祈るような雨と共に
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 打ちっぱなしのコンクリートに囲まれた取調室は、長い間使われていないらしく埃っぽかった。蛍光灯が古いせいか、部屋は緑っぽく見える。あるいは元々そういう色なのかもしれない。
 部屋にあるのは机とパイプ椅子、それから机の上に乗った書類しかなかった。そこにいるのは二人の男。つまり僕、荒巻デッドダイブとジョニー・ボーイ曹長だ。
「とにかく僕は関係ない。聞かれても何も分からない。こっちが聞きたいくらいだ」
 僕は駐留軍警察の取調室の中で、ジョニー・ボーイ曹長に言った。金髪の髪を短く刈り上げたジョニー・ボーイは頭の悪そうな笑みを浮かべて、青い瞳でこちらを見据えていった。綺麗な瞳だった。彼の顔についていなければ素直にそう思えただろう。
「しかし荒巻デッドダイブさん。そういう言い方は冷たくないですか? 何せ爆発現場から発見された遺体はあなたなのですから」
 そう言ってジョニー・ボーイ曹長は机の上に散らばった書類の一つを右手の人差し指でコツコツと叩いた。そこにはプールに浮かぶ黒焦げの死体が撮影された画像があった。皮膚は焼け爛れ、手足はところどころ何かの衝撃で骨折してあらぬ方を向き、着ている服は黒くなって一部は熱で皮膚と一体化していた。
 そしてその顔は、どことなく僕に似ている。
「僕じゃない。僕の遺体なら、君の目の前でこうして取り調べを受けている僕はなんなんだ」
 僕が当たり前のことを言うと、ジョニー・ボーイ曹長は何が可笑しいのかニヤニヤと笑って「しかし指紋、歯型、服装に至るまですべてあなたと一致している。少なくとも無関係というわけじゃないでしょう」と、反論した。
「DNA鑑定はまだ済んでいない」
「ええ、生体組織をオーストラリアのラボに送っている最中です。でもこれだけの材料が揃っているんだ。爆弾を仕掛けた犯人はあなたを狙っていたということになる」
「僕は被害者だ」
「ではお認めになるんですね? 遺体が自分であるということを………」
「だから僕はここにいるだろ、生きて!」
 さて、僕が何で軍警察の殺風景な取調室で、こんな尋問を受けているのか? そろそろみんなも気になって来たんじゃないか?
 最初から説明しよう。話は少し前にさかのぼる。

 プロローグ『ようこそラムダ78へ』

 僕にはこの世で信じられないものが二つある。女の甘い囁きとジェットタオルだ。前者は甘かった試しがないし、後者は手が乾いた試しがないからだ。
 あるいは僕にも何らかの責任があるのかもしれない。甘い囁きはともかく、ジェットタオルについてはろくに使い方を見ずに、何となく手をかざしていたことは認めよう。
 そう思ってつい先日、ショッピングモールのトイレで改めて使い方を確認し、実際に両手をゆっくり風に当てて、こすり合わせて揉み、再びゆっくり風に当てたが、やはり手は乾いていなかった。この分だと女の甘い囁きも同様の結果になりそうだ。
 失意の内にハンカチで手を拭き、ドーナツとコーヒーを買って事務所兼自宅へ帰ると、一本の電話がかかって来た。
「はい、荒巻デッドダイブです」
『荒巻デッドダイブさんでしょうか?』
 電話の声は中年から初老の男性の声の物だった。僕は「今そう言っただろコノヤロウ」と言いそうになるのをぐっとこらえて「ええ」と答える。
『仕事の依頼をしたいのですが』
「いいですよ」
『本当に?』
「本当にいいですよ」
『忙しいんじゃ………』
「暇ですよ」
『そうですか』
「そうですよ」
『あの、依頼をしたいと言いましたが私は正確には代理人でして、詳細な内容は現地でお話ししたいとクライアントは申しております。正式な依頼内容と説明は契約は現地で、と言う事でもよろしいでしょうか?』
「構いません。交通費と諸経費さえ払ってもらえれば」
『そうですか』
「そうですよ。どこへ行けばいいんです?」
『ラムダ78という場所なのですが』
「承知しました」
 僕はメモにラムダ78と書きつける。
「それってどこです?」


 ラムダ78とは南太平洋に浮かぶ小さな島の名前だった。一九四八年に米軍が海上演習中に発見した無人島で、ラムダ78はあくまで仮の名前だったが、誰も正式な名前が思いつかない間にラムダ78で定着してしまったらしい。ズボラな人間はどこにでもいるようだ。
 現在は米国が領有を主張して海軍の小さな基地とささやかな空港を置いている。表向きは隠れた観光地として一件のホテルと、島の関係者が暮らす小さな町があり、そこそこ多様な野生動物が暮らしているそうだ。
「聞くけど、現地で僕が契約を取りやめたらどうするんです?」
『そのときはまぁ、ちょっとしたバカンスみたいなものだと思って下さい』
 そう言って電話の主はラムダ78までの航空券を手配してくれた。
「バカンスねぇ………」
 羽田空港からオーストラリアを経由し、パプアニューギニアを経てラムダ78へ向かう飛行機の中で僕はため息をついた。僕のような仕事では常であるが、やはり内容の分からない仕事は落ち着かない。
「汚れつちまつた悲しみに、今日も小雪の降りかかる。汚れつちまつた悲しみに、今日も風さへ吹きすぎる」
 思わず中原中也の詩を口ずさむ。日本と違って今の南半球は常夏だが、僕の気分はうら寂しい秋の午後という感じだ。これも時差ぼけと言うのだろうか?
キンキンに冷房の効いた飛行機の窓の外には、照り付ける日差し、編隊を組んで飛ぶ名前の分からない白い海鳥、爬虫類の鱗を思わせる波をした海が広がっている。あの海の底で、今日も魚がプランクトンか何かを食べ、鮫がその魚を食べているのだろう。
高高度を飛ぶ飛行機は、時折それらの光景を雲でかき消し、機体を傾けて海よりもよほど爽やかな色をした青空を僕に見せつけた。
不意に僕は夏の体育館を思い出した。昼間だから照明を付けておらず薄暗い、ワックスで妙に照りついた床、暑いので片っ端から開け放された出入口。
「ねぇ」
 気が付くと、白人の少女が隣に座っていた。年は九歳ぐらいで髪は長い金髪、この空調の効いた飛行機の中で、信じられないことにノースリーブのワンピースを着ていた。
「あなた日本人?」
「まぁね」
 僕は答えた。
「名前は?」
「荒巻デッドダイブ」
「変な名前」
「そうだね」と、僕は素直に認めた。
「君は?」
「私はキャサリン・ナノ! 友達はキャシーって呼ぶわ」
「そうかキャサリン」
「キャシーって呼ばないの?」
「まだ友達じゃないからね」
 そう言って僕は辺りを見回した。機首の方を向いた灰色のシートが規則正しくひしめいている。大きな飛行機の割に乗客は少なかった。絶対、赤字路線だろう。
いくら見回してもキャシーの両親らしき人物はいなかった。おおかた、暇を持て余して遠くの席から来たのだろう。もしかしたらファーストクラスの乗客かも知れない。たった一時間かそこらのフライトでファーストクラスに乗る客がいるのかとも思うが、短い時間でファーストクラスに乗るからこそのセレブなのだろうか。
「さっさと自分の席へ帰った方がいいキャサリン。乗務員さんに怒られるぞ。こういうときの乗務員さんは厳しいんだ。僕はかつて新幹線で自由席と間違って指定席に座った時はヒステリックなまでに怒られたもんだ。君もヒステリックに怒られたくないだろう?」
「まだお話する時間はあるわ」
 キャサリンが食い下がった。
「あなたの仕事は?」
「殺し屋をしているんだ。殺し屋と言っても、相手はたいてい人間じゃないから、どちらかというと害獣駆除に近いんだけれど」
「そうなんだ」
「大きな声じゃ言えないけどね」
「じゃあ小さな声で言うね」
「そうしてくれ」
「よく分からないけどあなた、何を殺すの? ゴキブリ?」
「ただのゴキブリだったら僕は呼ばれない。でもそのゴキブリに、大学を首席で合格できる知能があったら僕の仕事だ」
「ふーん」
 キャサリンはあまり理解できていない風に両目を左右に転がした後「それで、今回は何を殺しに行くの?」
「わからない。依頼人から現地で説明を受けることになっている」
「わからないんだ。それでいいわけ? 大人として」
「汚れ仕事っていうのはそういうものさ。君もこんな仕事をしたくなかったら、ちゃんと勉強することだ」
「ふーん」
 キャサリンは目を右へ左へキョロキョロさせた。これがこの子が考えるときの癖らしい。
「でも私、まだ何の仕事に就きたいか分からないわ。だって仕事ってこの世にたくさんあるし、今ある仕事が十年後にある保障なんてないでしょ? ユーチューバーだって二十年前には想像すらしてなかったって、パパが言ってたわ。それに勉強って、仕事の為だけにやるものでもないでしょ? 数字しか使わない仕事だとしても、国語の勉強をしなくてもいいってことにはならないし」
「そうだね」
「だから私、もうちょっと世の中の色々なことが知りたい」
「それが勉強するってことだよ」
 そのときアナウンスが鳴った。席に着いてシートベルトを締めろとのお達した。
「キャサリン、君も帰った方がいい。ヒステリックな乗務員さんが君の尻を叩きに来るぞ」
「暴行罪で訴えてやるわ」
「怒り狂った乗務員さんは訴訟をものともせずに向かってくるぞ。さぁ帰った帰った」
 はぁい、と言ってキャサリンは座席から飛び降りて、通路の向こうへ走って行った。うるさいのがいなくなると、僕はシートベルトを締め直し、座席にゆったりと体を預ける。窓の外にはこじんまりとした島があった。
 中央にはそんなに高くないこんもりとした茶色の、丸っこい山があって、その麓から青々とした熱帯雨林が緩やかな下り坂を作って海の方へ伸びていた。建物は南側の港の周囲に集中しているらしく、米軍の駐留している基地に、民間のものらしい建物がいくつかあって、その隣に小さな空港があった。本当に小さな空港で、着陸時に滑走路が足りないんじゃないかと見ていて不安になる。
『当機はまもなくズルワーン空港へ着陸いたします。ようこそ、ラムダ78へ』


第一話 ホテル『シシリエンヌ』
 空の上から見ると小さく見えたが、着陸してみるとズルワーン空港は案外大きかった。基地の滑走路も兼ねているらしく、空港の中では大きな仕切りがあって、そこで民間用と軍事用で利用が隔てられていた。
 飛行機から空港までは徒歩での移動となった。覚悟はしていたが、暑い。空港の周りにある椰子の木を見ていたら、なおさら暑く感じる。
 一応、夏用の背広を着てきたが、あまり対策にはならなかった。寒い季節の日本にいたから、体が冬用になっていて余計にそう感じるのかもしれない。照り付ける太陽が恨めしく感じる。蝉の鳴き声が聞こえてこないのが不思議なくらいだ。
 ところが空港へ入ると、今度はギンギンに冷えた冷房が僕の体をキンキンに冷やし始めた。極端すぎる。サウナじゃないんだぞ。
 僕は手荷物のスーツケースを受け取って、チェックインを済ませてロビーへ出た。
 ズルワーン空港は僕が想像していたようなおんぼろな空港ではなく、大きさは小さいが掃除が行き届いたキレイな空港だった。ロビーの窓もきれいに磨かれているし、石材の床もピカピカに磨かれている。その光景は何だか昔に行った水族館の雰囲気を思わせた。おそらく抜けるような真っ青な青空が、ガラスの天井越しに見えるせいだろう。
 待合室の売店やお土産屋には米軍関係者らしい、サングラスをかけて迷彩服を着た連中がたくさんいた。
 僕は彼らの中から、依頼人が寄越した迎えを探す。
「デッドダイブ! どこだ!」
 名前を呼ばれたというより突然、流暢な日本語が、それも大きな声で聞こえたので、僕は一瞬、そっちの方にびっくりして固まってしまった。
「デッドダイブ! いるのか!」
「いるよ!」
 声の方を向くと、そこにはアロハシャツを着た色黒の、アラブ系らしい髭を生やした男が『荒巻デッドダイブ』のプラカードを持って立っていた。
「僕が荒巻デッドダイブだ」
「お前が荒巻デッドダイブか! 俺はカシム! お前をホテルに案内するようにピケット大佐から頼まれた!」
「声が大きい」
 こいつの声のせいで、僕たちはロビーの注目を集めていた。
「すまない! 南の島へ来たもんでテンションがアゲアゲだぜ! アイス買ってくか!」
 本当はアイスに興味があったが「いや、いらない」と答えて、僕は足早に空港を出ることを選択した。
「荷物持つか!」
「遠慮するよ」
 壊されそうだ。
 空港を出る。
「あれだ」と、カシムは白いバンを指さした。白いバンはエンジンをふかしたままそこにあった。
「エンジンはかけっぱなしか」
「エアコンを切ったら車内は地獄だ」
「それでも盗まれないとは、ずいぶん治安がいいな」
「米軍とその関係者がいるだけの島だからな」
 そう言いながらカシムは車のトランクを開けて、僕のスーツケースを放り込んだ。
 もうちょっと丁寧に扱ってよ、とクレームの一つも言いたいところだが、文句を言ったら僕も掴まれてポーンと放り込まれそうだったので何も言わなかった。
「さぁ、乗れ」
 カシムが運転席に座り、僕は後部座席へ乗り込んだ。業務用のマイクロバスでも何でもない、普通の自家用車だった。車の中は綺麗に片付いていていたが、不思議なスパイスの香りがした。ドリンクホルダーには見たことのない図柄の缶が置かれている。
「それ、酒じゃないだろうな?」
 僕が缶を指して言うと、カシムはシートベルトを締めながら笑って「ただの炭酸ジュースだ。俺は酒は飲まない。イスラム教徒だからな!」と答えた。
「荒巻デッドダイブは心配性だ!」
「心配性じゃなかったらこの仕事はやっていけない」
「そうか!」
 カシムはサイドブレーキを降ろして、ギアをドライブに入れた。
「ところでお前の仕事は何だ?」
 カシムが訊ねる。
「さぁ? 実は現地で聞かされることになっていてね。僕もよく分からないんだ」
「そうか………」そう言ってカシムは眉間にしわを寄せ、何かを考えるように顎髭をさすった。
「何か心当たりでもあるのかい?」
「いや」カシムは首を横に振って「しかしこの島じゃ、色々と不思議なことが起こる」
「例えば?」
「例えばお前さんが今から向かうホテル、シシリエンヌではよく幽霊が出るって話を聞く」
「幽霊だって?」
「夜中に、不意に気配がして、廊下に出てみると何故かいつも点いているはずの電灯が消えていて薄暗い。どうしたのだろうと目を凝らすと、黒い影が廊下の突き当りにいる………そんな話だ」
「そいつその後どうなった?」
「さぁ? 忘れた。けれどこういう話が残ってるってことは生きてるんだろ。出発するぞ!」
「何だかホテルを変えたくなってきた」
「この島にホテルは一件だけだ! 腹をくくれ荒巻デッドダイブ!」
 バンが出発した。
 空港前を離れて、ラムダ78の漆喰の街並みを抜けていく。てっきりホテルは町中にあると思っていた僕は、慌ててどこへ行くのかとカシムに訊ねた。
「心配するな。ホテル『シシリエンヌ』は街を抜けた少し先にある! 郊外の密林に少し食い込んだ先、こじんまりとした滝の近くだ! 近くにはビーチもある! きっと気に入るぞ!」
「虫が多そう」
「電気を点けたまま夜に窓を開けるな!」
 車が街を抜けて、海沿いの道路を走る。ジャングルと言うから、てっきりゴリラでも出そうな密林を想像したが、思ったより木々と木々の間隔は広くまばらで、どちらかというと林のような印象を受けた。海沿いの道を少し行って、左へ曲がる。すると木々の間隔が少し縮まってややジャングルらしくなってきた。
 それでもジャングル特有の薄暗さは全然感じない。太陽の光を反射して黄緑色に輝く植物の葉は、僕を高原にいるような明るい気分にさせた。
 一方、道は少し上り坂になって、木々のせいでよく分からなくなってはいるが、どうもこの周辺は少し丘のようになっているらしかった。
 車での山登りはそこそこに、少し進んだところにホテル『シシリエンヌ』はあった。空港近くの街並みと同じく、白い漆喰の外壁はさながらジャングルの中に聳え立つ小さなノイシュヴァンシュタイン城のようだった。カシムはホテルの門の前にある駐車場に車を停めた。僕たちはバンを降り、カシムがトランクから僕のスーツケースを出して、渡した。
「ここからは一人だ。頑張れよデッドダイブ」
「ああ、ありがとうカシム」
 僕がチップを出そうとすると「ああ、よせよせ」とカシムは制止した。
「チップは帰るときに渡してくれればいい。行きはサービスだ」
「気前がいいんだな」
「ただこれだけは言わせてくれ」
 するとカシムは急に真剣な顔つきになって「いいかデッドダイブ。何があっても俺はお前の味方だ。それを忘れるな。仕事が終わったら、またここから空港へ送ってやる。頑張れよ」そう言ってカシムは再びバンに乗って、運転席の窓から手を振りつつ去って行った。
 変わった奴だ。
 僕はスーツケースの取っ手を引き出して、ホテル『シシリエンヌ』へと向かった。


 綺麗に手入れされた庭を抜けてホテルの入口に入る。ホテルは空港ほど冷房がギンギンに効いているわけでは無かったが、さりとて汗がにじむほどの暑さも感じなかった。思えばカシムのバンを降りたときもさほど暑さを感じなかった。何故だろう? ジャングルの何かしらの作用が熱を吸収しているのだろうか?
 ホテルのロビーはノイシュヴァンシュタイン城を想起させる外見とは裏腹に、イギリスのオーセンティックなバーを思わせた。木目調の内装に、ヴィクトリアンなインテリアが立ち並んでいる。皮張りのソファー、ニスの効いた琥珀色のテーブル、装飾の凝った椅子、燭台風の電飾。奥の方には実際にバーがあった。ビールを一杯やりたいという衝動を堪えつつ、僕はホテルのカウンターへ向かった。
 カウンターには地元出身らしい浅黒い肌をした青年がいた。
「いらっしゃいませ。ご予約済のお客様でしょうか?」
「ああ。荒巻デッドダイブで予約してある」
「少々お待ちください」
 青年は手元のタブレットをタップする。
「確認が取れました。それではこちらにお名前と電話番号、住所をご記入願えますか?」と、青年は使ってたタブレットとペンを僕の方に寄越した。画面にはそれぞれ記入すべき項目が一覧となっている。
「最近は何でもタブレットだな」
「そうですね」
 青年は苦笑する。
 さらさらとペンで一筆して、青年にタブレットを返した。
「それではお部屋にご案内します」
「その前に支配人に会いたい」
「支配人ですか?」
 青年が怪訝な顔をした。
「ああ、僕はこのホテルの支配人に仕事を頼まれて島に来たんだ」
「そうでしたか。申し訳ありませんが支配人は外出中でして―――」
「私に何か用かね」
 横から声をかけたのは身長一九〇センチもあろうかというサングラスをかけた偉丈夫だった。髪の色は黒かったが、半分白髪に染まっていて顔には深いしわが刻まれていた。軍服を着ていることから軍人のようだった。
「ああ支配人、こちらのお客様があなたに用があると」
「ふむ」
「僕は荒巻デッドダイブ。あなたに言われて、日本から遥々ここまでやって来たんだが」
「知らんな。何かの間違いじゃないのか」
「そんな」
 何だか雲行きが怪しくなってきた。そこへ助け舟を出したのが、受付の青年だった。
「しかし支配人。ミスター・デッドダイブが当ホテルへ予約受付を行った際に、承認したアカウントが支配人のものとなっておりますが」
「なんだって?」
 支配人は青年からタブレットを受け取り、サングラスを外してじっくりと画面を見た。
「うーむ、覚えがない。荒巻デッドダイブくんと言ったかな?」
「はい」
「私は少し確認をしてくる。奢るからそこのバーでビールでも飲んで少し待ってくれないか。セバスチャン、彼をバーへ」
「かしこまりました」
 セバスチャンと呼ばれた青年は支配人にお辞儀して「こちらへどうぞ」と、僕をバーへ案内した。

第二話 祈りの雨
「ビールは何になさいます?」
「何がある?」
「大抵のものはありますよ」
「ハイネケンを貰うよ」
「ジョッキにお注ぎ致しましょうか?」
「いや、そのままで結構」
 セバスチャンはバーの冷蔵庫からハイネケンを取り出して蓋を開けて僕の前に置いた。
「ありがとう」
 最初の一口を飲む。
「ハイネケンがお好きなんですか?」
「いや、そもそもビールが好きなわけじゃないんだ。ただ昔観た映画で、主人公がハイネケンを飲んでいるときに、ガラの悪い連中に絡まれてね」
「はぁ」
「そいつらが主人公に言うわけだ。『ハイネケンはビールじゃねぇ』って。それで興味が出てちょっと飲みたくなってね。それからずっと、ビールはハイネケンさ」
「そうですか。まぁ、私個人としましてはコロナビールをお勧めします。ライムを絞って、塩をつまみに飲むとおいしいですよ。どちらも当ホテルでは無料サービスとなっております」
「無料………いい響きだ。あとで試してみるよ」
 次の瞬間、ホテル全体にシャワーの水を吹きかけたような音が響いた。スコールだった。土砂降りの雨が、何の前触れもなく降り始めた。ベランダの向こうは、雨粒で景色が見えない程だった。
「すごい雨だ」
「ここでは祈りの雨と呼ばれています」
 セバスチャンは何でもない風に言う。この島ではよくあることなのだろうか、と僕はまた一口ビールを飲んだ。
 遠雷が轟いた。どこかで雷でも落ちたのだろうか。ふと、セバスチャンを見ると険しい顔をしている。どうしたのかと訊ねると「この島では、祈りの雨が降る時に雷が落ちるのは、死んだ人の魂が降ってくるからと言われています」と答えた。
「そして死んだ人の魂は、また新たに生まれ変わってくるそうです。人間や、猿や、ヒョウになるかは分かりませんけれど」
 しかしすぐに頬を緩めて「迷信ですけれどね」と付け加える。
 祈りの雨、か。
 僕は再びビールを一口飲んだ。
 そこへ「うーむ」と唸りながら支配人がやってくる。
「セバスチャン、ちょっと外してくれ。ミスター・デッドダイブの荷物を部屋に運んでやってくれないか」
「かしこまりました」
「ふーむ」
 支配人は再び唸りながらカウンターの中に入り、冷蔵庫からバドワイザーの瓶を出すと、蓋を開けて一気に半分ほど胃の中に流し込んだ。それを見た僕も、釣られてハイネケンをぐびぐびと飲む。それで瓶は空っぽになった。
「もう一本飲むかね?」
「いえ、もう結構。それで? 何か分かりましたか? えーと」
「トマス・ピケット大佐」と、支配人は答えた。「どうも君の部屋を予約したのは私のようだ」と、支配人は言った。
「だが私には記憶がない。どうも誰かが私のアカウントを使って、君の部屋を予約したようだ。私に夢遊病の発作でも出ていない限りね。君は何者だ? ここに何しに来た?」
「探偵………のようなことをしています。仕事の具体的な内容は現地で話すと、電話口であなたから」
「そうか」と、ピケット大佐は腕組みした。
「僕、このホテルに泊まれます?」
「今更追い出すわけにもいかん。この島にホテルはここだけだ。飛行機も一日に一便しか飛ばん。戦闘機は別だが」
 僕は一安心した。すると次に心配になってくるのが宿泊費だった。電話ではピケット大佐持ちだったが、この場合はどうなるのだろう。何だか恐ろしくて聞けなかった。
「まぁ、今日の所はゆっくりするといい。もしかするとその内、君に頼みたくなる依頼でも思い浮かぶかもしれん」
 ピケット大佐は人懐こく笑った。案外、気安い人なのかもしれない。
「ああ、雨が上がったぞデッドダイブ君」と、ピケット大佐はベランダを指さした。彼の言う通り、雨はもう上がっていて、濡れたウッドデッキに陽光がキラキラと反射している。
「ちょっと来なさい。虹が出ているかもしれん。ここの虹は綺麗だぞ」
 虹なんてどこでも同じだと思ったが、せっかくなのでピケット大佐と並んでベランダに立つ。空を見ると、なるほど綺麗な虹がかかっていた。僕の想像していた淡くはかないものではなく、この島の虹はまるで4K画質の解像度で天にかかっていた。
「ほぅ、確かに綺麗なもんですね」
 僕がそう言った瞬間、爆発がしてホテル全体が少し揺れた。ピケット大佐はさすが軍人らしく、僕に覆いかぶさるようにかばって「何だ!」と叫んだ。
「上からのようですが………」
 しばらく様子を見て、大丈夫と判断したのかピケット大佐は僕から離れて階段の方へ走って行った。僕も後を追う。さすが現役の軍人だけあって、ピケット大佐は勢いよく階段を登っていくのに対し、僕ときたら三階で息を「ひぃひぃ」と切らしながら足を何とか上げていく。
 幸い、ホテルは五階建てだったので苦労はあまり長く続かなかった。爆発音が上からしたのは確かだが、何階かまでは分からない。二階から上なのは確かだが、とりあえず屋上へ上がってみよう。
 どうやらピケット大佐も同じ考えだったらしい。彼も屋上のプールの側にいた。側には二人の女性従業員が不安そうにピケット大佐の側にいる。
 屋上は大きなプールとバーがあった。更衣室が無いところを見ると、部屋で着替えてここに来るのだろうか。
先ほどのスコールでプールサイドはずぶ濡れだった。ところどころにある水たまりを避けながら、プールサイドへ向かう。
「ここで何かあったんですか?」
 一見すると、何かが爆発したような形跡はなかった。爆発はここではないのだろうか? だとしたら、ピケット大佐はここに留まっているのは変だ。
「ピケット大佐?」
 彼はプールの中央を指さした。そこには大きな消し炭のようなものが浮かんでいた。
 いや、よく見ると消し炭では無かった。それは背広を着た、焼け爛れた、おそらく人間の死体だったのである。
 そして何より奇妙なのは、その死体は何だか僕によく似ている気がした。

第三話 第一日目
 ジリリリリリ………。
 電話が鳴っていた。僕はベッドの上で気怠く寝返りを打って、受話器を取った。
「おはようございます、ミスター・デッドダイブ」
 セバスチャンだった。
「おはようセバスチャン」
「お疲れのようですね」
「まぁね。何か用かい?」
「モーニングコールです」
「そう」
「食堂で朝食の用意が出来ております。それと、支配人がご一緒したいそうです。話があると」
「別に構わないよ」
「では、一階でお待ちしております」
「ああ」
「失礼いたします」
 電話が切れた。電話機横にあるデジタルの置き時計はきっかり午前七時を示していた。
「ふぅ」
 鈍いクリーム色の光に包まれた部屋で息を吐く。昨日、屋上で死体が発見されてから、参考人としてこの島の郡警察にずっと聴取を受けていたのだ。この島は規模が小さいので、警察組織も駐留している米軍が引き受けているのだという。
 あの死体の複層、指紋、歯形が一致するのは何故か? 答えられるはずのない質問を延々と問われ続け、ようやく解放されてジープでこの部屋に送られてきたのは午後の十二時過ぎだったと思う。
 律儀に僕の帰りを待っていたセバスチャンからようやくホテルの鍵を受け取って、三階の302号室へ入ると同時に、服を脱ぎ捨ててベッドに飛び込んだのである。
 体を起こす。全身が汗でべとついていた。床には背広とワイシャツが散乱し、ベルトの金具が死んだ蛇の頭みたくこちらを睨んでいる。
そんなに睨むなよ、悪かったって。
 俺は床に散乱した服を整えて、部屋の中央にあるソファーへかけて浴室へ行き、シャワーを浴びた。体と髪を洗い、髭を沿って、体を拭いて替えの下着をスーツケースから取り出すと、ようやくスッキリした気分になった。
 ズボンとワイシャツを着て、一階へ向かう。思えば昨日の夕食は、米軍基地の取調室で配給された、パサパサのハンバーガーと水のようなコーヒーだった。島に来て最初の食事にしては、あまりにも惨めだ。
 エレベーターで一階へ降りて、昨日ハイネケンを飲んだバーの前にある食堂へ向かう。
「おはようございます」
 食堂に入ると、給仕の女性から挨拶をされた。若い女性だった。
「おはよう」
「朝食の用意が出来ております。お好きな席でお待ちください」
「どうも」
 食堂には僕以外に誰もいなかった。足の細い木のテーブルと椅子が、コンサートを待つ観客のように、ベランダから射してくる光で床に影を作って客を待っているばかりだった。
このホテルの宿泊客は僕だけなのだろうか? それともみんな、さっさと朝食を済ませてしまったか、あるいは寝坊しているのだろうか。僕と朝食の席を共にしたいというピケット大佐の姿も見えなかった。
 まぁ、とにかく朝食にしよう。普段、あまり朝は入らない方なのだが昨日の事件のせいか、それとも環境か、とてもお腹が空いていた。
 僕は食堂の一番奥、ベランダの隣にある席に座る。やがて朝食が運ばれて来た。焼きたてのバターロールに、コーンクリームスープ、半熟の目玉焼きのベーコンエッグに、皿一杯のサラダ、ヨーグルト、オレンジとリンゴの盛り合わせだった。
 こんなにたくさん食べられるかな。
 そう思ってフォークをサラダに突き刺した。レタスとスライスしたオニオンの上にシーチキンとコーンが乗っていて、その上にドレッシングがかかっている。サラダは僕の人生で味わったサラダの中で最もおいしかった。僕はサラダを一瞬で片づけて、次いでコーンクリームスープを味わいつつロールパンを噛み、ジューシーなベーコンエッグを楽しんで、ヨーグルトを処理して最後にオレンジとリンゴをそれぞれ二切れ食べた。
 食べ終わった皿が下げられて、最後にコーヒーが出て来た。ミルクとブラウンシュガーが専用の容器で出されたが、僕はブラックで頂くことにした。苦みの少なく、酸味を感じる味わいだった。妙な感覚だが、僕はこのコーヒーを飲んで初めて自分が南の島に来たことを実感した。
「おはよう、デッドダイブくん」
 ようやくピケット大佐が食堂に現れた。
「おはようございます、ピケット大佐。今から朝食ですか?」
「いや、もう済ませたよ。コーヒーだけ頂こうかな。ミシェル、コーヒーを持ってきてくれ」
 食堂に控えていた給仕の女性が頭を下げて、食堂のカウンターからカップにコーヒーを注いでこちらへ持ってくる。
「美味いコーヒーだろう」
 ピケット大佐が笑いかけた。彼の笑顔は、何だか死んだ祖父を思い出させる懐かしさがあった。
「ええ」
「おかわりは?」
「結構です」
 何でも飲み過ぎはよくない。
「昨日は散々だったな」
「あの状況では仕方がありません」
 文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、圧倒的に満足のいく朝食の後では憎まれ口が出てこなかった。
「悪く思わないでくれ。ジョニー・ボーイ曹長も仕事をしただけだ」
 ピケット大佐はカップをテーブルに置く。
「今朝、本国から君に関する情報が届いた」
 ピケット大佐が言った。
「荒巻デッドダイブ。東京都世田谷区出身。世界中で異常な事件に遭遇、処理してきた謎の能力の持ち主。報告書の記載では『宇宙に選ばれた殺し屋』を名乗っているが、どういう意味だ?」
「その通りの意味ですよ」と、僕は言った。
「僕はある日、宇宙に選ばれて、宇宙の指し示す何かを殺す仕事を任されたのです。僕の意志に関わらず、仕事は向こうからやってきます。その過程で発生する様々な事象は、最終的に対象の殺害という一点に集約されるのです」
「ふーむ」
 ピケット大佐は真顔で唸った。僕の言っていることは控えめに言ってあまり理解してもらえなかったらしい。
「それでどうやって金を稼いでいるのかね」
「金は必要になれば、必要なときに、必要な額が手に入ります。僕に報酬を出すのは依頼人じゃない。正確には運命です」
「ふーむ」ピケット大佐は再び唸って、ポケットから小切手を出して僕に寄越した。
「五万ドルだ」と、ピケット大佐は言った。
「昨日、基地の会計決算が行われてね。基地の維持費と言うのは、装備の更新だったり、兵器の燃料だったり、兵士に支払われる給料だったり、租借地として支払われる税金だったりで、毎年初めに大まかに決められるのだが、色々な事情があってそれらの値段は上下するだろ? 例年なら数千ドルのふり幅で多かったり少なかったりするんだが、今年は何故か五万ドルも余ってしまってね。通常なら、この五万ドルは国庫へ返還されるはずなんだが、またもや何故か本国では法律でも変わったのか決算が閉め切られて数字を動かせないという。じゃあ、装備でも買うかというと、それは軍事計画で厳密に決められているからダメ、兵士のボーナスにでも充てるかと思ったが、それも既に経費で算出されて会計が確定しているからノー、じゃあ何に使えばいいのかと本国の石頭に訊ねると『コンサルタントでも呼んで、報酬として支払え』と言う。というわけで若干、途方に暮れていたんだが、どうもこの五万ドルは君のものになる運命だったようだ」
「そのようですね」
 僕が答えると「ま、私も君の立場になったらそう言うだろうがね」と、残りのコーヒーを飲みほした。
「君に対する依頼が発生し、報酬もまた発生した。確かに君の言う通りだ。だが何もしないで仕事を遂行するというのはちょっと理不尽な気もするな」
「それは少し違います。偶然は行動によって発生します。小麦粉とトマトを渡されたとしても、ピザになるかスパゲッティになるかは、料理人が決める。そうでしょう?」
「というと、これから何か事件解決に向けた計画があるのかね?」
「正直、まだ何も。まずは情報を集めようと思います。手始めにこのホテルについて知りたい。あなたについても」
「私は第一容疑者と言うわけか」
 ピケット大佐は人懐こい笑みを浮かべた。
「そういうわけではありませんが、そもそも軍人であるあなたが、どうしてこのホテルの支配人を務めてらっしゃるのですか?」
「ホテル『シシリエンヌ』はこの島唯一のホテルだ。この島に来た軍人以外の外部の人間は、全員ここのホテルに宿泊する。警護と監視がしやすいように、このホテルもまた駐留している軍隊の指揮下にあり、その統括責任者として基地司令が支配人の任つく。実際私も、ここに着任して一ヵ月しか経ってないからホテルの運営は実質、副支配人のスーザンが取り仕切っている」
「警護と監視とは?」
「この島はほとんどがICUNによって自然保護区に指定されている。だから外部から来た人間が、島の環境を破壊・汚染することを防がなくてはならない。ここに来る人間はほとんどが研究者だしね。それにジャングルには人を襲う猛獣もいる。だからフィールドワークの際にも駐留軍による警護が付くことになっている」
「猛獣ですか? どんな?」
「主にワニやヒョウだな。君も一人でジャングルに入るんじゃないぞ。許可なしにジャングルに入ったら罰金一千ドルだ」
「肝に銘じます」
「他に聞きたいことは?」
「ホテルについてですかね。従業員や設備、他の宿泊客とか」
「それなら、案内しながら説明した方がいいだろう」
 ピケット大佐が立ち上がったので、僕も席を立った。
「まずは事件現場の屋上からだな。ああ、そうだ。彼女を紹介しよう」
 ピケット大佐は食堂に控えている給仕の女性を手招きした。
「彼女はミシェル。このホテルの給仕や客室係を担当している」
「よろしくお願いします」と、ミシェルはお辞儀をした。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「それと、スーザン。ちょっと来てくれ」
「はーい」
 食堂の奥から間延びした声が響いて、厨房に続いているらしいドアから年配の、やはり地元住民らしい女性が現れた。
「スーザンはこのホテルの副支配人で、料理長もしているんだ」
 するとあの感動的な朝食を用意したのもこの方だというのか。
「素晴らしい朝食でした」
「お粗末様でした」
「セバスチャンはもう会ったな」と、ピケット大佐は言う。「それでこのホテルの従業員は全部だ」
「え? これで全員ですか?」
「小さなホテルだし、普段からあまり客は来ないからな。たまに研究調査団の連中が大勢来ることもあるが、そのときは基地や地元から応援として適宜人を集めている」
「なるほど」
「ではそろそろ屋上へ向かうとしよう」
 僕はピケット大佐の後に続いてエレベーターへ向かった。昨日、基地からホテルへ着いた時も使ったが、あまりに疲れていてよく覚えていなかったが、ロビーと同じく小奇麗ではあるが琥珀色のニスが塗られた木製のレトロな外見と装飾が施されていた。しかしあくまでも見てくれだけで、床の赤い絨毯の下には確かに金属的な感触を感じる。
「シシリエンヌの由来を知っているかね?」
 ピケット大佐がたずねた。
「ホテルの名前でしょう? いえ、そもそもシシリエンヌなんて単語自体、よく知りません。現地の言葉ですか?」
「フランス語だ。もとはイタリア語のシチリアーナに由来するんだが、舞曲の名前だ。作者は不明。グリーンスリーブスと同じだ」
「グリーンスリーブス?」
「君も聞いたことくらいあるだろう」
 そう言ってピケット大佐はどこかで聞いた事のあるメロディを口笛で吹いた。上手い口笛だったが、称賛する間もなく「話を戻そう。シチリアーナは様々な作曲家に利用されてきたが、ここのホテルの直接の由来となったのはガブリエル・フォーレのシシリエンヌト短調だ」
「この島の出身?」
「いや、フランス人だ。このホテルが出来て間もない頃、ここにはまだ名前が無かったんだ。民間の宿泊施設とはまた違うし、この島にはホテルはここしかなかったから、単にホテルで十分通じたんだ。ところがある夜、従業員の一人が、ああ、いやスーザンが屋上で見たらしいんだよ」
「何を?」
「フォーレの幽霊さ」
 エレベーターが屋上へ辿り着いた。扉が開く。屋上のエレベーターは茅葺風の屋根(木造の屋根の上に茅葺風の装飾を着けたもの)で庇がしてあったが、プールサイドに反射する陽光が、僕の目を白く焼いた。ピケット大佐はというと、ちゃっかり胸ポケットからサングラスを取り出してかけていた。
「さぁ、ここが現場だ」
 僕たちは屋上のプールサイドに足を踏み入れる。降り注ぐ日の光が、僕の肌をじわじわと焼いた。ジャングルに由来する湿度が、粘っこく感じる。
 プールの周りには、海外ドラマでよく見るKEEP OUTの黒い文字が書かれた黄色いテープで封鎖されている。しかしそれ以外に変わったところは特に見当たらない。昨日も思ったことだが、爆発音がしたという割にはどこにも爆発した形跡はなかったし、黒焦げの僕………によく似た死体が落ちてきた割には水面には黒いゴミ一つなかった。治安維持部隊が遺留品を全て持ち去ったのだろうか。
「目撃者は?」
「いない。セバスチャンは君の荷物を部屋に運んでいる最中だったし、スーザンもミシェルも爆発音のあとにここに駆け付けたそうだ」
「他の宿泊客は?」
「うーん、支配人としては他の宿泊客について話すのはモラルに反するんだがな」
「ここは普通のホテルと違う。軍の管理下にある施設だ」
「そうだ。この島自体、通常の観光客は入島許可が下りない。そういえば、君はどうやって空港からこのホテルまで来たんだ」
「カシムという中東系の男に白いバンで送ってもらった。あなたの使いで来たと言っていたが」
 予想した通り、ピケット大佐は「そんな男は知らん」と言った。
「そいつがあなたのアカウントで、僕をここに呼び寄せた?」
「かもしれん。後で詳しい風体を教えてもらおう。話を戻そう。他の宿泊客だが、事件直前にホテル二階に宿泊しているメイ・チャンという女性が直前に屋上のプールを利用している。軍でも事情を聴いたが、やはり本人は何も見聞きしていないそうだ。それでも会うかね?」
「是非」


