死にゲーの世界にて、憑依先は弱小種族の男っ子!? |
<<一覧に戻る | 作者コメント | 感想・批評 | ページ最下部 |
プロローグ えーみなさんこんばんちは、はじめひさおしぶりです。 何度死んでもクリアするまで諦めない。死ぬ死ぬ体感型MMO【Automaton Garden Online】略してAGOの実況はぁじまぁるよー。 いや、本当に何度死んだか分からない。これを初見でクリアした人はマジで神。もはやこれはプレイヤーを殺しにかかっているとしか思えない死亡率の高さ。もう許せるぞオイッ!(自暴自棄) 初見殺しエネミーやらハードな迷宮(ダンジョン)探索など死亡フラグが多すぎるんだよ、このゲーム! ちなみに前回は、翼人(フリューゲル)で鍾乳洞の迷宮(ダンジョン)の探索中にカマキリっぽいエネミーに背後から首ちょんぱで死亡――ぴえん。 音声アナウンスをスキップして、パスワードとIDを速攻でホロキーボードに叩きこみましょう。パパパッ。 するとすぐにキャラリクに入ります。といってもこのAGOのキャラリクはほとんどランダム仕様なので、のっけからプレイヤーを弾きにかかってきます。種族くらい選ばせろやゴラァッ! このAGOの種族は、プレイヤーを含めたキャラクターすべてが亜人をモチーフにしています。 今のところ確認できている亜人の種類は――獣の見た目と性能を引き継いでいる獣人。機動性はないが器用さとパワーが売りの鉱人(ドワーフ)、完全飛行能力を持つ翼人(フリューゲル)、魚類の見た目と性能を引き継ぐ魚人などなど。 ちなみに獣人率がクソ高いです。獣人は獣の見た目と性能を引き継いでいるので、仮想体(アバター)の性能は完全リセマラしかありません。 この世界に生身の人間は今のところ確認出来ていません。確認した人はぜひ教えてくださいカシコ。(露骨なコメ稼ぎ) おや、どうやらキャラが決まったようです。はてさてどんな感じに…… 種族【??+α】 クエスチョンマークにプラスってなんじゃそりゃ。見た目は獣人に違いないようです。容姿はショタ受け間違いなしの超絶美少女ですが、ショタに興味はないッ! オレは黒髪年上美人が好みだッ。(性癖暴露) (投稿者掲示板に逃走中) ファッ!? 掲示板にも一切の情報がないよ。なんでぇなんでぇ。(涙目) ゴホンッ。どうやら未確認のレアキャラを引いたようです。 まずはレアキャラの容姿をご説明しましょう。 ロップイヤーのような垂れ耳と、柴犬のような渦巻き状の尻尾が特徴的です。ウサギ+イヌのハーフ感満載ですねぇ。これぞ、THE草食系のキャラは初めてかもしれません。 情報がないと言っても、これはもうハズレで決まりでしょう。純粋【イヌ科】だったらまだ望みはありますが、ウサギ並みの性能しかない弱小種族では、この残酷な世界では生き抜けません。 AGOのフィールドは、所謂ゾ〇ドか、ホラ〇イゾ〇のような鋼鉄の獣がうろちょろし、弱肉強食よろしく襲い掛かっててきます。 ロックオンされたら最後。キャラロス一直線です。 プレイヤーは如何にしてこのエネミーを避け、人里にたどり着くかが最初のミッションになります。だからキャラの性能はとても大事。ここは心を鬼にしてキャラリクをやり直すしか――ほら、体力も筋力も耐久もボロクソじゃねぇか。その分、俊敏やら器用さやら精神の値が高いですが、はぁーつかえねぇ。 やっぱりお前はクビだ! クビクビ!!(スキル欄をチラ見) …………ファッ!? な、な、なんと――こいつレアスキルを2つも所持してルオォ!? レアスキルはどのキャラもだいたい初期で所持していますが、レアスキルを2つも所持しているキャラは初めてだぬあ! 確立的にポケ〇ンで最初の御三家から色違いが出るほどかなりのレアケース! やべっ。オレは君のことを信じていたよ!(華麗な手のひら返し)滾ってキタァ!! えぇっとレアスキル名は【幸運】――うん。これは調べなくても分かるぞホイ。 恐らく隠れステータスの【運】に対する大幅なボーナスが獲得できるでしょう。さすがにラッキー〇ンのようなチート級ではないでしょうが、うん。美味しいねっ! そしてもう一方のレアスキルが【バイタリティ】―― そんなに初物好きかこのヤルルォ。(投稿者再び逃走) どうやらこの【バイタリティ】はイヌ科のスキルでよく見かける【持久力】の上位互換と推察します……だって攻略サイトにも乗ってねぇんだもん! 推察するしかないでしょう!(逆ギレ) その効果は……ずばぁりっ【消耗】の回復力が早いでしょうっ。(まる〇風) 状況に応じて発生する疲労やストレスなどのマイナス補正のことを総じて消耗と呼びます。 消耗が一定数貯まると、過労死やら精神崩壊やらで最悪キャラロスになってしまうので要注意です。 その消耗の回復が常人よりも早いという点は、もはやチートの領域! うん、この子は天才だ! オレは信じていたよ!(手のひら大回転) もうこれはやるっきゃないでしょう。オレはやりますよ。やり遂げてみせますとも! 弱小種族の下剋上ロールプレイって燃えるよな? オレは現代の豊臣秀〇公になるっ! ではスタートする前に軽く呼吸を整えてっと。ふぅふぅふぃー。ふぅふぅふぃー。よし。 リンクスタート! ホロキーボードのOKボタンをポチッとな。 これですべての初期設定が終了です。おつかれっしたっ。 さぁさぁ早速スタートです。視覚接続OK。聴覚接続OK。その他各種の感覚テストをクリアし続け、OKマークが増えていく。 最後のOKメッセージがフラッシュし、次の瞬間、暗闇の底へ落下していく感覚は何度経験しても慣れま…… 【――エラー。□ ■処理ニ失敗。対象ニ深刻ナ影響】 ファッ!?(驚愕) 【――エラー。■□ 失敗。5秒後ニ再起動】 えぇっ。(困惑) 【――エラー。システムノ停止ハデキマセン。5秒後ニ覚醒】 ふッ。ふーざーけーるーなっ。 まさかのバグッ!? バグかよマジふざけんなっ!!(激怒) 『カウントダウン開始――5、4、3、2、1』 あああああああああああああせっかくのレアキャラがぁあぁあっ。(心停止寸前) 『ゼロ』 あっ。(ブラックアウト) 第一章 ザ―――……と雑音が奔って意識は、緩やかに覚醒した。 『あーうっ?』 今の今まで一度も体験したことがない感覚に彼は飛び起きたかった。 しかし実際はピクリとも動けず、視覚は正しく機能せず、聴覚は雑音に奪われる。 まるで岩の中に埋め込まれた異物のような気色の悪い感覚が身体中を走った。それが痛覚であると気づくのに、彼はしばらく要した。 いくらフルダイブ型のゲームであろうと、痛覚を再現するのは一昔前に法律上禁止されているはずだ。 ありえない。仮にそんなバグが発生したら安全装置(セーフティ)が働いて自動リンクアウトするはずだ。 通常、セーフティは現実の身体の変調を感知したり、仮想世界でバグが生じた場合に発動する。 もちろんセーフティレベルは設定可能で、1人暮らしの彼は最低に落としていたが、この状況でセーフティが働かないのはありえない。 『一体どうなっている!? GM……GMコールはどこだ!?』 ステータス・ウィンドウを喚きたてながら呼び出す。本来ならアバターの手を振って呼び出すのが正当なアクションだが、恐慌する思考でもウィンドウは正しく機能した。 ピロリン、と場違いなほど軽快な音色と共に、薄緑色に発光する半透明の四角い板が現れた。 初期のステータス・ウィンドウは、左側にいくつものタブが並び、右側にはプレイヤーのステータスが表示されている――はずだった。 しかし表示されウィンドウ内にGMコールはもちろん、ログアウトボタンも存在しない。 『どうなっている!? おい、ふざけんなっ! 動けっ! 動いてくれ!!』 激しい恐慌に陥った思考が、遠雷の如く迸った女性の声で強制停止する。 「***! ********!!」 はち切れそうな声は必死に何かを訴えている。残念ながら彼には、意味もイントネーションもまったく聞き取れなかった。 少なくとも英語や中国語のような日本人にとってまったく馴染みのない異国の言葉だ。 外国語にはめっぽう弱い日本人らしくちんぷんかんぷんでさっぱりわからないでいると、軽快な音と共にウィンドウ上に新たな文章が表示された。 【翻訳機能を使用しますか? YES/NO】 彼は呆気に取られて表示された無機質な文章を食い入るように見つめ、カチコチに固まった思考がようやく再起動する。 再起動したところで完全にパニック状態のままだが、知的生命体の会話が聞き取れるということだけは遅まきながら理解できた。 『い、いえす! いえす! イエスに決まってるだろう!』 何もかも理解できない現状を打破したい一心で彼は選択した。軽快な効果音と共にウィンドウが視界から掻き消える。 「……一度寄生されたら逃れることは難しい。それはあなたも十分理解しているでしょう」 鈴を鳴らした時のような弾みのある澄んだ女性の声は、流ちょうな日本語を紡ぐ。 翻訳機能が正常に機能している確証を得ただけで、彼はまぐれでラスボスを倒した時のような高揚感でガッツポーズを取った。(実際に取れていないが) 「シラオリは負けたりしない! 姉上の子供だ! 絶対に明け渡したりしない!」 彼女の悲観的な言い分に、もう一人の声――おそらく訴えていた女性だろう。艶やかなアルトの切迫した声が真っ向から反論する。 姉上と呼んでいることから察するに彼女たちの関係性は姉妹なのか、それにしてはずいぶんと張り詰めた口論をしている。 「わたくしたちはあなたよりもずっと脆弱で呪われた種族なのよ」 「違う。姉上はこの身よりもずっと強くて賢くて潔い方だ。ただ……その潔さは時々憎らしく思う」 「……それが性分ですから」 重苦しい沈黙のあとに彼女は暗い声で「経過を見ましょう」と言った。 「それで、もしダメなら……わたくしが、この手で……シラオリを処分します」 唐突に放たれた戦慄の言葉を、彼ははっきりと聞いたが、自分の耳が信じられなかった。 今、処分といったか。シラオリ――おそらくは自分の子供を処分する、と。 「それが逃れ者の宿業ならわたくしは喜んで受け入れましょう」 「……御心のままに」 『……………………く』 喘ぎとも絶句ともしれない声で彼はようやく言葉を発した。 『狂ってる』 子供を親が、それも母親が殺すなんて正気の沙汰じゃない。 日本でも虐待死で殺される子供が年間に50人以上の統計が残っているが、それはマイクロチップ型量子接続通信端末が開発されたばかりの一世紀前のことだ。 生まれたその瞬間、装着を義務付けるようになって久しい現代で子供の虐待はあっても、それを感知した端末が即通報するため、虐待死は現代において根絶されたはずだ。 『と、とりあえずすぐに殺されることはなさそうだ。ひとまずは情報……そう、情報だ!』 幸いなことにウィンドウは生きている。彼はもう一度ウィンドウを呼び出し、そこからどうにか情報を得ようと目を皿にして視線を走らせる。 ウィンドウ上には、数字と英数字が混在する羅列――以前から使用していたAGOのIDの下には、見覚えのあるウサギ耳の黒いシルエットと【0%】と意味不明な数値――そして、 『ほとんどが文字化けって鬼畜すぎるだろう!? 一体全体オレが何をした!!』 ウガーッと憤慨してもうんともすんとも言わない。なんだか虚しくなってきて、彼は涙を飲みながら【?】だらけのウィンドウに向き合う。 『たぶんステータスだよな? これ……ステータスの上段部分は名前とか性別とかがお約束だろうよ。それすら表示されないって』 ぶつぶつ愚痴った瞬間、またしても軽快な効果音が上がり、新たな文章が視界いっぱいに表示された。 【情報の開示条件を満たしました。開示しますか? YES/NO】 『……マジ!? イエス! 当然イエスだゴラァッ!!』 選択した途端にウィンドウの最上部【?】が開示される。 名前:?? たったそれだけの開示だったが、彼は確かな手ごたえを覚えた。 『よしっ! よしっ!! なんとなくわかったぜ。オレが認識することで情報が開示されていくんだな。よし! この調子でバンバン解放していくぞ!!』 持ち前のゲーム脳を駆使し、彼はウィンドウ上の情報を開示に熱をあげた。その結果、 名前:?? 種族:??+α ??:?? ??:?? ??:?? ??:?? ??:?? ??:?? ??:8% 『ぜぃぜぃ……くそっ。AGOのステータスが全部弾かれた。てかなんで獣人+αで弾かれるんだよ! ここってAGOの中じゃねぇのか? つかHPもMPも反応しねぇ! 筋力とか器用さもねぇし、SPとかレベル、スキル、アビリティもねぇとかどんなクソゲーだゴラッ!!』 ウィンドウに向かって唾を飛ばす勢いで荒ぶっても、ステータスの情報欄は無反応だ。 途端に虚しくなって彼は数時間前――正確に時間は把握できていないが、体感的には何時間も経った気分に浸りながら振り返る。 『せっかくレアキャラ引き当てたと思ったのに……オレにもその幸運くれぇ』 情けない声で嘆願した途端に、あの効果音が鳴り響く。 バッと獲物に飛びかかる猫のような俊敏さでウィンドウを見つめる彼の視界に、新たな情報が開示される。 【幸運の詳細を表示しますか? YES/NO】 『キタあぁああぁああああぁああぁああ!!』 もし身体の自由が利いたなら彼は小躍りせんばかりに狂喜しただろう。しかしそれは叶わず彼は嬉しさを噛みしめて【幸運】の詳細の開示を選択した。 【幸運=運が上昇。巡り合わせに恵まれる。本人の精神状態によって上昇率が変動する。尚、運の上昇率は周りにも影響する】 「もしかしてこれはオレが引き当てたレアキャラのステータスってことか? でもAGOのステータスは全部弾かれたし……バイタリティ」 ピロリン、と軽快な効果音が鳴り、【幸運】に次いで【バイタリティ】の情報が開示された。 【バイタリティ=消耗や治癒力の回復率が上昇。状態異常の抵抗率が上昇】 「よしっ! でもレアスキルって言っても解放されねぇんだよな。別の呼び方か? 技能とか資質とか天才とか」 思いつく限り関連せいのありそうな単語を次々に口にしていく。その結果、 名前:?? 種族:??+α 称号:?? 技能:?? ??:バイタリティ ??:?? 天与:幸運 ??:?? ??:17% 『よ、よし。悪くない成果……だよな。てか幸運とバイタリティが違う項目なんか。このパーセン表記ってなんなんだ?』 うんうん悩んでいると子供の泣き喚く声が聞こえてきた。 ぐずつき、痛がり、一心に母親を求めている幼い声の発生源が非常に近い――自分の身から発せられていることに気づくのに彼は暫くかかった。 はぁ? 「あちゃまいたいぃぃぃ! おめめいちゃいぃぃぃ!! かかあぁぁああ!!」 はあぁあぁあぁあぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!? ◆◇◆ 名前:シラオリ 種族:??+α 称号:?? 技能:?? ??:バイタリティ ??:?? 天与:幸運 ??:?? ??:21% 『……はぁぁあぁぁぁああぁぁぁ』 若干増えた項目のステータスを前にそれはそれは深いため息が落ちる。 母親にあやされて安心したのか子供――シラオリの規則正しい寝息に耳を傾けながら、さらに混乱がひどくなった頭で状況を整理する。 どうやら自分はAGOの世界に転生――否、シラオリという子供に憑依(?)したようだ。 憑依と言っても身体の主導権はシラオリだ。彼に許されたことといえば、シラオリが見た聞いた食べた嗅いだ触れた――所謂五感の共有くらいだ。どうせなら記憶も共有出来たらよかったのに。 せめてシラオリ本人と意思疎通ができたらよかったが、あいにくいくら話しかけても応答はなかった。 頼みの綱のウィンドウに拝み倒しても成果はなく、いったんステータスから離れ、彼はシラオリの聴覚で盗み聞きした一家のプライバシー情報をまとめた。 視覚的な情報は号泣するシラオリの涙目のせいで一切得られなかったが、未だに混乱が収まらない頭にはちょうどいい情報量だった。 シラオリは母親と叔母の三人暮らし。父親の気配が一向にないことから、出稼ぎにでているのか、はたまた死別か別居か。とにかく三人暮らしなのは間違いない。 母親は医学の心得があるのか、時折彼女の薬を求めて来訪者がやって来る。シラユキ先生、と呼ばれていることから慕われているのだろう。 これで息子を処分する発言していなければ、彼は彼女のことを賢母と呼んでいたに違いない。 そして叔母はそんな彼女が早まった行動に出ないか気が気でないらしい。シラオリの傍にべったりで甲斐甲斐しく看病している。そんな叔母の気も知れないでシラオリは病人の特権を振りかざして数々のわがままを言った。 ポポムの実が食べたい、あったかいメル乳が飲みたい、ゴッコに会いたいなどなど。 わからない単語が多く、ゴリゴリに削り取られた彼の精神を癒したのは、シラオリが口にする数々の甘味だ。 ちなみにポポムの実は桃に近い果物。さらにメル乳は牛乳でほんのり甘みがあり、隠し味にはちみつか何かを使っているのだろう。 是非ともシラオリには当分の間は寝床の住人になっていてほしい。 「シラハ、マキナの様子はどう?」 「排除モードから自衛モードに切り替わったみたい。境界線を犯さなくなったし、片っ端からポンコツにしてやったらしっぽ巻いて逃げて行くようになった」 シラオリが寝付いても彼の意識は健在だ。それをいいことに彼はシラオリの聴覚を駆使して大人の会話を盗み聞きする。 「そう……それだけでも僥倖だわ。いくらシラハが強いからって広範囲に攻められたら山村に被害が及んだかもしれないもの」 「姉上、マキナの残骸は裏手にまとめておいたが」 「ありがとう。後で収納しておくわ」 どうやら外ではマキナと呼ばれる危険な獣がうようよしているらしい。襲ってこない境界線――所謂セーフティポイントがあるが、条件次第ではそれ無効とされるらしい。 『おいおいマジかよ。この弱小種族のシラオリくんがマキナとばったりなんてしたらひとたまりもねぇじゃねぇか』 まだ見ぬ外の環境に戦々恐々としていると、すでに聞き慣れた効果音が鳴った。 称号:弱小/??→ 『……まったくうれしくないんですけどぉ』 【弱小=基本運動能力が全種族弱小種族。色覚と繁殖力が高い】 『繁殖力ってまんま肉食獣の餌枠じゃねぇか!』 まったくうれしくない情報開示に、彼はウガーッと頭を抱えながら、まだ見ぬマキナと一生涯無縁な生活を切に願った。 「そういえばコッコが妙な噂を拾ってきた」 「……都中の薬師が招集されている話し?」 新たな情報に彼はシラオリの聴覚を駆使して盗み聞く。ウサギ耳というだけあってシラオリの聴覚は優れモノだ。 「姉上にも声がかかっているの? どこのどいつだ。シメてやる」 「そんな凄まないの。ちゃんと丁寧且つはっきりと固辞しておいたから大丈夫よ。あちらだってわたくしたちを敵に回すような馬鹿な真似はしないでしょう」 「そんな馬鹿がいた場合は? この身が処分」 「今後二度と関わりません」 シラハの不穏な発言を遮るようにシラユキがきっぱり言った。 姉上は優しすぎる、と不服そうにごちったが、彼女はそれ以上言及せず、納得した風に呟いた。 「こちらに殺到したマキナが都に進路を変えたのはそういうことか」 「……そうね。都には五大将がいるから多少は安全でしょう」 大人の会話はここでお開きのようだ。二人が就寝する気配を感じ、たった今得た情報を忘れないうちに左側のタブからメモ機能を呼び出す。 ちなみにタブはマップ機能とメモ機能しか存在しない。マップ機能はマッピング作業を行わないと開示されないのか現時点では使えそうにない。 メモ機能は思考入力タイプのようでリアルタイムで記入できるのは非常に有難い。 『なんかフラグっぽかったけど、此処は辺境地っぽいし、都なんてずっと遠いだろう。たぶん……薬師か。それっぽい単語で攻めてみよう。あとこの聴力も引っかかりそうだな』 聞くだけ聞いて彼はウィンドウを呼び出し、謎解きに没頭するかのように情報開示に勤しむ。地味で虚無的な作業だが、今の彼には必要な現実逃避だった。 名前:シラオリ 種族:??+α 称号:弱小/??→/見習い薬師 ??:?? 技能:調合Lv32/情報収集Lv30/隠蔽Lv21?? ??:バイタリティ ??:?? 天与:幸運 臨界:盗み聞き/音量調節/採取 ??:36% 【音量調節:音量を調節できる。尚音量の調節は本人の状態による】 【情報収集:強化された聴覚により情報を無差別に収集できる。記憶術の効果が上昇】 【隠蔽=姿や物など隠蔽工作が可能。ただしLvが低いと看破される】 【調合=複数の野草を配合し、薬剤を精製することができる】 【臨界=技能を高め、頂に至った技能】 【見習い薬師=薬師の卵。薬学の知識を持つ。効果量が低く毒性が高い下薬しか調合できない】 【盗み聞き=臨界Lv突破。全方位三キロ圏内の音を拾うことができる。本人の集中力やコンディションで効果が変動する】 【採取=臨界Lv突破。品質向上。採取した植物の効果効能を向上させる】 『技能値が偏りすぎだろう。いや、弱小種族なのに意外とハイスペックなのは嬉しいんだけれども……もっとこう戦闘に役立つ技能を習得しようよぉ。隠蔽とかは使えそうだけども』 偏ったステータスを前に彼は凹んだが、シラオリがただの弱小種族でないことは不幸中の幸いだ。 『てか調合系の技能って初めてじゃねぇ。今まで戦闘系ばっかこだわってたから……いや、そもそも戦闘系のスキル持ちしか引かなかったような』 まぁそれは置いとこう、と考えても仕方のない疑問に引っかかるよりも、他の問題に着手した方が建設的だ。 『このLvって所謂熟練度ってやつかな。このステータスでシラオリがエネミーを倒して経験値を得られるわけワケねぇし……いや、待てよ。例え弱小種族だとしても戦闘スキルをこれから習得してLvを上げさえすれば結構イケるじゃねぇか。弱小種族でも戦えないってワケじゃねぇんだしまだ希望が』 ぶつぶつ言いながら思案に浸っていると、シラオリを起こすシラユキの声がし、緊張が走る。 「シラオリ、起きなさい。ほら、起きて。耳栓を抜くわよ」 『え、これで耳栓した状態かよ。シラオリの聴力パネェ』 寝ぼけているシラオリをやや強引に起こして自力で座るように促すが、シラオリは嫌がるように身をよじり、あったかい布団が恋しいとばかりに布団へ逆戻りしようとする。 「こら、起きなさい」 「いやぁ。ねむい」 ため息が落ちた直後、シラオリの耳穴から何かが引き抜かれた。その瞬間、凄まじい騒音が津波の如く押し寄せ、激しい耳鳴りがシラオリの脳みそを直撃した。 「『おぅ〜ッ』」 「ちゃんと音量を調節しないからよ」 するとすぐに耳鳴りは治まった。これが音量調節の効果なのだろう。 「痛くない?」 「大丈夫」 『本人の状態ってこのことか。無意識に発動する場合は精度がかなり落ちるって感じか? 耳が良すぎるのも考えものだな』 「じゃあ次は目を診せてね」 スルスルと衣擦れがし、シラオリの目を覆っていた包帯がほどかれる。徐々に明かりが慣れていく目が捉えたのは、白銀の髪を腰まで伸ばした赤目の美女だ。 上品な目鼻立ちはまるで神に愛されたと言っても過言ではないほど整っていて、若干垂れた目は男女問わず庇護欲を掻き立てるほど愛らしく、毛ぶるような長いまつ毛に縁どられた瞳は紅石だ。 淑やかでたおやかで清楚な大和撫子の理想を体現化したかのような、シラユキの容姿に彼は目が離せない。 これが魅入られる、ということなのか、と彼は他人事のように思った。 黒を基調とした喪服のような服装は、彼女の世俗離れした雰囲気によく似合っていた。長い髪の毛は伝統的な柄を思わせるターバンでまとめ上げ、耳は覆い隠されている。 「まぶちぃ」 「そのうち慣れるわよ。うーん。充血はひとまず収まったわね。瞳孔も正常……はい、カカの指を数えてね」 シラオリは素直に母親が立てた指を数えて言った。数えていくたびに立てる指は増えたが、たまに引っかけをしたりする。もちろん視界良好のシラオリは引っかからなかった。 「視力も正常ね。痛かったりかゆかったりしない?」 その問いかけにシラオリはぶんぶん首を振った。その動きに合わせてウサギ耳がひょこひょこ揺れる。 その耳を覆い隠すようにターバンでまとめる。琥珀の櫛で軽く髪の毛を漉いたシラユキが満足そうに頷く。 「はい。できました」 「カカ、だっこ」 「はいはい。シラオリは甘えん坊さんね」 笑顔で両手を差し出され、シラオリは破顔して掛布団を蹴っ飛ばす勢いでその身体に飛びつく。 女性特有の柔らかく優美な曲線を描いた身体でふんわりと受け止める。 抱き寄せる腕に躊躇はなく、向ける眼差しに疑心は含まず、シラオリの背中を撫でる手つきは愛情に溢れている。 『……とりあえず母親の方は問題なさそう、なのか?』 シラオリが豊かな胸に顔を埋めて甘えていても、彼はシラユキに対して警戒心を捨てきれない。 あの狂気的な発言と今の彼女の言動はかなり矛盾している。しかし彼女が凶行に及んだところで文字通り手も足も出せない彼は、『シラハ様、仏様。何卒何卒おねげぇします』と全力で他力本願するしかない。 彼が拝み倒しているうちにシラオリを抱っこしたままシラユキが寝室を跨ぐ。すぐに食欲を刺激するおいしそうな香りがシラオリの鼻をくすぐった。 『あれは囲炉裏か! じゃあここはやっぱり獣人の領域か』 居間の中央の床は四角く切り開かれ、敷き詰められた灰の上で熾った火を用いて調理をしているシラハの後ろ姿に彼は興奮と郷愁に似た湿っぽさを覚えた。 いい匂いは、火棚に吊り下げられた自在鉤にかかった鍋の中から漂っている。 「シラオリ、おはよう」 振り返ったシラハは、中性的で秀麗に整った顔立ちと褐色の肌が特徴的な麗人だ。 黒髪の短い髪の毛をシラユキと同じ柄のターバンでまとめていて、二つのとんがりは恐らく耳を覆い隠しているからだろう。 長い柳眉の下の切れ長の瞳は凛々しく、均一の取れた身体はシラユキと比べると頭二つ分ほど上背がある。しかし鈍重さなど欠片もなく、大型肉食獣のしなやかさを感じさせた。 「おはよう、はっちゃん。お腹すいた」 シラハだからはっちゃん。なんとも不釣り合いな愛称である。もしかするとシラオリは致命的にネーミングセンスがないのかもしれない。それを容認する方も容認する方だが、はっちゃん呼びされた本人は穏やかに微笑んでいる。 「そうだと思ってポポムの実を収穫しておいたぞ。早朝採ったばかりの鮮度抜群だ」 「いやったーっ!!」 シラハは相好を崩し、万歳して喜ぶシラオリの髪の毛に手を差し入れ梳くように撫で回す。 「ポポムの実は朝餉が終わった後にね。ほら、シラハもシラオリを甘やかさないの。すぐに調子に乗るんだから」 「姉上には唐辛子」 「……だからそうやってわたくしたちを甘やかさないの」 『とかなんとか言って嬉しそうに受け取ってるし。つか、それあの唐辛子だよな? ブードジョロキアに近い形状だけど』 真っ赤に燃えるような赤い獅子唐のような形状の唐辛子を、まるでスナック菓子のようにもぐもぐする姿にさすがの息子もドン引きだ。 囲炉裏の炉縁にはすでにシラオリの朝餉が用意されてあった。玄米よりも色が薄く黄色っぽい雑穀のような握り飯と煮豆に卵焼きが小皿に並んでいる。 ただこの一家の味の好みは、まとまりがなかった。 『シラオリは甘党で、カカ様は激辛党。シラハ様は肉党か?』 シラユキの朝食にはすべて血のように真っ赤な粉末がかかっていて、速攻で目を逸らすシラオリに彼は大いに共感した。最早あれは食材への冒涜としか思えない。 シラオリが視線を逸らした拍子にシラハの朝食が目に入る。こんがり焼き上がった獣の丸焼きは見ているだけでも胃もたれする。 胃の辺りを押さえて気持ち悪そうに呻いていると、シラハが手早くお玉でよそった器をシラオリに手渡す。 それは野草とキノコがたっぷりの汁物だ。