Let me in (「ぼくのエリ」のオマージュ) |
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第一章 雪の街に散る血飛沫 「来ないでよ、汚らわしい! お父さんもお母さんもジャップとは遊ぶなって言ってるもん!」 「お前ら日本人のせいでうちのお父さんは死ぬはめになったんだ!」 「ここは白人のための国なんだ! ジャップは出ていけ! 日本に帰れよ!」 同級生たちにそう罵声を浴びせられた黒髪のおかっぱ頭の少女は泣きべそをかいてうずくまった。 「私のお父さんもカナダのために死んだようなものなのに…………」 戦争が始まり、生まれ故郷で差別、迫害に苦しんでいた彼女は母やきょうだいと共に新天地を求めてこの地に移り住んだ。父は家族と引き離されて、強制収容所へ連れていかれそこで亡くなった。親族に日本に帰ることを勧められたようだが、母は日本が戦争に負けることを確信していた。そんな日本に帰って何になるのか。 新しい土地に来ても、周りの白人たちの態度に変わりはなかった。学校の同級生も近所の同年代の子供もジャップがどうとか言って相手にしてくれない。 そっとそばにある石造りの階段の上に腰を下ろす。 自分が何をしたというわけでなくても今日も犯罪者のように罵られた。 幼い彼女にはわけがわからず、ただ罵声を受け続けることしかできない。 (誰も私と友達になってくれないのかな……) 「どうしたの? また誰かにいじめられた?」 突然低めの柔らかい声が頭上に降ってきた。 驚いて涙に濡れた顔を上げると、いつの間にか隣に一〇代半ばくらいの少年が座っていた。その長い脚を投げ出すようにして。 男性にしては長めのアッシュブロンドの髪。今まで見た中で一番綺麗な金髪だ。白人の多いこの街でもここまで美しいブロンドは見たことがなかった。少し病的にも見える、雪を欺くような肌。そしてその大きな瞳は角度によって藍色にも緋色にも見えた。このような色の瞳を持つ人も今まで見たことがない。 どこか人間離れしたその瞳に吸い込まれそうになる。その美しい少年は少女の肩に優しく手を置いた。 「僕がずっとそばにいてあげるよ……」 その微笑みは美しくも妖しかった。 「ねえ、サミー、来週フラン先生の家でニューイヤーパーティがあるの。ずっとずっと自粛自粛でできなかったじゃない? サミーも来ない?」 「ごめん、アニ。私そういうの苦手」 サミーと呼ばれた少女はアニのことを見ることもせず、ただ真っ直ぐ前を見ながらそう言った。 そこそこ長くしている黒髪を靡かせ、カツカツと大股の早歩きでその場を去っていく。 「アニ、あんな偏屈で陰気なの誘わないでよ。そもそもあの人誘ったって来ないでしょ。孤独を愛してるみたいだし」 マディソンが嫌味ったらしくそう言うと、彼女の取り巻きのクロエとセシルが、くすくす笑った。金髪、碧眼、モデルのようなスラリとしたスタイルの マディソンは、自他共に認めるジェマ・ワード似の美少女だ。資産家の令嬢でもある。この学校は比較的生活水準の高い家の子どもたちが集まっているが、その中でもマディソンの家はとりわけ裕福だった。美しい彼女はいつも取り巻きのクロエとセシル、その他大勢を引き連れ、男女問わず周りの人間を家来のように扱っている。 「……うん、でもサミーだけ声もかけずにパーティするってのはなんか、ね……」 アニは困ったように、眉を下げてそう言った。ややわざとらしく。 「アニは甘すぎ! とことん無視してやればいいの! あんなの!」 「その通り! あんな奴呼んだらせっかくのパーティもお葬式モードってもんよ!」 クロエがわざとサミーことサマンサに聞かせてやろうと無駄に高い声でそう言った。彼女はあまり深くものを考えず、マディソンの言うことやることに無条件で便乗するタイプだ。 「そうそう、学校で毎日あいつの陰気な顔を見なきゃいけないってだけで不愉快なのにさ!」 セシルもマディソンに賛同してわざとサマンサに聞こえるように声を張り上げた。まるで先程のクロエを真似るように。サマンサは聞こえているのか聞こえてないのか振り返ることはなかった。 学校から出たサマンサは一月の凍った空気を感じながらある場所へ向かった。この街、モントリオールは一年の半分は雪と氷に閉ざされ、特にこの時期は氷点下一〇度から二〇度くらいになる。この時期の外気は冷たいというより痛い。何百本もの針が頬を刺してくるかのようだ。カナダ第二の都市かつケベック州最大の都市であり、フランス文化の漂う趣深い街でもあるここモントリオール。「北米のパリ」と呼ばれるほど芸術も優れ、街のあちこちで美しい銅像やアートを見ることができる。今で言う「インスタ映え」の街でもある。 だが、 ここ二年弱、世界的に感染症が流行していたせいでこの街も彩りを無くしていた。その感染症の死亡率はそこまで高くないものの、とにかく感染率が高くサマンサの住むモントリオールでも既に一五万人以上が感染し五〇〇〇人以上が死亡した。最近は感染率も落ち着き、外出時間の制限こそあるが、ずっとオンライン対応をしていた学校や会社、商業施設の営業も再開している。 サマンサも感染症流行前の習慣を復活させていた。 下校時に学校の近くにあるモントリオール地下街に行くこと。モントリオール地下街は多くのショッピングモール、フードコート、都市機能を担う建物を繋ぐ広大な地下通路網だ。サマンサはいつもフードコート近くのベンチで課題を済ませ、ネットサーフィンか読書をして時間を潰す。その休憩所の中心には大きな噴水があり、いつも色んな色にライトアップされている。そんな美しい場所がサマンサはお気に入りなのだ。 家に帰っても母が機嫌悪いかもしれないし、もしかすると彼氏といるかもしれないので居心地が悪い。だからと言って遊ぶ友人もいないのだ。友人を作らないのは、疲れたからとも、傷つくのが怖いからとも、ある意味開き直っているからとも言える。 サマンサはモントリオール生まれモントリオール育ちだが、日本人の血筋を持つ日系四世だ。サマンサの曾祖父母は関東大震災後、貧しい日本を飛び出してカナダに渡った。そしてバンクーバーのパウエル街にほかの日本人たちと身を寄せあって暮らし、漁業で富を築いた。その後祖母を始めとする子供たちが生まれた。第二次世界大戦中から戦後にかけて日系人たちは敵性外国人と見なされ、財産を没収されバンクーバーを追われることになり、強制収容施設で最悪の生活を強いられた。曾祖父は家族と引き離され、レモン・クリークの収容施設に入ることになった。極寒の地で曾祖父は病気になり、命を落とした。曾祖母と祖母もその当時のことはあまり語らないまま亡くなった。祖母に限っては、「日本が真珠湾を攻撃した次の日から学校に行けなくなったのよ」とは言っていたが。曾祖父と引き離された曾祖母は仕事を求めて他の州より経済的に発展していたケベック州、このモントリオールに祖母含む子供たちや親類と共に移住した。ケベック州がフランス語を学んでくれる者には移住のハードルを下げてくれるような州でもあったからだ。 日系四世とは言っても、父親はフランス系カナダ人なので混血ではある。ただ、母方の血が濃く出ているらしく、サマンサの容姿は日本人と変わりなかった。真っ黒な直毛に平坦な顔立ち、白人に比べると厚みの少ない体。 今日のカナダの社会はかなりリベラルになってきているので、曾祖父母や祖父母が受けてきたような差別をサマンサは受けてきたわけでない。 だが、この世に人がいる限り差別がなくなることはないのだ。サマンサが生まれ育った地域はほとんどが白人だったので、やはりアジア人を見下す者もそう少なくはなかった。街中でも、未だにサマンサの方をチラチラみながら、「あぁ、中華臭い」「最近病気流行ってるのは、中国人のせいかしら」などと言ってくる者たちがいた。世界的流行り風邪の最初の患者が中国で発見されたため、最近アジア人差別に拍車がかかっている。突然目の前に小汚い格好の男がニヤニヤしながらやってきたと思ったら、「ニーハオ! ニーハオ! 中国語話してみろ!!」と嘲るように言われたこともある。東アジア系を「中国系」と一緒くたにするのは差別主義者のお決まりパターンだ。あからさまに「日本人なら日本に帰れば?」と言われることも少なくなかった。サマンサがアジア系で、しかもバカではなかったので彼らは面白くなかったらしい。 サマンサがプライマリースクールを卒業した頃、両親が離婚した。そしてサマンサは母と一緒に一度日本へ渡った。日系人は三世以降になると、親が早いうちに日本語学校に入れないと曰本語が話せないままになってしまうものだが、母とサマンサは就学前から日本語学校に通っていたのでネイティブと変わりなく曰本語を話せた。母は語学力を買われて日本の支社に転勤になったのだ。サマンサもきっと日本で上手くやっていけると思っていた。やっと自分の同胞たちと共に生きていける、差別やいじめのない世界でやり直せる……サマンサはそう思った。 だが、差別されるのは日本も同じだった。――いや、日本で受けた差別はカナダの比ではなかった。 まず、サマンサが英語の授業で教科書を綺麗な発音で読むと、くすくすと笑う声が聞こえた。どうも強弱アクセントのない言語を話している日本人にとって英語のオーバーな発音が可笑しくて堪らないらしい。「サマンサ敦子の真似をしまーーす」などと言って、変顔を加えつつサマンサの英語の発音を大袈裟に真似て(実際は全くコピーできてない)、皆の笑いを取ろうとする男子まで現れた。 サマンサが生まれ故郷の話をしようものなら、「そんなにカナダがいいならカナダに帰れば?」と軽蔑したように言われた。何も日本を下げてカナダの自慢話をしたわけではないのに。おまけに教師まで「あなた少しは空気を読んでよ。皆あなたのせいで不愉快な思いをしているのよ。皆あなたみたいな海外育ちじゃないんだから不公平でしょ。皆に合わせて」と放課後残され英語を下手に読む練習をさせられた。 だが、時すでに遅しだった。英語の時間、練習通りに英語を下手に読んでも「私たちの発音を真似てばかにしている」とクラスメイトに受け取られてしまったらしく、ますます嫌われる事態になってしまった。自分たちだってサマンサのモノマネをしていたのに。サマンサだけプリントが回ってこない、サマンサだけクラスメイトの旅行のお土産をもらえない、挨拶しても返してもらえない、連絡を回してもらえず次の日持ってくるものが分からず教師に叱りつけられる等は当たり前だった。酷い時はカンニングの濡れ衣まで着せられた。罰ゲームのネタとして男子に告白をされたことまであった。それもその男子はサマンサが恋心を抱いていた相手だっただけに、サマンサの心はより深く傷ついた。 サマンサの容姿がいかにも「私はミックスです」といったものであれば、皆の反応は全く違ったものになったのかもしれない。実際、隣のクラスに日英ミックスの女の子がいたのだが、彼女は色素の薄い目と髪を持ち、彫りの深い顔をしていて、手足も長かった。彼女がクイーン・イングリッシュを披露すると「かっこいい」と絶賛され、イギリスの話をすると「もっと聞かせて!」と皆目を輝かせながら寄ってきた。勿論、英語を下手に読む練習もさせられてない。性格や要領の違いもあったのかもしれないが、ここまであからさまに扱いが違うのはサマンサが日本人と大差ない容姿をしているが故としか思えなかった。実際「ハーフなのにブス」と言われたこともある。サマンサは別に美人ではないが、ブスという程でもないのに。 彼らにとってサマンサは「異なる文化を持った外国人」ではなく「ちょっと海外にいたからといって気取っている痛々しい日本人」にしか見えなかったのだ。なまじ曰本語が流暢に話せるのも原因の一つだろう。正直カナダで受けたいじめの何倍も堪えた。サマンサはずっと日本人を同胞だと思っていたし、祖父母から聞いてきた「古き良き日本」を愛していたからだ。だが、実際は「白人>自分達>その他」というカースト社会だったのだ。日本人に溶け込めないサマンサは「その他」だったのだ。日本は単一民族国家であるが故に異質な者は決して「自分達」に入れない。 「人種差別を受けながら移民の国カナダで生きていく方がマシなのでは?」と思い始めた矢先、母から突然「カナダに帰ろう」と言われた。そう言った母の顔はどこかやるせなかった。 「なんで?」と聞く気にはなれなかった。母もきっと自分と同じ思いをしてきたと感じたから。 「あんた、歳だけど中々いい味出してるなあ」 間接照明に照らされた薄暗い部屋の中、ベッドの上で中年の男女が裸で並んで横になっている。男性の方は歳相応という感じだったが、女性の方は歳の割に小綺麗だった。 「三〇〇ドルだっけ? ほらよ」 男性が女性に金を渡す。この女性は売春婦らしい。自分の部屋に客を呼んで事に及んでいるのだ。女性がMerciと言ってそれを受け取る。 「最後にもう一発やろうぜ」 男性が下衆な笑みを浮かべながらそう言ったとき、部屋のドアがカチャリと開いた。ほとんど足音を立てることなく誰かが入ってきた。部屋が暗くてよく見えはしない。どうやら一〇代半ばくらいの少年のようだ。暗がりでも、金髪なのはわかった。背は高いが線の細い少年だ。 「あん? 誰だよ、そいつ。ギャラリー付きでやる気か?」 男性が面白くなさそうにその少年に目をやる。 「……誰だっていいでしょ」 感情のない低い声で答える女性。 「おい、まさか息子じゃねーだろうな。子供にこんなところ見せるなんてあんたも人でなしだなあ」 どこか面白がるような口調でそう言いながら、男性はベッドから起き上がると、少年ににじり寄った。 「……!」 その少年の顔を近くで見た瞬間、男性は時が止まるような感覚を覚え、息を呑んだ。 「こ、こりゃあ、め、めちゃくちゃ綺麗なぼっちゃんじゃねーか! これなら男でもいいわ。こいつも頂いちゃっていいだろ? お前、子供がいるような部屋で体売る人でなしだし、構わねえだろ?」 男性は少年を顔から足先まで舐めるように観察すると、女性の方に向き直り、嘲笑うようにそう言った。しかし、女性は虚ろな目で男性を見つめるだけだった。 その態度を気味悪く感じたのか、男性はうろたえた様子で怒鳴り始めた。 「なんだよ! 何見てやがる!! うわぁっ……」 男性が声を上げたのは、少年が彼に襲いかかったからだ。少年が男性の首筋に歯を立てる。いや、この感触は歯ではなく牙だろうと男性は直感で分かった。おそらくこの少年は普通の人間ではない。 「やめろ!! やめろぉぉぉぉ!! うわぁぁっ」 男性が少年の下で、もがきながら断末魔の叫びを上げる。男性はしばらくもがいていたが、やがてパタリと動かなくなった。 女性はこんな状況を冷めた目で見ているだけだった。まるでつまらないテレビ番組でも見るかのように。 少年は息絶えた男性から口を離すと彼の頭を両手で持ち、ぐいっと一八〇度回転させ頸の骨をボキリと折った。 「……森に埋めに行きましょ」 女性がそう言うと少年は血まみれの口元を拭ってうなづいた。 「悪いわね、こんなオヤジじゃ不味いし、大して栄養にならないでしょ? 次はもっと若いのを連れて来れるようにするわ」 「……」 少年は黙ったまま、何とも複雑そうな顔をした。 「やあ」 サマンサがいつものようにショッピングモールの休憩所で課題をやっていると、見知らぬ少年に声をかけられた。 アッシュブロンドの髪、赤色がかった藍色の瞳、そして凍るような白い肌。まるでこのモントリオールの厳しい冬の大地のようだ。サマンサは久しぶりに感覚が揺さぶられるような気がした。 (なんて綺麗な色の目と髪……マディソンよりずっとずっと綺麗……) だが、ほっそりとした体つきと相まって少し病的にも見える。一月だというのにシャツに長袖のセーター、ズボンとやや薄着だった。ショッピングモール内は暖房が効いているとはいえ、サマンサ含め他の人間は皆コートを着ているというのに。彼だけ春の空間の中にいるようだ。 少年はサマンサに微笑みかける。サマンサは少年のその微笑みに既視感があるような気がした。 「いつもここに一人でいるよね……?」 ややイギリス鈍りのフランス語だ。モントリオールでは三番目に多いイングランド系だろうか? この国では見知らぬもの同士が気軽に話すことなど別に珍しいことではない。しかし、こんな絶世の美少年に話しかけられたことは初めてだ。人間不信気味のサマンサは嬉しさより先に疑念が湧いてきた。 「何これ、何かの勧誘?」 サマンサが突き刺すように言うと、美少年は吹き出し、笑いながら言った。 「勧誘って……そんなわけないでしょう」 「じゃあナンパ? ブスの私に随分物好きだね。やめておきなさい。私みたいなブスと話してたら笑われるよ。ブス専だって」 サマンサが僻みっぽく言うと美少年はますます可笑しそうに笑った。 「面白い人だなあ。全く。そんなんじゃないよ。友達になろうとも思ってないけど。ただ少し気になっただけ」 歳の割にはかなり落ち着いた口調で話す。育ちが良いのだろうか。だが、「友達になるつもりはない」なんてわざわざ言ってくるとは失礼なやつだ。関わらないでおこうとサマンサは思った。 「そう。さよなら」 荷物をまとめるとその場を去るサマンサ。こんな美少年が自分に話しかけるなんて、絶対よからぬことを企んでいるに違いないと思ったからだ。 サマンサが少し気になって振り返ると、美少年は苦悶に満ちた顔で喉を押さえていた。 (風邪でもひいてんのかな?) サマンサは母とモントリオール中心街の高層マンションに住んでいる。それも一六階なので窓からはノートルダム大聖堂やチャイナタウンの門がよく見える。だが、こんなところで母と二人きりで暮らしているのも寂しいような窮屈なような何とも言えない感じがする。 「母さん、今日ケヴィンは?」 ケヴィンというのは母の恋人の名前だ。アイルランド系の男だが、酒やドラッグに溺れてばかりで金遣いも荒く、さらに女癖も悪いろくでなしなのでサマンサはあまり好きでない。だが、母は彼の口の上手さに乗せられているのか、母性をそそられているのか何か知らないが離れ難いようだ。母は高学歴高収入の出来る女性であり、サマンサの勉強や素行についてはかなり喧しい。だが、男を見る目はない。その上男に依存するところがある。父はケヴィンと違って、教養もキャリアもある男性だったが、やはり女癖は悪かった。離婚の原因も父の浮気だ。再婚相手は韓国系なので、アジアンフェチの疑惑もある。 「またカジノか呑みにでも行ってるんじゃない」 母は眉間に皺を寄せ、ため息をつくとうんざりしたようにそう言った。 テレビを付けると、CBCの記者がLGBT当事者たちのインタビューをしていた。母が呆れたような顔で画面を見る。まるで躾ができてない悪ガキを見るように。 「この人たち、図々しいと思わない? もうこの国では同性婚もできるのにこれ以上何を要求しようっていうのよ。もう差別なんてなくなったじゃない。いつまで被害者面してんだか。そんなんだからLGBTは嫌われるんだわ」 サマンサは胸やけがしてくるようだった。母はなんて想像力がないのだろうと。自分は日系人として散々差別を受けてきたはずなのに、なぜ「LGBT」にはそこまで冷酷になれるのかと。そう反論したところで、「私たちは国に貢献してるし、努力してるからLGBTとは違う。あんたは子供だから何もわかってない」などと取ってつけたようなことを言われるだけなので聞き流すだけだが。こんなに想像力がないから男を見る目もないのだとサマンサは思っていた。 母は昔から努力の人だった。子供のころから努力して努力して勉強でもスポーツでも何でも一番になり、いい会社に入ることもできた。だから自分が「努力が足りない」と判断した人間にはとても厳しいのだ。それが自分の娘でも例外ではない。いや、身内だからこそ厳しいのだろうか。ケヴィンには何だかんだ文句を言いながらも別れようとしないから。だが、なにが母をそんな人間にしたのかサマンサはよくわかっていた。きっとアジア人女性だからといって馬鹿にされたくなかったのだろう。優秀な人間になって白人たちに認めてもらいたかったのだ。実際優秀でもなんでも差別的な人達は「出来のいい動物」程度にしか思ってくれないのに。 母の母、つまりサマンサの祖母は中指を立てられてもジャップと罵られても黙って微笑んでいるような人だった。それは「差別主義者とまともにやりあわない」という祖母なりの強さだったのだろう。そんな祖母はサマンサがプライマリースクールを卒業する前に亡くなったのだが、母にきつく当たられているサマンサを庇うように可愛がってくれた。母はそんなおっとりした祖母に反発を覚えていたようだ。そんなだから誰からも舐められるのだ、と。 (母さんって笑ったことあるのかな……) 舐められまいと常に完璧であろうとする母に対してサマンサはそう思っていた。「努力」や「苦労」は必ずしも人間を幸せにするものでも、優しくするものでもないと母で学んだ。 最近母は仕事から帰ってくるとすぐフラフラ飲み歩いているケヴィンを探しに行ってそのまま彼の家で世話を焼き、サマンサの話は聞いてくれない。一方的に指図をするだけだ。たまに二人の時間になると説教をされるか、父の悪口か、下らない愚痴か、ケヴィンへの不満を聞かされる。その割にサマンサの話は「暗くてくだらない。私に話すなら前向きな話にだけにしろ」と聞いてくれないのだ。サマンサに前向きになれなど土台無理な話なのだが、前向きな話をしたらしたで「口ばっかじゃなくて私が納得いくような結果を残してからそんな話をしなさい」などと言ってくるのは目に見えていた。 「そう言えばね、隣に越してきた人いるみたいよ。静か過ぎて気づかなかったけど。なんかちょっと陰気な四〇くらいの女性なのよ。見た目は歳の割には綺麗なんだけど。あと、その息子かしら? あんたと同じくらいの歳みたいよ。私は見てないんだけど。管理人さんいわく、すごく綺麗な男の子なのに青白い顔してて、なんか病的らしいわ」 「へぇ」 サマンサは気づいていた。息子の方は見ていないが、母親の方なら玄関の前で居合わせた彼女に何回か挨拶をした。確かに栗色の髪と緑色の瞳が印象的な美しい女性なのだが、ボソボソとした声でしか話さない人で、あまり愛想がいい印象は受けなかった。母が隣人に気づいてないのは単にあまり家にいないからだろう。 「しかもオーナーの言うことには、部屋の窓は一日中カーテンを閉めたままですって。変な人達! あまり関わらない方がいいのかしら」 そのとき、殺人事件のニュースが流れた。二五歳の男性が仕事帰りに喉を何者かに裂かれ、血を抜き取られた上に首の骨を折られて死んでいたという。 「やだあ、今度はグリーンライン沿い!? 最近多くない? 若者が殺される事件!」 母があからさまにうんざりしたような声をあげる。 「……そうね」 そういえば、ついこないだも二三歳の売春婦がほぼ同じ要領で殺された。 「やあねー、物騒になってきたわね、モントリオールも。移民を受け入れすぎたせいなんじゃないかしら。だから感染症も持ってこられるのよ」 「自分も移民三世のくせに……」 思っていたことがつい口に出てしまったサマンサ。 「え?」 「なんでもない」 「Salut.また会ったね。今日も一人でいるの?」 いつものショッピングモールの休憩所で読書をしていると、昨日の美少年がやってきた。またこいつか、とサマンサは思った。今日もまた笑われたりろくでもないことを言われたりするのだろうか。だが、会ったら即逃げなければいけないほどの危険人物とは思えなかったので、暇つぶしに会話くらいしてやることにした。 「……そうね。友達いないもの」 口を開けばネガティブな言葉しか飛び出さないサマンサが面白くてたまらないのだろうか。美少年がまた目尻を下げてクスリと笑う。 「奇遇だね、僕もなんだ」 「意外。あなたみたいな綺麗な人なら人が寄ってくるだろうに」 そう。やはり人間は見た目なのだ。サマンサはたった一五年の人生で散々それを思い知らされてきた。同じ混血なのにまるで違う待遇を周りから受けていた日英ハーフの同級生、とんでもなく性格が悪いのに容姿がいいという理由で皆からチヤホヤされているマディソン。 「君も綺麗だよ」 彼は少し口角を上げて微笑みながら言った。本当に美しい笑みだ。真顔なのに笑っている。 ――そうだ、既視感があると思ったら、モナリザやマリア像のようなアルカイックスマイルだ。 サマンサはそうピンと来た。少し口角を上げただけなのにこの引力はなんなのだろうか。 絵か彫刻のように整った顔でこんな風に微笑まれたら老若男女誰もが虜になるはずだ。 「ありがとう」 一応お礼は言ったが、彼にとっては他人を褒めることなんて挨拶みたいなものなのだろうとサマンサは思った。 「あなた、この辺りに住んでるの?」 「そうだよ。この噴水の中にね」 彼はそう言って噴水を指さす。照明の効果でパープルになった水が柱のごとく高く天井に向かって吹き出されている。 「……冗談よね?」 サマンサが真顔でそう言うと、ふふっと笑われた。 「ごめん、多分君の家の隣だよ」 「えっ」 「こないだマンションの前で君を見たから。それから母さんが隣に日系人の親子が住んでるって言ってたから多分君かなって」 『すごく綺麗な男の子なのに青白い顔しててなんか病的らしいわ』 サマンサは母の言葉を思い出した。そう言われてみれば……。 ここ、モントリオールには日系人は五〇〇〇人程度しかいない。だからますます差別的な連中に中華系の人々と一緒くたにされやすいのだ。差別意識を持ってない白人たちでさえ「東洋系なんて皆一緒」とどこかで思っている。国によっては勿論、個々人それぞれ違ったアイデンティティを持っているにも関わらず。 「なんで私が日系人だってわかったの?」 「…………なんとなく、雰囲気かな」 そう言って何かを見抜くように見つめてきた。吸い込まれそうな藍色の瞳。その表情はまた彼を実際の歳よりかなり上に見せた。まるで達観した老人のように。サマンサは久しぶりに「自分がそこに存在している」ことを教えてもらえた気がした。同質の魂の持ち主にやっとめぐり逢えたような、そんな感覚だった。 そしてなんだかんだ話し相手に飢えていたサマンサ。昨日はなんて失礼なやつだと思ったが、今は彼と会話をすることを嫌だとは思ってない。いや、むしろ…… 「私サマンサ。サマンサ・アツコ・マキハラ。サミーって呼んで。あなたは?」 珍しく自分から名乗った。「誰も私に関心なんてあるもんか」と他者に対してシャッターを降ろしていたサマンサだったが、彼には自分のことを知って欲しいと思った。 「僕はネル」 「歳は?」 「一五歳くらい」 ……「くらい」? サマンサは少し引っかかったが、追求せずにいた。 「私も一五。驚いた。もっと上かと思った」 白人はアジア系より歳が上に見られることがあるが、そういう問題ではない。ネルはもっと中からの雰囲気が老けているのだ。 「そう? でもよく言われるかな」 「どこの学校に通ってるの?」 「……学校には行ってないよ。病気でさ」 「……そうなの」 (あー、だからこんなに顔色悪くて痩せてるんだ。でも外出はできるのね) 「……また明日もここに来るの?」 病気だと言っているのに「明日も会いたい」などと言ったら配慮がないと思ったのでこう切り出してみた。 「……多分ね」 「じゃあまた会える?」 「……会えるよ」 アルカイックスマイルが一瞬崩れたのを、サマンサは見逃さなかった。 