、仁瑜が後。なお、帝師は後宮太学長も兼ねている。 「かしこまりました」 忠元は仁瑜に向かって、拱手の礼を執った。拱手の礼とは、両手を胸の前で合わせて、お辞儀をする礼。 「ちょっと、仁瑜、越先生! 永巷はないでしょう!?」 銀鈴が叫んだ。 永巷とは、後宮の牢獄である。 銀鈴たち、後宮太学卒業生にとって、忠元は“帝師門下”として、「兄弟子」に当たる。だが、「師範代」でもあるので、忠元を銀鈴たちは後宮太学現役生時代から「先生」と呼んでいる。 「ま、そういうことだ。銀鈴、それに茘娘、棗児も、聞かれたことには正直に答えなさい。隠しても、すぐにバレるから」 「秋水、では三人を永巷へ連れて行ってください」 忠元は、部屋の外に待機していた女性、芬秋水(ふんしゅうすい)に声を掛けた。 秋水は、十八歳。後宮の警備、永巷の管理、後宮の規律違反者に対する罰の執行を行う「娘子軍(じょうしぐん)」の将軍。緑色、丸襟、膝丈の袍――筒袖の上衣――の武官朝服姿。武官朝服は、動きやすいように体に密着する細身仕立てだ。寿人には珍しく、白磁や雪のような真っ白な肌に、琥珀色の目と髪。髪は、後頭部で一つの団子を結い、髪先は背中に垂らしている。銀鈴とは、後宮太学の寮で同室だった縁で、親友。 「御意」 秋水と、配下の娘子兵が部屋に入って来た。皇帝の御前ということもあり、さすがに銀鈴たち三人が縄をかけられることはなかった。 銀鈴たちは、秋水と娘子兵に連れられて、大人しく永巷へ向かった。 ●銀鈴、姉弟子の取り調べを受けるのこと 永巷。 銀鈴、茘娘、棗児の三人は、机の前の床に座らされていた。真後ろには、秋水と、娘子兵たちが立っている。 「ここは、拷問部屋じゃない? 話を聞かれるのはいいとしても、何でここなのよ?」 銀鈴は辺りを見回した。 周りには、竹笞、皮鞭、十字架、九十糎(センチ)四方の分厚い板に首を通す穴が開けられた板枷、鉄の首輪、手枷、足枷、その他拷問道具が、置かれたり、吊るされたりしていた。 「私たちって、賭博の現行犯よね? 拷問されるようなことはしてないわよね?」 棗児がやや青ざめた顔で言った。 「拷問? それはないんじゃない? だいたいこの部屋の拷問道具は、本物だけど、お芝居の道具の資料でしょ。実際に使うことはないじゃない。でも、されるなら、笞打ちよりも、水責めのほうがいいわね。ちょうど今、暑いし」 銀鈴は、十字架に縛り付けられた罪人が水をぶっかけられたり、水瓶に無理矢理頭を沈められたりする芝居や小説の拷問場面を思い浮かべていた。 「銀鈴、何をのんきで、無邪気なことを言ってるの? 拷問は水遊びじゃないわよ」 茘娘が銀鈴をたしなめた。 「皆さん、お待たせして、申し訳ありません」 上品な少女の声が聞こえた。 声の主は、晶芳雲(しょうほううん)、十六歳、後宮太学教師手伝い兼判事見習。この若さで、低い成績ながら、高等官登用試験「科挙」の合格者で、「進士」の称号を得ている才媛。優れた学者を代々輩出してきた名門、晶家のお嬢様。後宮太学出身ではないが、帝師に師事しているので、銀鈴、茘娘、棗児からは、姉弟子に当たる。 つやのある美しい黒髪を、頭のてっぺんで心臓型(ハートマーク)に結っていた。司法官朝服である黒地に丸襟、足首丈の袍――広袖の上衣――姿。司法官朝服は、官等にかかわらず黒地。ただし、判事には胸に「解豸(かいち)」――正義を表す鹿に似た一角の神獣――の刺繡。襟元と袖口の縁取り布、胸の解豸の刺繍の色で官等は表される。当然、判事見習の芳雲の色は、緑。 「わたしたちの取り調べは、芳雲師姉(しし)がやるの? 芳雲お姉さま、なにとぞ寛大な措置をお願いします」 銀鈴は芳雲に、甘えた声を出して、頭を下げた。 「ええ。わたくしが、越師兄と陛下のご指示で調べますからね。空き部屋で押収したコオロギですが、コオロギ飼育が上手な女官に預けました。ですから、心配いりませんよ」 「ありがとう、師姉。でも、何で取り調べが、拷問部屋なの?」 「銀玲さん、遠くからでよく聞こえなかったんですが、水責めをされたいんですか? お芝居の拷問場面の演技指導が必要ですの?」 「拷問されたい趣味なんてないわよ。拷問される役も、拷問する役もきてないわ」 銀鈴は首を激しく横に振った。 「銀玲さんの場合、役に入り込み過ぎることがありますから、少々心配ですわ。拷問はしませんから、ご心配なく」 そう言った芳雲は、銀鈴のほか、茘娘と棗児にも視線を向けた。 「皆さん、この部屋に何かを感じませんか?」 「特に何も感じないわ」 「私も何も感じないわね」 「拷問部屋なので、気持ち悪いけど、それ以外は、特に何も」 芳雲の問いに、銀鈴、茘娘、棗児の順に答えた。 「そうですか。では、取り調べを始めましょうか」 そう言って、芳雲は銀鈴たち三人の正面に置かれた机に着いた。 芳雲と共にやって来た書記役の女官も、芳雲の斜め隣の机に着いた。 芳雲は、帯に挟んだ白木の笏(しゃく)を手に取り、二度机を叩いて、打ち鳴らした。 「お役儀により言葉を改めます」 芳雲が凛とした声を響かせた。このひと言で、場の空気が一変した。今までは、話の内容はともかく、仲の良い同門同士が和気あいあいと会話を楽しんでいた。 銀鈴、茘娘、棗児の三人の顔から血の気が引いた。三人は、居住まいを正し、床に手を付き、深々と頭を下げた。 (芳雲師姉は、本気ね。お芝居っぽくもあるけど、判事に「お役儀により言葉を改めます」なんて言われると、怖いわ。まあ、このひと言は、お芝居や小説では、取り調べや勅使の定番の台詞なんだけど) 「さてこれより、張銀鈴、留茘娘、程棗児によるコオロギ相撲賭博、並びにそのほうらの蟲毒・呪詛の嫌疑につき、併せて吟味をします。面を上げなさい。本日の予審は、特に太判事の奉勅命令にて行います。銀鈴、そのほうを、吟味及び処罰では“皇后扱い”はしません。これも、皇帝陛下並びに太判事のご指示です。左様心得なさい」 奉勅命令とは、官吏が皇帝の命令――勅命――に基づき、発する命令。蟲毒は虫を使って人を呪い殺すこと、呪詛は呪い一般のこと。 銀鈴の体が、軽く震えていた。銀鈴の左右の手を、彼女の両隣に居た茘娘と棗児が震える手で握った。 「はい」 銀鈴は小さくそう返事をすると、再び深く頭を下げた。 「芳雲師姉、いや、晶判事、蟲毒や呪詛って、何ですか!? わたしたちが、コオロギ相撲にお金を賭けていたのは事実です。でも蟲毒や呪詛なんてやってませんよ!」 頭を上げた銀鈴が、顔を真っ赤にして叫んだ。銀鈴は、今の自分と芳雲との関係が“仲の良い姉妹弟子”でなく、“取り調べを受ける罪人と、取り調べる判事”であることを思い出した。呼び方を「芳雲師姉」から「晶判事」と言い直した。 「そうです。銀后さまの言う通りです。確かに、私たちはコオロギ相撲にはお金は賭けました。ですが、蟲毒や呪詛なんてやってません!」 「信じてください! コオロギ相撲にお金は賭けましたけど、ほんとに蟲毒や呪詛なんてやってませんよ!」 茘娘と棗児も、銀鈴に続いて、顔を真っ赤にして叫んだ。 蟲毒や呪詛は、禁忌であり、事によっては皇帝への謀反である「大逆罪」になりかねない。そして、大逆罪の処罰は、死罪のみ。 「落ち着きなさい。順を追って説明しますから」 芳雲の威厳はあるが、どことなく労わるような声と表情に、銀鈴、茘娘、棗児の三人は、いくらか落ち着きを取り戻し、姿勢を正した。 「蟲毒・呪詛の嫌疑は、『草むらをあさっている怪しい女官が居る。これは蟲毒用の虫を集めているのではないか? それとも、呪詛の人形を埋めているのではないか?』との告発状が何通も寄せられています。被疑者は姓名不詳で、特定の女官を名指しするものではありませんでした。ただ銀鈴、告発状にある被疑者の特徴が、そのほうの容姿と一致しています。告発状にはこうあります。『小柄、鳶色の髪、二つのお団子頭』と」 芳雲は、手元の告発状を見ながら、銀鈴に告げた。 銀鈴は、驚いた顔をした。 「確かに、わたしは草むらをあさっていました。ですが、それはコオロギを探していただけです! 何でそうなったんですか!?」 「銀鈴、そのほうのところへ、芬将軍より『永巷での幽霊騒動について』との報告書がいっています。読まなかったのですか?」 「そんな報告書が来ていたような気もしますが」 銀鈴は首をかしげた。 「晶判事、確かに銀后さまのところへ、その報告書は来ていました。ただ、銀后さまは、報告書が来たころは、コオロギにご執心で。ロクに読んでいませんよ」 茘娘が口を挟んだ。 「左様ですか。告発状が提出されたころは、ここ永巷で『幽霊が出る』とウワサが強くなった時期と一致します。それで銀鈴の行動が怪しまれて、告発されたのでしょう。殊の外、幽霊に弱く、異常に怖がる者も居ますからね。コオロギ相撲賭博をやっていた空き部屋と、そのほうたち三人の居室も家宅捜索しました」 「何、勝手なことをするんですか!?」 銀鈴が芳雲に、抗議した。 「控えなさい。全て勅命に基づいて行っています。その家宅捜索では、蟲毒の虫や呪詛に使う人形の類は、一切発見されませんでした」 「当たり前ですよ。わたしたちは、蟲毒も呪詛もやってないんですから。やる必要もありませんよ」 銀鈴が、ややむくれた顔で言った。銀鈴の両脇に座っている、茘娘と棗児も大きくうなずいた。 「そのほうたちに動機はありませんよね。特に銀鈴、そのほうが陛下を害することは考えられません。側室は居ませんし、なまじ陛下を害すれば、最大の後ろ盾を失うことになります。逆に、銀鈴が陥れられることなら、まだ考えられなくもありません。しかし、後宮で銀鈴に嫉妬する者も居ません」 「そうでしょう」 銀鈴がうなずきながら、そう言った。茘娘と棗児もうなずいた。 「とはいえ、蟲毒・呪詛の告発が『自然発生したウワサによるもの』と立証するのは、骨ですわね。誰かが意図的に、ウワサを流したのなら、真犯人を見付ければ、それで済むことですが」 芳雲はここでいったん言葉を切り、机の上の折り本を手に取った。その折り本を銀鈴たち三人に見せた 「話は変わりますが、そのほうたちがコオロギ相撲をやっていた部屋で押収したのが、この折り本です。大規模なコオロギ相撲賭博大会が、近々開かれるようですね? 折り本には書いていませんでしたが、いつ、どこで開かれるのですか? 主催者は? 一回の賭け金が三万両から、とは結構な金額ですね? 折り本には結構な書き込みがあり、優勝を狙っているようですね」 その折り本の題は『コオロギ相撲大会 参加の手引き』。 銀鈴は、左右に座る茘娘と棗児と目線を合わせた。 「大会については、黙秘します」 「茘娘と棗児は、どうですか?」 「私も黙秘します」 「茘娘と同じです」 「左様ですか。なら、話を変えます。コオロギ相撲をやるにせよ、仲間うちにもかかわらず、なぜ現金を賭けていたのですか? 仲間内なら、お菓子や果物を賭ける程度でしょう」 芳雲は、尋問の内容を、「コオロギ相撲賭博大会」から「銀鈴たち三人の『仲間うち』でのコオロギ相撲賭博」に切り替えた。 銀鈴が口を開いた。 「晶判事の言う通り、最初のうちは手元にあるお菓子や果物を賭けていました。ただ、わざわざ宮市(きゅうし)に買いに行くのも面倒になって、現金を賭けるようになったんです」 宮市とは、後宮内の商店。 「そうですか。茘娘と棗児はどうですか? 今の銀鈴の陳述は、事実ですか? それとも反論がありますか?」 「はい、銀后さまが言われた通りです」 「初めのうちは、買い置いておいたとっておきのお菓子を賭けていました。ただ勝負に熱中すると、宮市まで買いに行くのも面倒になってきました」 茘娘と棗児も、順に述べた。 「では続いて、コオロギ相撲をやろうと言い出したのは、誰ですか?」 「今日の勝負に関しては、私です。私が、棗児と銀后さまを誘いました」 茘娘が、軽く手を挙げながら答えた。 「銀鈴、棗児、どうですか?」 芳雲が、銀鈴と棗児に問うた。 「今日は確かに、茘娘から誘われました。でも、前々から面白がってやったのは、わたしです。わたしが三人分の罰を受けますから、茘娘と棗児には、寛大な措置をお願いします」 銀鈴はそう言って、頭を下げた。 「銀后さまを誘ったのは、私と茘娘です。罰するなら、私たちも一緒に罰してください!」 「棗児の言う通りです。私たちも一緒にお願いします!」 棗児、茘娘も口々に叫んだ。 「落ち着きなさい。情状については、今後行われる本審で判断されます。今の発言は、きちんと記録しておきます」 芳雲はそう言って、書記役の女官を見た。書記役女官は大きくうなずいた。 「今は事実関係の調べを優先させます。いいですね?」 芳雲は、銀鈴たちにそう告げた。銀鈴、茘娘、棗児は一礼した。 「今日の勝負には、いくら賭けたのですか?」 「一回につき、二千両です」 銀鈴が答えた。 「茘娘、棗児、銀鈴の申すことに間違いはありませんか?」 「はい、その通りです」 「私も、一回につき二千両賭けました」 茘娘と棗児は、順に答えた。 「何回やったのですか?」 「私が銀后さまと、五回やりました」 茘娘が答えた。 「私も銀后さまと、五回やって、五回とも負けました」 棗児も答えた。 「銀鈴対茘娘が五回、銀鈴対棗児も五回、これに間違いありませんか? 銀鈴」 「間違いありません。その通りです」 銀鈴も、芳雲の問いにそう答えた。 「茘娘、そのほうの勝ち負けはどうなのですか?」 「私も、銀后さまと五回やって、五回とも負けました」 「左様ですか。銀鈴の一人勝ちですか。今日の勝負は、分かりました。コオロギはどうやって手に入れたのですか? 先ほどの蟲毒・呪詛の話に戻りますが」 「わたしは、草むらで探したら、コオロギのほうから寄ってきました」 「私は、虫屋で買いました」 「私も草むらで探したのですが、捕まえようとしたら、逃げられてしまって。仕方なく、虫屋で買いました」 芳雲の質問に、銀鈴、茘娘、棗児の順で、答えた。 「では、コオロギ相撲にはまったきっかけは?」 「晶判事も知ってるとは思いますが、後宮で、コオロギ相撲もそうですし、鳴き声の美しい虫や小鳥を飼うのは別に珍しいことじゃないですよ。コオロギ相撲なんて、談話室や広場、あずまやでよくやってますよ」 銀鈴がそう答えた。茘娘と棗児もうなずいた。 「なら、自然とやり始めたと?」 「その通りです」 銀鈴がうなずいた。 「では、今までの陳述を調書にまとめます」 書記役女官が、銀鈴、茘娘、棗児の陳述を調書にまとめ、芳雲に手渡した。 「これより、そのほうたちの陳述を読み上げます。よく聴きなさい。いいですね?」 「はい」 銀鈴、茘娘、棗児は、深く一礼した。 芳雲による調書の読み聞かせが終わった。 「――以上、相違ありませんか?」 「相違ありません」 「読み聞かせの通りです」 「同じく」 銀鈴、茘娘、棗児 の順に、そう答えた。 「では、調書に署名・拇印を」 書記役女官が、調書と筆、朱肉を銀鈴、茘娘、棗児に回した。銀鈴たちは、調書に署名・拇印をした。 「本日の吟味はこれまで。張銀鈴、留茘娘、程棗児の三名には、本審が終わるまで、永巷での入牢を申し付けます。理由は、逃亡、証拠隠滅の恐れがあるからです」 「わたしたちは、逃げませんよ! 証拠も隠しませんよ!」 「その通りです!」 「そうです、そうです!」 銀鈴、茘娘、棗児は、顔を赤くして、口々に叫んだ。 「鎮まりなさい。既に勅命で決まったことです」 「分かりました」 銀鈴、茘娘、棗児は、観念し、姿勢を正して、深く頭を垂れた。 「では改めて、本日の吟味はこれまで」 このひと言で、芳雲は表情を緩めて、いつもの口調に戻った。銀鈴、茘娘、棗児の三人も、ホッとして、姿勢を崩した。 「銀玲さん、茘娘さん、棗児さん、お疲れさまでした。一応、永巷には入ってもらいますけど、待遇もそこまで悪くはないので、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。この後、お風呂に入ってくださいね。本審の日は追って通知します。前日までには知らせますからね。本審の日には、きちんと髪を結って出廷してください。後で、髪結い道具などの差し入れがあるはずですから」 「ありがとう、芳雲師姉」 銀鈴は芳雲に、お礼を言った。だが、首もかしげた。 (なんか、芝居がかってたし、手回しも良過ぎない? 茶番っぽいし、遊ばれている感じもするのよね) ●銀鈴、獄中で差し入れを受け取るのこと 銀鈴、茘娘、棗児の三人は予審の後、身体検査も兼ねて、風呂に入れられた。持ち物は、着ていた女官着、かんざしをはじめ、全て取り上げられた。風呂上がりには、用意されていた、囚衣に着替えさせられた。 囚衣姿の銀鈴たち三人は、手足の拘束こそなかったものの、数珠つなぎの腰縄で、永巷の雑居房へ連行された。 「入りなさい」 秋水はそう言って、銀鈴たちの腰縄を解いた。銀鈴たちは、雑居房に入った。 雑居房は、三方が壁で、一方が木の格子。壁の一方には立ち上がっても手が届かない高さに明り取りの窓が開けられていた。三人で暮らすには、広過ぎるほどだ。 寿国では、一般的には椅子と卓、寝台の生活だ。だが、永巷では古法で、座布団と布団の生活だ。板の間にはござが敷かれ、三枚の座布団と三組の布団が用意され、脚の低い円卓が置かれていた。一角には、流し台、水瓶、桶、厠もある。 「大人しくしているように」 そう言って、秋水と娘子兵は去った。 茘娘と棗児は、銀鈴の前で正座し、深々と頭を下げた。 「銀后さま、申し訳ありませんでした。私たちが誘ったばっかりに」 「何よ、改まって? いいの、いいの。面白くて、やったのはわたしだし。それに、わたしのほうこそ、ごめんなさい。わたしが一緒でなければ、怒られるぐらいで済んだのに」 そう言って、銀鈴は茘娘と棗児に向かって頭を下げた。 「それに、皇后扱いしないでよ。予審でも『吟味と処罰では皇后扱いしない』と言われたし、そもそも皇后の自覚ないし」 銀鈴は、胸元に視線を落とし、ため息をついた。 「今のわたしは二人と同じ、裁きを受ける罪人なんだし」 胸には「囚人 張銀鈴」と書かれた名札が縫い付けてあった。 銀鈴は立ち上がって、両腕を広げた。 「私の囚衣だけ、何でこんなにボロボロなのよ。二人のは新品よね? このくたびれ具合、つぎはぎ具合には見覚えがあるわよ。『梨妙音伝(りみょうおんでん)』で、私が着ていた舞台衣装じゃない。変なところでケチケチせずに、新品を用意しなさいよ」 『梨妙音伝』とは、後宮劇団の演目の一つで、銀鈴が初めて主演を務めた作品。銀鈴が演じる新人女官の梨妙音は、主人の不興を買い、投獄され、虐待される役。 囚衣は季節柄、麻。薄灰色で、膝丈の筒袖上衣に、同色の桍(ズボン)。背中には「囚」の一字が書かれている。上衣は帯はなく、衿と身頃に縫い付けられた紐で、前を止める。背中の「囚」の字と、胸の名札を除けば、色も形も、武術着、野良着、寝衣によく使われるものだ。 「まあまあ、銀鈴。似合ってるわよ」 「『梨妙音伝』での銀鈴は、ほんとに囚人役が似合ってたわよ」 「何よ、茘娘も、棗児も。わたしがそんなに、悪人に見える? 皇后をバカにすると、後が怖いわよ? じん、いや陛下に言い付けてやるんだから」 銀鈴は、さすがに“囚人の身”で皇帝を下の名で、「仁瑜」と呼ぶのははばかるので、「陛下」と言い直した。 「さっき、『皇后扱いしないでよ』『皇后の自覚ないし』って、言ってなかった? 都合の良いときだけ、自覚あるの?」 茘娘がたしなめた。 「銀鈴の梨妙音役は、名演だったわよ。ほんとに、かわいそうで。『舞台』で大評判だったわよ」 「そうそう。『百年に一度の大型新人!』とべた褒めだったわよ。普段は結構辛口な、あの評論家が」 茘娘と棗児が、月刊誌『舞台』での、銀鈴の演技の論評を持ち出した。 「それって、ほめてるの? けなしてるの? 稽古でも本番でも、さんざん虐めてくれた、二人に言われても、妙な気分よね。あれは、演技だったの? 本気でやってなかった? 少しでも手を止めると、思いっきり笞で打つし、『暑い』とこぼしたら、『涼しくしてあげる』と言って、庭掃除で使う桶の水をぶっかけてくるし。その上、ぶっかけられて桶の水がなくなったから、くみに行こうとすると、『使う水は、一杯だけ。それが規則!』とくみに行かせてくれなかったし。しかも、水なしで、たわしで石畳を磨いてもきれいにならないのに、『きれいになってない!』と笞打ちされるし」 「そういう台本だったから」 茘娘が弁明した。 「台本、って? 二人とも、かなり悪ノリしてたでしょ? 台本も後から、結構過激になったし。桶の水をぶっかけられるのは、茘娘が出した案じゃない」 「『書き上がった台本でも、新しい案があればどんどん出しなさい』って、皇太后さまがおっしゃっているしね」 茘娘が、さらに弁明を重ねた。 「それに銀鈴。その後、悪妃にまたがって、思いっきり『お馬さんごっこ』してたでしょう。四つん這いの悪妃を鞭で打つのは当然として、生のままの人参を食べさせたり、『きれいにしてあげる』と、池の中に連れ込んで、たわしでこすったりと。他にもいろいろやったわね。あれは、見ていていてスッキリしたわよ」 「しかも、悪妃役は皇太后さまでしょう。いくら、いつも『舞台の上では、外の身分は忘れなさい』っておっしゃっていても、あそこまではできないわよ。とてもじゃないけど、畏れ多くて」 銀鈴が演じる梨妙音が、主人である悪妃を虐め返す場面について、茘娘、棗児の順に話した。 「まあ、虐められて、うっぷんがたまっていたのは、事実だけどね。皇太后さまも『遠慮せずにやりなさい』って言ってたし」 「夕餉だぞ」 木の格子越しに、秋水が声を掛けた。 「えっ、もうそんな時間? ありがとう」 銀鈴は、そう言って格子に開けられた差し入れ用の小窓から、盆を受け取った。 「牢屋の中なのに、普段とそう変わらない献立じゃない」 盆には、夕餉の主菜、棒棒鶏(バンバンジー)が大皿で盛られていた。 「何を想像してたんだ?」 秋水は、そう言いながら、副菜の茄子の甘酢炒めと瓜の漬物の盆、冬瓜の羹(スープ)入りの小鍋、白飯入りのおひつ、取り皿や箸などの食器、保温呪符が刻まれた湯入り竹筒、緑茶葉入り茶筒を雑居房内に差し入れた。 「だって、牢屋のごはんって、朝・夕の二度で、薄いお粥と漬物がひと口じゃなかったっけ? しかも、お粥は冷めきっていて、とても食べられたものじゃないのが」 「それは、『梨妙音伝』の語り(ナレーション)だろ? 芝居と現実をごちゃ混ぜにしてないか?」 秋水があきれ顔で言った。 「朝餉に、薄いお粥をひと椀、漬物ひと口食べただけで、昼餉は抜いて、銀鈴は囚人役の自主稽古してたわよね。私たちが、いくら『食べなさい!』って言っても、聞かなかったし」 「ほんとね。あの食いしん坊な銀鈴が、自分から食事を抜くなんて、信じられなかったわよ。炎天下で、庭掃除の場面の稽古をして、暑気あたりで倒れかけたわよね。凝り性というか、変なところで真面目なのよね」 茘娘と棗児が顔を見合わせた。 「じゃ、ごゆっくり」 そう言って、秋水は去っていった。 銀鈴たちは、夕餉を円卓に並べた。 「いただきます。って、二人ともそれだけでいいの? 食べられるときに食べておかないと体がもたないわよ? 囚人は体力勝負! 何かの拍子に『ごはん抜き!』のお仕置きを受けるかもしれないわよ?」 銀鈴は、茘娘と棗児の茶碗と汁椀を見て、そう言った。茘娘と棗児の茶碗と汁椀には、ほんのひと口分の白飯と羹(スープ)が盛られているだけだった。 