渦巻き状の尻尾が自然と左右に振れ、シラオリの腹の虫がぐぅ〜と主張し出す。 「いただきましょうか」 シラユキの許可が出た瞬間、「いっただきます」ときちんと手を合わせてから速攻で握り飯を汁物にダイブさせた。 どうやらシラオリは猫まんま派らしい。箸で握り飯をつついて崩して浸したそれを、はふはふと熱そうにしながらも口いっぱいに頬張る。 黄色い雑穀はぷちぷちした食感で甘みがあり、シャキシャキした野草とキノコの素朴な味わいが絶妙だ。シンプル故に素材の味がよく出ている。 ごっくんと飲み込んだ後、卵焼きに箸を伸ばす。卵焼きはキノコの出汁が利いていてとても上品な美味だ。ふわふわの食感をゆっくり味わった後、シラオリはカカカカカ、と器用に箸を動かし、口いっぱいにご飯を詰め込む。 「シラオリ、煮豆も食べなさい」 「ん〜」 口の中にあるものをもぐもぐしながら、全力で首を左右に振って拒否するシラオリ。どうやら煮豆が苦手らしく、そっと器をシラハの方に差し出す。 それをあっさり受け取るシラハはやはりシラオリに甘い。 「シラハ」 「ほ、ほら。シラオリは病み上がりだし、喉が弱っているかもしれない。また詰まらせたら大変だ」 「よく噛んで食べたら問題ないでしょう。そうやってあなたが甘やかすからシラオリが調子に乗るのよ」 「ごっくん。はっちゃん、ありがとう。ポポム、ポポムの実」 煮豆以外朝餉を残さずきれいに平らげたシラオリは、至極幸せそうに食後のデザートを口にする。 シラオリがポポムの実を平らげる頃には、大人は朝餉を終えていてそれぞれ食器の片づけに移っていた。 「シラオリ、食器を持ってきて」 シラオリはやる気十分といった様子で手際よく食器を重ねて、流し台に突っ立つシラユキの元に運ぼうとするが、 『えぇ……』 思わずドン引きの声を漏らす。器はすべて木製で、重ねても大した重みにはならないはずだが、器を重ねて持つシラオリの両手はプルプルと危なっかしいほど震えまくっている。 そして彼は悟ってしまった。シラオリの膂力の限界値を。 「ねぇ、カカ。ゴッコたちとお散歩してきてもいい?」 「はいはい。ついでに山村の狼煙を確認してきてちょうだい」 「うぇ」 心底嫌そうな声を発するシラオリの額を軽く小突く。 「そんな嫌そうな顔しないの。狼煙が上がらなくても今日は山村に行くのだからね」 「あ、ボクまだ病み上がり。頭いたいなぁ。うん、いたい。いたいなぁ」 わざとらしく頭痛を訴えるふりをする。シラオリは山村に行きたくない事情でもあるのか露骨な仮病作戦だ。 いや急すぎるだろ、と彼はツッコミを入れた。 「シラオリだってタオさんやタニャさんに会いたいでしょう。2人とも寝込んだあなたのことをすごく心配してくれたんだからちゃんとお礼を言うのよ」 うっ、と呻くシラオリにダメ押しとばかりにシラユキが続けた。 「そうそう、この間ダヴィくんが自力で寝返りできるようになったらしいわよ」 「頭痛いの治った! ダヴィくんの寝返り見に行く! あとお土産用意する!」 『手の平返しはやっ!』 「それがいいわ。きっとダヴィくんも喜んでくれるわよ。コッコにお使い頼みたいからついでに呼んできてちょうだい」 シラオリは白い頬を紅潮とさせ、何度もコクコク頷いてから、いそいそと外に出る支度をする。 『卵焼きが出たってことは養鶏でもしてんのかな? 確かゴッコとコッコか? 安直すぎやしませんかね』 「いってきます」 「はい。気を付けるのよ」 『ようやく外に出れるか。いったいどんな……』 玄関口を踏み越えた先は、うっそうと樹木が生い茂る森――否、山だった。 『……』 予想以上の大自然に彼は呆気に取られてポカーンとする。 山の中に佇む茅葺き屋根の家屋は意外なほど溶け込んでいた。手入れの行き届いた前庭には立派な畑があり、すぐそばには馬屋のような簡素な建物の柵から、ひょっこり顔を覗かせた巨大な生き物に彼は悲鳴をあげる。 「おはよう、ゴッコ、コッコ」 ゴッゴォ! と雄々しくシラオリの呼びかけた返答したのは、黒い軍鶏のような生き物だ。 鶏冠と顎の下に垂れ下がった皮膚は赤く、鋭利に尖った嘴と蹴爪は黄色。 首は長く、発達した胸筋や太ももは屈強で、その身体は強靭な筋肉で鎧われている。 見た目は軍鶏そっくりなのだが、問題はその全長――シラオリよりもずっと高く、大人3人軽く騎乗できるほど巨体に彼は盛大にビビった。 『え、大丈夫? 近づいた瞬間、ばっくんちょされたりしねぇよな……てか、めちゃくちゃ迫力あるんですけど!? いきなり中ボスとご対面とか幸福仕事しろやこのヤロウ!?』 ギャーギャー喚き散らしてもシラオリには届かない。テトテトと迷いのない足取りでゴッコに手を振りながら駆け寄っていく。 しかしここにきて彼は疑問に思った。 『柵に手が届かねぇんじゃねぇ? 一体どうすんの?』 小屋の柵は高く、子供の身長では背伸びをしても届かない。小柄なシラオリなら猶更だ。 不思議に思っていると、シラオリが柵を指さし、 「外に出てもいいって」 ゴケッ、と頷いたゴッコは、その巨大な嘴を左右にずらし、柵の丸太をがっちり挟み込んでひょいっと持ち上げた。 『柵の意味』 彼が呆気に取られている間に外れた柵の中からもう一羽――こちらがコッコなのだろう。普通の軍鶏と大差ないサイズに彼は安堵し、 「コッコ、カカがお使いしてほしいって」 「ホイホーイ! スグ行クヨーッ!!」 うげぼほっ、と盛大にむせた。 『……鶏がしゃべった!? はぁ? え? AGOにはそんな生物いなかったぞ!?』 コッコに遅れて小屋から出てきたゴッコは、野太い声を発してその巨体をシラオリにすり寄せる。 手加減してくれているのか。ゴッコの巨体がすり寄ってもシラオリの重心ぶれることない。 するとゴッコがいきなり首を大きく下げ、シラオリの股に頭を差し入れてからひょいっと頭を持ち上げた。 華奢な身体はゴッコの頑強な後ろ首をスライディングして、顔から黒い羽毛だらけの背中にダイブする。 ぷほっ、と息苦しそうな呻きをあげたが、シラオリはすぐに姿勢を正し、腰を沈めるように背中にまたがった。 その姿勢は素人の彼ですら『おっ?』と思わせるほど洗練されていた。 「ぶっ飛ばせ、ゴッコ!」 ゴッゴォッ!! と雄々しく鳴き、強靭な蹴爪が地面を蹴り上げた瞬間、緩やかに加速する。 『さ、散歩じゃねぇぇええぇぇえぇぇ!!?』 シラオリは楽し気にきゃっきゃっと笑いながら、全身にかかるGに苦も無く適応し、絶えずかかる激しい振動を巧みなバランス感覚でやり過ごしている。 意外な特技に彼が驚いているうちに、森はさらに深くなり、重なり合った木々に覆われて太陽の位置すらわからないほど薄暗くなっていく。 それでもシラオリの視界は良好だ。おそらくイヌ科特有の夜目を獲得しているのだろう。 『!』 張り出した木の根や下草だらけの獣道がいきなり抜けた。 むき出た地肌に蹴爪を立てて加速が落ち、緩やかに立ち止まったゴッコの前に現れたのは、切り立った崖だ。 見渡せば真っ青な大空と大地を埋め尽くす森林。そしてそんな大自然の一部をぽっかりくり抜くように集落があった。 『おぉっ! 遠目じゃ家しか確認できねぇけど、こんなド田舎にしてはそれなりの人口じゃねぇか。ひぃ、ふぅ、みぃ……少なく見積もっても14世帯以上はいる感じだな』 「狼煙はなし。あ、ルコルの実発見! あれをお土産にしよう」 シラオリが指さすとゴッコがその方向へ歩み寄って屈んだ。繁みの先端にはたくさんの赤い実がなっていて、シラオリは慣れた手つきで素早く採取していく。何個か摘まんで、あーん、と口に含んだ瞬間、舌に粘りつくような甘さに彼は呻く。 『うわぁ、あっまぁ。これ水で薄めて飲む物だろう。平気な顔でぱくぱくと……ひとまずステータスを解放させるか。【騎乗】いやこの場合【騎手】か?』 ピコンという効果音と共に、増えた情報の詳細を開示させる。 名前:シラオリ 種族:??+α 称号:弱小/??→/見習い薬師 ??:?? 技能:調合Lv32/情報収集Lv30/隠蔽Lv21/騎乗Lv52 遺伝:バイタリティ/暗視/混血/超聴覚 ??:?? 天与:幸運 臨界:盗み聞き/音量調節/採取 ??:42% 【騎乗=乗りモノに乗りこなす能力。G耐性、バランス感覚、酔い止め補正がかかる】 【遺伝=遺伝的に受け継がれる特質】 【暗視=夜目が利く】 【混血=異なる種族の遺伝子を受け継ぎ、両種族の特徴が混ざる。両種族の特性を受け継ぐ】 【超聴覚=聴覚が非常に優れ、広範囲の音を聞き取れることが可能。聴覚に関するステータスに大幅なボーナスがかかる】 『おーおー。かなり解放されてきたんじゃねぇ? そろそろ最後の数字が折り返しにいきそうだな。とりあえず当面の目標に……なんだこの音?』 どったんどったん、と傍若無人に地面を蹴り上げるような激しい足音は、どうやらこちらに向かってきているようだ。 ルコルの実に夢中になっているシラオリはまったく気づきもしない。のんきにルコルの実を摘まみ食いしては口の周りを赤く汚している。 大丈夫かな? と心配していると、遅れて異変に気付いたらしいゴッコが警戒するように首をもたげ、シラオリの襟首を嘴で銜えた。 「『ぐへっ!?』」 いきなり首根っこを掴まれその場から引き離される。 シラオリの口からまるで首を絞められた鶏のようなうめき声が漏れた。否、シラオリの場合はウサギか、と思わずそんなくだらない考えを抱くほど、繁みの奥から襲い掛かってきたトカゲは規格外だった。 見るからに硬そうな鱗は暗灰色で皮膚は象かサイによく似ている。彼の現代の知識でコモドオオトカゲに酷似したトカゲ――しかしその全長や体重は倍以上なのは容易に想像できるほど巨体だ。 屈強な顎から覗く、太くて鋭利な牙は噛みつかれたら致命傷だ。幼児のシラオリなどあっという間に一飲みされてしまうだろう。 獲物を仕留められず相当ご立腹な様子のトカゲは、毒々しい牙や舌をむき出して即応状態のゴッコと睨み合う。 『うぇぇ。怪獣映画』 「ゲホッ。ゴッコ、がんばれ! 今晩の夕餉だ!!」 『たくましいなお前っ!? え? あれ食うの? うさぎのくせに肉食!?』 主人の声援を背にゴッコが飛びかかるのと同時にトカゲも動いた。 空中に身を躍らせたゴッコが激しく羽ばたく。驚くべきことにその巨体が空中でホバリングさせ、トカゲの牙や爪を悠然と避けた後、その顔面を両足で踏みつけた。 全体重を乗せた踏みつけは中々のダメージだったようで、トカゲがたまらず追撃を恐れて逃走を図る。 しかしすぐさま回り込まれ、退路を断たれたトカゲの脳天にゴッコの強烈な踵落としが決まった。 ゴシャッ。まるでスイカ割りをした時のような生々しい音の後に、絶命したトカゲの太い尻尾を嘴で掴んで、どうだ、と言わんばかりにシラオリに見せびらかしてくる。 モザイク加工必須のグロテスクな死骸を目の前に晒され、両者の反応は対照的だった。 『うえぇぇぇぇぇぇ。グッロッ』 「うっし。ゴッコおつかれ。それ持って帰るよ」 ゴケッ、頷いて了承の意を鳴いて伝える。 どうやらゴッコはコッコのように人語をしゃべらないが、人語を理解するほど知能はあるようだ。 ゴッコはシラオリを乗せ、その嘴に大トカゲを銜えながら帰路につく。 『なんだこの音?』 風を切るような鋭い音に彼は首を傾げた。超聴覚のシラオリですら明確に聞き取れない微音は自然のものではないことは確かだ。 「はっちゃんが鍛錬してるかも! 見に行ってみよう!」 ゴッコが進路を変える。 繁みを抜けると、家の裏手に出た。そこにいたのは、シラハだ。 集中しているのか、彼女は無心で剣を振るっている。まるで嵐の中で舞う蝶のように鮮烈で美しい剣技に彼は素直に見惚れたが―― 『バクだ。こんな近くにバクキャラがいたぁ』 シラハが振るうのは、広幅の巨大な剣だ。黒い剣身はシラハの引き締まった胴回りよりも太く、全長はシラオリをゆうに超すそれを、まるで身体の一部のように扱う彼女の膂力ははっきり言ってバクである。 わぁわぁ、と興奮するシラオリがゴッコの背中から降り、シラハの傍に近づこうとした刹那、急に彼女の動きが止まった。 「シラオリ、危ない!」 へっ、とシラオリが呆けた声を発した瞬間、ふわりとした浮遊感に身体が浚われ、小さな身体は暗闇の中に真っ逆さまに落下した。 『落とし穴あぁぁぁぁぁああぁ!?』 「ふがっ!?」 咄嗟の姿勢と底があまり深くなかったことが幸いしてそれほど痛みはなかったものの、驚きと恐怖が許容範囲を突破したシラオリに、彼は『またかぁ〜』と辟易する。 『本当にラッキーボーイかこの子。アンラッキーボーイの間違いでは? オレ騙されてない? ん?』 ふと彼は穴の隅に残った異物を見つけた。 それはのっぺりと平べったくて、金属のような、貝殻のような不思議な光沢を宿している。 その形状に彼は猛烈な見覚えを抱いた。もっと近くで形状を確認したい、という欲求は、まるで羽が舞い降りたかのように降り立ったシラハによって絶たれる。 「シラオリ、大丈夫か?」 彼女はぐずるシラオリを抱っこすると、音もなく一っ飛びして穴から脱出した。 「すまない。こんなことならもっと早く埋め立てておくべきだった」 頭を優しく撫でられるとシラオリの涙が引っ込んだ。高い高いすると泣いていたことも忘れてきゃらきゃら笑う。 なんとも現金……というか、単純というか。人知れずシラオリの将来を案じる彼だった。 「さて、すぐに埋め立てたいところだが、あいにく時間がない。ひとまず布で塞ごう」 シラハは大きめの布を持ち出し、穴の上から被せ始める。その間にシラオリはゴッコと一緒に手ごろな大きさの石を集め、布の端に置き出した。 「お前は気が利くなぁ。かわいくて、頭がよくて、その上気が利くなんて……この身の甥っ子は完璧だ」 えっへへ、と褒められて嬉しそうに笑うシラオリを、「かわいいかわいい」とでれでれの情けない表情を晒すシラハに、彼はドン引きした。 『甥バカか。つか、あの異物……やっぱどこかで見たことあるような』 穴の底に落ちていた異物に未練を覚えるうちに、作業を終えた2人が移動し始める。 向かった先は、水溜め場だ。 恐らく沢か湧き水を引いているのだろう。森の奥から伸びる竹樋から絶えず流れている水で汚れた手や顔を洗い流す。 すると水面にシラオリの顔が映り込んで、彼はその幼さを残しつつもシラユキそっくりの美貌に息を飲んだ。 銀の絹のような髪は鎖骨まで長く、アーモンド形の大きな瞳は、光の角度によって黄金にも輝いて見える琥珀だ。 妖精のようなという表現が霞むほどの顔立ちに、シラハが「かわいいかわいい」とシラオリにメロメロになる気持ちがよく分かった。 『こりゃ冗談抜きで魅了されるわ。つか、この一家なんでこんなに容姿端麗なの?』 「よし。ゴッコ、それを解体したら鶏車の準備をするぞ。シラオリは姉上を手伝ってくれ」 はい、と良い子の返事をし、ぱんぱんの手提げ袋を持って意気揚々と帰宅したシラオリは、さっそく今日の戦利品を母親に自慢する。 「カカ、見て見て。ルコルの実いっぱい採った」 「あら。本当にいっぱい採ったのね。じゃあそれと一緒にこれを荷台に運ぶわよ」 うん! と頷くラオリが青臭い匂いがぷんぷんする麻袋を両手で掴みかかる。 「うんしょっ。どっこいしょ」 『……やっぱこれガチかぁ』 中身は恐らく薬草類だから子供でも容易に担ぎ上げられる重さだが、シラオリはずるずる引きずるばかりで担ぎ上げようともしない。 他人からしたら、何してんのこいつ、的な目で見られるだろう。 非力なフリをして仕事をさぼっている、と邪推する者もいるかもしれない。 だが彼――シラオリをリアルタイムで体感している彼は、それがシラオリの非力すぎる膂力の限界値に愕然とした。 『やべやべ。予想以上に非力だった。これじゃあ戦闘スキルとか無理やん!』 戦闘系のスキルを獲得するには最低限の膂力が必要だ。最低限すらないシラオリでは取得すらできない事実に彼は絶望の悲鳴をあげる。 「シラオリ、代わろう」 「やだ。ボクが運ぶの」 「その心意気は素晴らしいが、ほらさすがにそれでは地面に擦れて穴が空いてしまうだろう」 その指摘に反論できず、シラオリが「むぅ」と口ごもった。 「シラハ、それはわたくしとシラオリが運ぶからあなたはこれらをお願いね」 丈夫そうな木製の箱を背負うシラユキが指し示したのは、2つの土製の大壺だ。 「心得た」 大人一人で持ち運ぶのも大変そうな大壺を、彼女は2つとも担ぎ上げて見せた。眉一つ動かさず、重さも感じていないような涼しい顔で持ち運ぶ。 『……本当に血縁者? この子にちょっとそのバグった膂力分けてあげてよ〜』 「カカ、どうしてはっちゃんはあんなに力持ちなの? ボクも大きくなったらはっちゃんみたいになれる?」 シラオリは拗ねた様子でシラユキにまとわりつく。 羨望とほの暗い嫉妬の念が入り混じったシラオリの複雑な心境を垣間見て、彼は意外に思った。 彼の中でシラオリは天真爛漫で純真無垢の子供だ。そんな子供が、誰かを妬んだり、嫉んだりする――劣等感を持ち合わせていることが意外に感じた。 「シラハはわたくしたちとは違うのよ。血は繋がっているけど、根本的に……ね」 「こんぽん?」 「シラオリが努力してもシラハのようになれないように、シラハが努力してもシラオリにはなれないの。だからあなたはあなたらしく大きくなればいいのよ」 『なんか意味深げな……まさかフラグじゃないですよね、カカ様』 「んー。カカの言葉はむずかしい」 難しい言葉に目を回すシラオリの中で、フラグを立てられた気がしてならない彼は戦々恐々した。 「そういえばシラオリ」 「ん?」 握った手に力がこもり、シラオリは不思議そうに母親を見上げる。 「……なんでもないわ。さぁ運びましょうか」 常にない母親の様子にシラオリは不安を抱いたが、「行きましょう」という声はいつもの母親のそれだったためすぐに笑顔になり、お互いに麻袋の端を持ち合って運んだ。 『……やっぱ危険じゃねぇ、カカ様』 シラオリが抱いた不安が的外れではないことを、彼だけは察していた。 ◆◇◆ 『こんな獣道を荷車でどうやって移動するのかと思ったら、ちゃんとそれなりの車道があったのね。てか……ぶふっ』 均されただけの山道をガタゴト揺れながら、馬車ならぬ鶏車は快速する。 揺れるリズムに合わせ、シラユキが口ずさむ歌をシラオリが真似る。 しかしシラオリは致命的な音痴らしい。さっきから音程がずれまくって、彼は1人で大爆笑だ。 「シラオリのその音痴はシラハそっくりね」 「そんなところは似なくていい」 荷台を引くゴッコの手綱を握るシラハがボソッと言う。 「似なくていいところが似ちゃうのだから不思議なものね」 「その点シラオリは姉上のいいとこ取りだな。かわいくて、優しくて、とっても賢い」 「はいはい。どうもありがとう。けど男の子にかわいいって誉め言葉なの?」 「かわいいものはかわいい。きっと大きくなったら姉上みたいに美人かわいいになる」 『あ、やっぱシラオリって男の娘なんだ。憑依してても疑うレベルって現実にもいるんだなぁ』 シラハのぶれない発言にシラユキは苦笑いを浮かべ、かわいいと誉め言葉をそのまま受け取って嬉しそうにする純粋なシラオリの頭を撫でつける。 『おっ。森が開けた』 森が開けた瞬間、シラユキの膝から荷物が詰まった荷台の方へシラオリが素早く移動する。 まるで天敵との遭遇に怯える草食動物の動きに彼は驚き、シラハは心配そうに、シラユキは呆れを滲ませた。 「シラオリ」 「ボクはいません。ボクは不在です。ボクはお荷物です」 荷物と荷物のせまっ苦しい隙間に身体を滑り込ませ、身を縮めて隠れるシラオリの行動に彼は意味が分からなかった。 ほどなくして山村に到着したのだろう。村人たちがシラユキに声をかけてくる。 「先生、おはようさん」 「おはようございます。足の具合はいかがですか?」 「へー。先生の貼り薬のおかげで最近はまったく痛みもないんでさぁ。そういや、先生ところのベベはお留守番かい?」 「いえ。さっきまで元気だったんですけど、はしゃぎすぎちゃって寝ちゃったんですよ」 「ははっ。子供が元気なこっちゃいいことでさぁ」 それでは、と軽く挨拶を済ませて山村の農道を通って目的地に向かう。 『どっこも茅葺き屋根か。時代背景が江戸時代よりも昔なのかな。AGOの文化レベルは地域や種族で変動するし、オレが最後にプレイした都は江戸並みだったはず』 シラオリの視覚から山村の生活水準を推し量る。建物はすべて茅葺き屋根で、農作物を主に生産しているらしく、山村の周りは田畑が広がり、多くの住人が汗水流して働いている。 「うっせ。よっと」 住人たちの気配が遠のいたのを聴覚で確認し、荷物の間から這い出てきたシラオリが荷台からひょっこり身を乗り出す。 「タオおいちゃーん」 シラオリの呼びかけに、農作業をしていた屈強な身体つきの男性が顔をあげる。 子供が泣きそうなほど強面だ。黒い横じま模様の尻尾と丸みを帯びた耳が特徴的な赤毛の男――タオは、首に巻いた手ぬぐいで滴る汗を拭きながら軽く手をあげた。 荷台が停車したのと同時にシラオリが飛び降りる。着地に失敗して、すってんころりんとお尻からひっくり返った。 『うがっ。ちょ、地味に尻尾の付け根がいてぇ』 「うっ」 「シラオリ、大丈夫か?」 涙目になるシラオリを心配してタオが駆け寄ってくる。たくましい節くれだった腕に抱え上げられると、現金なシラオリの涙は引っ込んだ。 「こんにちは、タオさん。その後お変わりなく?」 御車台から降り立ったシラユキが挨拶をする。 シラオリを高い高いしていたタオが不自然なほど硬直し、ふさふさの毛がぞわぞわと音を立てて分かりやすいほど逆立った。 「あ、あぁ。こ、こんにちは、シっ、ラユキ」 『いやどもりすぎだろう。なんだよその分かりやすすぎる反応……いや、この美貌を前にその気持ちはわからん……あっれぇ?』 彼は思わずシラユキの顔を二度見し、驚きの声をあげる。 あの美しいという言葉すら霞むような顔立ちが、まるで薄いベールに包まれたかのようにぼんやりとしてはっきりしない。 違和感なく彼女の美貌は遮られ、その他大勢の中に自然と溶け込んでいる。 『隠蔽の効果か?』 「ん? タオおいちゃん、顔赤いよ。熱? 熱出たの?」 『おいこら鈍感。男なら触れてやるなそこ!』 「本当ね。タオさん、ちゃんと休憩されました? 水分補給はこまめにしなきゃいくら体力自慢のタオさんでも身体が持ちませんよ」 『その鈍感さもカカ様譲りかーい』 「い、いやっ! 大丈夫だ! ちょうど休もうかと思ってたんだ!」 「そうですか。それはちょうどよかった。ではさっそく……」 不意に口ごもったかと思うと、シラユキがいきなり距離を縮めてきた。それだけで赤面する初心なタオは身を引いたが、それよりも早くシラユキが彼の腕を掴んだ。 頬を少し紅潮とさせた顔を上げ、きらきらする目を至近距離から受けたタオの顔がたちまち赤く染まる。 「わたくしにもその素晴らしい上腕二頭筋を触らせてください!」 「あ、ずるい! ボクもボクも」 『筋肉フェチかよ。この親子』 「……別に構わないが」 親子に上腕二頭筋をぺたぺた触られ、すっかり尻尾がへたったタオに彼は心底同情した。 「ちょっとお兄遅いわよ。シラユキ様、シラオリちゃんいらっしゃい!」 理想の上腕二頭筋をたんまり堪能した親子を連れ、若干げんなりした様子のタオが家の玄関を跨ぐと、はつらつとした女性の声が追い打ちをかける。 赤毛に丸みを帯びた耳と縦じま模様の尻尾。勝気な吊り目はタオそっくりで、一目で近しい血縁者だと分かる。彼女がタオの妹、タニャで違いないようだ。 タオ家は六畳くらいの板張りで、中央に囲炉裏が一基。土間には竈が設えてある。シラユキ家と大差ない広さだ。 「あっ。はっちゃん、ずるい!」 一足早くタオ家にお邪魔していたシラハが、赤毛の赤子を慣れた手つきであやしている。 それにいの一番に抗議の声をあげるシラオリの首根っこをシラユキが素早く掴んだ。 「こら、ちゃんと挨拶なさい」 「タニャさん、こんにちは。これルコルの実だよ」 ルコルの実が詰まった手提げ袋を差し出すと、タニャは目を輝かせて嬉しそうに尻尾を左右に振った。 「まぁ、シラオリちゃんありがとう! あとで絞ってみんなで飲もうね」 「やったー! はっ、はっちゃん。交代だよ、交代!」 「ダヴィくんはこれから検診なの。あなたはシラハと一緒にルコルの実を絞ってなさい。タニャさん、お台所を借りてもいいかしら」 何でもないようにそう申し出ると、タニャはとんでもない、と両手を振った。 「そんなシラハ様とシラオリちゃんのお手を煩わせるなんて! お兄がやりますからシラハ様たちは寛いでてください。ほら、お兄!」 「あ、あぁ。わかってる」 妹に尻を叩かれ、タオが台所の棚からすり鉢とすりこ木棒を持ち出してきた。 「じゃあシラオリはタオさんのお手伝いね。シラハ、荷台から肥料を下ろしてきてくれる?」 ん、と軽く頷いてから、シラハは貴重品を渡すようにダヴィをタニャに返し、その小さな頭をよしよしと優しく撫でる。 「健やかであれ」 『……イケメン。いや、イケ女か』 同性のはずのタニャの顔が熱に浮かされるようにぽーっと上気し、頬がほんのりピンク色になる気持ちに彼は大いに賛同する。 「はぁぁぁぁ……ステキ。シラハ様、なんて麗しいのかしら」 「タニャさん、気持ちは分かりますが、シラハは女性ですよ」 『ついでに病的なシスコン&甥バカだよ』 「もちろん存じておりますとも! 女性なのにあんなに麗しいなんて反則ではありませんか!?」 「罪深いことをするものね、シラハも」 「ん? はっちゃん何かしたの?」 『よし。シラオリ、お前の方向性はあれだ。男装の麗人だ。きっとモテモテになるぞ〜』 「なんでもないわ。ほら、タオさんのお手伝いしてらっしゃい」 大人の会話についていけなかったシラオリは終始不思議そうにしたが、母親の催促に「はい」と良い子の返事をしてタオの元に急ぐ。 「タオおいちゃん、やるぞ〜」 おー、と服の袖をまくってやる気を示す。タオも軽く応じてくれた。強面だが、どうやら根は子供好きで面倒見がいい人柄らしい。 「まずはルコルの実を洗います!」 「? わざわざ洗うのか?」 「ちゃんと洗わないとお腹くだしちゃうよ。あ、もっと優しく洗って!」 シラオリのダメ出しにも素直に応じる。面倒見が良いだけではなく、寛容も持ち合わせているようだ。シラオリがタオに懐く理由を彼はようやく理解する。 洗ったルコルの実を布で軽く拭いてから包み、それをすり鉢の中に入れ、気合を入れながらすりこ木棒を両手で持つ。 「うっせ。よいしょ。おっこいしょ」 『……うん。なんとなくわかってたよ』 大人用のすりこ木棒はどうしたってシラオリには太くて重くて扱いづらい。すり鉢をタオに固定してもらいながら、まるでやじろべいのような動きでルコルの実をプチプチとつぶしていく。 「シラオリ、本当に元気になったのか? かなりプルプル震えているが……代わろうか?」 「元気になったの。ダメ。これボクの」 『いや、ここは素直に手伝ってもらおうよ。どうせお前の握力じゃ絞れないんだから』 ある程度、潰せたところで布を絞ろうものの、シラオリの弱すぎる握力では、一滴、二滴しか絞り出せない。 ほらやっぱり、と彼は呆れを滲ませたが、それでも諦めないシラオリの姿は懸命でなんとも居心地の悪い気分を味わった。 「シラオリ、ちょっと耳を貸してくれるかしら」 「ほ、ほらシラオリ。シラユキに呼ばれているぞ。あとは俺がするから行ってきなさい」 シラオリは渋々といった様子でタオにすり鉢を譲り、手を洗ってからタッタッタッと小走りで向かう。 「汗疹の方はだいぶ引いたわね」 「はい。シラユキ様の薬のおかげでびっくりするくらい早く」 「ダヴィくんの肌に合ったみたいでよかったわ。はい、シラオリ。ちょっとダヴィくんの心の臓を聞いてみて」 頭に巻いたターバンを外す。