「エバ、飲みすぎだよ。それくらいにしておきなよ」 ネルはテーブルに向かい合わせで座っている女性に言った。彼女は酒瓶に手をかけたまま机に伏せている。長い栗色の髪がテーブルの上にばさりと広がっていた。 「うるさい! どうせ私はもうあなたにとって価値がないのよ! もうおばさんなんだもの!!」 顔を突っ伏したまま叫ぶエバ。 ネルは悲しげに美しい顔を歪める。 「そんなこと言ってないでしょ」 「何よ! 今日隣の女の子とデレデレしてたくせに!」 「……デレデレなんてしてないよ」 「もういい!!」 ネルは大きく息を吐くと、席を立ち、エバを後ろから抱きしめた。するとエバは子どものように首を横にふった。やや白髪が混じった栗色の髪が乱れる。 「そういうのいいから! もうあなたの助けになんてなれないんだから!」 「いいよ。君はもう十分僕に尽くしてくれたから」 「何それ、もう用無しってこと?」 エバにはめんどくさいことを言っている自覚があった。自分でネルに尽くす道を選んできたのに今更。 だが、ネルはそこで嫌な顔もしなかった。 「違うよ。君がもう嫌だってなら僕から無理強いすることはないってことだよ」 ネルはそう言ってエバを抱きしめ続けた。その寂しい背中に青白い頬を寄せて。 「Salut.今日は先に来てたのね」 サマンサがいつものように噴水の前に行くと、ネルがうつむき加減で座っていた。 「やあ」 元々病的な美しさを持つ彼だが、今日はましてやつれているように見える。 「……どうしたの? なんか元気ない」 「喧嘩しちゃってさ」 「…………そういえば昨晩隣の部屋から女の人の怒鳴り声が聞こえてたよ。内容はわからなかったけどさ。あの人あなたのお母さん?」 「……うん」 ネルの返事に少し違和感を覚えたが、気にするほどでもないと流した。 「……喧嘩したの?」 「……まあね」 「そっか」 サマンサは深く追求しないことにした。自分も根掘り葉掘り訊問されるのは好きじゃないから。だが、励ましてあげたくはなった。しかし、サマンサは今まで他者に対してシャッターを降ろしてきたゆえ、励ましたり慰めたりするのは下手くそだ。 「まあ、喧嘩するほど仲がいいって言うし、大丈夫よ」 「え?」 ネルが顔をしかめる。 「あ、ごめん。日本人はよく言うのよ。『喧嘩するほど仲がいい』って」 「…………日本人って楽観的なんだね」 含みがあるような言い方をされ、サマンサは肩をすくめた。やはりまずい励まし方だったか。ここは自分の考えていることを素直に言ったほうがいいのか。 「……私、母さんと仲良くなくて喧嘩すらしないからさ。私が一方的に色々言われてばかり」 「…………」 「最近は彼氏にばっかり構ってて、私の話聞いてくれないのよね。あなたのお母さんは恋人とかいるの?」 ネルは黙って聞いているだけだったが、サマンサには十分だった。変に慰められたりなんてしたくない。 「いないみたい。……僕はむしろ母さんに恋人作って欲しいかな。それで幸せになれるなら」 ネルは遠い目をしながら言った。こんな顔をする一〇代がいるのだろうかとサマンサは思った。 「……私も母さんが幸せそうならいいんだけど、そうでもなさそうだから……。…………ねえ、恋愛したことある?」 「…………さあね」 この歳で「恋愛したことあるか」なんでいきなり言われてもそんなものだろうか。 「してみたいって思う?」 「思わないな」 「なぜ?」 「僕は普通の男じゃないから」 (病気ってそんなに深刻なの?) 「……じゃあ、あなたにぴったりな人が現れて、あなたのためになんでもすると言ったら?」 そう言うと、ネルは複雑そうな顔をした。またあの、酷く老成した表情。 「……同情する」 同じ年頃の人間が発するとは思えない言葉。ネルの言葉の意味は、サマンサにはよく理解できなかった。 「昨日の事件やばいね。しかも今回は二日続けてじゃん」 「また何者かに首筋を噛まれたかなんかで血を流して死んでたって。しかも首の骨を折られてたって言うんでしょ?」 「今度はM大学の学生なんだって。若いやつ狙いがちなのも気味悪いわ」 「よくやるよねー。最近外出制限出てるから鬱憤溜まってやってるのかな? クレイジーね」 サマンサが朝登校すると、昨晩起こった殺人事件のことでもちきりだった。学校のすぐ近くだったからだ。 どうも今回はサマンサが通う高校の近くの大学の女子学生が被害者らしい。前の二件と同様、凶器も見つからない上に、全く犯人像が掴めず、警察の捜査は難航しているとのことだ。 「毎回毎回ナイフで切り裂かれたとかじゃなくて、噛まれたような跡だったんでしょ? 人間じゃなくて野犬とかじゃないの?」 「それだったら全身ズタボロにやれてるはずでしょ? 首以外は綺麗なままだったんだって。今回は目撃者もいるらしいんだけど、『なにをしてるんだ!』って懐中電灯を向けようとしたら、消えるように逃げていったんだって。人間の動きとは思えなかったって」 「……まさかとは思うけど、ヴァンパイアとかだったりしないかな」 「バカ言わないでよ。そんなんいるわけないって」 「……そうだよね」 皆ロッカーの前で、スマホにかじりつき、ネットのニュースを漁りながら口々に噂しあっている。 学校の女王様的存在のマディソンもこの事件には関心を示しているようだった。 「ヴァンパイアだったら、もっと美人を狙うでしょ。ヴァンパイアは若い美女しかターゲットにしないんだから。こーーんなブサイクたち狙うヴァンパイアがいるもんですかって感じ!」 マディソンはネットに公開してある被害者たちの写真をスマホの画面に表示させ、皆の前に突き出して言った。彼女はとにかく自分の美しい容姿を鼻にかけていて、見た目が地味だったり冴えない者に厳しい。 今のマディソンの言葉で笑ったのはクロエだけで、セシルやその他は苦笑いしていた。いつもはマディソンが「滑る」ことなどないのだが、さすがに死者を冒涜するような言葉に、引いたのだろう。だが、マディソンは「滑っている」ことに気づいてないようだった。彼女はフンと鼻を鳴らすと、スマホをデニムスカートのポケットの中にしまった。そして周囲の空気を無視してご自慢のプラチナブロンドの髪を梳かし始めた。ロッカーの扉の裏に備え付けた丸い鏡に向かって。この学校は教育水準の高い家庭の者が集まるので、人種差別などはあまりない。しかし、どうやら別の問題があるらしい。 そんなクラスメイトたちをよそに、サマンサは一限目の教室へ向かおうとする。 そこにアニがやってきた。 「おはよう。サミー」 「おはよう。アニ」 「ひっどい事件だよね。サミーはわりと一人で帰ったり、一人で家にいること多いみたいだから不安じゃない? 心配だったら、私が泊まりに行くからね!」 アニが勇気づけるようにそう言う。 しかし、サマンサは彼女の親切に少し違和感というものを感じていた。確かにアニは普段から除け者の自分にも優しくしてくれているし、少なくとも他の同級生よりは信頼もしている。しかし、家に泊まるほどの仲良しではない。 「ありがとう。でも大丈夫」 そこに鏡を見ながらリップを塗っているマディソンが口を挟む。 「そうねぇ、例の犯人、ブス専みたいだから気をつけた方がいいんじゃなーい?」 マディソンが嫌味ったらしくそう言うとクロエとセシルがサマンサを見ながらクスクス笑う。だが、サマンサはこの程度の意地悪など慣れっこだった。 「マディソンの言うことなんて気にしないでサミー」 アニはクラスメイトの中でそう目立つ方ではなく、見た目も小柄で細く、色合いも地味だ。サマンサがマディソン率いるイケてる女子集団に悪口を言われても、こうして「気にしないで」とフォローしてくれる。なぜ、こんな自分に優しくしてくれるのだろうとサマンサは疑問に思うこともあった。だが、疑り深い性格のサマンサもいちいち他人を疑ってばかりいるのも疲れるのだ。だから「アニは良く言えば優しい、悪く言えばおせっかいな性格なのだ」と受け止めていた。 「大丈夫、私も気にしてないから」 「……ごめん。でもそんな関係じゃないんだよ、彼女とは」 ネルはエバの前で申し訳なさそうにうなだれていた。一緒に暮らしている恋人のエバにまたサマンサと仲良くしているところを見られたのだ。一方、エバは赤くなったり青くなったりしながら、わめいていた。 「なんで!? なんでなの!? 最近のあなたは一体何なの!? 何のために私があなたを匿ってると思ってるの!? 私がもうパートナーとして無能だって言いたいの? ……それとも何? やっぱり私がもう若くないから当てつけてるの!?」 エバが少し声を低くすると、ネルはうつむいた。 「……当てつけなんて、そんなわけないじゃないか」 言葉を詰まらせるエバ。自身の長い髪に触れ、苦い顔で白髪が混じった毛先を見つめる。そしてやや恨めしげにネルに視線を戻した。 「いいわよね、あなたは。『こう』はならないから」 ネルがゆっくりと顔をあげる。あどけなさが残る顔立ちと不釣り合いなその眼差し。 「……いいことばかりじゃない」 そのときサマンサは壁に耳を当てて、二人の会話を聞こうとしていた。だが、壁が厚いゆえに「何か怒鳴っている」程度しかわからない。 ただ、「あんたみたいなモンスター、なんで好きになっちゃったのかしら」という言葉だけは聞き取れた。…………親子喧嘩にしては異様すぎる言葉だった。ネル以外の人間が来ているのだろうかとサマンサは思った。それにしたって他人に向かって「モンスター」とは、すごいことを言うものだ。 「ねえ、昨日また声聞こえてた?」 翌日、ネルにそう尋ねられたサマンサ。 Ouiと言ったらネルが可哀想な気がした。仮に母親が家に男でも連れ込んでいて、ネルの前で喧嘩なんてしていたとしたら……。そんなの、第三者に知られたくなんかないだろうから。 「Non, 全然」 サマンサがそう言うとネルはまた複雑そうな顔をした。サマンサが気をつかってそう言っていることに気づいているのだろう。 「……そう、ならいいけど」 ネルが伏し目がちになる。美しい彼がそんな顔をするとすごく絵になる。 「ところでだけど、連絡先を交換できない?」 「? 文通でもしたいってこと? 隣に住んでいるのに?」 あまりにもすっとんだ答えにサマンサは唖然としてしまった。 「……え? 何言ってるの。Whatsappとか持ってないわけ?」 するとネルは怪訝そうな顔になった。 「なにそれ」 サマンサは信じられなかった。今どきWhatsappを知らない人がいるなんて。しかもティーンエイジャーが。 「え? まじで? 知らないの? えーーっと、スマホはあるよね?」 「スマホ?」 今度は困惑した顔になるネル。 サマンサは信じられない通り越して、この人大丈夫かと心配になった。現代社会は子供でもスマホがないと生活できない。シリアの難民ですらスマホの情報を頼りに生きているのだ。それなのに存在すら知らない人がいるなんて。一体この人はどうやって生きているのだろう、と。 「え? え? え? まじ?」 動揺で上手くしゃべれないサマンサ。すると、ネルは困ったように微笑んだ。 「ごめん、僕世の中のことよくわからないんだ」 サマンサは今しがたネルを宇宙人か何かのように扱ってしまったことを反省した。もしかしたらまともに流行に触れ、遊ぶこともできないほど病気が深刻なのかもしれない。自分の常識が万人に通用すると思ってはいけない。ここは移民の国だ。母国で差別や迫害を受けてきた人や、貧困に苦しんでいる人が救いを求めてここへやって来る。自分の先祖もそうだった。この国で生きていくなら、あらゆる価値観に理解を示すことが必要なのだ。自分は誇り高き日系人であり、ケベック人だ。 「ううん、大丈夫。何かあったらポストに手紙でも入れておくわね」 夜、サマンサはどうしたらネルともっと仲良くなれるかを考えていた。今までシャッターを固く閉めたまま「絶対誰も中に入れるか」と意固地になってきたサマンサが。ネルは強固なサマンサの心のシャッターをいとも簡単に開いたのだ。 (病気なんじゃ、長い間外でブラブラしてるのも良くないよね。こんなに寒いのに。でも今どきスマホも持ってないんじゃなあ…………そうだ!) サマンサは以前文房具屋で買った可愛いデザインの日記帳を机の引き出しから取り出した。そして最初のページに 『今日から交換日記をしない? その日一日の印象に残った出来事を報告しあうの。それでもっとお互いのことを知っていきたいんだけど、どう思う?』と記し、隣の部屋のポストに投函した。 すると朝にはその日記帳がポストに返されていた。 少し不安になる。 (どうしよう。『僕と君はそこまで親しかったかな?』なんて書いてあったら……) 過去が過去なので、やはり拒否されるのは怖い。 だが、そのリスクを犯してまでネルとは仲良くなりたいと思ったのだ。思い切ってページをめくる。 『ありがとう、僕と仲良くなりたいと思ってくれるのは嬉しいよ、サミー。でも僕は病気であまり外に出れないから、大して面白いことは書けないよ。それでもいいなら、喜んで書くよ』 受け入れられた。サマンサはそう思った。 (どうしよう、嬉しい、嬉しい……!!) 天にも昇る気持ちだった。好きな相手に受け入れられることがこんなに嬉しいとは。 『〇月〇日 ネルへ 今日学校にスカート履いていったら、イケてる女子たちに「あんたは足が短くて太いからスカート似合わない、履くな、スカートが気の毒」って言われたの。やっぱりそうなのかな? もうスカートなんか履きたくない』 『〇月〇日 サミーへ 僕は似合ってると思うよ。君がもう履きたくないならいいけど。母さんも君は魅力的だって言ってた』 『〇月〇日 ネルへ 本当? もうスカートはあなたの前だけにしようかな。 今日、ちょっとテストでいい点数採れたんだけど、母さんは毎回それくらいの点数採って当然だ、それくらいのことでいい気になるなんて低次元すぎる、あんた本当に父さんの子だねって言うの。母さんは子供のときからすごい努力家で勉強でもスポーツでも一番だったの。なんで私は肝心なところが母さんに似てないのかなあ』 『〇月〇日 サミーへ 君は父さんと母さんの子だろうけど、だからって同じ価値観を持って同じ生き方をしなくちゃいけないわけではないでしょう。過去の母さんと今の君を比べるのではなくて今日の君が昨日の君より成長できてればそれでいいじゃないのか』 ネルは会えないときも交換日記でこんな風にサマンサを励ましてくれた。初めて自分を肯定してくれる友人ができて、卑屈だったサマンサも少しずつ前向きになった。凍りついていた心に血が通っていくようだった。やっと自分も普通の高校生のような幸せが掴める気がした。 「何故必要もないのにこんなもの付けなくてはならないのかな」 家に帰ってきたネルはそう言いながらマスクを外した。 「しょうがないでしょ。パンデミックももうすぐ治まるから我慢しなさいよ。それより、お客から腕時計をもらったんだけど、取扱説明書が英語だけなのよ。訳してくれる?」 エバはそう言って高価そうな箱をネルに差し出した。 「…いいよ」 「ありがとう」 エバは礼を言うと数回咳をした。暖房の効いた家の中にいるというのに彼女はショールにくるまって震えていた。 「風邪?」 「わからないわ。多分大丈夫よ」 そういうエバをネルは後ろから抱きしめた。エバの栗色の長い髪はいつも香水のいい香りがする。ネルは昔から彼女の美しい髪を梳かしてあげるのが好きだった。だが、最近は大分白髪が増えたようだ。 「病院行った方がいいんじゃないの」 「……もし流行り風邪だったら、保健所がここを検査に来るわ」 「大丈夫。流行り風邪の検査くらいやり過ごせるよ」 ネルはエバを強く抱きしめた。彼女の背中が日に日に小さく頼りなく寂しく感じる。 「昨日はごめんなさい。あなたをモンスターなんて言えるほど私は美しく生きてないわ」 エバは俯いたまま、ボソボソとそう言った。 ネルはそんなエバを黙って抱えあげるとベッドまで運んでいった。 ベッド横のテーブルでネルは交換日記に何かを書き記していた。時々ペンを止めて考え込みつつ。 そんな彼をエバはベッドから顔を覗かせながらじっくりと観察していた。交換日記の相手はサマンサであることは知っていた。サマンサにはエバがもうはるか昔に失ってしまった初々しさや思春期特有の危うさがある。 エバは最近のネルに対して不安を感じていた。ネルと自分はずっと同じ温度差でいると思っていたのだ。ネルは感情の起伏があまりなく、いつも凪のようだった。ビョルン・アンドレセンの顔にジェレミー・アイアンズの眼差し。長く生きてきたからこその包容力でいつも自分を受け止めてくれていた。 ところが、そんなネルがこの頃見た目のままのティーンエージャーのように振る舞い始めた。話しかけても返事をしないほど物思いに耽っていたり、サマンサとの交換日記を読んで声をあげて笑ったり。今まで苦笑や微笑はしても、大笑いや馬鹿笑いなど絶対しなかったネルが。 ついこないだも、サマンサから貰ったという「銀河鉄道の夜」を熱心に読んで、最後には泣きそうな顔をしていた。最も彼は涙を流すことはできないのだが。「ネルの心をそこまで動かすなんて一体どんな内容なんだ」とエバも読もうと本を広げてみた。 しかし、それは英訳された「銀河鉄道の夜」だった。ケベック人は英語とフランス語、両方できるバイリンガルが多い。 エバはいわゆる境界知能だった。普通に会話する分にはそこまで知能が低いようには見えないのだが、買い物などの簡単な計算、取り扱い説明書の理解などで躓いてしまう。だから第二言語の習得などできず、フランス語しか話せない。もちろん小説など複雑な文章は読めない。だが、どうしてもネルが何に感動したのか知りたかったエバはインターネットで「銀河鉄道の夜」のフランス語版動画を探した。そしてようやくネルがどこにグッと来たのかわかった。エバはネルがどんな想いで生きてきたのか知っているから。 エバは今のネルが嫌なわけではなかった。むしろ愛おしく感じた。だが、ネルを変えたのは自分ではないと思うと怖かったのだ。自分の恋人が自分でない者によって変えられていくなんて。 「ちょっと、あんた。最近隣の家の息子と仲良くしてるらしいじゃないの」 夜遅くに帰ってきた母はサマンサの寝室のドアを勝手に開けるやいなや、責め立てるような口調でこう言った。 「……そうだけど、それがどうかした?」 「お願いだから、あんなのと仲良くするのはやめて。母親はとにかく無愛想で感じ悪いし。あの息子も絶対ろくなやつじゃないわ。朝家から出てきたところを見たことないし、学校にも行ってないのよ」 「……」 そういえば、ネルに会うのはいつも夕方以降だ。冬のモントリオールの夜は早い。今の時期は学校の授業が終わる頃にはもう日が沈みかけている。もしかしたら彼の言う病気というのは、太陽に当たれない病気なのか? 「いつも顔色悪いし、何か変な病気でも持ってるかもしれないわよ。最近は窓にダンボールなんか貼ってるってオーナーから聞いたわ。気味悪いったらありゃしない。最近の殺人事件の犯人、あいつらじゃないかしら」 「そんなっ!! そんな風に言わなくても!!」 酷い言い様に思わず抗議しようとすると、母は「私に逆らうことは許さない」と言わんばかりに言葉を遮った。 「とにかく! アレと仲良くするのはやめて!! あいつをここに呼ぶなんてことしてごらん? 私はあいつをナイフで刺殺してやるから!」 母はそう言うとドアをバシンとしめて、自分の部屋へ戻っていった。 (なんなの、こういうときばっかりでしゃばってくる上に言っていいことと悪いことの区別もつかないなんて……) 自分の娘がいじめにあっていたことに、母は全く気づいていなかった。なのに、「男の子と仲良くしている」とか「少し色気づいた」とかそういったつまらないことにはすぐ気がつく。おまけに娘の友人を人殺し呼ばわり。確かにネルは変なやつだ。しかし、そこまで言う必要があるのだろうか。多分「私は親だから何言ってもいい」と思っているに違いない。自分だってろくでなし男と付き合っているくせに。きっと母は自分のことなど愛していない、優先順位もケヴィンの遥か下だとサマンサは思った。 第二章 「中に入れて」 「今日もサマンサの奴、まじきもかったよねー。目付き悪いし、アイツと目が合うと本当に一日中憂鬱!」 「ほんとほんと、それにいっつもダサい服きてスッピンでいるのが信じられない。ブスならせめて自分を磨く努力くらいしたらいいのに!」 「ブスで陰気ときたら、いいところ何もなし! ああうざい!」 休日遊び歩いた帰り、マディソンとクロエ、セシルはサマンサの悪口を並べ立てながらすっかり日が沈んだ帰り道を進んでいた。 今日は雲が少ない。ゆえに放射冷却の影響で気温が低く最悪の寒さだった。凍った雪で歩きにくい道もこの街で生まれ育った者には慣れたものだ。 「じゃあまた明日ねー」 三人が各々手を振り、それぞれ違う道に分かれていった。 (やだなー、もうすっかり人がいないじゃん。まあ、外出制限出てるしなあ。あー寒い) クロエはそんなことを思いながら、人気のない暗い道を進む。街灯こそあるものの、人がいないとより暗く、寂しく感じる。毛糸の手袋をつけた手をダウンジャケットのポケットに入れる。そしてスマホを取り出してWhatsappを開いた。 ――マディソンから何か来ていたらすぐ返信しなくては。 先程分かれたばかりにも拘らず、そんなことを考えていた。今のところ、誰からも新着メッセージは来てなかった。ほっとしたような寂しいような。複雑な気分でスマホをポケットに戻し、視線を前に向けた。 (えっ!?) ――スマホばかり見ていて気がつかなかった。 二〇メートルほど前方に、街灯に寄りかかっている人影が見えた。同じ年頃の少年だった。 (何あの子、すごい薄着じゃん。今多分氷点下だよ? なのに春みたいな格好してる!) 段々彼に近づいていくと、髪の色がアッシュブロンドであることに気がついた。寒さに震える様子もなく、春の夕方のように佇んでいる。 (うわ! 不気味! 絶対危ないヤツじゃん! ヤク中かも! 早歩きしてさっさと通り過ぎよう!) クロエがそう判断したとき、少年が顔をあげた。 「……!」 その顔が天使と見まごうほど美しかったので、クロエはつい脚を止めてしまった。 その少年がこちらを向く。角度によって紅くも藍色にも見える瞳はまるで猫のように大きかった。吸い込まれそうなほど。彼はクロエに微笑みかけると、こう言った。 「bonsoir.ブルネットの美しいお嬢さん」 歳の割に随分ゆったりとした口調だった。まるで落ちぶれた貴族のような気品がある。 クロエはマディソンの取り巻きだけあって、美しい者には弱かった。正直なところ、クロエもマディソンのことは好きではない。彼女の隣にいると箔が付くし、周りから一目置かれるし、ハイスペックな男を紹介してもらえるから一緒にいるだけなのだ。そのために彼女の自慢話に付き合うのはうんざりすることも多々ある。 「……寒くないわけ?」 クロエがそう尋ねると少年はふふっと笑った。 「……寒いよ。温めてくれる?」 少年がクロエに向かってにじり寄ってくる。雪を踏みつけるその足音は少し違和感があった。――とうとう息がかかりそうなほど近くにきた。だが、彼の吐く息は白くない。……否。息自体してないのである。 「……え?」 クロエが戸惑っていると、彼が肩に手を置いてきた。そしてクロエの体をぐっと引き寄せてくる。 (こいつ、何を突然……) そう思いつつも、こんな絶世の美少年に抱きつかれるのは悪い気はしなかった。……だが、彼が至近距離に来たことであることに気がついた。その事実はこのモントリオールの刺さるように冷たい空気以上にクロエの背筋を凍らせた。 この少年は足に何も履いてなかったのだ。ネットの天気予報によると、今の時刻の気温は恐らく氷点下一〇度を下回っている。肌に剣山を押し当てられているかのような寒さだ。この寒空の下で裸足だったのだ。だから先程足音が変だったのだ。 ――ありえない、ありえない。こいつは一体何者なんだ。 (え? 何?) 首筋に何か生暖かいものが触れたと思ったら、何かが刺さるような感触がした。だが、ものすごく痛いというわけではない。ものすごく痛いというわけではないのだが…………。体が動かないのは寒さのせいではない。危険を察知しているのに、恐ろしさのあまり筋肉が硬直してしまっているのだ。 ――殺される。 本能でそう気づいたクロエはやっと叫ぶことができた。 「何するの! 放して!!」 少年の肩を押して突き飛ばそうとするが、彼はびくともしなかった。 ――物凄い力だ。こんな枝のような体のどこにそんな力があるのか。 「やめて ……!! やめて!!」 氷と雪に閉ざされた街にクロエの絹をさくような悲鳴が響き渡る。 やがて虚しくもがいていたクロエの意識が途絶えた。少年はガクンと力が抜けたクロエの体を支え、雪の上に寝かせた。そして彼女の頭を両手で抑え、 そのまま一八〇度頸を回転させた。バキッと頸の骨が折れる音が鳴った。 「おい!! 何をやってるんだ!!」 クロエの悲鳴を聞きつけてか、警察と思わしき集団がこちらにやってくる。少年はすっかり抜け殻になったクロエを放すと、消えるようにどこかへ逃げた。 「嘘でしょ……クロエが……」 翌朝。当たり前だがクロエが殺された事実に皆怯えた様子で口々に噂しあっていた。 予想はしていた。 除け者のサマンサはクラスのグループチャットには入れてもらってはいない。だが、何があったかはわかっている。ネットのニュースなら確認済だから。 「こないだ近くの大学の学生が被害にあったから、次はうちかなって思ってたら……」 「あんまりだわ、こんな死に方」 マディソンやセシルを始めとするイケてる女子軍団は衝撃的なニュースにわんわん泣いていた。彼女たちはいつもこうなのだ。スポーツフィスティバルやら映画の鑑賞教室でもやたら大袈裟に泣きまくる。 サマンサのようなつまはじき者から見たら滑稽に見えるほど。きっと対象に対しての感情どうこうよりも、「こんなことで泣いてしまう感受性豊かな私素敵でしょ」「こんなに友達のこと思っている私優しいでしょ」という周りへのアピールが目的なのだろう。だが、今のサマンサにはそんな彼女たちのショーを見てうんざりするほどの余裕はなかった。 ――まさかこんな身近な人間が。 確かにこの街で連続殺人事件は起こっていた。だが人は身近で犠牲者が出ない限り、あくまで対岸の火事としか思えないのだ。今世界を騒がさせている流行り風邪と一緒だ。 サマンサはクロエに好意的な感情は抱いていない。だから悲しいわけではない。が、しかし。 ――次は自分かもしれない。 毎日顔を合わせている者が被害に遭って始めてそう感じた。だが、こんなときに傍にいて安心させてくれる身内や友人はサマンサにはいなかった。唯一の心の支えと言えば……。 (ネル…………!) 「サマンサ、すぐ保健所に行くわよ」 車の運転席の窓から顔を出しながらそう言う母。 その日の放課後、珍しく母は学校まで車で迎えに来てくれた。クラスメイトが殺されたから心配してきてくれたのかと思っていたが、そういうわけではないようだった。 「えっ」 思わず間抜けな声を出してしまうサマンサ。 「流行り風邪にかかったんだって。隣の母親! だからこのフロアの住人は全員検査だって! 本当に気味が悪いだけじゃなくて迷惑までかけるのね! あの人たちは!! あーもうあれやこれやで全くやんなっちゃう! 