「……それはそうだけどね。あまり食欲がなくて。それに、『梨妙音伝』に『食事抜き』の罰の場面は、あったかしら?」 茘娘は、『梨妙音伝』の場面を思い出して、首をかしげた。 「……同じく。私も食欲がなくて。銀鈴、よく食べられるわね。無邪気というか、のんきというか。本審が心配じゃないの? 賭博だけならまだしも、蟲毒や呪詛の疑いまでかかっているわよ。下手すると、大逆罪で死罪よ。何で銀鈴は、牢屋暮らしが長そうな口ぶりなのよ? 『梨妙音伝』には確か、永巷の場面はほとんどなかったはずよ。せいぜい布団とは言えないボロ布にくるまって、永巷の監房で眠りにつく場面があったぐらいよね」 棗児も、本審の心配と、銀鈴の牢屋慣れした態度の疑問を口にした。 「そうよね。いくら銀鈴が、『梨妙音伝』で囚人役をやったといっても、主な場面は板首枷をつけての晒し、公開での百叩き、悪妃宮での庭掃除の労役だからね。永巷での待遇は、せいぜい語り(ナレーション)があるぐらいだしね。案外、牢屋に入っていないのよね。まあ、かなり熱心に役作りをしてたけどね。台本はもちろん、牢屋や拷問の場面のある小説もかなり読み込んでいたわよね」 茘娘も、銀鈴が牢屋暮らしに慣れていることへの疑問を口にした。 「大丈夫じゃないの? いくらなんでも、死罪はないんじゃない? 棗児は心配し過ぎよ。ほんとに死罪もあり得るなら、今ごろわたしたちは鉄の首輪、手枷、足枷をつけられているわよ。こんなごはんも食べられないわよ。それどころか、わたしはお薬を賜って、二人は酷い拷問に遭ってるんじゃない? 賭博罪で、しばらくの牢屋暮らしや百叩きぐらいはあるかもしれないけどね。だいたい、お芝居の裁判監修は、越先生と芳雲師姉よ。重罪人扱いなら、こんな良い待遇はないわよ。梨妙音の牢屋での扱いは、現実の重罪人か、それよりももっと酷かったんじゃない?」 『梨妙音伝』での梨妙音は、監房外での労役中はもとより、監房内でも常に鉄の首輪、手枷、足枷をつけられていた。 この場合の「薬を賜る」とは、皇帝が毒薬を届けて、自決を命じること。 「予審で芳雲師姉は、『蟲毒・呪詛の告発が「自然発生したウワサによるもの」と立証するのは、骨ですわね。誰かが意図的に、ウワサを流したのなら、真犯人を見付ければ、それで済むことですが』って言ってたじゃない? 賭博はともかく、蟲毒と呪詛の分は、芳雲師姉も、越先生も、それに仁瑜、じゃなかった、陛下も味方よ。蟲毒・呪詛のウワサは、あの三人が何とかしてくれるじゃない」 銀鈴は、そう言いながら、濃厚な味噌味の棒棒鶏をほおばった。 「拷問に遭わなかったどころか、お風呂に入らせてもらえたわよ。お芝居や小説での重罪人は、お風呂はもちろん、体をふくことすら許されず、拷問に遭って、体は傷だらけ、垢まみれじゃない? 髪も結うことも梳(と)くこともできず、垂れ髪か、短く切られるんじゃない? 芳雲師姉も、予審でこう言ったわよね。『この後、お風呂に入ってくださいね』『本審の日には、きちんと髪を結って出廷してください』と。死罪があるなら、判事がわざわざ罪人に『身だしなみを整えなさい』って言う? 重罪人を見せしめにするなら、思いっきりみじめな恰好をさせるんじゃないの? それに、予審での芳雲師姉のあの態度は、わざとよ。裁判場面の演技指導で、越先生も、芳雲師姉も、『実際にはこんなことはしない。けど舞台は、舞台映えを優先すれば良い』が、口ぐせでしょう。あれは絶対、遊んでるわよ。あの二人も、『たまには舞台のような取り調べをやってみたい』って言っていたし」 「それもそうね。芳雲師姉たちを信じましょ」 「やっぱり経験者は違うわね。ほんと銀鈴は、肝が太いわ。銀鈴と一緒で良かったわよ。何かの拍子に永巷に入れられるにしても、私と茘娘だけだったら、待遇が良くて、拷問されなくても、精神的に結構参ってたわ」 茘娘と棗児は、そう言って、自分たちの茶碗と汁椀に、白飯と羹を注ぎ足した。 銀鈴たちは、夕餉を食し終わった。そして円卓の上の食器を片付けた。 茘娘が、三人分の背の高い湯呑に直接茶葉を入れ、湯を注ぎ、皆に配った。 三人とも、茶葉が沈むまで待ち、茶をすすっている。 そこに、秋水に伴われ、緑色の女官着を着た二人の少女がやって来た。 「皆さん、お元気?」 二人組の女官のうち、年下の十四歳ぐらいの女官がそう言った。 「えっ、こんな子居たっけ?」 雑居房の中で、最年長の茘娘が疑問を口にした。 後宮の住人で、最も年下なのは、銀鈴である。 銀鈴、茘娘、棗児は、この少女女官の顔を見て、一斉に居住まいを正した。そして、深々と頭を下げようとした。 「あっ、待って待って! わたしたちはあくまでも『薛総女官長さまのお使い』だから! いいわね! 銀玲さん、こっちへ」 年下の少女女官が叫んだ。 薛総女官長は、姓を薛(せつ)、名を霜楓(そうふう)。女官・宮女の頂点に立つ総女官長に、銀鈴と皇太后の侍女頭を兼ねる。茘娘と棗児にとっては、直属の上司。 「はい」 呼ばれた銀鈴は、格子の側へ行った。 「なんでまた、そんな格好してるのよ? あんたは、わざわざ女装しなくても、“女”に見えるわよ。名前も呼ばれたくないようだから、あえて呼ばないけど」 銀鈴は、二人組女官のうち、十八歳ぐらいの年上の女官に小声で言った。 この二人組女官の正体は、年上のほうが仁瑜、年下のほうが皇太后である。 「察しが早くて助かる。仕方ないだろ? 立場上、私たちも、表立って来るわけにはいかない」 「でも、すぐバレるんじゃ?」 「すぐバレる。二人とも、ここでは顔を知られている。だがタテマエ上、『薛総女官長さまの使い』にしておかないといけない」 「そうはそうと、早くここから出してよ、お姉さま。何よ、この茶番は? わたしたちを永巷に放り込んで、遊んでない? だいたい、やってることが大げさ過ぎるわよ。せいぜい物置部屋に閉じ込められるとか、長くて半日、木の床の上で正座させられるとか、それぐらいで済むことでしょ。わざわざ裁判形式でやるなんて、どういうこと?」 銀鈴が、甘えたような、すねたような声を出した。 「都合良く、妹にならないでくれ。賭博をやったのは事実だろ? ちゃんと罰を受けろ。さすがに見逃せぬ。蟲毒と呪詛はやってないだろ? 草むらをあさっていたのが気味悪がられたのは無理もないが」 女官に化けた仁瑜が銀鈴に、“妻”に対するというより、“生意気だが、かわいい妹”をなだめるような口調で言った。 「その通りよ。蟲毒と呪詛なんて、やってないわよ。その必要もないしね。ありがとう、信じてくれて。でも見逃せぬ、って、わたしたち三人の賭博? それとも『コオロギ相撲大会』のこと? 大会のことは、拷問されても言わないわよ」 「拷問なんて、しないし、させんぞ。だいたい、忠元師兄も『拷問で自白を取るのは、「取り調べが下手」と大声て言っているようなもの』といつも言ってるぞ。大逆罪ならともかく、賭博罪は計画の段階で処罰する規定はない」 「ははん、そういうことね? だったら、生贄になってもあげてもいいわよ。その代わり、高く付くわよ? それでもいい?」 銀鈴は、企みの笑みを浮かべた。 仁瑜は何も言わず、苦笑するばかりだった。 「皆さん、『薛総女官長さま』からの差し入れを持って来ましたわ!」 皇太后が化けた年下女官が声を張り上げた風呂敷包みを雑居房へと差し入れた。 「ありがとうございます」 銀鈴たち三人は、そう言って頭を下げた。 「じゃ、私たちは帰るから。足りない物があったら、『薛総女官長さま』宛てに書付を書いて、牢番に渡してね。すぐ差し入れるわよ」 皇太后はそう言って、仁瑜と帰ろうとした。 「ちょっと待ってください。早速ですが、法令集と後宮太学の刑律の教科書など、刑律、特に賭博罪と大逆罪の解説書、『後宮規則便覧』を、差し入れてもらえませんか? それも今夜じゅうに」 銀鈴は、皇太后が頼んだ。 「あら、勉強熱心ですわね。すぐ差し入れますわよ」 「よろしくお願いします」 銀鈴は、皇太后にお辞儀をした。 今度こそ、皇太后と仁瑜は帰っていった。 「今の二人は?」 茘娘と棗児が、同時に口を開いた。 「あくまでも今の二人は、霜楓師叔(ししゅく)のお使いだから! いい?」 銀鈴は、そう叫んだ。 薛霜楓総女官長は、先代帝師の門下で、当代帝師の妹弟子。銀鈴、茘娘、棗児からは叔母弟子に当たる。また、銀鈴が後宮太学に応募した際の、二次面接官。 「そうよね。あくまでも、あの二人は薛総女官長さまのお使いよね」 茘娘と棗児は、大きくうなずいた。 「それにしても、皇太后さまって、おいくつなの? 銀鈴と同じぐらいの年のときのこともあれば、百歳越えのお婆さんのときもあるわよ。銀鈴、聞いてない?」 棗児は、皇太后の年齢を銀玲に尋ねた。 銀鈴は、十四歳。 「聞いてないわよ。じん、いや陛下にも聞いたことがあるけど、『知らない』って言っていたわよ。それも『母上の年には触れてはいけない』ともね。陛下は、皇太后さまの実の息子だから、皇太后さまは陛下よりは年上なのは間違いないんだけど。わたしと同じ年ごろの格好だと、どうも調子が狂うのよね」 差し入れの風呂敷包みを開いた。中身は、銀鈴たち三人分の洗面道具、髪結い道具、文房具、本や雑誌、氷風扇などである。その中に、お守り袋が三つあった。 そのお守り袋には、「常に、肌身離さず身につけておきなさい。薛霜楓」との書き付けが添えてあった。 「この書き付けは、霜楓師叔の名前だけど、筆跡は皇太后さまよ。何で? わざわざお守りを?」 銀鈴が、書き付けを見て、怪訝な顔をした。 「そうね。なんか妙よね。効き目も書いてないし。普通は効き目は書いてあるはずなのに。いったい何のお守りなのよ?」 「今、私たちがほしいのは、『免冤罪(めんえんざい)』『訴訟必勝(そしょうひっしょう)』のお守りだけど」 棗児、茘娘の順に、お守り袋の疑問を述べた。 『免冤罪』は冤罪を免れる効果、『訴訟必勝』は裁判に勝つ効果。 「これには、単に『お守り』としか書いてないわね。ひょっとして、『鎮亡者(ちんもうじゃ)』『解精邪厄(かいせいじゃやく)』『生霊不来(しょうらいふらい)』『鎮奇怪(ちんきかい)』あたりかしら? ここ(永巷)って、最近、幽霊が出るってウワサが強くなってるじゃない。わざわざ『常に、肌身離さず身につけておきなさい』って、書き付けが添えてあるぐらいだし」 茘娘はそう言いながら、お守り袋の表と裏を子細に見た。 『鎮亡者』は亡者を鎮める効果、『解精邪厄』は悪霊から身を守る効果、『生霊不来』は生霊を避ける効果、『鎮奇怪』は奇怪現象を鎮める効果である。 「それどころじゃなくて、忘れかけてたけど、規律違反の罰で、ここ(永巷)の幽閉房の掃除をやらされた女官や宮女たちが、ほんとに怖がってたわよね。私たち、大丈夫なの?」 棗児は怯えた顔をした。 幽閉房とは、特別な重罪人を収容する独房。 そう言いながらも、銀鈴たち三人は、お守り袋を首から下げた。 「幽霊の話ね? そういえば、秋水がそんなことを言っていたわね。誰かが怪我をしたわけでないから、それほど気にしてなかったけど」 「気にしてない、って、秋水からの『永巷での幽霊騒動について』の報告書があったでしょう。報告書は、ちゃんと読まないとダメよ」 茘娘が『永巷での幽霊騒動について』の報告書について言った。 「後宮の管理って、皇后の仕事なのよね。私たちがここ(永巷)に入れられたのは、銀鈴が“皇后の仕事”をサボってたからじゃないの? その罰かもよ? 賭博は口実で。私と棗児はそのとばっちりだけど。最近の銀鈴は、コオロギにご執心だったし」 棗児も、後宮の管理は皇后の仕事と言った。 「それだったら、なおさらごめんなさい。今度から報告書はちゃんと読むから」 銀鈴は、茘娘と棗児に頭を下げた。 「薛総女官長さまからの差し入れです」 牢番が風呂敷包みを雑居房内に差し入れた。 「ありがとう」 銀鈴は、風呂敷包みを受け取り、中身を円卓に広げた。 「さっき何かを頼んでいたようだけど、法律書だったの?」 茘娘が広げられた中身を見ながら言った。 「そう。少し勉強しておいたほうがいいわよ。わたしたちは、“賭けコオロギ相撲”流行防止の見せしめで、“生贄”にされそうなのよ」 「“生贄”?」 茘娘と棗児が、同時に怪訝な声を出した。 「予審でコオロギ相撲大会のことを聞かれたじゃない? さっきの“霜楓師叔のお使い”も言ってたわ。『大逆罪ならともかく、賭博罪は計画の段階で処罰する規定はない』と。わたしたちを見せしめの生贄にして、越先生も、陛下も、大会をつぶすつもりよ。もっとも、蟲毒と呪詛は信じていないようだけど」 「それで、銀鈴はどうするつもり?」 棗児が銀鈴に尋ねた。 「この茶番劇、仕方がないから付き合ってあげるわよ。ただし、後で出演料を思いっきりふんだくってやるんだから」 「ほんと、悪女よね、銀鈴。かわいいんだけど。それで一応、法律の勉強を。分かったわ。私もこの茶番劇に付き合ってあげる」 茘娘が差し入れられた後宮太学の刑律教科書を手に取りながら言った。 「ありがとう。演じるんなら、一通りの法律も勉強しておくわ」 銀鈴は、茘娘にお礼を言った。 「私も付き合うわよ。でも、私たちを裁くのは越先生よ。後宮太学の刑律教科書のほかにも、ここにある法律書の何冊かは越先生が書いたものよ。一夜漬けで、勝てるかしら?」 棗児も、円卓の上の法律書を手に取りながら言った。 「棗児もありがとう。そりゃそうだけど、やれるだけのことはやらないと気が済まないわよ」 銀鈴はそう言いながら法律書を手に取った。 「ほんと、銀鈴は凝り性ね」 棗児がそう言った時、就寝合図の鉦がなった。 「もうそんな時間? 布団を敷いて寝ましょ。難しい本は、一晩寝て頭をスッキリさせて、朝のうちに読むのがいい、って聞くしね。芳雲師姉も、『本審の日は追って通知します。前日までには知らせますからね』と言ってたしね。明日は、本審はないんじゃない?」 茘娘が、銀鈴と棗児にそう勧めた。 「そうね」 銀鈴と棗児はうなずいた。 銀鈴たち三人は、布団を敷いた。 「じゃ、灯を消すね。お休み」 そう言って、銀鈴は灯を消し、横になった。 ●銀鈴、茶番裁判に付き合うのこと 予審の数日後。 麒麟殿(きりんでん)。黄色の瑠璃瓦に、真朱の柱と壁の木造宮殿が立ち並ぶ後宮の中心にあり、正月、皇帝、皇后、皇太后の生誕祭、その他季節の儀式が執り行われる、重要な建物。 その麒麟殿の玉座の前に、本審のため、銀鈴、茘娘、棗児の三人は、数珠つなぎの腰縄で、引き据えられていた。三人とも、囚人とはいえ毎日入浴が許され、予審で芳雲に言われたように、きちんと髪を結っていた。 ここ数日間、永巷の雑居房に閉じ込められていた銀鈴たち三人は、法律書を読みあさっていた。 特に銀鈴は、「牢屋の中だと、難しい本も良く頭に入るわ。他にやることはないし、逃げられないから、諦めがつくのよね。お茶もお菓子も、言えばいくらでも差し入れてくれるし。勉強をするなら、最高の環境よね」とのんきなことを言っていた。 「傍聴に来るように」とのお触れが出されていたので、立ったままの大勢の傍聴人が居る。玉座に近い順に、紫――一品―三品官の色――の女官着の薛総女官長、緋色の女官着の四、五品官の女官、緑――六品―九品官―色の女官着の女官、青色の宮女着の宮女。 「皇帝陛下、皇太后陛下、御出座〜!」 銅鑼が打ち鳴らされ、女官の声が響き渡った。 この声を合図に、床に正座していた銀鈴たち三人は、手をつき、深く頭を垂れた。傍聴人たちも、一斉に拱手の礼をした。 仁瑜と、皇太后が、忠元、芳雲、書記役女官を従えて入って来た。 仁瑜と皇太后は、五段の階段を昇り、壇の上の玉座に就いた。壇の上には、皇帝の玉座を中央に、右には皇太后の玉座、左には皇后の玉座が置かれている。ただし、今日は当然、皇后の玉座は空席だ。 仁瑜は、鮮やかな黄色である山吹色で、胸には緑色で龍のししゅうがある、文官朝服と同型の袍を着ていた。皇太后は、山吹色よりはやや落ち着いた黄色である山吹茶色で、胸当て付きの足首丈の裙(スカート)に、前を合わせずに着る広袖の上衣をまとっていた。 判事朝服――襟元と袖口の縁取りと胸の解豸のししゅうは紫――に黒い頭巾をかぶった忠元と、判事朝服姿の芳雲は壇の右下に、書記役女官は左下に着座した。 忠元は、笏を机に二度叩き付けた。そして、姿勢を正し、威厳のある声を張り上げた。 「役儀により言葉を改める。さてこれより、張銀鈴、留茘娘、程棗児による、コオロギ賭博、並びに同人らによる蟲毒・寿所の嫌疑につき、併せて本審を行う。本日の吟味は、特に勅命を賜り、皇帝陛下、皇太后陛下のご親臨のもとである。左様心得よ。一同、面を上げい」 銀鈴たち三人は、頭を上げた。 「特に銀鈴、吟味及び処罰では“皇后扱い”はせぬ。予審の際にも聞いておろうが、改めて申し置く」 「はい」 銀鈴は一礼した。 顔を上げた銀鈴は、上目遣いに玉座の壇を見た。長湯上りのようなのぼせた顔になった。 (皇帝の格好をしているときの仁瑜はほんとに格好いいのよね。うっとりするほどの芸術作品だわ。皇太后さまも、いつもこれぐらいの年でいてくれればいいのに。私と同じぐらいの年恰好をされると、調子が狂うのよね) この場の皇太后は、三十代半ばから四十代半ばの年恰好。黒髪を頭頂部で大きな一つの団子にまとめ、簡素なかんざしを一本刺していた。その姿は、まさに良家の賢夫人。 忠元が、笏を鋭く一度、机にたたきつけた。その音で、銀鈴は表情を引き締めた。 (茶番裁判劇に付き合ってあげてるんだから、もう少しゆっくりと、仁瑜を鑑賞させてくれてもいいんじゃない? それに、随分芝居がかった物言いね、この腹黒閻魔は!?) 銀鈴は、無言で忠元に毒づいた。忠元の格好は、閻魔そのものだ。 「書記は、予審調書の朗読を」 忠元が、書記役女官に命じた。 書記役女官は、起立し予審調書を読み上げた。 「今しがた読み上げたる、予審調書に相違なきや? また、申し立ての儀はありや?」 忠元は、銀鈴たち三人に問うた。 「相違ありません」 銀鈴が答えた。 「茘娘、棗児、そのほうらは、いかに?」 「予審調書の通りです」 「間違いありません」 「左様か」 「一ついいですか? 越師兄、いや太判事」 「申し立ての儀があるか? 銀鈴」 「はい。わたしたち三人が、あの日にお金を賭けてコオロギ相撲をやっていたのは、事実です。ただ、茘娘と棗児に誘われたとはいえ、面白がってやってのは、わたしです。私が止めていれば、こんなことにはなってなかったんです。わたしが三人分の罰を受けますから、茘娘と棗児には、寛大な措置をお願いします」 銀鈴はそう申し立てて、額を床にこすりつけた。 「銀鈴は、このように申しておるが、茘娘、棗児はいかに?」 「私と棗児が、銀后さまを誘いました。私たちが誘わなかったら、銀后さまも賭けコオロギ相撲をすることはなかったんです。罰は私も受けます!」 「そうです。私も誘いました。銀后さまや茘娘に責任を押し付けて、自分だけ助かるつもりはありません。罰するなら、私も罰してください!」 茘娘と棗児も、順に叫び、深々と頭を下げた。 「三人とも、面を上げよ。特に誰かが主導したわけでなく、自然発生的に賭けるようになった、と理解しておる。話を変えるが、予審で黙秘した『コオロギ相撲大会』について、この場でも話す気にはならぬか?」 「大会については、予審同様、黙秘します」 「私も黙秘します」 「私もです」 忠元の問いに、銀鈴、茘娘、棗児の順に答えた。 「左様か。話す気はないか。なら無理には問わぬ」 忠元はいったん言葉を切り、笏で机を叩き、声を張り上げた。『コオロギ相撲大会 参加の手引き』の折り本を銀鈴たち三人、そして傍聴人に見せるように掲げた。 「そのほうらがコオロギ賭博をやっていた部屋から押収した『コオロギ相撲大会 参加の手引き』によれば、一回の勝負の賭け金は『三万両』とある。かなりの金額ではないか? 宮女の月俸でも、五回で半月分、十回でひと月分ではないか? 最初のうちは、菓子や果物を賭ける程度だったとの由。それぐらいにしておけば良かったものを。あるいは当番を代わってもらうとか。現金を賭けるというのは、さすがに見過ごせぬ。後宮の場合は、衣食住の現物支給があるので、無一文になったからといって、直ちに困るわけではないが。親しい者同士での金銭の貸し借りは、後で大きな禍根になることもある。その原因になりかねない。金の貸し借りはしないのがいちばんだ。どうしても貸さざるを得ないのであれば、『あげた』つもりでいることだ。『貸した』のであれば、『返って』こなければ不満になる。『あげられる』金でなければ、貸してはいけない。また、借りた以上は必ず返さなければならない。万一、返せなくなる可能性があるのであれば、貸主に直ちに打ち明けて、相談すべき。ただ、コオロギを飼い、相撲をさせること自体を咎めているわけではない。コオロギ相撲は、我が国の伝統的文化である。それ自体は構わぬ」 (何よ、このお説教? わたしたち三人に向けて、というより、後ろの傍聴人向けじゃない。やっぱり、見せしめの生贄ね。後で、生贄代をふんだくってやるんだから。このお芝居の出演料は、高いわよ) 銀鈴は、無表情で忠元の説教を聞いていた。 「ついで、銀鈴、茘娘、棗児の蟲毒・呪詛の嫌疑についてである。書記は、この三人の居室の家宅捜索時の、押収品目録を朗読するように」 書記役女官は、起立し押収品目録を読み上げた。 「以上、押収品目録の通り、そのほうらの居室から、蟲毒の虫も、呪詛の道具も、一切発見されなかった」 「当たり前です。わたしたちは、蟲毒も、呪詛もやっていません! コオロギ探しで草むらをあさっていただけです! わたしたちが蟲毒や呪詛をやって何の得があるんですか!? 特にわたしが陛下を害する必要は、あるんですか!? そんなことをしたら大損になるだけじゃないですか!」 銀鈴は、壇上の仁瑜を見上げながら声を張り上げた。 「それはその通りだ。銀鈴が、私、いや朕を害するとは考えられない」 仁瑜は、銀鈴と視線を合わせた。 「銀鈴、茘娘、棗児の三人が蟲毒や呪詛をやったとは、考えられません。そもそもこの三人には、動機がありません。ましてや、陛下やわたくしを害しても、損はすることはあっても、何の得もありません」 特別声を張り上げたわけではないが、傍聴人一人ひとりにもはっきり聞こえる、凛とした声で、皇太后は述べた。 傍聴人からは、「それもそうよね」といった声もあがった。 「すまない。続けてくれ、太判事」 「はい。茘娘と棗児はいかに?」 忠元は、仁瑜に会釈して、茘娘と棗児に問うた。 「予審でも言いましたが、私たちは蟲毒も、呪詛もやっていません。銀后さまの言う通りです! 蟲毒も呪詛もやる必要なんて、ないんです! 陛下や皇太后さまのおっしゃる通りです!」 「そうです。やってません。何で、私たちがそんなのやらなきゃいけないんですか!?」 茘娘、棗児も、順に叫んだ。 「三人とも、鎮まれ。蟲毒・呪詛の告発人を呼んである。告発人より、この場にて話を聴く。告発人はこちらへ」 告発人入るなり、銀鈴たち三人の目の前にひざまずき、手をついて、泣き叫んだ。 「申し訳ございません。怪しい女官が、まさか銀后さまだったとは。永巷での幽霊のウワサもありましたので」 「いいの、いいの。わたしたちが捕まったのは、あくまでも『コオロギ相撲賭博』だから」 銀鈴は告発人に、そう言った。 「告発人、立ってください」 忠元が告発人に、そう呼び掛けた。 