シラオリは気持ちよさそうに両耳をパタパタ動かし、締め付けられていた解放感を存分に味わう。 それを見ていたタニャがほぅ、と熱っぽい吐息をこぼす。 「シラオリちゃんのお耳はいつ見ても神秘的でかわいか〜。ちょ、ちょっと触ってもえぇ?」 「ん。いいよ」 シラオリはあっさり快諾し、長い片耳を差し出す。 タニャの両手がまるで壊れ物に触れるかのように触れると、むずがゆさが伝わり、ふふっ、とくすぐったそうに笑う。 「柔らか、ふわふわのつやつや〜。かわいか〜」 「えっへへ」 『お前、いいのか。一応男だろ』 かわいい、と褒められてまんざらでもなさそうなシラオリに彼はツッコミを入れる。 当然リアクションはなく、彼の大きなため息が虚しく沈むだけだ。 「じゃあシラオリよろしくね」 あいさつ代わりにダヴィのふくふくの頬っぺたに頬ずりする。 それがむずがゆかったのか、ダヴィは嫌がるように顔をそらし、その小さな手でシラオリの髪の毛をぐいぐい掴んで反撃に出た。 「いちゃいぃぃぃぃ」 『あ、うん。地味にくるわぁ。てか赤子のくせに力強くねぇ!?』 「こ、こらダヴィ! やめなさい!」 痛がるシラオリのリアクションをおかしがるダヴィを慌てて引きはがす。 めっ、と母親に怒られてもダヴィはきゃらきゃら笑ったまま、シラオリの髪の毛を狙って両手を伸ばす。 「あらあら。よかったわね、シラオリ。ダヴィくんはあなたの髪の毛がお気に召したようよ」 つむじを抑えて痛がるシラオリを前にしても、シラユキはころころ笑っている。 「うっうっ。痛いから嫌だ」 「ご、ごめんね。シラオリちゃん」 「ほら、機嫌がいいうちに早く聞いてあげて」 今度は引っ張られないように髪の毛をまとめ、タニャがダヴィをがっちり抑えていることを確認してから、その小さな胸に耳を当てる。 トク、トク、トク――聞こえる鼓動の音を探るシラオリが、一瞬だけ感じた違和感に顔を上げる。 するとシラユキが目を閉じて、ダヴィの頭に手を当てていた。集中しているのかシラオリの視線に一切気づかない。 「シラオリ、心の蔵の音に問題ない?」 「うん。カカの音がするだけだよ」 『カカの音って何?』 「問題なさそうですね。ではタニャさん、今日のところは汗疹の塗薬を処方しておきますね」 墨をたっぷり吸った筆をさらさら動かし、短冊状の板の上に文字をしたためるシラユキの姿に彼を含めタニャも感心する。 『カカ様、学もあるのか。てかこの村の識字率ってどんなもんなんだ?』 「はい。いつものようにまとめといてください。ぐれぐれも無くさないようにお願いします」 「も、もちろんです! はぁ、早くあたしも文字を覚えたいです」 板を受け取ったタニャは感嘆の息を吐いてから、がっくりと肩を落とす。 「そんなに焦らなくても大丈夫ですよ。今は子育てとご自身の身体を労わってあげてください。もしまた誓約書が迫られる事態になったらわたくしか、シラハ」 「ボクも読めるよ〜」 ぶんぶんと手を振って自己アピールするシラオリにシラユキは苦笑いをこぼす。 「シラオリも仕込んでいますからご安心ください」 「シラオリちゃんも文字が読めるの? すごーい、その歳で文字が読めるなんて」 「あとね暗算もできるんだよ」 ふふっ、と鼻を鳴らしてドヤ顔をするシラオリだったが、すぐに「調子に乗らないの」と窘められ頬を膨らませる。 「この近辺では珍しいかもしれませんが、都ではそう珍しいことではありませんよ」 「そうですか? あたしも都に住んでたこともありますけど、シラオリちゃんみたいに賢かった子供はいなかったなぁ。あとその珍しいお耳も」 『江戸時代の識字率って欧州に比べて群を抜いて高かったらしいからそんなに珍しいことでもないのか?』 「タオ、いつもの場所に肥料を置いておいた。後で確認してくれ」 「いつもすまねぇ。シラオリ、絞り汁ができたぞ」 「飲む〜」 みんなが居間に集まり、それぞれルコルの実の絞り汁を水で薄めて休憩に入る。 「ん〜おいしい。これほどの甘味が山で採れるなんて信じられない」 「ルコルの実は絞り汁だけじゃなくてスープにしてもおいしいですよ」 「シラオリが採ってくれたものだからよりおいしい」 女性陣には大好評だが、タオだけが渋面を浮かべてちびちび舐めるように飲んでいる。 「俺には甘すぎる」 「はっ。ボクが飲んであげ」 やめなさい、とタオの絞り汁を狙うシラオリにシラユキの一喝が飛んだ。 「でしたらタオさん。メル乳で薄めてみましょう。ルコルの実は食べる栄養素と呼ばれるくらい栄養がたっぷりなんですよ。さらにメル乳は骨や筋肉増加、筋肉機能の向上が期待できます。貴方はこの家の大黒柱なんですから、ちゃんとしっかり栄養をとって働いていただかないと! その素晴らしい上腕二頭筋も損なわれてしまいます!」 『いやなぜ筋肉を力説するし。つか、栄養学? ここって江戸レベルの文化じゃねぇの? まさかのJ〇N』 目を点とさせる彼を他所に、シラユキによる栄養学の講義が始まる。うんうん、と真剣に講義を受けるタニャに対し、タオは理解しようと努めているようだが難しそうに唸るばかりだ。 絞り汁奪取に失敗したシラオリがそわそわとし出す。すぐにそれが尿意だと気づいた彼は別の意味で気分が急降下した。 「シラオリ、厠に行くか?」 「いくっ!」 『うげぇ。この時代の公衆トイレとか勘弁してくれよ〜』 常に悪臭がするぼっとん便所を想像してげんなりする。しかしなぜ明るいうちからシラハを連れて公衆の厠に向かうのか解せない。 シラオリは山村に来てから常に警戒心と恐怖心を抱いている。大人が傍にいないと落ち着かないのだ。 一体何に怯えているのか。未だにつかめない不確定要素に彼がもやもやしているうちに、公衆の厠に到着した。 『くっさ!』 「くへぇ」 「……」 公衆の厠は彼の想像通り鼻が曲がりそうな悪臭で満ちていた。 簡素な仕切りの奥まった位置に大きな桶が置いてあるだけの、プライバシーのへったくれもない公衆厠に彼は絶句し、シラオリとシラハは同時に鼻を摘まんだ。 『ま、まだ大の方じゃないだけマシか』 「うっ。なんでここはいつもこんなに臭いの?」 「ノキの実で消臭してないからな。仕方ない。早く済ませてきなさい」 渋々と仕切りに入り、大きな桶目掛け用を足すシラオリの姿に彼はようやく男なんだなぁ、と実感した。 『……なんだこの音?』 「ん?」 シラオリの耳に届いたのは複数人の足音だ。 「はっちゃん、大勢の人が山村に来るよ」 「大勢? いったい何人?」 ズボンを履きなおし、異臭が届かない位置にまで移動したシラオリが耳を澄ませてすぐに、 「んっとねー12人!」 『え、そんな正確に分かるの? オレにはまったくわからんかったわ』 「……どこぞの恩知らずなバカが出たか? その連隊はすぐに到着しそうか?」 「うん、もう山村に到着」 「おぉい! 大変だ! 藩兵が団体でやってきたぞ!」 のどかな山村に不釣り合いな喧騒は、唐突に訪れた。 ◆◇◆ 『……想像よりもずいぶん貧相だな藩兵』 帯刀する完全武装集団を予想していた彼は肩透かしを食らった気分になった。 彼らは今、他の村人たちに混じって藩兵の出方を伺っている。村長と思われる老人が数人の村人と共に集団と雑談中だ。 藩兵の服装はそこら辺の農民と大差なく、武装という武装は先が尖った昆くらいで、シラハの敵ではないことは明白だった。 「姉上、いまからでも遅くない。この身がまとめて秒殺してくる」 「やめなさい。まだ彼らの目的もわかってないのに」 「シラハ、ほらシラオリだ」 ヤル気満々なシラハの首根っこをシラユキが掴んで離さない。今にも集団に喧嘩をおっぱじめそうな勢いの彼女を落ち着けるため、タオが抱っこしていたシラオリを彼女に手渡す。 不穏な雰囲気におっかなびっくりしている甥を前にさすがのシラハも殺気を収めた。 「あ、あの方が薬師シラユキ様でごぜぇます」 村長の一言に周囲の視線がシラユキに突き刺さる。すると集団の中でも軽装だが皮鎧をまとった藩兵が横柄な態度で距離を縮めてくる。 咄嗟にタオが歩み出て彼女を庇うように立ちふさがる。大柄な背中に小柄なシラユキはすっぽり覆われた。 『タオさんかっけー』 いかにも厳つく強面のタオを前に、藩兵の余裕ぶった表情が強張るのは見ていて痛快だ。 「お、おい! 貴様っ、無礼だぞ」 「悪いが彼女は俺たち家族の大恩人だ。いくら藩兵様でも彼女への狼藉は許さんぞ」 険しさが増した顔で両腕を組んで凄むタオに追従する声が周囲からあがり始める。 「シラユキ先生は確かな薬師だ! そんじょそこらの闇薬師と一緒にすんじゃねぇ!」 「そうよ! シラユキ先生の薬のおかげで足が不自由だったおとうちゃんが畑仕事ができるまでによくなったんだから」 「えぇい! 黙れ黙れ! この田舎者どもめっ。これ以上騒ぎ立てるなら容赦せぬぞ!」 藩兵の一喝に集団が一斉に昆の矛先を村人たちに向けた途端、シラユキが口を開いた。 「お待ちください」 タオの背中から歩み出たシラユキは、自身に武器が向けられても全く動じない豪胆さを発揮して藩兵と対峙した。 「わたくしのような浮浪の民に精鋭の藩兵様がどんなご用向きでしょうか?」 精鋭というワードを強調すると、藩兵は目に見えて気をよくしたようだ。 うぉっほん、と偉ぶった態度で咳払いをし、改めてシラユキに向けた目が丸くなったのは彼の気のせいではないだろう。 まるでのぼせ上ったように顔を赤くさせ、鼻の下を伸ばす藩兵の露骨さにタオを含めシラハの殺意が増したのもきっと気のせいではない。 村人たちはまるでシラユキの並外れた美貌に今頃気づいたとばかりな反応だ。やはり彼女はこの山村に入ってから隠蔽を使用していたのだろう。 誰もが息を飲み、彼女の静謐な佇まいに周囲は水を打ったような静けさに包まれる。 シラユキは淑やかな微笑みを浮かべながら「ご用向きは?」と再び促す。 「こ、こここここっ。光栄に思うがいい! 貴様のような浮浪の民に我らが藩主カリオム様がお呼びだ」 『いやどもりすぎだろう。気持ちはわからんでもない……はぁ? 藩主?』 「……それは身に余る光栄にございます。ですがわたくし如き浮浪の民が恐れ多くも藩主様に謁見などとてもとても」 「ふん、そうだろうそうだろう。なんだ浮浪の民のくせに、この辺の田舎者よりも礼儀を身につけているではないか。ではさっさと出立の準備をしろ。いいか。これは勅命だ!」 傲岸不遜とはまさにこのことだ。藩主でもない一介の藩兵が勅命を平然と口にする。しかしシラユキはぴくりとも表情を変えなかったが、その目が笑ってないことは明白だ。 「……かしこまりました。従いましょう」 「姉上!」 思わず口をはさんだシラハを視線で黙らせ、シラユキは淑やかな笑顔を保ったまま、慇懃に言った。 「ですが出立には少々お時間をください。なにぶん急なことですので、家族にも相談しないと」 藩兵が顎を引いて「いいだろう」と横柄な態度で了承し、部下を引き連れて引き下がった。 「すみません。みなさん、ご迷惑をおかけしました」 誠意をもって頭を下げるシラオリに、村人たちはどよめいて口々に彼女の身を案じる声があがる。 本当に慕われているんだぁ、と彼は感心し、そんな彼女がなぜシラオリを殺そうとするのか理解できなかった。 「姉上、この身は反対だ。あんな下賤な連中に姉上が従うなんて」 「藩主の名を出されてしまったら無下にもできないでしょう」 「カカ、どこか行っちゃうの?」 シラハは尚も言い募ろうとしたが、シラオリのか細い声に口を噤む。 シラユキの表情が初めて変化した。彼女は堪えるように目を伏せ、「いらっしゃい」とどこまでも優しい声でシラオリに両手を差し出す。 「シラハ、準備を」 「……この身も同行する。それが絶対条件だ」 「えぇ。タオさん、すみません。折り入ってご相談が」 シラユキが了承した途端にシラハの姿が風と共に消えた。 ぐずぐずするシラオリを抱っこし、シラユキはタオと共にタニャが待つ家に急いだ。 「本当に大丈夫なのか?」 「はい。見たところ彼らは事情を知らない下っ端の者でしょう。大人しくしていたら下手な扱いはしてこないはずです」 「全然大丈夫ではない!」 いきなり声を張るタオを、シラユキはきょとんとした顔で見上げた。 眉根を強く寄せ、辛そうに顔を歪め、握った両手が悔しそうに震えている。うつむく額にかかる、ばさばさした赤毛の下にある目は深い葛藤を湛えていた。 「あんたは俺たち家族の大恩人だ。そんなあんたがあんな連中に尻尾を振る真似はやめてくれ」 「……ふふっ」 たっぷり間を開けてから、シラユキが思わずと言った調子で噴き出す。 「もちろん言葉の綾ですよ?」 いたずらっぽい微笑みにタオの頬が燃えるように赤くなり、逆立った尻尾の毛がざわざわと音を立てた。 『あー……うん。どんまい』 「こ、言葉の綾でもあんな言い方はやめてくれぇ」 「はい、ちょっと言葉が過ぎましたね」 ごめんなさい、と素直に謝罪するが、タオは耳まで赤くし、赤面する顔を思いっきり逸らす。 「ですが本当に心配はありませんよ。領主様の要件はなんとなく想像がつきますし、それにわたくしにはこの世でもっとも強い家族がいますから」 「おかえり! 大丈夫だった!?」 慌てた様子で出迎えてくれたタニャにシラユキが落ち着いて状況を説明する。 何それっ!? とタニャが憤慨した途端、ダヴィが驚いて泣き出す。 「それでご相談ですが、わたくしたちが戻るまでシラオリを預かっていただきたいんです」 「それはもちろん構わないが」 シラユキが切り出した瞬間、はち切れそうな声が「やだっ!」と炸裂する。 「ボクも行くもん!」 死んでも離れないとばかりにシラオリがぎゅうぎゅう抱きつき、ぶるぶると首を高速で振る。 「シラオリはカカ達が戻ってくるまでタオさんたちと待っててね」 「やだやだやだやだやだ。ボクも行くもん。一緒だもん!」 「天機の訓練は1人で勝手にしちゃダメよ。お前の天性はまだはっきりしてないんだから何か起こってからじゃ遅いわ。なるべく早く帰って来るからいい子で待っていてね」 『おぅ。カカ様ブレねぇ。てかテンキって何? 天気のことじゃないよな?』 疑問を口にした途端、ウィンドウからあの音色が鳴る。 【??:50%突破。指向性音声システムの使用が可能になりました。使用しますか?】 「……指向性音声?」 彼がウィンドウ上に表示されたメッセージを確認するのと、シラオリが一瞬言葉を詰まらせ、「ぷちゃぁぁあぁああぁああッ」と火がついたように泣き出したのはほぼ同時だ。 「ぷっ。ぷぷぷっ」 『いや、笑うとこちゃうし。いい性格してるよ。カカ様』 「「びやあぁあぁぁぁああ!!」」 噴き出すシラユキにツッコミを入れるが、それを掻き消す勢いで子供と赤子の大合唱がタオ家に響き渡った。 「じゃあタオさん、タニャさん。この子のことどうかよろしくお願いします」 涙を滝のように流し、両目に小さな手を当ててわんわん泣ゲンラオリの額にシラユキの手が乗った。 【警告! 正体不明ノ不正アクセスヲ確認。仮想体(アバター)ニ深刻ナ影響。強制停止シマス】 メッセージが表示された瞬間、彼の意識は暗闇の底へ沈んだ。 第二話 「ぷやあぁあぁぁぁああッ」 その後、シラオリの意識と共に浮上した彼は、暗がりの道中でわんわん号泣するシラオリの泣き声に辟易した。 シラオリは覚醒してすぐに母親と叔母、そしてゴッコが山村にいないことを耳で悟り、引き止めるタオたちを振り切って山村を飛び出したはいいが、すぐに疲れてその場に座り込んでしまった。 暫くしたらシラオリの泣き声を聞きつけてタオが迎えに来てくれるだろう。 『さて。不正アクセスってのが気になるけど、問題はこれだよな』 【指向性音声システムの使用が可能になりました。利用しますか? YES/NO】 ウィンドウ上に表示されるメッセージを眺め、指向性音声システムについて慎重に思案したかったが、シラオリの泣き声のせいで思うようにはかどらない。 『えぇぃ。どっちみち試さなきゃやってられん! このままボッチ独り言生活なんて嫌だからな、男は度胸!』 彼はんんっ、と軽く喉の調子を確かめてからYESを選択した。するとウィンドウ上に勝手に名前一覧表が表示された。 一番初めに表示されたのがシラオリで、次いでシラユキとシラハが続き、ゴッコやコッコ、タオやタニャ、の名前まで記載されている。どうやらこの一覧も彼の認識によって今後増えていくのであろう。 その中からシラオリの名前だけを選択し、いよいよだ、と彼は強い緊張を覚えながら声を発した。 『あーあー。オレの声が聞こえてる?』 「!?」 きょろきょろと辺りを見回すシラオリの確かなリアクションに彼は深く息を吐く。 どうやら彼の音声は間違いなくシラオリに届いているようだ。 「だ、だれ? どこにいるの?」 『よっしゃ! キタコレ! 音声システムばんざーい!!』 つい嬉しくていつもの調子で返答してしまう。驚いて引っ込んだはずの涙が再び決壊しかけるのを感知し、彼は慌てて謝った。 『わ、悪い! あーあーオレは決して怪しい者じゃないよ。今は君のすっごーい味方だ!』 「すっごーい味方?」 食いついた。やはり幼児には簡潔なワードが食いつきやすい。 『実はオレはここ数日間ずっと君の中にいたのだ』 「ボクの中?」 『そそ。まぁオレも気づいたら君の中にいたワケで詳しいことはわかんねぇけど、とにかくオレは君の中にいるの。あ、ここは深く考えない方が吉だぞ』 不思議そうに首を傾げるシラオリに彼は言い聞かせるように言った。説明を求められても彼自身できないのだから深く追及されるのは避けたいところだ。 『んでさ、そろそろお迎えがくるだろう。素直に山村に帰った方がいいって。ほら、カカ様だってすぐ戻るって言ってたじゃん。ここは大人しくタオ家で御厄介になろうよ』 指摘した途端に、シラオリの顔が「はっ!?」となる。どうやらタオの接近に気づいていなかったようだ。 慌てて聴力に意識を向けようとするが、すでにその姿は追いかけてきたタオの視覚圏内だったらしい。 「シラオリ!」 「ぷひゃあぁあぁ!?」 『変わった悲鳴だなぁ』 使い古した箒のように尻尾を爆発させ、脱兎の速さで隠れようとする努力もむなしく、首根っこをむんずり掴まれたシラオリはあえなく御用になった。 「シラオリ、いきなり山村を飛び出すなんて危険だろう! ただでさえ最近はマキナがうろうろして」 「ぴぎゃぁあぁああん」 『あーうん。こりゃ泣くわ』 乱抗歯を剝き、凄んだだけで鮫に似た凶悪な面にさすがのシラオリもぶり返した。 いきなり大泣きされ、説教を忘れるほど狼狽えるタオは恐る恐るシラオリに手を伸ばす。 頭に手を乗せるとシラオリの身体が少しビクついたが、反応らしい反応はそれだけ。嫌がる素振りはなく、目に見えてホッとした様子のタオは、シラオリの両脇に両手を差し込んで持ち上げた身体を自らの両肩に移動させた後、家路につく。 無言で歩いているうちにシラオリは泣き疲れたのか、タオの後頭部にぐでーっともたれかかってウトウトし出す。 バサバサの赤毛が濡れた頬にチクチク刺さる。全力疾走で追いかけてきたタオは汗びっしょりで、全体的に汗臭い。 頭上で「くちゃいくちゃい」とぶつぶつ文句を言いながら髪の毛を引っ張ったりするシラオリの悪態に、タオが気分を害さないか彼はハラハラしたが、それは杞憂だったようだ。 そうだな、とか。それはすまなかったな、とか。シラオリにかけるタオの相槌は穏やかなで優しい。そのうちシラオリは完全に寝落ちした。 タオが歩く速度をあげる。帰宅すると、タニャが心配そうに2人を出迎えた。 湿った布でシラオリの手足の汚れを拭き取ってから、すでに整えられた寝床に寝かせられた。 泣きすぎて赤く腫れている目元を指先で痛ましそうに撫でた後、掛布団をかけて、その頭を優しく撫でる。 「おやすみ」 『……んまぁ、なんとかなったな。ひとまずステータスの確認っと』 名前:シラオリ 種族:??+α 称号:弱小/??→/見習い薬師 技能:調合Lv32/情報収集Lv30/隠蔽Lv23/騎乗Lv52/識字Lv55/算術Lv41/ 遺伝:バイタリティ/暗視/混血/超聴覚 天性:unknown 天与:幸運 臨界:盗み聞き/音量調節/採取 ??:67% 【識字:文字の読み書き、理解し、情報を読み解く】 【算術:数学全般】 『まぁかねて想像……ん!?』 彼は驚きの声をあげ、ステータスを凝視する。 『隠蔽のLvが上がってる!?』 まず彼は自分の記憶違いを疑ったが、どう思い返しても隠蔽のLvが1上昇しているのだ。 さらに今日中の記憶を探る。思い当たるのは、山村に到着した直後のシラオリのあの謎の行動だ。 『まさか荷物に紛れただけでLvが上がった? ヌルゲーかよ! つか』 【天性 :unknown 】 【詳細不明】 『未知って、詳細不明って……仕事しろよステータス。くそっ、シラオリなら知ってるよな。起きたらちゃんと確認しないと。シラオリ……案外勉強できるんだなぁ。てかこの熟練度ってどこまで通用するんだ? あれだけで隠蔽のLvが上がったとなると高Lvでも不安なんですけど! 普通に読み書きはできそうな感じだったけど、これもシラオリが起きた時に確認しないと』 ちなみにAGOのマップはオートマッピング機能が主流だ。ただほんの一部、マッピングツールを使って詳細な地図作りに情熱を注ぐマップマニアが存在する。 そのごく一部のマップマニアたる彼は、マッピングツールを呼び出す。すると目の前に広がったのは無限の方眼紙の画面だ。 彼は抑えきれない高揚感で身震いした。 『よしよし。マッピングツールは生きてるな。明日からシラオリにもマッピングに協力してもらわないとな。あ、これ前回のダンジョンの……とりあえず保存保存っと』 ちまちまと方眼紙上にひたすら視覚情報を打ち込んでいく。ひたすら地味な作業だが、これほど建設的な作業は存在しない。 山村のある程度のマップが出来上がる頃には夜が明け、シラオリの意識がゆるゆると覚醒する。 「……カカ」 か細い声で母親を呼び、はっちゃん、ゴッコと続く。 返事は当然あるはずもなゲンンと静まり返った静かさがシラオリの孤独感を煽る。 寂しくて悲しくて、独りぼっちだと身に染みた瞬間、腹の虫がぐぅっ! と存在を主張した。 あまりのタイミングの良さに、だんまりを決め込んでいた彼はたまらず『ぶはっ!』と噴き出す。 うひゃひゃひゃ、と出所不明の笑い声にシラオリは飛び上がって驚き、きょろきょろ辺りを見回し始める。 『わ、わりぃ。ちょ、マジでっ。おまっ、サイコーだわ。うひぃ』 「シラオリ、起きたのか? おは」 「おばげでちゃぁあぁあぁあぁぁ!!」 寝室の戸を開けたタオの腹にドガァァァァ、と体当たりをかます。 頭から突っ込んできたシラオリを反射的に受け止めながらも、タオは「ぐふっ」と呻きながら後ろに吹き飛んだ。 「ちょ、お兄! え、シラオリちゃんどうしたの?」 「「ぴぎゃぁああぁあああん」」 この日もタオ家では子供と赤子の大合唱が響き渡ったのだ。 ◆◇◆ 「あぐあぐ。じゅびっ。ぐずん」 「シラオリ、ほらこっち向け。鼻びーん」 泣きながらご飯をもそもそ食べ進めるシラオリの顔面に手ぬぐいが押し付けられる。 石鹸の香りがふんわり漂う清潔な布に顔を埋め、タオに促されるがまま思いっきり鼻をかむ。 おろしたての手ぬぐいがシラオリの涙と鼻水で汚れてもタオは顔色一つ変えず、よくできた、とわしゃわしゃ頭を撫でる。 撫でる手の皮膚は非常にかたく、分厚く、ひび割れている。爪の形は悪く、薄汚れたその手のぬくもりをシラオリは嬉しそうに受け入れている。 なんとも深いタオの包容力に、彼は年下――しかも幼児のシラオリを怖がらせたことを素直に反省し、彼は指向音声システムをOFFにした。 『これでシラオリとの交信方法は得たとはいえ、こっからどうするか。運営と通じない以上オレの現状は変わらんワケだし』 指向音声システムの設定をいじって今後の予定を立てる。ちなみに指向音声システムでGMと繋がらないか試してみたが、不発に終わってしまった。 現実の世界に放置された肉体がどうなったか、シラオリが死亡した場合、フルダイブしている自分はどうなるか、考えれば考えるほどネガティブな未来しか見えてこず彼の心労は絶えない。 『ひとまずはカカ様が戻ってくるまでにシラオリの親密度を深めていくしかないよなぁ。あとはマッピング作業か』 現状で彼にできることはこの二点。 マッピング作業は自分のペースでできるのでそこまで苦ではない。 ただ問題はシラオリをどう懐柔させるかだ。 『幼児懐柔作戦……やばロリコン臭しかしねぇ。んんっ。シラオリの親密度をあげろミッションその1、ひとまずは円滑なコミュニケーションを』 先ほどはお化けと勘違いされて怖がらせてしまったが、次こそは、と意気込む彼はシラオリの中で慎重に機会を伺う。 ただやはり母親という精神の支柱を失った子供のストレスは相当なものだ。一日中不機嫌で、意味もなくぐずったり、常に情緒不安定だ。そんなシラオリに円滑なコミュニケーションなどただのゲーマーが持ち合わせているはずもない。 ただ根は素直でいい子なシラオリは、タオに八つ当たりすることはあっても、タニャやダヴィに手を出したりはしない。むしろタニャが困ったりしていると率先してダヴィの子守を買って出て、彼女に乞われるがまま文字の読み書きを教えたりしている。 元々打たれ強い精神性なのか、それとも【バイタリティ】の恩恵か。1日と経たずにシラオリの情緒は落ち着いていった。時折、大人の目を盗んで脱走し、タオ家の周りをうろついてシラユキたちの帰還を今か今かと待っていることを除けばタオ家に馴染んだと言っていいだろう。 ダヴィの世話や兄妹に文字の読み書きを教えるのも板についてきた頃、タオがシラオリを外に誘った。 「シラオリ、ちょっと付き合ってくれ」 向かったのはタオが手塩にかけて育て上げた畑だ。一人で管理するには広すぎる畑の規模に彼は感心の声を漏らす。 野菜の種類によって区分された畝は無数に走り、一定の距離を保って植えられた苗は瑞々しい緑を敷き延べている。 するとさっそくシラオリが異変に気づいたようだ。 「ん? タオおいちゃん、この苗元気ないよ」 シラオリが屈んで手を伸ばした苗は萎れている。 「あぁ、肥料をやってもあんまり効果なくて困っているんだ」 「この苗はナッセだよね? ナッセは高畝よりも平畝の方がいいよ」 「……いや、それはヒルモのはずだが」 うっそだぁ、とシラオリは強く否定し、えいや、と引っこ抜いた苗をタオに向かって突き出す。 「ほら、葉っぱの形が違う。根っこの色も違うし、これはナッセだよ」 タオはまじまじと凝視しながら苗を観察する。眉間に皺を寄せながら、「あー」とか「うー」とか唸り声を漏らした後、がっくりと項垂れた。 「すまん、ぜんぜん違いがわからない」 「しょうがないなぁ。これもこれもナッセだよ」 『あぁ、確かに違うなぁ。つか農家なのになんで違いがわかんねぇの?』 シラオリの言う通り葉っぱの形状は違うし、茎や根の色も違う。現実では農家とは真逆の重機オペレーターだった彼ですらその違いは一目瞭然だというのに、タオは未だに腕を組みながらうんうん唸って、ぼそっと呟いた。 「あの苗屋またやりやがったな。次はシメる」 『こんな強面を騙すとかどんだけ度胸ある苗屋だよ。今頃夜逃げしてるんじゃねぇか?』 それから2人は協力してナッセの苗を高畝から平畝に移動させていく。すべての苗を移動させ終わる頃、傍で作業していた数人の農夫が声をかけてきた。 「精が出るのぉ」 「おぉ。先生のところのべべは働き者だな」 「……こんにちは」 声をかけられると素早くタオの後ろに隠れ、ちらちらと様子を伺いながらちゃんと挨拶をする。 シラユキの教育の賜物か。基本的に人見知りだが、挨拶はきちんできる礼儀正しいシラオリは大人の受けがいい。 農夫たちは微笑まし気にタオにくっつくシラオリを見つめている。 「心配しとったが、大丈夫そうじゃの」 「だな。