第四話 204号室
 メイ・チャンはロングヘアのアジア人女性だった。縁の丸い眼鏡をかけていて、年は二十代といったところだろうか。
「あらぁ、いらっしゃい。大佐」
 メイはふらふらとした足取りで僕たちを出迎えた。ほのかに甘い香りと、微かなアルコール臭がした。程度は分からないが、酔っ払っているようだった。
「おはようメイ博士。出直した方がいいかな?」
「そんなことないわぁ。誰かと話したい気分だったの。お連れさんも入った入った」
「失礼します」
 僕はピケット大佐と共に204号室へと足を踏み入れた。それから二人で並んでソファーに座った。メイはその対面の椅子に座り、テーブルに置かれた三本の洋酒とグラスを脇へ押しやった。
「自分でカクテルを?」
 ホテルの下にはバーがあるのに、と僕は思ったが「セバスチャンがうるさいのよ。飲み過ぎはよくないって」と、メイは言った。
「君の体を気遣っているんだ」と、ピケット大佐は優しく言った。「今のはクレームにカウントしないよ」
「分かってるわ………そんなこと」
 メイが僕の方を見た。
「こちらは荒巻デッドダイブさん。今回の事件の………コンサルタントだ」
 ピケット大佐が僕を紹介する。
「コンサルタントですって?」メイは鼻で笑って「こんな事件にコンサルタントなんているの?」
「何にでも専門家はいるもんです」
 と、僕は答えた。
「あなたは事件直前に、屋上のプールにいたと聞きました」
「ええ」
「何をしていたんです?」
「決まっているじゃない。しばらく泳いで、日光浴。それから部屋に帰って論文の執筆よ」
「論文?」
「これでも研究員なの」
 そう言ってメイは薄く黄色い液体の入ったグラスを掲げた。
「専門はバイオミメティクス。生物工学よ」
「メイ博士は、調査のためによくこの島に来る常連なんだ」と、ピケット大佐が補足する。
「そうですか………」
 生物も工学もさっぱり分からない
「それで論文はかけたんですか?」
「ぜーんぜん!」
 メイは両手を広げてお手上げの格好をする。
「もうまったく進まないわ!」
 そう言ってグラスに残った酒を煽った。なるほど、やけ酒と言うわけか。
「ミス・メイ。これ以上は―――」
 ピケット大佐が腰を浮かせかけたその瞬間、メイは「くう」とうめき声を上げて地面に崩れ落ちた。
「救急車?」
 僕が言うと「それには及ばんだろう」と、メイを抱きかかえてベッドへ運んだ。
 二人で部屋を出る。
「大丈夫でしょうか?」
「あとでミシェルに様子を見るように言おう。しかし、これで手掛かりは無くなったな」
「そうですね」
「これからどうする?」
「さぁ………」
「ふーむ」
 ピケット大佐は腰に手を当てる。
「当てがないなら、少しこの島を見て回るかね?」
「ええ、是非」


第五話 ラムダ78見学ツアー
 僕たちはホテルを出て、右手へずっと回って、裏手へ回り込んだ。鬱蒼と茂ったジャングルの中に、駐車場はあった。大きさはそう大きくはない。せいぜいスーパーよりちょっと狭い程度だったが、三台の車と送迎用らしい一台の大型バスしか停まってないので何だか広く感じた。
 ジャングルの木々が日光を遮っているせいか、蒸すような感じはあるがそこまで暑さは感じない。駐車場の隅には落ち葉が点々としているが、掃除が行き届いているのかそこまで多くはなかった。
「乗りたまえ」
 そう言ってピケット大佐は幌を張ったジープを指し示した。僕が助手席に乗り、ピケット大佐がキーを回すと、ジープは力強い振動と共に、EV車には決して発することのできない爆音をエンジンで上げた。
「案内すると言っても、道路が通っているのはここから空港のある街中までだ! 高速道路でも通っていれば、一時間足らずで一周できてしまう島なんだがな!」
 ピケット大佐の声はエンジンの爆音の中でもよく聞こえた。僕はそこまで大きな声が出る自信が無いので、首を縦に振って答えるしかなかった。
 ジープが発進する。僕たちが来た道を今度は左回りに辿ってホテルの正面を抜けて、街へ向かう。
 不思議とホテルから離れるにつれて気温が上がっていくようだった。ジャングルを脱し、日の下に晒されると文字通り炎天下といったぐあいだ。窓のないジープを吹き抜ける風も暖かく、涼しさの欠片も無い。
 昨日、カシムと通った浜辺へ出た。窓がないから、潮風がダイレクトに香った。海の香りを嗅ぐと、少しだけ涼しくなったような気分がした。気分だけだ。本質的にはまだまだ暑い。
「ビールが飲みたくなってきたな!」
 ピケット大佐が言った。軍人だけあって、この暑さにもまるで答えていないようだった。彼はいつの間にかサングラスをかけていた。
「そうですね!」
 僕も今回ばかりは大声で同意した。
「いや、運転中にアルコールはまずい! コーラにしておけ!」
 ピケット大佐が言った。僕はもうどっちでも良くなっていたので、浜辺の椰子を眺めていた。あの椰子の木は、ホテルに向かい、そして去って行く人々を生涯かけて見守っていくのだろうか。
 椰子の人生に思いを馳せていると、すぐに港町まで着いた。ピケット大佐はジープを運転し、ショッピングモールやダイナー、米軍の基地、港を回って紹介してくれた。
「買い物はこのショッピングモールしか出来ない! 何か必要なものがあったら買っておいた方がいいぞ!」
 ピケット大佐はそう言ったが、特に必要な物なんて思いつかなかったし、そもそもホテルに財布を忘れていた。
 最後にピケット大佐は町の一番端にある建物に僕を案内した。
 建物と言っても、実際には鉄の門に閉ざされ、周囲を高い塀で囲まれていたので、僕には遠くから煙を噴き上げている大きな煙突と、四角い建物しか見えなかった。
「あれが火力発電所だ! この島の電力を全て賄っている!」
 そう説明するピケット大佐の声は、心なしか少し強張っている気がした。それとも僕がそう思っているだけかもしれない。僕が空港に到着してから、ラムダ78はどこも活気と生命力に満ち溢れていた。
 だがこの発電所はラムダ78のいかなる場所と比べても異質な場所に思えた。降り注ぐ太陽の光ですら、この発電所の周囲から発せられる陰気を組み敷くことは出来ないようだった。
 どうしてそう思うのだろう? 僕は自問する。分からない。
「あそこで誰か働いているのですか?」
「そりゃそうだろう! 誰かがいなければ発電所は機能しない! ある程度、自動化されているとはいえ、燃料の補給や管理は必要だ!」
 あの発電所で働く人間は、この嫌な気配を感じないのだろうか?
「もういいか!」
 ピケット大佐が訊ねるので、首を縦に振ると、大佐は素早くギアをバックに入れてジープを方向転換し、ショッピングモールの方へハンドルを切った。


 ピケット大佐はショッピングモールへ立ち寄って「コーラを買ってくる」と言い、僕はモールの前のベンチで待つことにした。しばらくしてピケット大佐はルードビアの缶を手に僕の所に戻って来た。
「途中でルードビアの気分になったんだ」
 ピケット大佐はそう言って僕にルードビアの缶を渡した。
 シップのような香りと、炭酸と、生クリームみたいに甘いルードビアをベンチに座って飲んでいると、何故か昔、田舎にある祖母の家の縁側で飲んだラムネを思い出した。
「こうしていると、何だかネバダを思い出す」と、ピケット大佐は言った。
「どうしてネバダなんです?」
「私の祖父がいた場所だ」
 それで十分だった。きっと僕と大佐が考えていることは同じだろう。何だかおかしな気分だったが、笑い飛ばす気にもなれなかった。
「これで君は島の全てを見たことになる。小さな島だろう?」
「すべてではないのでは? 島の裏側はどうなっているんです?」
「どうもなってやしないさ。何もない。ただジャングルと、ポツポツ浜辺があるくらいさ。前にも説明したが、ここはICUNによって開発が制限されている。彼らの決議が無ければ道路だって通せない」
「そうですか」
「他に質問は?」
「あの発電所が怪しい」
 そう聞いたピケット大佐は、一瞬驚いた顔をして、それから噴き出すように笑った。
「何が怪しい? 君の事件とは何も関係ないだよ?」
「なんとなくです」
「なんとなくで疑われたら、たまらんよ」
「まったくですね。忘れて下さい」
 僕たちはルードビアを飲み、空っぽの缶をゴミ箱に放り込んで再びジープに乗り込んだ。
「ミスター・デッドダイブ。私はちょっと基地に仕事がある。夕方までかかるから、帰りはジョニー・ボーイ曹長に送らせよう」
「ジョニー・ボーイ!」
 昨日、僕に不毛な尋問を繰り返した治安維持軍の担当官、ジョニー・ボーイの名前を聞くだけで、僕は眩暈がした。
「いえ、結構です。ホテルまではそこまで遠くないし、歩いて帰れますよ」
「何を言っているんだ。この日差しの中ホテルまで歩いたら、熱中症になってしまうぞ」
「ジョニー・ボーイと一緒の車に乗るよりはマシです」
「そこまで言うなら―――」
 ピケット大佐はジープの後部座席からカーキ色の野球帽を取って僕に寄越した。
「せめてそれを被って行きたまえ」
「ありがとうございます」
 それからピケット大佐はホテルへ続く道路の前で僕を降ろし、駐留基地へと向かった。僕は野球帽を被り直し、ホテルへと向かった。


 当然といえば当然のことだけれど、車で走ると道のりは短く感じるけれど、いざ歩くとなると長く感じるもので、僕は町から数百メートル歩いた時点でもう、うんざりした気分だった。
 やっぱりジョニー・ボーイに送ってもらった方が良かったか? と思ったが、自分の選択に後悔はしたくなかった。
「ふぅ」
 ピケット大佐の言葉に誇張は無かった。野球帽をかぶっていなかったら、熱中症でぶっ倒れてしまいそうだった。
 全身から汗が噴き出すのを感じる。ホテルに帰ったら、シャワールームに直行だ。バスローブに着替えて、しばらく何もせずに涼みたい気分だ。椰子の木が立ち並ぶ海岸の道路を歩く。この世界には僕だけしかいなかった。砂浜には米兵らしき筋骨隆々の男たちがサーフィンを楽しんでいた。はた目からはバカンスを楽しんでいるようにしか見えない。訓練とかどうしてるんだろう? どうでもいい。僕は頭を振る。暑い。
 ミネラルウォーターでも貰っておくんだったな。
 無いものはしょうがない。僕は意識を仕事に集中させた。
 謎はいくつもある。ピケット大佐のふりをして、僕に仕事を頼んだ人物。昨日、僕をホテルまで送って行ったカシムという男。爆発音と共に屋上のプールに出現した僕の死体………。
 あの死体は警告だろうか? 金と時間のあるマフィアだったら、そういう凝った警告もしそうなもんだ。誰か僕に恨みでもあるのだろうか? 心当たりはない。でももしかしたら、恨んでいる人間が一人くらい、いるかもしれない。頑張って調べれば、誰だってそんな人間が一人くらいはいるものだろう。
 あるいは僕に手を引け、ということか。その可能性はあり得る。でも僕はこの島で、何をすればいいのか見当もつかなかった。
 お手上げだ。そこで僕の集中力も切れた。何も情報がない。手掛かりすらなかった。僕の体は水と、温いシャワー、出来ればお湯を張った浴槽を欲していた。
「だめだぁ!」
 僕はホテルへ続く曲がり道を曲がって、最初の木の根元に腰を下ろした。暑い。どんどん暑くなっていくようだった。当然だろう。正午にかけて、太陽はどんどん上に登っていくのだから。
 道路が陽炎を発して風景を歪ませていた。汗が滝のように首筋から流れ落ちる。死にそうだ。冗談じゃなく。
 すると道路の彼方から、一台の自転車がこちらに向かって走って来た。小さい。乗っているのは七歳くらいの少年だろうか。よくこんな炎天下で自転車を走らせるもんだと感心する。
 あの少年から、自転車を奪い取りたいという欲求が頭をもたげてが、あの自転車は僕には小さいし、何より子ども相手にそんなことをするのは大人気ないにも程がある。
 それでも助けくらいは呼んで欲しいな、と思って「おーい」と片手を上げると、少年は僕の近くで自転車を停めて、荷台にあるクーラーボックスから僕にミネラルウォーターを差し出した。
 何も考えず、僕は「ありがとう」と言ってミネラルウォーターを受け取った。キャップを開けてゴクゴクと飲み干す。美味い。こんなに美味い水を飲んだのは初めてだった。
「あなたはミスター・デッドダイブ?」
「そうだよ」
「ああ、なら僕はちゃんと仕事出来たね。大佐から、ミスター・デッドダイブに水を届けるように頼まれたんだよ」
 大佐とはピケット大佐のことだろう。僕がここでぶっ倒れるのもお見通しというわけだ。この辺りの予測と気遣いが、大佐になれる条件なのだろうか。何にせよ、僕はピケット大佐に一つ貸しを作ったわけだ。
「君は?」
「僕はダグラス・マイクロ。たまにホテルや基地に郵便物を配達してお小遣いをもらってるんだ」
「仕事?」
「というより、夏休みのちょっとしたお手伝いってところだね」
 夏休み………そうか、南半球では夏休みの時期なのだろうか。
「この島に学校が?」
「いえ、普段は島の外の寄宿学校にいて、長い休みの時に帰ってくるんだよ」
 飛行機に乗り合わせたキャサリンのことを思い出す。あの子も夏休みで故郷に帰って来たのだろうか。
「さて、水のお礼に君にはチップをやらなきゃいけないな」と、僕は立ち上がる。
「だけど、財布をホテルに忘れてしまったから、君、よかったら一緒にいかないか」
「いいよ。僕もホテルに郵便を届けなきゃならないからね」
「そりゃよかった」
 僕はダグラスと共に、木陰の道路を歩いた。ダグラスは僕に合わせて自転車を押し、僕はダグラスに合わせて歩調を落とした。
「ところで、お小遣いを貯めてどうするつもりなんだい? 何か欲しい物でもあるの?」
「大学へ行くための学費を貯めてるんだよ。僕、将来は大学で勉強がしたいんだ」
「ダグラスはしっかりしてるな。俺が子供の頃は―――」
 何を考えていたんだろう? すっかり忘れてしまった。僕の人生は平凡な生活と、異常な冒険に振り回されて、粉々に砕けていた。運命に選ばれた殺し屋、字面はカッコいいが、僕なんて所詮は風に吹かれる葉っぱにしか過ぎないのだ。運命の気まぐれで、次の瞬間にはどうなるか分からない。
「ミスター・デッドダイブは一体、どんな用でこの島に来たの?」
「仕事さ」
「どんな仕事?」
「コンサルタントってところかな」
「コンサルタントって何をするんですか?」
 そう言われると答えに窮した。よく聞く職業だけれど、いったい何をするんだろう?
「ま、探偵みたいなもんさ」
「ミスター・デッドダイブは名探偵なんだ! 今までどんな事件を解決したの?」
「そうだな」
 僕は北欧で解決した『ガラスの王国事件』について、ダグラスに語って聞かせた。


「すごい話だ」
 ダグラスは嘆息した。
「それにしても、よくカラスの存在からオーディンに辿り着きましたね」
「消去法だよ、シャーロック・ホームズも言っていたじゃないか。あり得ない選択肢を片っ端から消していけば、残るのは真実だけなんだ」
 話をしていたらホテルに辿り着いてしまった。気の合う誰かと話していると長い道のりもあっという間だ。ダグラスが入口で自転車を停め、
僕たちは一緒にホテルに入る。
「おかえりなさいませ、ミスター・デッドダイブ」
 フロントでセバスチャンが声をかける。
「おや、ダックスも一緒ですか?」
 ダックスとは、ダグラスの愛称らしい。
「ミスター・デッドダイブも僕のことをダックスと呼んでいいよ」
「そうするよ、ダックス。あと、僕にミスターは付けなくていい。デッドダイブと呼んでくれ。セバスチャン、ダックスにオレンジジュースでも出してくれ」
「はい」
 セバスチャンがダックスをバーに案内している間に、僕はエレベーターで三階に上がり、財布を取ってロビーへ引き返すと、ダックスは既にいなくなっていた。
「ダックスは?」
「お帰りになりました」と、セバスチャンが言った。
「残念だな、チップを上げようとしたんだが」
「あの子から伝言があります。『チップはあなたの話で十分です』とのことです」
「そうか」
「デッドダイブ様はこれからどうなさいます?」
「部屋に戻って休むよ。昼食はホテルでとれるかな?」
「ご希望ならばそのように致します。食堂で召し上がりますか? それともお部屋で?」
「部屋に持ってきてくれ」
「かしこまりました」
 僕は部屋に戻ってシャワーを浴び、浴槽にお湯をためてしばらく浸かってから、バスローブを着てベッドの上に飛び乗った。
 天井では木製のシーリングファンが永遠に回っている。空調の効いた部屋が、僕の体温を柔らかく冷ましていく。足が痛い。急にあんな距離を歩いたからだ。
 ファンが回る。
   ベランダから入ってくる光、小学校の音楽室を思い出す。
                         意識が沈む。
                               眠―――。


第五話 夢パート1
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 気が付くと辺りが真っ暗になっていた。
 嘘だろ? 僕はそんなに寝ていたか?
 セバスチャンに頼んだ昼食はどうなったのだろうか? 夕食にはありつけるのだろうか? 色々な心配が頭をもたげて、慌ててベッドから飛び起きた。
 いや、もういっそのこと、このまま眠り続けて朝を待った方が早い気がした。そう思って再び横になったが、眠気は驚きで一気に吹き飛んでしまった。
 起きてしまったものは仕方がない。僕は替えの下着を着て、ワイシャツを羽織ってズボンを履いた。体が妙に冷える。バスローブだけでずっと寝ていたからだろうか。背広の上着も羽織る。風邪ではないといいが。
 それにしても暗い。光源は外から入ってくる月光のみで、部屋は青白いシルエットが辛うじて判別できる程度だった。手探りで壁の照明スイッチを入れたが、明かりが灯らない。別なスイッチだろうか? もしかすると天井で回っているファンのスイッチなのかもしれない。こんなことなら、昼間の内によく確認するべきだった。
 ナイトスタンドを試したが、これも反応が無かった。どうもホテル全体が停電しているようだった。いくらなんでもこんなに暗いことはないだろう。誘導灯の類がどこかにありそうなものだ。
 部屋を出る。廊下は薄暗い電球が天井に灯っているだけで、ほとんど真っ暗だった。それでも、まがりなりにも天井に電球が点いているということは、完全に停電しているわけではないのだろうか。非常電源による点灯かもしれない。僕の部屋だけに電気が通っていないのは、理不尽すぎる。
 とにかくセバスチャンか、ミシェルか、スーザンか、ピケット大佐を探そう。クレームの一つでも入れてやる。
エレベーターは使えるのだろうか? 駄目なら大人しく階段を使おう。ところでエレベーターってどこだったか。暗くて何も分からない。とりあえず通路を進むと、青白い影が何かを通り過ぎた。
 僕は驚いて、身を暗闇に屈めた。今のは何だ? 少なくとも人間ではない。足音もしなかったし、動く速さが不自然だった。では何なのだと聞かれると、困るのだが。
「あれはバッハよ」
 女性の声だった。驚いて振り返ると、僕の後ろにメイがいた。
「メイ博士?」
「そう言うあなたは………誰だっけ?」
「荒巻デッドダイブです」
 メイ博士は何だかフラフラしている。
「まだ飲んでいるんですか?」
「もう飲んでいないわよ。ミシェルに取り上げられたわ。それで諦めてふて寝したの」
「それがいいと思う。飲み過ぎはよくないですよ」
「ああ、とうとう夢にまで説教されたわ」
「夢?」
「だってそうでしょう? 夢じゃなかったらバッハなんて見ないわ」
「バッハっていうのは?」
「さっき廊下を通った奴よ」
 メイは先ほど青白い影が通り過ぎた場所を指さした。
「ヨハン・セバスティアン・バッハ。知らないの?」
「独特なタッチでヒマワリの絵とか描いた―――」
「それはゴッホよ」と、メイは呆れたように言う。
「私の夢なのにそんなことも知らないのね」
「僕は夢じゃない。僕は僕だ。そしてこれは現実です」
「あなたが私の夢じゃないって、どう証明するのよ。それにこんなにホテルが暗いのはおかしいわ。バッハの幽霊も出るし、夢に決まっているわよ。あるいは、私があなたの夢なのかもね」
「僕の夢?」
 メイの話には一理あった。これは僕の見ている夢なのかもしれない。だとすると僕の目の前にいるメイは、僕の想像したものに過ぎないのだろうか?
 そんなことを考えている内に、メイは僕の脇を通り過ぎてエレベーターの方へ向かった。
「一人で歩き回らない方がいいですよ。夢の中とはいえ」
「うるさいわね」
 カチカチとメイはエレベーターのボタンを押した。しかしパネルには反応がない。
「駄目ね」
「こっちに階段があります」
 僕とメイは階段へ向かう。僕が一回へ降りようとすると、メイは上へ向かって行く。
「どこへ行くんです?」
「バーよ。屋上にプールバーがあったわ」
「もしかして、飲むんですか?」
「当たり前でしょ? 夢なんだからじゃんじゃか飲むわよ」
 そう言ってメイはガンガン暗い階段を上っていく。もちろん僕も踵を返して階段を上がる。彼女を放っては置けなかった。色んな意味で。
「いつもそんなに飲むんですか?」
「そんなわけないでしょ? こんな時くらいよ」
「論文は終わったんですか?」
「終わらないから飲むのよ。論理的に考えなさい。素面で論文を書けませんでしたというより、酔っ払っていて書けませんでした、という方が私のプライドが傷つかずにすむでしょう」
「根本的な問題解決になっていないじゃないか」
 そんな会話をしている内に、僕たちはシシリエンヌの屋上へ出た。夜空には星々が煌めき、満月が輝いていた。おかげで何の光源が無い中でも、僕たちは十分に視界を確保することが出来た。
 星空はプールの水面にも映り込んでいた。それが夜風に吹かれて波打つと、それが人工的なものだと分かっていても自然の神秘を感じた。なるほど、ナイトプールが流行るわけである。
「ほら、あれ」と、メイが指さした先にはプールバーがあった。その奥、大きなグランドピアノに座るのは、先ほどすれ違った青白く、ほのかに発光するバッハの幽霊だった。
「あれ本当にバッハの幽霊なんですか?」
「知らないわよ、幽霊なんて初めて見たし。バッハの肖像画に似てたから、バッハだと思うけど、本当は違うかもしれない」
 僕たちが遠くからバッハの幽霊を観察していると、バッハ腕をばっと宙に振りかざし、鍵盤に手を置いた。
「見て、何か弾くわ」
 同じものを見ているんだから言わなくても分かる、と言いたいのをぐっと堪えて、僕はバッハを見守った。
「何か弾くのよ。バッハが曲を演奏しようとしているわ。ねぇ、聞いてる?」
「うるさい」
 やがてバッハの指が鍵盤の上で踊り出す。美しく、なめらかに。聞いた事のある曲だった。音は軽やかだけど、どこか重々しい。脳裏に薄暗い石の壁が思い浮かぶ。薄緑色の、冷たい石の牢獄だ。
「何という曲だろう」
「小フーガト短調」
 メイが答えた。
 僕は既にバッハから目を離せなくなっていた。遠めに見ても、あんなに上手にピアノを弾く人間を見たことは無かった。繊細で、力強い。どうも想像よりバッハの腕っぷしは強いみたいだ。そう思って改めて観察すると、上着の下から盛り上がる上腕二頭筋もプロレスラーみたいに太く見える。
 やがてバッハは演奏を終えた。気が付くと僕は泣きながら拍手していた。音楽で泣いたのは初めて鬼束ちひろの曲を聞いたとき以来のことだった。
「素晴らしい演奏でしたね! メイ博士!」
 そう言って横を向くと、メイはいなくなっていた。
「博士?」
 辺りを見回すが、視界が悪くて何も見えなかった。既に星々と月光は、どこからともなく現れた雲によって遮られていた。ピアノの前に座っていたバッハも忽然と姿を消している。
「メイ博士!」
 階段を下りる。
「メイ博士! どこにいるんです!」
「ぎゃああああ!」
 悲鳴が上がった。僕は驚いて階段を踏み外す。体を強張らせて衝撃に備えた。


「あだっ!」
 衝撃と痛み。
 気が付くと、僕は部屋の床に転がっていた。左肩が痛んだ。目の前にはベッドがある。どうも寝ぼけて落ちたようだ。
 部屋からさんさんと光が差し込んでいた。世界はまだ夕方にもなっていなかったし、なんなら髪の毛はまだ多少、濡れたままだった。
 夢でも見ていたのか?
 そのとき、ドアがノックされた。
「ミスター・デッドダイブ。ランチをお持ち致しました」
「ああ、はい。どうぞ。鍵はかかってない」
 そう言って、バスローブ姿はまずいかな、と思ったが下を見ると僕はいつの間にか背広に着替え終わっていた。


 昼食はサンドイッチに魚のマリネ、そして目の覚めるように酸っぱいオレンジシャーベットと、ポットに並々と入ったコーヒーだった。
「美味い………」
 食後のコーヒーを片手に、思わずそう呟く。ここまで来ると夕食は何が出るのだろうか? 期待に胸が高まる。
 もちろん、仕事のことも忘れてはいない。だが依頼主も言っていたではないか。バカンスみたいなものだと思え、と。
 コーヒーカップに目を落とす。コーヒーの黒さに、僕は先ほど見た夢のことを思い出した。薄暗く、青白い幽霊の出るホテル。あれが裏側のホテルだったのだろうか? それともすべて、ただの夢だったのだろうか? キャサリンも?
 キャサリンに会いたくなってきた。あれは僕のただの夢なのだろうか? それとも彼女は本当に裏側のシシリエンヌ302号室にいるのだろうか? コーヒーを飲む。彼女は僕と会ったら、全てが終わると言っていた。彼女に会えばすべての謎が開かされるというのか?
「探してみるか」
 他にやることも思いつかないし。
しかしどう探すかな………ピケット大佐に相談してみよう。
 