告発人は、立ち上がり、懐から手ぬぐいを取り出し、涙をぬぐった。 「告発人に尋ねます。告発状にある『怪しい女官』が、何をしていたのかを、話してください」 「はい。『怪しい女官女』は、草むらをあさっていました」 「その草むらあさりでは、何をしていたのかを見ましたか?」 「『怪しい女官』は、虫取り網を持っていました。そして、地面にはいつくばっていました」 「何の虫を捕まえたかを見ましたか?」 「いえ、そこまでは見ていません」 「そうですか」 忠元は、視線を告発人から、銀鈴、茘娘、棗児に移した。 「銀鈴、茘娘、棗児、そのほうたちは、コオロギはどうやって手に入れたのか?」 「わたしは、草むらで探したら、コオロギのほうから寄ってきました」 「私は、虫屋で買いました。草むらで探す時間がなかったので」 「私は、草むらで探したのですが、捕まえようとしたら逃げられたので、虫屋で買いました」 忠元の問いに、銀鈴、茘娘、棗児の順で答えた。 「茘娘、棗児の居室からは、虫屋の領収書と『コオロギの育て方』との虫屋の小冊子も見付かっておる。告発人も、そのほうたちがどの虫を集めていたのかを、はっきり見ていない。その上、虫屋の領収書と小冊子もある。蟲毒用の虫を集めていたとは考えにくい。書記は、虫屋の領収書と小冊子を皇帝陛下、皇太后陛下にお見せして、その後傍聴人に縦覧させるように」 書記役女官は、忠元から虫屋の領収書と小冊子を受け取り、仁瑜と皇太后に見せた。その後、虫屋の領収書と小冊子を盆にのせ、傍聴人たちの間を練り歩いた。 忠元に、虫屋の領収書と小冊子が戻された。 「銀鈴、茘娘、棗児、そのほうたち、他に申し立てはないか? なければ休廷し、休廷中に、皇帝陛下、皇太后陛下のご聖断を拝するが」 「ありません。言うべきことは、言いました」 「私もです。申し立てはありません」 「同じく。言うことはありません」 銀鈴、茘娘、棗児の順に返答した。 「これにて、いったん吟味を打ち切り、休廷とする」 忠元は、笏で机を一度打ち、そう宣した。 休廷開け。銀鈴、茘娘、棗児は壇の下、正面。仁瑜と皇太后は、壇上の玉座。忠元、芳雲、書記役女官も壇の下の机に着いた。大勢の傍聴人も、戻ってきていた。 忠元が、笏で二度机を叩き、声を張り上げた。 「では、再開する。休廷中に、皇帝陛下、皇太后陛下のご聖断を拝したので、直ちに裁きを申し渡す」 銀鈴、茘娘、棗児は、床に手を付き、深く頭を垂れた。 「張銀鈴、留茘娘、程棗児に、コオロギ賭博及び後宮を騒がせた咎にて、後宮懲罰令による、永巷での労役を申し付ける。期間は当分の間とする。押収したる賭け金は全額没収す」 「ちょっと、越先生、いや太判事! いくら何でも罰が重すぎます! 量刑不当ですよ! わたしたちがやったことは、『単純賭博』で、せいぜい罰金か笞打ちでしょう! それに、『期間が当分の間』って何ですか!?」 忠元が刑を宣告するや、銀鈴は頭の上から湯気が出るほど顔を真っ赤にして、叫んだ。 「銀鈴、控えい! そのほうらがここのところ法律を勉強していたのは、知っておる。それ自体は感心である。ただ、『生兵法は大怪我の基』。先ほどの申し渡しを、ちゃんと聞いておったのか? 単純賭博罪の罰則が『罰金または笞刑』なのは、『刑律』。そのほうたちの罰は、後宮内部限りの『後宮懲罰令』に基づくもの。扱いとしては、門限破りや無断外泊の場合と同じである」 忠元はここで言葉を切った。判決書を手に申し渡しを続けた。 「申し渡しはまだある。最後まで聴け。では、改めて申し渡す。銀鈴、茘娘、棗児の蟲毒・呪詛の嫌疑は、嫌疑がないものと認む。蟲毒・呪詛の嫌疑は、永巷での『幽霊出没』のウワサと時機が重なり、自然発生したものである。また、銀鈴、茘娘、棗児の三名には、蟲毒・呪詛を行う動機も認められぬ」 「当然です。わたしたちは、蟲毒も、呪詛もやってないんですから。まあ、草むらをあさっていた、わたしが怪しまれて、気味悪がられたのは、仕方ないですけどね」 銀鈴は、表情と声に不満をにじませながらも、そう言った。 忠元は軽くうなずいた。そして、一段と声を張り上げた。 「これにて、銀鈴、茘娘、棗児による、コオロギ賭博事件、及び蟲毒・呪詛の件は、落着! この者どもを引き立てい!」 銀鈴、茘娘、棗児は、秋水と娘子兵に引き立てられた。 ●銀鈴、労役に服するのこと 本審の翌朝。 起床の銅鑼が鳴った。 銀鈴たちは、目を覚まし、布団を畳み、身支度を整えた。 頃合いを見計らって、朝餉が差し入れられた。献立は、大皿に盛られた干しぶどうと黒糖を練り込んだ蒸し立ての花捲(ホワジュアン)、温かい豆乳、豆乳に入れる砂糖。花捲(ホワジュアン)とは、肉まんの生地を餡を包まずに渦巻き状に丸めた麺麭。 銀鈴が、黒糖の素朴な甘さをただよわせている花捲(ホワジュアン)の皿を円卓に置いた瞬間、花捲(ホワジュアン)が空中に浮かび、消えた。 「えっ、何で!? 幽霊? ちょっと待ちなさいよ、朝餉!」 黒糖花捲(ホワジュアン)を楽しみにしていた銀鈴は、怒った。 「ウソでしょう!?」 「やっぱり出るのよ、幽霊!?」 茘娘、棗児の順に叫んだ。 「でも、まだ朝よ」 茘娘が、そう言った。 「それはそうと、朝餉が豆乳だけ、じゃ足りないわよ。花捲(ホワジュアン)じゃなくてもいいから、何か代わりになる物を持ってきてもらわないと」 銀鈴はそう言うと、鈴を鳴らして、牢番を呼び出した。 「何かご用です?」 「朝餉の花捲(ホワジュアン)が急に消えたのよ。代わりを持ってきてくれない?」 「花捲(ホワジュアン)が急に消えた? そんなことがあるわけないじゃないですか。もう食べちゃったんですか? さっき持ってきたばっかりじゃないですか。規則でお代わりはなしですよ」 「誰も、ひと口も食べてないわよ。ウワサの幽霊の仕業よ!」 銀鈴がそう叫び、茘娘と棗児がこれに続いた。 「ほんとですよ。私たちは、ウソを付いていません」 「そうです。銀鈴が、円卓に花捲(ホワジュアン)の皿を置いたら、急に消えたんですから」 「幽霊? 確かに幽霊のウワサはありますけど、物がなくなったり、誰かが怪我をしたりということは、ありませんけどね。あまりウソを付いて、余分に食事をせしめようすると、獄則違反で懲罰ですよ。もうすぐ労役の時間です。早く支度なさい」 そう言って、牢番は帰った。 「ウソは付いてないのに。秋水が来たら、直談判ね」 銀鈴は、そうため息を付いた。 秋水がやって来た。 「三人とも、出なさい。労役の時間だ」 「ねえ、秋水。朝餉の花捲(ホワジュアン)が消えたのよ。何でもいいから、代わりをくれない? 幽霊が出たみたいなのよ。さすがに、豆乳だけじゃもたないわ」 銀鈴が秋水を、甘えた声で両手を合わせて拝んだ。 「芬将軍、何とかなりませんか?」 「私たちは、ウソを付いていません。ほんとに消えたんです。お願いします」 茘娘と棗児も加勢した。 「その件なら、さっき牢番から聞いたが。幽霊のウワサは、それがしも調べたが、特に何もなかったぞ? 食事は、規則通り出したのだから、お代わりはなしだぞ。さあ、早く出なさい。三人とも、手ぬぐいを忘れないように」 秋水はそう言って、雑居房の扉を開けた。 「……分かったわ」 銀鈴は、ため息をついて、手ぬぐいを首から下げて、雑居房の外に出た。 (秋水は堅物だから、やっぱり無理だったわね) そして、銀鈴は秋水の前に、両腕を揃えて差し出した。 「何だ、その両腕は?」 「えっ? 囚人は労役のときには、首輪、手枷、足枷をつけられるんじゃなかったっけ?」 「それは、『梨妙音伝』でのことだろ? つけてほしいのか?」 「そうじゃないけど。牢番に逆らうと、扱いが酷くなるから」 銀鈴は、ホッとした表情で腕を下ろした。 「それで、さっきの花捲(ホワジュアン)のことも、銀鈴にしては随分あっさり引き下がったのか? 台本や役作りに読んだ小説がしみ付いているのか? 役者にとって必要なことだし、それがあってのあの名演だった。こちらの言うことに、大人しく従ってくれるのは、助かる。茘娘と棗児も、出なさい」 「はい」 茘娘と棗児も、首に手ぬぐいをかけて、監房から出てきた。 「労役って、具体的には聞いてないけど、何をすればいいの?」 「ここ(永巷)の中庭の掃除だ」 銀鈴の問いに、秋水が答えた。 秋水は、銀鈴、茘娘、棗児に笠とほうきを配った。 「えっ? それだけ? もっと酷いことをされるんじゃないの?」 銀鈴は、意外そうな顔をした。 「何を考えてるんだ?」 秋水は銀鈴に問うた。 「わたしたちって、賭けコオロギ相撲大会潰しの見せしめで、生贄よね? それだったら、こんな人目のない永巷の中庭なんか掃除させないで、同じ掃除でも、もっと人目のある所をさせられるんじゃない? 例えば、宮市の前とか、通用門の前とか。それも、少しでも手を止めたら、笞で打たれたり、水をぶっかけられたりするんじゃないの? こんな中途半端なことで、見せしめの効き目があるの? ほんとに見せしめにする気あるの? 見せしめなら、昨日の茶番裁判の場で、思いっきり笞打ちにすれば済んだことじゃない。妙に手間を掛けているわね。そのわりに効果がなさそうで、なんか裏があるんじゃない?」 「銀鈴、また梨妙音に入り込んでないか? 君はどうも、役と同化しやすいタチで、少々心配だ。茘娘、棗児、銀鈴が役に入り込み過ぎないように、気を付けていてくれ」 「分かっているわよ、秋水。気を付けておくから」 茘娘が秋水にそう言うと、棗児もうなずいた。 永巷の中庭。 真ん中に中庭があり、四方を建物で囲い、南側に門を開けるという「四合院(しごういん)」造り。中庭を囲む建築は、寿国建築の基本。宮殿、寺院、役所から、大商人のお屋敷や一般庶民の家まで、皆中庭を囲んでいる。 銀鈴、茘娘、棗児は、秋水から渡された笠をかぶり、ほうきを手に、はき掃除をしていた。 見張りの娘子兵が場を外した。 甘い香りが、空腹で敏感になっていた銀鈴の鼻を刺激した。 (お腹すいた。さすがに豆乳ひと椀じゃ、足りないわよ。何、この甘い香りは?) 銀鈴は、花の蜜に吸い寄せられる蜜蜂のごとく、イチジクの木に吸い寄せられた。そして、辺りを見回した。 (牢番は、誰も居ないわね。どうせ普段使っていないし、少しぐらい採ってもいいわよね? 豆乳ひと椀じゃ足りないし) 銀鈴は、食べごろのイチジクの実を採って、首から下げていた手ぬぐいに包んだ。 「茘娘、棗児、少し休みましょ? 誰も居ないし」 銀鈴はそう言って、茘娘と棗児を、屋根から張り出した軒下の日陰に誘った。朝とはいえ、良く晴れて、日差しは強かった。 「大丈夫? 勝手なことをして」 茘娘が疑問を口にした。 「まっ、いんじゃない。見張りは誰も居ないし」 銀鈴が答えた。 「食いしん坊の銀鈴じゃないけど、豆乳一杯だけで、この暑さの中での庭掃除はキツイしね。少しだけならいいんじゃない?」 棗児も、銀鈴の提案に乗っかった。 銀鈴、茘娘、棗児は、軒下の日陰に座り込んだ。 「これ、食べましょ」 銀鈴は、手ぬぐいを広げてイチジクを勧めた。 「どうしたのよ、このイチジクは? いくら裁判が茶番だからといっても、私たちは一応、労役を科された囚人なのよ」 茘娘が銀玲に聞いた。 「仕方ないじゃない。朝餉の花捲(ホワジュアン)が消えたんだから。もう採っちゃったんだし、今さら戻しようもないわよ。食べないともったいないでしょ。普段使っていない、永巷の中庭のよ。誰かのものでもないわよ」 「それもそうね」 「そうよね」 茘娘と棗児はうなずいた。 「やっぱり、採れたてのイチジクはおいしいわ」 銀鈴はイチジクを口にした。それを合図に、茘娘と棗児もイチジクを食べた。 「さっき秋水にも言ったけど、労役が何で、永巷の中庭掃除なのよ? こんなんで見せしめになるわけ? 中途半端なのよね? 昨日の茶番裁判の場で、笞打ちにしたほうが、手間も掛からず、見せしめになるわよ」 銀鈴が、労役の疑問を口にした。 「それもそうよね。こんな人目のない所で、労役をさせられても見せしめにならないわよね。掃除なら、私たちもいつもやってるし、罰にもならないわよ。ここ(永巷)の中庭掃除だけなら、むしろ普段より、楽なのよね。まあ、雑居房に閉じ込められてるし、囚衣を着せられているけど」 「そうなのよね。中庭掃除だけだったら、普段の仕事よりも楽なのよね。ある意味、お休みをもらったようなものだし」 茘娘と棗児も、労役が「見せしめ」になっていないことへの疑問を述べた。 「でしょう」 銀鈴が大きくうなずいた。彼女は、さらに続けた。 「閉じ込められて、囚衣を着せられているけど、労役もただのはき掃除だし、朝餉の花捲(ホワジュアン)は消えたけど、朝昼晩三食ちゃんと出てくるわよ。お菓子も、お茶も、本も言えばいくらでも差し入れてくれるし。これで罰なの? 陛下も、越先生も、一体何を考えているの? 何か裏がありそうよね。だいだい茶番裁判の最後に、越先生はこう言ってなかった? 『コオロギ賭博事件、及び蟲毒・呪詛の件は、落着!』って。お芝居の裁判場面のシメなら、普通『これにて、一件落着!』じゃない? 『コオロギ賭博事件と蟲毒・呪詛』って、わざわざ事件を限定してるわよ。別に何かあるんじゃないの?」 銀鈴が“茶番裁判劇”の疑問を呈した。 「それもそうようね」 茘娘と棗児も同意した。 その瞬間、銀鈴、茘娘、棗児に声がかかった。 「三人とも、何を勝手に休んでいる!? 中庭掃除が『労役』であることを忘れたか?」 車座になっていた銀鈴たち三人が顔を上げると、娘子兵を引き連れた秋水が居た。 「ごめんなさい、暑かったので、つい」 銀鈴が謝った。 「これは何か?」 秋水が、手ぬぐいの上に載ったイチジクの皮を指差した。 「朝餉の花捲(ホワジュアン)が消えたじゃない? お腹がすいてたから、そこの木のをもいで食べちゃったのよ。お願い、今回だけは見逃して」 銀鈴は秋水に手を合わせて、拝んだ。 「だめだ。労役刑に服する囚人が、労役をサボった挙句、盗み食いをしたんだぞ。獄則違反で、懲罰!」 秋水の一喝で、銀鈴、茘娘、棗児は一斉に居住まいを正した。 「秋水、イチジクをもいできたのも、休もうと言ったのも、わたしよ。茘娘と棗児には、わたしが無理に勧めたのよ。懲罰にかけるなら、私だけにして!」 銀鈴は叫んだ。 「芬将軍、銀后さまはそう言ってますけど、銀后さまからの休憩の勧めも、イチジクも断りませんでした。懲罰には、私もかけてください!」 「そうです。私と茘娘が、銀后さまを止めなければいけなかったんです。私にも懲罰を科してください!」 茘娘、棗児の順に叫んだ。 「三人とも殊勝な心掛けだ。では、懲罰を申し渡す」 銀鈴、茘娘、棗児は、石畳に手をついた。 「張銀鈴、留茘娘 、程棗児の三名は、労役をサボり、イチジクを盗み食いした獄則違反により、幽閉刑に準じ、幽閉房にて謹慎に処す。期間は当分とする」 「ちょっと秋水、わたしたちが労役をサボったのも、イチジクを盗み食いしたのも事実よ。でも、幽閉刑はないんじゃないの!? 殺す気なの!? いくら何でも罰が重過ぎるわよ! 笞打ちや正座ぐらいで済むことじゃない!」 銀鈴が顔を真っ赤にして叫んだ。茘娘と棗児も青ざめている。 幽閉刑とは、死罪に次ぐ重刑。生涯密室に幽閉し、外部との接触を一切遮断する刑罰。 「銀鈴、落ち着け。全ては越太判事の指示だ」 「分かったわ」 銀鈴はうなだれた。 「三人とも、立って両手を前に出しなさい」 秋水が銀鈴、茘娘、棗児に指示をした。三人は立ち上がり、両手を前に出した。 秋水は、娘子兵たちに目で合図をした。娘子兵たちは、銀鈴、茘娘、棗児に、鉄の首輪、手枷、足枷をつけて、腰縄で数珠繋ぎにした。 「三人とも、薛総女官長からの差し入れのお守り袋は持っているか?」 銀鈴たち三人は、怪訝な顔になった。 「持ってるけど」 銀鈴は首から下げたお守り袋を秋水に見せた。それを見た茘娘と棗児も、お守り袋を秋水に見せた。 「それなら良い。お守り袋はちゃんと持ってなさい。これより、幽閉房へ連行する」 ●銀鈴、幽閉房に入れられるのこと 銀鈴、茘娘、棗児の三人は、秋水に連行されて幽閉房へ入れられた。幽閉房は、高い塀に囲まれた永巷の最奥にある。途中、狭い門、細い通路、扉をいくつも通った。 「三人とも、こちらを向いて正座をしなさい」 銀鈴たちは、扉側から、銀鈴が先頭、後ろに茘娘と棗児の順に、「品」の字のように並び、筵が敷かれた木の硬い床に正座した。 「分かっているとは思うが、幽閉房での規則を話しておく。まず、就寝時間中以外は姿勢を正して正座して、じっとしていること。許可なく、足をくずす、立ち上がる、寝転がる、その他体を動かすことは禁止。食事は朝・夕二回。粥と漬物だ。規則違反をすると、首輪が絞まるから、そのつもりで。しっかり反省すること。いいな?」 「はい」 「この竹筒の水は自由に飲んでいいから」 秋水は、銀鈴たちに三本の竹筒水筒を渡した。 扉が絞められた。房内は闇に覆われた。 「ごめんなさい。二人にも迷惑をかけてしまって。わたしがイチジクを採ったばっかりに」 銀鈴は、小声で謝った。 「いいのよ。私たちもお腹がすいていたしね」 茘娘 は、棗児と目を軽く合わせた。 「そうよ。でも、ここは幽霊がいちばん出る所じゃなかったっけ? 大丈夫かしら?」 棗児は、そう言って囚衣の上から、胸元のお守り袋を押さえた。 銀鈴たちは、暗闇に目が慣れて、お互いの顔が見える程度にはなっていた。 「暑い」 銀鈴はそうつぶやいて、重い手枷をかけられた不自由な手で竹筒水筒を持ち、口を付けた。ごく薄い塩味がせめてもの慰めだった。 幽閉房には、わずかな空気口があるだけで、風通しが悪い。蒸し風呂に近かった。 「銀鈴、全部飲んだらダメよ。水筒は、次いつもらえるか分からないんだから」 茘娘がそう言うと、銀鈴は無言で軽くうなずいた。 (お腹すいた。朝餉は、花捲(ホワジュアン)は消えて、豆乳だけだったし、イチジクは一つ食べただけだし。足もしびれた。少しぐらいならいいわよね) 銀鈴は、床に寝そべり丸くなった。 銀鈴の首輪が絞まった。 「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! 起きますから! 起きますから!」 茘娘と棗児は、銀鈴を助け起こした。 「大丈夫?」 そう言いながら、茘娘と棗児は、銀鈴の背中をさすった。 (……お腹すいた) 銀鈴は、扉をにらんでいた。 扉上部の監視口が開いた。暗闇になれた銀鈴たちの目には、まぶしい光が房内に差し込んだ。 監視口には秋水の顔が見える。 「三人とも、反省しているか?」 「反省してる。だから出して。お願い」 銀鈴は秋水を、甘えた口調で手を合わせて拝んだ。 「反省しています」 「芬将軍、お慈悲を」 茘娘、棗児は神妙な口調で述べて、頭を床にこすりつけた。 「もうしばらく、ここで反省しなさい。それはそうと、夕餉だぞ」 秋水はそう言って、扉下部の差し入れ口から、夕餉の丸盆を差し入れた。 「狭いし、暗いから、こぼさないように気を付けて」 「ありがとう」 銀鈴は丸盆を受け取った。 銀鈴たち三人は、丸盆を囲んだ。 「暗くてよく見えないけど、ほんとにお粥と漬物だけね」 銀鈴は、粥を匙でかき回した。両手首は、椀と匙が持てるギリギリの長さの鎖でつながれている。 銀鈴は、ひと口粥を含んだ。 「刻んだ搾菜(ザーサイ)が混ぜてあるのね。まだ温かいし、冷え切って食べられないほどでもないわ。でも、こんな薄いお粥じゃ、体がもたないわよ。ほとんど重湯よ。食べられない病人じゃあるまいし」 「ほんとね。一体何日入っていればいいのかしら? 『当分の間』としか言われてないし」 「前に銀鈴が言ってた通り、『囚人は体力勝負』『いつごはん抜きのお仕置きを受けるか分からない』は、ほんとだったわね。これは、キツイわ」 茘娘と棗児は、顔を見合わせた。 「庭のイチジクを食べたのは違いないけど、罰が重過ぎるわよ。なんか裏があるんじゃない? 同じ正座をさせられるにしても、せいぜい一、二時間で済みそうじゃない? なんで幽閉刑なのよ?」 粥を食べ終わった銀鈴がそう言って、こう叫んだ。 「朝餉の花捲(ホワジュアン)を盗った幽霊は、絶対許さないんだから!」 その瞬間、銀鈴の首輪が絞まった。 「苦しい!」 銀鈴は、首輪をつかんで、叫んだ。 「ごめんなさい! ごめんなさい!」 首輪が緩んだ。 「何よ? 今までしゃべっていても、絞まらなかったじゃない?」 銀鈴は、息が荒くなっていた。 茘娘は銀鈴の背中をさすった。 「小声でしゃべるぶんはいいけど、大声を出すのは禁止、じゃない? まあ、確かに何か裏がありそうよね。ここ(幽閉房)に連行される際、秋水にわざわざ、『お守り袋は持ってるか?』と聞かれたし」 「そうよね。牢慣れした銀鈴のセリフじゃないけど、私たちは獄則違反で懲罰でしょう。幽閉房へ入れられるなら、徹底的に身体検査をされて、持ち物は全部取り上げられるんじゃない? 秋水も、わざわざ『お守り袋はちゃんと持ってなさい』と念を押してくるし。幽閉刑といえば、香后さまよね。ひょっとしてこの房は、香后さまが入れられた房じゃない?」 棗児は懐に手を入れ、お守り袋を握りしめた。 「棗児は、ウワサの幽霊が香后さまだって言うの? まあ、こんな所に二年も閉じ込められて、亡くなったんじゃ、恨んで出てくるわよね。ってか、なんで二年も生きていられたのよ? こんな扱いなら、二年も持つわけがないわよ。ひと月、持つかどうかよ。いや、三日も持たないかも。それにしても、玉雉(ぎょくち)は許せないわよ! 呪詛の冤罪で香后さまを追い落としたんだから! それに侍女もさんざん虐めたし! ついでに、あの女好きのバカ皇帝も。同じ皇帝でも、仁瑜、じゃなかった、陛下とは大違いよ。玉雉の讒言を、あっさり信じるし。玉雉も、顔だけは良かったらしいけど、香后さまと比べると、月とすっぽんよ。香后さまは天女のような美女よね。実際に会ってみたかったわよ」 銀鈴は、茘娘と棗児をにらんだ。 玉雉とは、姓を野(や)、名を玉雉、三百年前の皇帝の側室。『梨妙音伝』で、銀鈴が演じた梨妙音の主人、「悪妃」の元ネタになった人物。稀代の悪女として知られる。また香后とは、玉雉の讒言で獄死した悲劇の皇后、麹香々(きくこうこう)のこと。 「銀鈴、また役の梨妙音に入り込んでるわよ。私と、棗児は、役で悪妃付の侍女をやっただけだから。あくまでも梨妙音を虐めたのは、台本通りに演じただけだから」 役に入り込んだ銀鈴に、茘娘は弁明した。 「そうそう。銀鈴、落ち着いて。声を荒らげると、また首輪が絞まるわよ」 棗児は銀鈴に、そう言いながら竹筒水筒を渡した。 銀鈴は、竹筒水筒のごく薄い塩水をひと口飲んだ。 「玉雉のようなのが、後宮を支配しているなら、いくら村の学堂の師母(せんせい)が推薦してくれたからといっても、後宮には来なかったわよ。玉雉が居たら、命がいくらあっても足りないわよ」 「ほんとよね。当代の皇后が、銀鈴で良かったわよ。玉雉の侍女なんてご免よ。主人と一緒に虐める側でも、いつ虐められる側になってもおかしくないわ」 「そうよね。皇后が発表された時、『何で、銀鈴が!?』って思ったけど、玉雉になる可能性が最も低い銀鈴なら、納得だわ。玉雉が長生きしてたら今ごろ、この国はないわよ」 茘娘と棗児とがうなずき合った。 「そうよね。香后さまは、ほんとにいい仕事をしてくれたわ。玉雉に取り付いて、呪い殺してくれたんだから。