死ねばいいのに!!」 母はハンドルに拳を叩きつけながら、うなるようにそう言った。 いちいちその程度のことで暴言を吐く母に思うところはあるが、彼女がイライラしているのはいつものことなので、サマンサは黙っていた。 (……そんな、ネルは大丈夫かな。あんなに病弱そうなのに……) 不安な気持ちでいっぱいだったから彼にそばにいて欲しかった。が、今はきっと彼もそれどころではないのだろうなとサマンサは思った。 ネルは流行病の患者を収容している病院を訪れていた。ウィンと無機質な音と共に自動ドアが開き、中に足を踏み入れる。誰の許可もなく中に入ることができたのは、ここには一度来たことがあるからだ。 七〇年以上前の大昔に。当時の親友の母親がここに入院していたから。 ――いや、親友以上の関係だった。彼女は恋をするには幼かったから恋人にはならなかっただけで。 彼女もサマンサと同じ日系人だった。あの日も今日と同じく、雪がしんしんと降る夜だった。モントリオールは古い歴史を持つ都市だ。築一〇〇年、二〇〇年の建物が軒を連ねている。七〇年程度ではそこまで街並みも変わらない。最もその頃は今住んでいるような高層マンションはなかったが。獲物を探して街を漂っていると、突然彼女に呼ばれているような気がして吸い寄せられるようにここに来ていた。 玄関前でうずくまっていた彼女をまず抱きしめた。先に中へ入ってもらい、「入ってもいいよ」と言わせた。その頃はまだ自動ドアではなく、大きな手動の扉だった。何があったのかと尋ねると、彼女の母親の両親ときょうだいが長崎の原爆で亡くなったとの報せが入り、ショックで母が倒れたという。彼女はネルにしがみつきながら、自分の祖父母と親類が言葉にできないほど悲惨な死に方をしたこと、自分の母の故郷が地獄絵図そのものになってしまったことを語った。そして「あんなもの使うなんて、人間は悪魔なの? どこまで邪悪になれるの?」と震えた声で言った。 ネルはずっと自分は地獄に堕ちるのだろうな、と思っていた。沢山の人間を食い殺してきたから。そして地獄に行くのが怖かった。地獄より恐ろしい場所はないと思っていた。だが、長い時間を生きていくうちに悟った。この世こそ地獄だと。 彼女はネルが来たことで少し落ち着いた。そして、日本の方角に向かって雪の上に膝をつき小さな手を合わせて祈りを捧げていた。その当時はこの期に及んでよく神など信じられるものだと思った。しかし、あの彼女の祈りは人類の罪深さに対する贖罪の祈りだったのだと今では分かる。 「あの、エバ・ルグランの病室は何号室ですか?」 ネルがそう尋ねると、受付のクラークは異様なものを見るような目でネルを見た。そりゃあ、外は凍え死ぬほどの寒さなのに春のような装いの奴が現れたら変に思うだろう。しかしそれでなくても、長いこと生きているとこういう目で見られることが度々ある。勘のいい人間は一定数いるから。特に人でありながら魔物のような心根を持つ者とは波動が合うのか、すぐ正体を見破られる。 「……面会はできませんよ。一般の方は病棟への立ち入りをお断りさせていただいてます」 ネルは「だろうな」と思った。最初からダメ元だったのだ。 「……わかりました」 ネルはそう言うと回れ右をして去っていった。 クラークはそんな彼の後ろ姿を見てギョッとしたのか、思わず心の声を漏らしてしまう。 「やだ、裸足じゃない! あの子!」 クラークが患者用のサンダルをもって、ネルを追いかけ病院の外へ出た。しかし、そこには一面の銀世界が広がっているだけで、もう彼の姿はなかった。 エバは病棟の一〇階にいた。 症状はますます酷くなり、高熱と強烈な喉の痛みと呼吸困難に耐えていた。暑いのか寒いのかわからない感覚が全身を襲う。病室にはただ、彼女に酸素を提供し続ける機械の音だけが響いていた。 「…………ネル……」 唯一の生きる意味だった者の名前を息だけで呼ぶ。 エバがネルと出会ったのは一六歳の時だった。エバは施設育ちで軽度の知的障害の他に発達障害があった。そのせいでまともに働くことができず、施設を出た一五のときから売春で生計を立てていた。不幸中の幸いか、容姿にはそこそこ恵まれていたのでそれなりの金を稼ぐことができた。しかし、所詮は売春婦。社会から認めてもらえず、誰も本気で愛してはくれなかった。友人もできなかった。自暴自棄になり、酒やドラッグに逃げる日々を送っていた。そんなときネルに出会ったのだ。公園のベンチでドラッグをやっていると、いつの間にネルが隣に座っていた。 エバが「こんな美しい人見たことない」とネルに釘付けになっていると、彼はエバの手からドラッグを取り上げた。そして「これからお互い助け合って生きていこう」と微笑みかけてきたのだ。ネルはそれまでエバが渇望してやまなかったものを全て与えてくれた。愛、優しさ、安心感、温もり。エバもネルのためなら何でもできた。人殺しさえも。 だが、エバはもう終わりを感じていた。自分はもう歳だ。売春以外で生計を立てられない自分はこれ以上ネルを守れない。それ以前にもうここで死ぬかもしれない。流行病で死んだ者は葬式をすることも許されず、黒いビニール袋に入れられて火葬にされる。 ――このままネルに会うこともなく、その他大勢の一体としてゴミのように埋葬されるのか? ――いやだ。自分の人生はネルと共にあった。誰にも望まれることのなかった命をネルのために使ってきた。自分はずっとネルといる。 そのとき、窓をノックする音が聞こえた。 エバは高熱で意識が朦朧している中、目を開けた。 ここは一〇階だ。窓をノックする者なんて一人しかいないだろう。 最後の力を振り絞って起き上がり、窓の方を見ると恋人が窓の縁に腰掛けていた。毎日見てはいるが、やはり美しい。自分は老化を気にしなければならない歳になったが、彼はいつまでも出会った頃の美しい姿のままだ。憂いを携えたその瞳だけが生きた年月を物語る。 ――愛しい人よ。入っておいで。 喉が潰れていて声が出せない。しかし、言葉によってしか彼を部屋の中に招き入れることはできない。 ――仕草で代用できるか? 彼を受け入れるための動作を――高熱で頭が回らない。 「入ってもいい?」 ジェスチャーで声を出せないことを伝えると、彼は何とも切ない表情を浮かべた。もう自分が彼の元へ行くしかない。エバは自分で人工呼吸器を外すとやっとの思いでベッドを降り、窓を開けた。 「……ネル」 また息だけで名前を呼ぶ。 ネルはエバを抱きしめると両頬に触れるか触れないかのキスをした。 「……大丈夫? どうして欲しいの?」 ネルが恋人の両頬を手で包みながら言う。 エバはネルに首を差し出し、「噛んで」とジェスチャーをする。 「……本当にいいの? その後君を殺さなくちゃいけないんだよ?」 エバはこくりとうなづいた。 ネルはそんな彼女の首筋に顔を埋めた。 「ルグランさん、お加減いかがで…………」 そのとき女性看護師がラウンドでやって来た。言葉を切ってしまったのは、真っ暗な病室の窓際でエバに重なる影を見てしまったからだ。 真っ暗でよく見えなかったが、月明かりでアッシュブロンドの髪が光って見えたのはわかった。 その影がエバを放すと、エバは窓から外に落ちていった。多分その影が突き落としたわけでなく、エバが自分で落ちたのだろう。エバが下へ落ちたのを見届けるやいなや、その影は消えるようなスピードでどこかへ飛んでいった。 「ひぃっ……!! ルグランさん!!」 病棟内に看護師の悲鳴が響き渡った。 次の日、エバが病棟内で変死したことはトップニュースになった。つい一昨日、クロエが殺されたばかりなのだ。サマンサはテレビでニュースを見て両手で頭を抱えた。 (…………母さんが「死ねばいいのに」なんて言うからじゃん……ネル、本当に大丈夫かな。母子家庭みたいだし、面倒見てくれる人いるのかな) 「ネル……会いたいな」 唯一の連絡手段の交換日記はまだ彼のところで止まっていた。 母を失って、彼はどうするのだろう。どこか親戚に身を寄せるのだろうか。と、なるともう彼に会えなくなるのだろうか。サマンサはそんなことを考えていた。 夜更け、サマンサはノックの音で目が覚めた。ノックされているのはドアではなく窓らしい。えっと思いつつ、サマンサは顔を上げた。 「やあ」 窓の外のバルコニーにネルが立っていた。アッシュブロンドの髪が月明かりで輝いている。 「どうやって来たの!? ここ一六階よ!?」 サマンサは吃驚して叫んだ。一瞬母が起きてしまうことを考えて、「しまった」と思ったが、母はいないようだった。どうせまたケヴィンのところだろう。 「飛んできた」 「はあ?」 「君が呼んでるような気がしたから」 「…………」 なんて勘のいいやつなのだろうか。 「『入っていい』って言って」 「? 入っていいよ」 ネルはガラス戸を開けて、サマンサの部屋へ足を踏み入れた。 そしてネルはなぜか服を脱ぎだした。男性の体など見たことがないサマンサは思わず背中を向けてしまった。 (本当にこの人は何やってんの……!?) そんなサマンサの反応を予想していたようだった。彼はサマンサの隣に入るとその背中を抱いた。 サマンサにはネルの行動の意味がわからなかった。 スマホを知らなかったり、夕方以降しか外出しなかったり、一六階目のバルコニーに突然現れたと思ったらこんなことを始めたり、もう変人を通り越しているのではないか? これも病気の症状か何かか? だが、サマンサはそんなネルを忌み嫌う気にはなれなかった。むしろそんな彼を自分が守ってやりたかった。彼を守ることで自分の存在価値を確かめられるような気がした。 「お母さんのことは大丈夫なの? あなたの面倒を見てくれる人はいるの?」 「……大丈夫だよ、僕のことは」 随分間が長い。触れられたくないのか? 「ねえ」 サマンサは背中にネルの体温を感じながら言った。 「ん?」 「付き合ってくれる?」 サマンサは既にネルを異性として見ていたのだ。生まれて初めての告白だった。 「付き合うって?」 「私のボーイフレンドになって欲しいの。お母さんの代わりにはなれないけど、あなたを支えたい。あなたが好きなの」 ネルが大きく息を吸って吐く。暗くて表情はわからないが、少し困惑しているのが伝わってきた。 「男じゃないから無理だよ」 サマンサはネルの言っている意味がわからない。 こないだは「普通の男じゃない」と言っていた。 今度は「男じゃない」? 「付き合いたくないってこと?」 変なことを言ってかわそうとしているのかもしれないとサマンサは思ってこう問いかけてみた。 「付き合ったらなにか変わる?」 「変わらないよ、今まで通り」 「じゃあ付き合う」 サマンサが朝目を覚ますと、もうネルの姿はなかった。カーテンを開け、眩しい朝日に目を細めながら昨日のことは夢だったのかと思った。顔を洗おうと体を起こし、ベッドから降りると机の上に共有の交換日記が広げられていた。そういえば寝る前に彼の部屋に投函したんだった。広げたページにはこう書いてあった。 「去って生きるか、留まって死ぬか 君のネル」 サマンサの机の上には数日前に叔母から貰ったクリスマスローズが飾ってあったが、なぜか萎れて黒ずんでいた。 クロエが亡くなって半月経つか経たないかだったが、日常が戻りつつあった。 マディソンとセシルときたら、仲良しのクロエが死んだという報告を聞いた時はわんわん泣きじゃくったというのに、次の日にはケロリとしていた。今もメイクやネイル、服、男の話とサマンサの悪口で盛り上がっていた。きっと最初から仮面友情だったのだろう。ひたすらマディソンの言いなりになって分け前を貰おうとしていたクロエ。彼女のことは全く好きではなかったサマンサだが、さすがに気の毒になった。自分は仲良しが死にでもしたら年単位で落ち込むだろう。例えばネルが死んだら…… 「サミー、なんかあったの? 最近ボーッと何か考えてるけど」 もの思いに耽っていると、アニにそう尋ねられた。 サマンサは少し照れながら答えた。アニにはこれくらい話してもいいと思えたから。 「ボーイフレンドができたから」 そう言った瞬間、アニの表情が一瞬強ばった。 「え! そうなの! サミー、男の子に興味無さそうだったのに」 しかしすぐ嬉しそうな、無邪気な笑顔へ変わった。サマンサは少し「あれっ」と思ったが本当に一瞬のことだったので流すことにした。 「彼は特別だよ」 「へーーー、会ってみたい! その人に」 アニは積極的にサマンサのプライベートゾーンに入ろうとする。大抵の人は嫌がるギリギリだが、受け身の人間関係しか築けなかったサマンサにはこれくらいが丁度よかった。 「んーー、会ってくれるかなあ」 サマンサは少し考え込む。 「えっ。会えない事情あるの?」 「彼ね、なんか深刻な病気みたいなのよ。別に寝たきりとかそういうのではないんだけど」 「深刻な病気?」 アニはキョトンとする。 「どういう病気か具体的な病名とかは聞いたことないんだけど。なんかね、いつも顔が少し青白くて病的なの。おまけに絶対昼間は外出しないのよ。学校にも行ってないみたい。それにやたら変なことを言うのよ。連絡先を交換しようって言ったら、『文通したいってこと?』なんて言ってきたんだよ?」 「ええっ」 アニは顔を引き攣らせた。さすがに引いたのだろう。 「普通連絡先って言ったらWhatsappでしょ? なのにWhatsappどころか、スマホすら知らなかったよ。信じられないでしょ? そこまで世間知らずになっちゃうくらい外に出たり、人と付き合ったことがないのかなって……。でもね、同い年なのにすごく落ち着いてて、時々おじいちゃんみたいなのよ。どこがって言われると説明できないけど」 アニは引き攣った顔で黙り込んだ後、口を開いた。 「……なんか、ヴァンパイアみたいだね」 「えっ」 「いつも青白い顔とか、昼間は外に出ないとか。歳よりかなり落ち着いてるってのもね……。ヴァンパイアって不老不死でしょ? だからすごーーく長く生きてるとそうなるのかなって」 アニが真面目にそんなことを言うものだから、サマンサは吹き出した。 「ぷっ……! ちょっ、ちょっと!! アニったらっ。ヴァンパイアなんかいるわけないじゃない!」 すると、アニも苦笑した。 「そうだね、ごめんね、馬鹿なこと言って。私、小さいときからそういうもの感じやすいからつい」 「……霊感があるってこと?」 「そうね。それもやたら悪霊とか魔物とかよくないものばかり見えるのよねー」 アニはそう言ったが、まるで肌の悩みでも話すような口調だったのでさほど深刻に受け止めてないのだろう。 「へぇ……」 いかにも人畜無害なアニにそんなものが見えてしまうなんて意外だとサマンサは思った。 「でもサミー、その人のことになるとすごくお喋りになるし、笑うんだね。今まで喋ったり笑ったりすることあまりなかったのに」 「えっ」 思いがけないことを言われて固まるサマンサ。 アニはネルのように何もかも見透かすような雰囲気はないが、洞察力に優れている。 「好きなんだね、その人のこと」 そう言ってちょっと含みのある微笑みを見せるアニ。 ネルに「僕は男じゃない」と言われたことや、彼が夜中に一六階のバルコニーに現れたことは、クラスメイトの中では比較的信頼を置いているアニにも言えなかった。 (ヴァンパイアね……まさか) ずっとアニに言われた言葉が頭の中でリフレインしている。サマンサはキリスト教を信仰しているので、一概に非科学的なものを信じていないわけではない。思えば、ネルにはヴァンパイアとの共通点がいくつかある。だが、ネルがヴァンパイアだと証明できるものは今のところ何もないのだ。彼が人を襲うところや映画に出てくるヴァンパイアのように棺の中で寝ているところを見たわけではない。 (何考えてるの私!) こんなことを考えるのはばかげていると思い、サマンサは頭の中にリセットをかけた。 サマンサが次にネルに会えたのは日曜日だった。この日はいつものモントリオール地下街ではなく、ノートルダム大聖堂の向かいのアルム広場、メゾヌーヴ像の下で二人は待ち合わせた。季節は一月、しかも気温は氷点下五度。なのに、ネルはコートを着てなかった。セーターとデニムだけだ。 「……寒くないの?」 「全く」 「なぜ?」 「感じないから」 「……風邪ひくよ?」 「……風邪はひかない」 「は?」 サマンサはますますネルがわからなくなった。だが、彼はきっとそういう病気なのだから彼の言葉を深読みしても仕方ないのかもしれない。 「ねえ、ネル、ここじゃ寒いから大聖堂の中に入らない? 一七歳以下は五ドルで入れるよ。今からだと最終受付時間になるけど。私、ここも綺麗なところだからお気に入りなの」 すると、ネルは困惑というより悲しげな顔をした。 「……ごめん。僕はそういったところには入れないんだ」 「…………へ?」 間の抜けた声を出してしまうサマンサ。声だけでなく、表情もさぞかし間抜けに見えるに違いない。 「なんでよ、入れないなんてそんなことないでしょう?」 だが、ネルは首を横に振った。 「絶対入れないんだ、ごめん」 「…………」 (キリスト教以外の宗教に入ってるのかしら。それにしたって、聖堂の中に入ることすら許されないって、今どきそこまで厳格なところある?) 仕方なく、二人でいつものモントリオール地下街に向かうことにした。ネルと並んで歩きながら、サマンサは胸の中のモヤモヤとしたものがどんどん大きくなっていくのを感じていた。ネルの謎がまたひとつ増えてしまったから。 モントリオール地下街に到着し、噴水の前のベンチに二人並んで座る。 「ねえ、ネル。こないだのメッセージは何だったの? 私、意味がよくわからなくて。あれって『ロミオとジュリエット』の有名なセリフでしょ?」 読書家のサマンサは何の引用なのかは知ってはいたが、なぜそれをネルが自分宛の手紙に書き記したのかがわからなかった。 「いずれわかるよ」 ネルはそれしか言わなかった。 「……そう」 そう言われちゃ納得するしかない。 「それよりこれ、君に。前貰った本のお礼も兼ねて」 ネルはサマンサに一冊の本を渡してきた。 「トリスタンとイズー」だ。傷んでいる様子はないが、新品ではない。多分ネルが読了済のものだろう。 「えっこれ、『ロミオとジュリエット』の原点でしょ?」 「そうだね。読んだことある?」 「まだ。おおよそのあらすじは知ってるけど」 サマンサが首を横に振りながら言う。 「君が好きそうかなって思って。いつもあの噴水の前で本を読んでるでしょ?」 「うん、一回読んでみたいって思ってた、ありがとう。感想、日記に書くね」 サマンサは早速ペラペラとページをめくった。 「この主人公の二人って惚れ薬を飲んで熱烈に愛し合ってしまうんだよね? 『ロミオとジュリエット』ではそんな描写はなかったけど。惚れ薬飲んで好きになるって本当の愛って言えるのかな?」 サマンサがそう問いかけると、ネルは淡々と答えた。 「僕は惚れ薬飲んで愛し合うほうが、普通に好きになるよりも本物の愛に近いと思う」 意外な答えにサマンサは驚く。 「えっ! どうして?」 「……だって、相手のことを好きなつもりでも人間は利己的だから疑ったり、試したり、腹の中を探ったりしてしまうでしょ。惚れ薬なら無条件で相手を愛せるじゃないか」 「……あ、確かに」 (そういえば、母さんもケヴィンのこと好きなはずなのに、不満たらたらだもんなあ。それでも、娘の私よりも構ってるけど……にしても、ネルって本当に一五歳なのかなあ。恋愛を全くしたことなくて、そんなこと言えるのかしら。誰かの受け売り?) 「そういえば、私もあなたに持ってきたの、これ。友達と作ったのよ」 サマンサは手持ちの白い箱の蓋を開け、ネルに差し出した。中身はアニと作った抹茶のパウンドケーキだった。付き合っているという証拠にまずネルのために料理でも作ろうと思っていたから。抹茶はチャイナタウンにあるアジアンスーパーで購入した。 だが、ネルはまた困惑した表情を浮かべた。 「ごめん、僕はそういったものは食べられないんだ」 「……そう」 (病人にこんなに消化に悪そうなもの、作らなきゃよかった) 「……一つくらいなら、食べられるかも」 サマンサの落胆した顔を見て悪いと思ったのか、ネルはそう言ってきた。 「本当?」 サマンサはパッと表情を明るくさせた。ネルは、パウンドケーキの切れ端を手に取ると、口に運んだ。 だが…… 「ぐっ……っ!!」 口にケーキを一口いれた瞬間、ネルは口を抑えて細い体を引き攣らせた。ポケットからハンカチを取り出すと口に当て、サマンサから顔を背ける。 「ちょ、ちょっと、大丈夫!?」 慌てて彼の背中を擦るサマンサ。 「……大丈夫」 ネルは苦し気に声を震わせながら言った。 白いハンカチと手が黄色の胃液で汚れている。 「ごめん、無理やり食べさせて」 サマンサはそう言って、手持ちのウェットティッシュでネルの手を拭いてやった。 「Non, 食べようとしたのは僕だから」 「……」 「ねえ、サミー、僕が男じゃなくても、好きでいてくれる?」 また意味のわからないことを言い出した。だが、サマンサは病気の症状か何かだと思い、受け止めることにした。 「もちろん。好きだよ」 サマンサはそう言ってネルを抱きしめた。彼も抱きしめ返してくれた。 (私がこの人を守ってあげなくちゃ) 「おはよう、サミー。彼、あのケーキ食べてくれた? なんて言ってた?」 翌朝の月曜日、登校するとアニが目を輝かせて尋ねてきた。 「……ごめんアニ。食べられなかったの。食べようとはしてくれたんだけど、彼、戻しちゃって……」 サマンサが低い声でボソボソと報告する。 「ええっ。病気ってそんな酷いの?」 アニの顔が強ばる。 「私が悪かったの。予め食べられるものを聞いておけばよかったのに」 サマンサがそう言ってもアニの顔は強ばったままだった。やっぱり普通じゃないと感じているのか。 「なんなの? 冴えない女がヒソヒソ、ヒソヒソ辛気臭いんだよ。うざいからやめて!」 マディソンが二人の横を通り過ぎながら、突き刺すようにそう言った。 だが、そんなことは日常茶飯事だ。 (可哀想にネル……。まともに外出も食事もできないなんて。ティーンエージャーとしての楽しみが全然ないじゃない。だからあんなに痩せてるし、時々おじいちゃんみたいなんだ) ネルに同情したサマンサは、ネルのために最大限のことをしようと思った。きっと、母亡き今ネルはまともに話し相手もいないのだろうから。 『〇月〇日 ネルへ 今まで私の話を聞いてもらってばかりだったからあなたの話も聞きたいな。私が学校に行ってる間とかは何してるの?』 『〇月〇日 サミーへ そうだね。寝てるか、本を読んでるかピアノを弾いてるかくらい。つまらないよ、僕の毎日は』 『〇月〇日 ネルへ つまらないかどうかは私が決める。どんな夢を見たかとかどんな本を読んだかとか、どんな曲を弾いてるかとか教えて欲しい。あなたのことはなんでも知りたいな。だって恋人だから』 「ったく! つまんない男!!」 セシルはボーイフレンドへの不満をたらたら漏らしながら、夜の寒空の下を歩いていた。日中少し雪が降ったせいでやや歩きづらい。気が立っているセシルは積もった雪を蹴りつけるように道を進んでいた。 セシルはマディソンの紹介で知り合った、年上の大学生と付き合っていた。その彼とのデートがつまらなかったので機嫌を損ねて帰ったというわけだ。年上のボーイフレンドと付き合うということはイケてる女子の間ではちょっとしたステータスなのだ。セシルは元々、サマンサほど陰気臭くはなかったが、かなり地味な少女だった。だが、高校に入ってからは新しい人生を歩もうと化粧やファッションを研究してマディソンの友人になれるほどに昇り詰めたのだ。だが、元は臆病で気が小さい性格なので、クロエ以上に無理をしてマディソンと付き合っている節があった。 「あいつってば、いいとこのボンボンのくせに何であんなにセンスが悪いんだろう!」 革のブーツで雪道をサクサク歩きながら、ボーイフレンドへの文句を小声で叫ぶ。その度に彼女のマスクの間から白い息が漏れるが、その息もすぐ凍りつくほどの厳しい寒さだった。だがモントリオールで生まれ育ったセシルは慣れっこだ。というよりそんなことを気にしている余裕がないほど頭に血が昇っている。 「……どうしたの? やたら機嫌が悪そうだね。ボーイフレンドと喧嘩でもした?」 鈴のような、中性的で柔らかい声がしたと思ったら目の前にいつの間にか絶世の美少年が立っていた。 「…………!?」 ――ゾッとするほど美しい少年だ。アッシュブロンドの髪が月光に反射して輝き、藍色の大きな瞳は吸い込まれそうなほどだった。 セシルもやはりマディソンの取り巻きなので美しい者には弱い。しかし、セシルはクロエよりやや勘が鋭かった。少年に何かただならぬものを感じていた。この少年は気温のわりに薄着すぎる。薄手のセーターとズボンしか身につけていない。……おまけに裸足だ。今は氷点下一〇度だ。ありえない。 「……そんな、お化けでも見るような目で僕を見ないでよ。ブルーな君を慰めに来たんだよ」 彼はそう言って妖しく微笑む。そんな風に微笑みかけられて心惹かれない者がいるだろうか。セシルは怖いのか魅了されているのかわからなくなってきた。足が動かない。この少年はきっと普通の人間ではない。わかっているのに。わかっているのに。 (綺麗……。いや、綺麗なんてもんじゃないよ。毎日鏡の前で自分の美貌に見とれてばかりのマディソンよりずっとずっと美しい……) 彼の美しさに見とれている間に少年はセシルににじりよってきた。 気がつくと、髪を撫でられていた。クロエより濃い色の、ハーフアップに纏めた長い髪を。 「……綺麗な髪だね」 少年はそう言うとセシルの首元に顔を埋めてきた。 ……何が首筋に刺さる。 ――歯? 針? いずれも違う。 そこまで痛くはないが、人間としての本能が脳内で警報を鳴らす。 ――この少年は何者で、一体何をしているのか。 視界に入らないだけに恐怖は増大する。こういうとき人は固まってしまうらしい。 この少年を突き飛ばして逃げたいのだが、恐ろしくて手足が動かない。 「やめて…… やめて!!」 やっとの思いで声を絞り出し、叫ぶセシル。 「どうした!! セシル!!」 そこに彼女のボーイフレンドが駆けつけてきた。先程機嫌を損ねて去っていったセシルを追いかけてきたのだ。先程まで鬱陶しく感じていた声が今はとても心強く感じる。 「アラン!! 助けて!!」 「こいつ!! セシルに何をしやがるんだ!!」 アランはセシルの上に被さるようにしている少年を蹴っ飛ばしてセシルの上から退かせた。体重が恐ろしく軽いのか、少年は蹴っ飛ばされた勢いで五メートルくらい吹っ飛んだ。そして、歩道の隅のまだ処理されていない積もった雪の上にどさりと落ちた。 「セシル!? 大丈夫か!?」 アランは怯えるセシルを抱きしめた。 「アラン…………!!」 セシルもアランに抱きついて泣きじゃくる。彼女の首筋からは血が流れていた。少年に噛まれたのだ。それをアランは手持ちのハンカチで抑えてやった。 「おい!! 君たち!! 大丈夫か!!」 そこに警察も集団で駆けつけてきた。 セシルに噛み付いた少年はのっそりと雪の中から体を起こした。受け身を取る余裕もなかったらしい。何やら戸惑っているようで、何か言いたげな様子だった。しかしこうなっては逃げるしかなかったのか、消えるように逃げていった。