あんがいタオには子育ての才能があるかも」 「そりゃねぇわ! こんな強面でタオに懐く子供なんて甥っ子とこの子だけじゃねぇか。うちのべべなんて顔合わせただけで大泣きだぞ」 「ほっとけ! この顔は生まれつきだ!」 顔を真っ赤にしてタオが怒鳴り返しても、農夫たちは慣れているのかウハウハ笑って懐かしそうに昔話を始めた。 「ほんによかったのぉ。一時はどうなるかと思うたが、丸く収まってほんによかったわい。お前さんのおっとうおっかあもあの世できっと安心しておる」 「すべてはシラユキ先生のおかげだな」 そういえばタオはシラユキのことを大恩人と呼んでいた。 母親の話題があがり、シラオリがタオの後ろから顔を出し、しみじみと語られる内容に耳を傾ける。 「先生がいなければ今頃タニャちゃんやダヴィはどうなっていたことか」 「だな。都で有名な印持ちの薬師が匙を投げたのを、先生さが救ってくれたんだから本当にあの方はすげぇや」 「むふー」 そうだろうそうだろう、カカはすごいんだ。まるで自分が褒められたかのように喜び、尻尾をパタパタ振るシラオリの姿に農民たちはつい笑みを漏らす。 「でも俺はその後の騒動をどうやって先生が丸く収めたのかが気になってしかたねぇわ」 「騒動?」 タオ家の騒動を知らない若者衆が興味津々に相槌を打つ。 話を振った中年の農民は、「あの時のタオは悪鬼羅刹もかくやだったなぁ。俺はこの山村から罪人が出るのを覚悟したぜ」と身ぶるいしながら過去を振り返る。 「ダヴィの親権だ。こっちはまだそうでもねぇけど、都では子供がめっぽう少なくて跡取りに困ってる氏族は多いんだと。母子共に命が助かった途端にダヴィの父親が騒ぎ立ててなぁ。その時に契約書を持ち出されて一時は取り上げられたんだったよな」 『なーる。学がある連中にとって学のない連中はカモがネギを背負ってるもんか。そりゃ兄妹が文字の読み書きに熱心になるわけだ』 なんてひでぇ話しだ、と憤慨する若い衆を「まぁまぁ話しは最後まで聞け」と中年男が勿体ぶって宥めた。 「そこで現れた救世主がまたしても先生たちってわけだ!」 おぉ、と若い衆を含めシラオリの期待の声があがる。 「先生たちは氏族の家に乗り込んであっという間にダヴィと親権を奴さんからぶんどったのさ。いや〜ほんと先生たちって何者なんだろうな?」 「なぁタオ、お前は本当に知らねぇのか? 学のねぇ俺らが契約で揉めて勝てた試しなんてなかったのに」 「……さぁ。彼女曰く伊達に浮浪してませんよ、としか言わなかったからな」 『浮浪を誇るとかちょっとズレてないカカ様。やっぱ天然なのでは?』 「「「こーらっ!!!」」」 仕事サボってないで働きなっ!! 農婦たちの怒声に農夫たちは追い立てられるように散り散りになった。 『え、ちょっと。お前は逃げなくてもいいだろう!?』 怒声に驚いたシラオリがダッシュで逃げ出す。後ろでタオが引き止める声がかかるが、パニックになったシラオリは宛もなく遁走した。 ◆◇◆ 「……ここはどこ?」 宛もなく遁走し繁みに逃げ込んだ結果、シラオリは迷子になってしまった。 彼のマップによれば、シラオリの現在地は山村からそれほど離れていない位置だ。 声をかけるなら絶好の機会、と彼が意気込んだ瞬間、その耳で現在地を把握したシラオリが「あっちか」と繁みの中を正しい方向へ進んでいく。 「あ、ラワ草だ。天ぷらにしてもらおう」 シラオリは嬉々としてその場に屈みこむと慣れた手つきで辺りに生える野草を摘んでいく。 『ん? 誰かくる?』 野草取りに夢中になっているシラオリは気づいていないが、数人の分の足音を彼はキャッチした。 野草摘みに夢中になっているシラオリには届いていないようだ。採取したラワ草を広げた手ぬぐいに包んでいるうちに、足音はすぐ傍まで迫り、ガサッと繁みを揺らした。 「いたぞ! 嘘つきだ!」 ぷっ!? 独特の悲鳴をあげたシラオリの手から手ぬぐいが落ちる。慌てて拾い上げ、その場から後ずさるシラオリの前に現れたのは、小柄で細身のシラオリとずいぶん体格差がある3人組の男児だ。 「嘘つき違うもん!」 『そうだそうだ。つか、開口一番に嘘つき呼ばわりとか躾のなってねぇクソガキ共だな』 いかにも悪ガキという風貌で意地悪そうな気質が顔からにじみ出た3人組に、シラオリは一瞬だけ怖気づくも、すぐにそんな自分を恥じ入るように一歩踏み出して果敢に噛みつく。 そんなシラオリを男児たちは「ふふん」と鼻でせせら笑って見ている。 「聞いたけ? こいつまた嘘ついたぞ。嘘つきだからおっかあに見捨てられたんだ」 3人組の中でもっとも恰幅がいい男児の発言に他の2人は同調してはやし立てる。 「嘘じゃない! おねしょの常習犯のくせに威張り散らすなバーカ!!」 ぶふっ、突然のカミングアウトに彼は思わず噴き出す。シラオリの聴覚にかかれば山村のプライベート情報は筒抜けだろう。 指摘されると男児の顔が瞬く間に紅潮し、「な、なんで知ってんだよ!?」と自ら墓穴を掘った。 「「え? おねしょ?」」 「うっ。噓に決まってんだろうが! こいつがまた嘘ついたんだ!!」 「嘘じゃないもん! カカに怒られてお尻ぺんぺんされて大泣したくせに」 「「『ぶふっ』」」 「このっ! さっきから嘘こきやがって!」 怒りで顔を赤くした男児がシラオリに固く握られた拳を振り上げた。 それを呆然と見つめて立ち尽くすシラオリに気づき、彼は咄嗟に指向音声システムをONにして叫んだ。 『左だ! 左に避けろ!!』 「!?」 シラオリが左に避けたことで、拳が空振りした男児がたたらを踏んで驚きの表情を見せた。 咄嗟に指示を出した彼も、まさかシラオリが回避できるとは思わず驚く。すばしっこいが、体力がなく何もないところでよく躓くドジっ子かとばかり思っていたが、反射神経や咄嗟の判断力、は悪くないようだ。 「こ、こいつ! おい、やっちまえ!」 『このヤロウ! 3対1とか卑怯だろうが! 撤退! 撤退だシラオリ』 逃げ出そうとしたシラオリの退路を断ち、3人が一気に襲い掛かって来る。 顔ではなく衣服の上を狙った攻撃をすばしっこく避けていたが、体力の無さがたたって精度を欠いた回避はついに捉えられ、もろに腹部に受けた。 腹を突いたような衝撃が走り、シラオリは反射的に腹筋を硬くする。そして文字通り、草原の上に吹っ飛ばされた。 「やっちまえ!」 たちまち男児たちが倒れたシラオリに飛びかかって殴る蹴るの暴行を加えた。 『シラオリ、身体を縮めるんだ! 急所だけは絶対に死守っ。いたっ! このねしょんべん小僧共覚えてろよ!! あとでタオさんに言いつけてやるからな!』 「シラオリ! シラオリはいるか?」 まるでタイミングを計ったかのようにタオがシラオリを探す声が届いた。 すると暴力に酔っていた男児たちの暴行がピタリと止まり、お互いに見合わせた顔は恐怖で引きつっていた。 「やばっ!」 「に、逃げろ! 人食い獣が来るぞ!」 「うわぁあぁああぁ」 男児たちはわれ先に逃げ出す。身体中から走る鈍痛にシラオリと彼は同時にうめき声をあげた。 『くそっ。マジで覚えてやがれ。あのクソガキ共……いててっ。おい、シラオリ、大丈夫か?』 「……ないもん」 か細い声で痛そうに呟く。切れた口角から血が滲んでも、シラオリは呟くのをやめなかった。 『え、あ? シラオリさん?』 「捨てたり、しないもん。ひぐっ。カカ、帰って、くるもん」 『も、もちろんだとも! そうそう、あんなクソガキのテキトー真に受けることないない。それにカカ様にはバグキャラのシラハさんがついてるんだから心配すること』 ないって、と続けようとした台詞は、シラオリの悲痛な泣き声に掻き消された。 泣き声に気づいたタオが、ケガだらけのシラオリにぎょっとして慌てて駆け寄る。 「シラオリ、大丈夫か!?」 タオは急いでシラオリを抱き上げ、大慌てで家に引き返した。 「お兄、何よそんなに慌てて……ってきゃっ。シラオリちゃん!? て、手当てしなきゃ! シラユキ先生の塗り薬と張り薬が残ってたはず。ちょ、お兄どこ行く気!?」 憤懣やるかたない足取りで出ていこうとするタオを慌てて引き止めた。 振り返ったタオの表情は妹のタニャですら、悲鳴をあげるほど凄まじかった。 「あのクソガキ共の仕業に決まってる。ひっ捕まえて土下座させる」 『おぉっ! やったれやったれ』 「ちょ、子供の喧嘩に大人が絡むと余計にややこしくなるんだってば! シラユキ先生だってなるべく介入しないようにお願いされたでしょう」 「これは喧嘩じゃない! 明らかな暴行だ!!」 『そうだそうだ! あのクソガキ共、寄ってたかってひどかったんだぞ。喧嘩どころかリンチだ! リンチ! 慰謝料ふんだくってやる!』 「そうだけど他人のあたしたちが関わると余計にややこしくなるの! まずあたしたちがやるべきはシラオリちゃんの手当でしょう! ほら、急いで水汲んできて! それからダヴィお願い!!」 怒り狂っているタオに指示を飛ばし、戸棚から薬箱を取り出す。水を汲んで戻ってきたタオにダヴィを押し付け、泣いてるシラオリに優しく声をかけながら服を脱がる。 白磁の肌に浮く打撲痕や擦り傷に痛ましそうに顔を顰め、濡れた手ぬぐいで汚れを拭き取り、てきぱきと手当てをしていく。 ダヴィに顔面を引っ張られ幾分落ち着いた様子のタオが神妙な面持ちで「何があった?」と一通り手当てを終えて着替えたシラオリに尋ねる。 シラオリはぐずるばかりで、頻りに「お家に帰りたい」と零すばかりで口を割らない。 「そうだ。じゃあ明日、シラオリちゃんのお家にお邪魔しようか。シラオリちゃんも取りに行きたい物があるでしょう」 こくこく何度も頷ゲンラオリにタニャは安堵して、「そろそろ夕餉にしようか。ねぇ、お腹すいたでしょう」と明るく提案したが、ふるふると首を振る。 「じゃあ、もう休もうか」 こくりと頷く。タニャはにっこり微笑みながら「じゃあ握り飯を作っておくから途中でお腹がすいたりしたら食べてね」と優しく言ってから、未だに不満げに口をへの字に曲げているタオからダヴィを取り上げ、「シラオリちゃんを寝床に運んであげて」と指示を飛ばす。 「大丈夫か? 痛くないか?」 タオは慎重にシラオリを抱き上げ、まるで壊れ物を扱うように寝床へその身体を横たえた。 柔らかくて暖かい布団に包まれ、安心感から脱力した身体が急速に眠気を催し、シラオリはすぐに寝落ちした。 「……おやすみ」 『シラオリが山村に来たがらないのってあのクソガキ共のせいだったのか。まぁ、貧弱だしこの見た目……それに片親といじめられっ子要素満載だな』 ピコン、と鳴る。せっかくステータスが更新されたのにちっとも嬉しくないが、確認せずにはいられない。彼は深いため息をつきながら、ステータスを覗き込んだ。 名前:シラオリ 種族:??+α 称号:弱小/??→/いじめられっ子/見習い薬師 技能:調合Lv32/情報収集Lv30/隠蔽Lv23/騎乗Lv52/識字Lv55/算術Lv41/ 遺伝:バイタリティ/暗視/混血/超聴覚/? 天性 :unknown 天与:幸運 臨界:盗み聞き/音量調節/採取 ??:67% 【いじめられっ子:同世代に反感や嫌悪感を買いやすい。同世代への不信感増、悪感情増、コミュニケーション力低下】 『なんだよこの外れ称号。くそっ、情報が足りなすぎる。この称号って何したら更新されるんだ? ここは見習い薬師を育てた方が無難だよな。調合とか繰り返せば育つかな?』 ぶつぶつ考察しながら今回の件でヒットしそうな単語を口にしていく。 【礼儀:礼儀正しい振る舞いや言葉遣いの作法。年長者や知識者の好感度上昇】 【俊敏:才知にすぐれ行動や判断力が素早い。その他ステータスにボーナスあり】 【反射神経:Lvによって反応速度が上がる。俊敏の効果によりLvの上昇率が高い】 【回避:物理攻撃の回避率が上がる。Lvによって上昇率が変動する。俊敏の効果によりLvの上昇率が高い】 【打撃痛覚耐性:打撃による痛覚の耐久性が上がる。Lvによって上昇率が変動する】 『……いじめられっ子も悪くねぇかもな。まぁ所詮クソガキ共の経験値だからLvは1ケタだけど、この俊敏のボーナスマジでうんまい!』 あれやこれやと検討している最中、寝返りで痛みを覚えたシラオリが強制的に目を覚ます。 パチパチと瞬きを繰り返し、毛布の中にもぐりこんだシラオリがそっと声を発した。 「ねぇ」 その呼びかけは明らかに彼に向けられたものだ。 千載一遇のチャンス到来に彼は、キッターーーーッ、と絶叫したい衝動を抑え込んでから慎重に言葉を選び、穏やかな声音を心がけた。 『あーあー。お互いに災難な目にあったな』 彼が呼びかけに応じると、シラオリは驚いたように息を飲んだ。 『オレはおばけじゃないからな。まぁ実体がないから信じられねぇかもしれねぇけど』 「……君は誰なの? どこにいるの?」 『どこにって聞かれたら……君の中としか言いようがないんだぁこれが』 ボクの中? 戸惑うシラオリにどう説明したものか、と彼は思い悩む。 『んーどう説明したもんか。正直オレもワケわかんねぇんだ』 「わかんないの?」 『そう。気づいたら君の中にいて、君の五感を共有していることくらいしかわかんねぇんだ。君としゃべられるようになったのもつい最近だし』 「ふーん。君は誰なの?」 『誰と問われると天涯孤独のゲーム中毒者としか』 げーむ? 聞き慣れない単語を不思議そうに繰り返す。 『遊戯の名前だよ』 「……独りぼっちなの?」 『おいコラ。ボッチをバカにするなよ。ボッチはこの世でもっともストレスフリーな賢い生き方なんだからな』 そうなの? と心底理解できない様子の相槌に彼は熱を入れて『そうだとも!』と肯定した。 『他人に合わせることも、他人に気を遣うこともない。他人の愚痴や悪口も聞かなくて済むし、自分の好きなことができる! ボッチは、時間は有限、可能性は無限な人生を地で歩ける最強の生き方なんだ!』 「最強」 『そう。サイキョーな上賢いんだ』 サイキョーの一言にシラオリの関心が向く。やっぱり君も男の子だな、と満足げにする彼にシラオリは「じゃあ君は賢者なんだ」と目を輝かせた。 『あ、いや……ごめん。ちょっと誇張した』 えーっと残念がるシラオリにちょっとした罪悪感を抱くが、素直なシラオリの認識をそのままにしておくと後々やっかい――引いては自分の信頼に傷がつくと彼は冷静に判断した。 「ボッチくんは」 『ちょい待て。ボッチはボッチだけどオレにはちゃんとした名前が……』 そこまで言って彼はいきなりフリーズする。 名前、そう名前がまったく思い出せない。今までまったく意識してなかっただけに彼は自分でも驚くほど動揺した。 「お名前は?」 『うっ。ううん……ちょっとド忘れしちゃったなぁ』 あははっ、と乾いた笑い声で誤魔化しにかかる。するとシラオリは心底不思議そうに「じゃあ君のことなんて呼べばいいの?」と聞いてくる。 『うーん。テキトーに呼んでくれていいぞ。あ、正しボッチくんはなしで』 「おばけくん」 『……却下』 ドストレートなネーミングセンスに彼は頭を抱えて『やっぱネーミングセンスないわ』と落胆した。 「何がないの?」 『シラオリには名前をつける才能がないって改めて思ったよ』 「そんなことないもん。コッコもゴッコもボクがつけたんだからね」 『うん、だからないんだってば』 彼の素っ気ない反応にシラオリは明らかにムッとした様子だ。しかしこれ以上不毛なことに時間を費やしたくない彼は、『そーいや聞きたいことがあったんだけど』と露骨に話題をすり替えにかかる。 『テンキって何?』 シラオリは「むぅ」と不満そうに頬を膨らませたが、根が良い子なので無視することはなかった。 「天機は不思議な力なんだ」 『AGOに魔法要素はなかったはずだけど……それ極めたら何ができるの?』 「カカみたいに黒いのにゅるにゅるってできるんだ」 『何それ卑猥』 シラオリが知らない単語を発するように彼の真似をする。純粋無垢なよそ様の子供に泥をかけたような半端ない罪悪感がした。 『ごめんなさい。忘れてください』 シラオリは不思議そうにその謝罪を受け取ったが、おそらく意味はほとんど通じてないだろう。 子供に歳不相応な知識をつけさせて快感を覚えるほど彼は落ちぶれてはいない。今後は発言に気を付けよう、と自らを戒めた。 『じゃあシラオリもできるのか? その……黒いの』 「ボクはカカとは違う天性なんだって。だから黒いのにゅるにゅるできないの」 『そのにゅるにゅるって具体的に何ができるの?』 「えっとね。手を生やしたり、物を収納したり、体内に入って病気を治したり」 『……チートやん』 何その万能っぷり、と心底羨ましそうに呟く。 『ん? 待て天性って言った? 火、水、風、地のテンプレ属性のこと?』 「なんで知ってるの?」 おぉ、と彼は興奮を滲ませた。ゲーマーに限らず、人間誰しもが一度は憧れを抱く【魔法】を仮想ではなく現実で体感できることにテンションが上がらずにはいられない。 『なぁなぁ! シラオリの天性ってなんなの? 水? それとも地? 火と風はぽくないけど捨てがたい』 「ボクの天性は派生だからわかんない。あと天性は光と闇もあるよ」 『派生!? キタこれ! やっぱり君は天才だ!』 派生、特別、ちょー強い、とお祭り騒ぎな彼に戸惑うが、褒められるとついつい嬉しくなるシラオリはくすぐったそうに笑う。 『よーし。明日はその天機とやらを検証して……あれ?』 シラオリから反応がない。伺うと、いつの間にかすぅすぅ、と寝息を立てて眠り込んでいた。 彼はそっと気配を忍ばせ、シラオリにしか届かない声で言う。 『おやすみ』 ◆◇◆ 翌朝。きちんと朝餉を完食し、手当てを終え(傷口に塗り薬がしみて終始涙目だったが)、ダヴィのふくふした頬を優しくツンツンするシラオリの姿にタオもタニャも安心したようだった。 「じゃあ2人とも気を付けていってらっしゃい」 シラオリはタオが背負う大きな籠の中で身を乗り出し、ダヴィを抱いて見送るタニャに手を振る。 「シラオリ、危ないから座っているんだ」 シラオリは首を縮め、「はい」と素直な返事をしてから籠の中に座り込む。 騎乗の恩恵か、不安定な場所で座り込んでもシラオリの重心はブレない。 『というわけで、第一回シラオリ育成論を始めるぜ』 『おー』 パチパチ、と手拍子をされ、気を良くした彼は今までの検証結果を意気揚々と挙げ始める。 まずこの指向音声システムについてだ。 シラオリの協力を得て指向音声システムの選択肢からタオやタニャにチェックを入れた状態で彼が声をかけたところ2人は同時に反応を示した。 音声が届く範囲は空間関係なくシラオリを中心に5メートルくらいが限界のようだ。 試しに室内にいるタニャの傍にいながら、外に出たタオへ声をかけてみたところすぐに戻ってきた。 今のところ人数制限の規制はない。そしてこれは検証してわかったことだが、この指向音声システムは、思考発声機能――言葉にしなくても会話できる技術が搭載されている。 会話するのに場所を選ばなくてもいいストレスから解放された彼は、さっそく思考発音に慣れるべくシラオリと練習中だ。 『あっとその前に……シラオリ、オレとのお約束は覚えているな?』 『はい。君のことは誰にも言いません。カカにもはっちゃんにもコッコたちにも内緒にします!』 よろしい、と彼は満足げにした。シラオリの口のかたさはあまり信頼してないが、約束を取り付けられただけ信頼関係が上昇したポジティブに受け取った。 『よし! ではまずシラオリが率先して育てるべき技能は【隠蔽】と【回避】だ!』 『いんぺい? かいひ?』 クエスチョンマークを浮かべるシラオリに彼は分かりやすく【隠蔽】と【回避】の技能を説明した。 すると何か思い至ったのか、手のひらを拳で叩く。 『隠遁なら知ってる。カカと時々練習するよ。ボクの顔や耳は悪目立ちするからなるべく気配を消して相手の視線を誘導させるんだって』 『へぇ。やっぱりカカ様のあれは【隠蔽】だったか。てか、そんなにシラオリの耳は珍しいの?』 『うん。同じ耳の人に会ったことない』 そうか、と彼は相槌を打って密かに音声システムをOFFにする。 『繁殖率高いのになんで数いないの? もしかしてあんまりに弱小だから迫害されてきたとか? だからあんな世捨て人みたいな生活を……』 『おーい。ナナシ? どうしたの?』 シラオリの呼びかけに彼はONにして、げんなりした声を出した。 『だからもうちょっとマシな名前はないの? 名前は思い出せねぇだけでちゃんとあるんだってば』 『ナナシ、わがまま』 『シラオリにネーミングセンスがないのが悪いんですぅ』 軽口を叩き合っていると、バサバサという羽音が鳴り、近くの梢を揺らす。 その持ち主にいち早く気づいたのがシラオリだ。弾ける勢いで籠の中から飛び降り、いきなり消えた重みにタオが驚きの声をあげる。 今度は失敗せずに着地できたが、飛び降りた衝撃で鈍痛が走った。シラオリは構わず音のした方へ走り出す。 「コッコ!」 シラオリの叫ぶような呼びかけは、今まさに飛び立とうとしたコッコに届いた。 「シラオリ! シラオリダ! マタ怪我シタノカ? ウガーッ!!」 コッコの苦悶の叫びに抱きついたシラオリが慌てて両腕の力を抜く。 イタイヨ、バカッ!! と怒られ、たじたじになって「ごめん」と謝罪するシラオリの後ろからタオが追い付く。 「シラオリ、大丈夫か?」 「タオおいちゃん、コッコ! コッコが帰ってきたよ!」 両腕に抱いたコッコを嬉しそうに突き出す。尻尾をぶんぶん振って狂喜するシラオリの姿にタオは目元を緩ませて「よかったな」と何度も頷いた。 「ほら家までもう少しだ。今度はいきなり飛び降りたりするんじゃないぞ。危ないから」 シラオリは嬉しそうに何度も頷きながら、コッコを抱いたまま籠の中に戻った。 「コッコ、どこに行ってたの?」 「カカ様ノオ使イ。都マデヒトッ飛ビダ!」 『お使い? 一体何の?』 「薬を届けに行ってたんだよね。カカの薬は人気なんだ」 「ソーソー。ア、コレオ金、オ金」 コッコの首元には丈夫そうな巾着袋が下げられている。その中身がお金と聞き、彼は俄然興味を示す。 『なぁなぁ、それってお金だろう。ちょっと見せてくれよ』 「いいよ」 「ナニガイインダ?」 失敗したと表情に出しながら、ぶるぶる首を振って「なんでもない」と白を切るシラオリ。 巾着袋の紐を緩め、中から取り出したのは――親指の爪ほどの大きさの貝がビーズ状に連なった工芸品のようなものだ。 『え、それが金?』 『? そうだよ』 『……貝だよな?』 『貝以外にお金があるの?』 『ほら硬貨って言ったら金属だろう。銅とか銀とか金とか』 電子マネーが支流で現金を使ったことがない試しがない現代社会人は、うろ覚えな知識を捻り出し、どうにか硬貨の素材を伝える。 『鉄は貴重なんだよ。はっちゃんのような強い人しか持てないんだ』 『マジ? え、確かにシラハ様はドでかくて分厚いの持ってたけど、それってすげぇ貴重なの? つか強いとか関係ある?』 『うん。鉄はマキナからしか採れないんだ。だからマキナを倒さないと鉄は採れないんだよ。マキナを倒せる強い人はなかなかいないんだ。侍大将でも下手したら死んじゃうんだって』 彼は、へぇ、と関心を漏らす。 『つかずっと聞きたかったんだけどそのマキナって何?』 うーん、とシラオリが悩ましく唸っていると、コッコが「ドウシタ?」と声をかけてきた。 「コッコ、マキナってなんだろうね?」 「マキナハ災禍ノ化身ダロウ。奴ラハ追ワレ人ヲ狩ルマデ止トマラナイ。何ガアッテモ」 『追われ人?』 ピコン、と彼にしか聞こえない効果音が鳴り、彼の思考はフリーズした。 『どうしたの?』 『いや、なんでも……続けて』 『マキナはとっても頑強で頭がよくて痛みを感じない獣なんだ。普段は大人しいんだけど、標的にされたら最後――追われ人を狩るまで破壊をまき散らす災禍の化身になるんだ』 「ソーイエバ都ノ外ズレニマキナノ群レガ殺到シテイタゾ」 思い出したように話し出すコッコ。シラオリとタオが驚きの声を同時にあげた。 「都に追われ人が出たの?」 「珍ズラシク國ガ追ワレ人ヲ庇ッテイタゾ。今回ノ追ワレ人ハヤンゴトナキ身分者ラシイ」 ふむふむと強い関心を寄せるシラオリの意識が外れたのを見計らい、彼は音声システムをOFFにしてから更新されたステータスを呼び出す。 【称号:弱小/追われ人→?】 【追われ人:player】 「……プレイヤーっていったいどういうこと? つまりカカ様はシラオリが追われ人になったから処分しようとしてたのか?」 ただステータス上の追われ人はすでに発展している。ひとまずシラオリがマキナに襲われる心配はないようだ、と内心ホッとしていると、タオの歩みが止まった。 「シラオリ、ついたぞ」 籠を下ろしたタオに抱き上げられ、地に足を付けた瞬間、我が家に向かってシラオリが走り出す。 戸を開ける。懐かしい匂いにシラオリの涙腺が少し緩んだ。誰もいないがらんとした室内に孤独感が増す。 「アレ? ナンデ誰モイナイ?」 ぐずんっ、と今にも泣きそうなシラオリにコッコはぎょっとし、慌てて提案した。 「シラオリ、コレハ好機ダ!」 「好機?」 「誰モイナイ! 悪サスルニハ絶好ノ機会ダ!」 その一言にシラオリは顔を上げた。 琥珀色の瞳にいたずらっ子のような光りが宿っている。 コッコと顔を見合わせて、悪だくみを企てる顔で頷き合ったのはほぼ同時だ。 「……あーシラオリ。シラハはともかく、あまり暴れまわるとシラユキに怒られ」 「コッコ! 乾果類はこっち!」 「シラオリ、酒ダ! 蜂蜜酒ヲ漁ゾ!」 「あっ! 蜂蜜漬けも食べる!」 ウォーッ、とハイテンションで暴れ回る1人と1羽にタオは顔を手で覆った。 戸棚や床下収納を開け、慣れた手つきで漁っては乾果類や蜂蜜酒を強奪して籠の中に詰めていく。 あっという間にしっちゃかめっちゃかに散らかった室内を前に、タオは頭を抱え込んだ。 「あとこれ!」 丈夫な革の鞘に収まったそれは、ずっしりと重く、柄の部分に赤い飾りが垂れ下がった――サバイバルナイフだ。 『え? サバイバルナイフ?』 『ナイフ? これは山刀だよ』 ボク専用なんだ、とシラオリは誇らしげに胸を反らして、ふふんっと鼻を鳴らす。 『でもさっき言ってたよな。鉄はマキナを倒さないと得られない貴重品だって』 『うん。袴儀のお祝いにはっちゃんがくれたんだ。鉱人(ドワーフ)の職人に打ってもらったんだって』 『え、ドワーフいるの?』 『ここら辺では見かけないけど、都のような都会の方にいるらしいよ。ボクも会ってみたいなぁ。親方』 腰巻に山刀を帯刀し、ボクかっこいい、と悦に浸るシラオリに彼は思い出したように声をあげた。 『あっ。あーあー、シラオリ! オレもちょっと気になってたんだけど!』 「うっ?」 何々? と少しでも意識がこちらに向いたことに彼はホッとした。 『ほ、ほら。お前が落っこちた穴だよ。あの穴に落ちてた異物が気になるんだ』 「異物? ん?」 不思議そうにしながら、裏手に回るシラオリにコッコが続く。 「コッコ、手伝って」 「ホイホーイ」 よいしょよいしょ、と置石をどかし、布をめくった先にはぽっかり空いた穴がある。落ちないように気を付けながら慎重に穴を覗き込んだシラオリの視界に、あの異物が映り込む。 『あれだ! あれだよ!』 「コッコ、あそこに落ちてるの取ってきて」 「ンン?」 コッコは翼を広げてバサバサと音を立てながら穴の中に舞い降り、すぐに戻ってきた。 その鉤爪にはしっかりとマキナの素材が引っかかっている。 「これなんだろうね?」 「マキナノ素材ダロ」 素材を受け取ったシラオリは興味津々に眺める。 つるっと滑らかで、日が当たって不思議な光沢を放つ四角形のそれに彼は釘付けになる。 『んーやっぱどこかで見たことがあるような』 思い出せそうで思い出せない。ガムが喉に詰まった時のような気持ちの悪い違和感に彼は唸る。 「ん?」 「ドウシタ?」 