その上、あの憎たらしい野一族も、それがきっかけで没落したし」 茘娘がそう言った。 「そのころの野一族って、何かにつけて“建国の元勲”を鼻にかけていたわよね。太祖さまをお助けして、建国に尽くしたのは玉雉のころの野一族でなくて、そのご先祖よね。ご先祖は太祖さまの忠実な臣下で、清廉潔白な大人物だったけど、子孫の劣化は酷いのよね。やたらとご先祖の功績を持ち出して、小は市場(いちば)で値切り倒し、大は公金を着服したり、気位ばかり高くて能力なしの一族で国の要職を固めたりするし。ほんと香后さまさまよね」 棗児も続いた。 太祖とは、寿国の初代皇帝で、建国の英雄。 「公主に転生した後、侍女に転生した悪妃を虐めるのは、ほんとに気持ち良かったわよ」 銀鈴は、「これぞ悪女!」といった笑みを浮かべた。 ●銀鈴、ゆかりの人物と邂逅するのこと 就寝合図の鉦が鳴り、しばらく経ったころ。銀鈴たちは布団を敷いて、眠っていた。布団は三組用意されてはいたが、独房でのこと。横並びに三枚敷くことはできず、二枚敷くのがやっとだった。 横に並んだ二枚の敷布団の上に、銀鈴を真ん中に、左右を茘娘と棗児 が挟む「川」の字になっていた。 「暑い」 銀鈴は、袖で額の汗をぬぐった。 ヒュー、と高い笛のような音がした途端、房内の気温が下がった。 「えっ? 何? 寒い」 銀鈴は、薄い麻の一枚布の衾(ふすま)を首元まで引き寄せた。 左右の茘娘と棗児が、銀鈴に抱きついた。 銀鈴たち三人は、震えと歯ぎしりが止まらない。 (さっきまでは暑かったのに。こんな狭い所に三人も押し込められてるんだから、裸でも暑いぐらいよ。この寒さは何なのよ? 今、夏よ) 青白い光に包まれて、長身の女性が現れた。年のころは、二十五、六。髪の毛は赤茶色、結わずに垂れ髪で、腰までの長さ。目の色は、緑。鼻が高く、彫りの深い顔立ちだ。銀鈴たちと同じく、薄灰色の囚衣をまとい、首輪、手枷、足枷をつけていた。 「あなたたち、何したの? 呪詛? 蟲毒?」 「えっ!? 何? 幽霊? ほんとに出た! 茘娘お姉さま、この中では一番年上なんだから、お願いします!」 銀鈴は、茘娘を幽霊に向けて押し出した。 「ちょっと銀鈴、いや銀后さま、都合良く、妹にならないでください! あなたが皇后で、この中ではいちばん身分が上なんですから、何とかしてください!」 幽霊が銀鈴にかぶりついた。 「あなた、皇后なの?」 「はい、一応」 「何でここに閉じ込められたの? 側室に嫉妬されてたの? それとも逆に嫉妬から側室を殺しちゃったとか? それとも皇帝を手にかけたとか? 呪詛? 蟲毒?」 幽霊は一気にまくし立てた。銀鈴は、顔を引きつらせた。 銀鈴は幽霊の胸元を見た。そこには、「囚人 麹香々(きくこうこう)」との名札が縫い付けられていた。 (この幽霊、あの香后さま?) 銀鈴は、目を大きく見開いた。 「ひょっとして、香后さまですか?」 銀鈴が幽霊に、おずおずと尋ねた。 「その呼ばれ方は久しぶりね。よく分かったわね」 「いや、胸に名札が縫い付けてありますから」 銀鈴は、香々の胸の名札を指差した。 「そうだったわね。そうよ、私が麹香々。紀広卓(きこうたく)の皇后よ。あなたは、『張銀鈴』っていうのね」 香々は、銀鈴の胸元の名札を見た。 「はい。張銀鈴です。この二人は、侍女の留茘娘と程棗児です」 銀玲に紹介された、茘娘と棗児は、香々に一礼した。 「随分若い、いや幼いわね。何歳?」 「十四歳です」 「その若さで、政争に巻き込まれたの? こんなにかわいいのに」 香々はそう言うと、両腕で輪を作った。その輪を銀鈴の頭に通して、銀玲を抱きしめた。 「やめてください! ……冷たくて気持ちいい。いや、別に政争なんて起きてませんから」 香々に抱きしめられた銀鈴は、叫び声を上げた。だが、香々の体は冷たかった。銀鈴は、その氷枕のような冷たさに恍惚の表情を浮かべた。 「なら、何したのよ?」 「イチジクを盗み食いしただけです」 「イチジクの盗み食い? それだけで? ひょっとして今の皇帝は、幼女趣味で、加虐趣味なの?」 「じん、いや陛下にそんな趣味はありません!」 銀鈴は、顔を真っ赤にして叫んだ。 「香后さま、イチジクの盗み食いは、直接のきっかけでして。私たち三人で、コオロギ相撲をやってたんです。ただ、お金を賭けていたのを、陛下に見付かってしまって。ちょうど後宮で賭けコオロギ相撲が流行りかけていたので、見せしめで永巷送りに。今朝、朝餉の花捲(ホワジュアン)が消えて、代わりをもらおうと頼んだんですけど、『規則でお代わりはなし』と断られて。労役で庭掃除をさせられているときに、銀后さまがイチジクをもいできまして。お腹がすいていたので、みんなで食べちゃったんです」 茘娘が説明した。 「一応、蟲毒や呪詛の疑いはかけられました。わたしたちがコオロギ探しで、草むらをあさっていたのが、怪しく見えて。けど、陛下もはじめから信じてなくて。見せしめの特別裁判では、むしろ蟲毒と呪詛の冤罪を晴らそうと、わたしたちが草むらをあさってたのは『コオロギ探し』と立証してくれました」 少し落ち着いた銀鈴も続いた。 「花捲(ホワジュアン)って、あの干しぶどうと黒糖の? 目が覚めて、何気なくふらふらと飛んでいたら、甘くておいしそうな匂いがしたから、つい食べちゃったの。ごめんさないね」 「香后さまが犯人だったんですか!? どうしてくれるんです!? 刑期自体が『当分の間』でいつ出られるか分からないのに、ここ(幽閉房)も『当分の間』なんですよ! ほとんど強制断食ですよ! 今朝、豆乳をひと椀飲んだだけで、昼餉はなし。夕餉は重湯同然のお粥とお情けの搾菜(ザーサイ)だけなんですよ! 身が持ちませんよ!」 銀鈴は香々に噛付いた。 「悪かったわね。ちょっと待てって」 香々は、姿を消した。 「何だったの? 夢? 幻?」 銀鈴たちは、倒れ込んだ。 「待たせたわね。えっと確かここに。あったわね」 香々が再び現れた。そして、壁の板を外して、夜光石(やこうせき)を取り出した。 香々は、夜光石に手をかざして、呪文を唱えた。 「臨兵闘者皆陣列在前、点け、急々如律令」 布団が敷いてある床に置かれた、丸い夜光石が光った。夜光石の側なら、本が読める程度の明るさだ。 「どうしたんです、これ?」 銀鈴が香々に、何度も瞬きをしながら、夜光石を指差して尋ねた。 「玉雉の讒言で、ここ(幽閉房)に入れられたとき、同情してくれた娘子兵たちがいろいろとこっそり差し入れてくれたのよ。これはその一つ。おかげで、しばらくは生きていられたのよ」 「そうだったんですか」 「そうそう、お詫びよ。これ食べて。お腹すいてるでしょう」 香々は銀鈴たちに、紙包みを渡した。醤油と脂身の香りが、銀鈴たちを刺激した。 「いいんですか? いただきます!」 銀鈴は、紙包みを開いた。肉夾モー(ロージャーモー)が現れた。 肉夾モー(ロージャーモー)とは、掌を広げたぐらいの大きさの丸い焼き麺麭を半割にして、細かく刻んだ豚の醤油煮を挟んだ物。 銀鈴は、肉夾モー(ロージャーモー)にかぶりついた。口の中に、焼き麺麭にしみ込んだ肉汁が広がった。 茘娘と棗児も食べている。 「おいしい。一日ぶりのまともな食事よね。香后さまは食べないんですか?」 「それには、豚肉を使ってるでしょう。私は豚肉は食べないから」 「あっそっか、香后さまは政略結婚で寿国に輿入れしてきた、西域の火昌(かしょう)王国の王女さまでしたね。西域の宗教は豚肉を食べるのを禁じてましたね」 火昌王国は香々が輿入れしてきた当時は、寿国に臣従する朝貢国だった。火昌王国の都、火昌は、砂漠のオアシス都市。 「なんか、私のことに詳しそうね?」 「そりゃ、『三百年前に非業の死を遂げた、悲劇の踊り子皇后』として伝説になってますからね」 銀鈴はうなずきつつも、(とはいえ、会ったばかりで、玉雉や、あの女好きのバカ皇帝の話はしづらいわ)と感じていた。 「……あれから、三百年経ったのね。ここ最近、目が覚めたり、眠ったりを繰り返していたわ」 「食べ終わってから、こういうこと言うのもなんですが、この肉夾モー(ロージャーモー)はどうやって持ってきたんですか?」 棗児が香々に、おずおずと尋ねた。 「牢番の詰め所にあったから、失敬してきたわ」 「えっ? それは牢番の夜食じゃ? 私たちは、イチジク盗み食いの罰で、ここ(幽閉房)に入れられたんですよ。また盗み食いをしたとなれば、笞打ち、板首枷つきの晒し刑あたりの追加の罰を受けるんじゃ」 茘娘は怯えた声をあげた。 「食べちゃったものはしょうがないんじゃない。そもそも、ここ(幽閉房)に閉じ込められているわたしたちが、どうやって牢番の詰め所まで行くのよ? 格子になっている雑居房と違って、扉は板で外は見えないし、腕も出せないのよ。しかも、首輪、手枷、足枷までつけられてんのよ。これで、どうやって肉夾モー(ロージャーモー)を盗めるのかを、立証しなさいよ」 銀鈴は茘娘に、そう言って手枷をつけられた自分の腕を見せた。 「大丈夫よ。もし追及されたら、私が出ていって『私が盗んで食べた』と言えば、済むわよ。こんな所に閉じ込められているあなたたちが、盗みに行けるわけがないしね。幽霊を罰するなら、罰してみなさいよ」 香々は、自信ありげだった。 「それにしても、あなたたち三人が投獄された理由は、さっき聞いた限りだと、セコ過ぎるわね。銀鈴に抱きついた時、銀鈴の“気”を感じたんだけど、あの“無邪気の気”なら、そう簡単に政争に巻き込まれることはないし、嫉妬も買わないわよ。一体何なの? 私のときは、玉雉が嫉妬して私を蛮族呼ばわりした上、広卓に『呪詛をやってる。それも陛下を殺害しようとしている』とあることないこと吹き込んでくれたからね。ロクな裁判もなく、幽閉刑を宣告されて、ここにぶち込まれたわけ。証拠として、藁人形だの、霊符だのを出してきたけど、私は東の呪術には疎いのよ。西の術は少しかじったけど。ただ、嫉妬自体は分からなくないわよ。もともと玉雉が皇后で、私は貴妃の予定だったからね。でも火昌王国と胡国の外交関係が悪化していてたから、火昌の後ろ盾に寿国が居ることを示す必要もあったわ。寿国も火昌が倒れて、胡と直接国境を接することになるのは避けたかったからね。それで、私が皇后に、玉雉は貴妃のまま据置よ。あなたたちの場合は、そんなことはないわよね?」 貴妃とは、皇后に次ぐ、後宮第二位の地位。ただし、現在は空位。 「はい。側室は居ませんし、他国との関係も安定していますから」 銀鈴がうなずきながら答えた。 「それなら、ますます分からないわよ? 銀鈴、今の皇帝との仲はどうなの?」 「はい。仲はとっても良いです」 「なら、何で? 賭博しただけで皇后が牢に入れられるのは、考えにくいわよ。侍女だけなら、厳格な皇帝なら、分からないこともないけど。銀鈴、あなたは自分から『牢に入れて』とでも言ったの? 物語の中では、屋敷を抜け出した侍女思いのお嬢様が、一緒に抜け出した侍女だけがお仕置きされるのを見て、『私も一緒にお仕置きして』と言う場面もあるわね。それなの?」 「そこまでは言ってませんが」 「でも、ぎんれ、銀后さまは見せしめ裁判のとき、こう言ってくれましたね。『わたしが三人分の罰を受けるから、茘娘と棗児には寛大な処置を』と」 棗児は、「銀鈴」と言いかけてたが、香々の前だったので「銀后さま」と言い直した。 「今、そんなことを言わなくてもいいでしょ」 銀鈴は棗児に向かって、顔を赤らめて恥ずかしそうに、肘を突いた。 「あなたたち三人は、『皇后と侍女』にはとても見えないわね。仲の良いお友達同士というか。銀鈴、ほんとに皇后?」 「そう言われても、そういうことになってるんですよ。自覚はないし、なんでわたしが皇后に選ばれたのかも、未だによく分かりませんが」 「私たちは二年間、女官見習として、後宮太学で学んだんです。入学式で、後宮太学長の師父(せんせい)と師弟の契りを結びまして。その時に、太学生の同期同士も“五分の姉妹”の関係になったんです」 茘娘が香々に、そう説明した。 「それで、あまり身分の上下の隔たりがないのね。ほんとにうらやましいわ。今の後宮は楽しそうね。だったら、なおさら何で、あなたたちはこんな目に遭ってるのよ?」 香々は、銀鈴たち三人の顔を順に見渡した。 「そうなんですよね。やけに罰を重過ぎるというか、裁判も、投獄も、お芝居のようなといか、茶番って、感じなんですよね。何か裏があるんじゃない? って、三人で話していました。 後宮でコオロギ賭博がはやり始めていたので、見せしめで生贄にされたとは考えました。それでも、ひと晩永巷に入れられて、翌日囚衣姿で、傍聴人が大勢居る法廷に引き出されて、その場で軽めの笞打ちで済みそうなんですよね。結果は、『当分の間永巷で労役』でした。しかも、その労役が人目に付かない永巷の中庭掃除です。手間が掛かるわりに、見せしめの効果は薄そうなんですよね。見せしめ効果を狙って手間を掛けるなら、もっと人目の多い場所を掃除させるなり、晒し者にするなり、すればいいんですよ。 その上、イチジクを盗み食いして『当分の間幽閉刑』ですし。イチジクの盗み食いも、獄則違反なんで、笞で打たれたり、板の間や石畳の上で正座させられたりするなら、まだ分かるんですが。いたずらしたときにされるお仕置きが、ものすごく大げさになっている感じがします。そもそも今の永巷には、囚人はわたしたち三人しか居ません。良いほうにも、悪いほうにも、どんなに特別扱いをされても、不公平にはならないんですよね。どうも、陛下の意図が分かりません」 銀鈴は、首をかしげながら、自分の考えを話した。 「香后さま、『最近、目が覚めたり、眠ったりを繰り返していたわ』とおっしゃっていましたよね? 最近、ここ(永巷)で『幽霊が出る』と結構なウワサになっていまして。その幽霊って、香后さまなんですか?」 茘娘が香々に尋ねた。 「そうね。ほかの幽霊が居る感じはないわよ。そのウワサの幽霊は、私じゃないかしら」 そう言って香々は、銀鈴の胸に目をやった。 「何か感じるわ。銀鈴、懐に何か入れてない? あったら出して」 銀鈴は懐からお守り袋を取り出して、香々に渡した。 「何のお守りかしら? 書いてないわね」 「そうなんです。捕まった日の夜に、皇太后さまが持ってきてくれたんです。『幽霊が出る』ってウワサもあったんで、幽霊除けの『鎮亡者(ちんもうじゃ)』『解精邪厄(かいせいじゃやく)』『生霊不来(しょうらいふらい)』『鎮奇怪(ちんきかい)』あたりじゃない? と三人で話していたんです」 香々は銀鈴のお守り袋を手に取った。お守り袋の口は縫い付けられていた。 「そう。開けてみないと分からないわね。でも、嫌な感じはしないわね。幽霊除けのお守りだったら、こうして手に取れないだろうし。といっても、ここに裁縫道具なんてないわよね。ちょっと探してみるわ」 香々は姿を消した。 ●銀鈴、『梨妙音伝』を大いに語るのこと 香々は戻ってきた。 「ただいま。裁縫道具を持ってきたわ。お守り袋を開ける前に聞きたいんだけど、あなたたち三人、特に銀鈴は、結構牢屋慣れしてない? はじめて牢屋に入ったのよね? 前にも入ったことはあるの?」 「ちゃんと入ったのは、これが初めてですが」 銀鈴がそう答えた。 「ちゃんとって?」 「後宮劇団の演目の『梨妙音伝』で囚人役やってまして」 「劇団? 演目? それはどういうこと?」 茘娘は香々に、説明を始めた。 「えっと、今の後宮は、香后さまの居たころとは違って、唯一の男性である皇帝を、女官や宮女たちが奪い合う、って感じじゃないんですよ。ひと言でいえば、今の後宮は『全寮制の女性だけの劇団であり、女性官吏の独身者寮』なんです。ここ三百年で、女性官吏の登用も進みましたから。後宮太学卒業は、科挙合格と同等の資格なので、後宮住まいでも外朝で官吏として働いている者も居ます」 外朝とは後宮外の一般の役所のこと。 「業平(ぎょうへい)帝が崩御され、お子がなかったために、また従兄弟の正光(せいこう)帝が跡を継がれたんです。正光帝はご即位前から、業平帝の女好きと、そのころの女同士の争いに嫌気を持たれていて、側室をお持ちにならなかったんです。ですのでご即位後も、ご即位前からの正妃、隆梨琳(りゅうりりん)さまを、皇后に冊立されたほかは、側室をお持ちにならなかったんです」 「ええと、『業平帝』? 確か『業平』は広卓のころの元号だったから、広卓のことね。跡継ぎは賢明な人だったようね。」 「はい。歴代皇帝のお名を口にするのは畏れ多いので、概ね元号でお呼びしています」 「そう。続けて、茘娘」 「正光帝の皇后、隆梨琳さまが、歌や踊りといった芸事がお好きな方だったんです。ご自身でも歌、踊り、演奏され、興味を持った女官や宮女にも教えられていたんです。これが『後宮劇団』の始まりと言われています。初めのうちは、ごく内輪の宴席の余興で、歌や演奏、踊りを披露する程度だったようなんですが、時を経るにつれて、臣下の夫人や令嬢を招いた席でも披露するようになったんです。だんだんと、歌、演奏、踊りだけでは物足りなくなって、お芝居をやるようになっていたんです。簡単な寸劇程度から始まって、全幕通してやると、長いものでは半日、一日かかる本格的なものを演じるようになりました。昔は祝典の際に、『皇帝の徳を示す』として広く一般向けに演劇を披露していたんです。今では、一般向けの常設の劇場を持っていて、定期的に公演しています」 「へえ、そうなの? 面白そうね。どんな劇をやるの?」 「得意なのが、歴史劇、宮廷劇、政談です。喜劇もやることもありますね。演劇のほかにも、話芸の講談や漫才、漫談もやりますよ」 政談とは、裁判を題材とした講談・演劇の類。 「『梨妙音伝』は、その演目の一つなのね。どんな話なの?」 「えっとですね、ちょっと言いにくいんですが、その『梨妙音伝』は、香后さまが玉雉に獄死させられた事件をもとにした話なんですよ」 銀鈴が遠慮がちに言った。 「それで、あなたたちは私が出てきても、怖がらなかったのね。その『梨妙音伝』ことを、詳しく教えてよ」 香々は興味津々に言った。 「まず、配役から説明しますね。わたし銀鈴が、梨后さまをもとにした新人女官で、悪妃付の新入り侍女の梨妙音役です。玉雉こと悪妃が皇太后さま。悪妃付の侍女で、梨妙音の先輩が、茘娘と棗児です。香后さまをもとにしたのが役名で『西后』、業平帝も役名で『悪帝』、正光帝が『新帝』っていいます」 「それで?」 「話の大筋はこうなんです。寿国での出来事とするのは、さすがにマズいので、別の架空王朝での出来事、ってことになってます。悪妃は、西后を嫉妬から投獄し、獄死させたことで、西后に祟られて、うっぷんがたまっています。そのはけ口になっているのが、梨妙音です。 三部構成で、第一部が梨妙音が悪妃の不興を買い、投獄され、虐められます。ですが、虐めの報いと西后の祟りで悪妃と悪帝が非業死します。第二部が、悪妃死去で釈放された梨妙音が、悪帝崩御で跡を継いだ新帝付きの侍女になります。第三部は、新帝は女の争いで、後宮に苦手意識を持っています。梨妙音の誠実な働きに徐々に心を惹かれて、ついに梨妙音を皇后に冊立します。皇后となった梨妙音は、新帝の前で得意の歌、演奏、踊りを披露し、それらに興味を持った女官や宮女にも教えます」 「銀鈴、新帝は今の皇帝が演じるんじゃないの? 銀鈴の相方でしょう」 「もちろん新帝役は、陛下にやってほしかったんですけどね。上演期間が一日だけならともかく、何日も続きますからね。さすがにほかの仕事もある陛下が、何日も舞台に立つのは無理だったんですよ。新帝役が陛下だと、かえって意識しちゃって、恥ずかしくて、梨妙音役を上手く演じられなかったかもしれないです。これで良かったかもしれません。 話を戻します。最初の場面は、梨妙音が、悪妃の手先である棗児に裙(スカート)の裾を踏まれて、その拍子で悪妃に洗顔用の水をぶっかけてしまうところです。これも悪妃の手先である茘娘が、『お妃さまに水をかけるなんて、大不敬よ! 何度ドジすれば気が済むのよ! お妃さま、他の侍女への「教育的指導」も兼ねて、この梨妙音を厳しく罰しましょう!』とまくし立てます」 銀鈴は茘娘と棗児を見た。茘娘と棗児は神妙な顔をしていた。 「この後、梨妙音は、娘子兵に引き渡され、永巷へ連行されます。永巷では、梨妙音は朝餉を取っていないにもかかわらず、朝餉は与えられず、薄い塩水をひと椀与えられただけです。それから、結った髪はほどかれ垂れ髪にされ、女官着をはぎ取られて、囚衣――ちょうど今、わたしが着ている囚衣がそれです――に着替えさせられます。板首枷をはめられ、猿轡をかまされ、後ろ手手枷に足枷つきで、炎天下の人が多い広場――夏が舞台です――で午後三時まで晒されます。晒し中はじっと正座をさせられて、少しでも足を崩すと、見張りの娘子兵に笞で打たれます」 「ごごさんじ、って何? 時間のようだけど」 「香后さま、古い言い方だと、未(ひつじ)の初刻です」 茘娘 がそう説明した。 「朝餉のころから、未の初刻までって、結構あるわね。炎天下だと、かなりキツイんじゃない?」 香々は、指を折って時を数え、うなずいた。 銀鈴がよだれをたらした。 「ちょうどおやつの時間ね。まあ、お芝居の中では、晒されている場面は、それほど長くはないんで。語り(ナレーション)が言う程度ですから。 えっと、続けますね。後宮内に『傍聴に来るように』との大々的なお触れが出された三時からの裁判――といっても、一方的な刑の言い渡しですが――で、梨妙音は不敬罪で、『百叩きの上、永巷での無期限の労役』の刑が宣告されます。梨妙音は縁台にうつぶせに寝かされ、縛り付けられます。娘子兵が笞を振り上げた瞬間、裁判の場に立ち会っていた悪妃が『妾(わらわ)が自ら打とう。妾の宮から、こんな不出来者を出したのは、妾の責任じゃ。この者を、しつけ直すのも慈悲じゃ』と言い出します。梨妙音は、悪妃直々に百回、笞で打たれます。しかも、一回打たれるたびに、『申し訳ございません!』『深く反省しております!』『心を入れ替えます!』と叫ばされます。その上、百回打たれ終わったら、玉雉の前へひざまずかされ、額を地に打ち付けるお辞儀を三度させられ、『過分な恩寵を賜り、厚く御礼申し上げます』と言わされます」 「玉雉なら、やりそうなことだわ。直接見ることはなかったけど、結構侍女を虐めていたし」 「この次の場面が、悪妃宮での労役です。梨妙音は、今のわたしたちと同じ格好、つまり囚衣に、鉄の首輪、手枷、足枷をつけられて、労役として悪妃宮の石畳磨きをやらされます。それも、悪妃や大勢の悪妃宮の女官・宮女が見ている前でです」 座っていた銀鈴は、そう言いながら手枷をつけられた両腕を、香々に見せるように、自らの胸の高さに上げた。 「首輪につけられた鎖を、悪妃付きの侍女の茘娘や棗児が持ちます。桶に水をくんで、決められた場所に置いたら、その後は労役の時間が終わり、永巷へ戻されるときまで、立ち上がることは許されません。常に、犬のように四つん這いです。 これで、石畳をたわしで磨きます。一瞬でも手を止めたり、立ち上がろうとしたりしたら、茘娘や棗児によって、容赦なく笞で打たれます。 『暑い』とこぼして、袖で額の汗をぬぐったら、茘娘や棗児によって、『涼しくしてあげる』と、庭掃除用の桶の水をぶっかけられます。桶の水がなくなってたので、くみに行こうとすると『使う水は桶一杯が規則!』と言って、くみに行かせてもらえません。