体中に着いた雪を払うこともなく。 セシルは即病院に運ばれ、入院することになった。 首筋の傷はそこまで深くなく、心配いらないとのことだった。……だが、本当の問題はそこではなかったのだ。 入院一日目の朝、肩のあたりが焼け付くような痛みで目が覚めた。 「っ……!?」 目を開けると、ブラインドから差し込む光で肩が焼けていた。うっすらと黒煙まで出ていた。 ――一体何が起こったのか? 慌ててブラインドを固く閉めた。 肩を見ると赤く爛れていた。寝ている間に病衣が肩からずれ落ちていたらしい。日焼けの百倍くらいのヒリヒリとした痛み。そっと病衣を整える。固くブラインドを閉めていてもわずかに漏れてくる日光さえ何だか気持ち悪く感じて、しばらく布団を被っていた。 ――いつも爽快感を得ていた朝の光が気持ち悪いなんて。 セシルは自分の身に何が起こったのかわけがわからず、布団の中でパニックになっていた。 すると、あることに気がついた。もう三〇分以上布団を被っている。いい加減苦しくなるのではないか? でも苦しくない。 ――セシルは気づいてしまった。自分が呼吸をしていないことに。 その後、医師と看護師が回診に来た。医師はセシルの心臓と肺がほとんど動いていないにも関わらず、彼女の全身に血が巡り変わらず生きていることを知った。衝撃のあまり医師が気絶してしまい、軽い騒ぎになった。 「Salut. 傷はもう大丈夫かい?」 昼過ぎにアランが面会にやってきた。色とりどりの花束を持って。 「Merci. アラン」 セシルがそれを受け取った途端、信じられないことが起こった。花たちが一気にへたりと黒ずんで萎れたのだ。 「……」 「……」 二人の顔が強ばり、沈黙が流れた。 セシルがやっとの思いで口を開く。 「あの男の子に襲われて、何かに感染したみたいなの。多分病院で治せない病気に……」 「何言ってるんだよ。今どき病院で治せない病気なんてあるもんか」 楽観的に恋人を励ますアランだったが、その声は彼の意に反して震えていた。 ――俺が怖がってどうするんだ。ここはセシルを励ますとこだろう、そうだ、こんな暗い部屋にいるから気が滅入ってるんだ。太陽の光でも浴びれば…………。 そう思い立ったアランは、立ち上がるとブラインドの紐に手をかけた。 「ちょっ……アラ……」 アランはセシルが何か言おうとするより先にブラインドを上げていた。 次の瞬間、アランは背中に炙るような熱を感じた。 そして鼓膜を破るような絶叫。 「セシル!?」 アランは我が目を疑った。 セシルのベッドが突然燃え上がったのだ。紅蓮の炎の中でセシルが手を伸ばして助けを求めている姿が見えたような気がした。 アランが慌てて上着を脱いで火を叩き消そうとする。腕を炙るような熱を感じるが、それどころではない。必死に火傷を負った腕を動かす。しかし炎は全く収まらない。 「デュランさん!!」 セシルの姓を誰かが叫ぶ。バタバタと走り回る足音はおそらく看護師たちのものだ。 シューーーという音とともに目の前の視界が白い煙のようなもので真っ白になる。 鼻口の中に入ってきた粉に咳き込むアラン。消火器によるものだと気づくまでに数秒かかった。 白い煙が落ち着いた頃には炎も消えていた。 「…………セシル」 アランの目の前には、先程までセシルだった真っ黒な死骸があるだけだった。 「クロエの次はセシルなの?」 「なんか、金髪で青い目の美少年に襲われたって言ってたらしいよ。で、ボーイフレンドが助けてくれて病院に運ばれたんだけど、ずっと様子が変で、突然死んだんだって」 「こないだの飛び降り事件の時、流行り風邪病棟の看護師も言ってたよね? ブロンドの髪の奴が患者に何かしてたって」 「……やっぱりヴァンパイアの仕業なんじゃないの?」 「まさか。皆幻覚を見てるだけなんだよ。金髪で青い目の美少年ヴァンパイアとか、そんな夢みたいなの、いるもんか。厨二病もいいとこだ」 同じ学校の生徒が立て続けに亡くなったことで校内にも緊張が走る。しかし、セシルの本当の死因については公にはなってなかった。 「どうしてなの……クロエもセシルもどうして私を置いていってしまうの……もう私も死んでしまいたい……」 マディソンはそう言ってクスンクスン泣いて取り巻きに慰められていた。 だが、サマンサは知っていた。これは単なる悲しんでますアピール、「友達のために悲しむ優しい私を見てショー」に過ぎず、次の日にはケロリとしていることを。クロエに続いてセシルのことも気の毒になった。死んだ後もこうしてマディソンの自己顕示欲のために使われるとは。こんな人に取り入り続けて彼女の人生は一体何だったのか。 ――だがそれより、クラスメイトが今しがた口にした犯人の特徴が気がかりだった。 (ブロンド……青い目……美少年……) どうしてもネルと被る。 ――まさか、まさか。 (いやいや、そもそもいるわけないよ。ヴァンパイアなんて) 信じたくない。初めての恋人が人間じゃないなんて。 授業が終わった後、その日はいつもの地下街には向かわなかった。サマンサが足を運んだのは学校のすぐ近くにあるカトリック教会、聖アンドレ教会だった。この教会には毎日曜日のミサで顔を出している。サマンサの学校にはこの教会の信者が多い。 ネルと出会う以前は心許せる相手が一人もいなかったサマンサ。だが、どうしても孤独に耐えられないときに雑談ができる相手がここにいた。 「Salut. パードレ・ルー」 サマンサがチャペル横の事務室をノックすると、黒いキャソック姿の初老の男性が現れた。彼の足元から首に金色の鈴をつけた、艶のいい毛並みの黒猫がニャーと鳴きながら顔を出す。この教会の神父、マクシム・ルーと飼い猫のノアールだ。サマンサの家はフランス系の父方は勿論、母方もカトリックである。曾祖母はキリシタン文化の残る長崎の出身だった。彼女がカナダに渡る際に持ってきていたマリア観音も、形見としてリビングに飾ってある。サマンサもカトリックの洗礼をこの教会で赤ん坊の時に受けている。 ルーは教会の庭で雄鶏を飼い、温室でローズマリーの栽培もしている。どちらも中世から魔除けや悪魔祓いに使われてきたものだ。そこまで信心深いのに、なぜ古くから魔女の手先と信じられていた黒猫を飼っているのかと奇妙に思ったこともあった。以前それについて尋ねたのだが、ルーは「あなたの御先祖の国では黒猫は縁起がいいんでしょう?」とサマンサに微笑みかけた。確かに日本では、「黒猫を飼うと労咳が治る」などと言われた時代もあった。 黒猫は闇の中では姿は見えないが、目が光ることから魔除けや厄除けをしてくれる生き物とされていたのだ。 「中世ヨーロッパには魔女の遣いとされる黒猫を大量に殺してた歴史があるんだよ。私はそれを聞いてあんまりだと思ったんだ。人間の都合で勝手に不吉だのなんだの言いがかりをつけて罪もない動物を殺すなんて。異なる視点、異なる文化の中では全く逆の存在になったりするのに」 ルーはそう言ってノアールを撫でていた。彼は世界中の宗教や神話、土着信仰などに精通している。カトリックの神父でありながら、宗教多元主義的な思想を持っている。プロテスタントは勿論、他の宗教にも理解がある。若い頃は世界中を旅して、あらゆる宗教的背景を持つ人々と交流してきたらしい。「友人だよ」と日蓮宗の僧侶や、イスラム教のウラマーを紹介されたときは驚いた。 さすがに穏和で何物にも動じなさそうなルーにも「私の恋人がヴァンパイアかもしれない。そして連続殺人事件の犯人かもしれない」なんて言えなかった。 「……パードレ・ルーはどう思います? 最近の連続殺人事件。同級生たちがヴァンパイアの仕業なんじゃないかって騒ぐんですよ。そんなのいるか、馬鹿げてるってずっと思ってたんですけど……。身近で犠牲者が二人も出たら、そんな馬鹿な話もリアルに思えてきちゃって、怖いんです」 サマンサは庭で雄鶏たちに餌をあげているルーの背中にそう話しかけた。ルーの雄鶏は皆立派な紅い鶏冠と茶色い羽、エメラルド色の尾を持っていた。彼らはルーから与えられた餌を喉を鳴らしながら夢中で貪っている。 「……表立っては言えないがね、私もあの連続殺人事件は人ならざる者の仕業なんじゃないかと思ってるんだよ」 ルーはサマンサの方にその老いた顔を向けて言った。 「……そうですか」 サマンサはルーならそう答えるかもしれないと予想していた節があったので、特別驚かなかった。 「まあ、そんなことを警察に言ってもキリスト教を狂信している頭のおかしい老人だと思われるだけだろうから、胸に秘めておいたんだがね。やはり長いこと神に仕えていると、俗世の人間には感じ取れないものが分かるようになるんだ」 ルーはそう言って立ち上がると、サマンサの方に向きなおった。そしてサマンサに「来なさい」と教会の中へ導き、二人で事務室へ戻った。 「……」 「今の人たちはそんなものはいないと馬鹿にするがね、昔からいるものはいるんだ。悪いことは言わない、私の言うことを信じてくれるならこれで身を守って欲しい」 ルーは自分の机の引き出しから何かを取り出した。そして、手のひらの半分ほどの大きさの白い巾着袋をサマンサに渡した。中にはローズマリーを乾燥させたものが入っていた。二人の足元でノアールがまたニャーと鳴いた。 教会をあとにし、いつもの場所へ向かうサマンサ。噴水のある休憩所を目指してショッピングモール内を進んでいる最中、SEPHORAの店舗が目に付いた。ショーウィンドウに貼られているポスターのインパクトが強かったからだ。華やかなメイクを施した白人、アジア人、黒人のモデルがそれぞれ妖艶な表情でこちらを見つめている。 (そろそろメイクもしてみるかなあ) サマンサはカナダの高校生には珍しく万年すっぴんだった。自分みたいなブスがお洒落をしたところで笑いものにしかならないと思っていたからだ。だが、ネルというボーイフレンドができた今となっては少し考えが変わってきた。入るかどうか悩んで立ち尽くす。 「何してるの?」 「!?」 突然背後から声をかけられたので吃驚してしまった。 「……ネル」 振り返るとネルがいた。彼の方が一〇センチ弱ほど背が高いので、立った体勢だとサマンサの視線が少し見上げるようになる。 ――全く気配がしなかった。 相変わらず真っ白な顔をしていて美しいが、やはり 病的に見える。 しかし、何だかいつもより顔色がいいような……。 『金髪で青い目の美少年に襲われたって言ってたらしいよ』 今朝のクラスメイトの言葉がふっと脳裏に浮かぶ。 ――「満たされた」から顔色がいいのだろうか。 嫌な妄想が頭の中で膨らんでいく。 「……どうしたの? そんなモンスターでも見るような目で僕を見て」 ネルの綺麗な微笑みが少し不気味に思えてきた。美しさと冷たさは似ている。 「……ねぇ、棺の中で寝てたりとかしないよね?」 馬鹿な質問だ。動揺のあまり馬鹿な質問をしてしまった。案の定、ネルに笑われてしまった。 「はははっ……何言ってるの」 「そうね、何言ってんだろ、私」 (……疲れてんのかな、私) そうは言ったものの、サマンサの中にはある疑念が形をもってきていた。だが、それを面に出すわけにはいかない。 「……それじゃあ、今日は何処に行く? ……嫌じゃなかったらあなたの部屋に……」 サマンサはネルの方に向きなおり、そう言いかけた。言葉を切ってしまったのは、ネルが突然不快そうに顔を歪め、サッと二メートルほど後ずさったからだ。 ――実に素早い動きだった。ダンサーやアスリートでも再現できないような素早さだ。 「……ど、どうしたの?」 ネルの反応と動きの両方に驚いてしまい、どもってしまうサマンサ。 「その首から下げてるもの、カバンの中にしまってくれる……?」 ネルは顔をサマンサから背け、鼻と口を手で抑えながら言う。まるで生理的に無理なものを見せつけられたときのような態度だ。 サマンサは自分の胸元に目をやる。そこにはルーからもらった巾着袋があった。魔除け、ということで身につけやすいようリボンを通して首から下げておいたのだ。 ――ネルが魔除けを嫌がるなんて。 サマンサの中で疑念がどんどん大きくなる。だが、現実を直視したくない思いでその疑念を抑えつけていた。 その数日後。学校に行くと今までとはまた違った空気が漂っていた。以前にも増してサマンサを見る同級生たちの視線が冷たいのだ。マディソンやその取り巻きだけでなく、いつもはサマンサのことなど存在しないかのように扱っている者たちまでサマンサをジロジロみながらヒソヒソ何か言っている。 (…………なんなの? またマディソンがろくでもないこと皆に吹き込んだの?) ロッカーの前に立ちつくすサマンサの前にアニが歩み寄ってくる。 「おはよう、サミー。……まだ知らないよね? あのね、聖アンドレ教会で飼ってる雄鶏が皆首の骨折られたうえに、八つ裂きにされて殺されてたんだって。しかも死体もバラバラにちぎられて庭にぶちまけられててね……。おまけに神父さまが大事に育てたローズマリーも全部枯れてダメになっててね……。多分誰かが除草剤を入れたんじゃないかって」 アニがうつむきながら低い声でそう報告する。 「え…………?」 クラスメイト二人殺された後に聞くニュースとしてはとても小さい事件に思えてしまうが、普通に酷い話だ。しかし、なぜそれで自分に冷たい視線が集まっているのだ。 「……それでね、言い難いんだけど、サミーがその犯人なんじゃないかって皆思ってるの」 アニは目を逸らしながら言う。 「は、はあ? 何それ!」 とんでもない疑いだ。世話になっているルーに、なぜ自分が恩を仇で返すようなことをしなければならないのだ。しかも可愛がっている生き物をわざわざ殺すなんて猟奇的で悪趣味極まりないことを。 「サミー、あそこにまあまあ頻繁に行ってるでしょ? それから匿名で学校に通報が入ったんだって。数日前、サミーがあの教会の庭で変なことしてたって。実際その日サミーがあの教会に出入りするところ、見た人何人もいるらしいし。それにサミーの叔母さん、ガーデニングが趣味じゃない? だから除草剤をすぐ手に入れられるんじゃないかって」 「いやいやいや、ありえないから!!」 思わず声を張り上げ、ぶんぶんと長い黒髪を乱しながら首を横に振るサマンサ。 「……そうだよね。私はサミーを信じてるよ。これは何かの間違いだと思う。サミーはそんなことする人じゃないよね」 アニはそう言ってニコリと微笑みかけてくる。 (……酷い!! 私そんな罪を着せられるほど誰かに酷いことした?) サマンサは嫌われ者の自覚がある。陰気で無愛想な自分には好かれる要素などない。だが、他人に恨まれるようなことをした覚えはなかった。そもそも自分がそんな嫌がらせが出来るほど根性が腐っているのだとしたら、ルーには絶対しない。他にやってやりたい相手ならごまんといる。 マディソンが長い金髪をなびかせながらツカツカとこちらに近づいてきた。そしてサマンサに軽蔑したような眼差しを投げかけるとこう言った。 「さっすが!! 見た目が醜い奴って心まで醜いし、やることも悪趣味で卑劣だね!!」 それだけ言うとご自慢のプラチナブロンドをサッとかきあげ、またツカツカとヒールの音を立てて去っていった。 (……あんたに言われたくない。この性格ブス!) サマンサは心の中でそう叫んだ。心の中だけに留めたのは、口に出したところで自分には勝ち目がないとわかっていたからだ。マディソンを敵に回すことは同級生全員、教師まで敵に回すことに等しい。 日本で罰ゲームのネタに使われたときの百倍くらい悔しかった。 肩を震わせながら歯を食いしばり、マディソンを睨みつけるサマンサ。アニはそんなサマンサの肩に手を置いて静かに慰めた。 「大丈夫、サミー。あなたが犯人じゃないことは私がわかってるから」 サマンサの仕業という通報こそあったものの、証拠不十分ということで停学や退学などの処分はなかった。だが、皆犯人はサマンサと思い込んでるようだった。母にも学校から連絡がいったようだった。母は自分の娘がそういうことが出来る人間ではないとわかっているので、サマンサが犯人とは思ってないようだった。しかし、「日頃の行いがよくないからこういうことになるのよ。あんたが普段から模範的な人間だったらこうはならないのよ」と休み時間にかかってきた電話で嫌味を言われ、散々だった。 その日の放課後はルーのところへ行った。自分は犯人ではないと弁明するために。だが、その必要はないようだった。サマンサが焦った様子で話すのをルーは穏やかに相槌を入れながら最後まで遮らずに聞き、こう言った。 「勿論、あなたが犯人だなんて、思ってないよ、サマンサ。もう気にしないでくれ」 ルーは可愛がっていた雄鶏やローズマリーを奪われて酷く意気消沈していた。自分は無実だ。でもなんとなく申し訳なくなった。かける言葉も見つからず、すぐ教会を去った。 ( もう知らんぷりはできない! こんなことするの、一人しかいないもの!!) サマンサはこの事件の真犯人に心当たりがあった。 そしてその犯人は連続殺人事件と関連していると確信した。クロエとセシルが殺され次は自分ではないかと怯えたがこんな形で巻き込まれるとは。これ以上事態が大きくなる前に核心に迫らなければ。 (ネルが家に来た時、私のデスクの上にあったクリスマスローズ、枯れたよね? ネルは私がパードレ・ルーからもらった魔除け、すごく嫌がってたよね? ……信じたくない、信じたくないけど……) サマンサはその脚でネルの部屋に向かった。自分の部屋に荷物を置きに行くこともなく直接。 「どうしたの? 何かあったの?」 ネルはサマンサの顔色を見て、悲壮感の漂う表情で穏やかに言った。思い詰めた様子でやってきた恋人を見て、こんな態度をとれるティーンエージャーがいるのだろうか? その疑問がサマンサをますます確信に近付けた。 「まあ、とにかく入って」 そう言ってサマンサを自分の部屋に招き入れるネル。 ネルの部屋はとても殺風景で生活感がなかった。壁が白いのでがらんどうな雰囲気に拍車がかかる。 広いリビングルームにはテーブルと椅子、隅の方にピアノとベッドがあるだけ。そしてやはり窓にはダンボールが貼り付けてある。 ここでサマンサはある実験を試みた。自分の疑念が間違いであることを願いつつ。 「主よみもとに近づかん のぼる道は十字架に ありともなど悲しむべき……」 「やめてよ!!!」 その瞬間、ネルは耳を塞いで叫んだ。そのときの形相はまるで別人だった。一瞬彼がゾンビのように見えたような気がした。 ――きっとこれが彼の本当の姿なんだ。 予想以上の反応と現象にサマンサの方が驚いてしまった。普段美しくて静かな彼がこんな風になるなんて。 サマンサは異様なものを見るような目でネルを見た。また疑念が確信へと近づいてしまった。彼女が歌ってみせたのは教会のミサで歌った賛美歌だ。 サマンサの様子を見て、ネルもいつもの美少年の顔に戻り、気まずそうにしていた。 「私が小学生のときに亡くなったおばあちゃんがね、言ってたんだよね。子供の頃、ヴァンパイアに会ったことがあるって。皆ジャップとか言っておばあちゃんを仲間はずれにしたんだけど、彼だけはおばあちゃんに優しくしてくれたし、友達になってくれたって。そのヴァンパイアは、アッシュブロンドで、緋がかった藍色の目をしてたって言ってたの。ずっと作り話だと思ってたんだけど……」 「……」 黙り込むネル。 「やっぱり、何も教えてはくれないんだね」 「私あなたの彼女なのに」という言葉が喉まで出かかったが何とか止めた。そんな所有欲むき出しの言葉は嫌いだ。いつも母がケヴィンに対して言っている言葉だから。 「あなた一体何者? あなたという存在をどう捉えればいいの? なんて呼べばいいの?」 「……今まで通り『ネル』でいい」 ようやく口を開いたが、目を合わせてくれないまま。 「そもそもそれも本名なの?」 「愛称だよ。『サミー』と同じ」 「じゃあ本名は何?」 サマンサは畳み掛けるように言った。すると、ネルはようやくこちらを見た。そして何かを決心したような表情でこう言った。 「エレン」 「……? それは女性の名前よ?」 古風な女性の名前だ。もう英語圏では殆ど使われなくなった。 「そうだね」 サマンサはますますわけがわからなくなってきた。 なぜ自分のボーイフレンドに女性の名前が付いているのだ。ネルは自分をからかっているのだろうかとサマンサは思った。 「……あなた男なの? 女なの?」 「どっちでもない」 「? 一五歳って言ってたけど、本当は何歳?」 「……本当に一五歳だよ。だけどずっと長いこと一五歳だから」 またわけのわからないことばかり。 パニックになる前に核心に迫る。 「……ヴァンパイアなの?」 すると、ネルは「そう来ると思ったよ」とでも言うようにあのアルカイックスマイルを見せた。整った顔だけに真顔で微笑むとかなり不気味だ。サマンサは背筋が寒くなった。いつもだったらその神秘的な笑みも胸をときめかせてくれるものだったのに。今はただただ怖かった。 ネルはそんなサマンサに視線を固定したまま、何かを噛むように少し口を動かした。そして、ニッと口を開いて見せた。 ――鋭い牙が見えた。 「!?」 サマンサは思わずサッと後退りしてしまった。 「…………Ouiってこと?」 怯えた様子で尋ねると、ネルは涼しい顔で頷いた。サマンサはショックで震えが止まらなかった。否定して欲しかったのに。否定さえしてくれれば信じたのに。サマンサは動揺のあまり声を張り上げた。 「ふざけないでよ!! ずっと私を騙してたわけ!? クロエを殺したのも、エバを殺したのもあなたなわけ!? セシルが死んだのもあなたが関わってるんでしょ!!」 「そうだよ。全部僕がやった」 ネルは随分とあっさりと答えた。今度は本当の真顔で。 「………………私のことも殺すつもりだったの?」 するかどうか迷った質問。だが、胸の中に秘めてはおけなかった。 「最初はね」 少しも表情を変えずに言ったネルだが、その言葉にはどこか重みを感じた。 「ついでに言うと君のお祖母さんのことも」 その言葉を聞いてサマンサは酷くいたたまれなくなった。 ――この美しい姿の中に悪魔が住んでいるようだ。 「何なの? 本当に何なの? あなた。聖アンドレ教会の雄鶏を殺したのもあなたでしょ!! ローズマリーが枯れたのもあなたのせいでしょ!? 魔物が来ると花も枯れるって言うもんね!! 私、あなたの悪趣味な嫌がらせのせいで濡れ衣着せられたわ!! ただでさえ学校の居心地が悪いのに!! 恩を仇で返すうえに猟奇趣味のサイコパス女だってレッテルを貼られたんだから!! 何なの!? あんなことしたのは私への当てつけ!? 私が魔除けを身につけてたのがそんなに気に入らなかった!? 教会に行くこと自体が嫌だった!? それとも何!? 最初から私なんかと付き合いたくなかった!?」 サマンサはヒートアップしてジェスチャーを混じえつつ、早口でまくし立てた。 しかし、ネルの反応は意外なものだった。サマンサの言葉に「えっ」というように眉間に皺を寄せたのだ。 「……なんのこと?」 「ここまで来て、とぼけないでよ!!」 サマンサはネルの態度にますますいきり立って叫んだ。 「い、いや、だって、それは僕じゃないよ」 ネルは本気で動揺しているようだったが、興奮状態のサマンサには通じない。 「あなたの他に誰がいるって言うのよ!! あなたヴァンパイアなんだから、教会荒らしをする理由ならいくらでもあるでしょ! 私があの教会に行って魔除けを貰ってきたのが気に入らなかったんじゃないの!? 当てつけたかったんでしょ!?」 この上なく頭に血が昇っているサマンサに対して、ネルはますます困惑した様子を見せる。 「……え? え? だって、確かに教会も雄鶏の鳴き声もハーブも生理的に受け付けないけど、そもそも僕は教会には入れないよ……」 気弱そうに肩を縮め、首元を触りながらうなだれる様子は実に人間くさい。人が首元を触るのは、不安な気持ちが強いときだと心理学の授業か何かで聞いたことがある。ネルはヴァンパイアらしく無機質でありながら、たまにこんな人間っぽいところを見せてくるゆえサマンサも混乱するのだ。それを振り切るようにこう叫んだ。 「もう!! 馬鹿にするのもいい加減にして!! 私を散々騙した挙句、あんな事するなんて!! もういい!! 帰る!!」 サマンサは乱暴に荷物を取ると逃げるようにネルの部屋を出ていった。 サマンサは自分の部屋に駆け込むと、台所にあったニンニクを窓際に吊るし、すばやくベッドに潜り込んだ。 (ネルはヴァンパイアだった!! 人間じゃなかった!!) 自分はなんて恐ろしい者と恋人になってしまったんだと思った。皮肉にも母が悪意たっぷりに言った台詞通りだった。 ネルはヴァンパイア。そうなるとあらゆる謎に合点がいく。 日中はけして外に出ないこと。 肌が青白くて病的なこと。 寒さを感じないこと。 一五歳という歳の割にかなり老成していること。 Whatsappどころかスマホすら知らなかったこと。 あのどこか古臭く、ティーンエージャー離れした話し方。 全て「病気」で片付けるには無理があった。 一六階のバルコニーにあっさり現れることも。 彼は「飛んできた」と言っていたが、本当にムササビか何かのように飛べるのだろう。 同居していたエバという女性も絶対母親などではない。生きていくためには隠れ蓑というか、匿ってくれる人というか昼間でも活動できるパートナーが必要なのだろう。もしかしたら「食料調達」の手伝いまでさせていたのかもしれない。そしていざというときは本人まで食い殺すのだ。そう考えると、こないだの「あんたみたいなモンスター、なんで好きになっちゃったのかしら」という言葉も不自然ではない。 そしておそらく、匿ってもらう見返りに性的奉仕をしているのだ。だから、こないだ裸でサマンサのベッドに入ってきたのだろう。サマンサを次のパートナーにしようとして。エバを既に食い殺したから。そうしてネルは長い間生き抜いてきたのだ。あの美しい容姿で相手を誘惑して……。恐ろしい。 今ネルのことが恐ろしくて恐ろしくてたまらないのに、なぜか好きだという気持ちは少しも変わってなかった。たとえ恐ろしいモンスターでもネルは自分を肯定してくれ味方になってくれた唯一の存在だ。 だが、もうネルには会えない。自分は正気の人間なのだ。ホラー映画の主人公じゃあるまいし、ヴァンパイアとなんて付き合えない。そもそも人間とヴァンパイアがわかりあえるわけないじゃないか。ライオンとシマウマが友達になれるか? そういう次元の話ではないか。このままネルと一緒にいたらいつか食い殺されるかヴァンパイアにさせられてしまう。自分が自分でなくなってしまう。そんなの恐ろしすぎる。 サマンサはひたすらベッドの中で震えていた。 「サミー……」 その日の夜更け、バルコニーに訪問者があった。白いカーテンに月光が当たり、黒いシルエットが浮かぶ。姿はよく見えなくても、誰かくらい分かる。 「ごめん、騙すつもりはなかったんだ。僕の正体を知っても君が僕を受け入れてくれることを願ってるよ。どうか僕を怖がらないで。もう君のことを食い殺そうなんて思ってないから」 「……」 サマンサはブランケットを被ったまま、返事をしなかった。 「これ、退けてくれない? お陰で中に入れない」 多分ニンニクのことを言っている。 「……」 「僕のこと受け入れられないなら、せめて殺してくれないかな。僕はもう惰性と生存本能で生きてるだけなんだ。もうそろそろ終わりにしたいんだよ。