 
 部屋を出て、ロビーで掃除をしているセバスチャンに相談すると、ピケット大佐は明日の朝までホテルに戻らないという。
「支配人に何か御用ですか?」
「人探しについて相談したくてね」
「そうでしたか。それなら確かに支配人が適当でしょう。島民はすべて駐留軍の管理下にありますし、島の出入り口である空港も軍が管理しているので、探そうと思えば難しくないでしょう」
「そんなに徹底的に管理されているのか?」
 そこまで来ると、何だかディストピアの管理社会みたいで何だか恐ろしい。セバスチャンは何の疑問もなく受け入れているのだろうか。ところが彼は何でもないという風に「この島の住民は全員、軍から委託されて島に集められて働いています。契約が終われば、別な場所で新たな生活が待っているのです。ここは元々、無人島ですから」と答えた。
「するとこの島に根差して生きる人間はいないということかい? この島で生まれて、一生を過ごし、そして死んでいくような」
「生まれる人間はいます。不幸な事故や病気で死ぬ人もときどきいますよ。でも一生、この島で生きる人間はいません。そういう意味では、この島は無人島と言えるかもしれませんね」
「君が前に話してくれた祈りの雨と言うのは? この島に由来する話じゃないのか?」
「由来はわかりません。付近の島から集められた迷信深い人が言い始めたのかもしれませんね」
「不思議な島だ」
「僕もそう思いますよ」と、セバスチャンは笑った。
 これ以上、セバスチャンの掃除の邪魔をするのも忍びなく、僕はロビーを後にした。ピケット大佐がいないとなると、かなり暇を持て余すことになる。
 部屋に戻ってソファーに座り、とりあえず目の前のテレビをつけてみた。ニュース、どこかでみたテレビドラマ、古臭いアニメ、一通りチャンネルを回して僕は再びテレビを消す。
 退屈だ。
 思えば久々に僕は退屈していた。最近は忙しい仕事が多かった。行き着く間もなく状況が変わり、精神、肉体共に極度の負担を強いられた。しかし今回の仕事は、まるで夢の中を歩いているように状況は一歩も進まないし、状況もまるで変わらない。その一方で、僕を急かすようなことも無かった。
 なら、この退屈をとことん楽しむまでだ。
 僕は部屋を出て屋上へ上がり、プールバーで一杯ひっかけることにした。
 しかし三人しかスタッフがいない中で、誰かいるだろうか? 屋根と窓のない壁、多種多様な酒類でひしめく棚の前のバー、テーブルと椅子、そしていくつかのピンボールマシンとビリヤードがあるプールバーに丁度、ミシェルがいた。彼女はバーで酒の棚卸をしているようだった。
「やぁ、ミシェル」
「あら、デッドダイブ様」
「お酒、いいかな」
「構いませんわ。何にいたします?」
「スコッチはある?」
「ありますよ」
「ダブル、ストレートで」
「かしこまりました」
 ミシェルがグラスにスコッチウィスキーを注いでこちらに寄越す。代わりに僕はダックスに渡すはずだったチップをミシェルに渡した。
 スコッチをちびりと飲みながら、太陽の降り注ぐプールを望む。
「楽園というのは退屈なものだ」
 僕が言うと「あら、そういうものですよ」とミシェルは言う。
「日々の忙しい生活、将来の不安、煩わしい人間関係、そういったものに悩まされない退屈さが、何よりの贅沢なのです。ここでの退屈さを、忙しない日常に戻った時にふと思い出すことで、救われる方も多いと存じます」
 僕はまた一口、スコッチをちびりと飲む。
「ミシェルはこのホテルで長いのかい?」
「十六のときから働いて、もう五年になります」
「そんなに若いときから働いているのか。ご両親もこの島で働いているの? この島の人間は、みな駐留軍に雇われていると聞いたが」
「両親は私が産まれたときに死んだそうです。私を副支配人………スーザンが引き取って、それからスーザンがここに働くことが決まって私もここで働くことになったのです」
「するとこの島に来たのは十六のときか」
「いえ、生まれはこの島です。だから故郷に戻って来たというのが正しいかもしれません」
「ふぅん」
 スコッチをもう一口飲む。ペースが速くなってきた。バニラの香り。アルコールの刺激に隠れた甘さ。酔いが回る。まろやかな口当たり。頭がふわふわしてきた。
 いつの間にか雨が降っていた。セバスチャンの言う祈りの雨だ。昨日よりも激しくない。
 屋上の入口はプールの向こう側だけのようだった。ここからでは、どんなに急いでもずぶ濡れになってしまう。
「帰れなくなってしまったな」
 僕が言うと「すぐに止みますわ」と、ミシェル何でもないことのように言った。
「デッドダイブ様はどちらから来たんですの?」
「日本だ」
「日本の方でしたか」
「そうは見えない?」
「当ホテルは日本からお越しになる方も多いですが、失礼ながらデッドダイブという名前は聞いた事がありませんので」
「昔からデッドダイブだったわけじゃない。今の仕事を引き継いだときに、ついてきたんだ」
「世襲制というわけなのですか?」
「厳密には、前のデッドダイブに会ったことはない」
 ミシェルがよくわからないという顔をする。そんな顔には慣れていた。
「人間にはね、ミシェル。自分でも知ることのできない裏側があるんだ。月の裏側のようにね。そこで宇宙人と地底人が相談していても、誰にも知ることが出来ない。ある日、僕の裏側で、誰かと誰かが僕をデッドダイブに指名して、常識はずれの出来事をそいつに押し付けようと決めたんだ。それ以来、僕は荒巻デッドダイブさ」
 僕は一気にスコッチをあおった。ミシェルが「はぁ」と一言も理解していない返事をする。どうでもいい。ミシェルが何をどう理解しようが、僕には関係がないし興味がなかった。
 湿った、生暖かい風が吹き抜ける。心地が良い。空のグラスを傾けて、スコッチをもう一杯頼もうかと考えた。やめておこう。何事もほどほどが肝心だ。
「デッドダイブ様は変わった方ですね」
「だからこの島に来たんだ」
 そう言うとミシェルはコロコロと笑った。ミシェルの笑い方はキュートだった。適当に返事をしたが、笑ってくれて何よりだ。
「それよりコーラをくれないか」
 ミシェルが栓を抜いて瓶入りのコーラをよこした。
「グラスは?」
「このままでいい」
 瓶でコーラを飲むなんて久しぶりだ。炭酸が喉に染みる。それにしてもウィスキーもコーラも好きなのに、僕はどうしてコークハイボールが嫌いなのだろう。
 降り始めた時と同様に、雨はまたいつの間にか止んでいた。今日も誰かがどこかで生まれ変わったのだろうか。この島の生物は多様で大量だから、生まれ変わり担当の天使か何かがいるとして、すごい大仕事だろうな。雨粒一つ一つくらいの数がいるかもしれない。虫レベルまでカウントしたら、それくらいになるだろ?
「支配人からホテルの名前の由来について聞いた。スーザンがフォーレの幽霊を見たんだって?」
「はい。そこのピアノで、シシリエンヌを弾いていたそうです」
 ミシェルが指を指した先に見事なグランドピアノがあった。少し奥まったところにあったせいか、入った時には気が付かなかった。
「他にも幽霊を見た人はいるの?」
「そうですね—――」
 ミシェルは少し考え込んで「セバスチャンは、たまにフロントで何かの気配を感じることがあると聞きました。支配人はジープの鍵をどこかに隠されると言ってましたし、私も掃除道具をどこかに隠されたりします」と答えた。
 いや、ジープの鍵と掃除道具はちょっと違うんじゃないか、と僕が言うとミシェルは首を横に振って「プール掃除に使った道具がフロントで見つかったり、部屋の掃除につかった雑巾が車の中で見つかったりするんです。少し変じゃありません?」と反論した。
 それは誰かが途中で借りて忘れただけなんじゃないか?
 僕はそう思ったが、面倒くさそうなので「そうだね」と相槌を打ってコーラを飲んだ。
「デッドダイブさんはどうです? 何か感じます?」
「さっきバッハの幽霊をみたよ」
「あら、素敵ですね」
「素敵なもんか。びっくりしたよ。でも、演奏は素晴らしかった」
 ミシェルは僕の言葉を冗談と受け取ったらしい。確かに夢みたいな話だ。何せ夢なのだから。コーラの瓶を空にした僕は、部屋に戻って一眠りすることにした。
 ホテルに戻るまでの少しの間、何だか日差しをやけに強く感じた。何だか幽霊が出そうだな、と思った。強烈な闇は、強烈な光もってして発生するのである。


第六話 ザ・オフィス
 トマス・ピケット大佐は駐留軍基地のオフィスで書類仕事に追われていた。
ピケット大佐のオフィスは個室ではあるものの、過去七年間の基地における様々な記録を保管したキャビネットを除いて、装飾品はやや萎れた観葉植物しかなかった。あとは机の上に妻と娘と撮った写真があるだけだ。
ラムダ78の基地司令官の任期はあまり長くない。大抵の人間はオフィスに愛着を持つことなくこの島を去って行く。ピケット大佐もそんな一人であった。彼は今、基地周辺の海域で行われる海軍演習の書類をチェック、サインしているところであった。
 書類の数は多かったが、コツを掴めばそう大変な作業でもない。それに大抵の下士官は優秀である。よっぽどのことが無い限り、おかしな点は見つからなかった。
 それにしても、とピケット大佐が考えるのは荒巻デッドダイブのことである。
 とぼけたような青年、というのが彼に対する第一印象だった。以前、共に演習を行った日本の自衛官と比べてもずいぶんと頼りなく感じる。
 その一方で、妙に鋭い部分があった。
島の裏側はどうなっているんです?
 デッドダイブには嘘は言っていない。島の裏側には何もない。誰かが上陸したという話は聞かなかったし、学者の探検は島の定められた区域内に限定されていて、そこに裏側は含まれていなかった。事実上、未開の地である。今回の演習でも島の裏側から数キロ以内は艦隊の立ち入りを禁じている。あの周辺は暗礁が多く、またサンゴ礁やそこに住む海洋生物の生態系を保全する為だ。
 しかし………いくらなんでも厳重過ぎる。
 ピケット大佐は演習地図を見ながら顎の先をさすった。今までなら特に疑問を抱くことなく書類をやり過ごしていたが、どうもデッドダイブの言葉が頭に付いて離れないのだ。
 同様のことは発電所にも言えた。妙なことに、あの発電所に近づくだけで何だか寒気がするように感じるのだ。
 そうした感想を抱くのはピケット大佐だけでは無かった。部下の兵士も、島で働く島民も口をそろえてあの発電所は何か不吉な印象を持っていた。そしてこれもみな同じことに、そのことに対して具体的な理由が思い当たらないのである。
 あの発電所は駐留軍の管轄下ではなく、直接アメリカ政府が指揮していた。ピケット大佐には、あの発電所も島の裏側と同じく内情の分からないブラックボックスだ。
 もちろん、ピケット大佐も何の想像もしないわけではない。表向きは発電所だが、実際のところは何かの研究施設か生産工場であると当たりを付けている。むしろそうでないと、こんな小さな島に大げさな発電所があることに説明がつかなかった。大抵の島は海底ケーブルでオーストラリアから電力を引いているし、それが外敵によって切断されたとしても駐留軍には自家発電システムが備わっている。あんな発電所はそもそも必要ない。
 おそらく―――あくまでも推測だが、発電所は表向きの顔で、実際には行われているのは核関連の研究ではないか? ピケット大佐はそう睨んでいた。
 一応、根拠はある。以前、空港の税関で大量のガラスバッジが発電所に向けて納品されるのをたまたま見たからだ。ガラスバッジとは、文字通りバッジサイズの個人の放射線被ばく量を測定するための、いわゆる線量計である。
 冷戦時代、ビキニ環礁を始め太平洋上では多くの核実験が行われた。実際の所、ラムダ78もそれに関連した施設なのではないかと、ピケット大佐は考えていた。それが九十年代における冷戦終了に伴って規模が縮小し、ラムダ78は現在のような形になったのではないか? すると島の裏側の立ち入りを禁止している理由にもある程度予想が付いた。過去の核実験で大量の放射性物質があの周辺に撒き散らされたか、あるいは放射性廃棄物が遺棄、ないし保管されているのではないだろうか。
 ピケット大佐は軍人である。国家がそうするのであれば、黙って従うまでだ。
 だが、その信念もここにきて少し揺れていた。シシリエンヌの屋上に出現した、デッドダイブと同じ生体情報を持つ人間の遺体。自分のアカウントを利用してデッドダイブの宿泊を了承した人物。カシムと名乗る中東系の男。
 何かおかしなことが起きつつある。そしてそれは、あの発電所や島の裏側に由来することではないのか?
「うーむ」
 ピケット大佐は書類とペンから手を離して目元を揉んだ。年のせいか、数年前から目元が疲れやすくなっていた。
 まぶたの裏側でシシリエンヌを想う。発電所と同様に、シシリエンヌもまた同様に奇妙な場所だった。と言っても、悪い意味ではない。
 シシリエンヌを始めて訪れたとき、懐かしい気持ちがした。心が安らぐ。落ち着く。あのホテルを訪れた人間は、みなそう口にする。それはピケット大佐も例外では無かった。発電所が地獄に続いているのであれば、シシリエンヌは天国に続いていると形容できるだろう。
 つまり、どちらも現実離れしていることに変わりはない。ラムダ78は現世から遠く離れたところにあった。
 そのとき、コンコンと部屋がノックされて、ピケット大佐は我に返る。
「入れ」
 部屋に入ってきたのはジョニー・ボーイ曹長だった。
「サー、お呼びしましたか! サー!」
「来たかジョニー・ボーイ曹長、まぁかけたまえ」
 ピケット大佐はデスク対面の椅子を右手で示し、それから報告書をデスクの引き出しから引っ張り出した。今朝、ジョニー・ボーイ曹長から提出されたホテルで発見された死体についての報告書である。
「何か気になる点でもありましたか?」
「気になるというか………これなんだが」
 ピケット大佐は老眼鏡をかけ、報告書に記載された文章の一節を指で叩きながら読み上げる。
「『ここから逃げても、ここに踏みとどまっても、無駄だ。陽の光もうとましくなってきた。いっそ宇宙の秩序など滅茶苦茶に崩れてしまえばいい。警鐘を鳴らせ! 風よ、吹け! 破滅よ、来い! せめて鎧兜に身を固め、討ち死にしよう。』」
 読み終えて、ピケット大佐は老眼鏡を外してジョニー・ボーイ軍曹に向き直った。
「これは何かね?」
「マクベス第五幕第五場、最後のマクベスのセリフです」
 ジョニー・ボーイ曹長が答えた。
「そんなことは分かっている。問題は、そうしてそれをこの報告書に書いたのかということだ」
「余白が中途半端に余ったので」
「だからと言って、どうしてマクベスのセリフを書く必要があるんだ。それにテストじゃないんだ。必要な情報を記載したらそれでいい。余白など気にする必要はないだろう」
「でも、これからマクベスのセリフが関わって来るかも」
「それなら、そのときに書けばいいだろう。いいか、ジョニー・ボーイ曹長。今後は事件に必要のないことを書くんじゃない。分かったな?」
「イエッサー! 今後、事件に必要のないことは書きません!」
「分かったら下がれ」
 ジョニー・ボーイ曹長が退室すると、ピケット大佐はため息をついて報告書を再びデスクの引き出しに戻した。
 犯罪など滅多に起きないラムダ78において、軍警察を担当している兵士は現在、二人しかいない。先ほどのジョニー・ボーイ曹長と、リヴィア・ブルーニ少尉の二人だ。
 ピケット大佐の知る限り、全ての書類仕事はリヴィア少尉が作成していた。長い間、どうしてリヴィア少尉はジョニー・ボーイ曹長に書類仕事を任せないのかと訝しんでいたが、その理由がわかった気がする。
 残念ながら、リヴィア少尉は現在、妹の結婚式に出席するために一時的に帰国していた。ゆっくり家族と過ごして来いと送り出した手前、復職をせかすのはためらわれたが、正直言って一刻も早く帰って来て欲しいと思うピケット大佐であった。


第七話 夢・パート2
「野中詩織さんが亡くなりました」
 小学校で中島先生がそう説明する前に、少し前から詩織が死んだことは学校の中で噂になっていた。夏休みが明けてから、詩織は一度も学校に来ていなかった。家にはパトカーが停まっていて、新聞記者やらマスコミらしい人間が周辺を嗅ぎまわっていた。
 詩織が死んだことは公然の秘密になっていたけれど、改めて担任の口から事実が発表されると、僕のみぞおちに大きな石が五つ分くらい詰め込まれたような重さを感じた。
 状況から考えて、詩織が川に溺れたり、車にはねられたような死に方をしたのではないことは明らかだった。
 殺されたっぽいよ―――女子のグループがそう話すのを聞いた。
 あの頃はまだ地球温暖化もそれほど進んでいなくて、九月には秋の寒さが校舎の影に腰を下ろしていた。僕と詩織はよくそんな場所で話した。
 詩織はよく怪我をしていた。あまり活発な性格ではないのに、体のあちこちに痣を作っているのが不思議だった。最初は白い肌についた赤い斑点がきれいだなと無邪気なことを思っていたが、斑点が紫の痣に変わる頃には僕の鈍い頭もさすがに変だなと感じた。
「お父さんに怒られるの」と、詩織は言った。「嫌だけれどお父さんも大変なんだ。うち、お母さん死んじゃったからお父さん一人で大変だし。私がぶたれないとお婆ちゃんが酷い目に合わされるから仕方ないの。あとでちゃんと謝ってくれるし」
 当時の僕は「大変だな」と思っただけだった。去年は隣のクラスの先生がぶち切れて田中くんのわき腹を蹴ってあばら骨を四本折ったけど、なぁなぁで終わって誰も騒がなかったし、それよりはマシだろうなと思ったからだ。
 詩織とは不思議と気が合った。適当にお互いのことを話しているだけなのに、一緒にいて何だか落ち着いた。近づくと、詩織はミシンオイルのような匂いがした。
 全校集会で、改めて詩織の死が発表されるまでには僕の覚悟は決まっていた。あばら骨四本へし折るのと、殺されるのはレベルが違う。家に帰った僕は台所から刺身包丁を持ち出して、上着の下に隠して詩織の住んでいた団地へ向かった。
 僕は全身を石のように固くして、秋風の吹きすさぶ道を走った。詩織の家の周りには、もうパトカーも怪しい大人もいなかった。
 はぁはぁと息を切らして、呼び鈴を睨む。出て来た瞬間を狙うつもりだった。意を決して呼び鈴に手を伸ばした瞬間、僕の肩を誰かが掴んだ。
「天使の羽ばたきを見たくはないかい?」
 ジリリリリリ………。

 ジリリリリリ………。
 電話だ、電話が鳴っている。受話器を取って、耳に当てた。
「おはようございます、デッドダイブ様」
 セバスチャンの声だった。
「おはようセバスチャン」
「朝食のご用意が出来ております」
「そうか」
「お待ちしております」
「すぐ行くよ」
 電話を置いて、目を擦りながら立ち上がる。


 首筋が痛い。日焼けだ。前腕もすっかり日に焼けて赤くなっている。
 日焼け止めを持ってくるべきだったかな。
 食後のコーヒーを飲みながら、ベランダの外を見る。ラムダ78の天気は曇りだった。今日は日焼けの心配は無さそうだった。
「おはよう、ミスター・デッドダイブ!」
 ピケット大佐がやってきた。
「疲れているようだな、大丈夫か?」
「別に疲れてはいません」
「そうか? 元気が無いようだから」
「嫌な夢を見ただけです」
「どんな夢だ?」
「言いたくありません」
「そうか。ミシェル、コーヒーを一杯頼む」
 ピケット大佐は僕の正面に座って「捜査の方はどうかね?」と訊ねた。
「特に進展はありません」
「何か計画はあるのかね」
「それもありません」
 僕は情けなく首を横に振るばかりだった。
「まぁ、気を落とすな。軍警察も同じようなものだ。その内、何か見つかるさ」と、ピケット大佐は励ますように笑いかける
 そのとき、セバスチャンが食堂に駆け込んできた。その顔面は病的なまでに蒼白で、僕は思わず「大丈夫かセバスチャン」と声をかけた。
 セバスチャンは心配する僕を無視、というより相手にする余裕がないようで「支配人」と、素早くピケット大佐に何事かと耳打ちすると、今度はピケット大佐が驚愕の表情を浮かべた。
「何かあったのですか?」
「メイ博士が殺された」
 ピケット大佐が言った。今度は僕の顔から血の気が引く番だった。


第七話 ジョニー、暴走する
 現場は凄惨を極めていた。
 メイ博士の宿泊していた204号室は荒らされ、壁と床にはところどころ血しぶきが付着していた。恐らくは犯人と格闘したのだろう。
 僕は遺体を観察するためにしゃがみ込む。血の臭いと死臭が濃くなったようで、僕は口元と鼻を抑える左手に更に力を込めた。
 遺体は床の上でうつ伏せ気味に、やや横へ倒れていた。腹部からの出血が致命傷らしかったが、それ以外に細かい切り傷が腕に痛々しくついている。かなり抵抗したみたいだった。
 ピケット大佐はセバスチャンに持ってこさせたシーツをメイの遺体に被せる。遺体が隠れると、むしろメイが殺害されたという現実感が強まるのが不思議だった。
「出よう」
 ピケット大佐に肩を叩かれて、僕たちは204号室を出た。廊下ではセバスチャンが僕たちを待っていた。
「セバスチャン―――」と、ピケット大佐は呼びかけて「いや、軍警察が到着するまで私がここで部屋を見張ろう。セバスチャン、君は気分が良くなるまでロビーか食堂で飲み物でも飲んで少し休んでいるといい。ミスター・デッドダイブ、君にこんなことを頼むのは恐縮だが、一階までセバスチャンに付いていてくれないかね?」
「わかりました。行こう、セバスチャン」
「………はい」
 僕はセバスチャンを連れて階段で一階へ向かった。
「申し訳ありません、ミスター・デッドダイブ。お客様に気を使わせるとは、私はホテルマン失格です」
「そんなことはないよ。あんなことがあったんだ、人間として当然の反応さ」
「いえ、私は―――」と、セバスチャンは一階に辿り着くと同時に口を押えてトイレに駆け込んだ。


 トイレで胃の中のものを全て吐き倒したセバスチャンはロビーにあるソファーで横になっていた。僕は反対側のソファーでスーザンの淹れてくれたコーヒーの香りを嗅ぎながら、セバスチャンを見守っていた。自分の部屋に戻っていても良かったのだが、彼のことが心配だった。
 スーザンとミシェルは、いまごろホテルに宿泊する他の客たちに事情を説明して回っているはずだ。このホテルにはどれくらいの客がいるのだろう。昨日、夕食で見た限りでは若い金髪の白人男性と、壮年の黒人男性を見かけただけで他に人は少なかった。あるいはルームサービスを取って自室で食事をしているのかもしれない。そういえば、夕食の際にメイのことも見かけなかったから、あの時間には既に殺されていたのだろうか。
「昔から駄目なんです。人間の血とかそういうのが」
 セバスチャンは右手の前腕部を目隠しするように載せて、かすれた声で言った。
「何度も言うようだけど、人間として当然の反応さ。気にすることはないよ」
「だけど、ミスター・デッドダイブは動じていない。強いんですね」
「強くなんかないさ。仕事柄、慣れてしまっただけだよ。偉くもなんともない」
「それが強さです」
 僕は再びコーヒーの香りを鼻で吸い込んで、それからコーヒーを飲んだ。
「君はこのホテルで働いて何年になる?」
「五年になります。それまでは地元の小さなホテルで働いていました」
「地元?」
「カンザスです。高校を卒業した後、特にやりたいこともなく成り行きで始めた仕事でしたが、そこで働くコンシェルジュの仕事ぶりに感銘を受けました。それからしばらくしてホテルは潰れてしまいましたが、僕は働いて貯めたお金で専門学校へ通い、色々な縁があって今はここで働いています」
「へぇ、僕はてっきり君は現地民かと。しかし、やっぱり君はしっかりしてるな」
「そんなことありませんよ。ミスター・デッドダイブこそ、どうして今の仕事に?」
「僕か? 僕は―――」
 そのとき、軍服を着た兵士たちが玄関からホテルへなだれ込んできた。軍警察が到着したようだ。先頭にいるのはもちろん、ジョニー・ボーイ曹長だ。
 ジョニー・ボーイ曹長は手にしたカービン銃の銃口を僕へ向けて「手を頭の後ろへ組んで膝を付け!」と叫んだ。
「え?」と言ったのは彼の背後に控えた兵士たちである。
「曹長、我々の仕事は遺体の収容、現場の確認、保存、事情聴取はそれからのはずです。いきなり銃を突き付けて拘束するのは、その、乱暴では?」
「大丈夫だ。俺は子供のことから様々な刑事ドラマに慣れ親しんできた。犯罪のパターンは熟知している! この日本人が犯人だ、間違いない!」
「証拠とか、それを裏付ける証言などはあるんですか?」
 別な兵士がたずねる。
「証拠? 証言? そういう難しいのは、わからないな。俺がわかるのは、この日本人が諸悪の根源だということだ。こいつが来てから色々なことが起こるようになった。だからこいつが犯人だ。逮捕する。簡単なことだろう? そんな簡単なこともわからないのかお前たちは」
「わからないのは君の頭だ、ジョニー・ボーイ曹長。どうしてそこまで一切の客観性を排した言葉がポンポンその口から出てくるんだ」
 僕が言うと、彼は再び「手を頭の後ろへ組んで膝を付け!」と叫んだ。どうしようかとぼんやり考えていると「お客様に何をするのです!」と、階段から降りて来たスーザンが、僕とジョニー・ボーイ曹長の間に割り込んだ。
「スーザン!」
「副支配人」
 これにはソファーでダウンしていたセバスチャンも、流石に体を起こした。
「スーザン副支配人、後ろにいる日本人は危険だ。そこをどいてくれ!」
「いいえどきません! ジョニー・ボーイ曹長、昔から馬鹿な人だと思っていたけれどここまで馬鹿だとは思っていなかったわ。うちのお客様を逮捕するというのならば、根拠を示しなさい!」
「根拠? また難しい言葉が出て来た」
「やめてくれ、スーザン」僕が立ち上がると、ジョニー・ボーイ曹長のカービン銃がそれに合わせて動いた。「ジョニー・ボーイ曹長のことだ、指が滑って銃が暴発するかもしれない。僕は大丈夫だから離れてくれ」
「何事だ!」
 緊迫したロビーに、ピケット大佐の一喝が響いた。彼は階段を下りつつ「銃を下げろ、ジョニー・ボーイ曹長!」と命令した。
「任せて下さい大佐! 俺はスーザンを避けて犯人に銃弾を命中させる自信があります!」
「撃つなと言っているんだ曹長! トリガーから指を離せ!」
「撃ちます!」
 ジョニー・ボーイ曹長が指を引く前に、僕の体は素早くスーザンを突き飛ばす。カービン銃のマズルを手で弾いて銃口を逸らし、曹長の喉を手刀で一突きしてその体を投げ飛ばし、銃を奪ってマガジンを外して薬室から銃弾を抜いた。
 ジョニー・ボーイ曹長の後ろに控え
る兵士二人が反射的に僕に銃口を向けたが「銃を降ろせ!」という大佐の一言で、銃を下ろした。
「スーザン、大丈夫か?」
 ピケット大佐が僕に突き飛ばされて床に倒れたスーザンを助け起こす。
「ええ、大丈夫です」
「デッドダイブくんは?」
「平気です」
「銃を」
 僕は大佐に銃を渡す。大佐はその銃を兵士に預けて「この馬鹿を基地の営倉にぶち込んでおけ、それから基地から代わりの兵士を呼んで来てくれ。現場は引き続き私が預かる」と、命令した。
「イエッサー!」
 キビキビとした態度で兵士は床に伸びた馬鹿を担いで外へ出て行った。
「まったく、まさかジョニー・ボーイ曹長がここまで無茶をするとは」
 ピケット大佐は部下の前では決して見せないであろう、失望と狼狽をない交ぜにした表情を露わにしてため息をついた。
「大丈夫ですか?」
 心配になって声をかける。
「寄る年波には勝てん、というところかな。来てくれ」
 大佐は僕を連れてバーに行き、グラスを出してバーボンを注いだ。
「君は?」
「僕も同じものを」
 大佐は再びグラスを出して、バーボンを注ぐ。乾杯と行きたかったが、そんな雰囲気では無かった。僕たちはバーボンを胃の中に落として、今しがた起こった出来事にある種のけじめを付けた。
「さっきの動きは見事だった」と、ピケット大佐が僕を褒める。「どこで訓練を?」
「まぁ色々なところで」
「銃器は?」
「一通り扱えます」
 するとピケット大佐はポケットから小型のリボルバー拳銃を出してテーブルに置いた。
「これを貸そう。護身用にな」


 僕は部屋に帰って早速、ピケット大佐が貸してくれたリボルバーの点検を始めた。弾倉には.38スペシャル弾が五発入っていて、物は古いがよく点検、清掃されてある。軍隊ではもう使用されていない種類だ。もしかすると大佐の個人的な所持品なのかもしれない。
 弾倉を戻し、テーブルに置いた。あんまり芳しい状況ではない。僕の手元に銃が来るということは、だいたいにおいて使用される運命にあるということだ。
 かといって、大佐の心遣いを無駄にするのも気が引けた。それに現実問題としてこの島にはメイ博士を惨殺した凶悪な何者かがいるのである。今のところ、屋上で発見された死体と関係しているのかは知らないが、関係していればそいつを追跡しなければならない。気が重くなってきた。
 ベランダに出た。まだ午後にもなっていないジャングルの景色は朝の香りがする。散歩してみたい気もするが、事情聴取が終わるまで、ホテルの宿泊客は部屋に待機していろとのお達しだった。僕も例外でない。調査はまたも停滞している。そしてまたもホテルの部屋に缶詰だ。


 第八話 結婚式
 妹が新郎と共にライスシャワー浴びながらビロードを歩くのを見て、リヴィア・ブルーニは招待客と共に万雷の拍手を送った。妹ははにかんだ顔をしながら、彼女よりも少し背の高い新郎の腕にしがみ付いている。ウェディングドレスはこの日のため新調した純白の意匠で、ところどころに緑色の装飾が入っている。緑は妹の大好きな色だった。
 片や新郎は体格こそがっちりしているものの、しょぼついた目の上に黒縁の眼鏡をかけているせいで、何だか変身前のスーパーマンに似ている。でもその方が妹の勝気な性格を考えると釣り合いが取れているような気がした。
 せいぜい妹の尻に敷かれるがいいわ。
 そう思って、リヴィアは自分が少し嫉妬を感じていることに気が付いた。でも、それはいい兆候だった。妹夫婦は傍から見てもとても幸せそうだったし、これからも幸せに暮らしていけそうだった。嫉妬を感じるのはその裏返しなのだろう。
 セレモニーが終わって、披露宴の会場は美術館の庭だった。そこが新郎の職場なのだ。妹と新郎はここで知り合ったのだという。妹は近くの小学校で教師をしていて、美術館で生徒の引率をしていて彼と出会ったのだ。
 庭に並べられたテーブルの上にはイタリア料理がズラリと並んでいる。この日のためにイタリア料理人の従兄が気合いを入れて拵えたものだ。彼はイタリアはナポリで修業を積み、様々なイタリア料理を学んだがアメリカの地元でピッツェリア(ピザ専門店)を開業して結局、ピザしか作らなかった。
「俺はピザ以外も作れるんだ!」と常々語っていたが、テーブルに並んだスパゲティ、プロシュート、リゾット、カルパッチョ、フリット、ティラミス、ジェラートを見る限りそれは本当のことのようだった。それでもやっぱり、一番人気はピザのようだけれど。
「おめでとう、ヴァネッサ。リチャード」
 親類に囲まれている新郎新婦へ声をかける。
「ありがとう姉さん」
「ありがとうございます」と、新郎。
「本当にいい運命に巡り合ったねぇ」
 横から母がしゃしゃりでる。
「あんたもいい人を見つけなよ」
「余計なお世話よ」
「職場にいい人はいないの?」と、妹。
「残念ながらね」
「リヴィアさんの仕事って、確か軍人でしたよね」
 リチャードが言った。
「そうよ。でも、前線とは無縁の南の島で、事務仕事をしてるけどね」
「南の島ですか、何だかよさそうなところですね。僕もリヴィアとの新婚旅行は南の島に行きたいと思ってたんですが」
「駄目よ、私たちはヨーロッパに行くの。スペインのボルハでフレスコ画を見るって約束したでしょ」
 そこでリヴィアのスマホが鳴った。
「失礼」
 着信はラムダ78米軍基地からであった。嫌な予感がした。基本的に休暇中に基地から連絡が行くことはない。プライベートは尊重される。
 それでも連絡が来るということは、抜き差しならぬ緊急事態が発生したということだ。
 リヴィアは会場の隅で電話に応答した。
「はい、リヴィア・ブルーニ」
『こちらトマス・ピケット大佐だ』
 思わずリヴィアは姿勢を正した。
『休暇中の所、申し訳ないブルーニ大尉』
「いえ、構いません。用件は?」
 ピケット大佐の声は沈痛であった。妹の結婚に対してお祝いの電話をかけてきたわけでは無いことは分かった。
『ジョニー・ボーイ軍曹を営倉に入れた。ホテルで従業員と客に銃を向けたからだ。私の制止もまったく聞かなかった』
「あええっ!?」
 リヴィアは驚きの余り変な声を出してしまう。披露宴会場の何人かが彼女の方を見た。慌てて中庭から美術館の中へ入る。
 美術館は貸し切りにしている、というか休館日に披露宴を行っているので館内は無人だった。展示室には鍵がかかっているが、トイレのために通路だけは解放されているのだ。
 美術館の廊下は自販機とベンチがあるだけで、無機質な印象を受けた。一方、中庭側は全面ガラス張りで景色が楽しめるようになっているのだが、今は披露宴の真っ最中で人とテーブルがたくさんあって、その中から妹が心配そうに見ていたので、リヴィアは隠れるように背を向けて通話を再開した。
「ジョニー・ボーイ曹長はちょっと馬鹿なところはありますが、まさかそんな」
『確かに信じられないだろうが、彼は実際にやったのだよ。彼の処分は後日、あらためて行うとしてブルーニ大尉には申し訳ないが、結婚式が終わったら可及的速やかにこちらへ戻って欲しい。残念ながらこれは命令だ』
「了解しました」
 通話を切って、ため息をつく。まぁ、これも仕方がない。セレモニーが終わっただけ、ましな方だろう。
 すると直後にリヴィアのスマホに再び着信が入った。ピケット大佐からだった。何か言い忘れたことがあるのだろうか? 画面をタップして再び耳に当てる。
「はい、こちらリヴィア・ブルーニ大尉」
『荒巻デッドダイブを助けて』
 それは少女の声だった。
「誰?」
『荒巻デッドダイブを助けて』
「荒巻デッドダイブ?」
『荒巻デッドダイブを助けて。ラムダ78を救えるのはあの人だけなのよ』