濡れていないたわしで石畳を磨いてもきれいにならないのに、『きれいになっていない!』として、笞打ちです。さらに、池の水を何杯もぶっかけられます。 その上、『気合い入れ』と称して、悪妃自身の手でも、何度も笞で打たれます。打たれるたびに『気合い入れ、ありがとうございます!』と大声で叫ばされます。叫ばないと、さらに打たれます。最後には、悪妃が食べ終わった甜瓜(メロン)の皮を食べさせられます。もちろん、立ち上がることも、手を使うことも許されません。四つん這いのままの犬食いです。 茘娘や棗児も、嫌味を言ってきます。『甜瓜(メロン)なんて、侍女でもごくまれにほんのひと切れ賜れるかどうかよ。罪人の身で、こんなにたくさん賜れるなんて、幸運よね。お妃さまのご恩に感謝さない』と。そして、悪妃の前でひざまずかされ、三度額を石畳打ち付けされ、悪妃に『罪人の身に、過分な恩寵を賜り、厚く御礼申し上げます』とお礼まで言わされます」 「お芝居とはいえ、随分酷い目に遭ったわね。悪妃は、ほんとに玉雉そのものだわ」 香々は、微苦笑した。 「そうなんですよ。もっとも、この後で悪妃を思いっきり虐め返すんですけどね」 銀鈴はそう言って、茘娘と棗児をにらみつけた。銀鈴ににらみつけられた、茘娘と棗児は、青ざめた。 「私たちは、台本通りに演技をしただけです!」 「そうです、そうです!」 茘娘、棗児は、首を大きく左右に振って、叫んだ。 「だいたい、この場面は、銀后さまがいちばん力を入れていた場面じゃないですか。語り(ナレーション)の、『永巷では昼餉はなく、梨妙音には朝夕に重湯同然のごく薄い粥がひと椀、漬物がひと口与えられるだけだった』の通りに、朝餉に薄いお粥ひと椀、漬物ひと口で、昼餉を取らずに、炎天下の中、自主稽古して、暑気あたりで倒れかけたのは、どなたでしたっけ? 私たちは『食べなさい!』って言いましたよね。観客は、演じる役者が食事を取っていようが、いまいが、分かりませんよ」 「それも稽古なのに、その囚衣と首輪、手枷、足枷を、衣裳係に言って借りてきて、身に着けてましたよね? 『気分が乗らない』とか言って」 茘娘と棗児が、銀鈴にツッコんだ。 「何よ!? 二人もこの場面で、結構悪ノリしてたでしょ。台本も後から結構過激になったし。元々の台本では、水をぶっかけられるまではなかったわよ。その案を出したのは、茘娘じゃない?」 銀鈴は、ほほを膨らませた。 「まあまあ、三人とも落ち着いて。銀鈴は、随分熱心に稽古してたのね。感心だわ。それであなたたち、特に銀鈴は、牢屋慣れしてたのね」 香々はそう言って、銀鈴を自分の膝に引き寄せた。 「そうなんです。銀后さまは、かなり熱心に役作りをしてましたから。何かの拍子に牢屋へ入れられても、私と棗児だけだったら、かなり精神的に参っていたと思います。牢慣れした銀后さまと一緒だったから、わりと平気なんですよ」 茘娘が香々に向かって言った。 「はじめて主役をもらった、ってのはありますが。やるなら徹底してやらないと気が済まなかったんです」 「分かるわ! 銀鈴。わたしは踊り子だから、お芝居はよく分からないけど、舞台に立つなら中途半端なことはできないわよね!」 香々は大いにうなずき、膝の上に乗せた銀鈴を抱きしめた。 「ほんとに銀鈴はかわいいわ!」 「離してください! 冷たいのは気持ちいいけど、恥ずかしいです!」 銀鈴は、香々の腕から逃れようともがいた。 「ダメよ。今度は離さないんだから。続きを聞かせて」 「はい。永巷へ戻された梨妙音は、監房内で眠りにつきます。夢の中で、どこかの時代の公主(姫)に転生します。同時に、悪妃も公主付きの侍女に転生します。これが、獄死させられた西后の祟りです。 悪妃が転生した公主付きの侍女は、梨妙音が転生した公主の髪を結います。ただ、寿国風に高く結い上げたことが、公主の逆鱗に触れます。西后そっくりの侍女頭が、悪妃を『あなた、いつになったら公主さまのお好みを覚えるのよ!? 公主さまの御髪(おぐし)をこんなに婆臭く結うなんて、どういうこと? 愛くるしい公主さまが台無しじゃないの!? 大不敬よ!』としかりつけます。侍女頭は、公主の西域趣味に合わせて、公主の髪を何本もの細い三つ編みに結い上げて、西域風の動きやすい絹の胡服を着せます。 公主も、悪妃にこう言います。『あんた、やる気あるの? 何の嫌がらせよ? いつもダサい髪を結ってくるし、ダサい衣を用意するし。人間やめなさい! 犬? いや馬がいいわ! 馬になりなさい! 今からあんたは馬よ! さあ、四つん這いになりなさい!』と。公主は悪妃に、馬乗りになります。動きが遅いと、悪妃を鞭打ちます。 最初のうちは、お馬さんごっこも屋内や公主宮の庭でした。ですが、後には後宮内一周するぐらいまで過激になります。さらには、公主と侍女頭は、悪妃を四つん這いさせて池に連れ込み、『きれいにしてあげる』と言い、悪妃の体をたわしでごしごしこすります。切ることもなく、丸ごとの生の人参を食べさせることもあります。これが毎夜、続きます。 この心労で、悪妃はほどなく没します。それを追うように、悪帝も崩御。悪帝のまた従兄弟の新帝が即位します」 「梨妙音もなかなかやるわね。悪妃はいい気味だわ。公主は『西域趣味』って言ってたわね。こっち(長洛)でも、西域の髪型や衣が好まれるの?」 香々は、悪そうな笑みを浮かべた。 「そうですね。“西域熱”といって、西域の髪型、衣、食事、細密画、工芸品なんかの流行が、昔から時々起きてますね。今でも、前頭部に細い鎖状の西域風の髪飾りを着けたり、真四角で刺繍が入った西域の帽子をかぶったり、寿国の裙(スカート)に、胸に唐草門の刺繍がある胡服の上衣を合わせたり、ってことはよくあります」 茘娘が香々に、こう説明した。 「西域の食事っていうと、胡人街よね。地面に埋め込んだ窯(タンドール)で胡餅(ナン)や焼き肉まん(サ厶サ)を焼いているのを見るのが面白かったわね。職人さんが上半身を窯(タンドール)に突っ込んで、生地を壁に貼り付けてたけど、よくあんな分厚い物がはがれ落ちないわね。紙のように薄い胡餅(ナン)だったら、まだ分かるけど。この時季だと、甜瓜(メロン)(がおいしいわよね。あの橙色の果肉を想像したら、食べたくなっちゃった」 銀鈴は腹を押さえた。 胡人とは西域人のこと。胡餅とは西域の焼き麺麭。 「銀鈴、後宮の外に自由に行けるの? 女官や宮女でも、一度後宮に仕えると、外に出るのは難しいんじゃないの?」 「いえ、別に外出はわりと自由にできますよ。さすがに『皇后』との身分は知られないように、とは言われていますが。もっとも、周りからは『皇后だ、と言っても信じてもらえないから、大丈夫。せいぜい皇后付き新人侍女がいいところ』とも言われていますが」 銀鈴は苦笑しながら言った。 「香后さま、今の後宮は門限までに帰ってくれば、わりと外出は自由なんです。事前に申請すれば、外泊の許可も出ます。もっとも、門限破りや無断外泊をすると、程度にもよりますが、ここ(幽閉房)の掃除の罰を受けることもあります」 茘娘も香々に説明した。 「昔と違って、結構緩いわね。甜瓜(メロン)はよく食べるの?」 「よく食べますよ。近くの村で取れた物が多いですが、火昌産のがおいしかったですね」 「火昌の甜瓜(メロン)? それは銀鈴が皇后だから食べられたんじゃないの?」 「そんなことはありませんよ。近くの村で取れた物よりは、高いですけど、宮女でも買えないことはないでしょう。茘娘、棗児、火昌の甜瓜(メロン)は、夏の贈り物にすることもあるわよね?」 「そうですね。女官や宮女でも、夏の帰省の手土産にすることもありますよ」 「盂蘭盆会の祭祀でもお供えすることもあります。帰省できなくても、お供えとして送ることもありますね」 茘娘と棗児がうなずき合った。 「そうなの? 火昌では水代わりに誰もが食べてたけど、長洛まで運ぶとなると、時間も、手間もかかるはずよ。私が、火昌から長洛まで来たときは、砂漠の絹街道を通って、三カ月近くかかったわよ。花嫁道中で、かなりゆっくりだったけど。早飛脚でも、五日はかかるわよ」 「そんなにかかったんですか!? さすがに朝採れた火昌の甜瓜(メロン)が、その日のうちに長洛の果物屋さんに並ぶことはないですが、三、四日前に採れた物なら、普通に売ってますよ」 銀鈴が香々にそう説明した。 「たった三、四日前に取れた、火昌の甜瓜(メロン)が、何で長洛で普通に買えるのよ!?」 香々は、驚いた表情で声を上げた。 「そう言われても、長洛から汽車に乗れば、火昌まで一日半から二日で行けますよ」 「『キシャ』って何? 何で長洛から火昌まで、一日半から二日なのよ!?」 「ここに紙と筆があれば、絵を描けるんですが。『キシャ』ってのは、気分の『気』に『車』と書きます。煙をはいて走る機械の、いやからくりの馬が牽いて走る車です。昼も夜も関係なく走り続けますから、寝ている間に遠くまで行けますよ」 銀鈴は香々に、考えながら答えた。 ●銀鈴、お守り袋を開封し、真相に気付くのこと 「そうそう、話が飛んで忘れてたけど、このお守り袋を開けましょうね」 香々は、そう言って銀鈴のお守り袋の縫い目にはさみを入れた。縫い目をほどくと、二枚の紙片が出てきた。 「何かしら? 呪符のようだけど」 「見せてください」 銀鈴は、香々から二枚の紙片を受け取った。 「これは、えっ、『招遊魂符(しょうゆうこんふ)』と『玉女符(ぎょくじょふ)』? 『玉女符』はいいとして、『招遊魂符』って何よ!? 幽霊除けとは正反対の霊符じゃない!? わざわざこんな霊符を差し入れてくるなんて!? 茘娘、棗児、二人のお守り袋も出して!」 銀鈴は、湯が沸いて吹きこぼれる寸前のやかん状態になった。 「『しょうゆうこんふ』? 『ぎょくじょふ』? 何? どうなってんの?」 香々は、困惑した。 茘娘と棗児は銀鈴に、首から下げた自分のお守り袋を、渡した。 茘娘が香々に説明する。 「香后さま、お守り袋の中に入っていた紙片は『霊符』なんです。『玉女符』とは神霊の力を得る霊符で、『招遊魂符』とは幽霊をおびき寄せる霊符です」 銀鈴は、茘娘と棗児のお守り袋も開けた。 「やっぱり。わたしのと同じ『玉女符』と『招遊魂符』ね。……ということは? えつ、いや忠元! よくもわたしたちを囮にしてくれたわね!? それに仁瑜も! 絶対許さないんだから!」 「ちょっと銀鈴、落ち着きなさい。何がどうなってるのかを、ちゃんと説明してくれる?」 香々が銀鈴をなだめにかかった。 「忠元、仁瑜! 絶対、許さないわよ! 特に忠元、よくも皇后のわたしを、臣下の分際で、強制断食させてくれたわね! これがいちばん許せない! 明らかに量刑不当よ! 永巷での労役だの、幽閉房での一日じゅうの正座だの、昼餉抜きだのは、受ける必要のなかった罰じゃないの! 受けなくてもいい罰を思いっきり受けちゃったじゃない!」 香々の言葉は、銀鈴には全く届かなかった。 「香后さま、銀后さまがこうなってしまったら、自然に落ち着くまで待つしかありませんよ。今まで、囚人の自覚か、遠慮で、今上皇帝陛下を『陛下』と呼んでいたのが、お名で『仁瑜』と呼んでいますし。越忠元先生を、『忠元』と下の名前で、しかも呼び捨てにしています。しかも、『よくも皇后のわたし』って、ご自分のことを『皇后』って言ってます。銀后さまは、普段は“皇后の自覚”が全くないんです。歴代皇后の中で、“最も皇后らしくない皇后”なんて言われてますよ。それなのに、これですからね。この怒りは、かなり強いですよ。噴火した火山と同じです。 越先生は、後宮太学長の師父の門下で、私たち後宮太学生や今上陛下から見ると、『兄弟子』に当たります。後宮太学教師で、いわば『師範代』です。しかも、昔の刑部に当たる、太法院の長官『太判事』で、私と棗児、そして銀后さまに、『永巷での労役』の判決を下した人です」 「これは、相当怒ってますね。何か食べさせれば、少しは落ち着くとは思いますが。ここには食べる物はありませんし、取ってくるにも、閉じ込められてます」 茘娘と棗児は香々に、困り顔で言った。 「そう。それなら、私が何か探してくるわ。銀鈴をお願いね」 香々はそう言うと、姿を消した。 「持ってきたわよ」 香々はそう言いながら、風呂敷包みを茘娘と棗児に渡した。茘娘と棗児が風呂敷包みを開けると、豌豆黄(えんどうこう)が現れた。 豌豆黄は、東の島国・和国人向けの寿国旅行案内書では、「黄色のえんどう豆を使った黄色い羊羹」と紹介されている。 「銀后さま、とにかくこれを食べてください!」 茘娘が銀鈴の口に豌豆黄を押し込んだ。 「何!?」 銀鈴は、豌豆黄をのみ込んだ。顔の赤みや、怒りの表情が、いくらかは治まった。 「銀鈴、少しは落ち着いた? どういうことかを説明してくれる?」 「はい」 銀鈴は、恥ずかしそうにうつむいた。 「えっと、『わたしたちが「永巷での労役刑」に処せられたのは、コオロギ賭博流行を抑えるための「生贄」なのでは?』とお話しましたよね?」 「ええ、そう聞いたわ」 「わたしたちは、同じ『生贄』でも、『幽霊おびき出しの生贄』だったんです。こんなことを考え付くのは忠元で、仁瑜もそれを許可したんです。わたしたち三人を囮にして、幽霊が出るかを確かめようとしたんですよ! わたしはあんまり気にしてなかったんですけど、ここ(永巷)には『幽霊が出る』とのウワサがありまして、『調べてほしい』との要望もあったようなんです。報告書も来ていたんですが、わたしはちゃんと読んでいなくて」 「銀后さまが、ちゃんと報告書を読んでいて、『幽霊騒動』を調べていれば、こんな変な策に使われることもなかったんじゃないですか?」 「後宮の管理は皇后の仕事ですし」 茘娘と棗児が、そう言った。 「茘娘も、棗児も、怒らないの?」 「そりゃ、腹は立ちますけど」 茘娘と棗児はうなずいた。 「コオロギ賭博をしたといっても、それほど大金を賭けてないし、せいぜい罰金か、笞打ちで済むことですよ。しかも、賭けたのが現金でなく、お菓子や果物なら、『一時の娯楽に共するもの』でお咎めなしですよ。あの茶番裁判の場で、忠元自身がこう言っていたぐらいです。『最初のうちは、菓子や果物を賭ける程度だったとの由。それぐらいにしておけば良かったものを。あるいは当番を代わってもらうとか』って。 もし、コオロギ賭博流行を抑える生贄なら、傍聴人が大勢いた、あの茶番裁判の場で、笞打ちにすればいいでしょうよ。見せしめのために、もっとひどい目に遭わせるなら、同じ労役でも、宮市の前などの人目の多い場所の掃除をさせればいいんですよ。それとも、宮市や通用門の前で、晒し刑もありそうです。でも実際には、人目につかない永巷の庭掃除でしょう。それでは見せしめの効果なさそうですし。それにお守り袋も、差し入れでもらった時は『幽霊除け』と思ったんです。ですが、結果は正反対の『幽霊おびき出し』でした」 「そういうことだったのね。なんか呼ばれた感じがしたのよね。それは『招遊魂符』のせいだったのね。だから、銀鈴は永巷送りが、『賭博罪の処罰』ではなく、『幽霊調査が目的』と判断したのね」 香々は銀鈴に向かって、軽くうなずいた。 「はい。居た幽霊が、香后さまだったから良かったんです。もし悪霊に取り付かれたなら、どうするつもりだったのよ!? わたしだけだったらまだしも、茘娘と棗児も居るのよ! ましてや、後宮全体の禍になったら、どうするつもりだったのよ! 忠元も、仁瑜も!」 銀鈴の怒りが再燃した。 「それは大丈夫じゃない?」 そう言って、香々は銀鈴を抱きしめた。香々の体の冷たさが、銀鈴の怒りを静めた。 「えっ? 何でです?」 「銀鈴、あなたは自覚がないようだけど、その“無邪気の気”はすごいのよ。多少の悪霊なら、悪霊のほうから勝手に消滅してくれるわ。それとも、改心して“配下”になってくれるかもよ」 「そう言われても、よく分かりませんが」 銀鈴は首を傾けた。 「その無自覚自体が、“無邪気の気”なのよ。銀鈴、あなたの実家はどんなおうち?」 「普通の農家ですけど」 「つまり、一族に大臣や将軍を務めた人も居なければ、代々続いた名家でもないと?」 「そうですが」 「強力な後ろ盾もない娘が、皇后なんかに選ばれたら嫉妬の雨嵐よ。でも、ほかの女官や宮女から虐められたり、食事に毒を盛られたりしたことはないんでしょう?」 「そんなことは、ありませんよ。みんなとは仲良くやってます」 「それが、“無邪気の気”よ。“無邪気”ってのは文字通り“邪気がない”のよね。逆に“邪気”のほうから逃げていくわよ」 「そうなんですか?」 銀鈴はしきりに首を傾けた。 「そうよ。毒を盛られることまではなくても、侍女あたりなら儀式で、本来着る衣裳とは別の衣裳を用意し、主人に恥をかかせることぐらい、簡単にできるわよ」 「そんなことをされたことはありませんが。っていうか、香后さまはされたんですか?」 銀鈴は、侍女の茘娘と棗児をちらりと見た。 「私たちは、そんなことをしたことはないです。これからもしません!」 茘娘と棗児は、何度も首を縦に振った。 「一度、着るべき衣裳でない衣裳で、儀式の場に出て、大恥をかかされたことがあったわ。でも、それは私の侍女たちが嫌がらせをしたわけじゃないの。玉雉の策略よ。玉雉は、後宮の儀礼を司っていてね。わざと間違った衣裳の情報を、私の侍女たちに伝えてくれたのよ」 「そうだったんですか。その話は、玉雉をネタにした、お芝居や講談では定番なんですよ」 「そうなの? ここから出て落ち着いたら、玉雉からされた嫌がらせを、たっぷりと話してあげるわね」 「お願いします。それはそうと、さっきの豌豆黄はどうしたんです? おいしかったんですが」 銀鈴は香々に、豌豆黄について尋ねた。 「さっき姿を消したでしょう? なぜか執務室っぽい部屋に出て、机の上のこの風呂敷を開けてみたら、豌豆黄があったんで、もらってきちゃったのよ」 「ちょっといいですか?」 茘娘が香々から、風呂敷を受け取った。 「この柄は、汽車に、鉄道院の紋章じゃないですか? 何、この封筒は? 他には『汽車の友』?」 「今、『キシャ』って言わなかった? 煙をはくからくりの馬?」 「はい。これが汽車です」 茘娘は香々に、風呂敷を見せ、蒸気機関車の絵を指差した。 「これが『キシャ』なのね」 「はい。でも風呂敷用の絵ですから、本物と比べると、大分変形してますが」 茘娘は香々にそう言ってから、風呂敷に包まれた封筒を開けた。中の原稿に目を落とした。 鉄道院とは、官有鉄道の建設・運営を行うとともに、辻馬車など交通機関、旅館などの旅行関係産業の監督を行う役所。その紋章は、蒸気機関車の動輪。『汽車の友』とは、鉄道院が発行する旅行・鉄道雑誌。 「『古今鉄道旅行記案内 第五回』? 後宮の中でこんなの書くのは? ああ、やっぱり!?」 「どうしたの? 茘娘。そんなに大声を上げて?」 香々が茘娘に、怪訝な顔で尋ねた。 「これを見てください」 真っ青な顔の茘娘は、件の原稿の著者署名を指差した。そこには「越忠元」と書かれてあった。忠元は、皇帝の側近や判事としての顔のほか、無類の鉄道好きでもある。『古今鉄道旅行記案内』は、その名の通り、古いものから、現代のものまでの鉄道旅行記の書評だ。 「『越忠元』? あなたたち三人を、ここにぶち込んだ判事ね」 「そうですよ。よりによって、裁いた判事の豌豆黄を盗み食いしたんですよ。香后さま、なんでまた、越先生の豌豆黄を盗ってきてしまったんですか!? 追加の罰を受けかねませんよ!」 「ごめんなさいね。消えた途端、どこか分からない部屋に飛ばされて、たまたまあったのを持ってきちゃっただけだから。聞かれたら、私が盗んで食べた、と自白するから。いい? 私が盗んで食べただけだから。あなたたちは、何の関係もないのよ」 「まあ、食べちゃったものは仕方ないわよ。それに、えつ、いや忠元も、いい薬じゃない? わたしたち三人を勝手に生贄にして、断食までさせたんだから。いい気味よ」 銀鈴は悪巧みの笑みを浮かべた。 茘娘は豌豆黄の包み紙を手に取った。 「これは宮市で売っている豌豆黄ですね。閉じ込められてなければ、同じ豌豆黄を買って、こっそり元に戻しておけば、ごまかせたかもしれません。もう夜ですから、閉じ込められてなくても、宮市は閉まってますけど。食べてしまった豌豆黄は仕方がないにしても、原稿だけでも返さないと。香后さま、原稿だけでも返しに行っていただけますか?」 「さっきも言ったけど、姿を消したら、偶然執務室に出たのよね。また行けるかどうかは分からないけど、それで良ければ行ってみるわ。それでもいい?」 「はい、お願いします」 香々は姿を消した。 ●銀鈴、皇后宮へ戻り、ブチギレるのこと 「うまく、例の執務室に出られたわ。原稿と雑誌は風呂敷に包んで、元の位置に戻しておいたわ」 香々が戻ってきた。 「ありがとうございます」 茘娘が香々に、頭を下げた。 「とにかく、早くここから出ないと。忠元も、仁瑜も、さすがにわたしたちを獄死させるつもりはないだろうけど。あの二人、絶対許さないわよ!」 銀鈴は、顔を真っ赤にして、こぶしを握り締めた。 「銀鈴、あなたたち三人がここ(永巷)に入れられたのは、幽霊調査が真の目的なのよね? 私が牢番の前に出て、牢番を人質に取れば、簡単に出られんじゃない?」 「それはそうですが。そんなことして、大丈夫ですか? 下手すると、悪霊と間違われて返り討ちに遭うんじゃ?」 銀鈴は不安げに言った。 「大丈夫じゃない。銀鈴たちの話を聞く限り、私は有名人のようだし。もし攻撃されそうになったら、あなたたちが『この幽霊は麹香々』って言ってくれれば、それで済むんじゃない?」 「えーと、今上皇帝陛下の祖父の祖母君は確か、香后さまの弟君のひ孫さまだったはずです。だから、陛下も香后さまの血を引かれていますわ。そんなに心配は要らないのでは?」 茘娘は、額の真ん中に人差し指を当てて記憶をたどった。 「そう。その話しは落ち着いてから、ゆっくり聴かせてもらうとして。今の皇帝に、私の血が入ってるの? それなら大丈夫そうね」 香々がそう言った瞬間、起床合図の銅鑼の音が響いた。 「えっ、もう朝? 徹夜しちゃったの? 窓がないし、時間が分からないわね」 銀鈴がそう言った。 「三人とも、手伝ってあげるから、早く布団を畳んで、筵の上に正座しなさい。その首輪は、って、言ってるそばから!」 銀鈴、茘娘、棗児の三人は、首輪、手枷、足枷をつけられていたとはいえ、壁にもたれたり、足をくずしたりと、不自由なりにくつろいだ姿勢を取っていた。 「ごめんなさい!」 「申し訳ありません!」 「何なの? 今まで絞まってなかったじゃない!?」 銀鈴、茘娘、棗児三人の首輪が絞まった。彼女らは、口々に叫び、お互い重なり合うように倒れ込んだ。 「その首輪は、起床合図の銅鑼の音で、効き目が入り、就寝合図の鉦の音で、効き目が切れるのよ。起床の銅鑼の音がなった以上、足を崩したり、大声をあげたり、そのほか獄則違反をすると、首輪が絞まるわよ。早く布団を畳んで、正座しなさい」 銀鈴たち三人は、香々の手も借りて、首輪、手枷、足枷つきの不自由な体で、四人も居れば身動きすらままならぬ狭い独房に苦戦した。苦労して布団を畳み、筵の上で正座した。 「そんな!? でも、何で香后さまの首輪は絞まらないんですか?」 銀鈴が香后に、不思議そうに尋ねた。 「私はもう死んでるからね。それに三百年経ってるし。牢番を人質にして、首輪だけでも外させないと、何もできないわね。