君に殺されたい」 ネルが消え入りそうな声で言う。サマンサは限界を感じて起き上がった。 「やめてよ!! 私のこと愛してもいないくせに!! そもそもあなた、人を愛する心なんてないんでしょ!? 人間じゃないんだから!! あんな嫌がらせできるほど非情なんだから!! 死にたければ勝手に死ねば!? あなたたちが死ねるかどうかはわからないけど!」 サマンサがそう叫ぶとネルは酷く傷ついた顔をした。 「だからやめてって!! 傷ついてなんてないんでしょ!?」 (やだ、これじゃ母さんみたいじゃん) 相手の話を聞くことなく、ひたすら相手を黙らせようとしてる今の自分の態度に対して、こう感じていた。だが、口が勝手に動いて止まらない。 「…………サミー」 ネルは今にも泣き出しそうだった。だが、涙は出ていない。サマンサはその態度を「泣き真似をして自分を惑わそうとしている」と取った。 「……泣き真似しようとしないで!! 涙出てないじゃん!! 酷い役者だわ!! さっさと自分の部屋に戻って!! あなたの顔なんか見たくない!!」 サマンサがそう言うとネルは静かに自分の部屋へ引き返していった。バルコニーの手すりに昇り、仕切りをひょいと跨いで戻っていったが、一六階のバルコニーで同じことができる人間はまずいないだろう。 だが、サマンサはまだ心のどこかでネルがヴァンパイアでないことを願っていた。 だから、こんな酷い罵詈雑言を並べて、彼を試そうとしているのかもしれない。彼が人の心を持っているかどうかを見たかった。彼はサマンサへの愛を示し、サマンサの言葉に傷ついた様子を見せ、見事に人の心があることを証明してきた。 だが、それが余計サマンサを悩ませた。ヴァンパイアらしい冷酷な態度を取ってくれさえすれば、「君なんか、食べ物としての価値しかない」などと言ってもらえさえすれば、未練なく別れられたのに。 「ねえ、サミー、最近彼とはどうなの? 随分変わった彼氏みたいだけど」 翌朝、アニがそう尋ねてきた。 「……別れるかもしれない」 サマンサが低い声で言う。 「えっ」 アニはばちっと目を丸くした。だがその表情はどこかわざとらしく、本気で驚いているようには見えなかった。アニがどういうつもりでそんな表情を作ったかは知らないが。 突き放したのは自分なのに、なぜかネルのいない生活に虚しさを感じていた。未練などなかったらアニに対しても「別れた」とあっさり言えたのだ。 昨夜のネルの傷ついた顔が忘れられない。だが、彼は見た目通りの未熟な少年ではない。何年生きているのかはわからないが、きっとものすごく長い時を生きているのだ。 ――彼の中にはきっとものすごい年寄りがいて、自分を品定めしている。 ヴァンパイアとして生きる処世術として、演技を身につけているのかもしれない。ケヴィンがサマンサの母の母性を刺激することで、自分に依存させているのと同じだ。 (そうよ。あんなん演技に決まってる。騙されちゃいけない。彼人間じゃないもの。そもそも人の心を持ってたらあんなことできるはずがない) 自分はネルを突き放す他ないのだ。多分ネルを受け入れたら戻って来られない。それが怖かった。 その日の放課後。アニの足取りは軽かった。雪を踏みつける足音はどこかリズミカルだった。厳しい寒さで吐く息がすぐ凍ることすら面白いのか、鼻歌まで歌っている。傍から見たら「何がそんなに嬉しいのだろうか」と異様に思えるほど。 今日はサマンサと帰りたかったのだが、残念ながら家が逆方向なのだ。それでも傷心気味の彼女に優しさをアピールするために家まで送り届けてやるくらいしてもよかった。 しかし、彼女に「そこまでしてもらうのは申し訳ない」と言われてしまった。 ――ほどほどにしないとそろそろ変に思われるかもしれない。 (…………あれっ……!? これは…………) ルンルン気分で歩いていると、背中に何かゾワゾワとしたものを感じた。寒さのせいではない。 アニには霊感に近いものがあった。悪霊や魔物だけでなく、他人の悪意にもとても敏感だ。悪い予感もほぼ当たる。ただ、何故か守護霊や天使など神聖なものはわからないし、いい予感は当たらない。邪悪なものにだけ敏感だなんて何だかとっても損をしているような気がしないでもないのだが、アニは自分の能力を少し誇りに思っていた。他の人間には見えないものが見えるのは優越感を得られるから。 ――そして今も感じるのだ、そんな人ならざる者の気配を。それも相当な憎悪を感じる。 こんなときはどうすればいいのか知っている。アニは歩くペースを少し速めた。「そいつ」に怪しまれない程度に。モントリオールは「教会の街」と呼ばれるほど教会が多い。市内だけで六五〇ヶ所はある。教会を見つけてその敷地内に入ってしまえばいい。魔物は聖なる力に守られた教会には入ってこられない。後ろから「そいつ」の気配を感じる。 アニはちょうど目に付いた教会の門をくぐった。そこはサマンサが通っている聖アンドレ教会だった。そして、どうせなら「そいつ」の姿を見てやろうと後ろに向き直った。 「…………!」 ――門の前には同じくらいの年頃の少年が立っていた。わずかでも肌を露出させると痛く感じるほどの寒さなのに、コートも着ずに春のような格好をしている。しかも裸足だ。そこに透明な壁があるかように両手をつき、長く鋭い爪を立てている。アニを一心に睨みつける緋色の瞳は憎悪で燃えていた。顎からはみ出るくらいの長さの青みがかった金髪はその勢いで逆立たんばかりだった。アニを捕まえられなかったことが悔しいのか。思ったよりひ弱そうな見た目で拍子抜けしたが、人間ではないのは一目瞭然だ。 (よく見たらこいつ、たまに地下街でサマンサといる奴じゃん。あの人も大したものと付き合ってるなあ。あの人らしいっちゃらしいけど。私に何の恨みがあるんだか。でもいくら化け物とはいえ、こんな美形に愛されるのは羨ましいわ) 「どうしたの? 『入っていいよ』」 アニは面白くなってきたので、嘲るようにそう言ってみた。 すると、「そいつ」はますます悔しそうに透明な壁を拳で叩いた。アニはここに魔物を「招き入れられない」ことを知っている。知っていてあえて―― (しっかし、どうやって帰ろうかなあ。朝になるまでここにいるわけにはいかないし) ――ずっとここにいたら帰れない。だが、こいつは門から出たら自分を食い殺す気でいる。 (どうしたものかなあ) アニが立ち尽くしていると、裏口からルーが現れ彼女に声をかけた。 「どうしたのですか?」 「あ、ごめんなさい。ちょっと……」 アニはしおらしくルーに助けを求めようかと思った。しかし再び門に目をやると、「そいつ」はいなくなっていた。 「モンスターに追われていました」なんて言えない。だが、ルーは察していたようだ。 「申し訳ないが、こないだ温室を荒らされたせいで魔よけのハーブは今ないんだ。あなたもキリスト教徒だろう? ロザリオを首から下げておくといい」 「パードレ・ルー、雄鶏たちとローズマリーの件も、人ならず者の仕業と思いますか? あんなこと、教会を敵視してる者のやることですよね? 私は連続殺人事件の犯人と同一人物なのではないかと思ってるのですが」 サマンサは再びルーの元を訪れていた。ルーも自分と同じ見立てをしているかどうかを確かめるために。だが、ルーの答えはサマンサの予想を裏切った。 「……いや、あれをやったのは人間だ」 ルーは膝の上でノアールを撫でながら、サマンサを真っ直ぐ見据えて言った。 「!?」 思いがけない答えに息を呑むサマンサ。犯人はネルだと確信し、ルーも同じように思っていると思い込んでいただけに。 「……どうしてそう思うんですか? 人間があんなことする意味あるんでしょうか?」 「あんなことをする意味については私もわからないが……。あのローズマリーの枯れ方は除草剤のせいだと言いきれる。私も長いこと植物を育てているからね。……しかしそれ以前に、魔物は教会の敷地内には入れないんだ」 「えっ」 「日本にも災いや不浄のものを招かないための『結界』という宗教的な線引きがあるだろう? 教会も同じなんだ。教会は聖域だ。常に聖なる力に守られている。だから教会と敵対関係にある魔物は絶対中に入れないんだ」 「……」 サマンサは以前見た映画を思い出していた。悪魔と契約して美しい容姿を手に入れた女が王子に見初められ、城に入ろうとするも見えない壁があるかのように入ることができなかった。城が神の力で守られた「聖域」だったから。 そして『僕は教会には入れない』というネルの言葉を思い出す。言い逃れのための大嘘だと思っていたが……。 (そういえば、ノートルダム大聖堂の中にも入れないって言ってたよね…………) ルーの言う通り、魔物は教会に入れないのだとしたらネルは犯人ではない。ネルは魔物だから。 (……それだったら、一体誰が……何のために……) サマンサは自分の見立てが全くの見当違いだったことがわかり、面食らってしまった。 ネルの傷ついた顔がまた脳裏に浮かんできた。そもそもネルは気に入らないことがあったとしても、あんな悪趣味なことをして当て付けるような性格ではないだろう。雄鶏の鳴き声がヴァンパイアにとっておぞましいものだったとしても、ネルはわざわざ殺しに行くだろうか? 彼の性格上、近寄らないように避けるだけではないか? 冷静になればわかること。しっかりした証拠もなく、ネルを疑ったことは悪いと思った。だが、謝る気にはなれなかった。 (でも…………ネルは疑われても仕方ないことをしてるじゃない…………。ヴァンパイアだし、人殺しもしてるんだし……) ――しかし、ネルではないとしたら、誰だ? マディソンか? 女王様な彼女が自ら雄鶏を殺したり除草剤を撒いたりなど、泥臭い仕事をするはずがない。下僕にでも頼んでやらせたか? いや、マディソンは性格こそ悪いがそこまで悪知恵は回らない。そんな手の込んだことするだろうか? こうなると全く心当たりがなかった。確かにサマンサは陰気で嫌われているが、自分への嫌がらせにそこまで精を出す人間がいるとは思えなかった。 第三章 正しきものを招き入れたもう 「サミー、ちょっといいかしら」 家で読書をしていると、珍しく母が穏やかな口調で話しかけてきた。いつもは命令口調なのに。 ここのところ、ネルと会うのが嫌で学校帰りにモントリオール地下街に行くことはなくなった。 彼に会うくらいなら広い家で一人寂しい思いをしたり、母とケヴィンのイチャつく様や痴話喧嘩を目の当たりにさせられた方がまだマシに思えたから。 母とサマンサはリビングのソファに隣合って座った。 「今日ね、ちょっと上司に叱られたのよ」 母は伏し目がちになりながらそう言った。いつもはきつく見えるその顔つきがやや頼りなく見える。 「上司に叱られた」? それは子供にする話なのか? とサマンサが思っていると母は続けた。 「母さんね、上司や同僚の前でうちの娘は全然言うことを聞いてくれない、ろくに友達も作らないで本ばかり読んでると思ってたら、変な友達を作ったりして困る、って言ったのよ」 (……会社でも私への不満をぶちまけてたのね) サマンサはますますうんざりした。母の会社の人たちはさぞかし自分をとんだ親不孝の不良娘だと思っているのだろうと。 「そしたらね、上司が『じゃああなたは娘さんの話をちゃんと聞いてるの? 頭ごなしに命令してばかりじゃ向こうも反発するよ』って言ったのよ。思えば母さん、あなたの話ちゃんと聞いてなかったわね。悪かったわ」 「……」 思いがけない話に唖然とするサマンサ。 「今日はちゃんとあなたの話を聞きたいと思ってるの。愛してる」 母はそう言って微笑んでくれた。かなり久しぶりに。ここ最近の母は怒ってばかりだったのに。 (母さんはやっぱり私の母さんなんだ! 私のこと愛してくれてたんだ! もういい! 今まで私を邪険にしてきたことなんてもういい!!) サマンサが感動で思わず泣きそうになった、そのとき――玄関のチャイムがなった。 「あら、誰かしら」 母が玄関のドアを開けるとケヴィンがいた。 栗色の髪はボサボサに乱れていて、服装も「裸でいるわけにはいかないから着ました」というような感じだ。元の顔立ちはそこそこハンサムだろうに、不摂生な生活と麻薬のせいで台無しだ。 何を企んでいるのか、いやらしい笑みを浮かべていた。 「なあ、メアリー、金貸してくれよ」 どうやら金をせびりに来たらしい。 「こないだ貸したばかりじゃない! それに子供の前で言わないで!」 サマンサは嫌な予感がした。さっきまでの幸せな気分はどこかにいってしまった。今日という今日こそは母もケヴィンに対して毅然とした態度でいてくれるかと思ったのに、またケヴィンのペースに飲み込まれそうなのだ。 「そんなこと言わないでくれよ。俺にはお前しかいないんだから。お前が嫌だって言うからお前以外の女は全部切ったじゃないか。まともな仕事に就けたらまとめて返すから」 「いっつも同じことばっかり言ってるじゃない! 私の気も知らないで、自分の都合ばかり!」 母が声を荒らげると、ケヴィンは母を抱きしめた。いつもの手段だ。サマンサは分かっていた。本当は母だって分かっている。 「そう怒鳴るなよ。疲れてるのか? 普段のお前の頑張りは俺が一番分かってるから」 すると、母は大人しくなった。なぜかケヴィンの肩の上ですすり泣いている。ケヴィンに逆らえない自分が情けないのか、尽くしても尽くしてもケヴィンが誠意を見せてくれないことが虚しいのか。だが、自分にも他人にも厳しい母はこうした自分を受け入れてくれるような言葉に弱い。 ケヴィンはサマンサのことなどそこにいないかのように振舞っていた。いつものことだが。 サマンサは酷くいたたまれない気分になった。 次の瞬間、さらに追い討ちをかけるような言葉を母からかけられた。 「サミー、悪いけどちょっとお父さんのところにいて」 また親子二人話し合える時間が台無しになった。 父は同じモントリオール市内に住んでいるが、もう再婚していて、新しい子供が二人もいる。サマンサとは異母きょうだいになるのだが。 父はあまりサマンサに関心はなく、冷たい。訪ねていっても、「また来たのか」というような顔をされる。再婚相手もあからさまに嫌がるわけではないが、なんとなく歓迎していないような雰囲気だ。きょうだいにもどう接したらいいのか分からず、上手くコミュニケーションは取れていない。 そんなところに母は自分を行かせようとしているのだ。親としては「ちょっと外に出てろ」とは言えないからといって。自分と話し合おうとしたことはもう忘れてそうだ。母は男に依存しているから、男のこととなると理性をなくしやすい。 ――期待させておいて突き放すなんて酷い。ケヴィンがいないときは自分を愚痴吐き要員にするくせに。 サマンサはそんなことを考えながら、マンションの外に出た。外はもう日が沈んで暗く、シンシンと雪が降り続いている。 父のところなど行けない。だが、今は氷点下一〇度を下回っている。マフラーで顔を覆っていないと痛い。 (……ネル) 地面からでは一六階目の窓などほぼ見えない。それでも、この建物の中にネルがいるかもしれないと今自分が出てきたマンションを見上げる。 突き放しはしてしまったものの、ネルのことが頭から離れない。ネルを受け入れてしまったら、自分が自分でなくなるとは思ったが、この心に空いた穴はネルでないと満たせない。そんなことを考えていたら、あることに気がついた。 (……ネルは私のことを受け入れてくれたのに?) そう。ネルはサマンサがつっけんどんな態度を取っても、暗い話しかしなくてもつっぱねたりしなかった。クラスメイトには陰気さから嫌われ、実の母でさえ「お前の話は暗くてつまらない、どうせするなら前向きな話にしろ」と全く聞こうとしないのにもかかわらず。 それでいて「あなたが普通の男の子でなくても好き」だの「あなたのこと何でも知りたい」だの言っておいて、いざ彼が本当のことを話したらつっぱねるなんてあまりに身勝手ではないだろうか? 彼が自分のことも自分の祖母のことも殺すつもりでいたということを告白してきたときはショックだった。 ――しかし、なぜそこでネルは嘘をつかなかったのか? サマンサを利用する気なら、サマンサを騙したいのなら「そんなこと思ってなかったよ」「殺すつもりはなかったよ」と言って誤魔化した方が、都合がいいはずだ。それにネルはサマンサに自分をヴァンパイアだということを隠し通す気があったとは思えない。隠すつもりだったのなら、サマンサが「寒くないの?」と尋ねたとき「そうだね。寒いよ」と言うはずだ。夜中に一六階のバルコニーに現れたりしないはずだ。いずれ自分がヴァンパイアだということをサマンサに明かすつもりでいたのではないか。それが彼なりの誠意だったのではないか。 先程母のことを「期待させておいて突き放すなんて酷い。ケヴィンがいないときは自分を愚痴吐き要員にするくせに」と思ったが、自分だって全く同じことをネルにしているではないか。 (でもネルはヴァンパイアだもの。人間じゃないから) サマンサはそう思おうとしていたが、ずっと何か腑に落ちなかった。 ――「人間じゃないから」? だから何だ? だから何を言われても傷つかないとでも? 何をしてもいいのか? 自分が勝手に「ネルはヴァンパイアだから心を持ってない」ということにしたいだけではないか? そう思えば「自分が」罪悪感を持たずに済むから。ネルをホラー映画に登場するような何の躊躇いなく人を襲い、仲間を増やしていくようなヴァンパイアだということにすれば、酷いことを言うことが正当化されるから。全て自分の都合と気分だ。これでは「アジアンだから」「海外かぶれの感じの悪いやつだから」「ブスだから」と理由をつけて正当化して自分を迫害してきた者たちと同じではないか。なんて卑怯な。 ずっと自分は他人に対してシャッターを下げて自分のことを守ってきた。だが、そのせいで自分に対してばかり敏感になってないだろうか? 母がLGBTや他の国の移民に対して差別的な言動をするたびに「母はなんて他人の傷に鈍感なんだ、自分は被害者にしかなりえないとでも思ってるのか」と思っていた。しかし、自分も同じではないか? (……ネルに謝りたい。許してもらえなくてもいい。罵られてもいい) サマンサは出てきたマンションに戻り、再びエレベーターで一六階へ向かった。 エバはもういないだろうから、ネルが一人でいるのだろう。 ついさっきまでネルが恐ろしくて二度と会うまいと思っていたサマンサだったが、もうネルが恋しい気持ちを抑えられなかった。ヴァンパイアだってなんだっていい。ネルが好きだ。彼になら食い殺されても、ヴァンパイアにされても構わない。もはやそんなことまで考えていた。いや、これがサマンサの受け入れがたかった本心なのだ。 覚悟を決めてネルの家のベルを押す。 『どうぞ』 スピーカー越しに聞こえてきたネルの声。 それと同時に鍵がカチャリと自動で開く。 サマンサが中に入るとネルがリビングのテーブルで何やら箱の中身を広げている後ろ姿が見えた。 「……古そうな箱ね」 サマンサはそう言ってネルの背後に立った。 確かに見るからに古い箱だった。造りはしっかりしているが、百年以上前のものだろう。 アンティークショップにありそうなデザインだ。 「……」 ネルは何も答えずにテーブルの上に広げたものを見つめていた。 「あの、こないだのこと、私の誤解だってわかったの。証拠もないのに思い込みだけであなたを疑ってごめんなさい。冷静に考えたらあなたがあんな悪趣味なことするわけないってわかったの」 サマンサはネルの華奢な背中に向かって謝罪した。 「気にしないで。僕は疑われるだけのことをしているから」 ネルはそう言ったが、まだ目を合わせてはくれなかった。 サマンサもテーブルの上にあるものに目を向けていた。 セピア色の写真が一〇数枚ほどとヴィンテージものの指輪やブローチ、ロケットペンダントなどがあった。ブローチは遺髪が組み合わされているものがあった。そのうちのひとつには”Le 5 juin 1865”(1865年6月5日)と記してあった。多分没年なのだろう。 「ねえ、この写真、見てもいいかしら」 サマンサがそう尋ねるとネルは黙って頷いた。 すべて古めかしい写真だが、その中で一番新しそうな写真に手を伸ばす。そこには今と全く変わらぬ姿のネルが一〇代半ばくらいの少女と並んで映っていた。一応カラーだが、色褪せ具合からおそらく三〇年くらい前の写真だ。 「……ん? ……えっ……この子って……」 サマンサはその少女の顔に見覚えがある気がした。 (……エバ?) サマンサは察した。これらは全てネルを匿ってきた者たちがネルと撮った写真であり、ネルに贈ったものだと。写真を一通り見ると、老いも若きも男も女もいる。圧倒的に少女との写真が多いが……。 全員ネルに食い殺されたのだろうか―― そう思うと背筋が寒くなるのと同時に少し羨ましいと思ってしまう。 次はセピア色の写真を手に取った。一〇歳くらいの黒髪のおかっぱの少女とやはり今と変わらぬ姿のネルが写っている。 (……え? 日本人?) 写真を裏返して裏面を見る。そこには…… Cynthia Fusae 1947 とあった。 「えっ。Cynthiaっておばあちゃんの名前……」 ネルは何も言わずテーブルの上ばかり眺めている。 ネルは祖母のことを食い殺していなかった。だから今ここにサマンサが存在している。 「……おばあちゃんのことも食い殺すつもりだったんでしょ? 殺さなかったのはなぜ?」 「……殺せなかったんだ。彼女のことだけは」 どういうことだ? サマンサが首を傾げていると、ネルは続けた。 「彼女、僕の前で首筋を切って自分のをやるからもう人殺しはしないでくれって言ってきたんだ。これ以上人が死ぬのを見たくないって」 サマンサは祖母がどんな人間だったかを思い出していた。明日命あることが全く保証できない時代を生きてきた彼女は生き抜くことにとても執着があった。確かにネルのように人の心を捨てきれないヴァンパイアにとって、そんな人間は殺しにくいだろう。 「……それからもう彼女とはもう会えなくなったよ」 ネルは淡々とそう言った。 サマンサはただただネルが気の毒になった。 死ぬことができないネルはずっと「見送る」か「去る」ことしかできなかったのだ。 「……ねえ、ネル、私をヴァンパイアにして」 サマンサがそういうと、ネルはやっとこちらを見た。 「……は?」 今までに見せたことがない表情だった。 「絶対許せない言葉」を言われたときの顔にも見えた。 「……私もあなたと一緒に生きていきたいと思ってたけど、私が人間のままだったらいつかまたあなたは孤独になるのは間違いないじゃない。あなたを孤独にしたくないのよ。私がヴァンパイアになればずっと一緒にいられ……」 サマンサが言葉を切ったのは、ネルがその胸ぐらを掴んだからだった。 「ネル!?」 ネルは表情を変えることなく、片手でサマンサをリビングの隅にあるベッドに叩きつけるように放り投げた。 「きゃっ!!」 すごい力だ。細身の彼にこんな力があるわけない。やはりネルは人間ではないのだ。 このベッドはエバが使っていたもので、ネルはそこでは寝てないのだろう。かなり埃を被っていた。サマンサが投げ飛ばされた衝撃で埃が舞う。埃を吸い込んでしまい、むせるサマンサ。そこにネルがにじり寄ってきた。むわむわと埃が舞っているのに、彼はむせる気配すらなかった。氷を見るような目でサマンサを見据えながら立っているだけだった。なぜ彼が埃にむせないのか? ――彼は普段から呼吸などしていないのだ。する必要がないから。 「……そんな馬鹿なこと、二度と言わないで!」 突き刺すようにそう言うと、ネルはスタスタとバルコニーへ出た。そしてなんと、手すりの上にひょいと昇るとそのまま下へ飛び降りたのだ。 「!?」 くどい様だが、ここは一六階だ。普通の人間がバルコニーから飛び降りたら命はない。ネルが人間ではないとわかっていてもドキリとしてしまう。 同時に、サマンサは改めてネルがヴァンパイアだと言うことを思い知らされてしまった。 今までは「自分をヴァンパイアだと思い込んでいる頭のおかしい奴」という可能性も残されていたのだ。 だが、これだけのものを見せられたらもう認めざるをえなかった。 家を飛び出したネルは、街中のベンチでカモを待っていた。この頃二日に一人のペースで血を吸っても足りない。以前は一週間に一人くらいで十分だったのに。何故こんなに飢えているのかというと、春から冬至のちょっと前までずっと休眠していたからだ。 ここ二年流行病のせいで人間たちの行動、特に夜間の外出に規制がかかり、「狩り」ができる時間が以前より短縮されてしまった。だから日が長い春から夏は休眠するしかなかった。ヴァンパイアは休眠後、極度の飢餓状態になる。休眠から目覚めたのは一ヶ月前。以前はケベックシティにいたが、そこでは散々事件を起こしてしまったので、もう引越しするしかなかったのだ。そして七〇年ぶりにこのモントリオールに戻ってきた。 エバがいた頃は彼女が家に連れてきた客や仕事仲間を餌食にすることもできたが、もうエバはいない。 冬場のモントリオールの夜は早い。一七時にはだいたい日が沈む。だが、外出が禁止される二〇時までの三時間で「狩り」を済ませなければならないことになる。 流行病などヴァンパイアには関係ない。ヴァンパイアは病気にならないから。 だが、「狩り」ができなくなるのは死活問題だ。血を手に入れられなくなれば、炭になって死んでしまう。どうしても生きたいわけではないが、苦しみながら死ぬのは怖かった。ヴァンパイアが不老不死というのは人間のように老衰や病気で死ぬことはないというだけだ。特定の条件下では死ぬ。 百年ほど前、ネルはロンドンで同類たちに会ったことがある。そのとき、自分たちの仲間は沢山いるのかと尋ねた。するとこう言われた「少ないよ。遅かれ早かれだいたい自殺するから」と。だが、ネルにとってその言葉は救いでもあった。死ねるのかと尋ねたら「ものすごく苦しいけど太陽光で自分の体を焼くか、誰かに木の杭で心臓を突き刺して貰ってそのまま焼いてもらえばいい」と返ってきたのだ。 ――神様、どうして僕は生きることが許されないのですか―― ――本当はわかっている。とっくの大昔に死んでいたはずの存在だからだ。 家を飛び出したのはサマンサに無神経なことを言われたからではない。サマンサと一緒にいたら彼女を襲ってしまいそうだったからだ。歳が若い者の血は美味しい。特に若い女の血はだいたい美味でヴァンパイアにエネルギーを与えてくれる。だが、サマンサを食い殺すわけにはいかないのだ。最初モントリオール地下街で出会った時は食い殺すつもりで声をかけたが、サマンサはもう「恋人」だから。 「ん? どうしたあんた。そんな薄着で。死ぬよ?」 偶然にも声をかけてきたのはケヴィンだった。 (こいつサミーの母さんの……) ケヴィンはネルを知らないが、ネルはケヴィンの顔を知っていた。サマンサの家を訪ねて来る者はだいたいチェック済だ。 「顔色も悪いし、すごい震え方じゃねーか」 顔色が悪いのはいつもの事だし、震えてるのは寒いからではない。ヴァンパイアは寒さを感知しないから。震えているのは酷い渇きからだ。 「家から逃げてきたんです。お父さんが嫌なことをして来るから」 「嫌なこと?」 「体を触ってきたり、服を脱げって言ってきたり、変なところを触れって言ってきたりするんです」 「ほー、そりゃ気の毒に。