神守島
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― 第一部 ―

(龍一)


 
 ―その島は「神守島」といった―
 
 瀬戸内に点在する島のひとつで、その面積は小豆島ほど。
 標高は高く、全体的に丸みを帯びた形をしていた。
 古くから神域として崇められており、遠い昔から、島に渡ろうとする者には必ず災いが降りかかるといわれてきた。

 その日、瀬戸の海は、真夏の焼け付くような日差しを煌々と照り返していた。
 だが龍一にとってその光景は今、先ほどまで見慣れたものとは違っていた。
 つい先ほどまで、穏やかに見えていたはずの波が、急に荒々しくさえ見えた。
 わずかな願望と失望への恐れが入り混じった、その名のように鋭い眼光から望む紺碧の海は、まるで黒い靄に覆われているかのようだった。

 龍一は、早朝より叔父と同い年の従兄弟とともに沖へ漁に出ていたが、無線で、ある知らせを受けたのだ。
 十六年前、終戦翌年の夏、突然家族を置いたきりずっと行方不明だった父が急に帰って来たと言う。
 
 龍一は当時、六歳の誕生日を迎えたばかりだった。
 十六年前の記憶に残る父は、叱る時こそ厳しかったが普段は優しい父であった。
 よく一緒に釣りをしたり、村の祭りなどに連れて行ってもらったことは、今でもおぼろげに記憶に残っている。
 幼い頃から器用で飲み込みが早く、すべての物事に対して正面から向き合う龍一を、父は自慢の息子だと村中に触れ回らんばかりだった。
 だが、父は突然出て行った。
 なんの前触れもなく突然。
 そして追い打ちをかけるように、父がいなくなってから間もなく、女と駆け落ちしたのではという噂を耳にした。
 決して信じたくはなかったが、もしや父は家族を見捨てたのでは、という疑念は心の片隅から片時も離れなかった。
 今日帰って来るのか明日なのか。
 日を追うごとに、誰よりも信じていた父に裏切られたかもしれないという想いばかりが、自身の中で徐々に膨らんでいった。
 もし、それが事実ならば絶対に許すわけにはいかない。
 そのせいで、母親まで家を出て行ったのだ。
 母は、龍一を連れて行くといったが、龍一がそれを拒んだ。
 父を……信じたかったのだ。
 だが、一日、一日と日が経つにつれ、絶望ばかりが膨らんでいき、その歳の誕生日にもらった龍の首飾りを、何度もはずそうと思ったが、その度にどうしてもはずせなかった。
 どうしても、どうしても断ち切りたくても断ち切れなかったのだ。