じゃ、灯を消すわよ。いったん消えるわね」 そう言うと、香々は夜光石を片付けて、姿を消した。 扉の監視口が開いた。監視口から秋水が顔を出した。 「朝餉だぞ」 秋水は、差し入れ口から三人分の粥の椀を差し入れた。 「あなた、牢番ね。あの子たちの枷の鍵を渡しなさい!」 その声で、秋水は振り返った。そこには、香々が居た。 「秋水、その幽霊は、あの香后さまなのよ! あんたたちの企みは全部分かってんだから!」 銀鈴が、喉が裂けるばかりに叫んだ。 「そう、私は麹香々。あなたも後宮の住人なら分かるわよね?」 秋水は、香々の前にひざまずいた。 「ご無礼いたしました。それがし、娘子軍将軍で、姓を芬、名を秋水と申します。すぐに開けますので」 秋水はそう言って、幽閉房の扉を開け、銀鈴、茘娘、棗児の首輪と手枷、足枷を外した。 「秋水、わたしたちを『生贄』にして、幽霊調査をしたわね? これが証拠よ!」 銀鈴は、床にひざまずいている秋水の鼻先に、『招遊魂符』を突き付けた。 「ご賢察の通りでございます、銀后さま。これまでのご無礼をお詫び申し上げます」 秋水はそう言って、床に手を付き、深々と頭を下げた。 「案外あっさり、“策だった”と自白したわね。将軍の秋水のことだから、“守秘義務”とか言って、口を割らなそうだったけど。ずいぶん虐めてくれたわね? よりによって強制断食させて! 朝餉が消えたとき、堅物のあんただから、代わりを持ってきてくれないのは、まだ分かるわよ。でも、『朝餉が消えた』との事情を考えると、普段使っていない永巷のイチジクを食べるぐらいなら、見て見ぬふりをしてくれたんじゃない? なのに、『当分の間幽閉刑』でここ(幽閉房)にぶち込んだわよね? これ全部、忠元と仁瑜の指示でしょう? もし、ここ(永巷)に居た幽霊が、香后さまじゃなくて、悪霊だったら、どうすんのよ! わたしだけだったら、まだいいわよ。茘娘と棗児も居たのよ! 後宮全体や、国全体を巻き込む禍になったらどうすんのよ!」 「左様でございます。越太判事からは、『策だとバレたら、全て話すように。中途半端に知られていると、かえって危ない』と言われておりました。また、銀后さまたちが『獄則違反をしたら、それを理由に幽閉房に入れるように』との指示でした。『幽霊が出る』とのウワサがいちばん強いのが、この幽閉房でしたので。悪霊が取り付いていることは、当然想定しておりました。皇太后さまに、『玉女符』『鎮亡者符』『解精邪厄符』『生霊不来符』『鎮奇怪符』をご用意いただきましたので。そもそも銀后さまの“無邪気の気”なら、悪霊のほうから勝手に消滅してくれますので」 「やっぱりそういうことね。そのことは、香后さまから聞いたわ。自覚はないのよね。ってか秋水、あんたに“皇后さま”扱いされて、敬語で話されると、他人行儀で気持ち悪いのよね。なんかの嫌味? やめてちょうだい!」 銀鈴と秋水は、後宮太学の寮では同室だった。二人は親友だ。 「なら、そうするが」 秋水の口調が普段通りになった。 「忠元と仁瑜を連れてきなさい! いや、待つのも面倒ね。こっちから行くわ!」 銀鈴はそう言うと、重湯同然の粥を一気に流し込んだ。粥は、この騒動で冷めきっていた。 「陛下も、越先生も、この時間なら、執務をされている。いったん皇后宮にもどって、風呂に入って、着替えて、食事をしてからにしてはどうか?」 「そうですわよ。銀后さまも、徹夜でお疲れでしょう。丸一日、首輪、手枷、足枷を付けられていたんですから、お体が痛みませんか?」 「そうですよ。お風呂に入ってスッキリしましょう。朝餉が、重湯同然のお粥一杯では、足りませんよね?」 秋水のほか、茘娘と棗児も、銀鈴に風呂と食事をしきりに勧めた。 「それもそうね。仕返しするにしても、しっかり食べてからのほうがいいわね。じゃ、皇后宮に戻るわよ」 銀鈴は立ち上がった。 皇后宮、謁見の間。 床には、黄色地に、皇后を示す月季花(げっきか)――薔薇の一種 ――の絨毯が敷き詰められている。 床から三段の高さの壇に、黄色の分厚い座布団が敷かれた皇后の玉座が据えられていた。 銀鈴は、むくれた顔でその玉座に座っていた。 銀鈴は、風呂に入って、囚衣から普段着に着替えていた。玉座に座っている銀鈴の姿は、その辺の町娘や村娘が玉座に座っているようにしか見えない。 壇の上には、通常皇后の玉座一脚しか置かれていない。だが、今日は銀鈴の玉座の隣に、特にもう一脚の椅子が置かれていた。その椅子に、香々が座っていた。香々も、風呂に入り、首輪、手枷、足枷を外し、寿国の貴婦人の衣をまとっていた。 銀鈴と香々が並ぶと、香々が良家の若奥様、銀鈴がその侍女といった感じだ。 壇の上には、緑色の女官着に着替えた茘娘と棗児が、立ったまま控えていた。 「忠元も、仁瑜も遅いじゃない! こっちから行こうかしら!」 銀鈴が、大声で文句を言った。 「お茶でも飲んで落ち着きなさい、銀鈴。入れ違いになるわよ」 香々は、そう言って、脇卓に置かれた黄色の蓋椀(がいわん)――蓋と受け皿付きの茶碗――を、受け皿ごと持ち上げ、蓋をずらし、蓋で中の茶葉を押さえつつ、茶をすすった。 「蓋椀でお茶を飲むのも、三百年ぶりなのよね。あまりこっちの作法を学ぶ間もなく、幽閉房に入れられたけど、これで大丈夫かしら?」 「大丈夫ですよ、香后さま。所作も十分優雅です。これなら皇族方のお茶会に出席されても、何ら問題はないかと」 香々と目が合った茘娘は、すかさずそう言った。 「そう。ありがとう」 「何、のんきなこと言ってるんですか? 忠元も、仁瑜もこのまま逃げるつもり? やっぱりこっちから行ったほうが!」 銀鈴が、香々と茘娘をにらめつけた時、秋水に先導されて、忠元が現れた。秋水と忠元は、大きな風呂敷包みを持っていた。 「銀后様、お召しにより、臣、忠元、参上仕りました」 忠元はそう言って、銀鈴が座る玉座の壇の下にひざまずき、深々と頭をたれた。 「仁瑜はどうしたのよ? まさか逃げたわけ?」 「陛下は、後ほどお越しになられます」 「忠元、これどういうこと!? わたしたちに、勝手に『苦肉の計』をさせたわね!? それも、強制断食を! わたしはこれでも、一応皇后なのよ! 臣下がこんなことをしていいと思ってんの!? 結構遊んでなかった? 申し開きはある?」 「ご賢察の通りでございます。申し開きはございません。この策は、全て臣の責任でございます。お怒りは全て受け止めます」 忠元は、再び額を床につけた。 銀鈴は、“これぞ、悪女!”な笑みを浮かべた。 「そう。覚悟はできてるのね? さすがだわ。じゃ、望み通り、やってあげるわよ!」 銀鈴は立ち上がり、懐から雷符を取り出した。 「勝手に幽霊おびき寄せの『生贄』にして、強制断食までさせて、許さないんだから! 臨兵闘者皆陣列在前、出(い)でよ雷! 急々如律令!」 銀鈴は呪文を叫び、『雷符』を忠元めがけて投げ付けようとした。 銀鈴が忠元に『雷符』を投げ付けようとした時、仁瑜が皇后宮の謁見の間に入って来た。 仁瑜は叫ぶ。 「銀鈴! やめなさい!」 銀鈴は忠元めがけて、『雷符』を投げ付けた。忠元に、稲妻が襲い掛かる。だが、稲妻が忠元に落ちる瞬間、消えた。 「えっ、何で!?」 銀鈴は、気を失い、玉座に倒れ込んだ。 「やはり、こうなりましたか。皇太后さまに『消雷符(しょうらいふ)』を用意していただいて良かったですね」 忠元は平然な顔で、自身のひざ元に落ちた『雷符』を拾った。 『消雷符』とは、雷除けの霊符。 「銀鈴、大丈夫か?」 秋水が、玉座の壇を駆けあがり、銀鈴を抱きおこそうとした。 「秋水、私が」 仁瑜は手を挙げて、秋水を制した。 「御意」 秋水は仁瑜に、拱手の礼を執った。 仁瑜は苦笑して、銀鈴を抱き上げた。銀鈴を、寝室に運び、寝かせた。 皇后宮、銀鈴の寝室。 銀鈴は、仁瑜の手によって、紫檀の天蓋付き寝台に寝かされていた。 銀鈴は目を覚ました。枕もとの椅子に座っていた仁瑜の胸ぐらをつかんだ。 「仁瑜、わたしは何で気絶してたのよ? あの茶番は何だったのよ!? コオロギ賭博流行を抑える『生贄』じゃなかったの? あんな変な策を認めたのよ! ほぼ一日断食させられたじゃない! 幽霊調査なら、別のやり方があったんじゃないの!? 調査自体は、後宮のみんなも困っていたようだから、やるのは分かるわよ。もし悪霊に取り付かれたらどうすんのよ!? わたしだけならまだしも、茘娘と棗児も居たのよ! 後宮全体、下手をして国全体に禍が及んだら、どうするつもりだったのよ!」 「悪かった。申し訳ない。とにかくこれを飲んで、落ち着いて」 仁瑜は銀鈴に頭を下げ、銀鈴によく冷えた酸梅湯(ウメジュース)がつがれた玻璃盃(グラス)を手渡した。 銀鈴は、酸梅湯を飲み干した。口の中に、青梅の爽やかな風味が広がった。 「香后さまは? 仁瑜、永巷に居た幽霊は、香后さまなのよ」 仁瑜は銀鈴に、銀鈴が作った『雷符』を見せた。 「落ち着け、落ち着け。銀鈴が気絶したのは、師兄が『消雷符』を持ってたのもある。が、君が作った『雷符』は、きちんとした手順にのっとっていなかったんだ。ほら、落書きの裏を使っただろ? 霊符は、書く霊符に特に定められていない限り、特別の紙を使う必要はない。ただ、清浄である必要がある。一度使った紙だと、効力は発揮しにくい。それに、この霊符の“気” を見ると、怒りのあまり慌てて書いただろ? さらに、筆や身も清めていなかったのではないか? だから、この『雷符』に、“気”が吸い取られて、銀鈴は気絶したんだ。霊符は、正しく作り、正しく用いなければならない。今回は気絶で済んだから良かったが、『雷符』の場合は効き目が跳ね返って、丸焦げになることもある。軽々しく用いてはならない」 仁瑜は、銀鈴を諭した。そして言葉を続けた。 「事情は、銀鈴が気を失っている間に、茘娘と棗児、そしてご先祖様ご自身から聞いた。ご先祖様や秋水からも聞いてはいると思うが、銀鈴、君の“無邪気の気”はすごいんだぞ。多少の悪霊なら、悪霊のほうから勝手に消滅してくれる。最初から、君と茘娘、棗児に危険が及ぶ可能性は低いと判断していた。万が一の場合も、師兄や母上とも相談して、母上に霊符を作っていただいて、秋水たち娘子軍に渡しておいた」 仁瑜はそう言って、茘娘、棗児、香々を見渡した。茘娘、棗児、香々はうなずいた。 「仁瑜、香后さまをどうするつもりなの? まさか退治するとか?」 「銀鈴、安心しなさい。香々さまはご先祖様だ。退治することはできないし、その必要もない。事情を聞いて、すぐ族譜を確認した。それに、私にも“気の正邪”は分かる。ご先祖様に邪気はない。居てくだされば、良いことが起こっても、悪いことは起こらないよ」 「香后さま、良かったですね」 「ありがとう。でも、銀鈴。その『香后さま』って呼び方、何とかならない? あなたは、私の子孫の嫁なんだから。他人行儀なのよね。それに、仁瑜。『ご先祖様』ってのも、間違いはないけど、違和感があるのよね。別の呼び方にしてくれない?」 銀鈴と仁瑜は、顔を見合わせた。 「じゃ、『大おばさま』では?」 銀鈴が香々に尋ねた。 「あま、そんな年でもないのに、“おばさん”呼ばわりは気になるけど、血縁的にはそうなるから、それでいいわ」 香々は、苦笑いをした。 「ところで、仁瑜。こんなにかわいい銀鈴に、変な策をさせるなんて、一体何を考えていたの? 銀鈴のようないい子は千年、万年に一人よ。いや、二度と出てこないかも。もっと大事にしなさい!」 香々は仁瑜に、凄みのある声で問うた。 「その策でしたら、一切の責任は臣にございます、香后様」 寝室の外から、忠元の声が聞こえた。 「越先生、何で部屋の外に居るんです? 入ってきてください。そりゃ、受けなくてもいい罰を思いっきり受けたし、一日断食させられて、腹は立ちますけど。何でこんな変な策を思い付いたのか、ちゃんと聞かせてもらいますよ」 銀鈴は、ふくれっ面で、忠元に呼び掛けた。 「失礼します。ご婦人の寝室でしたので。銀后、あなたのところへ秋水からの『永巷での幽霊騒動について』の報告書が行っていたいたとは思いますが」 銀鈴はうなずいた。 忠元は続けた。 「秋水が永巷を調べても、幽霊は出てこなかったんですよ。でも、調べた後でも規律違反で非公式の罰として、永巷の掃除をやった女官や宮女は『幽霊を見た』という者が多かったんです。それも、『公式の、公開で百叩きの刑でも、炎天下での丸一日の晒し刑でも受けるので、永巷掃除、特に幽閉房の掃除は勘弁してください!』と泣き付く者も少なくなかったんです。そうでしたよね、秋水」 「はい。そうです」 秋水は忠元に相槌を打ってから、銀鈴に向かった。 「永巷掃除はタテマエ上『処罰ではなく、ほかの部署へのお手伝い』。労役ではなく、手伝いに来てもらっているだけなので、強制的にやらせるわけにもいかず、泣き付かれて困ったんだ。越先生に相談したところ、『幽霊は牢番の前には出なく、囚人の前なら「仲間」だと思って出てくるのでは?』とおっしゃってな」 「そうです。初めは、『梨妙音伝』での囚人役が名演でしたので、銀后に囚人役で囮をお願いしようと、陛下や皇太后様と相談していました。ですが、空き部屋に踏み込んだら、上手い具合に銀后がコオロギ相撲賭博をやっていましたので。それなら『敵を欺くにはまず味方から』と、事情は全て伏せて、懲罰を受けてもらった次第です。それに、『演技』よりも『本物』のほうが効果的と考えましたので」 忠元が秋水の後を継いで、銀鈴に説明した。 「それならそうと、言ってくださいよ! 囚人役なら、いくらでも演じてあげたのに!」 「まあまあ、銀鈴。落ち着いて。あなたたち三人が、“本物の囚人”だったから、私も出ていったのよ。演技だったら、不審に思って、出ていかなかったかもしれないわ。退治されるのは嫌だしね」 香々は、銀鈴にそう言って、なだめた。 「それにつきましては、お詫びします。お詫びと言ってはなんですが、こちらを召し上がってください」 忠元はそう言いながら、室内の円卓に風呂敷包みの中身を並べた。 円卓には、周りが土手になって、中央が窪んだごく浅いすり鉢状の分厚い胡餅(ナン)、西域風の羊の焼き肉まん(サムサ)、羊の串焼き、ピスタチオという木の実を使った蜜漬け焼きまんじゅう(バクラヴァ)、甜瓜(メロン)、干しぶどうが並んだ。胡餅(ナン)、焼き肉まん(サムサ)、羊の串焼きは、保温箱に入れられていた。そのため、まだ熱々で、湯気を立てていた。胡餅(ナン)の香ばしい香り、羊の串焼きの香辛料の刺激的な香りが漂った。 「胡食ばかりじゃない。なつかしいわ」 香々が、顔をほころばせた。 「まったく、食べる物を出しておけば、機嫌が治るって思ってるんだから。ま、せっかくだから、いただきます。茘娘、棗児一緒に食べましょ」 銀鈴が、茘娘と棗児にも勧めた。 「いいんですか? 私たちも」 「構わないよ。たくさんあるし、二人にも苦労をかけたからね」 「ええ。侍女部屋にも差し入れてますから、遠慮せずに食べてください」 茘娘と棗児の遠慮に、仁瑜と忠元が応えた。 「越先生、もしわたしたちがあの日に、イチジクを盗み食いしなかったなら、どうしたんです?」 「そうですね。あの日は、午後から幽閉房の掃除をやってもらうつもりでした。それで幽霊が出れば良し。出なくても、怪奇現象の訴えがあれば、『一晩入って確かめなさい』と幽閉房に入ってもらいました。また、囚人の暮らしなど、牢番の匙加減で何とでもなりますからね。それこそ、布団の畳み方が悪いだの、労役中に勝手に休んだだの、口喧嘩をしただの、あらを探せば、いくらでも懲罰の理由は見付けられますよ。口実さえつけば、それを理由に幽閉刑に処せばいいわけですから。早々に、イチジク盗み食いという、分かりやすい上に、しょうもない理由があったのには、手間が省けましたね」 「何よ? この腹黒判事は」 「まあ、そう言わんでください。まあ、一杯」 忠元は、すねた妹をなだめる口調で言った。苦笑いし、銀鈴、香々、茘娘、棗児の玻璃盃(グラス)に、薔薇水を注いだ。 「あの茶番裁判は何だったんですか? 遊んでいるようにも感じましたけど。賭けコオロギ相撲の見せしめは必要なかったんじゃ? 予審も、何で拷問部屋だったんです? 永巷にはほかにも取調室はありますよね?」 銀鈴は、薔薇水を飲みながら、忠元を問いただした。 「別に遊んでいたわけじゃないんですよ。銀后、あなたは忘れているようですけど、蟲毒と呪詛のウワサのもとにもなってましたよね? 公の場所で、あなたたちが蟲毒・呪詛をやってない、と証明し、ウワサを否定する必要もありました。 賭けコオロギ相撲もはやりかけていましたので、釘を差しておいたほうが良かったんですよ。裁判でも言いましたが、コオロギ相撲をやることは全く問題ありません。賭けるにしても、現金は良くないです。ですが、その場で消えるお菓子や果物程度なら、目くじらを立てることはないんですよ。ただ、あのままほうっておくと、一回の勝負で、月の俸給の半分から全額賭ける者が出かねなかったんです。『皇后でも処罰される』と、良い見せしめになりましたよ。おかげで助かりました。 ついでに、政談ものの演目での、裁判場面の参考になるかな? と、あえて舞台映えするよう、芝居ががってやってみました。仮に、幽霊騒ぎが『気のせいだった』との結論で終わったとしても、あの裁判は、少しは役に立ってますよ。永巷で幽霊が出る可能性の高い場所、として、拷問部屋も考えていましたので。結果的には、出ませんでしたけどね。」 「ほんと腹黒ですね」 銀鈴は忠元に向かって、渋い顔でそう言った。 「もし、私が拷問部屋で出たら、銀鈴たち三人は、労役刑にも、幽閉刑にも処せられなかったわけ?」 「そうですね。香后様が、予審の時に拷問部屋にお出ましになれば、幽霊調査はその時点で済みです。もっとも、銀后たちが賭博をやっていたのは事実ですから、処罰なし、にはならなかったですね。見せしめの裁判を開いて、笞打ち刑に処したところです。ただ、処罰は形だけですから、『笞で打つ』というより、『笞を当てる』ですね。ですから、全く痛くはないでしょう。多少くすぐったい、ぐらいはあるでしょうが。まあ、いずれにせよ、賭け金は、全額没収しましたがね」 「ほんと、忠元は腹黒判事よね。銀鈴は、忠元にとっても妹弟子でしょ。もっと大事にしなさい!」 香々も渋い顔で、忠元にそう言った。 忠元は、無言の苦笑いで、ただ頭を下げるだけだった。 「何で、胡食がポンポン出てくるわけ? 私が出たのを知ったのは、今朝でしょう? そんな短い間で、よく用意できたわね。蜜漬け焼きまんじゅう(バクラヴァ)なんて、火昌に居たころでも、めったに食べられなかったわよ。特に、中の緑色のピスタチオなんて、西の胡国から渡来品で、貴重な物よ」 香々は忠元に、不思議そうに尋ねた。彼女は、蜜漬け焼きまんじゅう(バクラヴァ)をつまんでいた。 「胡人街が、ここ長洛にもありまして。そこへ行けば、一通りの物は手に入りますよ。ピスタチオも、胡国まで鉄道、と言ってもお分かりにならぬでしょが、専用の道を通る、煙をはくからくりの馬が牽く車、がありますので。駱駝で運んでいたころと比べれば、西域の産物も楽に安く手に入るようになってますよ」 「えっと、『煙をはくからくりの馬が牽く車』ってのは、『キシャ』とか言わなかったっけ? あの風呂敷の? 銀玲から聞いたけど。それに乗れば、長洛から火昌まで、1日半から二日で行けるとか? そんなことって、あるの?」 「お聞き及びでしたか。それなら話が早いです。『あの風呂敷』って、汽車の風呂敷を見たんですか? 汽車柄の風呂敷に原稿と雑誌と一緒に、豌豆黄を包んでいたんですが、豌豆黄だけ消えたんですよね。永巷で、花捲(ホワジュアン)や肉夾モー(ロージャーモー)が消えていますが、香后様、ひょっとしてあなたの仕業ですか?」 「ごめんなさい。私が食べちゃったの」 香々が頭を下げた。 「食べちゃったって? 豌豆黄はともかく、花捲(ホワジュアン)と肉夾モー(ロージャーモー)は三人分ですよ。しかも、肉夾モー(ロージャーモー)は量が多くて、結構食べ応えがありますが。お一人で、三人分の花捲(ホワジュアン)と、三人分の肉夾モー(ロージャーモー)を食べられたんですか?」 銀鈴は考え込んだ。 (大おばさまは、わたしたち三人の名前を出さないようにしてくれているけど、知らん顔もできないわね。後でバレると、余計に怒られるし。茘娘と棗児は道連れにはしたくないけど。相手は越先生よ) 銀鈴は意を決して、口を開いた。 「ごめんなさい。肉夾モー(ロージャーモー)と豌豆黄は、私が大おばさまからもらって、食べちゃったんです」 「銀后、肉夾モー(ロージャーモー)は三人分で、量も多いんですよ?」 忠元が重ねて問うた。 「申し訳ありません」 茘娘と棗児がそろって頭を下げた。 「肉夾モー(ロージャーモー)は、私と棗児も香后さまからいただいて、食べちゃったんです」 「そうです。茘娘の言う通りです」 「そうですか。では、順を追って聞かせてもらいましょうか。まずは、肉夾モー(ロージャーモー)から」 「私から説明するわね。幽閉房で、銀鈴たち三人に出会ったとき、銀鈴たちが幽閉房に入れられた理由が『私がその日の朝餉の花捲(ホワジュアン)を食べちゃったから』と聞いたのよ。さすがに悪いと思って、食べる物を探していたら、牢番の詰め所に肉夾モー(ロージャーモー)があったので、この子たちに持って行った、ってわけ」 「越先生、大おばさまはそう言ってますけど、わたしが大おばさまに『どうしてくれるんです!? ほとんど強制断食ですよ!』って噛付いたからなんです。そうじゃなかったら、大おばさまが肉夾モー(ロージャーモー)を盗ってくることも、茘娘と棗児が食べてしまうこともなかったんです。だから、わたしが全て悪いんです。罰するなら、わたしだけにしてください」 「銀后、落ち着いて。とにかく、一通り話を先に聞かせてください。肉夾モー(ロージャーモー)のほうは分かりました。肉夾モー(ロージャーモー)を盗られた牢番には、後で埋め合わせをしておきます。次に、豌豆黄は?」 「それは、銀鈴が持っていたお守り袋を開けたら、『招遊魂符』と『玉女符』が出てきたのよ。銀鈴が『幽霊おびき出しの「生贄」にされた!』と騒ぎ出して。食べる物を探しに幽閉房を出たら、どこかの執務室に出て、机の上の風呂敷を開けてみたら、豌豆黄があったのでもらっちゃったの。それを銀鈴に食べさせて落ち着かせたわけ」 「あの、『興奮した銀后さまに「何か食べさせれば落ち着くのでは?」』と言って、香后さまに食べる物を探すようお願いしたのは、私なんです」 棗児が遠慮がちに口を挟んだ。 「銀后さまに豌豆黄を食べさせたのは、私です。ですから、罰するなら、香后さまや銀后さまだけでなく、私と棗児も一緒にお願いします」 茘娘は、棗児と目を合わせて、そう言った。 「豌豆黄も、わたしがブチギレなかったら、棗児が大おばさまに食べ物を探してくるよう頼むこともなかったんです。茘娘がわたしの口に、豌豆黄を押し込むこともありませんでした。罰するならわたしだけにしてください」 銀鈴はそう言って、忠元に深々と頭を下げた。 それを見た、香々、茘娘、棗児の三人も、忠元に向かって、深々と頭を下げた。 「罰するつもりはありませんよ。そもそも私の策が原因ですからね。幽霊騒ぎがあっての奇怪現象ですので、被害品が大したことがないとはいえ、一応話は聞いておかないといけませんので。