俺ん家に来るか?」 ネルはしめた、と思った。見るからに「不味そうな」奴だ。食っても大してエネルギーにはならない。だが、切羽詰まってるときに贅沢は言ってられなかった。こうしていたら公衆の面前で誰構わず襲ってしまう。ネルはわかっていたのだ。こういう倫理観のなさそうな奴にはどういう風に言えば家にあげてもらえるのか。 ケヴィンと一緒に地下鉄に乗り、彼の家へ向かった。降りたのはCôte-Vertu駅だ。ここら一帯は移民や低所得者が住むエリアと言われていた。だからと言って治安が悪いわけではないが、サマンサが暮らしているエリアと比べると大分雰囲気が違う。ケヴィンの家の中はいかにも理性がない奴のいる空間と言った感じだった。物が散乱し、タバコの吸殻は溜まりに溜まっていた。テーブルの上は酒瓶だらけだった。サマンサの母が定期的に片付けに来てやっているらしいが焼け石に水らしい。 ――サマンサの母のようなできる女性がどうやってこんなクズ男に出会ったのだろう。 そんな疑問が湧いてくる。 ドアが閉まるのと同時にケヴィンはネルの背中に抱きついてきた。 「なあ、今日全然いい女捕まらなかったんだよ。泊めてやる代わりにいいだろ……? どうせ慣れてんだろ? 俺あんたくらい綺麗なら男でもいいわ」 ネルはこうなることを分かりきっていたので、冷静な態度だった。 「いいよ」 「いやー、一応五〇くらいの女と付き合ってるんだけどさあ、更年期かなんか知らねーけど、ヒステリックで付き合いきれねーんだわ。小遣いくれなきゃ、誰があんなババア相手にするんだか。金のためにババア抱くのもだりーから、なるべく抱かずに済むように交わしてやってるんだわ」 電気を消し間接照明のみに照らされた部屋。枕元でタバコをふかしながら、グチグチと語るケヴィン。 ネルは黙ってそれを聞き、ケヴィンに背中を向けて服を脱ぎ、全裸になる。そしてベッドに寝そべっているケヴィンの隣に潜り込むと「さあ、やれ」と言わんばかりに仰向けになった。 すると、ケヴィンはげんなりしたような表情を見せた。 「おいおい、そんなダッチワイフみたいな態度取られちゃ面白みがなくなっちまうじゃないか。あー萎えた。景気づけになんか面白い話でもしろ!」 「……面白い話?」 「なんでもいい!」 投げやりな態度でタバコに火をつけるケヴィン。 ケヴィンに言われるまま、ネルは静かに語り始めた。 「……むかしむかし、とある貴族の一家がありました。一家の存続のためには跡継ぎが必要でしたが、生まれるのは女の子ばかりでした。『次こそは男の子を』という思いを込めて、お母様は一〇回目の出産に挑みましたが、またもや生まれたのは女の子でした。それからというもの、お父様は『女腹の役立たず』とお母様に冷たく当たり、外にお妾さんを沢山つくるようになりました。その影響か何かはわかりませんが、娘たちは皆お母様を守ろうととても気丈に育ちました。特に末の娘はまだちゃんと歩くこともできないころから男の子のように振舞っていました。男の子のように話し、男装を好むだけでなく、心の底から自分を男の子と思っているようでした。一四歳の時に初めて月のものが来ましたが、その日は絶望感で一日中泣いていました」 ケヴィンはタバコを吸う手を止め、不快そうに顔を顰めるとネルの方に向き直った。 ネルは続ける。天井に向けたままの藍色の瞳が闇の中で艷めく。 「姉たちが次々と嫁いでいく中『これでは嫁の貰い手がないのでは』と屋敷中の者が心配していました。しかし一五歳の春、末娘は肺病にかかりました。当時肺病は死の病として恐れられ、かかった者はほぼ助かりませんでした。末娘の病状は日に日に悪くなり、いつ死んでもおかしくありませんでした。お父様は『厄介な奴が死んでくれれば助かる』というような態度で、姉や使用人たちも『もう助かるまい』と末娘の快復を諦めていました。ですが、お母様だけは諦めきれず、末娘のために黒魔術にまで手を出していました。お母様は黒魔術師に頼んで悪魔を呼び出し『娘の病気を治して欲しい』とお願いしました。その願いを聞き入れた悪魔は瀕死の末娘をヴァンパイアとして蘇生させました。娘が快復したことに喜ぶものもつかの間、極度の飢餓状態だった末娘はお母様を食い殺してしまいました。ヴァンパイアになった末娘はとても残酷でした。お母様を食い殺しただけでは飽き足らず、お父様も家に残っていた姉たちも、使用人まで、その屋敷にいた者全員殺してしまいました。騒ぎを聞きつけた近隣住民の通報を受けて憲兵たちが屋敷に向かったところ、末娘の姿はもうどこにもありませんでした。それから二〇〇年以上経ちましたが、末娘の行方は未だにわかっていません」 話終えたネルがケヴィンの方を見ると、露骨に嫌な顔をしていた。 「なんだって悪趣味な話だな。ますます萎えるじゃねーか。あんた、わざと俺を萎えさせようとしてんのか?」 ネルは天井に視線を戻し、応えない。 「ほー、無視か。なんだか一周回ってそそってきたなあ」 ケヴィンはそう言ってブランケットの下にあるネルの体に触れてきた。ネルは全くの無抵抗だ。 「てか、その末娘っちゅうのも、男とセックスしたら自分が女ってことを自覚したんじゃねえのかなあ。いくら男だっつってもついてるもんはついてるんだから……!? ……あんた……」 ケヴィンはネルの体に触れ、「ある事」に気がついたらしい。 ここでようやく口を開くネル。 「おじさん、あんたの言うこといちいち癪に障るよ」 ネルは抑揚のない口調でそういうと、すばやく起き上がりケヴィンの両肩をガッと押さえつけた。その動作も明らかに人間にはできない動きだ。 「なっ……!! 何をするんだ!?」 ひ弱そうな見た目からは想像もつかない怪力に動揺するケヴィン。先程まで碧く見えていた瞳が緋く光っていた。そして、獣のような牙が見える。 (なんだこいつ!? 人間じゃないぞ!!) そいつはケヴィンの上にのしかかると、勢いよく喉元に噛み付いてきた。首筋に生温かい感覚と何が刺さる感覚。もう終わりだ。 「うわああああああああっ」 この世の終わりのような悲鳴をあげ、ケヴィンは動かなくなった。 「……うっ……ぐっ……」 だが、ネルは割とすぐ口を離した。 「見るからに不味そうな奴」とは覚悟していたが、予想を軽々と超えていたからだ。 ネルは体を縮めて吐き気を堪えるのに必死だった。 (この腐ったような味……性病だ! こいつは複数の性病を持っている!) 噛み付いている時間は短かったが、ケヴィンは既に絶命していた。ネルは平均的な成人男性の血液であっても七秒あれば吸い尽くせるのだ。酷い味だったが、渇きは治まった。何はともあれ、こいつの頸を折らねば。ネルはケヴィンの白髪の混じった栗色の頭を両手で持つといつものようにバキッと頸を折った。 「うるせーな!! 何時だと思ってるんだ!!」 「静かにしろ!!」 両隣から怒鳴り声とドンドン壁を叩く音が聞こえる。 血まみれの体を拭うこともせずに服を着ると、サマンサの待つ自宅に戻るため、ケヴィンの家を飛び出した。 「おい!! そこのお前!! 二〇時以降は外出禁止だぞ!! 何をやって……ん?」 「どうした?」 パトロール中の警官が、拡声器越しに叫んだ同僚に話しかける。外出禁止令を破って出歩いている者がいないか、見回っていたのだ。雪と氷に閉ざされ、さらに人気もなくなって寂しさと冷たさが増したこの古い街を。 「い、いや、あの街灯の上に今、人が立ってなかったか?」 「馬鹿言えよ、あんなところに登れる奴なんかいるもんか」 「……そ、そうだけど、確かに、あ!!」 今度はケベック州で一番高い建物である1000 ドゥ・ラ・ゴシュティエールを双眼鏡越しに見ると、指さして叫んだ。 「なんだよ」 「い、い、今あそこに……」 怯えた様子の同僚を見て不審に思い、彼もまた双眼鏡を使って覗き込んで見る。 ――そこには1000 ドゥ・ラ・ゴシュティエールの中間地点のような場所の縁に腰掛けるアッシュブロンドの少年がいた。なぜかその口周り、両手、白いブラウスやベスト、スボンに至るまで血まみれだった。警官の視線に気がついたのだろうか。こちらを見てにこりと微笑んだと思うと、まるで床の上を駆けるように、ビルの壁の上を走って降りていった。 「……」 衝撃のあまり、口がきけなくなった警官。 「あれは多分悪魔か死神だ!! あんなもの見るなんて、俺は近々死ぬ運命なんだ!!」 サマンサは泊めてもらうお礼にネルの家を掃除した。最も勝手に泊まろうとしているだけなのだが。埃だらけだったエバのシーツやブランケットも洗濯し、乾燥機にかけた。冷蔵庫の中のものは腐ったパンと牛乳とチーズが入っていただけだったので、全て捨てた。ネルは人間の血以外のものは受け付けないので、全てエバのものだろう。 (また無神経なこと言ったものだわ…………私も) サマンサは先程の自分の発言を反省していた。ネルはおそらく望んでヴァンパイアになったわけではない。 『惰性と生存本能だけで生きている』というネルの言葉を思い出す。ネルはずっと長い間、苦しんでいたのだろう。ヴァンパイアとして生きる羽目になったことに。人を食い、一五歳の体のまま永遠に生きなくてはいけなくなったことに。何も知らない人間、しかもたった一五歳の小娘に「ヴァンパイアになりたい」なんて言われたらそりゃ激昂するだろう。 (とことん私って最低……。散々差別やいじめを受けてきたはずなのに他人に対する想像力は全くないのね。やっぱり他人との関わりを徹底的に避けてきたからだね。いつでも一人で生きてる気分になってたから。これじゃあ母さんを批判できないし、あからさまに悪意ありありのマディソンたちより酷い) 二二時を回っても、ネルは帰ってこなかった。サマンサはエバのベッドで先に寝ていることにした。 (二〇時以降は外出禁止よね? 大丈夫かな、ネル。まあ、人間じゃないから大丈夫か) ネルが帰ってきたのは深夜〇時頃だった。 玄関からではなく、またバルコニーの窓から入ってきた。 ――血まみれで。 髪と肌の色素が薄い彼には血の色がとても映えて見える。雪の上に血飛沫が舞うように。 サマンサはネルがヴァンパイアだという現実を再び突きつけられ、胸が張り裂けそうになる。 「お帰りなさい、ネル、さっきはごめんなさい。私、無神経だった。というか、それだけじゃないね。散々あなたを試して傷つけてごめんなさい。彼女なのに、ね」 「……シャワー浴びてくる」 ネルはそれだけ言うと、奥のシャワールームに消えていった。 ネルがシャワーを浴びている間、サマンサはSpotifyで日本の歌謡曲を流していた。サマンサは自分がルーツを持つ日本の文化を愛しているが、特に音楽が好きだった。一音一語の日本語は一つの音に二つ以上の音を乗せられる英語やフランス語とは違った美しさがある。戦前からカナダにいる日系人たちの三世以降はだいたいが日本語を話せない。二世までに散々差別を受けてきたゆえに、もう日本語自体が恥になってしまっていたのだ。だが、祖母は両親の祖国である日本と日本語を愛し、日系人であることをアイデンティティにしていた。多くの日系人が日本語を捨てる中、自分の子どもや孫に日本語を教え、日本の文化を教えた。サマンサも祖母の影響で日本の歌謡曲を聞いて育った。 サマンサのお気に入りは「春よ、来い」だった。モントリオールはとにかく冬が長く、夏が短い。日本ほど四季がはっきりした国はないと、日本人は自負している。しかし、サマンサはモントリオールに住んでいる間の方がより春を待ち遠しく思っていた。そして春の訪れにより大きな喜びを感じる。幼い時から長い冬の間はこの曲を聴きながら、春の訪れを心待ちしていた。 シャワーを浴び終えたのか、ネルがガウンを着てリビングに現れた。アッシュブロンドの髪が濡れてさらに輝いている。その髪をタオルで拭きながらサマンサのほうへ近づいてきた。 「いい曲だね。言葉はわからないけど」 「春への思い入れを歌った歌だよ。日本人にとって春は出会いと別れの季節なの」 「出会いと別れか……」 ネルがどこか意味深に呟く。濡れた金髪と水滴の滴る首筋、鎖骨周りが酷く扇情的だ。 「……」 彼のそんな姿を見て、何だか気まずくなってしまうサマンサ。ガウンの下は何も着てないのだろうと思うと目のやり場に困る。くるりとダンボールを貼った窓の方に体を向けてネルを視界に入れないようにしてしまう。 するとネルはサマンサと窓の間に入り、貼り付けてあるダンボールに手をかけた。 「この街は夜景が綺麗なのに、ずっと貼りっぱなしは勿体ないよね」 「……大丈夫なの?」 「まだ朝までは時間があるから」 どうやら梱包用のテープで貼り付けてあるらしい。ネルはそのテープを丁寧に剥がし、降ろしたダンボールを、隣の窓に立てかける。 ――モントリオールの壮大な夜景が姿を現した。東京やニューヨークと比べると高層ビルが少なく、上品で落ち着いた夜景を見せてくれるこの街。……まるでネルみたいだ。 「ここ数十年、夜の世界も昼間みたいに明るくなったよね」 ネルが複雑そうにつぶやく。たとえ太陽光でなくても光は苦手なのだろうか。それとも少しは光の世界を恋しく感じてるのか。 (……ネルはいつもこんな夜の街を飛び回っているのかな) そんなことを考えながら、自分の生まれ育った街の夜景を見下ろす。 「サマンサ」 ネルはそんなサマンサの後ろに立つと、その両肩に手を置いた。ヴァンパイアにも血は通っているので温かい。 「………っ」 そのときサマンサはあることに気がついた。 窓ガラスに映っているのは自分一人だった。振り返るとネルが微笑んで立っている。また窓ガラスに視線を戻す。自分の後ろには誰もいない。また振り返るとネルがいる。 「………」 もう分かりきっていることだが、この現実はサマンサの胸に鈍い痛みを与えた。 ネルもサマンサが何を思っているのか分かっているのだろう。憂いを携えた微笑みを浮かべただけで何も言わなかった。 「こっちを向いて」 ネルはサマンサの両肩を掴むと、くるりと窓から自分の方を向かせた。 「……ネル?」 ネルがサマンサの目を真っ直ぐ見据えた。そしてガウンの帯にその白く骨ばった手をかける。 「見て、僕の体」 ネルはそう言ってガウンの帯を解こうとする。 サマンサは嫌な予感がした。 「やめて!! 私に見せないで!!」 サマンサは首を横にふりながら、後ずさりした。といってもすぐ後ろは窓なので、後ろ手を窓枠の上に置くしかない。 ネルは淡々とした口調でこう言った。 「Non.君には見る義務があるよ。僕と一緒に生きていくんでしょ?」 「……」 それもそうだと、サマンサは黙り込む。さきほど自分ばかり守って生きてきたことを反省したばかりだったのだ。 ネルが帯を解き、ガウンの袖を抜くと、下に落とした。 「……………………!!」 ネルの白く、細い肢体が顕になる。少し違和感があるほど細長い首と手足、くびれたウエスト、縦に割れた腹筋……そこまでは問題なかった。 ややあばら骨が浮いた胸にはわずかながらも膨らみがあった。そして脚の間には……ペニスはなかった。「見ろ」と言われても他人の陰部などそうジロジロは見られない。だが、ペニスがないことだけは明らかだった。 サマンサは頭が真っ白になった。どういうことだ? ネルは……男ではないのか? でも自分はネルが好きで一緒に生きていこうと思ったのだ。 「……何? 一体あなた何者?」 サマンサはネルから顔を反らせて言った。 「……『君たち』と大して変わらない生き物だよ」 ――「どこが?」と尋ねる気にはなれなかった。 ネルは何も言えずにいるサマンサの頬に手を添えた。 「ちょっと僕になってみてよ」 そう言うとネルは唇を重ねてきた。 それに驚く暇もなく、サマンサの意識は別世界へ飛んでいった。 夢の中では酷く喉が乾いていた。目を開けると、立派な天蓋付きのベッドに寝ていた。目の前で女性が泣いていた。ネルと同じアッシュブロンドの髪……。この女性が誰かサマンサはわかる。 「よかった……!! ネル……!! 治ったのね!!」 女性が泣きながらサマンサに抱きつくとそう訴えてきた。 (喉が乾いた……) だが、この乾きは水では癒せないのが本能的にわかっていた。それから何で癒せるかも。 目の前にいる女性からこの世の潤いと美味を詰め合せたような匂いが漂ってくる。だが、「それ」だけは絶対してはいけない。しかし…… 「ネル? どうかしたの?」 自制するより先にサマンサは女性の首筋に噛み付いていた。女性が絹を裂くような悲鳴をあげる。その悲鳴を聞きつけた人々が部屋に飛び込んでくる。 「どうしましたか!? 奥様!!」 もう女性はサマンサの腕の中で絶命していた。取り返しのつかないことをしてしまったという絶望感を覚えながらも、まだ渇きは治まらなかった。 「エレンさま……っ!!」 気がつくと、部屋に飛び込んできた人々にも次々と齧り付いていた。屋敷中に悲鳴が響き渡る。 白い寝巻きは真っ赤になっていた。自分でも何が起こっているかわからない。だがまだまだ渇きは治まらず、ゾンビのように屋敷中をうろつきながら、獲物を探していた。 「ネルっ!! どうしたのっ!! 血まみれじゃない!!」 広い廊下の向こう側から女性が驚いた形相で駆け寄ってきた。その女性はまるで少女だった。せいぜいサマンサと同じか少し上だろう。この女性のこともサマンサは知っていた。 (もう無理!! もう無理!! 止めて!! 誰か止めて!!) そう心の中で叫んだ瞬間誰かに手を握られるような感覚がして目が覚めた。サマンサはベッドの上にいた。傍らではネルが涙なしで泣きながらサマンサの手を握っていた。 「……ごめん。こんなもの見せて悪かった」 「……」 肩を震わせながら泣くネルを呆然と見つめるサマンサ。 泣いている……? けど涙は出ていない。 一瞬サマンサは、泣き真似で自分を惑わそうとしているのか、と思った。……しかし、勝手な先入観に突っ走らず一度立ち止まって考えることにした。 そもそも涙が流せないのをわかっていて、泣き真似してみせるほどネルは浅はかな奴だろうか? それに泣き方が綺麗ではない。咽び泣くような感じだ。同情を買いたいのなら綺麗な顔を崩さないように泣くだろう。 サマンサは悟った。きっと神はヴァンパイアから涙を取り上げたのだろうと。彼らはもう人間を捨てたから、その罰として。 「……過去の恋人たちにも見せたの?」 「いや、君だけだよ」 「……なぜ?」 「君なら離れていかないと思ったんだ。本当のこと知っても」 「……」 ネルがヴァンパイアだということはなんとか受け入れられた。だが、今サマンサはネルが男性ではないということが引っかかっていた。 (ネル、女の子なのよね……。でも『どっちでもない』って言ってたっけ? いずれにしろ男の子ではないってことには変わらない。でも私は男の子が好きだし……。だけど、私はネルと同じベッドで並んで寝て、キスまでしてしまった) サマンサは自分にショックを受けていた。今やネルがヴァンパイアだということより、男ではないことに悩んでいるなんて。母がLGBTに対して心ない発言をしたときは不快になったのに。 (そもそも男でも女でもないってどういうことなんだろ……) だが、よく考えてみればヴァンパイアに性別など無意味なのかもしれない。あらゆる生き物に性別があるのは子孫を残すためだ。なぜ子孫を残すのかというと、自分の命が限られているからだ。自分たちの種を残すために子どもを産むのだ。ヴァンパイアは死なない。老いない。そして血を吸うことで仲間を増やす。だから生殖する必要はないし、性別などいらないのだ。 それから、二人はベッドに並んで横になった。大きな窓に貼られたダンボールの隙間から月明かりが漏れていた。 サマンサはちらりとネルに目をやる。彼は大きな藍色の目を天井に向けてぼんやりとしていた。さすが夜行性だけあって眠くはないようだ。サマンサもまだ眠れなさそうなので、話しかけてみることにした。 「……ねえ、『銀河鉄道の夜』はもう読み終わったかな?」 「Oui, 読み終わったよ。悲しくも美しい話だった」 「日本の学校に通ってたとき、美術の授業で『銀河鉄道の夜』をテーマに絵を描いたの。皆ジョバンニとカムパネルラが二人揃った絵を描いてたのに、私はジョバンニの視点でカムパネルラを描いてたの」 「……」 「私、ジョバンニにすごく感情移入してたんだと思う。私も彼と同じように孤独だったから。そして『私のカムパネルラはいつ現れてくれるんだろう』って思ってた。孤独でいいって開き直ってたけど、やっぱり受け入れてくれる人が欲しかったんだろうなあ」 「……僕はカムパネルラみたいに人のために生きて死ねる人間になりたかったって思ったよ。……もう人間じゃない僕が言うのも変だけど」 「あなたも元々は人間だったんじゃないの?」 「……まあね。でも人間だったのははるか昔、それも一五年だけで、もうヴァンパイアのほうがずっっと長いから」 「そんなに年寄りなの?」 「……生まれたのは二一五年前かな」 ネルはサマンサの方に顔を向けて微笑んだ。暗闇に藍色の目が艷めく。 「……」 予想はしていたものの、あまりにあまりな自分との年齢差に黙り込むサマンサ。 (でも、やっと見つけた。私のカムパネルラ) たとえ人間でなくても、「他人のために生きて死ぬ」どころか人を食らって生きるモンスターだとしても、ネルはサマンサのただ一人の「人」だ。そして、二人で「本当の幸い」を探す旅に出たかった。 「サミー」 ネルがサマンサの体に腕を回してきた。 「……っ」 サマンサの体に緊張が走る。 (いや、まだそんな。まだ早いよ。それに……) サマンサは宗教上「そういうこと」に関してはやや潔癖だ。だが、戸惑いが隠せないのはそれ以外にもう一つの理由があった。 ネルはそんな彼女の心理を読み取ったのか、愛しげにクスリと笑うとサマンサに軽く口づけを落とした。そして固くなっているサマンサを安心させるように”Bonne nuit”と囁いた 翌朝。 この日学校は休みだった。サマンサは身支度を整えると、外へ朝食を食べに行こうとした。ネルの部屋には食べ物はないから。 (久々にティム・ホートンズにでも行こうかなあ) そのときテーブルに置いてあったスマホが鳴った。 アニからだった。 『サミー? ねえ、今度は中年男性が喉を裂かれて殺されたんだって! 今まで若者ばかりだったのに! また近所だよ! 私もう怖くて外歩けない! 今ニュースやってるから見て!』 「う、うん、わかった」 ネルの部屋にテレビはなかったので、ネットニュースを探した。 連続殺人事件 またもや新たな被害者が 今度は中年男性 犯人像未だ掴めず 被害者の名前を見るやいなや青ざめるサマンサ。 そしてまだベッドで寝ていたネルの方を見る。 「……っ!」 ――心臓が止まるかと思った。いつの間にかネルは起きて体を起こしこちらを見ていたのだ。その目が冷たいこと。 「……今電話してきた奴、僕気に入らない。そいつの血はあんまり飲みたくないな」 今まで出したことがないであろう、地の底から這い上がったような低い声。 「……ネル、あなたがケヴィンをやったの?」 ネルは冷たい目をするだけで応えなかった。 「どうして……どうしてなの。私を愛してくれる人はケヴィンだけだったのに……」 警察から重要参考人として長時間の事情聴取を受けた母は、テーブルに突っ伏して泣いてばかりだった。 (『私を愛してくれる人はケヴィンだけだったのに』なのね。ただ愛されたいだけなのかな。愛されてたと思ってたから愛してたつもりだったのかな。ケヴィン自身が好きだったわけではないのね) 母の言葉態度に思うところがないわけではないが、心の支えを失って絶望する姿はさすがに気の毒に思えた。 だが言えるわけがなかった。「ヴァンパイアがケヴィンを殺した」だなんて。恋人のネルを庇いたいからというのもあるが、そんなこと言ったところで「ヴァンパイアなんているわけない、こんなときに馬鹿なこと抜かすな」とキレられるか、狂人扱いされるだけだ。 「……前から思ってたけど、絶対犯人は隣の奴よ。あいつの他にいるわけないわ。刑事さんだって言ってたのよ。昨日血まみれでフラフラ出歩くアッシュブロンドの悪魔を見た警官がいるって」 母が低い声で唸るように言う。サマンサはその言葉を聞いて血の気が引いた。 (何やってんの、ネル……ッ!!) 「……悪魔だろうが死神だろうがヴァンパイアだろうが、許さない!! 私がこの手で殺してやらないと気が済まない!!」 母はそう叫ぶとホームセンターかどこかで購入してきたらしい木の杭と、工具箱を持ち出して玄関へ向かった。 「ちょっ……!! どこ行くの母さん!!」 「決まってるでしょ!! あいつのところよ!!」 サマンサは母の腕にしがみついて止めようとした。 「ダメよ! 母さん殺されちゃうよ!?」 「構わないわよ!! 刺し違える覚悟くらいできてるわ!!」 絶対そんなことあってはならない。そんなことになったらおしまいだ。しかし、母は一度暴走すると絶対止められない性格だ。だが止めないわけにはいかない。 「やめて!! 本当にやめて!!」 サマンサはますます強く母の腕にしがみつくが、母は「うるさい!! そもそもあんたがあんなのと仲良くするから、あの化け物も調子に乗るのよ!!」と言って娘を振り払うと、ズカズカと隣のネルの部屋へ向かった。 母はドライバーでネルの部屋の鍵を壊し始めた。まるで八つ当たりするように鍵穴にドライバーをガシガシと突き刺している。 サマンサは母の背後でオロオロすることしかできない。ネルはスマホを持ってないので逃げろと連絡することもできない。 とうとうネルの部屋の扉の鍵が壊れた。母は乱暴に扉をバッと開けると、中にズカズカ入り込んだ。 「何も見えないじゃない!!」 窓にダンボールを貼っているので当然だ。母は電灯のスイッチを乱暴にダンっと叩いた。殺風景な部屋が人工の光で照らされる。ネルはリビングにはいないようだ。 母とサマンサは奥に進んだ。母がバスルームのドアに手をかける。 「チッ! また鍵がかかってる!!」 母はまたドライバーを取り出すと鍵をぶち壊した。 サマンサはやばいと思いつつもどうしたらいいかはわからない。 二人がバスルームの中に入ると、大きなバスタブは真っ赤な血で溢れていた。 「……なによ、気持ち悪いわね」 かなり強気だった母もさすがに少し怖くなったのか、声が震えていた。 母が思い切ってバスタブの栓を抜く。ゴボゴボという音と共に血が排水溝に吸い込まれる。サマンサと母は緊張した面持ちでその様子を見ていた。 「……!!」 血の海の中で眠っていた者がいた。ネルだった。バスタブの中の血が全て排水溝の中へ消えたとき、彼が目を覚ました。血まみれの体をゆっくりと起こす。あれほどいきり立っていたというのに、その姿に戦慄してしまったのだろうか。母は木の杭を持ったまま固まってしまっていた。 「どうしたの? そんなもの持って。僕を殺しにきたの? いいよ! 殺して!」 血まみれで牙を見せつつ笑いながらそんなことを言う様はまるでスリラー映画に出てくるモンスターだ。 母は震えながらも木の杭を振り上げる。 「やめて……本当に二人とも……」 サマンサはか細い声でそう言うのがやっとだった。足に根が生えたように動けない。 「あんた……よくもケヴィンを……」 母が恨みたっぷりの声でそう言うと、ネルは笑顔を崩さずにこう言った。 「ケヴィン? ああ! 君の恋人? あいつすごく不味かった! 