いきなりターバンを取ってウサギ耳をピーンと立てて四方を探る。機敏な聴覚が捉えたのは、軍鶏の足音と大人の息遣い――荷車の音だ。 「タオおいちゃん。また山村に人がいっぱい来るよ!」 「何?」 せっせと片づけをしていたタオが振り返り、険しい表情を浮かべた。 「人? コンナ田舎ニ何ノ用ダ?」 「また藩兵か。シラオリ、悪いがすぐに戻ろう。シラユキについて何かわかるかもしれない」 ターバンを巻き直したシラオリはすぐに籠の中に入る。奪取した荷物のせいでちょっと狭くなったが、小柄なシラオリには十分なスペースだ。 籠を背負ったタオは急いで山をくだり出す。 『シラオリ、人数は?』 『6人。みんな騎乗して大きな荷台を囲んでるよ』 『えーこの間のなんちゃって兵士よりガチな奴やん。あとどれくらいで到着すんの?』 『タオおいちゃんと同じくらい』 その言葉通り、一行が到着した頃には、山村は大騒ぎになっていた。 山村にやってきた人数は6人。それもこの間のような貧相な名ばかりの兵士ではなく、全員が丈夫そうな皮鎧をまとった武装集団で、村人たちは挙って怯えていた。 ちなみに彼らが騎乗する生き物は、ゴッコよりも足が長く、形態はダチョウによく似た軍鶏だった。 「おぉっ。タオ! お前さんええ所に!」 汗だくになって戻ったタオに村長は助かった、と言わんばかりの安堵を浮かべて駆け寄ってきた。 「タオおいちゃん、はい」 「あ、あぁ。ありがとう」 籠をゆっくり降ろす。息苦しそうに息を乱すタオへシラオリが差し出したのは、竹製の水筒だ。中身はクエンの実と蜂蜜を水で薄めた水物だ。 「何があった? 奴らは何者だ?」 「恐らくは騎兵衆の方々じゃろう。お前さん、ちょっとついて」 「兄がこの村の長ですか?」 耳当たりのいいノーブルな品性を感じさせる男の声がした。 声の主は、長身の男性だ。身体つきは細身だが弱々しい印象は一切与えず、身に着ける金属鎧がまるで身体の一部のように馴染んでいる。 あずき色の外套の下は、鉄灰色の上着と大腿部がゆったりしたズボン、鈍く輝く金属鎧が男の身分を如実に示している。 耳と尻尾を見る限りイヌ科の獣人だ。濡れたような輝きを放つ漆黒の髪の毛に包まれた顔は、情感に乏しい端正な顔立ち。滑らかな肌から連なる鼻梁は鋭く、切れ長の双眸は紫水晶をはめ込んだかのようだ。 そんな彼の後ろに控える部下は、獣人2名と腰あたりに一対の翼を生やした翼人(フリューゲル)3名だ。 「私は、虎狼イオリ。騎兵衆を預かる者です。この村に薬師シラユキはいますか?」 聞き取りすく、張りのある声に村人たちはざわめいた。 「氏族様だ」 「しかも騎兵衆……それも鉄持ちの。あれは災厄殺しにちげぇねぇ」 「へ、へー。確かにシラユキ様は存じあげておりますが……実は3日前に藩主様からお呼びがかかり、シラユキ様はそちらへ」 イオリの柳眉が微かに動く。控えていた部下と小声でやり取りをした後、再び村長と向き合う。 「ご協力ありがとうございます。5日分の兵糧を頂きたいのですが、蔵に余裕はありますか?」 「へー。今年は豊作で食糧には困っておりません。これもシラオリ様の薬と助言のおかげでぇす」 「……彼女は変わりませんね」 微笑を浮かべて懐かしそうに呟いた後、イオリは懐からパンパンに膨らんだ小袋を村長に手渡した。 中身を覗き込んだ村長はぎょっと目を見開いて、こんなにいただけません、と弱り切った声で言う。 「いえ、薬師シラユキの情報料も含まれておりますのでこちらが妥当です。すぐに出立したいのですが」 「はい! 只今!!」 村長は手を叩いて屈強な村人に蔵をけるように指示を出し、荷造りを急がせた。 「ン?」 「コッコ、知り合い?」 コッコがシラオリの腕の中から這い出て、タオの肩までひとっ飛びで移動する。 シラオリもつられてひょっこり顔を出した瞬間、切れ長の瞳が大きく見開かれ、見る見るうちに激しい驚愕がその端正な顔に広がった。 「違ウ。耳ガ似テイルカラ恐ラクカカ様ノ患者ノ家系ニ連ナル者ダロウ」 『え、カカ様ってそんなお偉い患者も抱え込んでたの? ホント一体何者だよぉ。つか翼人(フリューゲル)すげぇ! マジで翼が生えてる!? ちょ、ちょっと触らせてくれねぇかな。その羽毛っぽい耳でいいからさ』 「まさかその子は……シラユキの御子ですか?」 『てかさっきからどうした氏族。動揺しすぎじゃねぇ?』 素早く身を引き、タオの背後に身を潜めたシラオリの頭上にコッコがぴょん、と飛び降りる。 「俺の子に何の用だ?」 シラオリは息を飲んだ。 子供。俺の子供――とこの耳で聞き取った言葉が信じられず、シラオリはタオを凝視する。 「なん、だと。た、確かに先生とタオってしょっちゅう乳繰り合ってる姿を見かけるが」 「いや、あれは乳繰り合っているというより、先生の趣味……え、先生とタオっていつの間に」 「求婚すらまともにできてねぇ意気地なしってタニャちゃんが愚痴ってたぞ」 堂々と嘯いて見せたタオに村人たちは一斉に目を剥く。 コソコソと囁き合う村人たちは、タオの鋭い一瞥を食らって挙って口を閉じ、青い顔でうんうんと高速で頷く。 「……兄の御子、ですか」 「俺の子供だ」 明快に断言した。 その横顔と口調にシラオリは、胸がいっぱいになる。 喉に様々な感情がこみ上げ、まぶたや頬が熱くなって、心臓が早鐘のように打つ。 「シラオリ、奴ラカカ様ヲ迎エニ行クヨウダゾ」 『おい、鳥頭。そこ空気読め』 場違いな発言に彼は思わずツッコんだ。 「ドウスル?」 「……ついてく」 『え、マジかよ。あーちょっと待て。いくらカカ様の子でも氏族の荷台に乗り込むのはマズイ……うん、聞いちゃいねぇな。このイノウサギ!』 彼の制止なんて聞いちゃいない。 内気で人見知りのくせに、好奇心が強く無鉄砲な行動力があるシラオリの性に、彼はすぐに諦めた。 広げた手拭いに数日分の水物と食糧、薬一式を包んで斜め掛けに背負う。 慎重に辺りを伺いながらタオから離れ、シラオリは蔵の方へ向かう。荷造りをする大人の目を盗み、大量の荷物に紛れて荷台に侵入することは、小柄で隠蔽持ちのシラオリなら造作もないことだ。 暫くして車体が軋み、発進する気配を感じシラオリがそっと小窓から外を覗き込む。 鶏車の加速が乗り、急速にスピードが上がり始める。途端に山村との距離がどんどん広がり、あっという間に見えなくなった。 流れる景色のスピードは、高速道路を走る車内から見た景色と遜色ないことに彼は驚きを覚える。しかし、乗り心地は最悪の一言に尽きた。 シラオリが【騎乗】の技能を持っていなかったらと想像するだけで気持ち悪くなりそうだ。 『んで、藩主様の元までどのくらいかかるの?』 「どのくらいかな? コッコわかる?」 「コノ足ナラ1日デ到着スルハズダ。コッコノ翼ナラ1日トカカラナイ!」 なるほど。運搬を頻繁に頼まれるだけあってコッコの土地勘は頼りになる。 『ちゃんとタオさんたちに伝えとけよ。心配するから』 「ん。コッコ、タオおいちゃんたちに伝えてきて。カカ達を迎えに行ってきますって」 「ホイホーイ」 物見から飛び降りたコッコを見送る。景色に飽きたシラオリは大きく伸びをすると、荷物の間に腰を落とす。 そわそわと尻尾を揺らし、夢心地のシラオリが「ねぇねぇ」と声を弾ませた。 『どっしたの?』 『今度タオおいちゃんのことトトって呼んでいいかな?』 『あーうん。カカ様に聞いてみ』 嬉しそうなシラオリに水を差す気にはなれず、彼は当たり障りのない答えでやり過ごした。 『んんっ。それよりさぁ。異物をちょっと構ってほしいんだけど』 シラオリは懐から例の四角形のパーツを取り出す。好奇心が旺盛な気質のようで、あっちこっちの角度から眺めては、その白い指先で表面を撫ぜた途端に、ポーン、と軽い音が鳴る。 「ぷっ!?」 『!?』 効果音に驚いてシラオリはパーツを取り落としてしまう。落ちた拍子に青白いウィンドウとホロキーボードが飛び出した。 【プレイヤーIDとパスワードを入力してください】 『おっ。おぉっ。コンソール!?』 「コン? 何それ?」 不思議そうにするシラオリに説明する暇も惜しいほど興奮する彼は、素早くホロキーボードの使い方を伝授し、自らのIDとパスワードを告げた。 未知なものに対する怯えはあったが、好奇心が勝ったシラオリの指がホロキーボードに触れる。 指で突くだけで文字が空中に表示され、シラオリは当然その文字の意味が理解できなかったが、その摩訶不思議な光景に目を輝かせた。 彼の言う通りにホロキーボードを操作していく。慣れない手つきで時間がかかったが、彼の手順通り入力を終えた。 再び効果音が鳴り、ウィンドウ上の表示が、古今東西を指し示すコンパスに変化したのだ。 『よっしゃ! 迷宮指針(ダンジョンポース)ゲット!』 「んん? 何それ?」 『迷宮(ダンジョン)の在処を示すデジタルコンパスだ。あ、そういやシラオリ、迷宮(ダンジョン)って知ってる?』 知らない、とシラオリは頭をフルフルと左右に振った。 「迷宮(ダンジョン)って何なの?」 『うーん。そうだな。金銀財宝が眠る古い遺跡……か?』 「金銀財宝!」 『男のロマンだよなぁ』 うんうん、と高速で頷く。その反応に彼は満足して、『だからそれ無くしちゃダメだぞ』と念押しすると、大きく頷いたシラオリは大事そうに懐にしまう。 『んまぁ、迷宮(ダンジョン)の在処が分かっても探索とか夢のまた夢だよなぁ』 「? どうして?」 『だってマキナがうようよしてるんだろう。バッタリ出会ったら死んじゃうぞ』 「……死んじゃうな」 死ぬのが容易に想像できたか。シラオリと彼は同時にしょんぼりしてため息を吐く。 『マキナよりもまずはあの悪ガキ共を退治しないとな』 「あいつら嫌い!」 シラオリはぶすっと頬を膨らませ、何度も床をダンダン、と踏みつける。 お前無賃乗車の自覚ある? とツッコまれると、状況を思い出したのかすごすごと大人しく座り直す。 『複数で来るならこっちだって考えがあるぞ。砂かけとか……あ、そういやシラオリって薬の調合できるんだろう。麻痺毒とか調合できないワケ?』 「……調合はできるけど、ボクは未熟者だから誓約書がないと扱っちゃいけないんだってカカが」 『あー……まぁ確かにあぶねぇわなぁ。じゃあやっぱ砂かけとか罠にかける』 「んん?」 いきなり不思議そうな声を発したシラオリが、小窓を覗き込んで辺りを見回す。 『どっ……なんだこの音?』 聴覚を共有する彼もすぐに気づく。ザザザッ、と地を這うような音は生理的嫌悪をもたらし、シラオリの股に入り込んだ尻尾の毛が粟立つ。 「カガシだ!」 『へ、カガシ? うぉっ!?』 不自然に繁みが2つに割れるようになぎ倒され、その合間からほぼ無音で飛びかかる大きな影に反応できたのは、イオリただ1人だ。 ガキンッ、とかたい音と火花が散る。巨大な牙をむいて飛びかかってきたそれは、嫌がるようにどくろを巻いた。 『い、いやいやいや! 蛇ってサイズじゃねぇだろう!?』 『おぉっ。青いヤマカガシ!』 それはイオリが跨る軍鶏を余裕で丸飲みできるほどの巨大で、興奮するシラオリが信じられず彼は悲鳴をあげた。 「総員、偃月の陣に展開! 鶏車には決して近づけてはなりません。毒牙や尻尾の動きに注意し、追い払います。後衛、矢を番え!」 「「「はっ」」」 イオリの指示に周りの動きは迅速だ。すぐに武器を構え、各々の持ち場につき、即応状態に移る。 「放て!」 矢が次々と連射される。 しかし蛇の鱗は矢じりよりも硬いのか、硬質な音をたてて弾かれてしまう。ただ蛇の動きを止めるには十分だった。 「はっ」 軽い気合と共にイオリは軍鶏の腹を蹴る。主人の合図を受け、軍鶏は臆することなく蛇の死角を突くように飛び出す。その後ろを部下2名が続く。 「シィィィッ」 ハルバードの斧の部分を大きく振りかぶり、がら空きになった蛇の胴体に叩き込む。 ジャアァ、と大きく吠えた蛇が激しく尻尾を打ち払ってきたが、イオリの軍鶏は機敏な動きで回避する。 追撃しようにも他の2名がタゲを散らすように立ち振る舞ってその行く手を阻んだ。 『わぉわぉ。すげー。やっぱ國のトップは違うなぁ。あの巨大蛇がまるで雑魚キャラのようだ。獣人は脳筋だから前衛で、目が良い翼人(フリューゲル)は弓兵の後衛か。懐かしい。オレもボーガン打ちまくってたわ』 「放て!」 再び弓兵の矢が、文字通り矢継ぎ早に撃ちかかった。 狙いは鱗が砕け、無防備に露出した皮膚。狙いは違わず、今度こそ鋭利な矢じりが蛇の皮膚に突き刺さる。 痛みで大きく吠えた蛇が、その口から黒い煙幕を放ったのは直後のこと。 「散開! 鼻と口を覆って吸ってはなりません!」 撤退も俊敏だ。しかし立ち位置が悪かった1人が逃げ遅れた。黒い煙幕に包まれる寸前、巨漢の獣人が割って入って逃げ遅れた仲間を身を挺して庇う。 「あ……」 『おぉい。どったの?』 素早く小窓から離れたシラオリが、慌てて調合された薬が詰まった荷を漁り出す。薬が詰まった荷は小分けにされ、懇切丁寧にラベリングが施されていて、素人でも分かりやすい。 しかし【血止め】や【麻痺止め(植物毒に限る)】【解毒剤(爬虫類の毒素に限る)】など情報量が多すぎて分かりにくい表記が多い。 解毒剤(爬虫類の毒素に限る)と表記された荷を開け、ふたをひっくり返す。 ふたの裏目には爬虫類の名前がいくつか記載されてあった。恐らく薬に有効な爬虫類の名前を挙げているのだろう。 「……ない。材料はあるかな?」 今度は別の荷物を漁る。それは大量の薬草が詰まった青臭い荷で、慣れていない彼は『うげぇ。くっさ!』と鼻が曲がりそうになった。 「ヤマカガシの毒消しがない」 『必要ねぇだろう。ほら、無傷での快勝……』 急に慌ただしくなった外の喧騒によって遮られた。 負傷者だの、毒だのと切迫した単語の羅列。鶏車に駆け寄る足音にビビって、回収した薬草を手に持ったままシラオリが身を隠した瞬間、パッと開いた戸口から騎兵2名が入って来る。 「薬草類の荷はどれだ!?」 「奥から右端の三列目の荷だ! 樽に表記して……何故こんなところに」 「そんなことは後で……」 いきなり黙り込んだ。その沈黙にひしひしと嫌な予感を覚えていると、シラオリの身体をすっぽり覆うように黒い影が差す。 「賊だ!」 『いや、ちょっと待って! 話せばわかるぅ!? つか賊よりも薬を優先させろよ!』 男の怒声にビビってシラオリが身を翻し、積み上げられた荷物の間を独楽鼠のように逃げ回って、開けっ広げの戸口から外へと脱出する。 「うっ」 ハルバードの先端を三方から突きつけられるという熱烈な歓迎に、シラオリは身を震わせ涙腺が緩んだ。 「こ、子供?」 「この子、あの山村の子供じゃないのか?」 「!? その子供を傷つけてはなりません!」 イオリの声で包囲網が緩んだ隙に、シラオリは四つん這いになって荷台の下に逃げ込んだ。 「薬箱をこちらへ。ワカマル以外は周囲を警戒。ゲンとシズルはその子供を丁重に保護しなさい。決して傷つけないように」 迷いのない明確な指示に騎兵たちはきびきびと動き出す。その場にはゲンとシズルと呼ばれた翼人(フリューゲル)の騎兵2名が残された。 「おぉーい。もう大丈夫だから出て来いよ」 ゲンと呼ばれた青年は軽い調子で声をかけてくるが、いかんせん配慮が足らない。 荷台を軽く揺すって呼びかけられ、素直に従う子供など皆無だろう。案の定、シラオリは怯えて奥に引っ込んだ。 『おいこらっ。いい大人が子供を怯えさすな! タオさんを見習えや!』 「ゲン、やめろ。怯えさせるな」 おぉっと悪い、と言ってすぐに荷台から手を離す。 「鶏車が動かないように軍鶏を見ててくれ。説得は某がする」 「了解。んじゃ頼まぁ」 対してシズルは冷静で気遣いができる女性のようだ。落ち着いた艶やかなアルトの声は安心感を与えるが、シラオリの警戒心が緩むことはない。 「驚かせてしまってすまない。某はシズルという。お嬢さんの名前を教えてもらえないだろうか」 お嬢さんという言葉にシラオリが不快そうに眉を顰めた。可愛いと言われるのは嬉しそうなのに明確に女の子扱いされるのは嫌らしい。 男の娘心は複雑なようだ。全く理解できないが、これでは埒が明かない。彼が説得しようとした瞬間、シラオリが意外にも口を開く。 「あの薬は効かないよ」 不貞腐れてそっぽを向いたまま、ぽつぽつと話し出す。 「……薬というと」 「ヤマカガシの毒にあの解毒剤は効かない。オキナの実を早く煎じてあげないと四刻もかからないうちに死んじゃうよ」 「!? 大将!」 別の誰かが歩み寄ってきた。次いでゲンやシズルが驚きの声をあげる。 ズボンが汚れるのも厭わず膝をついてシラオリと目線を合わせてきたのは、騎兵衆を預かるイオリだ。 金属鎧姿の男が鶏車の下を覗き込むという傍から見たら実にシュールな光景だ。 「初めまして、私は虎狼イオリ。兄の母――シラユキに命を救われた経験があります」 子供とのコミュニケーションにおいて目線を合わせるのは意外と大事なポイントだ。 それを実践できるか、否かで子供の好感度が変動するほど。実際、頑なだったシラオリの警戒心がちょっとだけ緩んだのを彼は実感した。 「シラユキの嫡男シラオリです」 礼儀作法の技能を持っているだけあってシラオリの敬語は流ちょうだ。これもシラユキの教育の賜物だろう。 妙に嫡男の単語を強調したが、その真意が通じる可能性は極めて低いだろうなぁ、と彼は口にしなかった。 「……シラオリ。いい名前ですね」 しみじみとシラオリの名前を繰り返した後、イオリは真剣な口調で続けた。 「ではシラオリ、単刀直入に伺います。兄はシラユキから薬草学を学んでいますか?」 「カカのような上薬はできません。ボクが作れるのは下薬だけです。それに誓約書がない限り煎じちゃダメだってカカに止められてます」 「では誓約書があれば解毒薬を煎じれますか? 人の命がかかった大事な質問です。嘘偽りなく、本心で答えてください」 シラオリは舌で乾いた口先を舐め、引き結んでいた口を開く。 「ヤマカガシの解毒剤は何度か煎じたことがあります。でもその前にオキナの実を採取しないと」 「オキナの実……ですか」 イオリが身を引く。部下と話し込んでいる間にシラオリが素早く鶏車の下から這い出て、近くの繁みに入り、狭い草地を見つけてゴロンと仰向けに倒れこんだ。 『お、おい。どうした』 「天機使ってみる。オキナの実の群生地がわかるかも」 目を瞑り、シラオリは余分な力を抜いて深呼吸した。 天機がどんなものかわくわくしていた彼は、いきなり襲った浮遊感にも似た感覚に目を見開く。 「うぇぇ?」 いきなりシラオリの口から奇声が漏れた。がばっと勢いよく起き上がり、琥珀色の目を丸々と見開き、ふくふくとした白い手のひらを凝視する。 「え? ちょ、シラオリどこ!? 今さらボッチにされても困るんだけども!! カムバークシラオリ!!」 慌てて辺りを見回しシラオリを呼ぶが返答はない。 シラオリの身体にフルダイブした彼は絶望の悲鳴をあげた瞬間、身体を激しく揺さぶられるような落下感覚――久しく味わっていないフルダイブ型ゲームの感覚刺激に悲鳴をあげる。 「……ん? どうしたの?」 『おっ、おかえりぃ! いや、マジでビビった。どこ行ってたんだよ! 心配しただろう』 何事もなかったかのように復帰したシラオリは、諸手を挙げて大喜びしたかと思えば詰ってくる彼に困惑した。 「えっとね。天機を使ってオキナの実の群生地を教えてもらってたの」 『教えてもらう? 一体誰……場所わかったの?』 「うん」 あっちだ、と先を急いで繁みの奥に進もうとしたシラオリをイオリが寸前で呼び止めた。 「シラオリ、どこへ?」 「オキナの実を採取してきます。一刻もかかりません。患者は安静に横にしておいてください!」 「待ちなさい! 1人では危険です。お戻りなさい!」 木の根をひょいひょい器用に跳ぶように走るシラオリの姿はあっという間に森に紛れた。 『おぉい。シラオリ、本当に1人で大丈夫なのか? ヤマカガシに襲われたらひとたまりもねぇぞ!』 「こっちにヤマカガシいないから大丈夫。それにちゃんと獣避けと虫除けも持ってる!」 『え、何それオレ知らない』 懐から漁り出したのは、シラユキがおいしそうに口にしていた赤い唐辛子の束だ。それを一つ摘まんで両手で潰し、にじみ出た液体を髪の毛や服に塗りたくる。 その際、むわんっと鼻腔を針で刺すような刺激臭にちょっぴり涙ぐむ。 『あ、うん。これなら大丈夫そうだな。てか、こんなのおいしそうに食べるカカ様って一体』 「カカは辛いのが大好き。はっちゃんやタオおいちゃんが泡吹いて倒れるほどの激辛料理をぺろっと食べちゃうんだ」 それはそれでちょっと味が気になる彼だった。 『んでいったい誰に教わったんだ?』 「自然!」 なんとも壮大な返答に、彼はリアクションに戸惑う。 『……それがシラオリの天機の効果か?』 「うんっとね。ボクの天機は自己意識を別の何かに憑依させることができるんだ」 『お、おぉう。つまり今のオレのような状態にできるってことね。ん? じゃあなんでいじめっ子の身体乗っ取らなかったの? 天機使えば楽勝で成敗できてただろ』 「天機を使うとボクの身体は空っぽになっちゃうんだって。それに憑依した自意識が身体に戻れなくなるかもしれないからカカが使っちゃダメだって」 『何それ怖い』 「でも不思議だな。今日はすぐに戻れたよ。おっ。オキナの実あった」 繁みをかき分けた先に、オキナの実の群生地を発見し、戦慄する彼を他所にシラオリはさっそく採取に移る。 採取したオキナの実の束を腰巻に引っかけて吊るす。細い枝に紡錘系の木の実がびっしりと実り、彼の腰に揺れてシャラシャラと音を立てた。 うん、と満足そうに頷いてからすぐに踵を返す。黙々と走るシラオリの足取りに迷いはない。 走り出した木の根や段差を飛び越え、時には木の枝に掴まって渡っていく。 シラオリの体力を心配して彼は時折小休憩を提案し、体力がないシラオリがすぐにガス欠にならないように配慮した。 結果、2人は一刻もかからずイオリたちと合流できた。 ◆◇◆ イオリ率いる騎兵隊は野営の準備に取り掛かりながらも、全員が困惑の感情を隠しきれず、手際よく薬を煎じるシラオリと、その作業を傍らで見守るイオリの姿をチラ見する。 「なぁ、本当に任せても大丈夫なのか?」 「大将のご判断だ」 シズルの冷静な指摘にゲンは呻いたが、でもよ、と渋った声で言い募る。 「あんな子供に背負わせなくても……」 「某も俄かには信じられないが、あの童女は薬学に精通するようだ」 処?箋がなくてもシラオリは的確に必要な薬草を言い当てた。さらに足りない薬草を1人で採取してくるなど、都の一等薬師ですら真似できない芸当をごく当たり前にやってのけた。 何故か、大きな要因は2つある。 まず自然界には獰猛な蟲や獣が多く生息し、さらには災禍の化身――マキナがうろついている。 蟲や獣はともかく、一般兵ではマキナは荷が重い。大将級ではないと対処できない厄災を一般人がどうこうできるはずもない。 さらにもう1つの要因が、自然界に自生する数多の植物から薬用の判別は、薬学に精通する薬師でも難しいのだ。 だから一般的に流通しているほとんどの薬草は、敷地内で育てられたものが大半だ。 本人曰く、元々山育ちで採取は母親に習ったとのこと。しかし許可なく傍を離れたことをイオリに危ないと見咎められると、本人はムッとして獣避けも虫除けもしている自分よりもしてないおじさんたちの方が危ない、と言い返す始末。人見知りだが、どうやら気は強いらしい。 「……何度か調合したことがある、というのも事実なのだろう。手際が某たちのような素人ではない。さすが大将が見込んだ薬師殿の御息女……某も早く会ってみたい」 シラオリは平たい石の表面で薬草を石ですり潰し、それを手際よく器に移して、今度は枝についた木の実をむしり取って皮ごと荒くひき潰す。 「その大将もなんかさっきからおかしくねぇ? ほら、さっきおじさん扱いされてかなりショック受けてたし」 「……まぁ大将らしくないのは同意するが」 冷静沈着で清廉潔白。國一番の槍の達人と呼び声高く、皇族の系譜に連なる生粋の上位氏族の彼は誰に対しても分け隔てなく丁寧で礼儀正しい。 現皇からの信頼も篤く、五大将を預かる侍大将が、子供の癇癪にショックを受けるなど、普段のイオリを知る部下たちからしたら天変地異を目撃したかのような心境だ。 「大将ってやっぱあぁいう童女が趣味なのか? 確かに都でも滅多にお目にかかれねぇ小町娘だがちと年下すぎ……そういや、大将の許嫁もあのくれぇの歳じゃなかったか?」 ゴンッ、と鈍い音に次いで、カランと太い薪が地面に落ちて乾いた音を立てた。 音がした一瞬後には、イオリは何事もなかったかのように不思議そうに顔を上げたシラオリに促す。 「シラオリ、気にせずに作業を続けてください。お馬鹿さんが騒いだだけです。それから今後あのお馬鹿さんには近づかないように。お馬鹿さんが移ります」 ゲンに投擲物を放った人物とは思えない澄ましっぷりだ。 頭を押さえて悶絶するお馬鹿さんに同情の余地なしと周りは視線を逸らす。 「馬鹿者、騒いでないで働け」 「馬鹿野郎、遊んでないで手伝え」 「馬鹿たれ、休んでないで荷を運べ」 「テメェら揃いも揃って」 「そろそろ出来上がります」 銀鈴のような声音に全員がつられる。 シラオリは数種類かの薬草を混ぜるとそれを水で溶いて布で絞り粕を捨てる。 残った液体を別の器に移し、濃厚な緑色の液体を、はい、と差し出す。 「ボクのは下薬だから……服用した後、暫くは舌か唇に麻痺が残ります」 差し出された器をイオリが受け取り、何の躊躇もなく味見をしたので、周りにどよめきが走った。 「た、大将! い、今すぐ吐いてください! 印持ちでもない子供の薬を御身自ら毒見するなんて」 真っ先に声をあげたのは、人員の中で唯一薬学の心得がある牛族のワカマルだ。 ちなみに印とは、國が発行する國家資格の通称である。國家資格に該当する職業は多岐に渡り、命に関わる【薬師】ももちろん含まれる。 印は國が発行する目に見えた信頼と実績の証だ。それを所持せずに薬師と名乗る闇薬師は多く、格安の治療費に目がくらんで命を落す事例は後を絶たない。 「彼女に調合を依頼したのは私です。責任はすべて私が負います。シラオリ、麻痺の原因と程度は分かりますか?」 「……クララ草をちょっと煎じたのでそれが原因で軽度の麻痺が起こるかもしれません。ゴッコ……軍鶏は施薬してからだいたい一刻くらいで麻痺が抜けて二刻くらいで元気になります」 即答した後、イオリは浅く頷くと器をワカマルに差し出す。 「確かに舌が痺れますが、問題はないようです。速やかに施薬してください」 「し、しかし……失礼しました。速やかに」 イオリの有無を言わせない鋭い一瞥にワカマルは泡を食って器を受け取ると、カガシの毒に侵され伏している仲間の元に急ぐ。 「……ふん」 不機嫌そうに鼻を鳴らしたシラオリがそそくさとその場から離れ、近くに落ちていた薪を拾い上げる。 「シラオリ、野営地からは離れないように!」 ものすごく不服そうだが、シラオリは不承不承といった風にこくりと頷いて応じた。 「おーおー。なんか知らねぇけどずいぶんご立腹な様子だな。って何……」 木々を見上げてうろうろと辺りを見回り出す。 何をするのか、と周りが注視する中、シラオリはある木を見上げて立ち止まった。 うん、と頷いた後、薪を腰巻に差してからいきなり大木に飛びついてすいすい登り出す。 誰が止める間もなくある程度の太さの枝に腰を落ち着けたかと思うと、次いでシラオリが腰巻から引き抜いたのは、立派な山刀だ。 スコン、と振りかぶった山刀の刃が枝に食い込んで小気味いい音を立てる。 「うしっ」 食い込んだ刃の峰に向けて腰巻から抜いた薪を何度も打ち付ける。それを黙って見守る大人は目と口をあんぐり開けたまま思考停止状態だ。 「あっ。