 第九話 マダム・アイリス
 この島における僕の立場は微妙だった。
 仕事があると思って来たら依頼人、ピケット大佐は知らぬ存ぜぬ、すると次の瞬間に僕に似た死体が爆発と共にプールへ落下した。
 それでピケット大佐が調査を僕に依頼したと思ったら、今度はホテルで人が死んだ。
 一連の出来事には何か繋がりがあるのだろうか? わからない。今は、何も。
 ジョニー・ボーイは兵士に引きずられてホテルの外へ出た。二十分後に代わりの兵士がやって来て、取り調べが行われた。取り調べと言っても現段階では形式的なものに過ぎず、アリバイ確認が主に行われた。
 何度も言うけれど、この島における僕の立場は微妙だ。捜査に協力しろと依頼されたが、僕のような怪しい存在が島を自由に動けるはずもなく、取り調べに参加する権限も無かった。ただ、僕は真っ先に取り調べられて真っ先に部屋に返されて、ただただ時間が過ぎるのを待っている。
 昼になると、スーザンが部屋へ昼食を拵えてくれた。職場で殺人事件があったり銃を向けられたりしたのに、たくましい人だと思った。
「これはスーザンから、助けてくれたお礼ですよ」と、言ってミシェルがアップルパイとコーヒーポットを部屋に差し入れてくれた。
「ありがとう、少し元気が出たよ」
 僕はお礼を言って、いまこうしてアップルパイを食べ終えてコーヒーを飲んでいる。
 開け放たれたベランダから、心地よい風が流れ込んでくる。ラムダ78の天気は今日もいい。
 何だか音楽が聴きたい気分だ。音楽にはあまり興味がないけれど、今は無性に恋しい。
 そのとき、部屋のドアがノックされた。
「ミスター・デッドダイブ! 私だ!」
 ピケット大佐だった。僕はドアを開けて部屋へ迎え入れた。
「やれやれ、ようやく取り調べが終わったよ」
 そう言ってピケット大佐は先ほどまで僕が座ってたソファーに身を沈めた。
「それって、取り調べをする側のセリフでは?」
 僕が新しいカップにコーヒーポットに残った最後のコーヒーを注いで、大佐にすすめた。
「調べる方も疲れるよ」
 そりゃそうだ。
「何か分かりましたか?」
 ピケット大佐はコーヒーを一口飲んでから説明を始める。
「取り調べの結果は、みんな君と同じようなもんだ。メイ博士と我々が会って以降、昨日の昼はそれぞれの用事をして、ホテルに帰って夕食を摂ってシャワーを浴びて寝た。やはり単独で島に来ているからアリバイを立証をするものはいない。まぁ、ポツポツセバスチャンやミシェルが姿を見ているんだが」
「彼らはどうしてこの島に」
「それは言えんよ。個人情報だ」
 ピケット大佐が首を横に振る。
「屋上に現れた死体との関係も今のところないしな」
「メイ博士の遺体は?」
「基地へ送って検死中だ。正確なところは分からないが、死亡推定時刻は昨日の昼から夜といったところだろうな」
「犯人はどうやって部屋に侵入したのでしょう?」
「まぁ、ホテル自体の警備はそこまで厳重じゃない。部屋はオートロックだが、やろうと思えばベランダから忍び込むことは出来るかもしれない。ただ、部屋を調べた限りではベランダは閉まっていたし鍵がかかっていたが」
「部屋の鍵は?」
「博士の部屋で見つかった。ただ今言ったように部屋はオートロックだ。鍵を持ち出す必要性は無いだろう」
「オートロックと密室殺人は相性が悪い」
「そうともいえるかもしれない」
「犯人はメイ博士の部屋の鍵をどうにかこじ開けて中に入った?」
「あるいはメイ博士が招き入れたのかもしれない。私としてはこちらの可能性が高いと思う。金銭目当ての犯行とは思えないからな。それと、これ」
ピケット大佐はポケットから小さなカードを取り出して机の上に置いた。
「名刺?」
 カードには『占星術師 マダム・アイリス』という名前と島の住所が書かれていた。
「メイ博士の部屋から見つかったものだ」ピケット大佐が言った。「博士について何か知っているかもしれん」
「占い師がですか?」
「他に手掛かりも無い」
「彼女の論文は? もしかしたら彼女の研究が犯人の動機かも」
「彼女の持ち物が荒らされた様子は無い。パソコンもハードディスクも、USBも確認したが盗まれたと断定できる証拠はなかった」
「研究の中身は?」
「ロックがかかっていて分からない。外すことも出来なくはないが、令状が必要だな」
「それでも紙かなんかで普通、何かしら情報を残すもんじゃ」
「しつこいぞ、デッドダイブ。デジタルデータ以外じゃ、彼女の持ち物は参考文献らしき書籍だけだ。そしてこいつ」と、名刺を机から取り上げてヒラヒラさせた。
「観念してついてこい!」
「はぁい………」


 例の如くピケット大佐のジープに乗りこんで、僕はラムダ78の港町へと繰り出した。マダム・アイリスとか言う占い師の店は、海から少し離れた丘のところにあるようだ。
「どうしてこんな島に占いの館があるんです?」
「需要があるからだろう。多少の審査はあるが、この街にどんな店を出すかは自由だ。ただ、店舗の建設は厳しい条件がつくから実際に店を出そうとする輩は少ない。この住所だと、住宅地だから個人の家を店舗にして商売をしているのだろう」
「つまり、この島だから占いの館くらいしか出来る商売が無い?」
「そうともいえるな」
 ジープが上り坂を力強く登っていく。綺麗に舗装された道路だが、角度が少し急だった。車以外で登ろうとしたらかなり足腰が鍛えられそうだ。
 左手には港町を見下ろすことが出来た。ズルワーン空港に、それと隣接した港には駆逐艦が何隻か並んでいるのが見えた。あとは白い街並みに、彼方には海が広がり、地平線はぼんやりと淡く緑色に霞んでいる。
「この島には漁船はないんですか?」
「ない」と、ピケット大佐はきっぱり言った。「この島で民間の船の周遊は禁止だ」
「軍事機密だ」
「それってどういう意味です? 軍事機密に触れるからなのか、周遊禁止の理由が軍事機密なのか」
「理由は俺も分からん。この話はまた今度だ。もうすぐ着くぞ」
 道はやがて平坦になり、住宅地へ差し掛かる。家々はどれもコテージのような外観をしている。
「この島の住民のほとんどは基地関係の労働者でしょう?」
「そうだ。すべて借家だ。この辺りは住民の中でも階級の高い人間が住むところだ」
「あなたもここへ?」
「いや、入居には家族同伴など色々な条件が付く。私は独身だから、基地近くの寮を借りている」
 やがてジープは一件の家の前で停まった。
 家は周囲のものと同じく、南国風というのだろうか、高床式で、外壁が白く、吹き抜けや窓の多い開放的な造りとなっていて、占いの館における暗く閉塞した僕の貧困なイメージとほぼ対極をなしていた。
「ここですか?」と、玄関を見る。確かに玄関の上には『占いの館 マダム・アイリス』の看板が掲げられていた。
「とにかく行ってみよう」
 ピケット大佐が先行する。その表情には何の期待も無かった。
 僕たちが家の敷地に足を踏み入れると、突然、占いの館の玄関が開け放たれた。現れたのは女性の看護師だった。可愛らしい黒髪のショートボブに、端正な顔立ちをしているが、その表情は鉄面皮のように感情が無い。
「お待ちしていました。どうぞお入りください」
あっけに取られる僕とピケット大佐に構わず看護師が言った。僕たちがグズグズと立ち止まっていると「早く! 早く入って!」と、せっかちにまくしたてる。それでようやく僕たちは占いの館へと入った。
「失礼ですが、あなたがマダム・アイリス?」
 ピケット大佐が質問した。
「私? 私はアイリス様の世話をする看護師です。アイリス様は奥にいらしております。くれぐれも粗相のないように」
「そんなにすごいのかい? マダム・アイリスは」
 今度は僕が質問した。
「もちろんです。アイリス様の妄想は現実を凌駕します。その辺、気を付けて下さい」
 何を言っているのかまったく分からなかったが僕は「分かった。気を付けるよ」とピケット大佐と共に家の奥へ進む。マダム・アイリスの家はよく分からないスパイスの香りがした。風通しがいいのか、香りは家の中にこもらずどこかへ抜けていくようで、むせ返る程の不快さは無かった。
 家の奥へ進むとリビングに出た。ベランダのテラスで白髪の生えた老婆がこちらに背を向ける形で椅子に座り、海の方を眺めていた。しかしよく見ると、老婆の座っているのは車椅子のようだった。
「来たか殺し屋」
 老婆は車輪を回転させてこちらを向いた。
「我はマダム・アイリス。預言者なり」
 どうも僕たちの知らない間に占い師から預言者にクラスチェンジしたらしい。
「えっと、あの、殺し屋っていうのは僕のことですか?」
「島に危機が迫っておる。それを止められるのはお前だけだ」
 困った、こいつ人の話を聞かないタイプだ。隣でピケット大佐が疲れたため息を吐いた。きっと、ここに来たことを後悔しているのだろう。
「島の危機というのは?」
 とりあえず話を合わせてみる。
「顔を見せてみろ」
 マダム・アイリスがカラカラと車椅子から音を出してこちらに近づいてきた。逃げたい気分だったが、負けるわけには行かない。僕はしゃがんで、マダム・アイリスに顔がよく見えるようにしてやった。
「ふむ」
 マダム・アイリスは僕の顔に皺だらけで、乾燥しきった両手を包み込むようにあてがった。
「あーやっべー」と、マダム・アイリスは小声で言う。「こいつもう死んでるな。死んでる。どうすんだよ、この後の展開。何とかなるか? 何とかしなきゃだろ? でもどうすっかなー、全然思いつかねぇ」
 マダム・アイリスは僕の顔から手を離す。
「大丈夫だ、問題ない」
「何が問題ないだよ、小声でNGワード連発しやがって」
 僕が悪態をつくと「アイリス様に何てこというの!」っと、看護師が僕の後頭部を叩いた。
「痛い! もう帰りたい!」
 僕が一撃されたのを見てピケット大佐が我に返り「最近、ここにメイという中国系の女性が来ませんでしたか?」と当初の目的である質問を行った。
「来た」
 マダム・アイリスが言った。
「いつ頃です?」
「三日前だ」
「何か様子がおかしいところはありませんでしたか? どういった相談内容かも教えてくれると助かるのですが。というのも、今朝メイはホテルで殺害されて―――」
「知っている。私はすべてをだいたい見通している。彼女が死ぬことはそこの殺し屋共々数万年前から予見されていた」
「メイのことを教えてください」
「あの女は罪に苦しんでいた」
「罪?」
「罪がメイをアルコールに浸らせた。罪が死を呼び寄せた。ホテル『シシリエンヌ』の裏側を引き寄せた」
「裏側?」
 ピケット大佐が首を傾げるのを受けて「裏側の世界か」と僕が言った。それはもしかすると、僕が昨日の昼間に見た世界のことだろうか。てっきり夢か何かと考えていたが、もしかすると現実だったのかもしれない。最後に聞こえたメイの悲鳴ももしかすると―――。
「左様」
 マダム・アイリスが首肯する。
「どういうことだ、ミスター・デッドダイブ。何だ裏側の世界って? スタッフ専用のバックヤードのことか?」
「違いますよ大佐。裏側の世界って言うのは、何というか、この世界とよく似ている別の世界というか」
「並行世界って奴か?」
「それとは微妙に違うような………」
「いったいどう違うんだ?」
「ほらあれですよ。スティーブン・キングの小説とか、サイレントヒルとか、最近だとストレンジャー・シングスに出てくるような世界ですよ」
「スティーブン・キングは読んだことがない。フィクションには疎くてな」
「うーん、看護師さん、説明できる?」
「裏側の世界は、裏側の世界です。それ以上でも、それ以下でもありません」
「どういうことだぁ!」
 ピケット大佐が頭を抱えた。
「考えるな」マダム・アイリスが言う。「感じろ」
「よし! 分かった! 分かったぞ、ミスター・デッドダイブ!」
「何が分かったんですか?」
「裏側の世界というのは、つまり島の裏側の世界だ。全ては島の裏側にある。そうだな?」
「え? いや、違うと思うんですけど」
「じゃあ、お前の言う裏側の世界はどう行くんだ?」
「いや、わかんないけど」
「なら、島の裏側に行くのが現実的な方法だ。とにかく行ってみるぞ、ミスター・デッドダイブ」
「今からですか?」
「いや、色々と準備が必要だ。今日の夜、十時に決行する!」
「夜ですか? 危なくないですか?」
「昼間だと人に見られる可能性がある。理由は後で話す。それではマダム・アイリス、ご協力感謝致しま」
「ウゲッ」
 ピケット大佐が感謝を述べようとしたその矢先、マダム・アイリスはうめき声を上げて崩れ落ちるように車椅子の上で頭を垂れた。
 何かの発作だろうか。僕とピケット大佐はポカンと顔を見合わせ、それから看護師を見やると彼女はいたって平然としている。何が起こっているのだろうと質問しようか、やっぱりやめようか、代わりにピケット大佐が質問してくれるかも、とか思っている内に再びマダム・アイリスの体に力が戻って頭が上がった。
「うーん」マダム・アイリスは右手でこめかみを抑えつつ僕たちの方を見る。
「あら、どなたかしら?」
「ミスター・デッドダイブとピケット大佐です。マダム・アイリス様に用件があるとのことでこちらにいらっしゃいました」
「そういえば、そんな占いが出ていたねぇ」
「どういうことです?」
 たまらず僕が口を挟む。
「こちらにいらっしゃるのはシャーロット・ハーン様です」
「どういうことです?」
 ピケット大佐が僕と同じ質問をした。
「多重人格って奴ですか?」
「いえ、違います。マダム・アイリス様はシャーロット様の一側面に過ぎません」
「この島ではこれから大変なことが起きるのよ」
 シャーロットが車椅子を軋らせてこちらへ近寄る。
「ええ、もう起こってます」と、ピケット大佐。
「それとあなた! デッドダイブ!」
「あ、はい」
「あなたにこの島の命運がかかっている。言い伝えではこの島が災厄に見舞われるとき、荒巻デッドダイブなるものが現れる。そして島の運命はその人物に委ねられることになっているわ」
「どんな言い伝えですか」
「そもそもこの島は無人島では?」と、ピケット大佐が言った。
「ラムダ78は無人島ではないわ。少なくともかつて人間がいた形跡が残されているのよ」
「そんな話は聞いた事が無い」
 ピケット大佐はかぶりを振った。
「島が発見されたときに隠されたの」
「何故? そしてどうしてあなたがそれを知っているのです?」
 僕が質問した。
「何故かはわからない。でもそれは高度な軍事機密として長年守られてきた。そして二つ目の質問は、私の夫がラムダ78の最初の上陸部隊の一人だったからよ」
「それは………」と、ピケット大佐が何かを言おうとしてやめた。きっと、もっと詳しい質問をしたかったのだろうが、この老婦人は何も知らないのだろうと判断したようだった。
 代わりに「ご主人はどちらに?」
「天の国で私を見守っているわ」
「そうでしたか」
 ピケット大佐は非礼を敬礼でわびた。
 いよいよこの館を去る時が来たようだった。
 僕が背を向けたとき、シャーロットが言った。
「あなたの守護天使が気を付けてと言っているわ、デッドダイブさん」
「僕に守護天使がいるんですか?」
「かわいい女の子よ」
 毒にも薬にもならないたわごとだった。ピケット大佐と共に玄関へ向かう。
「あら、あなた詩織って言うの?」
 その言葉に僕は思わず振り返る。シャーロットは斜め上の方を向いて一言、二言何かを呟いたが、僕は逃げるようにピケット大佐の背中に続いて館を出た。
「またのご来訪をお待ちしております」
 見送りの看護師が頭を下げた。だけど、僕はもう二度とここに来るつもりはなかった。


 第十話 ラムダ78の裏側

「わけがわからんことだらけだ」
 僕をジープに押し込んで、運転席に座ったピケット大佐がぼやくように言った。
「でも考えてみれば、人生はそんなことばっかりだ。わけがわかることの方が少ない。ミスター・デッドダイブ。君は自分が明日、何をしていると思うかね?」
「さっぱりわかりません」
「その通りだ」
 ピケット大佐が車のキーを回した。
「静かな場所で話そう」
 ジープが走り出す。来た道を戻らず、先へ。
「どこへ行くんです?」
「この先に墓地がある。普段、あまり人が来ないし人気も無い」
 住宅地から墓地はすぐそこだった。港町を一望できる高台にあって、緑色の草が風に揺れて、洋式の墓と野生の花が点々としている。ピケット大佐が言う通り、普段はだれも来ないらしく、荒れ放題というよりは草花に飲まれてほとんど一体化しかかっていた。何も知らなければ、ただの公園と思っていただろう。
「ここはこの島で死んだ人間の墓だ。本国で引き取り手のいない遺体はここで埋葬される。引き取り手がいないから、ほとんど誰も墓を管理しない。ここしばらくは新しい墓も増えていないから、この有様だ」と、ピケット大佐が説明した。
「さっきの話だが」
「ジャングルへ夜入るという話ですか?」
「うむ」
 何もピケット大佐は、思い付きで島の裏側へ行こうというのではないらしい。ラムダ78の裏側は、軍関係者の立ち入りすら禁止された謎の区域であり、ピケット大佐はそこにこの島の謎が隠されていると考えているようだった。
「僕の方でも、大佐にお伝えしたいことがあります」
 次に説明するのは僕の方だった。昼間に見た白昼夢、それからメイ博士の悲鳴。バッハの幽霊。
 しかしピケット大佐の反応は冷ややかだった。
「確かにホテルで幽霊を見た話は聞く。だが私もいい大人だ。ミスター・デッドダイブの話を法廷で主張する程、無分別ではない」
 現実的な話をされると、抽象的な話は無力だった。ピケット大佐はあくまでも軍人なのだということを、僕は思い知った。そして現実とは、僕が今日の夜にジャングル探検に出かけるということだ。
「でも大佐、僕はジャングルに出かけられる装備なんて持っていませんよ」
「それはこちらで用意する。私も君を背広のまま連れていくつもりはない。九時に部屋へ迎えに行くから、それまで待っていてくれ」
「わかりました」
「では、ホテルへ戻ろう」
「はい」
 墓地からジープに向かう途中で、何かが視界を掠めた。何だ? 墓地の向こうの木陰に誰かがいる。黒コートを羽織った男だった。黒い長髪に、青白い顔をした男だった。遠くて顔はよく見えない。しかしこちらを射貫くような、睨みつけるような視線だけは感じた。
「どうしたミスター・デッドダイブ?」
 ピケット大佐がこちらを振り返る。
「ええ、あそこに人影が―――」
 僕は今しがた木陰にいた人影の方を指さしたが、そこには既に誰もいなくなっていた。
「どこだ?」
「いえ、もういなくなりました。何かと見間違えたのかもしれません」
「うーむ」
 ピケット大佐は僕の言葉を疑ってはいないようだった。しばらく木陰の方を観察して、それから再びジープの方へ向かった。


 僕はホテルで夜を待ち、それからピケット大佐と共にジャングル探検へ出かけた。
 むせ返るような植物の青臭さと、頭の奥に響くような虫たちの鳴き声、それからときおり獣の臭いがぷんと臭った。夜のジャングルは静寂とは程遠く、そして薄暗い。ホテル周りはまだ月明かりで周囲を見渡せたが、ここまで来るとほとんど真っ暗だった。帽子につけたライトが無ければ、何も見えないだろう。
 僕とピケット大佐は、島の裏側へ向けて進軍していた。出発から既に一時間が経っている。小さな島なのにと思ったが、昨日、港町からホテルまで歩いて死にかけたことを思い出す。車で回れば狭いのだろうが、それは車で回るから狭いのだ。
 徒歩で島の裏側まで行って、それで帰ってくる?
 何だか考えただけで疲れて来た。
 首に下げた水筒から、水を一口飲む。僕の格好は、ピケット大佐が用意してくれた迷彩柄の野戦服だ。しかし何せ、米軍の野戦服なので日本人の僕にはサイズが少し大きく、袖も足もブカブカだった。Lサイズでも持って来たのかとタグを見ると、そこには信じられないことにSと表記されていた。アメリカは何でもでかい。でかすぎる。
「付いてきてるか、デッドダイブ」
 定期的にピケット大佐が声をかけた。僕がはぐれていないか心配しているのだろう。本当なら何か話しつつ進んだ方がいいのかもしれないが、こう足元が暗いと歩くだけで精一杯で、とても何かを離している余裕はない。
「大丈夫です」
 そう言ったそばから足が木の幹か、とにかく固いものに触れて滑った。転びそうなところを何とか踏みとどまる。何を踏んだのかはよく分からない。ここではすべての情報が闇という名のゴミ箱に放り込まれて終わる気がする。
「島の裏まではまだかかりますか?」
「いや、そんなにはかからないだろう。朝までには戻れる」
 朝まで歩くのかぁ。
 絶望的な気持ちで天を仰いだが、熱帯雨林の広葉樹が空を遮っていて暗黒が広がっている。何だか天にも見捨てられたような気分だ。
 僕たちはホテル『シシリエンヌ』を出発し、ラムダ78の中央にそびえる山を迂回して、ほぼ最短距離で島の裏側へ向かっていた。ただ、事前にピケット大佐が説明したところによると、島のほぼ半分の所に大きな崖があり、そこからは東へ迂回して海岸へ出る必要があるらしい。
 地図からすると、もうそろそろのはずだけど………。
「ストップ」
 ピケット大佐が手を挙げて制止した。地面を見ると、ピケット大佐から前方約一メートルの所で、切り立った岩場が見えた。
「注意してついて来い」
 そう言うとピケット大佐は右へ方向転換する。僕は「はい」と返事をして、その後を着いていった。左手を見ると、全てを飲み込むような闇を孕んだ崖が見える。底は見えない。実際は数メートル程度の段差かもしれないし、高さ五十メートルの絶壁なのかもしれない。
さっき僕が足を滑らせた何かもここに呑み込まれたのだろうか。
ジャングルは闇に満ち満ちている。盲目になったような気分だ。
それからどれくらい進んだのだろうか?
 最初の頃はどんな猛獣が出てくるのか心配で、とっさに拳銃を取り出せるように身構えていたのも今は昔、喉は乾き、足は疲れ、歩くのに必死で猛獣を警戒するどころではない。猛獣の方でも僕たちを追いかけていたら襲う気にもならないだろう。
 ふいに潮の香りを感じた。次いでさざ波の音を聞く。海だ。
 急に視界が開けて、僕たちは砂浜へ出た。
 そこでは雲一つない夜空は満点の星空と月が輝き、砂浜はそれらを反射して紫色に淡く浮かび上がっていた。左手からはジャングルが手を伸ばすように木々を伸ばし、海辺は安らかなさざ波の音を発している。
水面は夜空を反射して点々と光っているように見えたが、それにしては数が少ないし光り方がおかしい。そう言うと「あれはホタルイカだ」とピケット大佐は言った。
 美しい光景だった。構図も申し分ない。カメラを持ってくれば撮影したいところだが、僕程度の腕ではこの光景を完璧に捉えることは出来ないだろう。それに風景を一々スマホのカメラで撮影するような趣味と性格でもなかった。思い出のメモリーに落とし込めばそれで十分だ。また見たいなら、また来ればいい。
 でもラムダ78を再訪するのは難しいかもしれない。無理ならそれでもいい。僕はそういう人間だ。
「彼女を連れて来たかったな」
 僕が言うと「恋人がいるのか?」とピケット大佐が言った。
「いや、残念ながらいません。あなたは?」
「私もいない。以前は結婚していたんだが」
「そうですか」
 あまり触れるにはデリケートな話題のようだった。黙っているか、別の話題にするか考えている間に「交通事故で死んだ。娘と一緒にな」とピケット大佐は続けた。
「ええと、それはすいません。嫌な話になっちゃいましたね」
「謝ることはない。話題を振ったのは私だ。それに何だか話したい気分でもあるし。もっとも君が言う通り明るい話じゃない。嫌ならやめよう」
「いえ、聞かせて下さい」
 ピケット大佐が話したいというのなら、僕は今それを聞きたい気分だった。美しい光景には、あらゆる話を受け入れる力があるのかもしれない。


 私が軍隊に入ったのは二十六歳くらいだったか。あのころは私もやんちゃでね。高校を出てからは職を転々としながら、悪い仲間と適当に暮らしてしていたものだ。
 その内、妻と結婚して、娘が出来て私もこのままではいけないと思ってね。かといって何のスキルもないし、腕っぷしには自信があったから兵士にでもなろうと思ったんだ。実際には軍隊では腕っぷしよりも大事なものがいくつもあるんだが、それはまぁいいだろう。
 始めての任地はクウェートだった。湾岸戦争だよ。知ってるか? 湾岸戦争だ。歴史の授業で習った? もう三十年近く前のことだからな。教科書にも載るか。
 戦場は過酷だったが、私は生き残れた。それでアメリカへ帰ったよ。
 妻と娘が空港で出迎えてくれるはずだったんだが、私を出迎えたのは警官だった。
 二人は空港までの道のりで交通事故に遭ったんだよ。トラックに追突してね。私が病院へ駆けつけたときには二人とも既に死んでいた。
 正直な話、二人の遺体を前にしてもあまり現実感が沸かなかったな。なんせ死ぬ覚悟を必要としていたのは私の方だったからな。
 それから私は様々な戦地へ行った。ほとんどヤケクソだった。アフガンに三回、イラクに二回派遣された。色々と無茶をした。死んでも良かったが、死にきれなくてな。それで昇進を重ねて大佐になったというわけさ。


「時折、というかいつも思うんだが」と、ピケット大佐は言った。
「私が軍隊に入らなければ、妻と娘は死なずに済んだのだろうか、とね」
「それは、分からないでしょう」
「どうだ、分からない。だがどの道、軍隊に入らなかったら私は何らかの犯罪組織に加入して麻薬でも売っていたかもしれん。それはそれで家族を不幸にしたことだろう。人生には様々な可能性があると言うが、あれは嘘だ。九十九のクソみたいな選択肢と、一つのマシな選択で構成されている。実際には選びようがない。それが人生だ」
 僕とピケット大佐は紫色の浜辺を歩く。振り返ると、二人分の足跡だけが砂浜に残っている。何だか火星にでも来たような気分だ。
「君は愛する人を失ったことがあるかね、ミスター・デッドダイブ」
「はい。八歳の頃に一度」
「日本人は早熟だな」
「僕だけだと思います」
 やがて砂浜は終わりを迎えた。ゴツゴツした岩場を挟んで、再びジャングルが僕たちを待ち受けていた。
「もうそろそろだ」
 そう言ってピケット大佐はリュックサックから小さな機械を取り出した。
「それは?」
「ガイガーカウンターだよ。放射線を計る。もっと早くから取り出すべきだったかもしれん」
 ピケット大佐がガイガーカウンターの電源を入れた。
「反応はない。大丈夫そうだ」
「本当にここで核実験が?」
「わからん。それを確かめに来たんだ」と、ピケット大佐は力強い足取りでジャングルへ踏み入る。
 またジャングルかぁ。
 僕も観念して大佐の後に続いた。しかし今度の行軍は長くは続かなかった。
「デッドダイブ」
 ピケット大佐が立ち止まってヘッドライトで何かを照らしていた。ライトの向こうには何らかの建造物の残骸が、植物のつるに絡め取られて朽ちていく様子が見て取れた。やはりここには何らかの実験施設でもあったのだろうか。
 それにしては朽ち方が激しい気もするけれど。
「行こう」
 再び僕たちは歩き出した。大佐はガイガーカウンターを見つつ、慎重に先へと進んでいく。
 不意に視界が開けた。そこは朽ちた街だった。いや、風体を見る限り古代遺跡と言っても良かった。地面の道路はバラバラに砕けて草木が生い茂り、建造物はかろうじて原型をとどめているに過ぎなかった。
「港町のようだな」と、ピケット大佐が言った。「反対側にも同じような施設が存在したとは」
 確かに言われてみると、街の風景は反対側とそっくりだった。いや、そのものと言っていい。もしかしたら都市計画の使える部分をそのまま流用したのかもしれない。いわばここはズルワーン空港側の港町のプロトタイプと言えるだろう。
「どうして放棄されたんだろう?」
 僕が疑問を口にすると「わからん」とピケット大佐が頭を横に振った。
「放射線漏れの事故でも起こったか、あるいは伝染病か。とにかくこれだけの規模の街を放棄するには何らかの理由があったはずだ」
「放射線は?」
「反応はない。と、すると伝染病か」
「怖いことを言わないで下さい」
「とにかく慎重に進もう」
 朽ちた都市を進む。何だか既視感のある建物が見えて来た。
「あれ、空港じゃないですか?」
 暗くて全貌は掴めないが、屋根が落ちて半分潰れたような建物が見えた。しかし面影は残っている。ズルワーン空港だ。
「ふーむ」
 ピケット大佐は特にコメントせずに、先を急ぐように進んでいく。何か向かうあてでもあるのだろうか。
「どこに向かっているんですか」
「こっちだ」と、ピケット大佐はついて来いと言わんばかりに先へ進む。もし、この街が反対側の街と同じ構造なら、この道路の先には―――。
 ホテル『シシリエンヌ』か。
 ほとんど風化して、地面と一体化した道路を進んでいく。昼間は熱中症で倒れかけたが、今は夜だからその心配も無い。
 水筒もちゃんとある、僕は水を一口飲んだ。
 海岸線を進み、直角に曲がってジャングルへ。何もかも反対側と同じだった。ここまでくれば、行く手にはホテルが見えてくる。理論的にはそうだが、現実を前にすると気味が悪くなってきた。
「嘘だろ………」
 外壁が朽ちていたが、そこにはホテル『シシリエンヌ』が満月の下にそびえていた。
「でも、シシリエンヌは最近、スーザンが名付けたんですよね? ということはやっぱり別物」
「いや」
 ピケット大佐が入り口近くの看板をライトで示した。そこには銅板に浮彫で『ホテル シシリエンヌ』と掘られていた。
「誰かが最近付けた?」
「いや、この銅の腐食具合を見る限り数十年以上は経過している。ありえない」
「どうして」
「わからん」
「僕たちのいたシシリエンヌの看板はいつ付けたんです?」
「三年前だ」
 ピケット大佐はホテルの門を潜る。
「ミスター・デッドダイブ、ホテルに入る。一応、気を付けろ」
「入るんですか」僕は驚く。「いつ崩れてもおかしくなさそうだけど」
「この島のホテルは軍事施設扱いだ。地下には非常用のシェルターがあり、建物自体も強固に作られている。このホテルが、我々のホテルと同じ建築基準で建設されていればの話だが」
「うへぇ………」
 門を潜り、石段を踏んで玄関へ入った。玄関の扉は無くなっていた。ホテルの内装は、やはりシシリエンヌとまったく同じだった。
 っていうことは、僕が泊まっている部屋もあるのかな。
「デッドダイブ」
 ピケット大佐が手招きする。
「何です?」
 するとピケット大佐は床を指さした。そこには複数の足跡や、何かを引きずった痕跡があった。
「最近、誰かがいたらしい」
 そう言って、ピケット大佐はガイガーカウンターをリュックサックに仕舞って、持参したショットガンの安全装置を外した。僕もポケットからリボルバーを取り出す。
「でも誰がいるっていうんだろう」
「わからん。だが注意するに越したことはない」
「まさかフォーレの幽霊が隠れ住んでるっていうんじゃないでしょうね」
「ここまで来ると何が出てきても驚かん」
 ピケット大佐は左手で受付の奥を指さした。
「電源を確認する」
「二手に分かれようなんて言うんじゃないでしょうね」
「そんなことを言うわけないだろう。ホラー映画じゃないんだ。私には君の安全を保障する義務がある」
 僕たちは普段、スタッフルームと書かれたドアで封印された通路を進む。
「ホテルには非常用の発電機が備え付けられている。もし誰かがここを利用しようとするなら、そいつを使ったかもしれない」
 そう言ってピケット大佐はコンクリートで塗り固められた壁に備え付けられた、今はもうさび付いて、開けっ放しになっている鉄の扉へ僕を導いた。床には誰かが苦労してこの扉を開けたことを物語る、錆の破片と、床の擦れを見て取ることが出来た。
「やっぱり誰かが使ったんだ。ここで待っててくれ、ミスター・デッドダイブ」
「ええ」
「どこにも行くなよ」
「わかりましたってば」
 ピケット大佐は発電機のある部屋へ入る。僕は何もやることなく、通路の右左を監視していた。その内「くそっ」というピケット大佐の悪態が部屋から響いて、彼が部屋から出て来た。
「駄目だ、発電機の燃料は空になっている。動かせない」
「使った形跡は?」
「誰かが整備した形跡があった。とにかく最近、誰かが使っていたのは確かだ」
「次はどうします?」
「君も少しは自分で考えたらどうだ?」
「そう言われましても」
「まぁ、いい。シェルターを調べてみよう。シェルターはホテルでも一番強固な造りになっている。核戦争を想定して作られたものだ。風化を免れているかもしれん」
 シェルターの入口は、僕がいつも使っている階段の裏側だった。床にハッチが付いていて、そこから入るのだそうだ。僕たちが確かめてみると、床のハッチは既に開いていて、コンクリートの階段がむき出しになっていた。
「水が溜まっている様子は無いな」
 ピケット大佐が確認して降りる。僕も後に続いた。
 階段から先はコンクリートの細長い通路が続いていて、突き当りに船の水密扉を思わせる丸いハンドルの付いたハッチを発見した。ピケット大佐の言う通り、ここは完全に風化を免れているようだった。
「よし」
 ピケット大佐がハンドルに手をかけて、右へ回し始める。僕は銃を扉に向けて身構えた。誰もいない保証は無い。
 扉が開け放たれる。僕は意を決して中へ入った。
 そこはまるで子供部屋だった。ピンク色の壁紙、ぬいぐるみがたくさん載ったベッド、テレビにDVDかブルーレイの再生プレーヤー、落書きされた紙が置かれたテーブルと椅子、人の気配は無い。ピケット大佐と一緒にシェルターの隅々まで捜索したが、トイレとシャワールーム以外の部屋には手が付けられている様子は無かった。
「何だか小さな女の子の部屋みたいだ」と、僕は率直な感想を述べた。
「何かある」ピケット大佐がテーブルから四つ折りの紙を拾った。
「君宛だ」
 ピケット大佐が紙を差し出した。そこには『TO DEADDIVE』と書かれていた。
 受け取って開く。そこには携帯電話の電話番号らしき数字が書かれている。
「大佐、電話はありますか?」
「持ってないのか?」
「はい」
「今時珍しいな」
 ピケット大佐がスマホを差し出す。
「圏外になってる」
「放射線を防ぐシェルターの中だからな」ピケット大佐は肩をすくめて「外へ出よう」
 僕とピケット大佐はシェルターから出て階段を上がり、紙に書かれた電話番号を入力した。時刻は午後一時を回っていた。
「こんな時間に電話に出るでしょうか?」
「こんなメモを残すくらいだ、出るだろう。出なければ明日またかけなおせばいい」
「それもそうか」
 電話をかける。僕だったら絶対寝てるな、と思っているとコール音三回であっさり出た。
『荒巻デッドダイブか?』
「そうだけど、あんたは?」
『この事件の犯人だよ』
「この事件って、どの事件?」
『すべて』
「屋上に突然現れた死体も、メイ博士の殺害もあんたが?」
『そうだ』
「どうしてそんなことを?」
『お前なら分かるんじゃないか? お前は見事に島の裏側に辿り着いた。米国政府がひた隠しにしてきた真実に』
「正直、何も分からない。いったい、この街は何だ? どうして放棄された?」
『分からないか?』
「ああ、何一つ分からない」
『分からないのにそこにいるのか?』
「そうだ」
『威張るんじゃない』
「人殺しに言われたくないね」
 電話の主は『うーむ』と唸って『明日、十二時にホテル屋上に来たまえ。そこですべて説明しよう』と言って通話が切れた。
「何だって?」と、ピケット大佐が訊くので今の会話を説明すると「つまり犯人が明日の十二時にノコノコ私のホテルの屋上に来るというのかね?」と驚いた。
「来るみたいですね」
「罠かもしれん」
「どんな?」
「言ってみただけだ。とりあえず犯人、かどうかは分からんが、そいつが屋上に来るならそこで逮捕するだけだ」
「本当にノコノコやってくるでしょうか? 腹にダイナマイトを十本くらい巻いてるかも」
「今ならプラスチック爆弾だな。対処はこちらでしよう。今はホテルに帰って、一眠りしてから明日にでも対策を考えよう」
「そうですね」
 一眠りと聞いて、反射的に欠伸が出た。しかし僕はこれからホテルまで、また長い道のりを歩かなければならない。
 明日は筋肉痛だな。間違いない。