血を吸った瞬間吐きそうになったよ」 (バカッ!! なんでそんな煽るようなことを言うの!!) サマンサは心の中でそう叫んだ。 案の定、母の顔が怒りで真っ赤になる。 「死んで!! あんたなんか死んで!!」 母が木の杭を勢いよく振り下ろした。サマンサは見ていられず目を瞑った。 (もうおしまい……!!) だが、悲鳴をあげたのは母の方だった。 恐る恐る目を開けると、母が喉から血を流して倒れていた。 ネルの胸元には木の杭が刺さっているが、彼は少しも痛そうではなかった。 「外れたね」 そう言うとバスタブから立ち上がり、自分に刺さっている杭に手をかけるとグイッと抜いた。傷口から血が吹き出す。 「ひぃっ……!!」 その様子がホラー映画さながらで、放心状態のサマンサも思わず声をあげてしまう。 「……また死ねなかったなあ……」 ネルは倒れている母の元にしゃがむと、その頭を両手で持ってバキッと頸の骨を折った。彼がシャワーで体に着いた血を流すと、胸元の傷は綺麗に消えていた。 呆然と立ち尽くしたままのサマンサの方へ歩み寄り、その頬に触れる。 「君もこんな風に生きたい? 僕は選べなかったけど、君は選べるよ」 サマンサは何も答えられずに恐れおののくしかない。 「……死んでもやだよね。やっぱり一緒に生きるなんて無理だろ? 僕は自分の家族も君の家族も殺したし、もしかしたら君のことも殺すかもしれないし」 ネルの手がサマンサの頬に伸びる。 「君は自分で思ってるよりも魅力的だよ。僕の愛しいサマンサ」 ネルはそう言うと唇を重ねてきた。こないだより情熱的なキスだった。若干血の味がするキスだった。 「じゃあ、僕もうここにはいられないから。今までありがとう。愛してたよ。adieu.」 その後、サマンサは警察の事情聴取を受けたが、「何も覚えていない、頭が真っ白で何も思い出せない」と言うしかなかった。 「ヴァンパイアが母を殺しました」なんて言っても気が狂ったとしか思われない。 万が一、誰かが信じてしまったとしたら、教会のエクソシストたちが銀の弾丸の入った銃と十字架を持って、ネルを探し回るかもしれない。そんな事態にはなって欲しくなかった。 サマンサはネルを憎もうと思った。いくら仲がいいとは言えなかったとはいえ自分の肉親を殺したネルを。……だが、憎みきれなかった。 (……許せないけど……ネル、あなたを憎めない。どうして私も殺してくれなかったの) こんな状況に放り出されるくらいならいっそ母と一緒に殺されたかった。以前ネルは「僕を受け入れないなら殺してくれ」と言っていたが、それだったら一緒に死んでやるのに。 母を亡くしたサマンサは父親の元で暮らすことになったが、想定していた通りの生活になった。相変わらず父はサマンサに無関心だった。義母ときょうだいは穏やかな性格なので、あからさまにサマンサを追い出したそうな態度はとらなかった。しかし、自分だけ仲間はずれのような空気を日々感じていた。義母ときょうだいは韓国語でやりとりをしているので、「もしかして自分にわからないように自分の悪口を言っているのでは」という被害妄想が止まらなかった。ネルがいなくなって、普通の高校生のようにいきいきしていたサマンサはいなくなってしまった。元の陰気な少女に戻ってしまったのだ。 ただ、母を失ったことはサマンサにとって悲しみであり解放でもあった。母がいなければわからなかったこと、気づくことができなかったこともある。しかし、母がいなくなったことで「もう機嫌を取らなくてもいいんだ」「もう顔色を伺わなくてもいいんだ」と一種の安堵のようなものも感じていた。 (最低だ、私) 人は肉親を殺されたら心から犯人を憎み、悲しみに暮れるものだが、そうできない自分はとんでもなく薄情で酷い人間に思えた。だが、そこまで生まれてきたこと、生きることに喜びや執着を見出してないサマンサは肉親の死に対しても感受性が鈍かった。親が死ぬまで介護をし続けた人間は親の葬式で涙も見せずボーッとしていたりするが、それに近いのかもしれない。 学校でアニから「サミー可哀想」と泣きながら話かけられたが、「何であなたが泣いてるの?」という気分にしかならなかった。 ネルがいなくなったことで、サマンサはまた一人ぼっちになってしまった。 『去って生きるか、留まって死ぬか』 サマンサは学校帰り、いつもの噴水の前でいつかのネルが書いた交換日記のページを見つめていた。ネルは生きるために放浪してきたのだろう。何十年も。何百年も。自分を匿ってくれる相手を探しながら。食物連鎖では人間の上に位置していながら、守ってくれる人間がいないと生きていけないネル。皮肉だ。 耳に挿されたままのSpotifyからはColdplay&BTSの”My Universe”が流れていた。「愛に人種や民族、国境、宗教、性別なんて関係ない」と最近は言われている。母は生前「違う社会、違う文化の中で生きてきた相手と一緒になるのは大変なんてもんじゃない。周りの目だってある。そんな美しいこと言えるのは子供とアーティストだけ」と言っていた。人間同士でさえ母のように考える人は少なくない。相手が人ならざる者だったら……? それも人を食らって生きるモンスターだったら? 言わずもがな。だからネルもサマンサを置いて去っていったのだろうか。 ネルに貰った「トリスタンとイズー」を手に取る。 トリスタンは最期、自分の想いがイズーに通じていなかったと勘違いしてショック死してしまう。イズーはトリスタンが死んでしまった悲しみから死んでしまう。派生作品の「ロミオとジュリエット」ではジュリエットは短剣を胸に刺し、ロミオは毒を飲んで亡くなるが、原典の二人は悲しみだけで死んでしまうのだ。 (イズーみたいに相手がいなくなった悲しみだけで死ねたらいいのに) 「パードレ・ルー、この世に悪って存在するんでしょうか?」 サマンサは膝にノアールを抱いたルーにそう尋ねた。ルーはノアールからサマンサに視線を移す。その老成した眼差しはネルによく似ていた。サマンサはどうやらこういう性質の者に好意的な感情を抱きやすいらしい。何も求めず、ただただ受け止めてくれるような者に。ルーは神父でネルはヴァンパイア。正反対の存在なのに、似ていると感じるなんてまた皮肉なことだ。 「……実に難しい質問だね」 「好きな人が、社会的に絶対許されないことをしてたんです。でも彼はそれをしないと生きていけないんです。だけど絶対許されないってのは変わらなくて。彼のやってることは悪なんです。なのにそれでも私は彼が好きなんです」 「そうか」 ネルと同じく、ルーも「社会的に許されないことって例えば何だい?」などと野暮な質問を投げてくるような人物ではない。 「人間はね、どんなに悪くてもどんなに穢れていても神から愛されているんだよ。この教会の教えはそういうものだ」 「ええ。私もキリスト教のそういうところが好きです。誰もつまはじきにしないところが。……でもこないだ、魔物は教会に入って来れないって言ってましたよね? 神様は、魔物は愛してくれないんですか?」 「サマンサ……」 ルーは「そう来たか」と言うような顔をして大きく息を吐く。 「なんででしょうかね? 魔物は神様の愛が及ばない存在なんでしょうか? 彼らは存在自体が『悪』だからですか? そんな彼らに対して気の毒だ、救ってあげたいと思ったら背教でしょうか?」 ――ネルを受け入れることは悪なのか? 「サマンサ。神父の私がこんなことを言っていいのかはわからないが。社会的にも宗教的にも悪を働くということはその代償を払うことが絶対なんだ。しかし愛を与えることもまた代償を払うもので、傷を負うものだ。愛すれば愛するほどに傷つくんだ。その覚悟があるかどうか、ということだ」 「シー!! 鳴いちゃだめだよ」 その夜、教会に侵入者があった。小柄で華奢なポニーテールの少女だった。少女は庭で毛繕いをしていたノアールに抜き足差し足忍び足と、慎重にしのび寄った。ノアールは人に慣れているので警戒して逃げたりせず、きちんと足を揃え、闇に光る金色の目で彼女を見ているだけだった。 とうとう少女の手がノアールに触れる。彼女はノアールの首の根っこを押さえつけると、ワンピースのポケットから鋭利なナイフを取り出して振り上げた。 「アニ? なにやってんの?」 突然声をかけられ、ビクリとなって振り返る。 そこにはマディソンが腕を組んで仁王立ちしていた。顎を突き出して見下すようにアニを見ている。 「マディソン?」 「……その猫に何しようとしちゃってんのかな?」 マディソンが鼻抜け声で威圧するように言う。 「……」 慌ててノアールから手を離すアニ。ノアールは黒いしっぽを立てて、教会の裏口の方へてくてくと歩いていった。 「あのさー、ここの両隣のビルがさー、私のパパのなんだよねぇ。そこの監視カメラにさーー、すっごいもの写ってたの!!」 マディソンは嘲笑するようにジェスチャーを混じえながら語った。マディソンはスマホを取り出すと、アニに見えるように動画を再生した。 そこにはアニが教会の庭で不審な動きをしている映像が流れていた。表示されている日付も時間もサマンサが濡れ衣を着せられた事件にビンゴだった。 「……今度は猫殺すつもりだったの? 何で?」 マディソンはますます威圧的な口調になる。 「……条件は何?」 アニは感情のない低い声でそう尋ねた。 「は?」 「黙っててやるから言うこと聞けってことなんでしょ?」 「話はっやー。まあ、そうなんだけどね。最近サマンサいびっても反応つまんないから、あんたに色々協力してもらって、あいつをもっと痛い目に合わせてやろうと思ってんの。あいつ、お母さん死んでも平然としてるサイコパスだし再起不能になっても誰も困らんじゃん?」 「……」 アニはマディソンに視線を固定し続けている。 「そういやさ、あんたはあいつに結構優しいよね、何でなの?」 するとアニはお面でもつけたような表情でこう言った。 「……ああいう陰気でジメジメした人間を観察したくなっちゃうからかな?」 「……え? どういうこと?」 マディソンが「わけがわからない」というように苦笑しながら尋ねる。 「……だって生きててつまらないんだもん。私地味だし成績も特別いいわけじゃないし、男の子にもモテないし? だからああいう自分より下が近くにいると安心するんだもん」 アニは感情のない、淡々とした口調でそう言った。 マディソンは理解が追いつかないのか苦笑を続ける。 「ま、まじ?」 「うん。でもさー、最近ちょっとムカついてたんだよね。サマンサに。あいつボーイフレンドなんか作っちゃっていい気になってたからさ。陰気だったくせにいきいきしだしちゃってキモいのなんの。相手もあいつにお似合いのモンスター……じゃなくて変な男みたいだけど、それでも私より先にあんなのがボーイフレンド作るって許せないしなあ。懲らしめてやりたかったけど、あいつの物を壊したり隠したりとかするのもなんか子どもっぽくて嫌じゃん? 私、自分のレベルは落としたくないし」 「……」 無言でアニを見つめるマディソン。アニの考えていることが自分の想定とあまりにもかけ離れていたのだろう。 「だから、あいつが一番ダメージ食らうやり方を一生懸命考えたの。あいつがますます学校で立場なくなって、ボーイフレンドとの仲もめちゃくちゃになる方法もね。でも、あいつが学校来れなくなったら面白くないから、優しい言葉かけて唯一の味方を演出してやったの。私があいつの心の支えになるようにね」 固まったまま沈黙していたマディソンがやっと口を開く。 「つまり、あんたサマンサに罪をなすりつけるつもりであんなことしたの?」 「そうだよ! でも思ったより面白い状況にならなかったからさあ。狙い通り、ボーイフレンドとは別れたみたいだからそれは嬉しいけど! やっぱり雄鶏と植物じゃダメージ少ないよね。猫ならもっと騒ぎになるかなーって」 アニはまるで、明日着る服のことでも語るような口調で言った。絶句するマディソンをよそにアニは続ける。 「匿名の通報じゃ証拠不十分みたいだったから、今日はあいつの学生証盗んできたの。これ落としておけば確実じゃん? でもあんたに見つかっちゃったし、せっかくの計画が台無しになっちゃった」 アニはふざけたような表情で両手の手のひらを上に向けるポーズをとる。まるで居直り強盗だ。 「……怖い女だね。あんた」 マディソンは怯えた様子で言ったが、アニはキョトンとして、とぼけたようにこう言った。 「そうかなあ……」 マディソンはずっと強ばった表情でいたが、気を取り直したように息を吸って吐く。 「まあいいや! そういうことならちょうどいいや、あんた私より悪知恵回りそうだし、協力してくれるよね?」 「悪知恵回りそうってなんか心外だなあ。でもいいよ。私そういうの嫌いじゃない。こっちの作戦は台無しになったことだし、そっちに乗ることにするよ。でもヘマはしないでね。これ以上邪魔されたら私何するかわからないし」 アニはそう言ってにこっとした。しかし、目が笑ってない。 「……」 マディソンは脅したはずなのに、逆に脅された気分になっていた。そしてアニに協力を依頼したことを少し後悔した。 ネルはまだモントリオール市内から出られずにいた。モントリオール中央駅の広い空間の隅でぼんやりと立ち尽くしていた。傍らには大して大きくもないスーツケース。育ちのいい彼はどんなに絶望的な気分でもホームレスのようにしゃがみこんだりはしない。それは人間だった頃と変わりなかった。 本当はサマンサとずっと一緒にいたかった。だが、これ以上他人を不幸にしたくなかったのだ。不幸中の幸いか、彼女はまだ自分のために罪を犯してない。だから今のうちに離れるべきなのだ。 自分は彼女の母を殺した。今頃彼女は死ぬほど自分を憎んでいるに違いない。 (シンシア、僕は君と同じところへは行けないよ……) 皮肉なことながら、あのときの絶望と恐怖を湛えた彼女の顔が、幼き日の彼女の祖母シンシアと重なった。サマンサと同時に、あの日の幼かったシンシアにまでそんな顔をさせている気がして酷くいたたまれなくなった。 『ネルは望んでヴァンパイアになったわけじゃない。だから神様にネルを赦してもらえるように私毎日祈るわ。地獄に堕ちたとしても私が救い出してあげる』 シンシアは自分にそう言ってくれた。だが、その言葉はネルをますます辛い気持ちにさせた。『この人殺し』と罵られた方がまだマシだった。責められるより赦される方が辛いなんて。 ――これからどうする? 金ならある。エバが残した稼ぎと、今まで殺した相手から奪った金品もある。必要があればエバと同じ方法で稼げばいい。そしてまた「誰か」を見つけて…… 「嫌だ!!」 ネルは柄にもなく、両手で頭を抱えて叫んでいた。 駅構内を歩いていた人々が驚いて一瞬彼を見る。だが多様な人々を受け入れているこの国、この街では頭のおかしい人間を見ることなど日常茶飯事だ。一瞥しただけで大して気に止めることもなく、去っていった。 死への恐怖が彼を二一五歳の年寄りにした。だがもう限界だ。良心の呵責と未来への絶望感に耐えられない。 ――明日の朝、朝日に焼かれて死のうか。 二〇〇年間浴びることができなかった美しい朝日。だが、自分の燃える姿はきっと美しくない。だから「蠍の火」のように他人に幸いを与えることはない。生きても死んでも幸いを与えることができない自分。ただ、自分が苦痛から逃れたいから死にたいのだ。サマンサに人間は利己的だと言ったが、人ならざる自分も十分利己的ではないか。それとも人の心を捨てきれてないから利己的なのか? 「――っ!」 物思いに耽っていたさなか、突然ネルは何かを察知した。 (――サマンサ!) 駅を飛び出していた。 「ねえ、サマンサ。今日学校の帰りにプール行かない? 自粛自粛で体なまってるじゃん。ダイエットにもいいと思って」 アニの誘いをサマンサは少し怪訝に思った。アニは典型的なインドア系で今まで運動しようと誘ってきたことはなかったからだ。二人で遊ぶ時は一緒に彼女の家で料理をするか、ゲームをするか、だった。なぜいきなりプールに行こうだなんて言い出すのだろう。いくら自粛生活で運動不足とはいえ。 「アニと二人で?」 「そうだよ」 アニはそう言ってニコリとした。 放課後、アニと一緒にプールに行くと中には他の利用者はいなかった。 「……私、お手洗い行ってくるね」 二人で水着に着替えていると、アニがそう言って更衣室を出ていった。 サマンサは一人でアニが戻ってくるのを待っていると、何やら大勢の足音が聞こえてきた。 「……!?」 なんと、ガラの悪そうな少年たちが五人、サマンサのいる更衣室に入ってきたのだ。明らかに利用客などではない。男子更衣室は隣だ。 サマンサが戸惑っていると一人の不良少年がサマンサに銃を向けた。 「ひっ……!!」 思わず後ずさってしまうサマンサ。 「ちょっとプールの方まで来てもらおうか」 中心にいた少年がそう言うと、サマンサの腕を掴んでプールの方まで引きずりだした。 馬鹿みたいに広いプールだった。サマンサはプールサイドに立たされ、その周りを不良少年たちが囲った。そのうち一人がサマンサに銃を向ける。 マディソンとアニは並んでベンチに座っていた。 マディソンは緊張した面持ちだったが、アニは平然とスマホを操作していた。 (まさか……これ、マディソンとアニが仕組んだことだったの!?) 心臓に杭が刺さるほどの衝撃だった。マディソンはともかく、アニのことは親友とまでは言えないまでもある程度の信用はしていたのに。 サマンサはアニを凝視するが、アニはこちらを見る気配はない。つまらなそうにスマホの画面を見続けている。 (……どうして? どうしていつもこうなの? なんで誰も私を受け入れてくれないの? 受け入れたふりして利用するの? そんなに私は忌々しい存在なの? だからネルも私を置いていったの?) もう誰も信じられなかった。ネルとの美しい思い出まで穢れていくようだった。 「これからあんたには、俺たちの商売道具になってもらう」 銃を持った少年がそう言うと、後方にいた少年がサマンサにスマホを向けた。 「まず、脱いでもらおうか」 サマンサが応じずにいると、少年が銃を近づけて怒鳴り出した。 「脱げって言ってんだよ!! 撃つぞ!!」 威圧されて思わず、水着に手をかけるが恐怖で手が動かない。 ――いっそ殺された方がいいかもしれない。 もはやそんな気分だった。実の母にさえ受け入れられないまま死なれ、アニに裏切られ、ネルに去られてもう生きる意味なんてない。見つけようとも思わない。どうせこの先の人生だって同じことの繰り返しだ。 「早くしろ!!」 「俺たちゃ気が短いんだよ!!」 「何を恥ずかしがってんだよ!! 気持ち悪いな!! お前らアジア女はピカチュウとか言っておけば俺たち白人男にやすやすと股開くような淫売のくせにさ!!」 少年たちがサマンサ罵声を浴びせる。 銃を持った少年がサマンサを壁まで追い詰めて、その口に銃口をねじ込んだ。 「さっさとやれ!! さもなきゃズドーンとやるぞ!!」 (助けて……!! 助けてネル……!!) 藁にもすがる思いでネルの名を心の中で叫ぶ。 「ね、ねえ……ちょっと流石にやばくない?」 意外と度胸のないマディソンが震えた声でアニにそう問いかけた。 しかし、アニはスマホで動画を見ながら知らんぷりしている。 「えー、そうかなあ? 動画撮って世界中にばら撒いてやればサマンサ有名人だし、よくない?」 アニはそう言いつつ、やや落ち着きない様子を見せ始めた。胸元にさげたロザリオをいじりながら出入口の方を見たかと思うと、くるりとそちらに背を向けて座った。まるで嫌いな人物か何かがそちらにいるかのように。 「……?」 マディソンはその行動をやや不審に思ったが、今はそれどころではない。 「とにかく、私は関係ないからね」 もうついていけない、自分まで犯罪者になってたまるかと立ち上がり、マディソンはつかつかとプールの出入口に向かった。そのときだった。 「『入っていい』と言って」 直接脳に語りかけてくるような声。マディソンが顔を上げると、出入口の外に何やら人影のようなものが見えた。扉の影に隠れていて姿は見えない。マディソンの勘はあまり良くなかった。 「は、はあ?」 間抜けな声を出すマディソン。 「『入っていい』って言って! 早く!」 その声が語気を強めて言う。 「は、入っていいよ……」 気迫に押されて思わずそう言うと、影はシュッと消えた。……いや、消えたのではない。速すぎて人間の視覚では捕えられないのだ。その証拠にたった今、自分の横を何かが通り過ぎたような気がした。 恐る恐る振り返る。 「……ひぃっ!!」 先程サマンサと少年たちがいた場所は血の海だった。血の海の中には恐らく少年たちだったと思われる肉塊が無造作に転がっていた。全員首を胴体と切り離されて死んでいたのだ。 ――そしてアニは一番惨たらしくやられていた。彼女はもう人間の形をしていなかった。人喰い狼に襲われた後の死体よりグロテスクな有様だった。首、手足が千切られただけでなく、顔面を潰され、腹を割かれ、ただの血まみれの肉塊になってプールの水面に浮いていた。プールの水がアニの血で赤く穢れていく。 プールにはただただ、マディソンの絹をさくような悲鳴だけが響いていた。 その後、マディソンは警察の事情聴取に応じることになった。しかし…… 「ありゃもう使い物になりませんよ。ずっと『天使がサマンサを助けに来たんだ』としか言わないんですよ」 「可哀想にな。あんな凄惨な現場見ちまったらそうなるわ」 「でな、サマンサ敦子はどこに行ったんだって聞いたら『天使が連れていった』だとよ」 「参ったなあ」 取調室の廊下で、刑事たちは口々に語り合う。その傍らでマディソンと同じく、重要参考人として連れてこられたルーが俯いて座っていた。 「しかしですね、 天使がこんなことしますかね? 特にこれなんか」 黒い皮の手袋をした一人の刑事が、そう言ってジップロックに入った証拠品を掲げた。 ――中には真っ二つになった血まみれのロザリオが入っていた。アニが持っていたものだ。 「何から何までとても天国から来た者とは思えない所業だな」 「……彼女のしたことは背教でも背信でもなかったんだ、きっと」 ルーの消え入りそうなつぶやきは誰にも届くことはなかった。 fin |
セラ http://www.alphapolis.co.jp/author/detail/38100749 2022年01月01日(土)04時35分 公開 ■この作品の著作権はセラさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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2022年01月08日(土)02時28分 | セラ | 作者レス | ||||
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指摘されたところを参考にすぐ修正できる箇所、三点を加筆修正しました。 まず、クロエとセシルが襲われる前のシーンの情景描写を足しました。 それから「きゃあああ」などの安っぽい悲鳴が多かったので、特に女性の悲鳴を控えめにしました。 最後に「鏡に映ってないという現象を前にしてヴァンパイアと確信しないのは不自然」とのことだったので、「鏡に映ってない」描写をヴァンパイアと確信した後に回しました。 他、言い回しを少し変えたところが少しあります。 |
2022年01月03日(月)05時46分 | セラ | 作者レス | ||||
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大野様。引き続き、返信をさせていただきます。 >>シーン数とキャラの多さによって、各シーンでの描写が薄くなり、またキャラへの掘り下げも弱くなってしまっており、『悲恋』としても『社会風刺』としても『ホラー的な何か』としても『スリルのある倒錯愛の表現』としても中途半端になってしまった部分が大きかったです。 The「何が描きたいか分からない作品」ですね。 「キャラ」や「物語の盛り上がり」は純文学には「必要不可欠」なものではない(もちろんライトノベルなどのエンタメには必須)ですが、それならそれで描写を丁寧にするとかしなくてはなりませんね。純文学は読者を「感動」よりも「思考」させなければならないので。 >>先に書いた部分以外にも、アニの性格の伏線の薄さや、マディソンのキャラとしての薄さ(サミーは『鬱陶しい』と思っていても、マディソン自身の事はあまり気にしていなかった)などもあり、また『母親』『ケヴィン』『アニ(終盤)』『マディソン』など、ヘイトを向けられるキャラが多数存在することも、作品としてのまとまりの薄さを助長しているように感じます。 そうですね。今回は登場人物を何かの象徴のように扱っていて、「キャラ」を作ることはあまり意識してなかったです。 >>また、あくまでサミーを中心にして感情表現・ストーリーが進んで行くため、ネルの性格や『狂気』みたいなものが見え辛い部分がありました。 そうですね。ネルの『狂気』を描きすぎると変にヤンデレ化してなんか気持ち悪くなりそうだし、「人間の心を捨てきれないヴァンパイア」の設定なのにグロテスクな部分を見せすぎると矛盾してくるし、元ネタのアンニュイでイノセントな雰囲気から遠ざかってリスペクト感がなくなる気がするしで、あまり描写しませんでした。でもそれがオリジナリティにつながったかもしれませんね。 全体的に「寄せるべき部分」と「オリジナリティを出すべき部分」を完全に間違ったかもしれません。切ったり貼ったりする余地がまだまだあったかもしれませんね。 大事なことに気づかせていただきありがとうございました。 |
2022年01月03日(月)05時27分 | セラ | 作者レス | ||||