コッコ、おかえり」 いきなり空を仰ぎ見、手を振るシラオリに一羽の軍鶏が一直線に飛んできて、周囲の注目を集めているシラオリの姿に小首を傾げた。 「ンン? シラオリ。モウ見ツカッタノカ?」 「見つかっちゃった。これ落とすの手伝って」 両足をパタパタ振って枝を揺らす。既に半分以上の切断された枝はミシミシ、と軋んだ。 コッコは快諾すると、枝の先に鉤爪を引っかけてどっしりとその身体を落ち着けた。枝の軋みがさらに増す。 「いくよ」 えいやっ、と気合を入れて薪を振り落とす。それが決定打になり、枝がついに斬って落とされた。落ちる寸前にコッコは素早く枝から離脱し、安全圏の空中へ飛び立つ。 「……くふっ」 ゲンを含め傍にいた全員の視線がシズルに集まった。 どこか妙に甘ったるい喜色の声音をあげたシズルは、顔に抑えきれない興趣の色を浮かべ、乾いた上唇を舌で湿らせながらシラオリが持つ山刀を熱心に見つめている。 黒い翼の羽毛が興奮を示すように膨らみ、尾羽は小刻みにぷるぷると震え、目は爛々と輝くばかりだ。 「美しい」 「うぉいっ。ちょっと待て!」 先は見つめていると表現したが、これは最早見惚れているという表現が相応しいかもしれない。 偶然愛する人に出会えたかのようなうっとりした表情は艶やかで、シラオリの山刀に魅了されたシズルが特攻をかける寸前でゲンが止めにかかる。 「この鉄バカ! 止まれ!!」 「ちょっと見せて」 「信用できるかボケッ! ほら、お前のせいで不審者みたいな目で見られてるだろうが」 シラオリの胡乱気な視線が突き刺さる。「不審者ダ。逃ゲルゾ!」と軍鶏にまで不審者扱いされる始末に、都の花形ともてはやされている騎兵衆は揃って苦い顔をした。 「何ニ使ウ?」 「臭い消しする。コッコ、軍鶏たちに説明してきて」 ホイキタ、と軍鶏たちの方へ向かうコッコと離れ、シラオリは荷台から一番近い焚火を陣取って赤い木の実をぽいぽい放り込む。 途端に炎の中で木の実がパンッ、と弾け、鼻を突きさすような刺激臭が漂い出した。 「くさっ!?」 「うぐっ」 鼻が良い獣人から次々に悲鳴があがるが、シラオリは全く気にも留めず、枝の先に生い茂る葉っぱを燻す。 「コッコ、準備は?」 「同意ハ得タ」 コッコを先頭に整然と一列に並ぶ軍鶏たち。シラオリは満足そうに頷くと、気合を入れて、枝を重そうに両手で持ち上げる。 「いくよ」 えいやっさっ、と可愛らしい掛け声と共に、まるで埃を払うはたきのように軍鶏の身体に枝を振り下ろし出す。 パタパタ、と振り下ろされるたびに葉っぱの部分がいい刺激になるのか、軍鶏は嫌がるどころか気持ちよさそうにうっとりと目を細め、自ら身体を差し出す状況に、周囲の視線がイオリに集まる。 「全員、作業に戻りなさい。ニカ、シラオリを頼みます」 ニカとはイオリの愛騎の軍鶏だ。他の軍鶏に比べて勇猛で、賢く、俊足だ。主人のイオリにしか懐かない気難しい性格で有名だが、意外にもシラオリのことを気に入っている様子だ。二つ返事で快諾したのがその証拠だろう。 イオリの指示に従い、野営の準備を終えた頃には夕日はすっかり遠くの山の裏に沈んで、水を打ったような夜の涼しさと静けさがやって来る。 厳戒態勢の一団はあまりに静かすぎる夜に戸惑いを覚えた。野外では狂暴な獣や虫の夜襲が常に付きまとうものだ。だがこの日は、獣や虫の声は遠く、周囲は凪のように穏やかだ。 「あの童女が匂い消しをしてから不気味なほど静かだな」 てか、ともそもそと冷え切った陣中食を口にしながらゲンが童女を見やった。 「……なぁ、本当にほっといて大丈夫なのか? てかホント手際良いなあの童女」 焚火を囲んで手際よく調理をしているシラオリの姿にゲンが感心の声をあげる。 竹で鍋を代用し、雑穀や握り飯を水でふやかして煮なおし、野草や干し物を入れたりして時折味見をしている。どうやら簡易な雑炊を作っているようだ。 「やべぇ超いい匂い。ちょっと分けてくれたりしねぇかな。ちょうど二食分あるみたいだし」 生唾を飲むゲンにシズルがいら立った声で咎めた。 「やめろ。また鶏車の下に籠城するぞ。某とて我慢しているのに」 ちなみに彼らの陣中食は、笹の葉で包んだ握り飯と干し肉の串焼き、副菜に漬物だ。いついかなる時に襲撃に合うかわからない野外で手の込んだ調理など自殺行為だ。 「てかホント何者だろうな。鉄持ちは薬師殿の妹君の【羅刹】だけじゃなかったのか? なんであんな童女まで持ってるの?」 「しかもあの山刀……そんじょそこらの鉄ではあるまい。大将が所持していてもなんら見劣りしない名工が鍛えた鉄だろう」 「え?」 鉄は貴重品だ。さらに鉄を鍛えられる人材はもっと貴重であり、鍛冶に関して代表的な種族は鉱人(ドワーフ)だろう。 鍛冶に長けた鉱人(ドワーフ)は頑固で偏屈な職人気質の者が多く、自らが見初めた相手のためにしか鉄を鍛えないのは有名な話だ。 「恐らく特注品だろう。あの童女の手に馴染んでいる。……銘だけでも見せてくれないだろうか」 「やめろ。それこそ籠城するっつーの。おっ」 荷台からワカマルを伴って降りてきたイオリに全員の視線が集まる。イオリは鷹揚に手を振って食事を続けるように促してから、ゆっくりとした足取りでシラオリの元に向かう。 その間にも竹の鍋を持ってニカの後ろに隠れるシラオリの動きは素早かった。 恐らくイオリはあえてシラオリが逃げる時間を与えたのだろうが、それを理解しないワカマルが「無礼な」と憤る。 「やめなさい。シラオリ、食事中のところすみません。患者の容態が安定したのでその報告に来ました。兄の薬のおかげで解毒できたようです。多少の麻痺はまだ残っていますが、明日になれば快調することでしょう。ありがとう。兄のおかげで部下を失わずに済みました」 深く頭を下げて感謝を伝えるイオリに周囲が慌てふためく。 その姿をニカの後ろで眺めていたシラオリがひょっこり顔を出す。その表情はどう応じたらいいのかわからず戸惑っているようだった。 「運が良かっただけです。まだ患者の胃が弱ってるかもしれません。それ食べさせてあげてください」 「「「(……超いい子)」」」 その場にいた全員の好感度を爆上げさせる当人は、そんなことはつゆ知らず、ニカの背後に完全に隠れ「いただきます」と手を合わせた。 手作りの匙ですくって、ふーふーっと息を吹きかけて冷ましながらあぐあぐと雑炊を食べ始める。 チョウダイチョウダイ、と横からシラオリの食事をつけ狙うコッコを、相棒譲りの冷めた目で見やりながら嘴でけん制するニカ。 小と中の軍鶏に挟まれたシラオリは慣れた様子で2匹を宥め、それぞれに乾燥豆を分け与えている。 「てか、軍鶏ってあんなに流ちょうにしゃべる生き物だったっけ?」 第三章 「いやー本当に助かった! さすが先生のやや子。見た目も腕も先生そっくりだ。おっと申し遅れた。俺はアツモリだ」 「ムキムキ上腕二頭筋! がっちり僧帽筋! 凸凹大胸筋!!」 「ははっ。そんなところまで先生そっくりか! しかし本当にめんこいな! まぁ、当然うちのやや子の方が断然めんこいがな!」 『おぉっ。ゲンとはまた違った陽キャラ。妻子持ち、それにシラ親子好みの筋肉ん! よかったな、シラオリ』 早朝。カガシの毒から復帰を果たした騎兵は、アツモリと名乗り、さっそく命の恩人たるシラオリに感謝を告げにやってきた。 獣人のアツモリは筋肉隆々の巨漢で、その見た目に違わない豪放な性格のようだ。 子持ちということもあり、この面子の中ではもっとも子供の扱いに長けているようだ。 人見知りのシラオリをあっさり手懐け、周囲を驚かせた。シラオリが筋肉フェチだからという要素が大半だろうが、 何とも言えない微妙な顔をしたイオリが出立を告げる。シラオリはコッコと共に荷台へ乗り込もうとしたところ止められ、屋形の方へ案内された。 イ草の香りがする上等な畳敷きの床にシラオリは目を輝かせ、「わぁわぁ」と歓喜を漏らし、いそいそと座り込んで畳をペタペタ触ったり撫でたりする。 『大将の話しじゃ今日の昼刻までには到着するんだよな。ってシラオリ、いつまで撫でてんだよ』 「畳、氏族、お金持ち」 最初は理解できなかった彼だが、シラオリが浮かれるように繰り返す単語を繋げてようやく察した。 『あーうん。庶民がいきなりお貴族様基準になるとあぁなるのか』 ひとしきり撫でた後は、こてんと横になる。すりすりと頬ずりをして畳の感触を満喫するシラオリを他所に、彼はステータスを開いた。 名前:シラオリ 種族:??+α 称号:弱小/追われ人→??/いじめられっ子/見習い薬師 技能:調合Lv40/情報収集Lv44/隠蔽Lv29/騎乗Lv55/識字Lv55/算術Lv41/礼儀Lv48/回避Lv6/反射神経Lv8/打撃痛覚耐性Lv3/軽業Lv35/山歩きLv57/野外生活術Lv52 遺伝:バイタリティ/暗視/混血/超聴覚/俊敏 天性 :unknown 天与:幸運 臨界:盗み聞き/音量調節/採取 ??:90% 【軽業:危険な動作を身体を軽快に動かしてやりこなす技術。身体の柔軟性やバランス感覚に補正がかかる】 【山歩き:獣道や悪路の歩行技術。Lvに応じて体力減少効果増】 【野外生活術:野外生活に必要な技術と知識。Lvに応じて野外生活におけるストレス減少効果増】 『おぉっ。暫く見ないうちに技能のレベルがちょいちょい上がってるな。よしよし、項目も増えたし何気に有意義な旅だな。おい、シラオリいい加減戻ってこい。天機の検証始めっぞ』 床の端から端までゴロゴロ転がるのをやめたシラオリの下っ腹にコッコが乗っかる。 『天機?』 『そうだ。もうちょっと天機のこと詰めて説明してほしい。天機が不思議な力なのはよーくわかった。んで、その天機の燃料は何になるんだ? 体力? 精神力?』 『えっとね。カカは天機を使いすぎると身体がだるくなって、動けなくなって、最終的には吐血するって言ってた』 『やばっ! てか限界まで使ったことがあるのカカ様! やっぱ普通じゃねぇ。姉妹揃ってバグキャラかよ』 シラ姉妹のバグっぷりに戦慄する彼に、シラオリは不思議そうに首を傾げた。 『つまり使い過ぎに注意すれば問題ないってことでよき?』 よきよき、とシラオリは楽し気に肯定する。 『使いすぎると身体がだるくなったり頭痛がするからすぐやめれば問題ないってカカ言ってたよ』 『ふむふむ。つまり肉体的精神的な負担がでかいってことか。んでシラオリの天機は自分の意識を別の何かに憑依させることができるって認識でよき?』 『よきよき』 『その憑依対象の条件は?』 軽快に答えていたシラオリが初めて口ごもった。 『あんまり試したことがないからわかんない。カカに止められてたし』 『あ、そうだな、わりぃ。んでも今はオレがシラオリの中にいるからその危険性も低いんじゃないか? ほら、すぐに戻れたって言ってたじゃん』 んん? とよくわかっていないようなリアクションを返され、彼は教鞭を握る教員になったような気分で『いいか』と偉ぶった口調で説明する。 『オレのゲーム脳による検証の結果! オレがシラオリに同居している限り、お前の放出された自意識が迷子になることは低いと見た!』 「そうなの!?」 「ン? ドウシタドウシタ?」 がばっと起き上がり、いきなり独り言にしては大きすぎる声を発したシラオリをコッコが不思議そうに見つめる。 『そうだとも。まだまだ検証不足なのは否めないが、恐らくオレがシラオリの身体に同居していることで、放出された自意識にとってそれが帰る目印の役目を果たしているんだ。だからあの時、すぐに戻ってこれただろう』 「確かに!」 『というわけで検証開始だ! 検証対象はそこのしゃべる不思議生物コッコ!』 おぉっ、とやる気に満ちるシラオリは、自らの腕の中で訝し気な眼差しを向けてくるコッコをロックオンする。 訪れる浮遊感に彼はシラオリが天機を発動させたのを実感し、そして―― 「『あいたっ!?』」 痛覚を共有する2人は同時に呻く。天機を発動させた瞬間、彼らを襲ったのは、まるで硬質なガラスに頭から突っ込んで弾かれたような鈍痛だ。 状況が分からないコッコは、いきなり頭を抱えて畳の上をのたうち回るシラオリに驚いてバサバサと羽音を立てる。 「うっうっ。ごめんコッコ。なんでもない」 痛みで呻きながらもどうにかこうにか謝罪し、パニックに陥るコッコを撫でて宥める。 『まさか……拒絶? いや、でもこれでオレの目印説が証明されたってことだよな?』 『あっ、確かに元に戻ってる! カオナシすごい!』 パチパチと拍手を送られ、彼はまんざらでもなさそうに『そうだろうどうだろう。オレのゲーム脳すげぇだろ』と自画自賛し、『でもそのカオナシ呼びやめろ』と本気のトーンで修正を要求した。 『つまりあれか? 自然みたいな自意識が不透明で確立されてない物にしか憑依できねぇのかな? あ、じゃあ無機物なんかはどうよ?』 『むき? 何それ?』 『鉄とか水とか空気とか。あ、ちょうどいい。シラオリ、今度は迷宮指針(ダンジョンポース)で試してみようぜ』 『う、うん』 『大丈夫だって! これに自意識はないから弾かれることはまずないから安心していってこい。お前の身体はオレが代わりにちゃんと守っとくから』 さっきの鈍痛で及び腰になっているようだ。明らかにテンションだだ下がりのシラオリを励まし送り出す。 すると先ほどのような拒絶は起こらず、シラオリの自意識が身体から離れたのを確認し、彼は迷宮指針(ダンジョンポース)を手に取って慣れた手つきで操作しようとして、 「おろ?」 スクロールしていた手を止める。 投影されたホログラムキーボードが勝手に上やら下やら行き来し、手当たり次第にタブを開いたり閉じたりしている。 彼は暫くシラオリの好きにさせた。コッコを愛でながら体感的に二刻ほど経ち、軽い眩暈を覚え、迷宮指針(ダンジョンポース)を小突く。 「そろそろ帰ってこーい」 呼びかけにシラオリは素直に応じる。すると投影されていたホログラムキーボードが落ち、コンソールから電源が落ちた。 ただいま! と元気いっぱいな返答に彼はホッと安堵し、シラオリの天機について思索に沈む。 身体に戻った途端に調子を理解したのか、シラオリは眉間に皺を寄せる。彼に勧められるがまま畳の上に横たわった。 『よし! これで無機物なら問題ないってことも証明されたな。無機物に宿るのも、身体に戻るのも問題なし! しかも中から自在に操作できるって中々チートっぷり……あれ?』 すやすやと穏やかな寝息が聞こえ、彼はまたかぁ、と一人ごちる。 『んま、寝ているうちにたどり着けるだろ。よし、今のうちにマッピングしとこーっと』 シラオリの協力もあって彼のマッピング作業に必要なデーターはかなりため込まれた。 それを順調に消費しているうちに、鶏車の速さが明らかに減速した。次いで聞こえてくる喧騒に寝ていたシラオリが飛び起きる。 『おぉっ。着いたんじゃねぇ?』 物見の小窓を開けて身を乗り出すシラオリの目に飛び込んできたのは、立派な木造家屋の屋敷だ。 おぉ、と同時に感心の息を漏らすシラオリに屋形にもっとも近く並走していたシズルが声をかけてくる。 「あまり身を乗り出すと危ない。完全に停車するまで大人しくしているんだ」 『カカ様ニ伝エテ来ル!』 物見から一足早く飛び去ったコッコを見送り、素直に顔を引っ込めたシラオリはすぐに靴を履いて出入口でスタンバイする。 「あ、思いついたんだった」 『何が?』 「君の名前! オリシロ! ボクの代わりをしてくれるからオリシロ」 いきなりの発表に彼は困惑し、(また安直な理由)と内心で呆れたが、今までの候補と比べるとずいぶんマシだろうと思い直す。 『あーうん。じゃあそれでいいよ』 「決まり! これからもよろしくね。オリシロ」 溌剌とした笑顔に彼――改めオリシロは戸惑いを覚えつつも、その純粋な好意に悪い気はしなかった。 鶏車が停止する。それと同時に待ちきれないシラオリが焦れて屋形から勢いよく飛び出す。 「うぉ!?」「なんだ? こ、子供!?」「シラオリ、待ちなさい!」 騎兵衆の登場に狼狽えていた門番の足元を掻い潜り、屋敷の敷地内に突入したシラオリは焦がれた音に向かって全力疾走で駆けだした瞬間、横からいきなり飛び出してきた黒い塊に巻き込まれ「ぷぎゃっ!?」と悲鳴をあげた。 黒い毛玉に押し倒される。それでも相手が加減してくれているのか痛みも重みも全くない。ただ息苦しく、じたばたもがいてどうにか呼吸を確保したシラオリに耳に『ゴッゴォ!』と聞き慣れた雄叫び響く。 「ゴッコ!」 久しい再会にシラオリが喜びの声をあげた瞬間、野太い嘴にばっくり頭を挟まれ、紫色の舌でベロベロ舐め回される。 『うげっ。ちょ、やめて。涎でべとべとにしないで、てか臭い!』 きゃらきゃら笑ってゴッコの愛撫を受けるシラオリに彼の悲鳴など些末なことだ。 そんな一人と一匹を周りは遠巻きにして様子見する中、速足で近づいてくる気配にシラオリは勢いよく顔を上げる。 シラオリの大きな目に、じわりと涙が浮かぶ。 「まったく。あなたって子は……大人しく待っていなさいってあれほど言ったのに」 起き上がったシラオリが駆け出し、膝を折ったシラユキの身体に飛びついた。 その幼い身体をふんわりと受け止めた途端に、シラオリの口から栓が抜けたように激情が迸る。 「カカのばかアァァアアァァァアア」 わんわん泣きながら丸めた小さな両手でシラユキの胸をぽかぽか叩く。 ばか、ばか、ばか! カカのおバカ!! となじる声に周囲はぽかんとした。 「こ、こら。シラオリやめなさい!」 「カカが悪いんだああぁぁぁあああ」 慌てて止めに入ろうとしたシラハだったが、シラオリの癇癪大爆発に弾き返された。 オロオロするシラハをシラユキは視線で制止し、 その背中を優しく宥めるようにぽんぽん叩く。 「……そうね。カカが悪かったわ」 ごめんなさい、しおらしい謝罪にシラオリの両手が止まり、シラユキの黒衣をぎゅっと握りしめ、顔をぐしゃぐしゃにしながら泣き続ける。 「シラオリ、どこも痛いところはない?」 こくり、と豊かな胸に顔を埋めながら頷く。 「お腹も空いてない?」 こくり、とすすり泣きながら頷く。 「シラオリ、カカもすごく寂しかったわ」 シラオリはひっくひっくとしゃくり上げながらも、顔を上げてシラユキを見る。 彼女は曖昧な微笑みを浮かべ、その白くてまろい頬に手を差し入れ、赤くなった目元を親指で優しくなぞった。 「とっても寂しかったわ」 「ボクの方が寂しかったもん!」 「いやこの身だってすごく寂しかったぞ。すごーく寂しかったぞ」 『はっちゃん、必死すぎでしょう』 対抗するシラハに入れたツッコミはシラオリにも届かない。シラオリとの指向音声システムをOFFにしたからだ。 タオやコッコは誤魔化せても、鋭いシラユキは誤魔化しきれないオリシロの判断だ。もちろん事前にこのことはシラオリに伝えている。 シラユキのことを彼は未だに信用しきれない。ひとまず彼女の前では極力存在を消す方針だ。 「本当に人の言うことを聞かない頑固者なんだから……一体誰に似たのかしら?」 「うんうん、さすがシラオリ。自らの信念を曲げずに突き進む勇猛さは姉上そっくりだ。いたたっ」 「褒めないの。まったく、あなたがそう甘やかすからこの子が勇猛と蛮勇をはき違えるのよ。氏族の荷台に紛れ込むなんて自殺行為は今後二度としてはダメよ。わかった?」 『あ、やっぱ切腹ものだったんだ』 そんな彼女たちへイオリが歩み寄って来る。どこか緊張した面持ちの張り詰めた雰囲気の氏族に飛びかかったのは、シラハだ。 「疾く死ね」 地を穿ち、縮地を思わせる歩行でイオリの目の前に現れた彼女は、一寸の狂いもなく人体の急所である喉頭へと拳を放った。 「相変わらず容赦ないッ」 「シィ!」 「止しなさい!」 身体を軽く沈め、横に振って拳を回避したイオリの頭部へ断頭台を思わせる蹴りが振り下ろされる。 体重と速度、殺意を練り合わせたシラハの一撃を、イオリは素早く半身を捻って僅かに掠らせただけで危うげに躱す。 血飛沫が跳ね、地面を赤く濡らした。 「止しなさいと言っているでしょう!」 シラユキの怒声に両者の動きが止まる。主にシラハであるが、彼女は親の仇の如く憎々し気に鋭く睨みつけている。 イオリは片頬から滴る血を軽く手の甲で拭いながら、狼狽える部下を視線で黙らせた。 「……見事。掠っただけで私の肉を裂きますか」 「チッ」 『いや、どんだけ冷静よ! 止血しろ! 止血!!』 表情をぴくりとも変えず、賞賛を口にするイオリにオリシロは激しくツッコミを入れた。血に慣れていない現代っ子には刺激が強すぎる。 「申し訳ございません。虎狼様! すぐに止血を」 「いえ、お気になさらず。【羅刹】の彼女に再び見えた際には五体満足でいられるはずはないと覚悟しておりました。この程度で済んだだけ僥倖です」 『え、このバグキャラに喧嘩売るとか氏族様は死にたいの? つか愛称はっちゃんの癖に二つ名が物騒すぎるな!』 シラユキは慌ててシラオリをシラハに押し付ける。途端に殺気が霧散するものだから器用なものだ。 シラオリは事態がよくわかっていないのか、きょとんと眼を丸くしている。 「はっちゃん、ニコのおじさんと知り合い?」 「ニコのおじっ」 「そんな些末なことシラオリが気にすることない。いいか、あれと仲良くしてはダメだぞ」 シラハは妙な呼び方をされショックを受けるイオリを顎でしゃくった。 「どうして?」 「あれは救いようがないロクでなしの恩知らずだからだ」 「ロクでなし!? 恩知らず!? サイテーだ!!」 「シラハ、兄が私のことを恨んでいるのは承知しておりますが、その子にまで私の恨み言を吹き込むのは止めて頂きたい」 「あの、止血を」 「事実だろ。貴様が関わるとこの身たちは大抵ロクでもない面倒事に巻き込まれる。この疫病神め。姉上、やはりこのロクでなしの息の根をここで止めておこう。うん、そうしよう」 「そうしよう!」 「いい加減にしなさい!」 ピシャッと叱られ、悪ノリしたシラオリは首を縮めてシラハに抱きつく。その際、シラハがぼそっと「暗殺するか」と本気のトーンで囁く。 「んんっ。シラユキ、申し訳ありませんが、時間が惜しい。鶏車を用意しておりますのでそちらに乗車していただけませんか? 詳細はその時に」 「ほら、やっぱりロクでなしだ」 「……わかりました。同行しましょう」 もの言いたげなシラハを黙殺し、シラユキは真っすぐイオリを見据えた。 「覚悟は決めております」 ◆◇◆ 藩主への挨拶も早々に切り上げ、すぐさま出発したイオリ一団。 鶏車の護衛は部下に任せ、屋形にはシラ家族とイオリが対面で座り込んだ。 「まずは謝罪と感謝を」 そう切り出したイオリがシラユキに向かって深々と頭を下げた。 「私の無理を聞いていただき誠に感謝します」 「頭をお上げください虎狼様。あなた様のような誇り高い殿方がそう易々と頭を下げなど」 「我が一族の恩人たる兄に私は卑劣で恩知らずな行いを働きました」 遮るようにイオリが悔恨を口にした。具体的内容については言及しなかったが、シラユキはすべて察していたようだ。 「コッコの後をつけてわたくしたちの所在を把握したのですね」 『コッ!?』 いきなり名前が挙がり、シラオリの頭の上でウトウトしていたコッコが飛び起きる。 「それはすべて私の独断であり、むろん親類たちは一切関与しておりません。すべての不行儀は私にあります」 「それについては咎める意思はわたくしたちにはございません。どうか、頭をお上げください」 「姉上、それを甘やかす必要はない。ロクでなしの恩知らずがさらにつけ上がるだけだ」 「シラハ、あなたこそおだまりなさい」 まるで鞭で打つようにピシャリと叱られ、シラハは拗ねた表情になる。シラオリが頭を撫でて慰めたらあっさり復活したものだから現金なものだ。 『うん、安定のシラハ様だわ』 「本題に入りましょう。虎狼様。五大将【黒曜】のあなた様が、一介の浮浪の民でしかないわたくしたちにいったいなんの御用……」 不意にシラユキの台詞が止まった。彼女は驚いて息を飲み、畳にその形の良い額を擦り付ける――土下座の姿勢を取ったイオリを凝視する。 「薬師シラユキ。もう私には兄にしか頼れる薬師はおりません。どうか、聖上を……追われ人の宿業から救っていただきたい」 第四章 見上げると、薄闇の彼方に氷柱のような白い何かが垂れ下がっている。 1つだけはない。広大な岩肌の天蓋からそれはいくつも垂れ下がり、内側から仄かな白い燐光を発していて、壮麗な筆致の壁画を朦朧と照らし出している。 「カカ、あれはなに?」 「あれは鍾乳石。蓄積岩の一種で床から生えているのが石筍よ」 イオリの案内でシラ一家が行き着いたのは、だだっ広い鍾乳洞だ。荒く削り取られた階段や横幅のある道を、彼らは列をなして進んでいく。 洞窟は初めてのシラオリは終始興奮気味だ。あれはなに? これはなに? と好奇心全開でシラユキに尋ね、返ってきた答えを忘れないように口にして反芻する懸命な姿に大人たちはほっこり笑顔を浮かべる。 『てか此処って……迷宮(ダンジョン)じゃねぇ?』 シラオリの視覚情報を総括してオリシロはこの洞窟が迷宮(ダンジョン)の入り口であることに気づく。迷宮(ダンジョン)へ潜入する隠し通路だって覚えている。何せこの迷宮(ダンジョン)は彼が最後に攻略する寸前だった【鍾乳洞の迷宮(ダンジョン)】だからだ。 最後に保存したマップを広げて確認すると、この鍾乳洞を抜けた先には立派な社があるはずだ。ただマップ上には本来あるはずのない隠れ道が存在している。その先は、初見ではまず攻略不可能な難攻不落の迷宮(ダンジョン)の入り口だと彼だけが知っている。 「あっ。カカ、あれボクがいるよ、ボク」 シラオリの声がマップからオリシロの意識を現実に引き戻し、天井や壁を取り巻いて描かれた壁画に向けさせた。 『ラピュ〇?』 美しい筆致で描かれた絵図は、天上と地上が描かれ、天国と地獄ほどの差を呈している。 地上は禍々しい炎に埋め尽くされ、逃げ惑う多種多様の種族の阿鼻叫喚の地獄図に対し、天国の天上は眩いばかりの光りと人々の笑顔で満ち溢れている。 何人かが天上に浮き上がる鋼鉄の城から身を乗り出し、地獄の地上を眺めながら傲慢な所作で指をさしている。その方向へ光りの梯子が垂れ、地上から引き上げられている種族の中に、シラオリと同じうさ耳の獣人が居た。 「あれは天人(ガラシャ)よ」 「天人(ガラシャ)? ん? なんで上の人は耳に木耳が生えてるの?」 『きくっ』 シラオリのあんまりな比喩にオリシロは絶句し、シラユキとシラハが同時に噴き出す。くすくす、と笑う2人にシラオリを含め周囲は困惑気味だ。 「ふふっ。そうね、確かにそっくりね。でもあれが天上人の耳なのよ」 「天上人?」 「私たちの創造主。この世でもっとも狡猾で傲慢で情がない種族よ」 『えぇ……カカ様、なんかオレらに恨みでもあるの? でもなんで天上には人間しか居なくて、地上には種族しか居ないんだ? てかこんな壁画なかったはずだけど』 「……あら、出口」 「本当だ!」 ごつごつした通路が石畳で舗装された道に変わり、厳重な警戒態勢は五大将の顔パスで難なくクリアし、外へと出た彼らを出迎えたのは、いかにも洗練された建設物だ。 漆黒の瓦で覆われた屋根は上から下にかけて流麗な曲線を描いている。建造物の柱や壁は朱色と白で統一され、重厚さの中に華やかさを備えているが、頑丈そうな防壁やら武装した近衛兵たちのせいで、本来の荘厳やら優美と言った印象からはずいぶん遠ざかってしまっている。 『御上を匿うだけあって厳戒態勢だな。つか噂のマキナさんはどこよ?』 「イオリ!」 社に到着したところで切羽詰まった声がイオリを呼んだ。意志の強そうな目力とイヌ科特有の尻尾と耳が特徴的な精悍な顔立ちの青年が、磨き上げられた板張りの廊下をものすごい速さで駆けてくる。 五大将の丁寧なお辞儀と挨拶を「構わん」と一蹴していることから、彼よりも高位――つまり皇族関係者に連なる身分者なのだろう。 