第十二話 潜入捜査官デビッド
 一ヵ月前、連邦捜査局フィラデルフィア支局にて。
「こんにちは、エドワード・ファーガスさん」
 ダナ・マグダリットはテーブルの上に資料を置いて椅子に座った。対面に座るのは、痩せぎすの背広を着た男である。ファイルによると年齢は四十二歳、男性、ニューヨーク出身の会計士とあるが、どう考えても二十代前半にしか見えなかった。おそらくどこかから戸籍を買ったか、偽造したのだろう。
エドワードは不安そうな視線をダナに向けた。男の反応はそれだけだった。デビッド・サンドバーグはダナの後ろの壁で腕組みしながら推移を見守るつもりだった。彼女の経歴はデビッドより少し長い。お手並み拝見、というよりは学ばせてもらうつもりで今日は同席した。
同席しているのはデビッドだけではない。ミラーの向こうでは支局長やCIAやNSAのエージェントもいた。今回の大捕り物に協力した組織だ。今となってはほとんど形式的なものに過ぎないが、何か新しい発見がある可能性も無いではなかった。
「エドワード………あるいはケイン・ブレイク、ジョージ・ペイン、それとも『洗濯人』と呼んだ方がいいかしら」
 最後の『洗濯人』という言葉にエドワードは明らかな反応を示した。
 五日前、フィラデルフィアの一角にスワットチームが突入し、人身売買の現場を抑えることに成功した。同時に南米に本拠を置いていた人身売買組織のトップをCIAの特殊部隊が襲撃し、トップは射殺、幹部の何名かを拘束することに成功する。
 押収した大量の証拠品の中から顧客リストを見つけた連邦捜査局は、売買された人々(大半は女性と子供)の行く先を追跡し、だいたいの買い手を調べ上げた。
 しかしその中で数名ほど、身元の分からない子供がいた。幹部はなかなか口を割らなかった、というよりほとんど現場任せであまりよくわかっておらず、ほとんど全員が麻薬中毒者で、禁断症状のせいで発言が時間を追うにつれ支離滅裂になってきた。
 まともな証言が期待できそうなのはエドワードだけだった。彼はフィラデルフィアのアパートで拘束された洗濯人だった。洗濯人とは、身元を偽造するプロであることからついた通称だった。あるいは自分の身元を偽造しすぎて本当の名前が分からないから、そういった通称が必要なのかもしれない。
 身元の偽造でもっとも難しいのは意外なことに経歴だ。どこで生まれ、どういった教育を受けて、どういった仕事についているのか。ここには想像力と知識、それからストーリーの構築力が必要だ。人間の経歴と言うのはあまりにも筋道建っていると嘘くさいし、適当にでっちあげても変に思われる。それに偽造している人間とあまりに乖離しているのも駄目だ。
 そしてこのエドワードという男は、千人近くの人間に対してそれを行ってきたのだ。
「エドワードさん」
 ダナがエドワードに一枚のA4用紙を差し出した。まだ行方の分かっていない子供リストだ。
「この人たちが今、どこにいるのか分かりますか?」
 エドワードは臆病な男だった。ダナの差し出した一枚の紙にすらビクついている。麻薬でもやっているみたいな過敏な反応だったが、尿検査の結果は陰性だった。もともと繊細な性格なのだろう。
だから上手な経歴のでっち上げも可能なのかもしれない、とデビッドは思った。この男は小説家にでもなるべきだったのだ。
 エドワードはダナが差し出した紙をしばらく凝視した。名前だけでどこに売られたのか思い出せるのだろうか。デビッドをはじめ誰もあまり期待はしていなかった。そもそも覚えてもいないだろう。人間も棚に並べば商品と同じだ。末端の作業員が商品の出荷先をいちいち覚えていないように、エドワードが覚えている可能性は低かった。
 信じているのはダナだけだった。彼女だけが、エドワードが出荷先を覚えていると信じていた。そしてそれは正しかった。
「ラムダ78」
 エドワードは子供たちの行く先を覚えていた。


 ラムダ78は太平洋に浮かぶ小さな島だった。この名前に敏感に反応したのは同席していたCIAのエージェントだった。
「ラムダ78はわが軍の保有する秘密軍事基地だ」と、エージェントは言った。
「キューバみたいな?」
 デビッドの言葉にエージェントは首を横に振って「いや、ラムダ78は研究施設だ。といっても、現在は研究施設は閉鎖されている。現在は海軍が駐留して、訓練を行っているだけの非アクティブな基地だ」と答えた。
「そんな基地にどうして人身売買が行われている?」
 NSAのエージェントが言うと「中継地点に使われているのかも」と、ダナが言った。
「出まかせを言っているんじゃないか?」
「出まかせで秘密軍事基地の名前が出るとは思えない。ラムダ78は良くも悪くも知られた場所ではないからな」と、CIAのエージェントはため息をついていった。状況はややこしくなってきた。秘密軍事機を調べるなら、米軍の根回しが必要だ。信憑性が低いからやらない、ということも出来ない。デビッドたちには他にあてもなかった。
「幸い、ラムダ78の運用は民間人も多くかかわっている。それに紛れて潜入できるだろう」
「潜入捜査? 何故です? 堂々と正面から行けばいいでしょう」と、CIAのエージェントの言葉にダナが反発した。
「それは少しまずいかもしれない」と、NSAのエージェントがフォローした。「まず人身売買に米軍が関与していることがスキャンダラズだ。完全にクロと確定するまで正面から乗り込むのは控えるべきだろう。それに軍人は良くも悪くも仲間を売らない。証拠を消される可能性がある………以前、我々はそれで失敗した」
「わかりました。潜入捜査で行きましょう。人員はこちらで」
「こちらも早速準備を整えよう」
 そういうわけで、一ヵ月後、デビッドは黄色いアロハシャツと白いベージュのチノパンを履いてラムダ78のズルワーン空港へ降り立っていた。
 ラムダ78におけるデビッドの表向きの職業はスーパーの卸問屋だった。商品の搬入を現地の現場責任者と調整するという名目で、本社から出張してきたという設定である。この日のために、デビッドは実際に仕事のやり方をスーパーの本社から教わって来た。
 デビッドが連邦特別捜査官であるという事実を知っている者はラムダ78では誰もいない。つまり島に入ったら助けてくれる人間は誰もいない。危機的状況に陥れば、デビッドはこの島の中、自力で何とかする他なくなる。
 とはいえ、ラムダ78の第一印象は普通の南の島だった。デビッドは二年前に家族と行ったグアム旅行を思い出しながら、空港の検査を通って港町へ出た。
 スーパーの打ち合わせは明日だったが、とりあえず顔でも見せておこうとレンタカーを借りてスーパーへ向かった。現地の従業員は少し小太りした男で、陽気さと誠実を兼ね備えた中間管理職といった印象だった。
「ようこそラムダ78へ。ホテルへはもうチェックインしたんですか?」
 事務所に通され、キンキンに冷えたコーラの缶を差し出して従業員が訊ねた。確かにこの島ではコーヒーよりコーラが似合う。
「いや、まだだ」
デビッドはプルタブを開けてコーラを飲んだ。事務所の冷房はあまり強くなく、少し蒸し暑い中でコーラはとても美味く腹に落ちた。もしかするとコーラをうまく飲むために室温を上げているのだろうか。
「この島に一件だけのホテルですが、とても評判がいいから安心してください」
 ラムダ78に宿泊可能な施設はホテル『シシリエンヌ』しかなかった。軍の管理するホテルだから、何だか厳つい建物をデビッドは想像していたが、従業員の口ぶりでは普通の観光ホテルとなんら変わるところはないようだった。
「楽しみにしてるよ。あ、そうだ。缶ビールを一ケース貰ってもいいかな?」
 ホテルにはバーも付いているという従業員の言葉を無視して、デビッドは缶ビールを一ケース買ってホテルへ向かった。確かにバーを利用してもよかったが、人のいる場所で酔っ払いたくなかった。
 ラムダ78はジャングルに少し入った場所に建てられた、こじゃれたホテルだった。チェックインして部屋に入り、缶ビールを冷蔵庫に入れてベッドの上に大の字に転がると、デビッドは思わず自分の仕事を忘れそうになった。
 このまま一眠りしたい。
 そんな欲求を跳ね除けてベッドから起き上がる。時間はあまりない。滞在時間は四日を予定している。今日現地入りして、明日はスーパーで打ち合わせ。残る二日は本社の手違いだとか、打ち合わせを忘れた項目があるとか、なんやかんや理由をでっちあげて、ここに残らざるを得なくなった。そういうストーリーだ。もちろん何かを掴めたり、やばそうになったら切り上げて帰ってもいい。
 デビッドはベランダに出て、ラムダ78のジャングルの風景を見た。ジャングルと言っても、アニメや映画みたいに猛獣が木に寝そべっていたり、猿がはしゃぎまわる姿は無かった。ただ静かに木々が佇んでいるというにしかデビッドには見えない。
 人身売買か、この島で本当にそんなことが起こっているのだろうか。
 だが全ては見かけによらないということもデビッドは知っていた。彼はすぐさまホテルを出て、レンタカーで海岸へ出た。とりあえず今日の所は偵察だ。島中を詳しく見てやろうじゃないか。
 ホテルか港町へ続く海岸線沿いの道路を走っていると、サーフィンをしている一団が見えた。体つきや仕草を見る限り軍人のようだった。
 チャンスかもしれない。
「ハロー」
 ビーチで休んでいるらしい一人に声をかけた。金髪を短く刈って、サングラスをかけている。
「ハロー」
 二度目の声掛けでやっと振り向いた。左胸にサメのタトゥーが掘ってある。
「サーフィンかい?」
「誰だあんた?」
「俺はデビッド。デビッド・サンドバーグだ。スーパーの打ち合わせで来てね。初めて島に来たばかりで、ここら辺をブラブラしてるんだ。ま、一つよろしく」
「俺はジャック・クロズビー中尉だ」
「今は非番?」
「そんなとこかな」
 そのとき、ビーチに高波が押し寄せた。ここぞとばかりに波にサーファーが群がるが、乗れたのはほんの一握りだった。
「あそこにいるのはあんたの部下か?」
「いや、直接の部下じゃない。だけど暇なときは一緒に、こうしてサーフィンを教えてる」
「っていうことは、サーフィン歴は長い?」
「地元はサンフランシスコだ」
「そう」
「大抵の奴は、ここに来て始める。でも、そう。例えばあいつ」
 そう言って、クロズビー中尉は高波に乗る男の一人を指さした。
「あいつは俺よりも経験が長かったりする。他の奴らはてんで駄目だ。でも任期を終えるころには少しはまともになるんじゃないかな」
「サーフィンの他には何かすることあるかな?」
「ないね」と、クロズビー中尉は断言した。
「あとは酒を飲むか、カードをやるか、今はネットがあるから部屋で映画を見てる奴もいる。あるいは訓練にのめり込む奴もいるが、そういう奴はヤバイ」
「どうして? 訓練があんたらの仕事みたいなもんだろ?」
 そう言うとクロズビー中尉はかぶりを振って「ここじゃ、そういうことをするのはうつ病一歩手前だ」と言った。
「うつ? こんな日差しの明るい南の島で?」
「あんたここには何日いるつもりだ?」
「四日を予定している」
 クロズビー中尉はため息をついて「四日ならバカンスだろう。だが一ヵ月、二ヵ月ならどうだ? この島には春も秋も冬も無い。ずーっと夏が続くんだ。するとな、頭がこう、おかしくなってくるんだよ。ずっと時間が止まったままのような気がしてな。アラスカの冬の憂鬱と、南国の憂鬱は質が違う。楽園も日常になれば地獄だ」
「そろそろ行くよ」
 デビッドは時計を見ながら話を切り上げた。
「またどこかで会ったらよろしく」
「ああ」と、クロズビー中尉は答えた。
「楽園も日常になれば地獄、か」
 車に乗って、キーを回しながらデビッドは独りごちた。


 軽く港町を一周して、デビッドはホテルへと帰った。出発から二時間も経過していない。ラムダ78は小さな世界だった。収穫は特にない。
 まぁ、いいさ。初日はこんなものだろう。
 冷蔵庫で冷やしておいたビールを飲む。美味い。まさに楽園のビールだった。
「ふぅ」
 半分ほど飲んで、テーブルの上に置いた。日は既に傾き始めて、部屋に入り込む日差しは紅い。ベランダから見るジャングルの夕焼け、黒い山のシルエット、綿のようにたなびく雲。
 仕事を忘れそうだ。
 デビッドはビールの残り半分を飲んだ。
 日が完全に沈む一歩手前で、ホテルから内線で夕食の支度が整ったと連絡が来た。そういえば、そんなことをフロントで説明されたなと思いながら一階のダイナーへ階段で降りる。それからテーブルで、新鮮な魚介類の洗礼を浴びた。白い刺身の乗ったカルパッチョは、デビッドの人生で最も美味い料理だった。あまりの美味さに「この魚は何だい?」とボーイに訪ねた。
「ヒラメです」と、ボーイは丁寧に答えてくれた。
 捜査費用でこんな料理食っていいのかな。
 若干の罪悪感を感じながら、食後のデザートワインを飲む。
 食堂にはデビッドの他に年配の黒人と、若いアジア人の男しかいなかった。もとより営利目的のホテルだから、客が少なくとも差し支えないのだろう。むしろスタッフの人数を考えると、これでも手一杯なのかもしれない。
 それよりデビッドが気になるのは二人の職業だった。黒人男性は緑色のポロシャツを着ていて、アジア人の方は背広を着ているが、外見からは職業が判別しずらい。ラムダ78は秘密軍事基地だ。観光目的でないとすれば、それぞれ何らかの目的をもってここにいることになる。
 もっとも、黒人の方はすぐにわかった。
 食事を終えたデビッドが、食堂脇のサロンで本を読みながら食休みしていると「お邪魔してよろしいかな?」と、黒人の方から声をかけて来た。
「かまいませんよ」
 デビッドは本から顔を上げる。むしろ、声をかけてくれないかと期待していたところだ。
「私はカイル・グラッドストンといいます。カトリック教会の神父をしています」
「神父様ですか。俺はデビッド・サンドバーグ。スーパーの商品入荷の打ち合わせでここに来ました」
「あなたもカトリック?」
 カイル神父はデビッドの隣の椅子に腰かける。
「ええ。でも、一応です。家族で熱心なのは祖母だけです。俺は何年も教会に行っていません」
 正確には十何年もだな、とデビッドは心の中で訂正する。
「まぁ、最近の人はそんなもんでしょうな」と、カイル神父は笑う。
「神父様はどうしてここに?」
「悪霊払いですよ」
 デビッドが怪訝な顔をすると、カイル神父は小声で「実はこのホテルには幽霊が出るらしいんです」と付け加えた。デビッドの眉間皺が更に深まる。
「それは本当の話ですか?」
「少なくとも私をここに呼んだ副支配人はそう信じているようですね」
 カイル神父が説明すると、このホテル『シシリエンヌ』には昔から幽霊が出るという噂があるらしい。しかもその幽霊と言うのが、フォーレという昔の音楽家の霊なのだそうだ。音楽家の霊らしく、出現するだけでなくピアノも弾くらしい。
 そんな幽霊なら除霊せずにパートタイムで雇ったらどうだ、とデビッドがいうと、カイル神父は心底おかしくてたまらないという風に笑った。
「私もそう思いました」
「なら何故、除霊を?」
「偉人とはいえ、やはり実際に遭遇すると幽霊は怖いのでしょう。あなただって、自分の家にマリリン・モンローの幽霊が居着いたら、居心地が悪いのでは?」
「マリリン・モンローか………ちょっと考えちゃうなぁ」
 そう言うとカイル神父は再び笑った。よく笑う男だとデビッドは思った。きっと幽霊もこんな男は苦手に違いない。
「でも実際、幽霊と雇用契約は結べないでしょうね。勝手にフラフラ出てこられると客のプライバシーにも影響が出そうだ」
 デビッドが言うと、カイル神父も「でしょうね」と、同意した。
「それで、ええと、除霊の方はうまく行きましたか?」
「まだこれからです」
「そうですか。その、ちなみにここまで話しておいて今更かもしれませんが、あなた自身は幽霊を信じているのですか?」
「どうでしょうねぇ」
 カイル神父は首を傾げる。
「でも、それを依頼した副支配人のことは信じています」
 デビッドさん、とカイル神父は腕組みして「悪霊払いでも、医者でも探偵でも、実は古今東西、そういった職業で大事なものは共通しているのです」
「というと?」
「信頼ですよ、デビッドさん。このホテルの副支配人は、私を信じてくれるから悪霊払いが出来る。私としては、幽霊は副支配人の夢だったり、幻覚だったと考えています。でも悪霊払いがされたという事実が信頼の下になされたなら、やはり彼女の世界から幽霊は消え去るのです。同様に患者は医者のことを信じるから、処方された薬を飲んで、手術を受けてくれる」
「探偵の方はどうなる?」
「探偵、あるいは警察も同じです。犯人を犯人と信じるから、逮捕されるのです」
「よく分からないな。警察はそんな雑なことはしない。いや、するかもしれないが大抵はそうじゃない。ちゃんと地道に聞き込みをして、証拠を固めて、裁判所から令状を取って、それでようやく逮捕に踏み切るんだ」
「別に警察の仕事を批判しているわけではありません」カイル神父は首を横に振る。「しかしその証拠はすべて正しいのですか? 証言はすべて正しいのですか?」
「事実は存在しない。存在するのは解釈のみである。ニーチェの言葉ですね」
「まさしくそうです。おそらく限りなく事実に近いものは得られるかもしれません。しかし百パーセントではない。そこまで来るとあとは信仰です。証人が正しいことを述べるだろうという信仰、コンピュータや機械が故障せずに正しい情報を出してくれるという信仰、そしてそれらの下に導き出される大多数に指示された出来事が真実と呼ばれるのです」
「そしてそれを信じているあなたも」
「まさしく、いま私が言ったことが、私の信仰ですな」
 カイル神父が時計を見る。
「ああ、つい話し込んでこんな時間になってしまった。何だか私ばかりしゃべって申し訳ない」
「構いません。楽しかった」
 楽しかった、それは確かな事実だった。デビッドとカイル神父はサロンを出て、一緒にエレベーターに乗った。デビッドの部屋は二階、カイル神父は四階の部屋だった。
「それじゃ検討を祈ります。おやすみなさい」
 デビッドはカイル神父にそう言って、エレベーターを降りた。
 メイ博士が殺害されたのは、その翌日である。


第十三話 そして、ようやく最初の事件が起こる
「野中詩織を殺害したのは俺たちとは別な星系からやってきた異星人だ。奴は護送する修正局の局員五人を殺害、一人に重傷を負わせてこの街に潜伏している。野中詩織が殺害された理由は分からない。異星人の正体を看破したのか、機嫌が悪かったのか、何にせよ運が悪かったんだ」
 髭面の大男は喫茶店のテーブル席で僕にそう説明した。従業員が二人分のクリームソーダを持ってくる。
「健康診断で腎臓の数値が悪くてね。コーヒーは控えてるんだ」
 言い訳するように大男が言うのが、僕は少しおかしかった。
「本来なら直接、俺が出張ることはないんだが、お前が本当にデッドダイブを継いだならそうもいかん。たとえ八歳のガキでもな」
 大男はそう言いながらメロンソーダに浮かんだアイスの島をスプーンでつついた。僕もアイスをスプーンでつついたが、めちゃくちゃ硬くてメロンソーダの上を回転するばかりだった。こいつはしばらく待つしかない。僕はストローの袋を破いてカップに突き刺す。
 一方、大男はストローの袋をイモムシ状に圧縮し、そこに水を垂らしていた。この行動から、彼が相当メロンクリームソーダをやりこんでいるのが伺えた。
「デッドダイブになった以上、お前には中学、高校を卒業し、大学へ行って彼女を見つけ、大学を卒業して就職、結婚を行って子供を二人産んで育てるような人生は送れない。デッドダイブは宇宙に選ばれた殺し屋だ。普通の殺し屋は標的の情報を自ら探し、武器を用意して、然るべき状況で殺す。だがお前は違う。標的の情報も、武器も状況も、向こうからやってくる。俺もお前もどうにもできない。唯一の救いは報酬も向こうからやって来るってことだが、お前の場合はどうなるんだろうな。銀行口座持ってる?」
 銀行口座という言葉の意味自体が分からなかったので、僕は首を横に振った。
「だろうな」
 大男はようやく柔らかくなったアイスをスプーンですくった。
 その日はメロンクリームソーダを飲んで大男と別れた。運命に選ばれた殺し屋? さっぱりわからない。僕は詩織の父親に突き刺そうと持って来た包丁を、こっそり台所に仕舞って寝た。
 翌朝、学校へ行くと友達の林が真剣な顔で僕に相談を持ち掛けた。
「俺、宇宙人をみたんだ」


 ジリリリリリ。
 電話が鳴る。僕は受話器を取った。
「おはようございます。ミスター・デッドダイブ」
「おはようセバスチャン」
「朝食のご用意が出来ております」
「わかった。今向かうよ」


 朝食を終えてコーヒーを半分飲んでも、僕の意識はまだまどろみの中にいた。
「おはようミスター・デッドダイブ」
 ピケット大佐が対面の席に座った。もはやお馴染みとなった光景だった。大佐は昨日の徹夜の行軍にも関わらず元気はつらつとしていた。
「おはようございます、大佐」
「早速だが、今日の計画を説明する。君が屋上に踏み込んだ時点で、部隊を屋上の階段に待機させておく。本当なら狙撃兵に屋上の監視をさせたいところだが、残念ながらこの近辺で最も高い建物がこのホテルだし、山に適当な斜面がないから諦める。ヘリを飛ばそうかとも思ったが、あからさまだしな」
「ホテルに来たところを確保しないのですか?」
「奴の口から目的を聞きたい。ホテルは我々の土俵だし、この島は狭い。そこまで焦る必要は無いだろう」
 僕はコーヒーのもう半分を飲んだ。
「眠そうだな」と、ピケット大佐が言った。
「そりゃ眠いですよ。昨日の今日ですもん」
 時計を見る。まだ午前八時三十分を回ったところだ。約束の時間まで三時間ある。一眠りする余裕はあるだろう。僕は席を立った。
「部屋で少し休みます」
「寝過ごすなよ」
「セバスチャンにコールするように伝えて下さい」
 それから僕は部屋に戻り、ベッドの上に寝転がった。眠りたい気持ちと起きていたい気持ちの葛藤が少しあったが、結局は眠りに落ちた。


 デビッド・サンドバーグは期待とも不安ともつかない気持ちでホテル『シシリエンヌ』滞在三日目を迎えた。たった三日にも関わらず、色々なことが置き過ぎた。
 まず二日目の朝にホテルで人が殺されたのだ。デビッドはそしらぬ顔で取り調べを受けた。取り調べはほとんど形式的なもので、デビッドの身分を深く追求するもので無かったから、ここでの彼の職業はまだスーパーの卸問屋に留まっていた。
 ただ、事件が終わるまで島を離れないようにと言われた。これはどちらかというと、渡りに船だった。島に滞在する時間が増えれば、捜査する時間が増える。
 問題は、メイ博士の死が自分の追っている人身売買の事件と関連があるかどうかだった。建前上、一般市民であるデビッドには、メイ博士がどんな研究をしているのか、どうして殺されたのか、軍警察には犯人の目星がついているのか、うかがい知ることは出来ない。
 まぁ、軍警察についてはあまり当てにならなそうだった。捜査を取り仕切るジョニー・ボーイ曹長はホテルのロビーで錯乱したように、要領を得ないことを喚いて取り押さえられた。デビッドはその現場を偶然バーの席に座って見ていた。
取り押さえたのは背広のアジア人だった。どこかで訓練でも受けたのだろうか、その動きは素早かった。いったい彼は何者だろう? その後に現れた曹長の上官らしき男とも親しげだった。いずれ彼についても調べを進めておくべきだろう。
それにしてもジョニー・ボーイ曹長はどうしてあのような暴挙にでたのだろうか。デビッドはクロズビー中尉の言葉を思い出した。彼もまた精神を病んだ一人なのかもしれない。だが従業員の女性に銃を向けたことを考えると同情する気にはなれなかった。
その後、デビッドたち宿泊客は取り調べが終わるまで部屋に軟禁されることになった。通信機器は一時的に取り上げられ、デビッドは捜査局に連絡を入れることも出来ずにまったりと時間を潰すことになった。
取り調べは昼過ぎに終わったが、その後、部屋の窓からアジア人と例の軍人がジープでどこかへ出かけるのを見た。彼らはどこへ向かうつもりなのだろうか。従業員に訊くのも変だし、状況が状況だから怪しまれる行為は慎まねばならない。
とりあえずデビッドは状況を返却されたパソコンにメールで報告し、屋上のミニバーへ向かった。酒よりも日の光を浴びたかった。
ミニバーにはカイル神父がいた。彼は飲み物を飲みながら若い女性従業員と談笑していた。
「カイル神父」
 デビッドが声をかけると、カイル神父は気さくな笑顔で「やぁ、君か」と応えた。
「大変な目にあったね」
「ええ、隣いいですか?」
「もちろん」
 デビッドはカイル神父の隣に座って、ダイエットコークを注文した。
「飲まないのかね?」
「日が明るいうちはちょっとね」
「真面目なんだな」
 デビッドはカイル神父の飲み物を見る。彼もまたコーラを飲んでいた。
「お待たせしました」
 従業員がダイエットコークを出す。大きめのグラスに大量の氷が入っていた。飲む。炭酸の刺激が湿った暑さに爽快だった。
「生き返る気分だよ。ありがとう、ええと………」
「ミシェル」
「ミシェルさん」
 そう言ってデビッドはチップを差し出した。それから「このホテルに宿泊している、アジア系の男性がいましたよね? 彼が誰か知っていますか?」と質問してみた。
「申し訳ありません。お客様の個人情報に関わることですので」
「そうですよね。いや、彼がさっき偉そうな軍人さんと一緒にジープで出かけるのをみたから、どんな関係なのかと思いましてね」
「偉そうな軍人の方は、ピケット大佐だよ」と、カイル神父が答えた。「彼が出かけるところは私も見た。ピケット大佐はここのホテルの支配人でもあるんだ。もっとも、任期の間だけだがね。この島は米軍の軍事施設だから、ホテルもその一部なんだ。そうだろうミシェル?」
「ええ、そうです」と、ミシェルは首肯した。
「しかしこう、立て続けに事件が起きるとホテルも大変だな。スーザンはどうかね? ロビーでは大立ち回りを演じたと聞いたけれど」
 そこでデビッドはアジア人をかばった女性従業員の名前がスーザンであることを知った。ダイエットコーラをもう一口飲む。いや、待て。何か違和感がある。
「ご心配なく。怪我もありませんわ」
「そりゃ何よりだ」
「待ってください、カイル神父。先ほど立て続けにとおっしゃいましたね。殺人以外にも何かあったんですか?」
「ああ」と、カイル神父は振り返ってプールに向かって十字を切った。
「あのプールに死体が降って来たんだよ。君がここに来る一日前かな」
「死体が? どうして?」
「わからん。だがちょっと、何かが起きすぎているのは確かだ。これ以上、ひどいことが起こらないといいんだが」


 屋上に突然現れた死体に、殺人事件、このホテルは普通じゃない。デビッドは応援を呼ぼうかとも考えたが、この島は軍の管轄下にある秘密軍事施設だ。合衆国の法律は厳密にいうと通用しない。連邦捜査局が介入できるかは微妙なところだった。
 むしろ身分を明かせばより一層、窮地に立たされるのではないか。その可能性も無いではない。全て、この基地の兵士たちが仕組んだという線もあり得るのだ。
 だがそれらがデビッドの追う人身売買と繋がりがあるのかはいまだ不明であった。屋上の死体と殺人事件の関連も見えなかった。
 出来ることならデビッドは今すぐ本国へ帰りたいとすら思った。殺人事件が起こって長期の捜査が出来ると考えた自分が、今から思うと楽天的過ぎたのだ。
 それでも、このような状況下で捜査を進めるのが、連邦特別捜査官の本文なのではないか?
 そう思ったデビッドは夕食の席で、背広のアジア人に思い切って話しかけることにした。
「こんばんは」
 食後に出されたコーヒーを見つめて考え事をしている彼は、デビッドに話しかけられて驚いたように顔を上げた。
「少し話しても?」
「ああ、どうぞ」と、男は対面の席を手で示した。
「私はデビッド・サンドバーグ。スーパーの卸売りの打ち合わせで来たんだが、まったく厄介なことに巻き込まれたよ。殺人事件なんて」
「ふぅん」
 男は気のない返事をして、コーヒーを飲み始めた。デビッドは少しイラついたが、辛抱して「君の名前は?」と訊ねた。
「え? ああ、僕はデッドダイブ。荒巻デッドダイブ」
 変わった名前だった。
「荒巻と呼べばいいのかな? それともデッドダイブ?」
「どっちでもいい。いったい僕に何の用だ?」
「別に、ただの世間話だよ。というか殺人事件なんて初めてでね。怖くてさ」
「そう言われても、僕に出来るアドバイスは戸締りをちゃんとすることだ、としか言えないな。それから知らない人が来ても迂闊にドアを開けない」
「君は怖くないか? この島のどこかに、いや下手をするとこのホテルのどこかに殺人鬼が潜んでいるんだぞ?」
「そう言われると怖くなってきた」
 デビッドは脱力感を覚えた。この男と会話していると、何だか風に向かって格闘しているような気分になる。
「君はどうしてこの島に?」
「依頼があってね」
「依頼? 君は探偵か何か?」
「そんな感じだ」
「殺人事件と関係ある?」
「ノーコメント。さて、僕は用があるからこれで」
 荒巻デッドダイブはさっとコーヒーを飲んで席を立った。
 掴みどころのない奴だ、とデビッドは思った。


 一夜明けて、デビッドはシャワーを浴びて、定時連絡がてらメールで報告を入れた。いつもなら朝食の後に行うのだが、今日は少し早く目が覚めたのだ。
 特に情報が無ければ無いと報告するし、そうしようかとも思ったが謎のアジア人の名前が判明したことを思い出した。もっとも、妙な名前なので偽名だろうと思った。
 しかし偽名で軍事施設のあるこの島に入れるのだろうかとも思い直し、もしかしたらからかわれたのかもしれないと考え直した。取り合えず偽名でも何でも、個人名が判明したのは便利だ。いつまでも謎のアジア人という代名詞を使っているわけにもいかない。神も最初に光あれと言ったではないか。
 ところが荒巻デッドダイブの名前を報告した五分後には、デビッドのスマホが鳴った。通常、潜入先では通話でのやり取りは控えるのが通例だった。盗聴される危険があるからである。特にデジタル情報のやり取りは、どこで記録が抜かれるか分からない。黒電話でやり取りしていた頃の方が、下手をすると情報保護の強度が高かったかもしれない。
 それでもデビッドはスマホを耳に当てて通話を開始した。
「こちらデビッド」
「ベルだ」
 ベルと言うのは、CIAのエージェントの暗号名である。
「デッドダイブと接触したのか?」
「ええ」
「デッドダイブがそこにいるのか? 通りで変なことが続くと思った」
「いなければ接触できませんよ」
「いいか、今回の事件と関係のある、無しに関わらず荒巻デッドダイブに手を出すな」
「具体的には?」
「会話、拘束、尋問、射殺などだ」
「ようするに危害を加えるな、と。何者なんです?」
「奴は………いや、君が知る必要はない。身の安全を保ちつつ、状況の観察に勤めたまえ」
 それから、とエージェントは続ける。
「どんな異常事態、想像を絶する光景に遭遇しても正気を保つことを心掛けることだ。私から言えるのは以上である」
 通話が切れた。デビッドは自分を取り巻く状況が、より一層混迷を深めたように感じた。スマホをテーブルに放り投げる。内線電話が鳴って、セバスチャンが朝食の用意を告げた。
「わかった、今行く」
「お待ちしております」
 デビッドが食堂へ向かうと、何故か全体的に物々しい雰囲気を感じた。何故だろう、ミシェルもセバスチャンも一見、普段とあまり変わらないように思えるが、互いに何かに備えるように目配せし合っていた。
 食堂にはデビッドしかいなかった。いつもならカイル神父が先に来ているはずなのだが、姿が見えなかった。もっとも、今日のデビッドが早いのだ。
「おはようデビッドくん。今日は早いね」
 思ったそばから、カイル神父がやってきた。
「何だか早く目が覚めて」
昨日から二人は朝食を一緒に食べていた。今日のメニューはパンとコーンポタージュ、ベーコンエッグにサラダとフルーツの盛り合わせだった。カイル神父の更にはベーコンエッグの代わりにチキンソテーが用意されていた。
「何かアレルギーでも?」
「いや、豚肉はちょっと苦手でね」と、カイル神父はいたずらを見つかった少年のように舌を出した。
「それにしても、今日はセバスチャンもミシェルもそわそわしているね。何かあったのかな?」
 カイル神父が二人の方を向いていった。
「さぁ、わかりません」
「ま、我々は神ならぬ人の身だからな」
 そう言ってカイル神父は黙々と朝食を食べる。二人が朝食を食べ終わって、食後のコーヒーが運ばれてくると荒巻デッドダイブがやって来た。何だか疲れた足取りで、いつも通りテラスに近い席に着く。デビッドには、何だか荒巻デッドダイブが癒えない傷のような孤独を抱えているように見えた。
 いいか、今回の事件と関係のある、無しに関わらず荒巻デッドダイブに手を出すな。
 CIAのエージェントの言葉を思い出す。デビッドはコーヒーを飲み終えると「それでは神父様、良い一日を」と、席を立つ。
「君もな」と、カイル神父が微笑みで見送った。