豌豆黄も、店じまいしかけた宮市の前を通りかかったら、売り子のおばさんに捕まって、買わされた物ですし。原稿と雑誌はお返しいただいて良かったですよ。雑誌はともかく、原稿はないと困るので」 銀鈴たち、四人の女性がホッとした表情を見せた。 「さっきも言ったけど、『キシャ』って何? ほんとに長洛から火昌まで、一日半から二日で行けるの? 火昌は今、どうなってるの?」 「手元に絵や模型がないので、言葉だけでは説明しにくいんですが。汽車というのは、蒸気機関車という、煙をはく鉄のからくりの馬と、それに牽かれる車とご理解ください。蒸気機関車に、石炭という『燃える石』をくべて、湯を沸かすんです。水を張った鍋に蓋をして、そのまま火にかけると、湯が沸いて、カタカタと蓋が持ち上がりますよね。この力を『蒸気』といいます。この『蒸気』の力で、汽車は馬よりも速く走れます。『百聞は一見に如かず』なので、乗っていただく機会を設けたいと思います」 ここで、忠元は言葉を切って、一息ついた。目を閉じて、考え込んだ。 忠元は、目を開け、姿勢を正した。 「申し上げにくいことではあるのですが、結論から先に申し上げます。現在、火昌王国は寿国に併合されております。武力併合したわけでなく、百五十年前に火昌王国側より併合の要請がありまして、これを受諾したわけです。火昌王家は、王号を保持し、現在も存続してます。乱世を舞台にした物語で、武将が、主従関係を結ばずに有力勢力に『客分』『客将』として身を寄せることがあります。これに近いもの、とご理解いただければと」 「えっと、急なことでよく分からないんだけど。つまり、火昌王領の統治権は寿国へ渡したけど、火昌王家――私の実家――は、『家』としては存続していると?」 「はい、左様でございます。百七十年前に、香后さまの弟君の曾孫様が、寿国の月旅帝(げつりょてい)――今上皇帝陛下の祖父の祖父君――に皇后として、嫁がれました。また、それと入れ替わるように月旅帝の妹君――幼いころから占いが得意で、『占い公主』とあだ名されています――が、当時の火昌王殿下に嫁がれました。火昌王殿下と、占い公主様との間には、お世継ぎの麹昇(きくしょう)殿下がお生まれになりました。ただ、残念なことに、麹昇殿下が十歳の時に、占い公主の夫君で、麹昇殿下のお父上は、お亡くなりになりました。その時に、占い公主様の占いで『幼主が国を継げば、民を苦しめ、国を亡ぼす』と出まして。火昌王国と胡国との外交関係は緊張していました。また、幼主が立つと火昌王国内の内部闘争で、火昌王家自体が滅亡しかねない状況でした。 最後の火昌国王の麹昇殿下は、地学、水理学、交易に通じられ、からくりいじりがお好きだったんです。成長されてからは、当時、線路――汽車が通る専用の道――建設が流行していたので、長洛と火昌との線路敷設に取り組まれました。今、長洛で新鮮な火昌の甜瓜(メロン)が食べられるのは、麹昇殿下のおかげですです」 「そうなの。火昌王家は存続しているってことだけど、今はどうなってるの?」 「併合をきっかけに、火昌王家は政治からは遠ざかられ、学問、芸術、殖産産業、福祉、医療に力を入れらています。具体的は、絨毯職人学校を建てて、入学した女の子たちに読み書き・算盤など一般的な学問を教えるともに、絨毯職人として手に職を付けさせています。また、たくさんの甜瓜(メロン)やぶどうなどの果物畑を造り、特産の果物の栽培・販売をされています。直接統治をされなくなったとはいえ、旧火昌王国領では火昌王は『王様』ですよ。今でも大変尊敬され、慕われています。それに、火昌王家と寿国皇室とは、通婚も盛んです。今では『客分』というより、『親戚』として一体化しています」 「領地は失ったけど、悪いようにはなっていないようね。機会があれば、実家の子孫たちにも会ってみたいわ」 「機会はありますでしょう。汽車のおかげで行き来もしやすいので」 「そうね」 「師兄、この幽霊騒動は、どう収める?」 仁瑜は忠元に尋ねた。 「そうですね。香后さまは、『悲劇の踊り子皇后』として、特に芸事の信仰の対象になっていますからね。下手に隠すよりも、思いっきり派手にお披露目したほうが良いかと。霊廟で祭祀を行い、そこで後宮の皆の前に、お出ましいただければと。ご協力いただけますか? 香后様」 「いいわよ。『信仰の対象』ってのは恥ずかしい気もするけど。銀鈴たちの話を聞くと、結構後宮内を騒がせていたみたいだしね」 「ありがとうございます。後ほど、改めて案を詰めますので」 忠元は香后に向かって、頭を下げた。 忠元は、銀鈴の前にひざまずいた。 「銀后様、臣の拙策にて、ご無礼いたしましたこと、改めてお詫び申し上げます。また、このたびのお働きには、感服仕りました」 「越先生、何を改まっているんです? 立ってください」 銀鈴はキツネにつままれた顔をした。 「銀鈴、策を勝手にやらせて、本当に悪かった。でも、そのおかげで大おば様もお出ましになって、幽霊騒動も無事解決した。ありがとう。茘娘と棗児も、よく銀鈴を支えてくれたね」 「もったいないお言葉でございます」 茘娘と棗児は、そろって仁瑜に頭を下げた。 「仁瑜も、越先生も、改まっちゃって。なんか恥ずかしいわね」 銀鈴は、恥ずかしそうに顔を赤らめた。 「銀鈴、これも全部あなたの人徳と“無邪気の気”のおかげよ」 香々は、そう言って銀鈴に抱きついた。 「やめてください!」 恥ずかしさで顔を真っ赤にした銀鈴の悲鳴が響いた。 ●銀鈴、ご褒美に温泉旅行に連れて行ってもらうのこと 銀鈴が、永巷の幽閉房で香々と邂逅した数日後に、後宮の霊廟において、香々をお披露目する盛大な祭祀が行われた。 このとき、香々は「挨拶代わり」にと、踊りを披露した。上半身を包み込むほどの大きさで、向こう側が透けて見えるほどの薄布を頭からかぶり、鎖状の髪飾り、胸当て、へそ出しの西域踊り子衣裳の香々は、まさに天女だった。その踊りに、後宮じゅうが魅了された。 香々は、『梨妙音伝』のネタ元のみならず、後宮が劇団になるきっかけとなった人物。『悲劇の踊り子皇后』として、留梨琳と並び、芸事の神として、信仰の対象となっている。 「香后さまが復活した!」と、後宮内は歓喜に沸き立った。 これにより、永巷での幽霊騒動は消滅。また、銀鈴、茘娘、棗児の蟲毒・呪詛のウワサも、自然と立ち消えになった。 そして、幽閉刑を受けてまで永巷の幽閉房に潜入し、香々を復活させたことで、銀鈴の名声・信望も高まった。「敵軍に“偽装投降”するため、わざと軍議で軍師に逆らって、半死半生の笞打ち刑を受ける、“苦肉の計”のようだ」と。 霊廟での祭祀の数日後。 長洛駅。四方を城壁で囲まれた長洛の真南にあり、長洛の真北にある皇帝の住まいにして、中央官庁街でもある宮城とは、「玄雀大路(げんざくたいろ)」を挟んで、正対している。 駅舎は、行き止まり型で、歩廊(ホーム)が櫛形に並ぶ「頭端式(とうたんしき)」。木造三層建ての楼閣で、閉じた側が北、開いた側が南の「凹」字型。北と東西に建物があり、南が城壁の「三合院(さんごういん)」造り。「鉄道院駅舎建築色遣い基本様式」である、深い青紫である「瑠璃紺(るりこん)色」の瓦屋根、軒は緑色、柱は真朱色。鉄道、特に蒸気機関車は、風呂場と同じで、五行思想で仲が悪い「火」と「水」を一緒に使う。そのため、火の真朱と、水の瑠璃紺に加え、その両者の仲立ちをする「木」の緑を加えている。 午前九時過ぎ、長洛駅一階の切符売り場前の大広間。 「楽しみにしてたのよね。どうやって乗るの?」 「大おばさま、あんまりはしゃがないでください」 銀鈴が、香々をなだめた。二人とも、良家の娘と若奥様の普段着、といった感じのおしのび姿だ。 銀鈴は、仁瑜に香々が鉄道を見たがっていたこともあり、永巷の幽霊騒動解決のご褒美を兼ね、おしのびで早瓜温泉(そうかおんせん)の離宮への一泊旅行に連れていってもらうことになった。鉄道の説明役として忠元、銀鈴と香々の世話係の名目と特別勤務手当の現物支給的意味で、茘娘と棗児も同行する。 「銀玲に、『はしゃがないで』なんて言われるとは思わなかったわよ」 香々は、銀玲の額を小突いた。 「越先生、切符を」 銀鈴が忠元に、手を出した。 「寝台券や特別急行券なら、前もって買っておきますが、今日は短距離ですからね。今から買ってきます。茘娘、棗児、頼みますよ」 忠元は、茘娘と棗児に、銀鈴、香々、仁瑜の面倒を見るように言った。 特別急行列車は全車指定席。 「往復で買っておきました」 忠元はそう言いながら、長洛―早瓜温泉間の二等往復乗車券を配った。青い地紋の硬券だ。 鉄道院の列車は、一等、二等、三等の三階級制。ただし、一等車は特別急行・急行にのみ連結される。 「これ、どうするの?」 往復分二枚の切符を手にした香々が忠元に尋ねた。 「ああ、そうでした。汽車は、乗る前にどこまで行くかを言って、切符を買う必要がありますので。切符は、必要なときだけお渡ししますので、私が預かりましょうか? それともご自分でお持ちになりますか?」 「よく分からないから、任せるわよ」 香々は、そう言って忠元に切符を渡した。 「では、お預かりします」 忠元はそう言ってから、帯に挟んだ懐中時計を手に取った。 「ちょっと早いですけど、歩廊(ホーム)に入りますか?」 忠元の問いに、銀鈴たち一同はうなずいた。 「そこが改札です。改札掛に切符を見せてください。切符にハサミが入って返ってきますから、また私に渡してください」 忠元は改札口を指差しながら、そう香々に説明した。 一行は、改札を通って、歩廊(ホーム)に入った。 笛の声、車輪の響きも賑やかに、煙を吐き立てて汽車が出入りしている。 赤旗、緑旗を持ち、武官朝服と同型、濃紺色の鉄道官吏朝服姿の駅員が居る。 荷物車から降ろした荷物、詰み込む荷物を満載した台車が、人ごみの中をぶつからずに、神業的走りを見せている。 「すごい!」 香々は目を見張り、固まった。 「大おばさま、危ない!」 銀鈴が、香々の袖を引いた。香々は、荷物の荷車とぶつかるところだった。 「ごめんなさい。つい、驚いて、見とれてしまって」 「人ごみで危ないんですから、気を付けてくださいよ」 銀鈴は、香々を引率していて得意げにうなずいた。 「こっちですね」 忠元は、銀鈴たち一行を先導し両洛本線(りょうらくほんせん)乗り場へ向かった。 両洛本線は、帝都・長洛と、副都・東洛とを結ぶ路線。目的地の早瓜温泉は、その両洛本線で、長洛から東へ、普通列車で一時間強の場所。 両洛本線乗り場。 「ちょっと、お菓子を買ってくる」 銀鈴は、島式歩廊(ホーム)の中央にある売店へ向かった。 銀鈴は、売店で、豌豆黄、煎り豆――ザラメ味、塩味、味噌味、醤油味――、飴を買い込んだ。 「銀鈴、そんなに買ってどうするんだ?」 仁瑜はあきれ顔だ。 「出掛けるのも、久しぶりだし、いいじゃない」 「今日は一時間程度で、一日、二日乗り詰めでもないぞ。それに、着くのは昼前で、すぐ昼餉だ。昼餉が入らなくなっても、知らんぞ」 「大丈夫、大丈夫」 「ほんとに銀玲の腹は底なしだな」 仁瑜は渋い顔になった。 「× 番線に九時四五分発、両洛本線下り、早瓜温泉方面、早瓜温泉行き普通列車が、入線しまーす。白線までお下がりくださーい!」 早瓜温泉行き普通列車の入線を知らせる案内が流れた。八輌の栗皮色の客車が、黒い蒸気機関車に押されて、推進(バック)運転でゆっくりと入線してきた。竹筒を二つ割にして伏せたような丸屋根の客車だ。 銀鈴たちは、早瓜温泉行き普通列車に乗り込んだ。車体には、二等車を示す青帯が巻かれ、「早瓜温泉行」との行先票がかかっていた。 乗降口(デッキ)から、客室に入った。客室は、通路を挟んで、四人向かい合わせの組座席(クロスシート)が並んでいる。 銀鈴と香々は、向かい合って窓際の席に座った。銀鈴の横に仁瑜が、香々の横に忠元が座った。茘娘と棗児は、通路を挟んだ反対側に向かい合って座った。 夏なので、窓は開け放たれている。皆、氷風扇の扇子やうちわであおいでいた。 「まもなく、× 番線に一〇時ちょうど発、両洛本線、東洛方面、東洛行き特別急行『赤兎(せきと)』が入線しまーす。白線までお下がりくださーい!」 東洛行き特別急行「赤兎」が、推進運転で入線してきた。銀鈴たちが乗って早瓜温泉行き普通列車とは、歩廊(ホーム)を挟んだ向かい側だ。後ろから、赤い馬をあしらった愛称板(テールマーク)を掲げて、白帯の開放型展望台(デッキ)付き一等座席車、青帯の二等座席車四輌、食堂車、赤帯の三等座席車三輌、郵便手荷物車。 午前九時四十五分。 「× 番線の九時四五分発、両洛本線下り、早瓜温泉方面、早瓜温泉行き普通列車、まもなく発車しまーす。次の停車駅は× × です。× 番線の九時四五分発、両洛本線下り、早瓜温泉方面、早瓜温泉行き普通列車、まもなく発車しまーす。次の停車駅は× × です」 乗客を殺気立たせることもなく、間延びさせることもなく、速からず、遅からず、適度な速度で、発車合図の銅鑼が鳴った。 汽笛一声、列車が動き出した。 「結構揺れるのね」 香々がつぶやいた。 「大きな駅だと、駅を出た直後と、入る直前は、どうしても揺れますからね」 忠元が答えた。 列車は、無数の分岐器がある長洛駅構内を走って、長洛の正門である「朱雀大門(しゅざくだいもん)」を抜けた。城壁の上に二層の楼閣を載せた、立派な楼門だ。 朱雀大門を抜けると、列車の速度は本格的に上がった。 銀鈴は、乗車前に売店で買った煎り豆を食べている。 「銀鈴、ほどほどにしておけよ。着いたらすぐ昼餉だから。食べられなくなっても知らんぞ」 「何よ、仁瑜? また同じこと言って。お母さんみたいで口うるさいわよ。霜楓師叔じゃあるまし」 銀鈴がむくれた。 皇帝や皇后の実名は、畏れ多いので、報道されることもない。今のやり取りで、仁瑜と銀鈴が、「皇帝と皇后」と分かる人は、この二人に直接使える人物。事情は察してくれる。また、後宮劇団は、銀鈴に限らず皆、芸名を使っているので、気付かれない。 薛霜楓は、総女官長であるとともに、年若い女官や宮女の母親代わり。銀鈴にとっても、口うるさい教育係でもある。 「ほんと、速いわね!」 歓声を上げた香々が、開け放たれた窓から身を乗り出そうとした。その瞬間、香々の向かいの銀鈴が、香々の衣を掴んだ。 「危ないです! やめてください!」 「何やってるんですか? 子供じゃあるまいし。危ないですよ! 落ちたらどうするんですか? 馬から落ちるのとは、訳が違いますよ」 香々の隣の忠元もとめた。 「もう死んでいるから、大丈夫よ」 「そういう問題じゃないんですが」 忠元は渋い顔になった。 「忠元、この汽車にはほかに何があるの?」 「香先生、見て回りますか? といっても、短距離の普通列車ですから、ほかには三等の座席車がある程度ですが。長距離列車なら、食堂車や寝台車もあるんですが」 「香先生」とは、香々のこと。香々が、「蘇った幽霊」と説明するも面倒なので、「後宮劇団付きの踊りの師範」ということにしてある。 「『しょくどうしゃ』? 『しんだいしゃ』? 何、それ?」 「食堂車ってのは、汽車の中の料理屋ですね。朝に乗って、目的地に着くのが夜だとしても、汽車の中で最低でも一食、場合によっては二食、三食取ることがありますから。寝台車ってのは、夜を徹して走る汽車に付く車両で、夜に横になって寝ながら旅行ができますよ」 「そんなのあるの!? 乗ってみたいわ」 香々が目を見開いた。 「そうですね。機会を見付けますか。じゃ、行きますか」 「そうね」 「わたしも行ってくる」 忠元が席を立つと、香々と銀鈴も席を立った。仁瑜は軽く片手を挙げて応えた。 銀鈴たちが乗った二等車は、編成の一番端、機関車のすぐ後ろの一号車だ。 忠元の先導で、銀鈴と香々は隣の三等車へ向かった。 途中の二等車の乗降口(デッキ)で立ち止まった。 「ここが手洗いです」 忠元が「厠」と札が貼られた扉を指差した。 「お手洗いまであるの? 中を見てみてもいい?」 香々が驚きの声を上げた。 「空いていますから、どうぞ」 香々は厠の中に入って、すぐ出てきた。大いにうなずいている。 「狭いけど、一通りのものはあったわね」 「長く乗ると、どうしても必要ですからね。じゃ、こちらへ」 忠元は、先導して隣の三等座席車へ入った。銀鈴と香々も続いた。 三等座席車は、通路を挟んで、二人掛け向かい合わせの四人掛け組座席(クロスシート)と三人掛け向かい合わせの六人掛け組座席(クロスシート)が並んでいた。 「ここが三等の座席車になります」 忠元が香々に説明した。 「ほとんど人が居ないわね」 香々はつぶやいた。 銀鈴、香々、忠元のほかには、一、二の区画にひとり、二人の客がいる程度だ。 「空いている時間帯ですからね。それに、始発の長洛駅は行き止まり式の駅なので、こっちのほうは改札から遠いんですよ。改札に近い、後ろのほうの客車なら、もう少し混んでいるとは思いますよ」 銀鈴と香々は、六人掛けの区画に腰を下ろした。 「越先生、三等でも良かったんじゃないですか? 空いてますし。三等のほうが安いですよ」 「まあ、確かにこの時間なら、三等でも空いてますからね。三等の座席でも、座り心地が悪いわけでもないですから」 忠元は苦笑いをした。 「二等と三等はどう違うの?」 香々が尋ねた。 「既にご覧になっているように、二等は四人掛けの組座席(クロスシート)、三等は四人掛けと六人掛けの組座席(クロスシート)で、ひとり当たりの空間が、二等のほうが広いですね。がら空きだと実感はないですが、座席が全部塞がっていると、違いは大きくなりますよ。二等は、三等よりも座席と座席の間が広いですよ。長い時間乗るとき、特に寝台車ではなく、座席車で夜を明かす場合には、空いていれば前の座席に脚を投げ出すこともあります。ただ、脚が短い人だと、二等では前の座席に脚が届かないこともありますね」 「じゃ、やってみる」 銀鈴は、履を脱いで前の座席に脚を載せた。 「一応、届くけど、腰が不自然で痛くなりそう」 「銀鈴、あなたの場合は、素直に三人掛けの席に横になったほうがいいんじゃないですか? 手足を縮めれば、横になれるのでは? 「そうですね」 銀鈴は、手足を縮めて三人掛けの席に横になった。 「何とか横になれますね。でも、これで一晩寝るのはちょっとキツイかな?」 銀鈴は、同じ年ごろの娘の平均よりは、やや小柄。 「銀鈴、遠出をするなら、ケチらず寝台券を買ってください。お金は持っているでしょう。まあ、寝台券が売り切れで、どうしてもその列車に乗らないといけない用事があったら、そうはいっていられませんが。あと、切符の値段が違いますね。二等は、三等の二倍です」 香々はうなずいた。 忠元の先導で、銀鈴、香々は編成の最後尾まで行った。忠元の言う通り、後ろの車輛に行くにつれて、乗車率は高くなっていた。 最後尾の八号車の乗車率は、空き区画はなく、四人掛けの区画に二、三人、六人掛けの区画に四、五人座っていた。 銀鈴たちは、八号車後ろの乗降口(デッキ)まで来た。 「外を見るなら、あそこもいいですね」 忠元は、貫通扉を指差した。 「すごい」 香々は、貫通扉の前に立った。 窓の外には、黄土平原(おうどへいげん)とその恵である青々とした麦畑。黄土色の水をたたえ、西から東へ流れる大河、北河(ほくが)。その北河に沿って、上下線四本の軌条(レール)。長洛方面の上りの、旅客列車、貨物列車、荷物列車と次々にすれ違っていく。 銀鈴と忠元は、扇子で扇いでいた。乗降口(デッキ)は、乗降扉と貫通扉が閉まったままだと、風通しが悪く、暑い。 「馬車や駱駝車と違って、外が良く見えるわね。開かないわ」 過ぎゆく景色に見とれていた香々が貫通扉を開けようとした。 囲いのある寿国の馬車は、壁を背にして長椅子が置かれる形が多い。また、車を牽く動物は馬とは限らない。西域では、駱駝に車を牽かせることもある。 「特にご婦人用の馬車は、乗っているご婦人の姿が、外から見えないようになってますから。落ちたら危ないんで鍵がかかってるんですよ。事故が起きたときは、開けて逃げられるようにはなっていますが。ここは暑いので、戻りますか?」 忠元が、手ぬぐいで額をぬぐいつつ、香々に聞いた。 「そうね。もっと眺めていたいけど、銀鈴も暑そうだし、戻りましょうか」 銀鈴、香々、忠元は、二等車の席に戻った。 列車は、とある駅に止まった。 「通過列車待ちのため、五分間停車いたします」 車掌がそう触れ回った。 銀鈴、香々、仁瑜、忠元の席は、歩廊(ホーム)とは反対側の通過線に面していた。 轟音を立てて、特別急行「赤兎」が通過した。 「今の汽車は何? 後ろに広縁(ベランダ)が付いていたようだけど」 香々が、大きく目を見開いた。 「よく気付きましたね。結構速度が出ているので、気付かないこともあるんですが。あれは、特別急行『赤兎』といって、寿国で一番速い汽車なんですよ。最後尾に付いているのが、一等展望車です。展望台(デッキ)には自由に出られますよ。まあ、一等車に乗る人は、高位の官吏や、大商家の主人が多いですね。その人たちは、お年寄りとまではいかなくても、それなりの年齢ですからね。子供のように、展望台(デッキ)に立ちたがることは少ないですよ。展望台(デッキ)に立つのは、発車の前後で、見送り人・出迎え人に挨拶する時が多いですね」 忠元が香々に説明した。 「面白そうね。乗ってみたいわ。何とかならない?」 「展望車付きの汽車は、早瓜温泉には止まらないので、今回は乗りようがないんですが。いつかは、展望車に乗る機会を、何とか見付けてみます」 忠元は香々に、そう応えた。 「次は終点、早瓜温泉、早瓜温泉。お忘れ物ございませんようお気を付けくださーい」 車掌が触れ回ってきた。 「もうすぐ着きますよ。忘れ物をしないように」 忠元は周りに声を掛けた。 窓の外には、麦畑のほかに、瓜畑が多くなってきた。温泉熱を利用し、瓜を促成栽培している。よって、早瓜産の瓜は、他の産地に先駆けて市場に出回る。 午前十一時すぎ、列車は定刻通り、早瓜温泉駅に着いた。 銀鈴たち一行は、改札を通って、迎えの馬車に乗り込んだ。 早瓜は、西瓜湯山(せいかゆざん)のふもとの、城壁に囲まれた街。早瓜温泉駅に正対する南門、両洛街道(りょうらくかいどう)が通る東門、西門の三つの門がある。 早瓜離宮は、早瓜の城壁の外で、東瓜湯山(とうかゆざん)の中腹にある。その東瓜湯山の中腹には、後宮を含めた長洛の宮城とは異なり、黒瓦屋根、赤褐色の檜皮色の柱、白壁の建物が立ち並んでいた。 東瓜湯山は、菱形上に湯瓜川(ゆかがわ)に囲まれている。湯瓜川は、東瓜湯山の北側で二股に分かれ、南側で再び一緒になり、北河に合流する。このため、早瓜離宮には、舟で渡る。 銀鈴たち一行は、早瓜温泉駅到着後、早瓜の町の真北、西瓜湯山三合目にあり、温泉の神を祀る湯畑廟を参拝し、早瓜の飲茶(ヤムチャ)屋で昼餉を取った。肉まん、小籠包、餃子、焼売、羊肉包モー(ヤンロンパオモー)といった、粉もの尽くしの“粉モン宴”だった。なお、豚肉を食さぬ香々と一緒だったので、肉は羊と鶏だった。 餃子は、水餃子や焼き餃子のほかに、酸っぱい汁に入った羹餃子(スープギョウザ)もあった。 小籠包は、いわば「羹(スープ)入り肉まん」。小籠包を、レンゲに載せ、箸で皮を少し破り、中の羹(スープ)をすすってから、本体を食べる。 羊肉包モー(ヤンロンパオモー)とは、羊肉の羹(スープ)で、硬くて平べったい焼き麺麭を細かくちぎって、煮たもの。