「その者があの大百足の毒を解毒した凄腕の薬師か」 青年の鋭い眼光がシラユキに向く。あまりにも露骨に値踏みするような視線に姉至上主義者のシスコンはカチンとした様子だが、シラオリを抱いているうちは下手に動けない。その代わりに射殺せんばかりの眼光を青年に向けてはいたが、 「はい。彼女が我が一族の大恩人――薬師シラユキです。シラユキ、こちらは聖上の弟君であられる」 「大狼クラマだ。挨拶は結構だ。すぐに兄者を診てくれ」 顎をしゃくり、すぐに踵を返す。なんともせっかちであるが、それほどひっ迫した状況なのだろう。 先導するクラマにイオリとシラユキ。そしてシラハとシラオリが続く。 「聖上の御容態は?」 「……意思疎通は問題ない。ただ時々――別人のように豹変する」 「シラユキ、見解を」 「患者の容体を診ないことには判断ができません。ただまだ御意思をお持ちなら助かる可能性はあります」 「あんたなら兄者を救う術を心得ているとイオリから聞いている。それは如何なる方法だ? 都中の薬師を集めて兄者の容態を診せたが、誰一人として特効薬を煎じられなかったぞ」 「いえ。薬を煎じる必要はございません」 その意外な返答にクラマは思わずたたらを踏んで立ち止まった。 「何? では如何様にして兄者を救うんだ?」 「追われ人に特効薬は必要ありません。聖上の御身体に天機を施すだけで事足ります」 「天……まさかそれは天人(ガラシャ)の御業か!?」 『ん? さっきも聞いたな。天人(ガラシャ)ってなん?』 ピコン、とオリシロだけに聞こえる機械音が鳴った。素早くステータスを呼び出し、ヒットした項目の情報を把握する。 名前:シラオリ 種族:天人(ガラシャ)+α 称号:弱小/追われ人→??/いじめられっ子/見習い薬師 技能:調合Lv40/情報収集Lv44/隠蔽Lv29/騎乗Lv55/識字Lv55/算術Lv41/礼儀Lv48/回避Lv6/反射神経Lv8/打撃痛覚耐性Lv3/軽業Lv35/山歩きLv57/野外生活術Lv52 遺伝:バイタリティ/暗視/混血/超聴覚/俊敏 天性 :unknown 天与:幸運 臨界:盗み聞き/音量調節/採取 ??:95% 【天人(ガラシャ)=新人類の理想体(モデル)。身体能力は全種族最弱だが、容姿端麗で病気に掛かりにくく不老体質。肉体的な成長は一切せず、世代に関わらず理想体型を維持する】 『新人類? 理想体(モデル)? シラ親子が容姿端麗な理由は分かったけど、わかんねぇ単語ばっかだな。隙を見てシラオリに確認しなきゃ』 「天上人の寵愛を一身に受ける伝説の種族が……まさかあんただというのか?」 「……ご説明は御身の前でさせていただきます。急ぎましょう」 『カカ様、マジで只者じゃなかった』 もうすぐそこだっ、と切迫した声で叫び、クラマの案内でたどり着いた部屋の前には、屈強な門番2名が巌のごとき直立不動を維持したまま佇んでいる。 「兄者! イオリが例の薬師を連れてきた。すぐに謁見の許可を!」 「クラマ、無作法ですよ」 聖域の前で騒ぐ行為はいくら皇族の血縁者だとしても無作法だ。すかさずイオリの苦言が飛んだが、クラマは慣れているのかまったく気にした様子はない。 なんだかシラハ様と同じ匂いするなぁ、とオリシロが感想を漏らしていると、聖域を隔たる障子が音がしないような速度で開かれる。 「お待ちしておりました。どうぞ、聖上はお会いするとのことです」 丁寧に首を垂れて、彼らを招き入れたのは上品な女性だ。 クラマに続いてイオリ、シラユキ、シラハに抱えられたシラオリが入室する。 聖域の床は全面畳張りで敷き詰められ、二十畳はあるだろう広さ。必要最低限に設えられた調度品は吟味されつくした一級品ばかりで、庶民のシラオリはもちろん庶民派の彼はあっという間に委縮した。 「おかえりイオリ」 穏やかな声だ。 神秘めいた雰囲気が籠った声音は、ふくよかに柔らかに耳の奥に広がって、深い静謐をもたらす。 体験したことがない不思議な感覚にソワソワするシラオリの目が捉えたのは、寝台から上半身を起こすイヌ科の獣人だ。 ほぼ中央で分かれた灰褐色の前髪。後ろ髪は腰あたりまで長く、アーモンド形の垂れ目は純度の高い金と銀のオッドアイ。 イオリがすぐさま跪き、「只今戻りました。聖上」と深く首を垂れる。 「イオリ、早く君のお客人を私に紹介してくれないか。堅物のお前が私にお客人を紹介してくれるなんて初めてのことで……ふふっ。私も妻のミヤも楽しみにしていたんだよ」 ミヤと呼ばれた上品な女性が、丁寧な所作で浅く首を垂れ、歓迎の言葉を口にする。 「それは失礼いたしました。聖上、この方が我が虎狼家の恩人――薬師シラユキ。その子女シラオリ。そして羅刹のシラハです」 子女呼ばわりされたシラオリが露骨に「むっ」と不機嫌そうに唸る。 「おや? その童は男の子ではないのかな?」 「「……え」」 同時に驚愕の声をあげたのは、イオリとクラマだ。彼らは挙って目を丸くし、シラハの膝の上から立ち上がってぷりぷりするシラオリを凝視する。 「ボク男児だもん! ちゃんとついてるもん!」 『おいこらー。この國の最高権力者の前で下ネタやめーい』 なんだその疑いの目はッ、と地団太を踏んで憤慨するシラオリをシラユキが「こらっ」と窘める。 「ふふっ。やはりそうか。すまないね、シラオリ。この2人は未だに独り身であまり童と触れ合ったこともないからわからなかったんだよ」 『いや、子育て経験者でもわかんねぇってシラオリの場合。つか権力者の癖にやたらフレンドリーだな聖上』 「さて、薬師シラユキ。現状の私を鑑みて君の率直な感想を聞かせてほしい。この病魔から私を解放できるかい?」 全員の目がシラユキに集まる。彼女は非常に落ち着いていて、簡潔に言った。 「率直に申し上げます。わたくしなら御身を蝕む呪詛の解除は容易いことです」 「待て! その天機とやらを兄者に施術する前にあんたが本当に天人(ガラシャ)なのかを証明しろ。天人(ガラシャ)の耳は我々とまったく異なる神秘的な形状だと伝承ではある」 「お待ちください! 薬師シラユキが天人(ガラシャ)であることを証明せずとも彼女が天機なる奇跡を起こせることは今この場で私の身をもって証明できます」 血相を変えて反論したイオリにクラマが驚愕の表情を浮かべた。聖上もミヤはそこまで表情に変化はなかったが、意外そうに眼を丸くする。 「虎狼様」 「必要ありません。私はあなたに聖上の治療だけを依頼しました。治療に無関係なことをこれ以上あなたに強いるわけにはいきません」 「……お気遣い感謝致します。ですが、聖弟様のご意見もごもっともです。わたくしたちの出生は明かさなければ信頼も信用もできませんでしょう。お目汚しの許可を頂けますか?」 聖上の許可が出ると、シラユキはまず隠蔽を解除したようだ。 その瞬間、目の前に天女が舞い降りたかのような幻想を抱いたのは、彼だけではないだろう。 誰もが彼女の神がかった美貌に釘付けになる中、シラユキは一切躊躇することなく常に耳を覆い隠していたターバンを外した。 『――ッ!』 初めて彼女の耳を――否、根本から欠損した耳だったはずの部位を見て息を詰めたのは、オリシロだけではない。 とくに女性のミヤは大変痛まし気な表情だ。どうやら獣人の女性にとって耳は顔の一部に入るらしい。 「天上人の箱庭――いいえ、収容施設から逃れる際にわたくしは自ら天人(ガラシャ)の証を切り捨てました。申し訳ありませんが、わたくしでは証明することはかないません。シラオリ、ちょっといらっしゃい。皆様にあなたの耳をお見せして」 シラハに手伝ってもらいながらシラオリがターバンを脱ぐ。 白くて長い垂れ耳は、壁画に描かれた天人(ガラシャ)の特徴と一致している。 「……まさか天人(ガラシャ)が実在するとは」 「ではすぐに天機とやらを兄者に」 「シラユキ、君の懸念を聞かせてほしい」 聖上はクラマの台詞を遮り、確信めいた口調で尋ねた。 「あるだろう。治療以上に厄介な懸念が……君には」 「……わたくしの懸念はただ一つ。解呪した後に起こる天上人の癇癪です」 心底忌々し気に吐き捨てるように言う。その恨みつらみが込められた声音はおどろおどろしく負の感情で溢れていて、彼女の剣呑な雰囲気にゴクリと誰かの生唾を飲んだ。 「我々の創造主――天上人は実在するのかい?」 「はい。奴らはこの大地の未練が捨てられず、天上から再び大地の実権を握ろうと画策しております。追われ人はその画策の一環です」 「そもそも追われ人とは一体なんだい?」 「追われ人は天上人に呪われた哀れな躯であります。天上人に呪われたら最後――その者は意思や尊厳、自由を奪われ、天上人の生きる絡繰り人形に成り下がります。聖上の人格が時々豹変するのはその予兆でございます。恐らく御身の身体を蝕む呪詛は奴らにとって特別な仕様なのでしょう。それが解呪されたとなれば」 「天上人の癇癪を受けることになると」 「馬鹿なっ! 兄者がいったい何をしたというんだ!」 あまりの理不尽に耐え切れず食ってかかるクラマの叫びに、シラユキは下唇を噛みしめ、辛そうに目を伏せた。 「奴らにとって我々は家畜以下。いくらでも代替えが利く消耗品……その程度の価値しかございません」 「ちなみにどんな癇癪が予見できる?」 「天上から火の玉を落としてくるでしょう。ここ一帯を火の海にするのは容易いほどの威力はあるかと」 絶句する周囲とは異なり、聖上はどこまでも落ち着いていた。 「それを防ぐ手立ては?」 「……考えはありますが、成功率はかなり低いかと」 「解呪を望まず、私が自ら命を絶つというのは?」 「おすすめはいたしません。奴らの魔の手が次の代に先送りされるだけです。恐らく奴らは聖上の御身分を狙って犯行に及んだのでしょう」 「……いたちごっこというわけか。なんとも悪辣な」 「兄者! 下手な考えは止してくれ! たとえ天上人の怒りを買おうとも俺たちは絶対に兄者を守って見せる!」 「私も同意見です。聖上、どうか後のことはお気になさらず御身のことだけをご自愛ください」 聖上が顎に手を当てて、片目をつむって思索に沈む。するとその様子に焦れたイオリやクラマがそう訴えたが、聖上は重苦しく沈黙したままだ。 ミヤは頭を回転させる聖上を心配そうに見つめ、そっとその背中に寄り添う。まるでその姿は今にも千切れそうな大木を懸命に支える添え木だ。 聖上の目がシラオリに向く。不思議そうに小首を傾げる幼い童を眩しそうに見据えていた異なる色の双眸を、シラユキにもどした。 「薬師シラユキ」 「はい」 「君の覚悟と決断に心から感謝と敬意を。全権を君にゆだねる。どうか、私を……この國を救ってほしい」 ゆっくりと首を垂れる。ミヤも夫に倣って頭を下げた。 「……身命を賭して全うさせていただきます」 ◆◇◆ 【カントダウン開始――5、4、3、2、1】 ゼロ、と軽い機械音声と共に彼とシラオリの意識は浮上した。 『あぁ。この感じ……カカ様またやりやがったなぁ。意識を昏倒させる天機とかチートすぎだろぉ。つか、シラオリ。お前もうちょっと警戒しろや』 「カカ?」 気だるい身体を叱咤して、ガタゴト揺れる屋形の床から起き上がったシラオリは、ポツンと取り残されている現状に驚いた。辺りは薄暗く昼刻はとうに過ぎているだろう。 すでにその聴力でシラユキとシラハがいないことを察し、すぐさま屋形から出ようとしたが、戸口は閂(かんぬき)でもかかっているのかかたく閉ざされている。 「出して! 出してよ! コッコ!!」 激しく戸口を叩く。しかしいくら叩いてもコッコは応答せず、申し訳なさそうに鳴くばかりでシラオリの要望を叶えてくれない。 「ねぇ、なんで開けてくれないの!?」 外にはアツモリの他にゲンやシズルがいる。シラオリの悲痛な訴えを黙殺され、屋形は速度を落とすことなく進んでいく。 「悪いなやや子。お前さんをここから出すわけにはいかない」 「なんで? 出してよ。カカの所に行くの!」 「そのカカ様から俺たちはお前の護衛と送迎を頼まれた。やや子が向かうのは虎狼家の別邸だ。あそこなら都からほどなく離れていて安心だ」 ひゅっとシラオリの喉が鳴り、殴られでもしたかのように絶句する。 「辛いかもしれないがカカ様の気持ちを汲んでやってほしい。火の海になるかもしれない死地に愛するやや子を残そうとする母親なんていないさ」 「――ッ」 シラオリは激しく戸口を叩き続ける。華奢な拳が傷つき、痛みを訴えているが、はば発狂しているシラオリは一切気づいていない様子だ。 『シラオリ、落ち着け! ちょ、そろそろヤバい。手がぁ、シラオリの手がぁ!』 オリシロの悲痛な訴えは荒れ狂うシラオリの感情にもみ消された。 こうなってしまっては手がつけられない。どうしようどうしよう、血を見るのは嫌だなぁ、と右往左往する彼が、迫りくるそれに気づけたのは――AGOで幾度もそれと対峙した経験故だ。 機械音のようで、しかし自然音のようでもある、とらえどころのない曖昧な音。無数の金属塊が軋むような異質な振動。ずしんずしんと僅かな地響きをたててそれはこちらに迫って来る。 『なんか変なのが南方から来るぞ!! 注意しろ!!』 オリシロが叫んだ瞬間、屋形が大きく方向転換した。シラオリの身体が戸口から弾かれ、勢い余って背中から後方の壁に衝突した。 「うわっ!?」「どうした!?」「戻……全員散開!!」 直後、雷鳴のような轟音が轟いた。 あまりの音の暴力にシラオリの意識が飛んだ。半壊した屋形から華奢な身体が鞠のように弾んで外へと投げ出される。 『うわぁぁあぁあ!?』 シラオリの身体は運よく繁みに投げ出された。しかし投げ出されたはずみで頭を打ったのか、意識が飛んだ。視界がブラックアウトし、身体が蝋人形のように動かない。正常に作動するのは聴力のみ。 軍鶏たちの叫喚。それを宥めようと必死のアツモリたちの声。ずしん、と原始的な恐怖心を刺激するかのような振動―― 『なんなのなんなの!? シラオリッ、起きてくれ!! 視界がブラックアウトして状況が全然わかんないぃぃぃ。お願いだから起きて!』 『実に興味深い』 必死に呼びかけていたオリシロは、突然頭の中に割り込んできた第三者の声に硬直した。 思考すら一時停止した彼に構わず、感情を削ぎ落したような無機的な男性の音声は、まるで精緻な檻の中で動き回るモルモットを観察するような口ぶりで続けた。 『最初から妙だとは思っていたが、仮想体(アバター)に完全ダイブしているのではなく、疑似ダイブか? 精神のメインは仮想体(アバター)でセカンドがプレイヤーで成り立っているとは……うむ。疑似ダイブとは言い得て妙だ。もう少し自由に観察してみたかったが、時間が惜しい。よし、その仮想体(アバター)は回収だ』 『いぎゃあぁあああ!! 起きて! 起きてシラオリ!! マッドサディストに拉致られるぅぅぅぅ』 浮遊感。ずしん、ずしん、と地響きに合わせてシラオリの身体が揺れる。オリシロは絶望に打ちひしがれた。 『とんでもない暴言だ。吾輩は観察メインの善良な生物学者だというのに。これでも旧人類の中でも特別穏健派と知られる吾輩のサンプル……んんっ。保護されたのは大変幸運なことだよ。プレイヤーくん』 『サンプルって言ってる時点でアウトだわボケぇぇぇぇ! シラオリに何かしたらシラハ様が黙っちゃいねぇぞ!』 「――っ、う?」 微かなうめき声がシラオリの口から漏れた。オリシロはその不安定な意識を繋ぎとめようと必死に呼びかける。 『シラオリ! おーい、大丈夫……』 目を覚ましてすぐに自分の身体が、冷たくて硬い――巨大な何かに抱えあげられていることを察し、2人の血の気が同時に引く。 それでも確認せずにはいられず、オリシロよりも先に覚悟を決めたシラオリが恐る恐る顔を上げ、そっと視線を上に向けた。 そこにいたのは、鋼鉄によろわれた獣――否、二足歩行の恐竜。 巨体。いや、身長は平均男性よりも少し高いといったところ。小柄なシラオリからしたら見上げるのに苦労するほどの身長差で、その差はまるでネズミと小象だ。 しかし何より圧倒的なのは、尻尾の先から頭部にかけて鈍色の鋼鉄によろわれたフルメタルボディだ。機動力を考慮してかそこまで厚みはないが、シラオリの山刀では太刀打ちできないことは明白だ。 「……災厄の、獣」 『なんで? なんで初見殺しのエネミーが……はあぁああぁあ? マキナ? これがっ!?』 マキナの頭部から顔面はスマートなマスクで覆われ、ちょうど目のあたりに細長いスリットが一本入っていて、緑色に発光している。 『ほほぉ。これまた興味深い。新人類の愛玩動物――天人(ガラシャ)とイヌ科の獣人の混血児とは……』 シラオリはハッとして慌てて頭の上に手をやってターバンを探った。どうやら外にはじき出された際にどこかに落っことしてしまったようだ。 悄然と肩を落とすシラオリは、「どこ行くの?」と疑問をぶつける。 『うむ。プレイヤーよりも仮想体(アバター)の方が豪胆且つ話しが通じるようだ。妙な反応を捉えたものだから立ち寄ってみたのだよ。そしたら仮想体(アバター)とプレイヤーのミックスがいるじゃないか。これは持ち帰らねば』 『こっちの人権は無視かゴラァァァアァア! おまわりさーん、ここに幼児誘拐犯がいまーす!! 誰かたすけーてー』 「はっ。ダメだよ! ボク、カカのところに行かなきゃ!」 『いや待てシラオリぃぃぃ! カカ様のところも死亡フラグだから! 天上人が火の玉おっことしてくるって話しじゃん! オレはまだ死にたくないよぉぉぉぉ』 『おや? どうして【メテオ】のことを知っている? あれの存在を知る天人(ガラシャ)は多くないはずだが』 2人はピタリと動きを止め、火の玉の固有名詞を言ってのけたマキナを見上げる。 「おじさん、火の玉について何か知ってるの?」 『おじさんではない。吾輩はこれでも君たち人造類の創造に関わった第一人者なのだよ。そこは敬意と敬愛を込めて【ご先祖様】と呼びたまえ』 『いや、待てよ。さっきから旧人類とか新人類とか人造類とは意味わからんぞ』 「ご先祖様、火の玉について教えて! カカがね。追われ人の治療したら空から天上人が怒って火の玉を落としてくるって」 『おいコラッ。いつもの人見知りどうした!?』 『うむうむ。素直なのは美徳だぞ。【メテオ】とは我々旧人類が開発した宇宙デブリ除去システムを新人類共が軍事衛星に転用した兵器だ。その兵器が起動すればここ一帯は火の海になるだろうな』 その光景を想像してシラオリの表情がますます青白くなる。 『追われ人に治療法があるのは驚きだ。いったいどのようにしてPICを除去させるのか。あれを体内に埋め込まれたら最後、人造類の文明では除去する術はないはずだが……一体どんな方法で?』 「どうやったら火の玉止められるの!? 教えて!」 『止める術はない。防ぐ可能性なら開示できるが、天人(ガラシャ)の身体能力ではとても達成できないだろう』 『……まさか迷宮(ダンジョン)攻略とか言わないよなぁ』 『さすがだプレイヤー。話しが早い。確か近くに【鍾乳洞の迷宮(ダンジョン)】があったはずだ。あそこに眠っている【アイギス】を起動させればまだ可能性はあるかもしれないが』 『アイギス? それってギリシャ神話のアイギスの盾……あれ?』 オリシロが異変に気付いた瞬間、ビカッ!! とスリットの色が緑から赤に変色した。ずしん、ずしん、と不自然に足踏みし、いきなり進路を変えたマキナを彼は唖然と見上げ、シラオリの唇を戦慄かせた。 「お、おまっ。シラオリぃぃぃぃぃ!?」 『鍾乳洞行く。迷宮(ダンジョン)攻略する』 マキナから送られてくる思考発声は間違いなくシラオリのものだ。いったい何がどうなって、と混乱に陥った思考は遅々として正常に機能しない。 「え、ちょっと待って。何がどうなって」 『オリシロ、言ったでしょう。ボクの天機は鉄に有効なんじゃないかって。だから試してみた』 「マジで!? い、いや確かに言ったけど……え、お前マキナを乗っ取っちゃったの!?」 『の、乗っ取ってないよ! ちょっと借りただけだもん』 シラオリはもごもごと反論したが、罪悪感があるのかその声音に覇気がない。 『ほほぉ。それが新人類に虐げられてきた天人(ガラシャ)の進化か』 どこからともなく飛来した思考音声に2人は硬直する。辺りをキョロキョロ見渡すと、銀の蝶がひらりと不自然な動きで舞って白銀の髪の毛にとまった。 『天機。天機というのかその不思議な力。まるで魔法だな。この吾輩を、マキナの開発者一族の吾輩からマキナの操縦権を奪うなどウィザード級のハッカーでもあり得ないことだ』 『……マキナって昆虫型もいるの? いや、確かに迷宮(ダンジョン)にも昆虫型のエネミーはいたけれども』 『観察にはこの昆虫型のマキナがもってこいだ。複眼機能があるからな』 なるほど、とオリシロは頭痛を覚えるように頭を抱えながらひとまず納得した。 『……ごめんなさい』 シラオリの謝罪をマキナは寛容に『いいとも』と許す。 『大いにその天機とやらを行使したまえ。そのためになら吾輩は君たちへ助力を惜しまない。あぁ、しかし迷宮(ダンジョン)のエネミーに関しては戦力外といっておく。吾輩にできるのはアイギスの起動方法を伝授するくらいだ。ふふっ、こんなに知的好奇心を刺激されるのは数百年ぶりだ。やはり人造類も進化するんだ。それも吾輩らが予想だにしない方向へ! ははっ、見たか新人類共めっ。これが生命の神秘だ!』 「あーうん。ちょっとハイになってるところ悪いんだけど、ほんとあんた何者だよ」 ははっ、と一頻り笑った後、マキナはハイテンションのままオリシロの疑問に答えた。 『吾輩は旧人類の成れの果て。天上人――新人類の目の上のたん瘤だよ』 ◆◇◆ 『天上人と君たちは我々を一括りにしているようだが、それは誤った認識だ』 ずしん、ずしん。軽い地響きをたてて【鍾乳洞の迷宮(ダンジョン)】内を我が物顔で闊歩する。 周りのエネミーはそれを敵視することはない。同じマキナなのだから当然だ。 エネミーが通り過ぎたのを確認し、マキナの収納スペースからオリシロがひょっこり顔を出し、その順調すぎる探索に苦い顔をする。 今までの苦労は一体、と一抹の虚しさが過ったが、今は攻略に集中せねばと前向きに思い直し、「その角を右な」とシラオリのナビをする傍ら、正体不明の新たな協力者――ご先祖様から得た情報を簡潔にまとめた。 「えっとあんたの説明を総括すると、天上人は旧人類と新人類がいて、その二極は対立の末に旧人類はあんた以外滅亡。以後、新人類が天上人に君臨した……と?」 『なんで対立しちゃったの?』 『価値観の相違だよ。旧人類の我々は天上を愛し、新人類は地上を愛した。すでに地上は人造類しか生きられない環境なのにも関わらず、彼らは生身を捨てて人造類の寄生虫になり、地上に帰還しようとどうしようもなく愚かな野望を抱いたわけさ。当然我々は反対した。すでに我々はこの大地を投棄した身だ。それに生身を捨てて人造類に寄生して生きるなど生命の冒涜とは思わんかね』 「そう考えるとマジで寄生虫だな新人類。シラオリ、ストップ。そこから三つ目の敷石は踏むなよ。罠だから罠」 その罠で三回もゲームオーバー(キャラロス)してしまったことがあるだけに、オリシロは念入りに言う。 一回目はネコの獣人。二回目はキツネ。三回目は鉱人(ドワーフ)だった。 三回とも罠にはまったことすら気づかずに、角を曲がった瞬間、待ち構えていたエネミーの餌食になったはずだ。 その悲惨な最後を不意に思い出し、ぞわっと肌が粟立つのを感じて彼はしつこく注意を促す。 「人造類ってもしかしなくても種族のこと? 」 『その通り。我々は人類の遺伝子を引き継ぎ、大地の過酷な環境下でも営みができる新たな生命体を創造したのだ。それが人造類――この地に住まう亜人間の総称だ』 なんとも壮大な説明に頭を抱え込む。長らくAGOの世界にダイブしていたが、攻略サイトですら挙がっていない情報の数々に眩暈がする。 そもそも此処は本当にAGOの中なのか。AGOの世界観に酷似した異世界という可能性がオリシロの中で浮上した瞬間、ぞわり、と。嫌な予感が大量の蛇のように這い上がった。 『あ、亡くなってる』 ヒィ、とオリシロは両目を覆った。 『かわいそう。これ終わったら弔ってあげてもいい?』 ほほぉ、とご先祖様が興味深そうに唸る。どうやら口癖のようだ。 『人造類の弔い方には興味がある。独自の弔い方があるのか?』 『土に還すんだ。寿命を終えた生き物はすべからず大地に還るんだってカカが言ってた』 『土葬か。うむ、その宗教性を鑑みればこのままなのは不憫だな。しかし、この鉱人(ドワーフ)はどうするかね? 他2名の獣人は問題ないとしても、種族が違えば弔い方も異なるだろう』 ドクンッ、とオリシロの心臓が大きく脈打った。 『そっか。カカの知り合いに鉱人(ドワーフ)がいるはずだから聞いてみよう』 『うんうん。そうするといい。もちろん吾輩も同行するがね。君たちの生活様式はとても興味深い。是非観察させてもらおう』 次第にその動きを増していく胸の鼓動の音が津波のように押し寄せてきて、呼吸が乱れる。それでもシラオリの卓抜な聴覚は2人の会話を明瞭に聞き取った。 『ん? オリシロどうしたの?』 ボクの顔が真っ青だ、と心配そうに音声を飛ばしてくるシラオリに、彼はうまく呂律が回っていないのを自覚しながら「なん、でも……ない」と乾ききった声で答えた。 『この人たちも金銀財宝狙ってきたのかな?』 『いいや。ここに転がっている死骸のほとんどは、新人類のベータテストの生贄だ』 『ベータ? テス……ん?』 『君たちの概念で言うところの追われ人のことだ。追われ人のほとんどは野外のマキナにやられるが、稀に生き残って迷宮(ダンジョン)にもぐりこむことがある。野外のマキナは迷宮(ダンジョン)には近づけない設定になっている』 『どうして?』 もうやめてくれ、と悲鳴を上げたくなるほど強烈な衝動に駆られたが、吐き出たのは、こほ、とかすれた咳のみ。 『各地に点在する迷宮(ダンジョン)は、新人類が我々から奪えなかったものだ。旧人類の知識と技術が詰まったノアの箱舟――それが迷宮(ダンジョン)だ。 新人類はそれを我が物にしようと追われ人を各地に送り込んでいる。君の中に同居する彼もそうだ』 「……ふっ」 オリシロの口から、風船の栓が抜けるように内なる感情が迸った。 「ふざけるな! そんな馬鹿らしい話しがあるはずないだろう!!」 オリシロの怒声にシラオリがびくっする。ご先祖様は悠々とした態度を崩さず、彼の表情を観察するような視線を寄こすだけだ。 「AGOはただのゲームだ!」 『此処は【現実】だよ。正確には君にとって数世紀先の未来だ』 咄嗟には意味が掴めなかった。 その暴露はあまりに非現実的で出来の悪い映画を観ているかのような気がした。 しかし簡潔な説明は、抜き身の日本刀に似た静謐な迫力が滲んでいて、オリシロの頭からつま先まで貫く。 『まぁ信じたくない気持ちも理解できるがね。だが実際はどうだ? これらの亡骸に君は覚えがあるんじゃないか? だからそんなに感情的になって目の前の現実を否定したがる』 「違う違う違う!! でたらめをこくんじゃねぇ!」 オリシロは声を張って目の前の現実を受け入れまいとした。思考がショートして、爆発した感情がもたらしたのは、逃避だ。 『どこ行くの!?』 後ろでシラオリが叫んだが、聞こえない。 迷宮(ダンジョン)の曲がりくねった道を、方向も定めず、ただひたすら走り続ける。 硬い石の床の反響音さえ気にならない。暗視の恩恵は間違いなく利いているはずが、涙でぼやけた視界は見えにくい。 ただでさえ少ない体力を削るように駆け抜けた回廊の突き当りは、奥行きのある長方形の空間だ。 がくっと膝が笑う。オリシロは躓き、石の床でしたたかに顔を打った瞬間、ヒュッと風を切る音が彼の髪の毛を掠めた。 身を投げ出したその頭の上でガゴンッ、と鈍い音が響く。顔を打った際に口内が切れたのか、血の味が口いっぱいに広がる。 