 電話のベルが鳴った。
 僕は受話器を取って耳に当てた。
『ミスター・デッドダイブ。十一時半です』
 セバスチャンの声だった。
「もう、そんな時間か」
 腕時計を見る。十一時半。セバスチャンの時報は正確だった。
 起きなければならない。もう五分だけ、という言い訳は通用しそうになかった。僕は上体を起こし「今日の昼食は一時くらいにしてくれ。今から人と会う」と伝えた。
『支配人より承っております』
「そう」
『幸運を、ミスター・デッドダイブ』
 受話器を置く。背広の上着を着て、リボルバーをポケットに忍ばせた。
「行くか」
 自分に言い聞かせるように呟いて、僕は屋上へ向かった。


 デビッドが朝食を終えて部屋に戻ると、テーブルの上に書置きが残されていた。
『本日、十一時から一時まで屋上で整備作業を行います。立ち入らぬようお願い致します。』
「ふむ」
 デビッドは紙をつまみ上げて従業員たちがソワソワしているのはこれが理由か、と考えた。直感的に何か怪しいと感じる。
屋上に行ってみるか?
 しかしそれは無理そうだった。屋上への出入り口は階段のみ、一カ所であとは非常用の梯子しかない。ベランダを伝って外壁を登る手もあるが、見られたら言い訳が出来ないしデビッドも可能かどうか自信がなかった。
 ロビーに行ってみよう。
 デビッドは部屋を出る。屋上に行けなくとも、屋上へ向かう人間は見られるかもしれない。


 ホテルのエレベーターは四階までしか通じていない。屋上へ向かうには階段を上がらなければならなかった。
 僕は自室の203号室から階段を上ることにした。ポケットの中でピケット大佐から預かったリボルバーが震えた。最後までこれを使うことが無ければいいのだが。
 屋上へ出た。眩しい日差しが僕の目をくらませる。ラムダ78は今日も快晴だ。
 音楽が聞こえて来た。アンニュイな曲だった。誰かがピアノを弾いていた。バッハではないことは確かだった。上手だったが、そこまでの技量に達していないことは明白だった。プールを迂回してミニバーへ向かう。
 バーの中で男がピアノを弾いていた。長い髪に青白い肌をしている。
「何という曲だ?」という僕の質問に「ベートーベンの月光だ」と男は答える。
「知らないのか?」
「音楽には疎くてね。月光か、こんな日差しの輝く日に弾くような曲じゃないな」
「あいにくこれしか弾けないんだ。他は忘れた」
 男が演奏を止めて立ち上がり、こちらを向いた。間違いない、墓地で僕を睨んでいたあの男だ。


 デビッドはロビーに降りて、奥のソファーに座って新聞を読むふりをしながら、入口の様子を見ることにした。新聞はホテルがロビーに常備しているものだ。どうしたのかと訊かれたら、やることが無くて新聞でも読もうかと思って、と答えるつもりだった。
「おや、デビッドさん」
 そこへ現れたのがまたしてもカイル神父だった。悪くない。一人より二人の方が怪しまれずに済む。
「カイル神父。こんなところで何を?」
「それはこちらのセリフですよ」
「俺はただ、部屋にいるのも退屈だし気分転換にロビーで新聞でも読もうかと」
「私も同じですよ。昨日の今日でホテルから出るなと言われてますしね」
 カイル神父はデビッドの対面に腰かける。
「屋上で飲み物を飲もうかと思ったのですが、今日は屋上は立ち入り禁止だそうで」
「そうなんですよ」
 そう言ってデビッドはホテルの入口を盗み見た。誰かが来る気配は無い。
「誰かを待っているのですか?」
 カイル神父が目ざとく言った。
「いえ、別に」
「そういえば、受付に立っているのは知らない人だな」
「え?」
 デビッドがカウンターを見ると、確かに知らない女性が立っていた。だが雰囲気からして軍人のようだった。
「今日は何かあるのかな?」と、カイル神父は考え込むように腕組みする。
「ええ、俺もそう思います」
 デビッドは正直に感想した。
「変わったところと言えば、デビッドくん。気が付いたかな?」
「何がです?」
 するとカイル神父は階段の方へ目を向けた。
「実は以前から気になっていたんだが、階段の下にハッチみたいのがあってね」
 それにはデビッドは気が付いていなかった。
「物置じゃないですか? あるいは配電盤とかの設備があるとか」
「でも今日はそのハッチの上に物が置いてあったんだ。ミネラルウォーターのケースだよ」
「はぁ」
「デビッドくん、ちょっと私と一緒に見に行ってみないかい?」
「ええと……」
 話が妙な方向へ向いてきた。ロビーを離れたら、ホテルに来る人物を見逃してしまうかもしれない。
 どう断ろうかと思案している内に「ほらほら、行こう!」と強引に腕を掴まれて立たされてしまった。
「わ、わかりましたよ」


「君は何者だ?」
 男が問う。
「僕は荒巻デッドダイブ。君は誰だ? どうしてメイ博士を殺した?」
「利害の対立があってね。だが無駄だったのかもしれない。君は真実にたどり着いた。アメリカ政府がひた隠しにしていた、ラムダ78、その恐るべき真実に」
「悪いけど、僕には何のことか分からない」
「分からないのに島の裏側へ行ったのか?」
「ああ」
「なら説明しよう。一九四八年七月二十三日、アメリカ軍の偵察艦隊がラムダ78を発見した。そこで彼らは廃墟と新種の放射性元素を発見したんだ。その放射性元素は奇妙なことに、放射線を吸収するという前代未聞の性質を持っていた。米軍はこの島の発見をオーストラリアに報告し、放射性元素の発見を伏せて租借地とした。放射線を吸収するという性質は、冷戦時代の切り札になると考えられたんだ。だが研究を進めるにつれてこの放射性元素の本当の能力が明らかとなった。この元素は放射線を一定量吸収すると爆発と共に消滅したんだ。また、同時に放射性元素が半減期の状態で同じ空間に出現することも観測された」
「どういうことだ?」
「その元素は過去に戻るんだ。時間の跳躍だよ。この性質から元素はタキオニウムと命名された。原子番号は ∪こ?蕁??瑤慮胸卮峭罎澄?
「それでタイムマシンを発明したのか?」
「いや、出来なかった。問題が二つあった。一つはタキオニウムによる過去への遡行がコントロール不能で会ったことだ。実験では最短で数秒前、最長で一年が限界だった。しかもその値はタキオニウムの量に関わらずランダムだった。実験の前に結果が出るという奇妙な現象を当時の研究員は味わったらしい。だが私はその問題を克服した。記憶だよ。タキオニウムを人間に組み込んで、戻りたい過去をはっきりと思い浮かべて爆発させることで、かなりの精度で狙った過去へジャンプできる」
「人間に組み込んで、爆発だって?」
「実験は大変だったよ。東欧のシンジケートから子供を買ってね。タキオニウムを組み込んだんだ」
「外道だな」
「まったくだ。メイ博士にはその手伝いをしてもらった。だが彼女は両親の呵責に耐えきれなかった。事実を世間に、君たちに知らせると言ってね。しかし君は裏側に踏み込んだということは、彼女の死も無駄になってしまったが」
 さて、と男は懐から何かを取り出した。スイッチのようだった。
「このスイッチを押せば、子供は爆発する」
 僕は銃の入ったスーツのポケットに手を伸ばす。
「だが、無理だ。私にはもう押せない。情が移ってしまった」
 男はスイッチを落とした。電源も入っていなかったようだ。

「これだよこれ」
 カイル神父はデビッドを階段下まで連れてきて、ハッチの上に置かれたミネラルウォーターを指さした。
「怪しいと思わないかい?」
 思わない。ただのミネラルウォーターの入った段ボールじゃないか。
 そう思うデビッドだったが、カイル神父の強引さに押されて「はぁ」という曖昧な返事をしてしまった。
「だろう? ちょっとどかしてハッチをみないか?」
「え? やめた方がいいんじゃないですか? 怒られますよ」
 すると次の瞬間、ミネラルウォーターが震えた。違う、ハッチの下から誰かが叩いているのだ。
「誰かいる?」
「どかそう、デビッドくん」
 デビッドはカイル神父と共に段ボールをどかす。その途端、ハッチが勢いよく開き、偶然、ハッチの真上で開けようとしたカイル神父の股間を強打した。
「ハウッ!」
 股間を抑えてカイル神父が床へ倒れる。
「カイル神父!」
「デッドダイブは!」
 ハッチから出てきたのは白いワンピースを着た、金髪の小さな女の子だった。
「デッドダイブ?」
「デッドダイブはどこ?」
「たぶん」デビッドは上を指して「屋上じゃないかな?」 


「投降する気か?」
「いや」と、男は首を振る。
「子供は爆発させない。爆発するのは私だ、荒巻デッドダイブ」
 男はポケットからもう一つのスイッチを取り出す。
スイッチが押される。
 光。
熱。
闇。
 

 三日前。
「ほぅ、確かに綺麗なもんですね」
 僕がそう言った瞬間、爆発がしてホテル全体が少し揺れた。ピケット大佐はさすが軍人らしく、僕に覆いかぶさるようにかばって「何だ!」と叫んだ。
「上からのようですが………」
 しばらく様子を見て、大丈夫と判断したのかピケット大佐は僕から離れて階段の方へ走って行った。僕も後を追う。さすが現役の軍人だけあって、ピケット大佐は勢いよく階段を登っていくのに対し、僕ときたら三階で息を「ひぃひぃ」と切らしながら足を何とか上げていく。
 幸い、ホテルは五階建てだったので苦労はあまり長く続かなかった。爆発音が上からしたのは確かだが、何階かまでは分からない。二階から上なのは確かだが、とりあえず屋上へ上がってみよう。
 どうやらピケット大佐も同じ考えだったらしい。彼も屋上のプールの側にいた。側には二人の女性従業員が不安そうにピケット大佐の側にいる。
 屋上は大きなプールとバーがあった。更衣室が無いところを見ると、部屋で着替えてここに来るのだろうか。
先ほどのスコールでプールサイドはずぶ濡れだった。ところどころにある水たまりを避けながら、プールサイドへ向かう。
「ここで何かあったんですか?」
 一見すると、何かが爆発したような形跡はなかった。爆発はここではないのだろうか? だとしたら、ピケット大佐はここに留まっているのは変だ。
「ピケット大佐?」
 彼はプールの中央を指さした。そこには大きな消し炭のようなものが浮かんでいた。
 いや、よく見ると消し炭では無かった。それは背広を着た、焼け爛れた、おそらく人間の死体だったのである。
 そして何より奇妙なのは、その死体は何だか僕によく似ている気がした。


第十四話 修正課から来た二人
 レア・プラットは飛行機の中からラムダ78を一目見ただけで、今回の事件が一筋縄ではいかないことを悟った。彼女は理屈で物事を捉えない。考えて行動したのでは、とっくに死んでいただろう。彼女にとって知性は物事が終わったあとに使われた。
「やべぇな。やべぇぞ、ロビン。今回の事件はちょっと生きて帰れるかもわからねぇ」
 レアは隣に座る後輩、ロビン・ボーンへ自分の悟りを伝えた。ロビンはレアより身長が高い女性だった。いや、平均的な女性よりも高いだろう。おかげでシートが窮屈そうだし、相対的に自分が子供に見えてレアは少しだけ惨めな気持ちになる。
 しかし階級もキャリアもレアの方が上だった。だから惨めな気分になると言っても、せいぜい三秒くらいのものだった。
「そうなんですか? お姉ちゃん心配だわぁ」と、ロビンは言う。こいつはしばしばこういうことを言った。
 そんなロビンに「お前がお姉ちゃん?」と、レアは鼻で笑った。
「バブみが足りねぇよ」
「バブみですか。どうやったらバブみ出ます?」
「まず化粧を変えろ。暖色ベースの化粧で温かみを出せ。あともうちょっと太ることだな。お前は細すぎる」
「化粧変えてちょっと太るとバブみ……出ますか?」
「出る。いつか俺をオギャらせてくれ」
 飛行機が空港へ着陸を始める。減速。高度が低下していく。体が前のめりになる。衝撃と共に着陸。
 空港で手続きを済ませて、レアとロビンを出迎えたのはピケット大佐だった。連日の騒動で心なしか疲弊している顔をしているが、毅然とした態度で二人の女性を出迎えた。
タフな男だとレアは思った。並みの人間ならベッドで寝込んでいてもおかしくない。特に男はいくら筋肉で武装しても、どこかしらに精神的な弱さがあるものだ。
「NSA(アメリカ国家安全保障局)修正課のレア・プラットだ」
 レアは自己紹介した。
「同じくロビン・ボーンです」
「ラムダ78基地司令官のトマス・ピケット。階級は大佐だ。詳しい話はホテルでするが、正直、我々も事態を把握しかねている。どうしてNSAがこのタイミングで出張ってくる?」
「時間を遡る物質なんてほっとけるわけねーだろ。過去を改変されてアメリカをめちゃくちゃにされたらかなわん」と、レアが言った。
「タキオニウムの存在は第一級修正指定案件に認定されました」と、ロビン。
「修正指定案件とは?」
「タキオニウムの存在をこの世から消す。物質的にも情報的にも。それで時間を遡ることが出来ないという社会通念を維持するんだ。それが修正だ」
「だが、犯人はタキオニウムで過去に飛んだ。おそらく。それについてはどうなる?」
「目下のところ、全力で行方を洗っているところだ。まぁ、今日中には分かるだろう。俺たちにとってはすべて過去の話だ。それよりゼダーはどうした?」
 NSAから派遣される予定の職員は三名だった。その内の一人、レオナルド・ゼダーは偶然にもオーストラリアで休暇中であり、その関係もあって船で直接ラムダ78に来る手筈になっていた。
「ゼダー博士は我々の駆逐艦に乗ってこちらに向かっている。あと三時間もすれば到着するだろう。博士が車で待つかね?」
「んなわけねぇだろ。ホテルへ行くぞ」
「口の悪いレディだ」
「すみません、悪気はないんです」
 悪気は無いのは事実だった。レアはしゃべる時に相手のことを一切考えることが出来ない女だった。彼女の言葉は、思考と直結している。要するに思ったことがそのまま口に出るのだ。
 それで困ったことは無いのか? そう訊かれると決まってレアは「ない」という。都合の悪い一切のことを忘れ去ることが出来るのは、欠点というより才能だった。
「さぁ、こっちだレディ」
 ピケット大佐はジープの運転席に乗る。レアは助手席に、ロビンは後部座席へ荷物と共に座る。ジープが走り出す。
「この島の記録を見た!」
 レアが言った。基地の側を通り過ぎる。海岸線が近い。
「この島ではタキオニウムが産出され、七十年代まで実用化が検討されたが結局は打ち切られた! あの発電所は発電所じゃなくて研究所跡地だ!」
「ならまず発電所に行くか!」と、ピケット大佐。
「いや! まず荷物をホテルに降ろしてからだ! 荒巻デッドダイブの殺害現場も検証したい! それから例の女の子って奴からも話を聞かなきゃな!」
 ジープが街を抜け、海岸線を走り、ジャングルへ入ってホテルの前に到着した。


 屋上のプールサイドには爆発の痕跡がありありと残されていた。床材は抉れて一部はプールに達し、焼け焦げた跡が放射状に広がっている。レアとロビンはすぐそばでしゃがみ込んで、痕跡を見つめていた。その後ろでピケット大佐が腕組みして立っている格好だ。
「床材の破片は過去に戻らないんですかね?」
 ロビンが言うと「わかんねーな。生物だけ過去に戻すのかもしれん。でもそうなると服はどうなるんだ? って話になるよな」と言う。
「ピケット大佐、プールサイドの破片は調べました?」
 ロビンが訊ねた。
「ああ、すべて回収して爆発跡と照らし合わせた。全部揃っている」
「一部が過去に戻っていた、なんて可能性は?」
「破片の一部は屋上から飛んで階下の草むらへ落下していたものもあった。可能性だけならあるかもしれないが、ミスター・デッドダイブがプールサイドに出現して以来、この屋上で破片が発見されていないことを考えると破片が過去へタイムスリップした可能性は低いだろう」
「うーん、すると」レアは鼻の下を人差し指でさすって「やっぱよくわかんねぇな。ゼダー待ちだ」
「そうですねー」
 ロビンも同意する。
「大佐、女の子の話を聞きたい」
 レアは立ち上がって、ピケット大佐に要請する。それを予想していたのだろう、ピケット大佐もすぐに「キャサリンは302号室にいる」と答えた。


 キャサリン・ナノはどこからどう見ても恵まれた上流〜中流家庭にいそうな白人の、ブロンドの髪をした女の子だった。彼女はベッドの端に行儀よく座ってレアとロビンの二人を部屋に迎え入れた。部屋には彼女の他に世話役をしているらしい給仕の白人女性と、関係性のイマイチわからない白人の男がいた。
「あんた誰だ?」
 レアが男に訊ねる。
「俺はデビッド・サンドバーグ。連邦捜査官だ。人身売買の被害者を追って、この島に派遣されてきた」
 潜入捜査官の話はCIA経由で既に報告があった。なるほど、この男がそうなのか。レアは一瞥しただけで、視線をキャサリンに戻す。
「俺は名乗ったぞ、あんたらは何なんだ?」
 デビッドが面倒くさいことを言う。レアの方は無視したが、ロビンは営業スマイルで「私はロビン、こちらはレア。NSAの方から派遣されてきました」と対応した。
「さて、嬢ちゃん」
 レアはキャサリンの前でしゃがみこむ。
「知っていることを話してもらおうか?」
「私が知っているのは、パパがデッドダイブを殺そうとしていることよ。でもそんなことはして欲しくなかった。だから止めようとしたんだけど」
「パパの名前は?」
「わからない……」
「どこで暮らしていたの?」
「この島……でも最近は外の学校にいたの。バケーションで帰って来たのよ」
「大佐、彼女の出入国の記録は?」
 ロビンが訊ねる。
「戸籍上は職員の娘として登録されていた。偽造だ。記録上は二年前からイギリスへ渡航しているようだ。寄宿舎に暮らしているというのは本当らしい」
 ピケット大佐が答える。
「ホテルのシェルターにいたそうだが?」と、レア。
「どうやって入り込んだのか……」ピケット大佐はばつが悪そうに頭をかいた。「だが不可能ではない。シェルターの暗証番号さえ知っていれば」
「鍵は付いていないのですか?」
 今度はロビンが質問した。
「貴重品の入ったロッカーじゃないんだ。なかにあるのは災害用の非常食や飲料水、飲み物、発電機くらいだ。正直、私も使われるとは思っていなかったし」
「いつからシェルターにいた?」
 レアは質問の矛先をキャサリンへ向ける。
「昨日から。パパに連れられて。その前は別のシェルターにいた」
「ここにはパパも一緒にいた?」
 キャサリンは頷く。
「事前に潜伏していたわけだ。灯台下暗しだよ」と、ピケット大佐が独り言ちる。
「で、昨日はどうしてた?」
「パパがデッドダイブを殺そうとして、屋上に出かけて行ったの。私はパパを止めようとして、後からついていこうとしたけれど、ハッチが開かなくて」
「ミネラルウォーターの箱がハッチの上に置いてあったんだ」
 そう言ったのはデビッドだった。
「子供の力じゃ無理だ」
「やったのはパパか?」
 キャサリンは首を横に振った。
「違うと思う。私を閉じ込めようと思ったら、最初からここに連れてこなかっと思うわ」
「じゃあ、誰だ?」
「私です」
 皆の視線が、一斉に世話係の女性に集まった。
「あんたは?」
 レアが訊ねる。
「ミシェルだ。うちで働いている」
 ピケット大佐が説明したが、ミシェルは首を横に振った。
「私の名前はミシェルではありません。私の本当の名前はキャサリン・ナノ。デッドダイブ様を救うために、十六年前の過去へ爆発したのです」
 衝撃的な告白は、その場にいる全員の思考力を奪った。
「大佐、至急報告があります!」
 ホテルの扉がノックされる。
「え? ああ、何だ。入れ」
 ホテルのドアが開かれて、カーキ色の軍服を着た男がピケット大佐に敬礼をする。
「報告です。ジョニー・ボーイ曹長が営倉から脱走、発電所へ逃亡しました」


第十五話 発電所
 ジョニー・ボーイ曹長というのは数日前にホテル『シシリエンヌ』にて狼藉を働いた兵士らしい。彼の任務はラムダ78内の治安維持というのだから、実に皮肉な話だとレアは思った。彼はどういうわけか営倉を脱走し、発電所へ逃げ込んだという。
 この事件によって、ミシェルの衝撃的な告白は完全に棚上げとなった。ミシェルの話は後で聞けるが、ジョニー・ボーイ曹長は何をするか予測できない。どちらを先に対処すべきかは明らかだ。
「奴は荒巻デッドダイブを射殺しようとしたんだ!」
 ジープを運転しながらピケット大佐が説明した。レアとロビンは、先ほど彼女たちをホテルへ送ったジープに乗って、再び港町方面へとんぼ返りしようとしていた。
「どうしてそんなことしたんだ!」
 レアの質問にピケット大佐は「わからん!」と簡潔に答えた。
「だが奴は荒巻デッドダイブを諸悪の根源だと考えているそうだ!」
 ちょっと鋭いな、とレアは内心思った。ジョニー・ボーイ軍曹の気持ちもわからないでもない。修正局の中でも、たびたびデッドダイブこそが異常現象を起こす張本人ではないかという考え方をする人間は出てくる。
 というか、かつて修正局はデッドダイブを拘束して研究を行おうとしたこともあった。その結果は、あまり芳しいものでは無かった。捕まえたデッドダイブは、どこをどう検査しても普通の人間に過ぎなかったからだ。
 その内、デッドダイブを拘束する施設が何らかの理由で破壊されたり、襲撃を受けたり、その時々で異なるがとにかくデッドダイブは施設を抜け出して、次の事件を解決しに向かうのである。
 結論として、デッドダイブを拘束するのは割に合わない。修正局はそう結論した。結局のところ、デッドダイブとは物凄く奇妙な運を持った人間に過ぎない。宇宙に選ばれた殺し屋と言う異名は伊達ではなく真理である。
 ジープが発電所に到着した。駐留軍が発電所を包囲している。と言っても、発電所と街を隔てる壁の前にたむろしているようにしか見えなかったが。
「クロズビー中尉! 発電所に勤務する非戦闘員は退避させたか!」
 ジープを下りて、ピケット大佐が陣頭指揮を執る兵士にむかって訊ねる。島で働く人間は一時的にも基地の所属になるので、民間人ではなく非戦闘員という言い方になるのだろう。
「はい、残らず完了致しました。現在、ジョニー・ボーイ軍曹は旧棟に逃亡した模様。ハックマン大尉が包囲し、命令を待っています」
「了解したクロズビー中尉。君は引き続きここで見張りをしてくれ。私は中に入る」
 ピケット大佐はレアとロビンの方を見て「君たちはどうする?」
「もののついでだ、俺も行くぜ」
 レアは答える。レアが行くならロビンも頷く。
「しかし、ジョニー・ボーイ曹長はどうやって営倉から脱走したのでしょう?」
「今はそんなことどうだっていい。とっ捕まえて本人の尻でも叩いて訊け」
 レアが言うと、ピケット大佐も同意するように頷いた。
「三名入る」
 クロズビー中尉が無線に向かって言った。
「注意してください。ジョニー・ボーイ曹長は脱走時に見張りからサブマシンガンを奪取しました」
「分かった」
 ピケット大佐が言って、発電所のゲートへ向かう。レアとロビンもそれに続いた。


 発電所の中はコンクリート造りの四角い建物が立ち並ぶ、センスもへったくれも無い光景が広がっていた。ときおり、思い出したように建物の角に椰子の実が生えてはいるが、灰色の世界の中ではあまりに孤独に過ぎた。
 不意にレアは悪寒を感じた。何故だ、と天を仰ぎ見る。照り付ける日差し、それを反射する足元のコンクリート。暑いはずなのに。
「気分悪ィ」
 レアが言うと、「私も」とロビンも同意する。
「悪寒を感じるかね」ピケット大佐が言う。「ここに来る人間は全員そう言う。例のタキオニウムとかいう奴のせいかもしれん」
「なるほど」と、レアは納得して「ところで、旧棟っていうのは?」
 ラムダ78発電所は大まかに新棟と、旧棟に分かれていた。新棟というのは比較的最近出来た建物群で、現在も職員が働いている建物だ。旧棟というのは昔使われていた設備群で、発電所の北側に位置していて、老朽化を理由に立ち入りが禁じられている、とピケット大佐は説明した。
「おそらく、新棟は発電所としての建物だが、旧棟はタキオニウムの研究所なのだろう。老朽化が理由なら、予算は無いわけではないんだ、とっくに解体されている」
「旧棟は調べたのか?」
「いや」
「何故だ、仕事が遅いぞ」
「正体は分からないが、相手は周到な犯罪者だ。ブービートラップが仕掛けられている可能性がある。班の編成に時間がかかった」
 やがて建物を文字通り包囲する兵士たちが見えてくる。どうもジョニー・ボーイ軍曹はあそこに逃げ込んだらしい。
「ハックマン大尉!」
 ピケット大佐は軍用トラックの脇にいる金髪を刈り上げた男に呼びかけた。
「ジョニー・ボーイ曹長はここか!」
「イエッサー!」と、ハックマン大尉は答えた。
「中の様子はどうだ?」
「兵士を五十人動員して周囲を見張らせています。ドローンで屋上の空撮も行っています。内部の偵察も可能ですが、曹長を刺激したくないので現在は控えています。建物の見取り図は破棄されたのか見つかりませんでした。万が一に備えて地下の排水施設からの脱出を想定し、海上から応援を要請して火力発電所の排水溝を見張らせています」
 ハックマン大尉の対応は、レアから見ても完璧だった。
「結構だハックマン大尉。これより現場の指揮は私が執る。ハック大尉、ボディアーマーを用意しろ。三人分だ」
「彼女たちは?」と、ハックマン大尉
「彼女らはNSAから派遣された職員だ。先日起きた爆発事件の捜査に来ている」
「こうした状況の経験は?」
 ハックマン大尉が訊ねた。
「何度もしてきたよ」
「それは良かった」と、ピケット大佐。「我々はこういう事態は正直、不慣れだ。フォローしてくれると助かる」
「ボディアーマーです」
 ハックマン大尉がトラックから三人分のボディアーマーを持ってくる。レアはボディアーマーをスーツの上に着こんだ。ずっしりと重く、表面を叩くとコツコツと硬いセラミックプレートの感触がした。
「ハックマン大尉、ジョニー・ボーイ曹長から連絡は無いのか? 要求は?」
 レアが訊ねる。
「ありません」と、ハックマン大尉。
「ということはパニックになって逃げ込んだだけ?」と、ロビン。「でもどうして発電所なんでしょう? 先輩わかります?」
「わからん。本人に訊け。ピケット大佐、職員は全員、退避させたんだろう? 突入して制圧、拘束しちまえ。その方が手っ取り早い」
「それはそうなんだが、部下に怪我を負わせたくない。突入は最後の手段にしよう」と、ピケット大佐。
「じゃあ、どーすんだ?」
「私が中に入って説得する。ハックマン大尉、突入の準備をしろ。私が合図したら突入してくれ」
「イエッサー!」
「ちょっと無茶じゃないですかぁ?」
 ロビンが言った。
「どの道、ジョニー・ボーイ曹長がこの建物のどこにいるか突き止めなければならん」と、ピケット大佐が答える。「君たちも来るかね?」
「ああ、待つのは苦手でな」
「銃は?」
「持ってる」
「なら急ごう」


 発電所の入口は木の板で塞がれていた。かなり年月が経って変色し、脆くなり、そして元々そんなに厚くないせいか、ジョニー・ボーイ曹長によってあっけなく蹴破られていた。穴の向こうは真っ暗に見えた。ピケット大佐は懐中電灯を点けて、腰をかがめて穴の中へ入る。
「アリス・イン・ワンダーランドですね、先輩」
「うるせえぞロビン」
 レアとロビンのやり取りを無視して、ピケット大佐は建物の中に入る。レアも中に入る。埃っぽくてかび臭い。潔癖症の人間なら、マスクでもしているところだな、とレアは思った。
 外から見ると真っ暗に思えたが、入り口や、塞がれた窓の隙間から日差しが入って来て、見えない程では無かった。目が慣れてくれば、懐中電灯が無くても十分に動けるだろう。
 どう見てもエアコンが動いているように見えなかったが、内部は涼しかった。これもタキオニウムの仕業なのだろうか、とレアは考える。この際、よく分からないことは全部タキオニウムのせいにしよう。
「ジョニー・ボーイ曹長! 私だ! ピケットだ! どこにいる!」
 階段付近でピケット大佐が叫んだ。三人が耳を澄ます。返事はない。
「手分けして探そう」
 レアが提案する。
「大丈夫か?」と、ピケット大佐が心配する。
それに対して「こっちもプロだ」と返すレア。
「分かった。この建物は三階建てだ。私は三階、レア、君は二階を頼む。ロビンくん、君は一階だ。ジョニー・ボーイ曹長を見つけたら大声で知らせてくれ」
「分かった。鼓膜破れる勢いで叫んでやるよ」
 ピケット大佐は階段を上り始める。
「先輩」
「何だ?」
「どうして皆さん、ジョニー・ボーイ曹長をフルネームで呼ぶんでしょうか?」
 レアは少し考えて「わからん、おそらくタキオニウムのせいだろう」と答えた。


 二階へ辿り着くと、レアは改めて自分の持っているオートマチックピストルのスライドを引いて薬室に初弾が装填されていることを確認する。
 まったく面倒なことになったぜ。
 そう思いながらあらためて拳銃を構え直し、通路を進む。
「おらっ、ジョニー・ボーイ。いたら返事をしやがれ!」
 レアが怒鳴るが、返事はない。
 そうだよね、返事しないよね、わかってたよ。
 はぁ、とため息をつく。こうなったら、手当たり次第に部屋を調べるしかない。
レアはまず手近な部屋を調べることにした。ドアは開かれていて、中はテーブルと、古いタイプの電話がコードをグルグル巻きにされて放置されているだけだ。ジョニー・ボーイ曹長はいない。
 二番目の部屋は扉が閉まっていた。中に入る。ジョニー・ボーイはいない。
 三番目の部屋に入る。ジョニー・ボーイはいない。
 四番目の部屋に入る。ジョニー・ボーイはいない。他の階にいるのか? とレアは思い始める。
 五番目の部屋に入る。ジョニー・ボーイはいない。だんだん飽きて来た。
 六番目の部屋に入る。男がいた。
「うわっ!」
 レアが驚くと、部屋の中の男も驚いたようで「ひええええ!」と情けない声を上げてレアへサブマシンガンの銃口を向けた。
「やめろ! バカバカバカ!」
 とっさにレアは通路へ戻って、通路の床へ飛び込むように身を伏せた。直後に部屋の中からズガガガとサブマシンガンの弾が飛び出してくる。
 弾丸が壁のコンクリートを抉って破片をまき散らす。レアは必死に床を這いつくばってその場を離れ、尻を床につけたまま部屋の入口へ向けて銃を構えた。銃声は止んだ。
「レア!」
 ピケット大佐が階段を下りてこちらに向かってくる。
「ジョニー・ボーイを見つけた! あの部屋だ!」
「怪我は?」と、ピケット大佐がレアを助け起こす。
「ねぇよんなもん」
 そう言いつつ、体をよく調べる。アドレナリンの影響で撃たれても痛みを感じないということはよくあった。大丈夫だ。かすり傷も無い。手の指もちゃんと十本ある。
「先輩、生きてますか!」
 ロビンも遅れて合流した。
「生きてるよ」
「ジョニー・ボーイ曹長!」
 ピケット大佐が部屋の入り口近くの壁に背中を張り付けて言う。
「私だ、ピケットだ! 銃を床に置いて部屋から出てこい! 今ならまだ穏便に済む!」
 三人はジョニー・ボーイ曹長の返事を待つ。
「大佐」ジョニー・ボーイ曹長が言う。「あの日本人はどうなりましたか? 逮捕しましたか?」
「荒巻デッドダイブは死んだ」ピケット大佐が答える。「事件はもう終わったんだ。いったいお前は何をしているんだ?」
「終わってません」
 ジョニー・ボーイ曹長が言った。
 ピケット大佐は意を決したように部屋の中へ入る。レアとロビンも銃を構えて後に続いた。
 部屋の中ではジョニー・ボーイ曹長がサブマシンガンを持ったまま、窓を背にぼんやりと立っていた。部屋は小部屋で、隅にさび付いたキャビネットと、床にネジやらゴムの切れ端があるばかりで、あとはさっぱりと片づけられていた。
「ジョニー・ボーイ曹長、銃を床に捨てろ。ゆっくりとだ」
 ピケット怠惰が噛んで含めるように話しかける。
「大佐」と、ジョニー・ボーイが言う。
「僕は天使の羽ばたきなんて見たくない」
 ジョニー・ボーイ曹長が三人に銃口を向けると同時に、ピケット大佐の拳銃が火を噴いた。
 銃弾はジョニー・ボーイ曹長の首筋に命中し、彼は動脈からピューと血を迸らせ、糸の切れた操り人形のように倒れた。
「曹長!」
 ピケット大佐が慌てて駆けよる。
「すまない! 肩に当てようとしたんだ!」
そう言ってピケット大佐はジョニー・ボーイ曹長の首筋を手で押さえた。無駄なのは誰の目にも明らかだった。すぐにピケット大佐の両手は血で赤く染まり、流れる血は平の床の上に放射状に広がっていった。