好みで唐辛子味噌を入れ、酢漬けのにんにくが添えられる。和人向け観光案内書いわく、「麺麭(パン)雑炊」。 香々は、「こっち(長洛)の粉ものは何を食べてもおいしいのよね」とご満悦だった。銀鈴も、「そうでしょう。こっち(長洛)へ来た時、驚きました」と応じていた。 その後、銀鈴たち一行は、湯けむりが漂い、黒瓦屋根、檜皮色の柱、白壁、軒には算盤の玉のような紅い提灯を下げた、建物が立ち並ぶ、早瓜の街の散策を楽しんだ。 早瓜到着日の午後五時過ぎ。 早瓜離宮の露天風呂。 銀鈴、香々、茘娘、棗児の四人は、同じ湯船につかっていた。眼下には、早瓜の城壁、城壁の外の瓜畑、ぶどう畑、麦畑が広がっていた。この露天風呂は、ふもとの田園風景を借景に造られていた。 「農村が庭園になっていて、その庭園の池が、そのままお風呂になった感じで、いい雰囲気よね」 香々が喜色を浮かべた。 築山からの温泉の滝が、滝つぼの岩造りの湯船に落ちている。周囲には、桐、槐、柳、竹、松といった木々や花々が植えられ、鉾(ほこ)や剣(つるぎ)、のこぎりを思わせる奇岩が置かれていた。 「庭園の池、といえば、後宮太学の学生だったころ、夏に後宮の庭園の池で水浴びしていたら、霜楓師叔に怒られたことがあったわね。あのころは、皇后に選ばれるとは思ってなかったけど」 銀鈴は、茘娘と棗児を見た。 「あの時ですね。しぶる秋水を、三人で池に引きずり込んで、水浴びしましたよね」 茘娘がうなずいた。 「あの後、通り掛かった薛総女官長さまに怒られて、夕餉の前に一時間ほど、廊下で正座させられましたね」 棗児も続いてうなずいた。 「秋水に!? あの子を池に引きずり込むって、よく返り討ちにならなかったわね?」 香々が驚きの声を上げた。 「多少は抵抗されましたけど、秋水も面白がって水浴びをしてましたよ。結構暑い日だったので」 銀鈴がそう言うと、茘娘と棗児もうなずいた。 「正座させられた時、秋水は汗もかかず、瞬きもせず、微動だにしなかったですね。あの凛とした美しさには、見とれましたよ」 「あれはあれで、仁瑜とはまた違った、芸術品よね。鑑賞の価値があるわよ」 茘娘の発言に、銀鈴がうっとりした顔で同意した。 「銀鈴、普段から、もう少し皇后らしい格好をしたら? 祭祀の時と、祭祀の後で上演したくれた『梨妙音伝』での皇后の正装は、よく似合っていたわよ」 香々が、祭祀を思い出しながら言った。 「確かに、最高級の絹ですから、肌触りはほんとに気持ちいいんです。頬をすりすりするだけなら、ずっとやっていたいぐらいですよ。ただその分、高いんですよね。頭の鳳冠(ほうかん)や、首飾りも併せると、少なくとも中級官吏の家が三、四軒買えるぐらいもするんです。壊したり、破いたり、汚したりするのが怖くて、おいそれとは身に着けられませんよ。鳳冠も首が折れるかと思うぐらい重いし、衣も袖が大きくて、裾も長くて、ほんと動きづらいんですよね。あれを着るぐらいなら、囚衣を着て、首輪、手枷、足枷をつけていたほうがマシです。囚衣は、背中の『囚』の字と胸の名札を別とすれば、色も生地も野良着と変わらないですし。首輪と枷も、壊したって惜しくないですからね」 鳳冠とは、皇后がかぶる冠。鳳冠と首飾りは、金、銀、宝石を多用した装飾が特徴。使われている宝石は、翡翠を筆頭に、真珠、珊瑚、金剛石(ダイヤモンド)、紅玉(ルビー)、緑玉(エメラルド)、青玉(サファイア)。 「皇后の正装よりも、囚衣と首輪、手枷、足枷のほうがマシなんて、経験者は違うわね。まあ、寿服は胡服と比べて、袖が大きかったり、裾を引きずったりして、動きにくいわね。でも、踊りで舞台に上がるときには、冠をかぶったり、髪飾りや首飾りを身に着けることはよくあるわよ」 胡服とは、西域の服。乗馬にも適するよう、動きやすいのが特徴。 「経験者、って、大おばさまも三百年間、同じ格好じゃなかったですか!?」 銀鈴はむくれた。 「三百年間は、ほとんど寝てたしね」 「でも、亡くなるまで二年もあったんじゃ?」 「囚衣は着せられていたけど、首輪や手枷、足枷は外しているときが多かったわよ。前にも言ったけど、同情してくれた娘子兵たちが、首輪と手枷、足枷の鍵をこっそりと差し入れてくれてたから、普段は自分で外してたわよ。あなたたちのように、真面目に正座をしていたら、とても二年も持たなかったわよ」 香々は、銀鈴、茘娘、棗児の顔を順に見渡した。銀鈴、茘娘、棗児は、揃って苦笑した。 「そうだったんですか。えっ、なら何で、わたしたちの前に現れた時には、首輪、手枷、足枷をつけてたんですか?」 銀鈴が香々に尋ねた。 「ああ、あれね。死んだ時、つけっぱなしだったから、そのままだったのよ。たまに玉雉や、玉雉付きの女官が、ぶち込まれた幽閉房へ私の様子を見に来るのよ。時には拷問部屋へ連れ出されることもあったわ。普段は外している首輪や枷も、その時だけつけて、正座をしていたわ。姿勢を崩しているところを見られたら、板首枷をつけられる、笞打ち、食事抜きといったのお仕置きをされるからね。そうでなくても、さんざん嫌味や罵倒をされたり、泥水をぶっかけられたり、頬を平手で打たれたり、足蹴りされたりしたわよ。ましてや枷を外しているところを見られたら、私がお仕置きされるだけでなく、せっかく出来る範囲で良くしてくれている娘子兵たちまで、酷い目に遭わされるわよ。 広卓の誕生日じゃなかったかしら? ある日、幽閉房から、拷問部屋へ連れ出されたの。 拷問部屋へ着くと、玉雉と、玉雉の私兵というべき女官たちが待っていたのよ。玉雉が、こう言ってきたわ。『まだ生きとったかえ? しぶといヤツよの。今日は何の日か分かるかえ? めでたき皇帝陛下のお誕生日じゃぞ。蛮族で、しかも呪詛で、畏れ多くも皇帝陛下を害し奉ろうとした、そのほうには誠に畏れ多きことながら、祝い酒を賜った。皇帝陛下の大恩に感謝し、味わうが良い』ってね」 香々は、玉雉の声マネをしつつ、話した。 銀鈴、茘娘、棗児は、湯船につかっているにもかかわらず、顔から血の気が引き、青ざめた。 青ざめた銀鈴が、香々に聞いた。 「それって、あからさまに怪しいんじゃ?」 「もちろん、怪しいわよ。だから、『罪人の身で大恩を賜り、感謝申し上げます。ですが、罪人にはあまりにも畏れ多く、お酒を賜るわけにはまいりません」って、断ったわよ」 銀鈴、茘娘、棗児はうなずいた。 香々は続けた。 「そうしたら、玉雉が『せっかくの大恩を断る!? 不敬なるぞ!』って叫んだわ。それを合図に、玉雉の私兵女官につかまれて、膝立ちにさせられ、口に樋を突っ込まれ、無理矢理お酒を流しこまれたわ」 「……じゃ、その時に」 銀鈴は、恐怖で顔が引きつった。 「この時は、何ともなかったわよ。お酒を口にしたのは、後にも先にもこの時だけだったわ。西域の宗教では、お酒はタテマエ上禁じられているのよ。玉雉も、それを知っているはずよ。火昌に住んでいる寿人も、胡人には相手から所望されない限り、お酒は勧めないわ。もっとも、親しい人同士で、よくお酒を酌み交わしているような仲なら別だけど。お酒を、こっそり飲んでいる人は少なくないしね。それでも、お酒を飲むのには、遠慮や後ろめたさがあるわね」 「じゃ、ただの嫌がらせだったんですか?」 棗児が、やや安堵した顔で、香々に聞いた。 「そんなので済むわけないじゃない。相手は、あの玉雉よ。この時は、そのまま幽閉房に戻されたわ。二、三日経ったころだったかしら? 玉雉付きの女官が様子を見に来るってことで、枷をつけて、正座してたのよ。玉雉付き女官は、監視口から私を見て、『まだ生きてたの。随分しぶといわね』ってつぶやいて、その後さんざん嫌味を言われたわ。玉雉付き女官が帰った後、急に意識がなくなったのよね。死んだのは、その時よ。後から考えると、政略結婚だったし、追い落とされたけど、一応『皇后』が、皇帝の誕生日に死ぬのは、縁起が悪い、って、玉雉も考えたんじゃないの? お酒に盛られたのは、遅効性の毒だったみたいだし。まあ、毒を仕込んだのが『お酒』だったのは、棗児が言ったように嫌がらせよね。殺すだけなら、お茶でも、水でも、お粥でも良さそうなものよ。ほんと、玉雉は性悪女よ。確かに顔だけは良かったわよ。でも、あんなのを寵愛した広卓も、バカよね。建国の元勲の一族か何だか知らないけど」 銀鈴、茘娘、棗児の三人は、温泉につかっていて、体は温まっているはずなのに、震えで歯がかみ合っていない。 「あら、どうしたの? お風呂の中で、そんなに寒い?」 香々は、銀鈴、茘娘、棗児の顔を順に見回して、尋ねた。 「今の話を聴いてたら、急に震えがきちゃって。大おばさまが最初に、幽閉房に現れた時もそうだったんですが、暑かったのに、突然寒くなっちゃうことがあるんです」 銀鈴がそう答えた。茘娘と棗児も、深くうなずいた。 「そうなの? なんか悪いことしちゃったわね」 「あの、香后さま。今のお話を伺っていてふと思ったんですが、後宮劇団で、怪談モノの講談師をやりませんか?」 茘娘が香々に、遠慮がちに講談師をやるように勧めた。 「講談師? そういえば、後宮劇団の出し物には講談もあるって言ってたわね。面白そうだけど、私にできるかしら?」 「大丈夫ですよ。お話はお上手ですし、何より玉雉の声マネが、背筋が凍るほど怖いんですよ。怪談モノは怖くないと面白くないですし」 「そうですよ、大おばさま。やってくださいよ。玉雉ネタなら、どんな暑くても劇場が一瞬で、凍り付きますよ」 茘娘の勧めに、銀鈴も加勢した。 「本物の幽霊が語る、怪談講談なんて、ほかじゃ聴けませんよ。絶対大当たりしますよ」 銀鈴に続いて、棗児も言い出した。 「そうね。やれるうちに、やっておくのも悪くはないわね。いつまで、この世に居られるかも分からないしね」 香々の、この何気ないひと言で、銀鈴、茘娘、棗児三人の表情が、一気に神妙なものとなった。 「なんか、しんみりしちゃったわね。ごめんなさいね。じゃ、話を変えましょうか? 銀鈴、祭祀の後で上演してくれた『梨妙音伝』の第二部と第三部の、『新帝』役は仁瑜だったわよね。仁瑜が『新帝』役だと、『恥ずかしくて上手く演じられない』って言ってなかった? でも銀鈴の演技も、仁瑜の演技も、自然だったわよ。仁瑜相手に演じて、恥ずかしくなかったの?」 「劇場で、一般のお客さん相手だと、恥ずかしくてまともに演じられなかったでしょうね。でも、祭祀の後の上演での観客は、大おばさまや、帝師の師父、霜楓師叔、越先生、芳雲師姉、そのほか女官や宮女で、いわば『身内』ですから。それに、仁瑜には結構稽古に付き合ってもらっていたんです。ですから、あの上演は“稽古の延長”、って感じもあったんです。稽古を身内に見られても、そんなに恥ずかしくないんで」 「そうなのね。わりとすぐ玉雉の讒言で、幽閉房に入れられたから、あまり皇后らしいことはしてないけど寿国の古典は、花嫁修業の一環で読んだわよ。普段は妹と兄にしか見えない、銀鈴と仁瑜も、舞台上では理想的なオシドリ夫婦ね。ほんとにうらやましかったわよ」 「からかわないでください!」 銀鈴はそう叫ぶや、湯船の中に全身をすっぽり沈めた。 「香后さま、銀后さまをからかわないでください。銀后さまが、拗ねちゃったじゃないですか」 茘娘は、苦笑いしつつ、香々に言った。 「ごめんなさいね。でも、拗ねた銀鈴もかわいいのよね」 「まあ、それには同意しますが。それはそうと、香后さま。今日はお疲れじゃありませんか? 私たちは、按摩ができますので、良かったら受けられますか?」 茘娘は、石造りの寝台を指差しながら、香々に按摩を勧めた 「按摩? あなたたちはできるの? じゃ、お願いしようかしら」 「はい。本職の按摩師には敵いませんが。後宮太学の健康管理の授業で、按摩も教わるんです。稽古にしろ、本番の舞台にしろ、半日、一日立ちっぱなしってことはよくありますから。大浴場で、仲の良い女官・宮女は、お互いに按摩をやり合ってますよ」 茘娘が香々にこう話した時、湯船に潜っていた銀鈴が出てきた。 「按摩なら、香油があるか、聞いてくる」 銀鈴は、そう言って脱衣所へ向かった。 「お願いします」 茘娘はそう言って、銀玲を見送った。 「ただいま。いろいろともらってきたわ」 銀鈴が戻ってきた。 「じゃ、お願いするわ。かわいい湯女さんたちに按摩してもらうのは、初めてよ。よろしくね」 石の寝台に腰かけていた香々は、銀鈴、茘娘、棗児に向かってそう言ってから、寝台にうつぶせになった。 「はい。大おばさま、昔の湯女はかわいくなかったんですか?」 へちまたわしを手にした銀鈴が、香々に尋ねた。 「かわいくないっていうか、あなたたちみたいに若い湯女は居なかったわよ。大抵、迫力のある太ったおばさんよ。火昌に居たころ、火昌の王宮にも蒸し風呂があってね。侍女や、王族の女性、重臣の妻や娘と一緒に、入ることもあったわよ。蒸気で体を温めた後、湯女が体を洗ってくれて、按摩もしてくれるわ。ただ、火昌の湯女は、結構手荒なの。でも、それが気持ちいいのよね。寿国のように、お湯につかることはなく、ためておいたお湯をかぶって、体を洗うのよ。お風呂上りは、噴水のある部屋で涼みながら、みんなでおしゃべりよ。お茶や蜜水、西瓜(スイカ)、甜瓜(メロン)、ぶどう、りんごといった果物、軽い食事なんかを取りながらね」 香々は、くつろいだ表情で、懐かしげに話した。 「そうだったんですか? 蒸し風呂にも、入ってみたいです。じゃ、始めますよ」 銀鈴はそう言って、石鹸をつけたへちまたわしで、香々の右脚ふくらはぎをかかとから膝へ向けてこすり出した。左脚では、茘娘が同じようにこすった。棗児は、香々の背中を指圧した。 「気持ちいい! そこよ、そこ! もっと力を入れて!」 指圧を受けた香々は、嬌声を上げた。 「じゃ、遠慮なく。思いっきりやりますよ」 銀鈴は、指圧道具を手にしている茘娘と棗児と視線を合わせた。茘娘と棗児もうなずいた。 銀鈴は、香々の足の裏にある、「湧泉(ゆうせん)」のツボを、指圧棒で思いっきり押した。 「湧泉」とは、生命力を湧き出させ、疲労回復に効果があるツボ。 「もっと、もっと!」 香々は気持ちよさそうに、黄色い声を上げた。 「終わりました、大おばさま」 銀鈴は、香々の体に香油を塗り終えた。 「ありがとう、かわいい湯女さんたち。茘娘が、『本職の按摩師には敵いませんが』って言ってたけど、そんなことないわよ。三人とも、結構手馴れてたじゃない。なかなかのものだったわ。ほんとに気持ち良かったわよ。疲れも取れてスッキリしたわ。温泉もいいわね。おかげでお肌もツルツルよ」 香々は、頬を撫でながら、銀鈴、茘娘、棗児にお礼を言った。 「大おばさま、わたしたちで良ければいつでもしますよ」 銀鈴が、そう応えた。 「いつでも言ってください」 茘娘と棗児も、銀玲に続いた。 「夕餉のお支度ができました」 早瓜離宮を管理する、老女官の声がした。 午後6時半ごろ。日はだいぶ西に傾き、日没まで一時間から一時間半といったところ。早瓜離宮の中庭。ぶどう棚の下には、じゅうたんが敷かれ、円卓が置かれていた。 銀玲は、香々、仁瑜、茘娘、棗児、忠元と円卓を囲んでいた。皆、風呂上がりで内輪の会食ということで、髪は邪魔にならぬように簡単にまとめる程度だった。早瓜離宮の女官たちには、「自分たちでやるから」と給仕を断っていた。 「ぶどう棚の下で、宴会とは、火昌に居たころを思い出して、なつかしいわ。夏は、よくぶどう棚の下で夕餉を取ったものよ。夕餉には、何を食べさせてくれるのかしら?」 香々が、期待を込めて笑顔で言った。 「それは良かったです。この時間になると、だいぶ涼しくなりますね。今夜の主役は、この二つです」 銀玲は、そう言って二つの土鍋の蓋を開けた。 「抓飯(ピラフ)と羹(スープ)?」 香々が銀鈴に尋ねた。 「はい。ご飯は、干しアワビ、鶏肉、干し椎茸の炊き込みご飯です。羹(スープ)のほうは、家鴨(あひる)の丸煮鍋です」 銀鈴が、今夜の主食と主菜を説明した。 家鴨の丸煮鍋は、家鴨を一羽丸ごと、筍の塩漬けや冬瓜とともに、肉が箸で切れるほどになるまでじっくり煮込む。なお、家鴨や筍の塩漬け以外の具は、季節によって異なる。 「家鴨? 家鴨なら烤鴨(ペキンダック)はないの? 寿国へ行くなら食べてみたかったんだけど、食べる前に幽閉房へ入れられたから、食べ損ねたのよね。でも、家鴨の丸煮鍋もおいしそうね」 烤鴨(ペキンダック)とは、家鴨の丸焼き。皮を削ぎ落して、ネギの千切りや甜麵醬ともに、薄焼の小麦の皮に包んで食べる。 「香后様、ご期待のところ、大変申し上げにくいのですが、実は烤鴨(ペキンダック)は、夏には食べないんです。寿国料理で、家鴨といったら、真っ先に浮かぶのが“烤鴨(ペキンダック)”ですよね? ですが、下ごしらえで肉が傷みやすいので、暑い夏場には作らないんですよ。秋から春にかけてのものなので。異国からの客人にも所望されることも多いのですが、このことは知られていないようでして」 忠元が香々に、恐縮の極みといった表情で説明した。 「そういえば、烤鴨(ペキンダック)は夏場には出なかったですね。お正月など、冬の宴席ではよく出ましたけど」 銀鈴も、烤鴨(ペキンダック)をいつ食べたのかを思い出すように言った 「あら、烤鴨(ペキンダック)は夏には食べられなかったの? それは知らなかったわ。残念ね。秋が楽しみだわ」 「大おばさま、夏は瓜や桃、スモモにアンズ、イチジクがおいしいですからね。さあ、食べましょ」 銀鈴は、しゃもじを手にアワビと鶏の炊き込みご飯を取り分けた。茘娘は家鴨の丸煮鍋、棗児は副菜を取り分けた。 副菜は、干し椎茸と揚げ豆腐、青菜の醤油煮、いんげん豆と高菜漬けの炒め物、川小海老と緑茶葉の炒め物、羊の串焼き、蒸し鶏、煮玉子、瓜の味噌漬け。 「あら、抓飯(ピラフ)よりは、脂っこくないわね。もっちりしている感じね。箸でつまめるし。抓飯(ピラフ)なら、箸ではつまめないから、手づかみか匙よね」 香々は、アワビと鶏の炊き込みご飯を口にした。 「抓飯(ピラフ)は、まず具と生米をたっぷりの油で炒める、というより“揚げる”て、その後水を入れて炊き上げる、ですからね。炊き込みご飯は、鶏から油が出るでしょうが、そこまでのことはないですよ」 「忠元、やけに詳しいようね?」 香々が忠元に問うた。 「長洛の胡人街でも、火昌でも、抓飯(ピラフ)を作っているところを見たことがありますし、火昌方面の旅行案内書にも、作り方が簡単に書いてありましたので」 「そうなの。忠元はあっちこっちへ行ってるのね」 「はい。ここ数年、先帝陛下の崩御、陛下のご即位と、お代替わりの儀式が続いて、地方との調整も必要でした。ですので宮中御用掛の資格で、地方出張も多かったですから」 「白ご飯も悪くないけど、ご飯そのものに味が付いているほうが、なじみやすいのよね」 香々は、忠元と抓飯(ピラフ)談義に花を咲かせた。 「火昌滞在中、白ご飯を食べる機会は少なかったですね。市場の胡食屋には、ご飯ものは抓飯(ピラフ)しか置いてなかったですから」 忠元は、火昌滞在時を思い出して言った。 胡食屋とは、西域料理屋のこと。 「仁瑜、もっと食べなさいよ! ここのところ、疲れが取れないって言ってなかった? 家鴨の丸煮鍋の汁をちゃんと飲んで。具の冬瓜も、お肉もしっかり食べて」 銀玲はそう言いながら、仁瑜の汁椀に、家鴨の丸煮鍋をよそった。 「ああ、ちゃんと食べてる。大丈夫だ、銀鈴」 仁瑜は銀玲から、汁椀を受け取った。 「そういえば、毎日夕餉には冬瓜の羹(スープ)が出てない? 味付けは毎日変わっているから、飽きるってことはないんだけど」 香々が、毎日の献立の疑問を口にした。 「冬瓜は、熱を出す効果がありますからね。夜に冬瓜の羹(スープ)を飲むと、翌朝スッキリと目が覚めますよ。家鴨の丸煮鍋は、滋養分が豊かなので、疲労回復にもいいですよ」 忠元が、香々にそう説明した。 主菜の土鍋も、副菜の皿も空になった。 「失礼いたします」 早瓜離宮の女官が食後の果物を持ってきた。甜瓜(メロン)、西瓜、イチジク、桃、スモモ、アンズ、茘枝(ライチ)だ。いずれも、よく冷やしてあった。 銀鈴は、手当たり次第に果物を口に放り込んでいる。 「銀鈴、あれだけ食べてまだ入るな? 食べ過ぎで腹を壊すなよ? 私より食べているのではないか?」 「仁瑜、また台詞がお母さんみたいになってるわよ。大丈夫、わたしの胃は丈夫だから」 銀鈴はあっけらかんと笑った。 「確かに、銀后さまの胃は底なしですからね」 「それでいて、太らない。うらやましいですわ」 甜瓜(メロン)や茘枝(ライチ)を手に、茘娘と棗児はつぶやいた。 「そろそろお開きにしましょうか?」 忠元が一同にそう声を掛けた。 「そうね。お開きにしましょ」 銀鈴が応じた。 既に日は落ちていて、庭の石灯篭には灯が入っていた。 早瓜離宮で一泊した翌日。午後四時過ぎ、長洛宮城、皇太后宮。 「ただいま戻りました、母上」 「ただいまもどりました、皇太后さま」 仁瑜と銀鈴は、皇太后にそろって挨拶し、お辞儀をした。 今日の皇太后は、白髪を頭上で大きな一つのお団子に結って、簡素なかんざしを刺している、名家の老婦人の出で立ち。仁瑜とは、母と息子というより、祖母と孫ぐらいの年の差だ。 「お土産です。今朝、みんなで採りました」 銀鈴がそう言うと、忠元が皇太后の前に、箱を運んだ。中には、早瓜離宮で採れた瓜が入っていた。 「ありがとう、後でいただくわ」 皇太后は、銀玲にお礼を言ってから、香々に向かった。 「大おばさま、温泉はいかがでした?」 「良かったわよ。お肌がツルツルになったわ。この子たちに指圧をしてもらったのよ。本職の按摩師には負ける、って謙遜してたけど、なかなか上手だったわよ。おかげで、体も、心も軽くなったわ」 「それはようございました。早瓜温泉は、太祖さまの天下統一の際、将兵が傷をいやした、と伝わる、万病に効く名湯ですから。舞台に立つと、どうしても体を痛めてしまうことがありますが、そういうときには、女官・宮女を早瓜離宮で療養させているんですよ。皆、半月からひと月療養すると、元気になって帰ってきますし、お肌の調子も良くなって、お化粧の乗りが良い、と喜んでますよ」 「それはよく分かるわ。昨日の午後と、今朝と二回しか入らなかったけど、お肌の調子がほんといいもの。汽車って、便利よね。昔だったら、馬車で半日、一日掛かったところが、一時間ちょっとよ。人に翼が生えたようなものね」 「よくお分かりで、香后様。汽車について、『人に翼』の例えは、鉄道黎明期の旅行記にも、よく見掛けるんですよ。長洛駅から宮城までの時間を考えても、早瓜からなら二時間あれば、何とか通えます。ですので、早瓜から長洛へ通っている官吏も、それなりの数がいますよ」 忠元が鉄道の利便性について述べた。 「銀鈴、そしてみんな、ありがとう。この二日間、ほんとに楽しかったわ」 香々は、そう言った深々と頭を下げた。 |
ドラコン http://https://twitter.com/avBg6271D1rpawO/status/1555164273474605058 2022年08月09日(火)20時18分 公開 ■この作品の著作権はドラコンさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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