蒼白の顔、灰色の頬、青ざめた唇。すぐ斜め上の床に突き立った湾曲した巨大な刃物の表面に映り込んだシラオリの顔は、白昼に幽霊を見たかのように顔面蒼白で、背後に佇む巨大な存在に焦点を合わせた。 それは鋼鉄で作られた巨大なカマキリ。その大きさは恐竜型のマキナよりも若干勝っている。一対の吊り上がった眼窩は血のように赤く、両脇から鎌状に尖った巨大な腕を突き出している。 長大な鋼鉄の鎌。刃状だけで成人男性の身長ほどもあるそれが、呆然と地面にへたり込む彼目掛け振り下ろされる。 『だめぇぇぇぇぇぇ!!』 バッキャシャアアンッ!! というけたたましい衝突音と大量の火花と共に、カマキリが大きく傾ぎ、鉄の破片をまき散らしながら石造りの壁に激突した。 不意打ちでカマキリに突進をかましたシラオリが、音声を必死に発してへたり込むオリシロに激を飛ばす。 『逃げてオリシロ! 早くっ』 『シラオリ、その鎌には注意したまえ。防御力と機動力はこちらが上でも、攻撃力とリーチはあちらが上だ。下手したらこちらの身体が真っ二つになってしまう。懐にもぐりこんで鎌を破壊することをおススメする』 カマキリが石壁に埋まった身体を立て直し、その凶悪な鎌を振り下ろしてきた。シラオリは咄嗟に回避し、慎重に距離を取る。 二体のマキナに踏み潰されないようオリシロは這い這いの姿勢で、素早く壁際に移動する。その最中、足裏から何かを踏んづけた感触が走り、それだけで周囲の温度が氷点下を切るような気がした。 恐る恐る視線を落とし、足を退かす。赤茶色に薄汚れ、枯れ葉のように乾燥しきったそれが、点々と足元に散らばっている。それを1つ1つ追いかけた先に、見覚えのある装備をまとった亡骸が視界に入る。 半壊したボーガン。破れた皮鎧の中から腐った肉片が覗き、白い突起が身体中の皮膚を食い破り――頭部は確認できなかった。 「うげぇぇっ」 耐え切れなくなって身体をくの字に折り曲げた。喉から焼き切れるような痛みと酸味を感じた瞬間、胃袋の中身がまとめて口から飛び出す。 嘔吐したオリシロは頭の歯車が吹っ飛びそうになった。 ゲームだと思っていた仮想世界が、実は自分にとって数世紀先の現実――【未来】だったなんて陰謀論としか思えない。 けれど目の前の亡骸は、残酷なまでに現実を叩きつけた。 今までキャラロスの回数だけ、自分が積み上げてきた亡骸を思うと気が狂いそうになる。 『君のその認識は新人類の洗脳によって植え付けられたものだ。君がそこまで気に病むことはないと思うがね』 ひらりと銀色の蝶が花びらのように舞って、オリシロの頭に翅を休めた。 「せん、のう?」 『追われ人のほとんどは新人類によって頭を弄られている。此処が仮想世界だと思い込ませ、君たちをゲームのプレイヤーに仕立てて我々の知識の宝庫――迷宮(ダンジョン)を攻略させるためにね。奴らは自らの苦労を厭おう怠惰で傲慢な生き物だ。利用できるものはなんでも利用する。旧人類然り、人造類然り――仮想事故で凍結した精神体然り。 さて、真実を知った君はこれから先いかにするんだい?』 感情の薄い声が提示する選択肢に彼は呆けた。 「な、にが?」 『強奪か? 残留か? 好きな方を選ぶといい。幸いなことに君は今、五体満足の仮想体(アバター)を得ている。恐らく君の存在は脱落者(ロストプレイヤー)扱いになっているはずだ。脱落者(ロストプレイヤー)になった時点で君は新人類からの管理から逃れたことになる。この先奴らは君のことを認識しないだろう』 オリシロは息を詰め、唇を噛んだ。 つまりシラオリの身体を奪って逃走するに今が絶好の機会――それを暗に示唆されたのだと彼は遅まきながら理解する。 確かに迷宮(ダンジョン)の地図を持ち、シラオリのスペックを熟知し、罠の配置を網羅している彼なら、1人で脱出するのも難しい問題ではないだろう。既にこの身は二桁以上の亡骸を積み上げた罪人だ。今さら犠牲を1つ増やしたところで罪悪感は薄い。 けれど―― 「そんなことできるかッ!!」 吐き出された声は情けないほど震えていたが、それが彼の偽らざる気持ちだ。 オリシロは根っからの善人ではない。少なくとも旧人類の甘い言葉に飛びつきたくなってしまうほど弱い人間だ。 けれどその甘い言葉を蹴ってしまうほど、彼はシラオリと共に在りすぎた。 甘ったれで弱いくせに、理不尽には黙っていられない跳ねっかえり。母親に蛮勇と評された直情径行で猪突猛進な姿は、彼にとって眩しいほどの姿だった。 現に今もシラオリは1人で戦っている。巨大な鎌にビビってへっぴり腰で攻めあぐねているが、彼はシラオリの勝利をはば確信していた。 否、信じていた。 「シラオリ、そのまま後退しろ!」 『へ? で、でも』 「いいから壁際まで後退してそれを引き付けろ! いいか? オレの合図で身体を縮めるんだ。得意だろ!?」 『ふっ。ははっ。なかなかどうして……君らは揃いも揃ってクレイジーだな』 「笑ってる場合か! あれの弱点をはよ!」 ふふっ、とおかしそうに笑いながら、それでいて至極満足そうな音声で発案する。 『マキナの弱点は共通している。鳩尾に設置されている稼働炉に衝撃を与えれば強制停止する』 「聞いたかシラオリ! 隙ができたら全力で懐に突っ込め! タオさんみたいに頭から全力で!」 わかった! と溌剌とした音声で応じたシラオリは、迫る鎌を紙一重で回避し、徐々に壁際まで後退していく。 尻尾が石壁につっかえ、後退が鈍っても、彼はまだ合図を出さない。シラオリは思い切って尻尾を丸めてもう一歩下がると、大きく振りかぶった鎌の先が、ガキンッ、と硬い音をたてて石壁に食い込む。 「突っ込め!」 瞬間、丸めた尻尾が縮んだバネのようにシラオリの巨体を前に押し出す。身体をなるべく低く保ち、爆発めいた加速に乗り、がら空きになったカマキリの鳩尾に頭からタックルした。 バギンィッ!! 凄まじい破壊音の後に大量の火花が散る。 同時にオリシロはシラオリの身体を通して痛みを覚えた。意識が一瞬だけ飛ぶような鈍痛だ。 びかっ!! とカマキリの両眼が激しい光を放った直後、その巨体が大きく傾いて、ズドンッと横倒れになった。 『……死んだ?』 動かなくなったカマキリからすかさず距離を取り、様子を伺っていたシラオリが恐る恐る歩み寄って、前足でカマキリのボディを小突く。 『死んだ? 死んでるよね? 死んでるでよき?』 『うむ。機能停止しているぞ。さすがプレイヤーだ。伊達にマキナとの戦闘経験が豊富ではないな。よくこのマキナの空間認識能力が低いと見破った』 「嫌味かこのヤロウ……」 『オリシロ、どうしたの!?』 ボクの顔が真っ赤だ、と狼狽えるシラオリにオリシロはつい恨めしい声で唸り、ひび割れたシラオリのマスクを指さした。 「お前の受けた故障が、痛みに変換されて本体に返ってきたんだよ!」 『んん?』 「くそっ! 痛みがフィードバックするなんて聞いてねぇぞ!」 『ほほぉ。そういうデメリットもあるのか』 よくわかんない、という相槌にオリシロはキレ気味に「さっさと戻って来い!」とがなる。 シラオリは若干怖気づきながらも、ぷんぷんするオリシロに逆らえず天機を解除した瞬間、 「いっちゃぁぁぁぁぁい!!」 疼痛に近い感覚が頭を突き抜け、シラオリはゴロゴロと床の上をローリングする。 「うっうっ。やだもう帰る!」 『ふざけるなコラッ! てめぇの身体はだろうが!! オレばっかに押し付けるな!』 あまりの痛みにマキナへ帰ろうとするシラオリをそうはさせるものか、とオリシロが抗議した。 2人の押し問答は、最終的に第三者による多数決で決した。 『オリシロの意見に吾輩は賛成だがね。マキナの身体ではアイギスが保管されている宝庫へは行けないぞ』 予想外の援軍にオリシロは『それみたことか!』と、十歳児以下のシラオリに大人げなく変に勝ち誇った。 半泣きのシラオリはオリシロに急かされるがまま、部屋の奥にある鉄扉まで進む。するといきなり二枚扉がまるで自動ドアのように滑らかに動いて開いた。 おぉっ、と痛みも忘れてシラオリが物珍しそうな声をあげた。 『congratulation。君たちが初めての攻略者だ』 お祝いの言葉と共にご先祖様が扉の向こうへ先導する。 するとパッと天井から灯りがついた。眩しそうに細くなった琥珀が、次いで驚愕に見開かれる。 「でっかぁぁああい!」 『……ガンダ〇かよ。それとも〇ヴァ?』 宝庫に収められていたのは、全長おおよそ10メートルは超えるほどの巨大なマキナだ。 形状としては重厚な人型というべきか。白と赤のカラーリングで、その両手には身の丈よりも大きな黄金の太陽を模したひし形の大盾を装備している。 『機体名【アイギス】。対新人類用に我々が開発した人造類専用機だ。さて、シラオリ。早速だがこの板の上に乗りたまえ』 シラオリは興奮気味にこくこくと頷く。ぴょん、と軽快な足取りで板の上に乗った瞬間、非常に緩やかな浮遊感と共に板が浮上し、マキナの鳩尾の辺りまで移動する。 マキナの弱点たる鳩尾は重厚でゴツゴツした鉄に覆われていた。 『ではシラオリ、オープンと言ってみなさい』 「お、オープン?」 すると突然、プシューッと空気が噴射する鋭い音がした。 思わず両耳を塞ぐ。次いで金属の摩擦音がし、鳩尾の部分がパカッと上下に開く。 『案外広いな。てかここって操縦席……だよな?』 ロボットアニメでありがちな操縦席を想像していた彼は、ぽっかり空いた何もない空間に疑問を持つ。 操縦席や操縦桿の類は一切なく、そこは大人1人なら寝転がれるほどの広さで、美しい円形のスペースだ。 『この【アイギス】はVRスキルでの操作方法を執っている』 『にしては端末もなんもないけど……肉声(ボイスコマンド)はどうなってんの?』 『肉声(ボイスコマンド)は君の認識に合わせている。機動したらこの空間は特殊なジェルで満たされる。それが君の言うところの端末――量子接続通信端末になる』 『え、満たされるって呼吸はどうすんの?』 『肺胞でのガス交換は可能だ。さらにそのジェルは衝撃やありとあらゆる耐性機能がついた優れモノだ。緊急脱出の際もクッション材になって傷など一切負わないことを保証しよう。ちなみに緊急脱出をした際は、内外から脱出可能だ。外からはこの巨大なコックを時計回りに捻れば』 突然、サイレンが響き渡った。それは長くは続かず、次いで機械的な音声が流れる。 【メテオの機動を確認しました】 ◆◇◆ 寺院の中庭は閑散としている。 聖上の撤退命令を受け、寺院の人手は限られた極一部しかいない。その極一部に該当するシラハは、深い夜陰に乗じて1人黙々と作業をしていると、聖上の治療を終えたシラユキが声をかけた。 「シラハ、聖上の解呪は無事に終えたわ。あとはわたくしたちが気張るだけよ」 「……姉上、今からでも遅くない。あれを迎え撃つなんて一か八かの賭け事なんてやめよう。慎重な姉上らしくもない」 シラハはそう進言しつつも、野太い棒に鉄屑――マキナの残骸を5体ほど串刺しにしては、それを軽快に振って見せる。 うん、と満足げに頷いては、地面に突き刺す。マキナの串刺しはこれで20本――合計100体のマキナの集合墓地のような有様だ。 「即席で集めたにしてはかなりの量になったわね。五大将の腕は伊達ではないわ」 シラユキは時間の許す限りマキナの回収を、イオリを通して五大将に依頼していた。 これらを障害物にして火の玉の威力を可能な限り削ろうと彼女は考えたのだ。 「うち三分の一はこの身が狩って……じゃない。姉上! この身は真面目な話をしている!」 いかん、とつい張り合ってしまいそうになる己を叱咤し、シラハは食ってかかるような口調でシラユキに迫る。 「はっきり言って無謀だ。この身と姉上がいくら結託しても、奴らの御業はそれを容易く凌駕する」 「そうね。それがわたくしたちの運命なら」 彼女の含むような言い回しにシラハは首を傾げた。 「……風向きが変わった気がしたのよ」 「風向き?」 「あの子が、シラオリが奴らの呪詛に打ち勝った時……よくわからないのだけれど、地上に降り立ったあの時に似た高揚感かしら。つまりはただの【直感】よ」 「姉上の直感が超凡なのは存じているが」 それでも、と不服そうに呟くシラハにシラユキは鋭い眼差しを向ける。 その瞳は抜き身の日本刀に似た冷たい迫力とある種の峻厳の強さがあった。 「地上でのうのうと生きていけるほど、わたくしたちは善良な存在ではないでしょう。これからもきっと多くの咎を重ね、罪を犯していく。奴らを屠る……その時まで」 「姉上」 「シラオリはわたくしたちが居なくても大丈夫よ。親が居なくても子は育つもの」 それに、と言葉を続けるシラユキの顔は、憑いていた鬼が落ちたように切ない表情になり、静かに微笑んだ。 「わたくしたちのいとし子はとてもたくましいもの」 ざわっ、とシラユキの影がうごめく。 瞬間、辺りの闇が呼応するかのように波打ち、ずずずっと水を啜るような音をたてて這い出てきた黒いそれは、すぐに形状を整える。 鋭利な爪先、しなやかな五指、柔靭な二の腕――巨大な黒い手の数々が、串刺しの柄の部分を握り、地面から容易く引っこ抜いた。 シラユキの天機――【影】。 『ほほぉ。それが君の天機か。シラオリとはずいぶん勝手が違うんだな』 第三者の声に姉妹は揃って硬直する。慌てて周囲を探って声の主を探し、ひらりと舞い上がる銀色の蝶――それがマキナだと気づいた時、それはまるで感情が籠ってない無機的な声音で続けた。 『なるほどマキナを投擲して【メテオ】の威力を削ごうというわけかい。しかしこれだけでは些か足りない。竜人の援護があっても完全に防ぐのは無理だろう。やはりアイギスを起動させて正解だ。あぁ、そろそろ投擲した方がいいと思うがね。ちなみに方位は北北東。あと30秒後に地表へ到達する』 「シラハ、準備を。方位北北東!」 「姉上!?」 「今はあれに集中なさい!」 黒い手がまるで投げやりの要領で串を次々に投擲した。 ビュオッ、と空気を鳴らして放たれた鉄が、中途半端な距離で突然発火し、ちゃっちい花火が誤爆するかのように燃え上がる。 変化は突然だ。闇夜の海のような黒色の空が、不気味な白光を深くいっぱいに含み、それが一条の光線となって地上に堕ちた。 シラユキは小さく舌打ちしたが、投擲する手をやめることはない。息つく間もない高速の投擲にかかる疲労と負担は並大抵のものではない。35本目を投擲した際、目や鼻から血がしたたり落ちてきたが、それに構う余裕などありはしない。 恐れも迷いもない真っすぐ佇んで強大な敵に立ち向かうシラユキの後ろ姿を、シラハただ眩しそうに見送り、頭痛を覚えるように曖昧に振った頭を抱える。 「違う。違うよ、姉上。確かにシラオリはたくましいが……あの子にはまだ貴女が必要だ」 ぴき、ぱき、と色黒の肌から硬質な音が響く。柔らかな皮膚が強靭な鱗に覆われたのを確認し、シラハはバンダナをぞんざいに脱ぐ。 あらわになった頭部には、左右から斜め上に細くて長い角が生えている。 「あの子を独りぼっちにはさせない。この――竜人の身にかけて」 重厚な愛剣を刺突の構えを取りながら疾走するシラハに濃厚な影が覆いかぶさる。 ありったけの天機をこの身に宿してくれた姉に感謝し、シラハは脚が地面に陥没するほど踏み込んで渾身の一撃を光線に放つ。 焼ける音。 鉄を容易く熔解させるほどの高熱の塊だ。シラハの鱗がいくら耐熱に優れていても限界は近い。 覆われた影が焼死し、鱗が焼き爛れ、皮膚から煙が噴く。全身が火だるまになったかのような激痛が襲い掛かるが、彼女は顧みない。 『――男は度胸! シラハ様の前に突っ込め!!』 『うおぉぉぉおおぉぉぉぉおおっ』 直後、白光の本流が、横から弾丸のように飛んできた巨体によって遮られた。 それは放浪経験が長いシラオリですら見たことがないほど巨大なマキナだ。 ひし形の大盾を構え、赤と白のカラーリングの巨体は光線を遮ってもビクともしない。 シラユキは血だらけの顔を上げ、ひどい頭痛に耐えながらも、影を使って満身創痍のシラハを光線の範囲外に避難させた。気を失っても愛剣を手放さない彼女の気骨に自然と苦笑いが漏れる。 それがいけなかったようだ。気が抜けて、朦朧としていた意識が急速に遠くなる。 「シラユキ!」 意識がふっと途絶えた。しかしすぐに名前を呼ばれた気がし、微かに浮上した意識が捉えたのは、この世でもっとも愛おしい面影だ。 「――シラオリ」 ぱちくり、と紫紺が瞠目した。その色に違和感を覚え、彼女は明滅する視界の中で、下唇に歯を立てて無理やり意識を浮上させる。 そこで彼女はようやく自分の身体を抱き止めているのがイオリだと気づいた。 「虎狼様、一体……どうして?」 イオリを含むクラマたちは聖上の采配でマキナ狩りを行っていたはずだ。それは彼らをこの死地から遠ざけるための方便でしかなかったのだが、 「聖上と貴女が嘘つきなのはよくよく身に染みておりますので」 辛そうな苦々し気な渋面を浮かべて、シラユキを抱き上げてその場から離脱しようとするイオリにもその無機質な音声は届いた。 『――あぁ。まずいな』 ひらりひらり、と2人の周りを飛び回る銀色のマキナが他人事のように呟いた直後、 光線を遮る巨体からガゴォンッ!! と轟音が響き渡り、体中から噴射する高圧蒸気が咆哮のように轟く。 高熱の余波がイオリの皮膚に火傷のようなジリジリした痛みを植え付ける。彼は咄嗟にシラユキを抱えなおし、踵を返した直後、 『ちょっとご先祖様ぁああぁあ! なんかピーピー言ってるんですけど!? 性能限界突破ってどういうこと!? うぎゃっ!? あちぃぃぃぃ!! 誰だこのジェルが万能だって嘘ついた奴は!? シラオリ、シラオリ!! 気をしっかり持て! ここで気絶したらシャレにならんぞ!! シラオリィィィィィ!!』 『うむ。どうやら調整を行っていなかったせいか強制停止が思ったより早くかかってしまったようだ。だが安心したまえ。当初の目的は達成できたぞ』 『このマッドサディストがぁぁぁああ!』 轟ッ、という風のうねりと共に生じた白光の塊が拡散し、空気に溶け合うように消えていく。 咄嗟にシラユキを庇ってその場に伏したイオリは、巨大なマキナの背後から雫のような形をした物体が弾き出され、猛烈な蒸気を発して地面に突き刺さったのを見た。 『やべぇやべぇやべぇ!! ちょっとそこにいるだろ誰かぁぁぁあ!! はよ、助けて!! シラオリが兎のローストになっちゃうぅぅぅぅ』 『ん。この場合、兎肉のブレゼと呼んだ方が適切な気がするが』 『やかましいわ! はよ助けろ!!』 「シラ……オリ」 姿なき声のやり取りでシラオリがあのポットの中にいることを察したシラユキが、ポットに向けて手を伸ばす。それだけで胃の中身がひっくり返ってしまいそうな嘔吐感を飲み込み、ありったけの気力を振り絞って天機を駆使しようとする。けれどすでに酷使しきった手は、雑草の根っこのように細く、今にも消えてしまいそうなほど頼りない。 それでも必死に手を伸ばす。黒い手がコックを握った瞬間、イオリの両手が重なった。 「――っ」 コックを握り込むイオリの両手の皮膚から白煙があがる。 皮膚が焼き爛れる音が聞こえたが、彼は構わず渾身の力を込めてコックを捻った。 キィ、と軋む音がした直後、空いた隙間からどろっとした赤い粘液が溢れる。大の大人でも竦んでしまうほどのグロテスクな光景だが、彼は臆することなく力を込めた。 「シラオリ!」 開錠された内部は粘液でいっぱいになっている。粘液の中にシラオリが浮いているのを目の当たりにし、一切躊躇することなくその両手を粘液に突っ込んだ。 がぼっ、と音をたてて未知の感触を臆することなく掻き出していく。粘液が焼き爛れた皮膚に触れ、熱した鉄を掴んだような激痛に構わず、イオリの両手はシラオリをがっちり掴んだ。 「シラオリ! シラオリ、しっかりしなさい!」 引っ張り出したシラオリはぐったりとしていて、顔色はまるで白蝋のように血の気がない。 何度か呼びかけても応答が得られず、焦ったイオリはその片頬を叩くと、その口から、ぷっぴ〜、と甲高い笛のような音が鳴る。 鼻がひくっと動き、瞼が揺れ、ゆっくり開いた琥珀からボロっと雫が落ちる。 「――ぷちゃぁぁあぁああぁああッ」 いちゃいぃぃぃぃ、と号泣するシラオリにイオリが慌てふためいたのは言うまでもない。 『げぼっ。死ぬ、かと……思った。あーあ最後まで締まらねぇな。絶体絶命の危機を救った英雄だってのに』 『よいではないか。だがしかし、これで君たちも立派な逃れ者だ。シンクロ率が臨界を突破しても変わらぬようだし、うむ。どうやら君たちとの出会いは吾輩にとって運命のようだ。新人類を皆殺しにするその時まで頼むぞ』 『なんかものすごく物騒なこと言ってねぇか、このポンコツ。てか逃れ者とかシンクロ率って』 ピコン、最早聞き慣れた音にシラオリは驚かず、嫌々ステータスを確認した。 名前:シラオリ 種族:天人(ガラシャ)+α 称号:弱小/追われ人→逃れ者/いじめられっ子/見習い薬師 技能:調合Lv40/情報収集Lv44/隠蔽Lv29/騎乗Lv55/識字Lv55/算術Lv41/礼儀Lv48/回避Lv19/反射神経Lv15/打撃痛覚耐性Lv18/軽業Lv35/山歩きLv57/野外生活術Lv52 遺伝:バイタリティ/暗視/混血/超聴覚/俊敏 天性 :unknown 天与:幸運 臨界:盗み聞き/音量調節/採取 シンクロ率:100% 【逃れ者=betrayer】 【シンクロ率=アバターとの適合率】 『……裏切者ってなんじゃそりゃぁぁああぁああ!!?』 「ぷちゃああぁぁぁぁあああああぁぁぁあああああぁ」 |
かもめし upMT8OuaYE 2022年02月12日(土)18時45分 公開 ■この作品の著作権はかもめしさんにあります。無断転載は禁止です。 |
|
この作品の感想をお寄せください。 |
---|
2022年02月17日(木)12時55分 | かもめし upMT8OuaYE | 作者レス | ||||
---|---|---|---|---|---|---|
日暮れ様、いらっしゃいませ。 はい。冒頭からギア全開でいかせていただきました。「着いて来れる読者だけ着いて来いっ!」っという意図はなかったのですが(汗)そう感じさせてしまうのは私の落ち度です。もう少しマイルドにならないか検討してみます。 ラノベとしてはありですか!? 最高の誉め言葉をありがとうございます。 シラオリがお気に召していただけて嬉しいです。 日暮れ様のご指摘の通り、この作品はシラオリが真の主人公なので、オリシロの影がかなり薄くなってしまいました。それでは少し面白みに欠けますね。SAOのキリトには及びませんが、オリシロもベータ―テスターとしての経験を活かせているエピソードを追加したいと思います。 文章のご指摘ありがとうございます!なるほど一文が長いですか。日暮れ様のご指摘を元にまた見直したいと思います。 貴重なご意見ご感想ご指摘ありがとうございます |
2022年02月17日(木)12時01分 | かもめし upMT8OuaYE | 作者レス | ||||
---|---|---|---|---|---|---|
でんでんむしさま、いらっしゃいませ。 この度は拙作を読んでいただき、ありがとうございます。 でんでんむしさまのお好みに合ってよかったです。ご指摘いただいた指向性音声システムの解禁のタイミングは個人的にも遅いかなっと思っておりました。やはり遅かったですね。もう少し早くして主人公とシラオリとのやり取りを増やすように意識していきたいと思います。 それとこれは自分の好みなのですが、せっかく幸運とバイタリティのレアスキル〜 確かに!せっかくレアスキルがあるのにあまり目立っていませんでした。ここぞとばかりにスキルを押すエピソードを追加すればもっと光りますね。貴重なご意見ありがとうございます。 また、これも自分の読解力不足のせいかもしれませんが、若干の読み辛さも感じま〜 読みにくいのは私の力不足です。ご指摘の通り、似た名前も要因かと思いますが、私の文章力がいたらないばかりに申し訳ありません。 ただこの似た名前は個人的にこだわりがあって、名前を変更するのには抵抗があります。 文体を見直して分かりやすく添削できるように励みたいと思います。もしご迷惑でなければ、文体についてもご意見をおきかせくださいませ。 貴重なご意見ご感想ご指摘ありがとうございました。 |
2022年02月16日(水)20時13分 | でんでんむし | +20点 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|
かもめし様 以前は感想ありがとうございます。最後まで読ませていただきました! 個人的に死にゲーが大好きでして死にゲーの世界で弱小キャラに憑依してしまうという設定は自分の中でドンピシャの好みでした! 二章になって指向性音声システムが解禁され、シラオリとの意思疎通が出来るようになってから一気にワクワク感が出てきました。主人公とシラオリがどうやってこのゲームを攻略していくのか? そんなダブル主人公感が出ていてこの部分はかなり良い設定だと思います。また、後半は衝撃的な事実が発覚するなど、先が読めない部分や壮大な設定に光るものを感じました。 主人公の『時間は有限、可能性は無限な人生を地で歩ける最強の生き方なんだ!』のぼっち理論や『シラオリが兎のローストになっちゃうぅぅぅぅ』→『ん。この場合、兎肉のブレゼと呼んだ方が適切な気がするが』みたいな掛け合いも面白かったです。 気になった部分ですが、シラオリと意思疎通が出来るようになるまでの引きがやや弱く感じました。もちろん、一章でもステータスの謎やシラユキが息子を殺そうとする謎など、引き付ける部分もあるのですが、自分としてはもっと早い段階で指向性音声システムは解禁して欲しかったかな〜と思う所もあります。序盤はちょっぴり淡々としたイメージがあるかもしれません。 それとこれは自分の好みなのですが、せっかく幸運とバイタリティのレアスキルを持っているのでこれを生かして事件を解決したりするエピソードが欲しかったかもしれません。 また、これも自分の読解力不足のせいかもしれませんが、若干の読み辛さも感じました。キャラも主要となる人物の名前が似ていたせいかちょっとゴチャついてしまった感もあったかもしれません。ストーリーも難しい話ではないのですが、追いかけるのにかなり苦戦しました。結構時間をかけて読んだつもりだったのですが、理解できていない部分も多く、最終的には流し読みに近い感覚となってしまい、各キャラとシナリオが頭に残りにくかったかもしれません。 自分も偉そうに言える立場では無いですが、もう少しだけ読み手に対しての分かりやすさがあればグッと評価は上がると思います。 ただ、繰り返しますがこれは自分の読解力不足や文体の好みの問題の可能性もあります。逆に考えれば個性があり、とても味のある書き方とも言えます。また、光る部分があるのは間違いないと思うので、壮大な雰囲気も感じられる後半などが読み手に刺されば一気に評価が化けるタイプだと思います。 理解しづらい部分は逆に言えば高度なシナリオという考え方もできますし、それだけ高いポテンシャルを秘めた作品だと言えるでしょう。この部分は作者様の得意不得意に合わせて調整していただければと思います。 それでは失礼します。色々と勉強になった一作でした。これからもお互い頑張りましょうね。
|
合計 | 2人 | 30点 |
作品の編集・削除 |
ライトノベル作法研究所管理人うっぴー /運営スタッフ:小説家・瀬川コウ:大手出版社編集者Y - エンタメノベルラボ - DMM オンラインサロン
プロ作家、編集者にアドバイスしてもらえる!勉強会で腕を高めあえる!小説で飯を食べていきたい人のための創作コミュニティ。学生には交通費1000円を支給。