第十六話 ゼダー博士、上陸する
 ロビンとレアは諸々の後始末をするというピケット大佐をその場に残して、ひとまず兵士の一人が運転するジープに乗って、ホテル『シシリエンヌ』への帰途についていた。
 ジープの天井は開け放たれていた。時刻はいつの間にか午後五時を回り、空は朱に染まり始めている。
ロビンは空を見た。青とピンクと紅のグラデーションが素晴らしかった。ただ今はジョニー・ボーイ曹長の首筋を流れる血を連想させた。ジープは海岸線をひた走る。誰も口を開こうとしない。
道路が濡れていた。そう言えば、ジョニー・ボーイ曹長の遺体が運び出される途中でスコールが降っていたな、とロビンは思い出した。
シャワーを浴びて、ベッドに突っ伏して休みたい。
不謹慎かもしれないが、それがロビンの率直な感想だ。
あと何かやることあったっけ? ああ、そうだ。ミシェルとかいうホテルの従業員が、あのキャサリンという女の子のタイムトラベル後の姿だっけ? 何だかどうでもよくなってきたけど、先輩のことだからこのあとすぐに聴取するんだろうな。もう明日じゃダメかな。だって午後五時だよ? 定時だよ? でもやっぱ駄目だろうな。午後八時に起きるとして、その間、十二時間くらい何してるんだって話だもんね。せめて夕食の後とかじゃダメなのかな。何なら食事しながら話そうよ。
そんなことを考えている間にホテルへ辿り着く。
「このあとどうします? あのミシェルとかいう従業員の話を聞くんですか?」
 ジープを下りて、ロビンが訊ねると「当たり前だろ? 他に何やるって言うんだよ」とレアは言った。
 シャワー浴びて、着替えて、ベッドに寝転んでインスタのタイムラインチェック、それから夕食を食べて、寝る。
 ロビンの脳裏に五つの項目が上がったが、それらを無視して「そうですね」と答えた。
 送迎の兵士にお礼を言って、ホテルへ入る。
「ハロー」
 するとロビーには金髪の白人男性がソファーに座って、二人に声をかけた。髪は鳥の巣みたいにもじゃもじゃで、丸い淵の眼鏡をかけ、あごには無精ひげ。地下にでも監禁されていたかのような青白い肌に、痩せた手足をしている。服装は黄色いアロハシャツに下は青い短パン、足は緑のサンダルを履いていた。そして今日は何だかいつにもまして顔色が悪い。
 彼こそアーネスト・ウィリアム・レオナルド・ゼダー、NSA修正課リサーチ部門主任研究員である。
「ゼダー! ゼダーじゃねぇか! そうだ、お前のこと忘れてたぜ!」
 レアはゼダーに駆けよった。
「何だその服は?」
「何だって、南の島だよ? 僕だってね、こういう格好しますよ」
「アハハハハ!」
 何がおかしいのか、レアはゼダー博士の方をパンパンと叩いた。
「お疲れ様です博士」と、ロビン。「何だか顔色が悪そうですが?」
「船酔いだよ」ゼダー博士はそう言って生あくびをする。「こんなことなら、時間がかかっても飛行機を使うんだった」
「本来なら休暇だったのに、災難ですね」
 ロビンが同情すると「いや、別に大丈夫だよ」とゼダー博士は眼鏡を直した。
「オーストラリアで何やってたんだよ? ビーチで日焼けしたようにも見えねぇが」
「確かにビーチでのんびりしようかと思ったけど、人が多いし、何だか恥ずかしくなってやめちゃった。バーでも行こうかと思ったけど、ほら、僕、お酒も飲めないし。だから初日で色々なところを見回った後は、ずっとホテルで勉強してたよ」
「なんだそりゃ。お前、何でオーストラリア来たんだよ」
「環境が変わると勉強も捗るのさ」
「そんな悲惨な南の島の過ごし方なんて聞いたことねぇぞ」
 レアが呆れる。さすがのロビンもこれには同意せざるを得ない。
「仕事してた方がマシですね」
「ロビンもひどいな。人それぞれだろ」
「あ、仕事で思い出した。俺たちこれからタイムトラベルした女の聴取するけど、お前どうする?」
「タイムトラベル? それすごい興味深いです!」
 ゼダー博士は急に元気になって立ち上がった。

 ミシェルについてロビーにいるセバスチャンにたずねたところ、この時間は厨房でスーザン副支配人の手伝いをしているのだという。
「もう少しで区切りがつくそうです」
「しゃーねーな」と、レア。
「ところで聴取はどちらで?」
「別にどこでもいい。さっきの部屋は」
「キャサリン様がお休みになられているので、ご勘弁を」
「そうか、だったら食堂でいいや。何か飲みながら待たせてもらうわ。ミシェルにもそう言っといて」
「了解致しました。お飲み物は何がよろしいでしょうか?」
「何があるの?」
「大抵のものはありますよ」
「じゃあ、ビール」と、レア。
「アイスコーヒー」と、ロビン。
「僕はコーラをお願いします。ダイエットじゃないやつ」
「承知いたしました。ビールの銘柄は何になさいます?」
「何でもいいけど、おすすめは?」
「コロナビールです。ライムと天然塩のサービスが付いております」
「じゃあ、それで」
 三人は食堂へ向かう。テラスの側、四人のテーブル席にレアとロビンが隣同士で座り、ゼダー博士が対面に座った。
「仕事中にビールですか?」
 ロビンが小言を言った。
「一杯ぐらいじゃビールとは言わねぇよ」と、レアは言う。「二杯目からようやくビールになり、三杯目で正気を失い、四杯目でヤケになり、五杯目で意識を失う。それがビールだ」
「何を言っているかわからんちん」
 ロビンが感想した。
「お待たせしました」
 セバスチャンが三人分の飲み物を運んで来る。


 厨房の仕事に区切りがついたのか、ようやくミシェルがやってきた。
「おーい、ミシェル! こっちこっち!」
 まるで友達でも呼ぶみたいにレアが手を振る。
「みなさん、どうも」
 ミシェルはテーブルに近づいて、ゼダー博士を見る。
「こいつはゼダーだ」と、レアが紹介する。「うちの主任研究員だ」
「レオナルド・ゼダーです。専門は境界科学」
「はぁ」
 ゼダーと握手を交わして、ミシェルは彼の隣に座った。
「んで、あんた、タイムトラベラーでキャサリンと同一人物なんだって?」
「あ、はい」
「なんでタイムトラベルしたの?」
「荒巻デッドダイブを助けるためです」
「なんで荒巻デッドダイブを助けるの?」
「おそらく彼が、この異常事態を何とか出来ると思うからです。何かよくわからない力で」
「ミシェルさん」と、ロビン。「我々は引き続き対象を捜索していますが、事件は既に終わっています。荒巻デッドダイブは殺害され、犯人は過去へ逃げ去りました。これ以上、何が起こるんですか?」
「わかりません」ミシェルは首を横に振った。「しかし父は、荒巻デッドダイブの存在を非常に恐れていました。出なければさっさとタイムトラベルで過去に向かったはずです」
「父親についてどこまで知っている?」
「正直、ほとんど何も知りません」
 やはりミシェルは首を横に振る。
「ただ、昔一度だけ過去に戻る理由を話してくれました。死んだ家族を救いたい、と」
「あの」
 ゼダー博士がおずおずと話しかけた。
「どうやって、タイムトラベルするんですか? 今もタイムトラベルが可能なのですか?」
「詳しい原理は分かりませんが」と、ミシェルは前置きして「タイムトラベルは爆発です。体に爆弾を埋め込んで、爆発させるとタイムトラベルできます」
「でも爆発すると死んじゃうでしょ?」
 ロビンがもっともなことを言った。
「いや、タキオニウムは時間を逆行させる性質がある。爆発の影響でエネルギー準位が励起される過程で時間逆行現象により、爆発した体が再生されるのかもしれない。それなら逆行の範囲外にいる荒巻デッドダイブが爆死した理由にも説明が付く」
 いや仮設の段階だけどね、と弁明するように言ってゼダー博士はコーラを飲んだ。
「キャサリン、いやあんたもキャサリンなんだろうけど……ああ! ややこしいな!」
 レアは頭をかいて「どうしてキャサリンをシェルターに閉じ込めた?」
「荒巻デッドダイブを救うためです」
「それとキャサリンを閉じ込めることがどうつながる?」
「前回、私のときは私は父と一緒に屋上で荒巻デッドダイブと対峙しました。荒巻デッドダイブは私の爆発を阻止しようとして、父ともみ合いになり、私をプールへ突き飛ばした直後に父の爆発に巻き込まれてしまったのです」
「今回と展開が違うな。これっていわゆるタイムパラドックスじゃないのか? ゼダー!」
「いや、まだタイムパラドックスは起きていません。経緯は異なりますが、矛盾はしていない」
「私もそれが気になっています」と、ミシェル。「前回、このホテルにはミシェルではなくアンジェラという人が働いていました。当然、未来の私ではありません」
「ふーむ」
 ゼダー博士が唸る。
「ゼダー博士? 何か意見あります?」
 ロビンがゼダー博士の意見を促すが「いや、今は何も」と彼は首を横に振った。
「ただ明日、ピケット大佐にお願いして簡単な実験をする。それで分かるかもしれない」
「何が分かるんだ?」と、レア。
「分からない。今はまだ、何も」
 そう言ってゼダー博士はグラスに入った、溶けかけの氷を見つめた。
「あっ」ミシェルは時計を見て「もうすぐ夕食の時間になります。失礼してもよろしいですか?」
「構わない」とレア。「またなんかあったら呼ぶよ。今は腹が減った」
 それにはロビンも同意する。
 夕食は前菜にシーザーサラダ、カボチャのスープ、エビと貝のブイヤベース、赤いソース(食材がイマイチ分からないがおいしい)のかかった鴨のステーキ、すっごく美味しいロールパン、デザートに程よく甘すぎないオレンジのジェラートに、ティラミスが出た。
「うめぇ、うめぇ」
 レアは感動したように鴨のステーキを食べる。
「いや、本当においしいですね。俺はこのブイヤベースが気に入ってます」
 いつの間にかデビッドが隣のテーブルからしれっと話しかけて来た。
「何か御用ですか?」
「ええ、お話ししたいことがありまして。話そう話そうと思っても、色々あって話せなくて」
「早く話せ」と、レア。
「実はこの島で取引された子供、あと一人いるんですよ」
「ああ、そう」とそっけない返事をするレア。
「興味ないんですか?」
 デビッドが多少、憤慨したように言った。
「今、食ってるから。食ってから深刻になるわ」
 レアが言うと「そうですね」とデビッドが同意する。
 同意しちゃったよ、この人。
 箸休めにロールパンをモグモグと食べながらロビンは思った。


 結局、特段深刻になることもなくロビンは部屋に戻り、シャワーを浴び、着替えて、インスタグラムをチェックし、YOUTUBEでお気に入りのゲーム実況動画を見ながら床についた。
 今日も色々なことがあったなぁ、と目を閉じる。
 夕ご飯おいしかったな。あの分だと朝ごはんも期待できそう。
 写真を撮ってインスタにアップしたいところだが、仕事中はSNSの利用が禁じられていた。情報流出を避けるためだ。
 あーもったいない、もったいない。もったいないお婆ちゃんだよ全く―――。


 不意にピアノの音が聞こえて、ロビンは暗い部屋の中で目を覚ます。しばらくベッドの中で耳を澄ます。何も聞こえない。
 幻聴かな?
 そう思った矢先に再び音が聞こえた。音は形を成し、リズムをとり、音楽へと変わる。いい曲だ。
「でもうるさい」
 今、夜中の何時だと思っているんだ。こういう近所迷惑を顧みない輩が、人より抜きんでた腕前を持つというのは正義の名のもとに許されるべきではない。チートだチート。態度によっては、拳銃で利き手の小指を、付け根から吹き飛ばすことも考えねばなるまい。
「まったく」
 ロビンはナイトスタンドを点けようとしたが、点かない。停電だろうか。
何でもいい。
スマートフォンのライトで、上着と拳銃のホルスターを腰に巻き、ピアノの音が聞こえる上の方を目指す。そう言えば、屋上のプールバーにピアノが設置されていたことをロビンは思い出す。音の発信源はそこだろうか。
ロビンの泊まっている部屋は二階だった。屋上は五階建ての上だったが、停電しているとなれば、エレベーターは動かないだろう。階段で上がる。音楽はまだ続いていた。
ふと、どうして他の客や従業員は見に行かないのだろうとロビンは考える。二階まで音が届くとなればかなりの音量だ。それとも今頃、レアあたりが利き手の小指を吹き飛ばしているのかもしれない。いや、音楽が続いていることを考えるとそれはないだろう。
あるいは、みんな屋上でゲリラコンサートに聞き入っているか、それとも眠りが随分深いかだ。
ロビンは屋上へ上がった。星空がきれいだ。風が吹く。いくら南国のジャングルとはいえ、夜風は少し冷たかった。
ピアノの音は相変わらず響いている。ロビンはプールを回り込んで、プールバーへ近づく。ピアノに誰かが座っているのが見えた。
「うるさいよ!」
 ロビンはプールバーに乗り込みながら怒鳴った。
「いい曲だけど、何時だと思ってるのバカチン!」
 ピアノを弾いていたのは、白髪のおじいさんだった。丸っこい頭は後頭部を残して剥げていて、カイゼル髭を生やしていた。おじいさんはロビンを見ると目を丸くして驚き、ピアノを弾く手を止めた。
「失礼、お嬢さん」と、おじいさんはフランス語で言う。「まさか誰かが聴いているとは思わなくて」
「あんた誰?」と、ロビンはフランス語で訊ねた。
「ガブリエル・ユルバン・フォーレ」と、おじいさんは答えた。「君は?」
「ロビン・ボーン」
「イギリス人かな?」
「アメリカ人よ、ガブリエルさん。あなた、ここの宿泊客なの?」
「いや」
 ガブリエルは首を横に振った。
「不法侵入?」
「わからない。そうかもしれない。いつの間にかここにいた」
「いつの間にって、そんなことある?」
「あるかもしれない。だって私は死んでいるのだからね」
「私は生きているわ」
「狭間の世界だよ。このホテルは、生きている人間の世界と、死んだ人間の世界の境界がとても薄いんだろう」
「もう何でもいいわ。もうピアノ弾かないで。私、今から帰って寝るから」
「その前にあの子を何とかした方がいい、ボーンくん」
 ガブリエルがプールサイドを指さすと、八歳くらいの女の子が後ろを向いて、しゃがみこんでいるのが見えた。
 キャサリン?
 そう思ったが髪の色が違う。黒だ。それに髪型も違う。服も白いトレーナーにジーンズを履いていた。常夏のジャングルに似つかわしくない。
「あの子は―――」
 誰? とロビンはガブリエルに訊こうとしたが、彼はピアノの席から忽然と姿を消していた。
 仕方なく、ロビンはプールサイドの子供の下へ向かう。
「荒巻デッドダイブが死んだの」
 女の子は言った。
「知ってる」と、ロビンは答える。「あなたはデッドダイブの友達?」
「遠い昔の思い出よ」と、女の子が言う。「もう天使の羽ばたきが見える人はいないわ。このままでは、誰も真実にたどり着くことはない」
「あなたは?」
 女の子が振り返る。その顔には何もなかった。目も鼻も口も無い、のっぺらぼうだった。


 気が付くとロビンは朝日が降り注ぐベッドで、汗だくで目覚めていた。下着どころか、パジャマまで水を被った様に濡れていた。ナイトテーブルの電話が鳴る。受話器を取った。汗が受話器の表面を玉となった。
「おはようございます、ロビン様」
 セバスチャンの声だった。
「朝食の準備が整っております。一階までお越しください」


第十七話 ラムダ78の秘密
 ピケット大佐はホテル『シシリエンヌ』の屋上から、島中央の山を掠めるように飛ぶOH‐58D偵察ヘリの様子を見守っていた。偵察ヘリは赤外線光学装置を用いて、島全体の温度を測定している。ラムダ78は今日も快晴だった。いくら温度を測定できると言っても、正確性は期待出来ないだろう。偵察ヘリに搭載された赤外線光学装置は、温度の測定ではなく敵を探すためのものだ。
「正確な温度を計りたいわけではありません」と、ゼダーは言った。彼はピケット大佐の疑問に答えながら、テーブルの上に広げたノートにペンを走らせていた。傍らにはタブレットの端末があった。ゼダー博士は慣れた手つきでタブレットを操作しつつ、数字をノートに書き込んでいく。
「あの山とそれ以外の温度の違いがどれくらいあるのかを知りたい」
「何故?」と、ピケット大佐は訊ねた。「それと感光させたガラスバッジを付けて、兵士を島中歩かせているのもどうしてだ?」
「ふむ」
 ゼダー博士は左手でパチン、と指を弾いて椅子から立ち上がった。
「隠していても仕方がない。結論から言おうピケット大佐、この島はいずれ爆発する。この実験は、それを立証するためのものだ」
「何だって?」
 ゼダー博士はピケット大佐の脇を通り過ぎて、屋上の四方を囲む鉄製の柵の前に立った。
「天然原子炉を知っていますか? ピケット大佐」
「いや」
「核燃料に中性子を当てると、核燃料は熱と共に核分裂を起こし、同時に中性子を放射する。その中性子がまた違う核燃料に命中し、また核分裂を起こし、また中性子を放射する。その連続したサイクルが連鎖反応です。これを兵器に応用したのが原子爆弾、そして熱エネルギーとして利用するのが原子炉というわけだ」
「それが自然に発生するというのかね?」
「正確には発生した。アフリカのガボン共和国のオクロには、実際に天然原子炉が存在した。たまたまそこには、核分裂性同位体ウラン235が、3%の割合で核分裂を起こさないウラン238に含まれていた。そこに染み込んだ雨水が、中性子減速材として働き、臨界状態に至った。中性子は減速すれば核燃料に命中する確率が高くなりますからね」
「オクロは今も天然原子炉として稼働しているのかね?」
「いえ、とっくに核燃料としては崩壊して安定しています。既にこの地球上に存在する天然のウラン238は半減期による崩壊で、0.72%しか存在していません。天然原子炉は地球上から姿を消したと見ていい」
「それとラムダ78はどう関係してくるのかね?」
「タキオニウムの振る舞いは、通常の放射性物質とは逆の振る舞いをする。通常、放射性元素は崩壊と共に放射線や熱を発して安定状態になるけど、タキオニウムは放射線を吸収して安定状態になる。タキオニウムが物質を過去に飛ばす性質を持っているのを見る限り、これは一種の、時間逆行へ現象の現れじゃないかと思います。発電所に残された研究記録を見る限り、米国政府はタイムトラベルだけではなく放射線の治療にも利用していた節があります」
 ゼダー博士は柵から手を放して、手を揉み合わせる。
「タキオニウム、非常に面白い物質だ。原子番号に虚数を当てたのは正しい。物質的に虚数だから不安定、だからエネルギーを吸収して実存的な存在に至ろうとするも安定化すると虚数からマイナスの存在になる。だから時間軸に対して遡る動きをして、その過程で再び崩壊を起こして虚数に至る。とある時間軸を永遠にループする。その時間軸以外には存在しない、面白い物質だ。ちなみに僕の考えでは、タキオニウムで過去に飛ぶと重力の方向を軸にタイムトラベルした物質は百八十度回転して出現する。あなたと荒巻デッドダイブが目撃した島の裏側、もう一つのシシリエンヌはおそらく、過去のシシリエンヌであり、同時に未来のシシリエンヌでもある」
「つまりだ、ゼダー博士」ピケット大佐は腰に手を当てて「君はラムダ78全体が爆発して過去へタイムトラベルすると言いたいのかね?」
「お、分かってきましたね大佐。僕の予想だと、あの山。えーと、名前はなんでしたか」
「名前はない」
 ラムダ78にある山は中央にそびえる一つしかなかった。だからここでは山の一言で通じた。
「資料によれば、ラムダ78はあの山から採掘された。そしてこの島に定期的に降るというスコール。祈りの雨、でしたっけ? 恐らくタキオニウムが降り注ぐ自然放射線を熱と共に少しずつ吸収した結果、局所的に空気が冷やされて起こる現象だと思います。ああ、なるほど。通常、水分は中性子減速材として機能するけれど、タキオニウムの場合は反応を逆に阻害するかも。まぁ、とにかく僕の予想だとあの山は素人にも分かるぐらいに周辺温度が低いと考えています」
「感光したガラスバッジを付けて歩かせれば、ガラスバッジの変化の大きさから埋蔵するタキオニウムの量を判別できる………」
「そう、その通り」
「ゼダー博士、この島に残された時間はあとどれくらいだ」
「それは僕も知りたいね」
 実験の結果は午前中に出た。
 ゼダー博士の推論は、全て的中していた。


 ラムダ78がいずれ爆発して吹き飛ぶ―――そして過去へ還っていくというゼダー博士の仮説を聞いてピケット大佐は駐留基地司令部へ文字通り飛んで帰った。偵察ヘリをシシリエンヌの屋上に呼び寄せたのだ。
もちろん、屋上にはヘリポートなんてないし、それだけの広さも無かった。偵察ヘリはプールの水面すれすれを滞空して、ピケット大佐を回収した。操縦士は中々の腕だな、とゼダー博士は思った。
 ゼダー博士の方でも、NSAへ向けて仮説を報告する義務があった。政府の根回しがあれば、ラムダ78から住民を避難させるのもスムーズに運ぶかもしれない。現在のラムダ78の総人口は分からないが、この基地が保有する駆逐艦や船だけで民間人を退避させるのは現実的でない。政府からの応援が必要だ。あるいはオーストラリアやパプアニューギニア独立国の協力も必要だろう。
 同様の知らせをゼダー博士はレア、ロビン、そしてデビッドにも行った。四人はすぐにゼダー博士の部屋へ集合した。
「この島はいつ爆発する?」
 腕組みしてレアが訊ねた。
「わかりません」と、ゼダー博士は答える。「数時間後かもしれないし、明日かもしれない。あるいは百年後かも」
「ラムダ78が爆発した場合」今度はロビンが質問した。「どれくらい過去にタイムトラベルするんですか? 別に一時間前とかなら別にいいかとも思いますが」
「いや、そんなに近い過去ではないと思う」
 そう口を挟んだのはデビッドだった。
「素人考えだが、ラムダ78が一時間前にタイムトラベルすれば、そこには一時間前のラムダ78が存在する。二つのラムダ78が、同じ座標に出現したとすると核融合が起きて本当に跡形もなく吹き飛ぶし、そうなると我々がいるラムダ78は何だという話になる。タイムパラドックスだ」
「じゃあ、どれくらいだ? この島はいつからある?」と、レア。
「一万二千年前からです」と、ゼダー博士は答えた。「現存するタキオニウム研究資料に記載された、かつて裏側に存在するシシリエンヌの建材の一部を放射性炭素年代測定にかけた結果です」
「一万二千年……」と、ロビンが思わず口を押える。
「だいたい新生代第四紀更新世から完新世にかけての時代だな」
 デビッドの言葉に、他の三人が注目した。
「地質学は得意だったんだ」と、デビッドは照れ臭そうに答える。
「恐竜はとっくに絶滅して、人類もいる時代です」
 ゼダー博士はため息をつく。
「快適そうだな」と、レア。
「何とかならないんですか?」ロビンが言った。「原子力発電所みたいに、反応を制御する仕組みを応用するとか」
「原発の制御棒は中性子をコントロールして、反応を抑制します」ゼダー博士が言った。「同じことがタキオニウムに当てはまるとは限らない。よしんば、それが有効だとしてもラムダ78のそれとは規模が違う。この島の中央にある山、あれそのものが巨大な原子炉みたいなものです。制御棒の数も膨大になるし、それを打ち込む作業にしたって何ヵ月、いや何年かかるか分からない」
 ゼダー博士の答えに、ロビンは肩を落とす。
「あのさ」
 デビッドが口を挟む。
「あまり関係ないことかもしれないが……」
「なんだ?」と、レア。
「この島は何回タイムトラベルしたんだ? この島の裏側に前回の――この表現が適切か分からないが、シシリエンヌがあるわけだろう? つまり最低一回はタイムトラベルが行われたことになる」
「二回だ」レアが言った。「残された記録によれば、こちら側にも既に建物施設の基礎部分は残っていたらしい」
「つまりこの島には前回も私たちがいて、同じようなことを相談していたんですねぇ」
 ロビンはしみじみと言ったが「いや、それはどうでしょう?」とゼダー博士は疑問を呈す。
「考えてみてください。我々はどうしてここへ来たんでしょうか?」
「そりゃタキオニウムが発見されたからだろう。そしてそれを悪用する輩がいるからだ」
 レアが答えた。最も、その悪用する輩は既に過去へ消えた。警察を始めとしたあらゆる機関に、あらゆる角度から捜索を要請しているが何の手掛かりも無い。これに関して当然だろうとレアは思う。証拠や痕跡は時間によって風化していくものだ。相手が追跡を想定しているならなおさらだ。
「では、そいつがどうしてタキオニウムを使っているとわかったのですか?」
 ゼダー博士は質問を続ける。
「荒巻デッドダイブにそう言ったからだ」と、デビッド。
「では、荒巻デッドダイブはどうしてこの島に来たのでしょう?」
「わからない」レアが言う。「ピケット大佐が言うには、電話で指示されたらしい」
「僕はこう考えます」ゼダー博士は言った。「おそらく、元々荒巻デッドダイブはこの島に来るはずでは無かった。でも、誰かが何らかの形で悲劇を知って助けを求めた。最初のタイムトラベルでは、タキオニウムの存在は既に忘れ去られていた。我々が来ることも無く、住民はある日突然、一万二千年前の過去に飛ばされた」
「でも、それは変だ」
 デビッドが言う。
「過去を改変すると、さっきも言ったようにタイムパラドックスが起きるんじゃないか?」
「いえ、起きません」ゼダー博士はきっぱりと答えた。「ラムダ78から見れば、全ての出来事は連続していて矛盾はない。この島が現在から一万年の間でループしている限りは、この島で何が起きようが、それは古いセーブデータをロードしてやり直すのと一緒で、関係のないことです。今ループと言いましたが、どちらかというと螺旋構造に近い。実際に回転していますしね」
「じゃあ、荒巻デッドダイブじゃないが、俺たちがここに来た意味ってのは、ラムダ78の住民を助けるためで、目的は既に達したということか?」
 レアが言ったが、ゼダー博士は首を横に振った。
「わかりません。もしかすると、ここまで予定通りなのかもしれない。我々はまだ危機を脱しておらず、次の瞬間に一万二千年前に飛ばされないとも限らない」
「どうにかならないのか」デビッドが腰に手を当てていった。「手の打ちようがないなら、こうして議論するより一名でもこの島から脱出させた方がいい。それともゼダー博士、あなたにはこの事態を根本的に解決できる考えがあるのか?」
 ゼダー博士はよくぞ聞いてくれた、とばかりに眼鏡を直した。
「放射能を持つ元素は、放射性崩壊を起こして他の元素に変わっていきます。その崩壊は一定の確率で起きます。半減期はそうした確率……崩壊定数を含めて数学的に算出されます。タキオニウムも同様の手法で計算が可能でしょうが、サンプルデータは消失しています。ですから、爆発時期が現在、予測できないのです。タキオニウムは放射性元素の逆の振る舞いをするから、半減期と言うよりは全回復期というべきなのでしょうが」
「ていうことは何?」ロビンが言う。「運が良ければ爆発しないってこと?」
「極端な話をすればそうです」
 ゼダー博士は頷いた。
「しかし、それは宝くじの一等に十回続けて当選する以上に、極端な確率の偏りになるでしょうが」
「それが出来る人間を、俺は知っている」
 レアが言った。
「僕もです」
 ゼダーも頷く。
「誰だ?」
「誰です?」
 デビッドとロビンが首を傾げる。
「荒巻デッドダイブ」ゼダーは言った。
「宇宙に選ばれた殺し屋」


第十八話 未来への爆発

「馬鹿な」
 デビッドが言った。
「荒巻デッドダイブは死んだんだぞ」
「我々の時間軸ではそう見えるだけです」と、ゼダー博士が言う。「我々には手段がある。タキオニウムを使って時間を遡り、荒巻デッドダイブを死から救う」
「つまり」デビッドは両手で顔をこすって「過去を書き換えるってことか?」
「そうです」
「しかし今から、なんだ。時間を遡る爆弾、時間爆弾とでもいうのか? それを製造することは可能なのか? ノウハウは?」
「俺たちはそれを出来る人間を知っている」
 レアが腕組みして言った。
「誰だ? いや、まさか」デビッドは狼狽して「キャサリンを爆発させて荒巻デッドダイブを助けに行かせるのか?」
「他に選択肢はない」
 レアは言う。ロビンは黙ったままだ。
「待て待て、それは許されないぞ! 子供にそんなことをさせるなんて、どうかしてる! 荒巻デッドダイブが蘇ったとして、島の住民の安全が保障される確証も無い! どう考えたって無茶だし危険すぎるだろう!」
「しかし彼女は前の時間軸でそれを実行している」と、ゼダー博士。
「それは失敗しただろう!」
「前回とは状況が違う。彼女は屋上に現れず、犯人が爆発した」
「だから?」
「爆発する瞬間にタイムトラベルして、彼を爆発の効果圏外までどうにか退避させれば、彼を生き延びさせることが出来る」
「言うのは簡単だが、どうやって荒巻デッドダイブを退避させるんだ。キャサリンは子供だ、デッドダイブを突き飛ばすことも出来ないだろう」
「私が同行するのはどうでしょう?」
 ロビンがおずおずと手を上げた。
「私ならデッドダイブさんを突き飛ばして、何とか助けることが出来るかもしれません」
 レアが何か言おうとするように口を開きかけて、やはり腕を組んで黙る。
「待ってくれ」デビッドが言う。「それなら俺だって―――」
「この件は連邦捜査官である、あなたの業務範囲を越えている。私たちに任せて下さい」
「島が吹き飛んで、ここにいる全員がマンモスのいる世界に飛ばされるかもしれないんだ。業務範囲もクソもないだろ」
「それより、まずはキャサリンの意見も聞いてみましょう」
 ゼダー博士が言った。
「実際に、どの程度の精度でタイムトラベルが可能なのかも知りたい。誰かを同行させることが可能なのか、可能だとしてリスクがあるのか、ないのか。その上で議論を進めましょう」
 誰もゼダー博士に反論は無かった。四人はすぐにキャサリンの部屋へ向かった。



 正体が発覚して以降、キャサリンはホテルの五階、501号室で実質、監禁状態にされていた。彼女の世話をしているのは、大人になった彼女自身、ミシェルだ。
閉じ込められて辛いだろうな、とゼダー博士は同情したが、考えてみるとこの島に来て以降、ずっと彼女は狭い場所に閉じ込められていた。ホテルのシェルターだ。彼女の人生は、鳥かごの中に閉じ込められた鳥のようなものなのだろう。現に彼女は人身売買組織に金で買われた身である。
そんなキャサリンに、タイムトラベルで荒巻デッドダイブを救えと言う。我ながら人道無視もいいところだ、とゼダー博士は自嘲した。
 キャサリンの部屋をノックすると、ミシェルが出迎える。
「キャサリンは?」と、レア。
「ベランダの方です」
 四人がぞろぞろと部屋に入ると、キャサリンはベランダのテーブルで、椅子に座って本を読んでいた。ゼダー博士たちに気が付くと、本を読んで椅子から立ち上がる、というより足の長い椅子だから飛び降りたというのが正確だろう。
「キャサリン」ゼダー博士は言う。「荒巻デッドダイブを助けたい。君の力が必要だ」
「わかった」
「荒巻デッドダイブが爆発で死ぬ直前にタイムトラベルして、彼を助けるんだ」
「うん」
「危険だ」デビッドが言う。「君自身が、荒巻デッドダイブと共に爆発に巻き込まれて死ぬ可能性がある」
「わかってる」
「一人では難しいだろう。うちのロビンを同行させたい。出来るか?」と、レア。
 するとキャサリンは首を横に振った。ミシェルの証言では父親と時間を遡行したようなことを言っていたが、普通の人間には無理なのだろうか? とゼダー博士は訝しむが、しかしキャサリンが嘘をつく理由も思い浮かばなかった。
「スマホを貸して欲しい」
「どうして?」と、ロビン。
「最後になるかもしれない。友達と電話したい」
 ロビンはレアの方を向いた。レアは黙って首肯する。
 スマホをロビンから受け取ったキャサリンは「屋上へ行く。しばらく誰も来ないで」と言って部屋を出た。