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大野知人さま、ご覧いただき、ありがとうございます。 >> さて、作品としての総評ですが。 ハッキリ言うと、詰まらなかったです。 何処を詰まらないと感じたかと言うと、『オマージュ』と言うには些かオリジナリティが薄いように感じたからです。 >>当方、『ぼくのエリ』を読んだことが無かったのでウィキペディアであらすじを読んで来たのですが、感じる所としては『主要人物と年代・舞台を変えただけで、脚本的にはほぼ「ぼくのエリ」そのままである』ように読めました。 実は下読みをしてもらった方にもほぼ同じことを言われました。 「それはまずい」と思ってサマンサの通う教会の神父を登場させたり、宗教色を濃くしたり、サマンサが日系人ということを強調したり、アニのような腹黒いキャラを登場させたりと、とにかく原作にはない描写を増やしたのですが、それだけではオリジナリティは出ませんよね。 >>文章そのものは概ね読みやすかったですが、いくつか決定的に『読みにくい』と感じた文章がありました。 >>一個目はシーンの転換点。 ネルとエバの会話シーンなどを始めとして、要所要所で『謎』『謎解きのヒント』に当たる部分が作中で語られるわけですが、こういったシーンへの転換部分ではほとんど背景の描写が入らず、シーン転換そのものが見え辛かったです。 また、作品全体としてもやや情景描写が不足しているように感じました。 自分の作品を読んでもらった時に「描写が少ない」「脚本かプロットを読んでるようだ」と言われることは確かに多いですね。せっかちな性格なのとつい神視点になるのがわざわいしてるかもしれません。 >>二つ目は、説明過多の文章。 >>純文学/それ風の文章では、ライトノベルほどの軽快さは求められませんが、それでもやや説明・地の文での『語り』が過剰であるように感じました。 >>特に冒頭でのサミーの身の上話などがそうですね。 台詞が挟まれずに地の文ばかりが続く、と言うのは地味に読者に嫌がられる要素ですが、それ以上にサミーの主観や嫌味に当たる物が入りすぎていて、やや『うっとうしい』文章だったように思います。 それも多分作者の性格がわざわいしてますね。ネチネチと語りたがる癖が出てしまったかもしれません。 >>三番、キャラの名前。 >>恐らく、作者さんは映画版の方を参考にしたんじゃないかと思うのですが。 >>どうでも良いモブキャラにも名前がついていて、しかも説明もなく何人も一遍に登場したりするので、『これは重要なキャラなのか、そうじゃ無いのか!?』と読者を混乱させてしまいます。 映画版でもそうですが、元ネタ原作小説もわりと登場人物が多くてガヤガヤとしてるんですよね。「えっこの人誰だったっけ?」と読みながらわざわざ登場人物紹介にチラチラ戻らなければならないような作品なんですよね。だから変なところを寄せてしまったかもしれません。 >>また、『外国ではお互いをファーストネームで呼び合うから』とリアリティの追及に関して仰るなら、『そのリアリティは必要ない』と答えさせていただきます。 「名前をつける必要はないんじゃないか」に思い当たるキャラと言えばセシルのボーイフレンドのアランですが、ずっと「ボーイフレンド」と呼ぶのもなんか鬱陶しいし、セシルが「アラン」と呼びかけているのに、地の文では呼ばないというのもなんか変だしでこうなりました。 >>最後に、不要なリアリティ。 >>上述のファーストネーム呼び(主要キャラ以外の)を含めて、いくつか存在する問題なのですが、まず根本的に読者にとっての読みやすさは、リアリティに優先されます。 そうですよね。原作へのリスペクトの気持ちが強くて「多少わかりにくくてもいいから寄せたい」と思ってしまいました。ライトノベルのようなエンタメだと「伝える」ことが第一になりますが、純文学であれば多少のわかりにくさが許されると思ったので。 >>問題に感じるリアリティとしては、ちょくちょく混ざるフランス語やモブの名前、後地味にモントリオールの風土紹介も一部問題に感じます。 フランス語をちょいちょい入れるというのは「風と木の詩」に影響を受けていますね。「ここはフランス語圏」ということを強調したかったので。でも人によっては「必要ない」と思う要素ですね。変に気取ってるように感じるというか。 >>具体的に言うと、サマンサやネルの心情描写をするときに、数か所ほど『このタイミングでモントリオール/カナダの話されてもなァ』と感じる部分がありました。 モントリオールやカナダへの思い入れが強すぎたかもしれません。 >>また、サミーに対する嫌がらせ・それをベースとした彼女の感情の動きと、社会全体に関する表現の面でも、やや『過剰』に感じる部分がありました。 >>今回の作品の場合、究極的には『サミーとネル』というすごく閉じた関係性を重点的に書いているので、サミー自身が受けているイジメ・差別はともかく、厳密にサミーには関係のないLGBT問題についてやるのは展開が散逸してしまうので良くなかったと思います。 うーん、サマンサの精神的な成長として「日系人として差別される立場でありながら同じことをLGBTに言う母を軽蔑していたが、実は自分も同性(とも解釈できる存在)を恋人にしている立場になると複雑な気持ちになり、所詮自分も母と同じであることに気づく」という描写をするのにLGBTは便利だったんですよね。確かに「サマンサとネル」のロマンスに重点を置くなら邪魔な描写ですね。ここも元ネタに変に寄せすぎたかもしれません。 >>これは問題と言う程の物でも無いのですが、特に冒頭から中盤にかけてサミー自身の主体性が薄く、物語の盛り上がりに欠けるというか、ハッキリ言えば『最後まで読むモチベーションを持ちづらい』感じがありました。 良くも悪くも「読みやすい文章を書くね」と言われがちなのですが、私の素人くさい文章を持ってしても「最後まで読むモチベーションを持ちづらい」と思われるのは問題ですね。 >>また、世間話パートで『吸血鬼』や『事件』の情報が出すぎている事、上述の描写過剰でネルの怪しさが不足している面もあり、『はいはい、どうせネル君が吸血鬼で、これから悲恋の展開になるんでしょ!』みたいな見え透いた感じ、と言うより細工やミスリードの少なさも、オリジナリティの薄さに拍車を掛けていたように感じます。 そう言われてみれば、確かにセシル事件後の噂話はもっと情報抑え目にしてもよかったかもしれません。 >>シーン割りが細かすぎ、サミーの感情描写が一遍通しで弱く、ネルの不気味さが噂話程度にしか消化しきれていない。 若干の嫌味を込めて表現するなら、『ぼくのエリ』に寄せようとし過ぎて、側をベースにして寄せたせいで、中身がズレてしまった感じ、でしょうか。 確かに中途半端に寄せたせいで方向性を見失ってますね。 >>例えば、サミーの感情が偏って表現されている、という事です。 >>一章の間、彼女はネルの事を『美しい』とか『病弱だ』と受動的に『感じる』ことはあっても。 『不気味だ』『好ましい』『こういう所が面白い』と主体的に『思う』シーンはあまりありませんでした。 と言うより、あったとしても他のシーン、例えばネルとエバの会話やマディソン達の世間話がすぐさま挟まって来て、読者がその余韻を心に残す余裕がありませんでした。 神視点になりすぎて「読者からどう見られるか」という視点が欠けてましたね。 >>例えば、情景描写。 >>シーンがコロコロ変わるため、ちょいちょい背景の描写が入らないシーンも多いです。季節はいつなのか、天気はどうなのか、道は汚れているのか・それとも綺麗なのか。 あー、私の最大の弱点ですね。自分が他者の作品を読んでる時も情景描写は読み飛ばしてしまう事が多いので、自分も情景描写はしないんですよね。 >>俺の勝手な誤解かもしれませんが、この作品にあっては『人間ではないネル』と同じくらいに『いじめや差別によって精神的に疲れ、やや歪んだサミー』の精神性も重要な要素のはずです。 一番描きたかったもののはずなんですが、それが描写できてないって致命的ですね。 >>できればシーン数をもう少しカットし、その分一つ一つのシーンを大事にしてほしいと思いました。 思えば、マディソンたちの会話などはもっと短くしてもよかったかもしれません。 |
2022年01月03日(月)04時08分 | 大野知人 dEgiDFDIOI | 0点 | ||||
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読ませていただきました。 正月でドタバタしている仲だったので、若干読み込みは浅いのですが……。 先に、二点ほど注意、と言うかお願いが有ります。 まず第一に、俺は基本的に『問題点があったら指摘する』方向性で批評を纏めています。そのため、文句ばっかり書いているように見えるかもしれませんが、『長所はそのまま伸ばせばよい』と思っているので、長所に関する記述が少ないだけです。 二つ目は、俺自身が普段ライトノベルの批評をメインでやっている事。『ぼくのエリ』そのものもそうですが、セラさんの今回の作品自体、やや純文学寄りの物を感じました。ただ、俺はラノベの批評しかほとんどやっていないので、的外れな指摘もあるかも知れません。分からない・受け入れられなければ、流してください。 さて、作品としての総評ですが。 ハッキリ言うと、詰まらなかったです。 何処を詰まらないと感じたかと言うと、『オマージュ』と言うには些かオリジナリティが薄いように感じたからです。 当方、『ぼくのエリ』を読んだことが無かったのでウィキペディアであらすじを読んで来たのですが、感じる所としては『主要人物と年代・舞台を変えただけで、脚本的にはほぼ「ぼくのエリ」そのままである』ように読めました。 また、文章にしても減点に近い純文学風であり、原作と同じ様にLGBTや差別の問題を取り入れ、オマージュだからと言ってギャグやアクションに走る訳でもなく……と言う風であり、個人的には『オマージュ』というより『リメイク』に感じました。 大本の作品に似せすぎて、セラさんのオリジナリティ・独創性がほぼ見えず、『本を通して作者を見る』と言う意味でも面白くなかったです。 文章そのものは概ね読みやすかったですが、いくつか決定的に『読みにくい』と感じた文章がありました。 一個目はシーンの転換点。 ネルとエバの会話シーンなどを始めとして、要所要所で『謎』『謎解きのヒント』に当たる部分が作中で語られるわけですが、こういったシーンへの転換部分ではほとんど背景の描写が入らず、シーン転換そのものが見え辛かったです。 また、作品全体としてもやや情景描写が不足しているように感じました。 二つ目は、説明過多の文章。 純文学/それ風の文章では、ライトノベルほどの軽快さは求められませんが、それでもやや説明・地の文での『語り』が過剰であるように感じました。 特に冒頭でのサミーの身の上話などがそうですね。 台詞が挟まれずに地の文ばかりが続く、と言うのは地味に読者に嫌がられる要素ですが、それ以上にサミーの主観や嫌味に当たる物が入りすぎていて、やや『うっとうしい』文章だったように思います。 三番、キャラの名前。 恐らく、作者さんは映画版の方を参考にしたんじゃないかと思うのですが。 どうでも良いモブキャラにも名前がついていて、しかも説明もなく何人も一遍に登場したりするので、『これは重要なキャラなのか、そうじゃ無いのか!?』と読者を混乱させてしまいます。 また、『外国ではお互いをファーストネームで呼び合うから』とリアリティの追及に関して仰るなら、『そのリアリティは必要ない』と答えさせていただきます。 最後に、不要なリアリティ。 上述のファーストネーム呼び(主要キャラ以外の)を含めて、いくつか存在する問題なのですが、まず根本的に読者にとっての読みやすさは、リアリティに優先されます。 具体的な順番で書くと、人間は通常、こんな順番で小説のリアリティを受け取ります。 『読みやすい』>『物語が脳内に入る』>『細かく読み込む』>『作品世界のリアリティに浸る』 こういう順番なので、リアリティが『読みやすさ』や『理解しやすさ』に干渉してしまっては、本末転倒なのです。 問題に感じるリアリティとしては、ちょくちょく混ざるフランス語やモブの名前、後地味にモントリオールの風土紹介も一部問題に感じます。 具体的に言うと、サマンサやネルの心情描写をするときに、数か所ほど『このタイミングでモントリオール/カナダの話されてもなァ』と感じる部分がありました。 また、サミーに対する嫌がらせ・それをベースとした彼女の感情の動きと、社会全体に関する表現の面でも、やや『過剰』に感じる部分がありました。 今回の作品の場合、究極的には『サミーとネル』というすごく閉じた関係性を重点的に書いているので、サミー自身が受けているイジメ・差別はともかく、厳密にサミーには関係のないLGBT問題についてやるのは展開が散逸してしまうので良くなかったと思います。 これは問題と言う程の物でも無いのですが、特に冒頭から中盤にかけてサミー自身の主体性が薄く、物語の盛り上がりに欠けるというか、ハッキリ言えば『最後まで読むモチベーションを持ちづらい』感じがありました。 また、世間話パートで『吸血鬼』や『事件』の情報が出すぎている事、上述の描写過剰でネルの怪しさが不足している面もあり、『はいはい、どうせネル君が吸血鬼で、これから悲恋の展開になるんでしょ!』みたいな見え透いた感じ、と言うより細工やミスリードの少なさも、オリジナリティの薄さに拍車を掛けていたように感じます。 ここまで、比較的細かい問題を上げました。 一番大きい物としては、何ですが。 『散逸』と言う所でしょうか。 シーン割りが細かすぎ、サミーの感情描写が一遍通しで弱く、ネルの不気味さが噂話程度にしか消化しきれていない。 若干の嫌味を込めて表現するなら、『ぼくのエリ』に寄せようとし過ぎて、側をベースにして寄せたせいで、中身がズレてしまった感じ、でしょうか。 例えば、サミーの感情が偏って表現されている、という事です。 一章の間、彼女はネルの事を『美しい』とか『病弱だ』と受動的に『感じる』ことはあっても。 『不気味だ』『好ましい』『こういう所が面白い』と主体的に『思う』シーンはあまりありませんでした。 と言うより、あったとしても他のシーン、例えばネルとエバの会話やマディソン達の世間話がすぐさま挟まって来て、読者がその余韻を心に残す余裕がありませんでした。 例えば、情景描写。 シーンがコロコロ変わるため、ちょいちょい背景の描写が入らないシーンも多いです。季節はいつなのか、天気はどうなのか、道は汚れているのか・それとも綺麗なのか。 『モントリオールである』という事に対してのリアリティがあっても、『人が住んでいる町である』という事へのリアリティが薄く、全体的にどこか遠くの・或いは現実味の無い物を読んでいる印象です。 例えば、ネルの不気味さ。 特に冒頭から中盤にかけて、『サミーが登場しない』シーンではある程度ネルの『人間らしくなさ』が描かれている物の、サミーが登場するシーンにおいては、サミーの感情が優先するために表現が淡白で、それ故に『友人/恋人が出来たサミーの浮かれよう』とか『ややズレた所もある、そしてひねているサミーの感性』みたいな物の間接的描写が上手く出来ていない。 俺の勝手な誤解かもしれませんが、この作品にあっては『人間ではないネル』と同じくらいに『いじめや差別によって精神的に疲れ、やや歪んだサミー』の精神性も重要な要素のはずです。 できればシーン数をもう少しカットし、その分一つ一つのシーンを大事にしてほしいと思いました。
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2022年01月02日(日)15時01分 | 金木犀 gGaqjBJ1LM | +30点 | ||||
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こんちゃ。返信ありがとうございます。 ・マディソンによるいじめは海外ドラマをイメージしたので、かなり極端になってたと思いますね。自分で描いてても「こんなあからさまな奴いる? ギャグ?」とは思ってましたが、そうですねー。リアリティより「描きやすさ」を優先してしまったかも。 →そこはたぶん必要な要素なんだと思います。 ただ事実を書いてもストーリーが動かないし、事件が起きないと読者は退屈ですから。 ファスト映画など、ファスト〇〇が流行り需要が増す時代です。複雑で微妙な心情を書くよりも、わかりやすさの方が読者は求めているものかもしれません。 なので、作者様の狙いとしては何も間違っていないと思います。 この部分、返信されて余計な部分だったかなと反省しました。 気づかせていただきありがとうございます。 あと、 >>しかしネルの心理がそこらへんあまりにも不自然なように感じました。 →この部分訂正させていただきました。ネルではなく、正しくはサマンサでした。 ちなみに、元ネタに関しては私も読んでいません。 映画は機会があれば見たいと思います。スウェーデンの方ですね。 なお、作者レスは気になさらず。 お疲れさまでした。
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2022年01月02日(日)07時55分 | セラ | 作者レス | ||||
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金木犀さま。ご覧いただき、大変感謝致します。 しかもこんなに丁寧な分析までしていただいて、朝から大感激いたしました。 >>「差別」に対する考え方も興味深かった。おそらく作者様が普段考えていることなのでしょうかね。結構鋭い見識だと思いました。国によって差別意識、差別の方法が違うというところ。ちゃんと書けていたと思います。 鋭いご指摘ですね。その通りです。どちらかの国を美化するとか特定の属性だけ美化するとか絶対したくなくて「どこでも差別はある、これが人間社会というものだ」ということを伝えたかったです。 >>モントリオールの地下街とか、良かったですね。行ってみたくなった。地下に広がる巨大な街。うん。中二病精神が駆り立てられる。想像力が働きました。 >>モントリオールの街の寒さが伝わってくる描写も素晴らしく、全体的に描写はお上手だと思いました。 嬉しいお言葉です。三年前の留学経験の記憶を一生懸命絞り出しながら「伝われ!伝われ!」と念じながら描いてました。 やはり極寒の土地だと、かなり地下組織が発達しているので面白いですよ。是非行ってみて下さい。 >>トワイライトという作品をご存じでしょうか。 その作品とも冒頭はそん色ない出来であると私は思いましたよ。 この上なく嬉しいお言葉です。しかし、トワイライトは未視聴です。(名前は聞いたことあります)今度の機会に見てみたいですね。やはりネルは「エリ」よりステレオなヴァンパイアなんでしょうね。 >>ネルの容姿など、とても女性的な感性による描写で、読者対象としてはやはり「女性向け」ということになるのでしょうか。 その通りです。元ネタがどちらかというと女性の感性をくすぐるような作品かなって思ったので、元ネタの登場人物の性別を逆転させて、さらに女性向けにした感じですね。やはりネルも「女性から見て恋愛対象になるように」と意識しながら描写しました。 >>なんにしても前半はとても興味深かった。 ありがとうございます。前半はちゃんと頭が整理出来てたんだと思います。 >>しかしながら後半。あらが目立ってきた印象でした。 前半はこの主人公がいるモントリオールの世界観に浸りきることができ、没入することができただけに、後半立て続けに起きる衝撃的な事件によるサマンサの心情に私はついていけませんでした。 そうですね。まず作者の私が混乱してたんだと思います。 >>・心理描写は精密だが、セリフは「ステレオ」すぎる >>→前述したように心理描写となる「仕草からどういう人となりかわかる」という積み重ねは素晴らしかったし、各人物の心理を詳しく書けていたと思います。でもセリフはときどき「大げさで単調すぎるんじゃないかな」と思うことがありました。 具体的な例を上げれば、「きゃああああ」ですね。一回ならまあそういうこともあるだろうと思ったのですが、襲われて死ぬたびにそんな感じだったので、読み手としては少し萎えました。 実は下読みをお願いした人から「悲鳴が安っぽい」と全く同じことを指摘されていました。 そして少し訂正したのですが、もっと文学的に描写すべきでしたね。よく考えてみれば「きゃあああ」なんて子供向けの脚本みたいです。 >>あと、いじめに関する描写もちょっと極端かな、と感じた部分もありました。 >>偏見による差別って根深く、それでいてすごいセンシティブなものなので、そんなにステレオな感じの嫌がらせとかいじめって経験しないんじゃないかと思います。 日本のいじめやアニによるいやらしいいじめはともかく、マディソンによるいじめは海外ドラマをイメージしたので、かなり極端になってたと思いますね。自分で描いてても「こんなあからさまな奴いる? ギャグ?」とは思ってましたが、そうですねー。リアリティより「描きやすさ」を優先してしまったかも。 >>・ネルをヴァンパイアと確信する描写がどことなく不自然。 >>→ヴァンパイアだと信じたくない心理はわかりますし、ちゃんと書けていたと思います。 >> しかし鏡に映らないなどの描写が入ってなお信じないというのは少し不自然だと思いました。 >> むしろはっきりと気づくシーンとして提示すべき場面のように見えました。 私もそこは「いや、『疲れてんのかな』って無理あるだろ! 」と思わなくもなかったですね。鏡に映らない描写は確信してからの方がよかったかもしれません。 >> 教会を荒らされてネルだと確信する、というほうが私としては残念な感じにうつっちゃいましたね。ヴァンパイアとして疑いながらもネルという存在を愛したいと思っている人間の心理として、不可解に感じました。 私もそこは粗かったなーと思いました。「いや、それだけで確信するなよ」ってツッコミたくもなりますよね。もっと教会荒らしをネルだと確信させるような証拠が出てくるような描写があった方がよかったですね。 >>・母親を殺されているショッキングな出来事を前にしてあまりにもサマンサが冷静なように見える。 >>→読者はサマンサを通じて、ネルを受け入れるか否か決めるものでしょう。しかしネルの心理がそこらへんあまりにも不自然なように感じました。 母親の死だけじゃなく、友人たちが殺されているわけですよね。 >> 普通、本能的な恐怖が先に来るんじゃないかと思います。 殺人を犯しているネルに対する嫌悪感、恐怖をちゃんと解消せず、物語が進んでしまっているため、もしかしたらそれでついていけない読者もいるんじゃないかと思いました。 作者の私も一番混乱したところですね。 「いやいや、ヴァンパイアに身近な人間を殺されたことなんてないしなあ。どうすっかなあ」なんてめちゃくちゃトンチンカンなことを考えながら。 元ネタだと主人公のオスカルがヴァンパイアのエリに対して「君は人を殺すんだ」と責める描写があるんですが、私はそんなオスカルに反発する気持ちを抱いたんですよね。「私たち人間だって動物を殺して食べてるじゃないか」って。だから自分の分身のサマンサにはネルに対してそういうセリフを吐かせなかったのかもしれません。 でも、そうですよね。もっと「こんなネルを受け入れていいものか」という葛藤の描写を増やすべきだったかもしれません。 とても丁寧な批評ありがとうございました。作者としてこんなに嬉しいことはありません。 金木犀様の作品も読ませていただきますね。 |
2022年01月02日(日)06時56分 | 金木犀 gGaqjBJ1LM | +30点 | ||||
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初めまして。 拝読しました。 いやなかなかの力作ですね。 ヴァンパイアに関する描写が詳しく書かれてあったり、モントリオールの地理、歴史などが詳しく書かれてあり、興味深かったです。 心理描写も、良かった。登場するキャラの背景、性格など、詳しく書き込まれておりイメージがとてもしやすかったです。 ただの説明ではなく、ちゃんと世間話になってたんですよね。「あの人ってこういうところあるよね〜」というノリで描写としてちゃんと提示できていたので、私としても「へえ、そうなんだ。そういう人なんだね〜」と相槌を打ちながら楽しく読むことができました。 「差別」に対する考え方も興味深かった。おそらく作者様が普段考えていることなのでしょうかね。結構鋭い見識だと思いました。国によって差別意識、差別の方法が違うというところ。ちゃんと書けていたと思います。 モントリオールの地下街とか、良かったですね。行ってみたくなった。地下に広がる巨大な街。うん。中二病精神が駆り立てられる。想像力が働きました。 モントリオールの街の寒さが伝わってくる描写も素晴らしく、全体的に描写はお上手だと思いました。 トワイライトという作品をご存じでしょうか。 その作品とも冒頭はそん色ない出来であると私は思いましたよ。 ネルの容姿など、とても女性的な感性による描写で、読者対象としてはやはり「女性向け」ということになるのでしょうか。 なんにしても前半はとても興味深かった。 しかしながら後半。あらが目立ってきた印象でした。 前半はこの主人公がいるモントリオールの世界観に浸りきることができ、没入することができただけに、後半立て続けに起きる衝撃的な事件によるサマンサの心情に私はついていけませんでした。 特に気になった点は、 ・心理描写は精密だが、セリフは「ステレオ」すぎる ・ネルをヴァンパイアと確信する描写がどことなく不自然。 ・母親を殺されているショッキングな出来事を前にしてあまりにもサマンサが冷静なように見える。 というところでしょうか。 ・心理描写は精密だが、セリフは「ステレオ」すぎる →前述したように心理描写となる「仕草からどういう人となりかわかる」という積み重ねは素晴らしかったし、各人物の心理を詳しく書けていたと思います。でもセリフはときどき「大げさで単調すぎるんじゃないかな」と思うことがありました。 具体的な例を上げれば、「きゃああああ」ですね。一回ならまあそういうこともあるだろうと思ったのですが、襲われて死ぬたびにそんな感じだったので、読み手としては少し萎えました。 あと、いじめに関する描写もちょっと極端かな、と感じた部分もありました。 偏見による差別って根深く、それでいてすごいセンシティブなものなので、そんなにステレオな感じの嫌がらせとかいじめって経験しないんじゃないかと思います。普通に見える人が、なぜか自分にだけは愛想がよくない、とかそういう地味なものが多いんじゃないかと。そしてそういういじめの方が実は当人からすれば深く傷つくもののはず。共感を呼ぶにはむしろ「なんでもないような些細なところで行われる差別行動」を描く方が大事なんじゃないかと思います。 ・ネルをヴァンパイアと確信する描写がどことなく不自然。 →ヴァンパイアだと信じたくない心理はわかりますし、ちゃんと書けていたと思います。 しかし鏡に映らないなどの描写が入ってなお信じないというのは少し不自然だと思いました。 むしろはっきりと気づくシーンとして提示すべき場面のように見えました。 教会を荒らされてネルだと確信する、というほうが私としては残念な感じにうつっちゃいましたね。ヴァンパイアとして疑いながらもネルという存在を愛したいと思っている人間の心理として、不可解に感じました。 ・母親を殺されているショッキングな出来事を前にしてあまりにもサマンサが冷静なように見える。 →読者はサマンサを通じて、ネルを受け入れるか否か決めるものでしょう。しかしサマンサの心理がそこらへんあまりにも不自然なように感じました。 母親の死だけじゃなく、友人たちが殺されているわけですよね。 普通、本能的な恐怖が先に来るんじゃないかと思います。 殺人を犯しているネルに対する嫌悪感、恐怖をちゃんと解消せず、物語が進んでしまっているため、もしかしたらそれでついていけない読者もいるんじゃないかと思いました。 と、時間が来たのでここらへんで。 私も執筆しなきゃ。 全体的に見れば、この作品とても良かったですよ。 面白い作品を、どうもありがとうございました。
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