 キャサリンが屋上へ出ると、空は急激に曇り始めた。雨が降ろうとしている。祈りの雨だ。
 まさにこの瞬間にふさわしい、とキャサリンは思った。今からやることには、祈りが必要だ。それも大量に。
 目を閉じる。望みの場所と時間に辿り着くには、集中力と具体的なイメージが必要だった。
 意識と時間は密接に繋がっている、と彼女の父は言った。理由は分からないが、タキオニウムは意識に干渉するのだ。爆発の際のタキオニウムの量は、過去への遡行時間の最大値を決定するが、そこに意識が無ければランダムな時間と場所に飛ばされてしまう。七十年代にこの島の科学者がぶつかった壁を、メイ博士が突破した。その代償に、彼女は科学者としての倫理を悪魔に売り渡してしまったが。
「キャシー」
 誰かがキャサリンに声をかけた。屋上の入口に日焼けした男の子が立っていた。ダックスだった。
「話は聞いたよ」と、ダックス。「僕が爆発する」
「ごめんね」
「いいんだ」と、ダックスは笑って首を横に振った。「君とミスター・デッドダイブを助けるためだ」
 祈りの雨が降る。大粒の雨粒が殴りつけるように二人の頭に降りそそぐ。
「そんなにあの人が気に入ったの?」
「あの人は最高の名探偵だ。きっと父さんを見つけてくれる」
「来て」
 ダックスはキャサリンに近づく。キャサリンはダックスを抱きしめる。
「分かっていると思うけど、プロトタイプである僕のシステムは精度が低い。着地には君の誘導が要る」
「わかってるけど、初めてのことだから」
「大丈夫。自転車に乗るより簡単だ」
「自転車に触ったこともないからわからないけど、やってみる」
「三、二、一で行くよ」
「うん」
「三」
「二」
「一」
 爆発、そして閃光。


「このスイッチを押せば、子供は爆発する」
 僕は銃の入ったスーツのポケットに手を伸ばす。
「だが、無理だ。私にはもう押せない。情が移ってしまった」
 男はスイッチを落とした。電源も入っていなかったようだ。
「投降する気か?」
「いや」と、男は首を振る。
「子供は爆発させない。爆発するのは私だ、荒巻デッドダイブ」
 男はポケットからもう一つのスイッチを取り出す。
 スイッチが押される。
すると次の瞬間、爆発音と共に僕の目の前に二人の小さな人影が現れた。二人共、知っている顔だった。
「キャサリン? ダックス?」
「来て!」
 キャサリンが僕の腕を引っ張って、抱きしめた。ミシンオイルの匂いがした。
 爆発が起きる。
「ダックス!」
 キャサリンが右手で僕を抱きしめ、左手でダックスに手を伸ばす。ダックスも手を伸ばした。間に合わない。彼は光の向こうに消える。
 次の瞬間、キャサリンが爆発した。
 閃光と共に、僕の意識が吹き飛ぶ。


「スミくん?」
 気が付くと僕は子供の頃、母に連れられてよく来たファミリーレストランの席に座っていた。窓側の席だ。窓の外には人が歩いていて、道路を車が走っていた。でもその光景は妙によそよそしい気がした。作り物のような感じだ。
対面には詩織が座っていた。最後に見た服装と同じ、白いトレーナーにジーンズ姿だった。
「会いたかった。ずっと君を想っていた」
 僕が正直な気持ちをぶつけると「重い」と詩織は言った。
「そんなこと言って、私を恋愛しない言い訳に使ってるんじゃないの? 今、日本は少子化で大変なんだよ? 結婚して子供産まなきゃやばいの。わかる?」
 僕は感動した。この空気の読まなさ、まさに詩織だった。
「わかるけどさ。婚活してる暇なくて。仕事が忙しいし、出会いもないし、金もあんまりないんだ。この仕事、お世辞にも安定しているような、してないような」
「いつまでも私を引きずって欲しくない」
 詩織はテーブルに肘をつく。
「生産性、ないから」
「君を愛している」
「小学生相手に真剣に言われても、第三者から見たらロリコンにしか見えないんだけど。今だったら事案よ? スーツの男が女児に愛している、と話しかける事案が発生しましたって」
「わかってる。ずっと言いたかったんだ」
「もう時間ね」詩織は壁にかかった時計を見る。時間ね、という割には秒針も動いていない。
「さよなら、スミくん」
「やだ」
「子供みたいなこと言わないの。早くいい彼女見つけなさい」
「そんなこと言ったって、出会いが………」
「言い訳するな、荒巻デッドダイブ!」
 次の瞬間、飛沫と共に僕はどこかの水面に叩き付けられた。息を止める間もない。
 溺れる!
 僕は必死にもがいて水面を探した。衝撃とパニックで方向感覚が壊れていた。どこが水面かわからない。そのことがパニックに拍車をかける。
 足が何か固いものに触れた。岩か何かだ。とにかくそれに体重を乗せて立ち上がる。すると僕の上半身は一気に水面から浮上した。
「ぶはっ!」
 太陽の日差しを感じる。全身で息を吸いながら、顔に垂れてくる水滴を前髪と共にかき上げた。
「こっちだ! デッドダイブ!」
 僕は声のする方を向く。そこには見知った顔があった。
「ゼダー博士!」
 服が濡れて動きにくい中、僕はゼダー博士のいるプールサイドへ向かった。後ろの方で何かばちゃばちゃとやっているな、と思って振り返るとスーツ姿の大柄な女性に、キャサリンが助けられているところだった。
「一体、どうしてここに?」
 ゼダー博士に訊ねると「それはこっちの台詞さ」と、彼は手を伸ばす。
「あなたがアロハを着るとはな」と、僕は言った。ゼダー博士は珍しく黄色いアロハシャツを着ていた。記憶では、ゼダー博士がシャツとセーター以外の上着を着ることはない。
「君はどこでも背広だな。泳ぐときでも背広かい?」
「今度、一緒に水着を買いに行くか?」
 プールから出る。服が水を吸って、体が重い。プールサイドは僕が出る前から既にずぶ濡れだった。雨でも降ったのだろうか。いつの間に?
 僕は体を引きずるように歩いて、燦燦と光射すプールサイドチェアに身を横たえた。疲れた、というより体が混乱している感じだ。頭もだ。いったい何が起こったのだろう。
「セバスチャンに着替えを取って来させよう」
 ゼダー博士が言った。セバスチャンを知っているらしい。そりゃそうか、ホテルの受付を通れば嫌でもセバスチャンと知り合う。
「ハイネケンも持ってきてもらえるよう頼めるか? 缶がいいな」栓抜きを使うのが面倒だし。「ところで、いつこの島に上陸した?」
「昨日?」
「詳しい話は少し休んでからの方がいい。辛そうだ。僕も今からセバスチャンに頼んでくる。プールバーの内線が使えるかな。いや、本人が来たようだ。今の爆発音を聞きつけて来たな」
 爆発? そうだ、僕は爆発に巻き込まれた。でも生きている。何でだろう? いや、指の一つか二つくらい吹き飛んでるのかもしれない。後で確認してみよう。
 それから僕はぼんやりした頭で日向ぼっこを満喫した。全身がジリジリと焼かれていくのを感じる。濡れた衣服から水蒸気が立ち昇るのを感じたが、乾くまでは相当時間がかかりそうだった。
 空を飛行機が横切った。また誰か、ラムダ78に来たのだろうか。
「ミスター・デッドダイブ!」
 やがてゼダー博士がセバスチャンを連れてやって来た。セバスチャンはバスローブとハイネケンの缶をちゃんと持ってきていた。
「まずはハイネケンを貰おう」
 僕はセバスチャンからハイネケンを受け取って、プルタブを開けて飲んだ。
「ふぅ、生き返る気分だ」
「実際、君は生き返ったんだよ」
「どういうことだ?」
 ゼダー博士は、ここに至る経緯を僕に教えてくれた。


「つまり僕は爆発に巻き込まれて丸一日死んでいたのか?」
 僕が言うとゼダー博士は「いえ、正確には今も死んでるよ。さきほどセバスチャンを呼んだついでに、遺体安置所を確認した。君の死体はまだある」
「頭がおかしくなってきた」
 僕は残りのハイネケンを一気に飲んだ。この際、アルコールの影響など微々たるものに思えた。
「これは僕の推測だけど」と、ゼダー博士は前置きして「君がキャサリンに助けられた時点で宇宙は分岐した。本来なら君の死体のない、整合性の取れた新たな宇宙へ突入する、というより突入する可能性が高かったが、君はデッドダイブだからキャサリンが最初に出発した宇宙にたまたま戻って来れた。だから僕たちの記憶にも影響がない。キャサリン視点では、だけどね」
「キャサリンだけじゃない。ダックスもいた」
「ダックス?」
 ゼダー博士はダックスことダグラス・マイクロのことを知らなようだった。
「いや、何でもない」
 僕は目を閉じて、少しだけ光の向こうに消えたダックスを想った。それから立ち上がって、セバスチャンからバスローブを受け取った。


第十九話 まだやることがある

 部屋に帰って服を脱いで洗濯籠に放り込み、シャワーを浴び、新しい下着を身に着けて替えのズボンにワイシャツを羽織った。そこで僕は洗濯籠にリボルバー拳銃も一緒に放り込んだことに気が付く。
 僕は慌てて上着のポケットからリボルバーを取り出した。状態に問題は無さそうだ。弾丸も装填されてある。悩んだ末に僕はリボルバーをズボンのポケットに押し込んだ。きっとこいつの存在にも、何か意味があるのだろう。
 バスルームから出ると、電話が鳴った。セバスチャンからだった。昼食の用意が出来ているらしい。そう聞くと途端にお腹が空いてきた。
「ありがとう。お腹がペコペコだ」
「無理もありません。ミスター・デッドダイブは丸二日間、何も食べてらっしゃらないでしょうから」
「僕の主観ではそこまで経っていないよ」
「失礼しました。では、お気をつけて食堂まで」
「ああ」
 受話器を置く。
 食堂へ来ると、既に五人の食いしん坊が食堂の席に着いていた。ゼダー博士、デビッド、修正課のレア、キャサリン、そして謎の女。僕の昼食は彼らと一緒の席にされていた。
「こっちだ、デッドダイブ」
 ゼダー博士が手を振る。僕はテーブルに席に着いた。
「何人かは既に知っているな?」と、ゼダー博士。
「知らないのは彼女だけだ」と、僕は奥の席に座る大柄な女を指した。
「ロビン・ボーンです」
「荒巻デッドダイブだ」
「さて、全員が揃ったところで少し状況をまとめよう―――」
 ゼダー博士が言ったそのとき、ミシェルがカートで前菜を運んできた。厨房からハンバーグの匂いがする。
「と思ったけれど、昼食のあとでもいいかな。よし、みんな食べようじゃないか」
 前菜は呆れるほどボウルに大量に乗っかったサラダと、上品なコンソメスープだった。
 僕はまず前菜から手を付ける。果たしてこれが本当に胃袋に収まるのか? 初めてホテルを訪れた僕なら驚くところだが、今は十分に攻略可能であることを熟知している。食欲を増進させるピリ辛のドレッシングと共にレタスやトマトを食べ、コーンを貪り、千切りしたニンジンを食べる。
 コンソメスープは透き通って上品な味わいだった。それらを片づけるとハンバーグとパンの山がやって来た。僕がナイフを入れると、ハンバーグは鉄板の上で肉汁を飛ばした。こいつは美味い。確信が信仰に変わる瞬間だ。
 もどかしい気持ちで切ったハンバーグをフォークに突き刺し、少し冷ましてから口に入れる。ステーキとは違うフワフワした肉のおいしさが口の中で弾けた。
 いかん、口の中でハンバーグの存在感がやばい。慌ててパンを掴む。
暖かい、焼きたてだ。
 僕はパンを千切って口の中へ放り込んだ。香ばしい、このパンもまた強力な存在感を放っている。こうなったらとことん食事を堪能する他ない。僕はハンバーグとパンを交互に食べ、付け合わせのフライドポテトとニンジンのソテーを平らげた。
 最後に出てきたのはレモンのタルトだった。厚い生地の上に檸檬クリームが乗っていて、一番上にはミントが添えられていた。僕はこれもすぐに食べてしまった。
 食後にはコーヒーが出た。僕はこれをブラックで飲む。完璧な昼食だ。
「さて、あらためて状況をまとめようか」と、ゼダー博士が言った。
「荒巻デッドダイブが復活したことで、島の爆発は抑えられたと思います」
「それは本当に確実なんだろうな」
 レアが言った。
「証拠を出せ、と言われると厳しいですね。でも、デッドダイブは宇宙に選ばれた存在です。十分に可能性はあります」
「でも死んだじゃないか」と、デビッド。
「ちゃんと生き返ったよ」
 僕はデビッドに言った。もっとも、死んだ覚えも無かったが。
「話を続けましょう。荒巻デッドダイブが復活したことで、爆発が先に延びた。先に延びただけです。デッドダイブがこの島に永住したいとか言い出さない限りは、いずれ爆発して過去に消えます。それまでの間に、島の住民を避難させる。それが当面の目標です。既にピケット大佐や、合衆国政府も動き出しています。修正課としては、タキオニウムの情報を出来るだけ収集して、撤退します。現場の封印は必要なし。過去に吹き飛ぶわけですからね」
「もう特にやることはないわけだ」
 僕がコーヒーを飲んで言うと「君はいるだけで価値がある。どこにもいかないでくれよ」とゼダー博士は言った。
「ゆっくりとバカンス気分に浸ったらいい」
 水着の購入を検討した方がよさそうだ。


 僕は部屋に帰って、何となくソファーに座ってぼんやりしていた。テーブルの上にはリボルバー拳銃が置いてある。結局、こいつは何の役にも立たなかった。良いことだ。あとでピケット大佐に返しに行こう。
 この島の住民を避難させるには、どれくらいの時間がかかるのだろうか? 一週間? 一ヵ月? 避難民には当然、セバスチャンやスーザン、ミシェルもいるのだろう。彼らの今後の生活はどうなるのだろうか。それは他の住民にも言えることだろう。
 まぁ、この島は元々軍の所有物だ。就職先とかも、彼らがある程度、面倒を見てくれるのかもしれない。住民にしたって、永久にここで暮らせるわけではないことは分かっているのだから、移住先にもある程度目星があるのだろう。
「ま、そうでなかったとしても僕に何が出来るわけではないしな」
 天井を回るシーリングファンに独り言を吐く。さて、これからどうしようか。
 そのとき、部屋のドアがノックされた。
 少し迷ったが、僕は拳銃をズボンに挟んでドアへ向かった。
「誰だ? ゼダー博士か?」
「軍警察のリヴィア・ブルーニ大尉です。荒巻デッドダイブさんの部屋でよろしかったでしょうか?」
 軍警察? ジョニー・ボーイ曹長と同じ部署だ。階級は上だから、彼の上司に当たる人間だろう。
 ジョニー・ボーイと同じ職場の人間か………。
 それだけで何だか会うのが億劫になる。とはいえドアも開けずにお引き取り願うのもちょっとひどい気がした。
 ドアを開ける。
 ブルーニ大尉は金髪で、頬に薄いそばかすのある三十代くらいの女性だった。身長は僕と同じくらいだろうか。とび色の瞳が僕を覗き込む。
「何か用ですか?」
「ジョニー・ボーイ曹長が色々と失礼なことをしたようで、その謝罪を」
「今更どうでもいい」
 それにジョニー・ボーイ曹長は死んだ。営倉から脱走して、発電所に逃げ込み、ピケット大佐に撃ち殺されたのだ。ジョニー・ボーイ曹長のことは嫌いだったが、その死にざまは気の毒だったと思う。だから彼に対する恨みもそれで手打ちにしようと僕は思ったのだ。
「それと、少し話を聞きたいの」と、ブルーニ大尉は言った。「実は私、妹の結婚式で本国へ帰還してて、それで今さっきここに戻って来たところなのよ」
 ああ、なるほど。軍警察がジョニー・ボーイ曹長のような奴に仕事を任せていたのはそういうわけだったのか。
「わかった。立ち話もなんだし、部屋へ。それとも下の食堂の方がいいかな」
「部屋で構わないわ」
 僕がドアを開けると、ブルーニ大尉は堂々と部屋の中へ入って行った。


 ブルーニ大尉をソファーに座らせ、僕は部屋に備え付けられていたインスタントコーヒーの粉末の入った紙コップに、電気ケトルでお湯を注いだ。
「砂糖とミルクは?」
「結構よ」
 僕はブルーニ大尉にコーヒーを差し出す。もう一つは自分用だ。熱くてまだ飲めたものではない。僕たちはテーブルの上に置いて、こいつらをしばらく放っておくことにした。
「この島の現状はピケット大佐から聞きました」
 ブルーニ大尉は言う。
「何だか信じられないような話だけど」
「それで、どういう話が聞きたいんだ?」
「ああ、うん。そうね。ジョニー・ボーイ曹長のことだけれど、彼に何かおかしなところはなかったかしら?」
「徹頭徹尾、あいつはおかしかった」
「まぁ、そうね」ブルーニ大尉は同意する。「だけどロビーでアサルトライフルを振り回す程では無かったわ。あれはいくらなんでもおかしい」
「しかし実際やったんだ。僕が全ての黒幕だと主張してね」
「その黒幕、犯人だけど、過去に消えたのよね?」
「ああ、そうだ」
「その後の足取りは?」
「掴めていない」
 ブルーニ大尉は「フーム」と唸って、テーブルの上のコーヒーに手を付けた。ベランダでカラフルなでっかい鳥がバサバサと羽ばたきながら一瞬、姿を現して消えた。それからピーピーという鳴き声が轟く。
「私は、その犯人がジョニー・ボーイ曹長に何かしたんじゃないか、と考えている」と、ブルーニ大尉はコーヒーを揺らして言った。
「根拠はあるのかい?」
「ジョニー・ボーイ曹長には精神的に不安定なところがあった。調べてみると、躁鬱の傾向があって、薬を処方されていたらしいわ」
「犯人に洗脳されていたって言うのか? それより共犯だったという可能性もあるんじゃないのか?」
「共犯ならジョニー・ボーイ曹長の方にも何らかの動機が必要だわ。あるいは弱みでも握られていたとか」
「ふーむ」今度は僕が唸る番だった。
「だけど、そんなこと言ったって今更どうしようもないだろ。気の毒だがタイムトラベルはもう不可能だ。さっきも言ったけど、犯人は過去に消えて足取りは掴めない。僕たちに出来ることはもうないと思うが」
「荒巻デッドダイブ」ブルーニ大尉が言った。「ここに来る前、私は知らない女の子から電話が来たの。荒巻デッドダイブを助けてって。あなた、宇宙に選ばれた殺し屋って呼ばれているんですって?」
「ああ」
「事件や報酬、必要なすべてがあなたの下に集う」
「そうだ。だけど今回は何だか振り回されっぱなしだ。結局、僕はこの島で何も出来なかったような気がする。せいぜいここにいて、島の爆発を防ぐくらいのことだ」
「そうかしら?」ブルーニ大尉が首をかしげた。「そう思い込んでいるだけかもしれない」
「というと?」
「もう材料は揃っていて、あとはあなたが料理するだけなのかも」
「ほう」
「今やっと理解した。私、きっとそれをあなたに伝えるために来たのね」
 ブルーニ大尉はコーヒーを飲み干して立ち上がる。
「コーヒーありがとう。もう行くわ」
「ああ」
 僕は立ち上がって、部屋の扉を開ける。
「それじゃあね」
 ブルーニ大尉は最後に僕へ笑いかけて、部屋を去って行った。


 材料はすべて揃っている? 僕が何も出来ないと思い込まされている?
 ベランダから僕はブルーニ大尉の言葉を反芻していた。手には冷めたコーヒーがある。それを一気に飲み干して紙コップをクズ籠に放り込み、デッキチェアに寝そべった。
 ブルーニ大尉の言う通りかもしれない。僕は戦う姿勢を放棄していた。尻に硬いものが当たる。そうだ、拳銃をズボンに挟んだままだった。この三十八口径のリボルバーには、まだ役目があるのだろうか。
 僕は拳銃を腹の上に置いて、目を閉じた。デッキチェアは日光の当たらない日陰に配置されていた。風が吹いている。暖かくて優しい風だった。
 先入観を捨てて、もう一度、この島に来てからの出来事を思いめぐらす。
 目を開く。
 犯人が分かった。


第二十話 さよならラムダ78
 
 ラムダ78からすべての住民を避難させるには五日かかった。僕の予想よりも短い。
 軍は避難理由を島の中央にある火山に噴火の危険があるから、と発表した。タキオニウムの爆発で島全体が一万二千年前にタイムスリップする、と正直に言うよりは賢明な判断だろう。
 住民の数が減るにつれて、ラムダ78は瞬く間に寂れていった。ショッピングモールは閉鎖され、夜は街灯がつかなくなった。コミュニティの衰退を早回しで見ているようだったが、あまり面白いものではない。
 シシリエンヌの従業員は最後まで作業を全うしようとしていた。四日目には既にデビッドも修正課の面々も撤退してしまっていた。
「それじゃあ、また今度」と、ゼダー博士と僕は握手して空港で別れた。「また今度、日本の温泉にでも行きましょう」
「次の休暇には電話をくれ」
「いい加減、スマホを買ったらどうです?」
「余計な仕事を増やしたくない」
 旅立つゼダー博士の飛行機を見送って、僕はシシリエンヌに帰った。


 五日目の朝が来た。
 この日が全島民撤退の期限だった。シシリエンヌに残っている客はもう僕しかいなかった。僕はベッドから起き上がってシャワーを浴びる。バスルームから出ると、電話が鳴った。セバスチャンだった。
「おはようごさいまず、ミスター・デッドダイブ。朝食のご用意が出来ております」
「おはようセバスチャン。島で食べる最後の朝食か」
「あなたが最後の客で光栄です。ミスター・デッドダイブ」
「ありがとう」
 そうして僕は食堂に降りて、シシリエンヌ最後の朝食を食べた。
 ハムとチーズのホットサンドを食べながら、思わず泣きそうになった。この素晴らしい朝食を堪能できるのは、僕が最後なのだなと思うと辛かった。
 素晴らしいホテルだ。
 食後のコーヒーを飲みながら、僕はしみじみと思う。
 従業員がホテルを去ったのは、午前十時ごろだった。僕はスーザン、セバスチャン、ミシェルとロビーで最後の別れを惜しんでいた。
「まさかお客様に見送られるとは思いませんでした」
 スーザンが目にハンカチを当てて言った。
「突然、こんなことになるなんて」
「みんな、お元気で」
「ミスター・デッドダイブも。二度と死なないで下さい」
 セバスチャンが言った。
「ああ、気を付けるよ。ミシェル、キャサリンをよろしく頼む」
「はい」と、ミシェルが頷く。彼女は一足先に本国に帰還しているキャサリンの新しい後見人として、スーザンと共に名乗り出たのだ。
「ところで、みんな次の仕事は決まっているのかい?」
「ええ、実は」と、スーザン。「前々から、ミシガンで小さな観光ホテルをやろうと計画をしてたんです。お金が少し足りなかったけれど、セバスチャンとミシェル、支配人もお金を出してくれて」
「三人でまた一から頑張ろうと思います」
 へへっ、とセバスチャンが笑う。
「そうか、オープンしたら教えてくれ。きっと遊びに行く。これが住所だ」
 僕は名刺をスーザンに渡す。
「では、私たちはこれで失礼します」
「ああ、また会おう。みんな」
 三人を乗せたバンが去って行く。
「ふぅ」
 ため息一つ、僕はホテルのロビーにあるソファーへ座った。これでこのホテルには僕しかないない。何だか支配人にでもなった気分だが、シシリエンヌの支配人は他にいる。ピケット大佐だ。彼は自身の責任を果たすべく、この島に住民が残っていないかを見て回っているのだ。
「さて」
 僕の迎えは十一時ごろに来る。荷物は昨日のうちにまとめておいたから、ここへ運び出すだけだ。ここにはもう僕一人しかいないから、全て自分一人でやらなければならなかった。といっても、僕の荷物はスーツケース一つぐらいなものなのだが。
 ロビーに荷物を運んでいくと、ちょうど、ピケット大佐がジープに乗って帰ってくるところだった。規律ただ誠意軍事らしく、彼はわざわざ駐車場にジープを停めて入口にやって来た。
「やぁ、デッドダイブくん。スーザンたちは行ったか?」
「はい。僕も迎えが来たら発ちます。大佐は?」
「君の後に出て行くよ。まさか君がいなくなったらすぐに爆発する、というわけでもあるまい」
「わかりませんよ」
「そうか、まぁ、同じくらいには島に出るさ」
 ふぅ、とピケット大佐は天井を見つめて息を吐き「最後に屋上で一杯やらんかね?」と提案した。
「ええ、実は僕も最後にあなたと話したいことがあります」


 僕とピケット大佐は屋上へ上がり、プールサイドの脇を通ってプールバーに入った。バーには飲み物がそのままになっている。
「運び出す時間が惜しくてね。輸送コストもかかるし、そのまま放っておくことにした」と、ピケット大佐が説明する。
「僕が注ぎましょう」
 僕はカウンターの中へ入る。
「マティーニでもお作りしましょうか?」
「作れるのかね?」
「実はバーテンダーとしてバイトしたことがあるんです」
 ちなみにそのバーは僕が入った五日後に消失し、後日公園の真ん中で発見された経緯があるのだが、話が長くなるので詳細は割愛する。
 僕はカクテルシェーカーにドライジンとドライベルモットを三対一の比率で入れ、そこに細かく砕いた氷を入れてステアする。出来れば冷えたグラスが欲しかったが、見つからなかったので、そのままカクテルグラスに注いで冷蔵庫のタッパーに入ったオリーブを飾った。
 ピケット大佐は僕の差し出したグラスを一口飲んで「ふふふ」と笑った。
「確かにマティーニだ」
「マティーニですよ」
「いや、すまん。別に疑うつもりはなかったんだがな」
 ピケット大佐はグラスを飲み干す。
「美味いマティーニだ」と、大佐はグラスを置く。「さて、君の話とは何だね」
「犯人が分かりました」
「ほう」
 ピケット大佐の目が鋭く光る。
「しかし犯人は過去へタイムトラベルして、未だに捕捉できていないんだろう?」
「その正体を掴んだ、と言っているのです」と、僕は宣言した。「順番に説明しましょう。犯人は秘密軍事基地であるラムダ78に潜入し、人身売買組織から二人の子供買って時間爆弾に改造し、今回の計画を実行しました。また、島の裏側に熟知し、シェルターのことも知っており、なおかつメイ博士と結託する人脈を有していた。キャサリンの証言では、犯人の目的は家族を救うことと言っていました。おそらく過去に家族を事故で喪ったのでしょう。動機を偽る意味はないから、この情報は正しい。つまり犯人は過去に家族を喪い、島の施設やセキュリティに通じており、犯罪組織にも人脈がある。この人物像に当てはまる人間はこの島でたった一人、それはあなただ、ピケット大佐!」
 
 
「何を言うかと思えば」はっはっはっ、とピケット大佐は笑う。「私はずっと君に協力していたじゃないか。それに屋上のプールで対峙した犯人は、私よりずっと若い」
「あれは若い頃のあなただ。それがこの事件のポイントだ。年齢の違う同一人物が、共犯者として暗躍していたのです。あなたは過去に家族を喪い、犯罪組織と関係を持っていたとジャングルの中で僕に話した。基地司令官という立場ならキャサリンやダックス、そして若い頃の自分を島へ自由に入島させることも不可能ではない。そもそも、あなたの行動は最初から妙だった。僕のような怪しい人間に五万ドルの小切手を気前よく支払って、捜査に同行させることは常識的に言って考えられない。ジャングルの一件も、何だか強引だった。あなたは僕に島の裏側を見せ、混乱したところに犯人の電話番号を渡してきた。あれは最初からシェルターにあったものではなく、あなたがあの場で用意したものだったんだ。そしてあのジャングル探検の最大の狙いは、若い頃のあなたがキャサリンと共に表側のシシリエンヌに移動させる隙を作るものだったのではないかと今は思います」
「馬鹿なことを言うな!」
 ピケット大佐は立ち上がる。その拍子に座っていた椅子が床に音を立てて転がった。
「私が犯人なら、ジャングルで君を暗殺することだって出来たんだぞ! 君をこの島から追い出すことだって出来た!」
「それは出来ない。いや、あなたは当初、そうしようとしたのかもしれない。そこでジョニー・ボーイ曹長を使った。彼は心理的に不安定なところがあった。あなたはそれを利用し、彼に偏った情報を吹き込んで僕を襲わせたのです。だが彼は僕の暗殺に失敗した。それであなたは未来に従うことにした。屋上に出現した僕の死体が辿った様に、屋上へ僕を追い込んで爆殺することにしたのです。若い頃の自分が、無事に過去へ戻れるように。しかしそうなると、ジョニー・ボーイ曹長の後始末をする必要に迫られた。聴取を受けたら、ジョニー・ボーイ曹長はあなたに僕を殺せと吹き込まれたことをしゃべってしまうかもしれない。だからあなたはこっそり、ジョニー・ボーイ曹長の営倉の鍵を外し、脱走を手助けした。そしてジョニー・ボーイ曹長を射殺して口封じを行ったのです」
「バカバカしい」ピケット大佐は僕に背を向けてプールの方へ歩く。それからプールサイドで立ち止まり、もう一度「バカバカしい」と言った。
「証拠はあるのかね?」
「前回のあなたはキャサリンを使って時間を遡った。あなたの体内にはまだアクティブなタキオニウムが残っている。検査をすればわかることです」
 ピケット大佐は項垂れて、こちらに向き直った。
「それで、私をどうする気だね? NSAの連中に突き出すか? 自分で始末をつけるか?」
 僕は拳銃を取り出す。
「僕は宇宙に選ばれた殺し屋です」
「なら、それで私を撃つか?」
「いや、あなたの処遇は―――」拳銃の弾倉から、弾を一発だけ残してすべて抜く。弾丸がプールサイドの硬い床に跳ねた。
「宇宙に決めてもらおう」
 僕は拳銃をピケット大佐に返す。
「時間だ、僕はこれで帰ります」
 ピケット大佐の脇を通り過ぎる。
「救えんのだ」と、ピケット大佐は去り際に言った。「何度やっても」
 僕はそれを無視して屋上の階段を下りる。


 ロビーに降りると、既に入口に白いバンが停まっていた。
「待たせたかな?」
 僕はスーツケースを引きずって、バンの後部座席に乗り込んだ。後部座席には既に初老の男が乗っていた。白人で、小綺麗なスーツを着ている。
「誰?」
「まぁ、乗れ! デッドダイブ!」
 運転手の黒人が言った。仕方がない、スーツケースを抱えて車に乗り込む。車が発進する。
「荒巻デッドダイブ様ですね」男が言った。「私はダンカン・スチュワート。弁護士です」
 その声には聞き覚えがあった。
「あんた、電話の」
「はい、今回の依頼人の代理人です。約束通り、現地でクライアントと依頼について詳細なお話をさせて頂きたくこちらへ来ました」
「は?」
 依頼も何も、事件は既に終わったじゃないか、と思った矢先に「ミスター・デッドダイブ!」と後ろの荷台からダックスフンドが飛び出してきた。
「犬がしゃべった!」
「犬じゃない! いや、犬だけど違うんだ! 僕だよ、ダックスだ!」
「そりゃダックスフンドだもんねぇ」
「違う! ダグラス・マイクロだ!」
「はぁ、ええっ?」
「あの馬鹿親父の爆発に巻き込まれて、気が付いたら過去で犬に転生しちまったんだよぉ」
「そりゃ災難だな」
「こんな姿じゃ、ミスター・デッドダイブと電話も出来ないから、そこのダンカンさんを代理人として代わりに電話させたんだ」
「NSAは最初から事態を把握していた。その犬を修正課が確保した時点でな。いや、大変だったぜ。大佐のアカウントを使って、ホテルに予約を入れたりな!」
 運転手の黒人が言った。
「そういうあんたも誰だ?」と、僕。
「俺を忘れたのか!」
「いや、あんたなんか知らん。いや、待てよ。ホテルで見たことがあるな。確か神父だとか………」
「あ、そうか。うっかりしてたぜ!」
 黒人は自分の顔を掴んでベリベリと剥がした。その下には、髭を剃ったカシムの顔があった。
「カシム!」
「言ったろう! 全てが終わったらまたここから空港へ送ってやるってな! もう一つの方は忘れてないよな!」
「もう一つ?」
「小切手を出せ! ピケット大佐から貰ったやつ」
「はぁ」
 僕が小切手を懐から取り出すと、カシムがそれをひったくった。
「あっ、何をする!」
「チップだ! お前に五万ドルは高すぎる! 軍の会計予算の余りをかすめ取ろうなんて甘いぜ!」
「そ、そんな」
「というわけで、こちらが正式な料金です」
 ダンカンが小切手を渡す。そこには一万ドルと書かれていた。
「五分の一になってるじゃないか!」
「それでも大盤振る舞いだ。文句を言うな、デッドダイブ! 更にボーナスをつけてやる!」
「え? なに?」
「そこのダックスフンドをくれてやろう」
「よろしくお願いします、ミスター・デッドダイブ」ダックスフンドが尻尾を振って言った。「アニキって呼んでもいいかな?」
「押し付けやがったな!」
「デッドダイブ! 空港でアイス食べるか! 閉店セールやってるぞ!」
「食う!」僕は答えた。「全部のフレーバーを制覇してやる!」
「そうこなくちゃな!」
 僕は空港でカシムとダンカンと共にアイスを食べまくり、それから飛行機に乗った。ダックスフンドはペット用の貨物室へ押し込まれた。カシムとダンカンはそれぞれ、後ろの席に座っている。
 雨が降り始めた。それでも飛行機の発進に影響は無さそうだ。飛行機は予定通りに離陸した。
 ラムダ78が見える。軍港から、最後の駆逐艦が発艦するのが見えた。
 ある時間軸にだけ、限定的存在する島、か。
 あの島は、これから一万二千年前に飛び、そして再びこの時代に戻ってくるのだろう。それを永遠に繰り返す、時間を漂う島。未来にも行かず、過去にも行かない不思議な島。
「さようなら、ラムダ78」
 静かに呟いて、僕は目を閉じる。短い間に出会った人々と風景を思い出す。
 僕は未来へと進む。進まなければならない。いつまでも過去にしがみ付いているわけには行かない。
 ホテル『シシリエンヌ』が最後に見える。屋上に、白いトレーナーを着た少女を幻視した。
「じゃあな、詩織」
 飛行機は飛んでいく、祈るような雨と共に。 <了>
瀬場拓郎 

2022年06月15日(水)23時25分 公開
■この作品の著作権は瀬場拓郎さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
変な小説を書いたので読んでください。


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