 叔父は即、漁を取り止め港へと引き返した。
 船着場に到着するなり、龍一は叔父にことわり、船を飛び降りるやいなや即座に駆け出して行った。
 途中一度も止まることなく走り続ける。
 龍一の家は代々続く漁師の家系で、海岸沿いに軒を連ねる家々の一角にある、木造の古い家屋であった。
 家の奥へ進んで行くと、奥の間の襖戸が音もなく開き、祖母が泣きはらした顔で出て来た。
「龍一……」
 祖母は瞳を潤ませ、なにかを訴えるように見つめる。
 龍一は黙ってその脇を通り、襖戸をさらに開いた。
 薄暗がりの中、目にしたのは一人の男であった。その髪や髭は伸び放題でかろうじて目の周りだけのぞかせている。
 ちゃぶ台を挟んで向かいに座る祖父が、怒りに顔を歪めていた。
 龍一は立ち尽くしたまま、その男に父の面影を見つけようとしていた。
 目の前にいる人物が父であるはずなのに、龍一はどうしてよいかわからなかった。
 積年の思いをぶつけようにも、昔の面影を微かに記憶するだけの今となっては、本当に父であるのかさえおぼつかないのだ。
 その時、今まで押し黙っていた男が口を開いた。
「龍一、すまんかった……」
 その声に微かな聞き覚えがあった。途端に、堪え切れないものが込み上げた。
「なんで、家族を置いて、出て行ったんじゃっ」
「悪かったと……思っとる。どこにいようとお前のことは、一日も、一時も忘れたことはなかった」
 苦しげに声を発する父に、龍一は長年の疑問をぶつけた。
「今まで、どこにおったんじゃ」
「それは、言えん」
 父は口を固く結んだ。
 祖父はぎろりと父を睨みつける。
「まさか女と、暮らしとったんか」
 その言葉に龍一は固唾を飲んだ。
 父が出て行った日、同時に地主の宮前という、村一の横暴な男の若妻が、その男との間に生まれてまもない赤ん坊とともに姿を消した。
 父とその若妻がともにいたという姿を目撃した人物もおり、その後村中に、駆け落ちしたという噂が広まった。
 そのせいで母親は居たたまれずに出て行ったのだ。もしも事実なら絶対に許すことなど出来ない。
「そうじゃ」
 だが父はそれをあっさりと認めた。
 瞬間、龍一の体中から怒りが込み上がった。
「家族を、裏切ったんかっ」
 殴りかからん勢いで怒鳴りつけた。両手のこぶしを固く握り締め、怒りにうち震える。
 父は項垂れ、情けない声を発した。
「ずっと、龍一に謝りたかった。謝っても許してもらえんと思ったがせめてひとこ……」
「今更遅いっ」
 最後まで言い終わらぬうちに、龍一は怒鳴りつけた。
 祖父は龍一に代わって言う。
「一番信頼しとった父親に、突然出て行かれ、龍一が今までどんな思いで生きてきたかわかるか?」
 龍一はうつむいたまま、眼だけを父に向けた。
「また、その女のところに戻るつもりか」
 ぎりっと歯を食いしばりつつ言葉を絞り出す。
「いや、俺はもう年じゃ。この頃では、このまま二人を守り通す自信ものうなって来た。今ではもう、村の様子もいろいろと変わっとる。それでこの際、戻って来ようと思うたんじゃ」
 弱弱しく答える。
「まさか、その女と、ここで一緒に暮らすつもりか」
 龍一は膝を乗り出し詰め寄った。
「いや、ここへ戻って来てまで、そんなことが許されるとは思うとらん。しかるべき場所に帰すつもりじゃ」
 この辺り一帯の土地を仕切る地主の宮前は、前妻が出て行ってからまもなく、体裁が悪いと思ったのか数年後に後妻をもうけていた。
 村人に散々陰口を叩かれ、居たたまれなくなったようだ。
 しかるべき場所というのはわかるが、十六年もともに暮らして来ておいて、それほど簡単に別れられるというのか。
 龍一はふと、顔を上げた。
「いや、あんたの言葉を鵜呑みにはできん。あんたをこのまま、その女のところに戻らせるわけにはいかん」
 父の言葉を、にわかに信じることが出来なかった。女のもとへ戻り、また再びこの家に帰って来るなど、簡単には信じられなかったのだ。
「そうか……」
 父はしばらく黙り込んだ後、言葉を発した。
「ならおまえにも、付いて来て欲しい」



 父とともに船に乗り込んだ龍一は、ただただ、自身の目を疑っていた。
 遠い昔から、この、神守島に渡ろうとする者には必ず災いが降りかかるといわれてきた。
 渡り住むものはないといわれていたが、その島に、まさか父が暮らしていようとは思いもしなかったのだ――。

 父一人ならともかく、当時生まれたばかりの赤ん坊も同時にいなくなったと言い、無人島である可能性は考えられなかった。 
 それは……まったくの盲点だった。
 しかも真面目一筋で誰よりも信心深かった父が、まさか神域を侵すはずがないと誰もが思っていた。
 だが実のところは龍一の叔父が、父をずっと手助けしていたという。
 叔父はその秘密を頑に守り通して来たのだ。
 叔父は長年父の助けになり、捜索の手がこの島に及んだ時も、三人が決して見つからないよう裏で手を回し、村の様子などもその都度、父に報告していたということだった。
 また、叔父が言うには、父は村を離れる時、龍一も連れて行こうとしたらしいのだが、一人残さねばならない妻のことを思うと、息子まで奪うことなど出来なかったらしい。
 また龍一に、父が出て行った本当の理由を伝えたとして、幼い龍一の口から、うっかり父が島で暮らしていることが知れ渡り、それを聞きつけた宮前が、即座に妻を連れ戻しに来ることを恐れ、龍一に真実を伝えられなかったという。
 龍一は物心つく頃に真実を告げようとしていたようだったが、想像以上に心を傷めた龍一に、なかなか真実を告げる勇気がなかったということだった。
 そして父が宮前の妻と村を出て行ってから、その後、宮前が後妻をむかえた時、それを期に叔父は、父に村へ戻るよう話したそうだが、前妻である由紀乃は頑として拒んだと言う。
 自分と娘だけでもこの島で暮らしたいと。
 そこで父は、ともにこの島に留まることにしたのだそうだが、歳には逆らえず、時とともに次第に二人を守り通すことに限界を感じ、また由紀乃も、娘の将来を思うといつまでも島に籠ってばかりはいられないと思い、意を決して戻って来ることにしたらしい。

 父は砂浜に舟を引き上げ、そばにあった杭にくくりつけた。
 島には、沢山の木々が生い茂り、人が住む気配は感じられなかった。
 だが視界の中に、人が一人通れるくらいの小路がとらえられ、龍一は父の後に続いた。  
 道なりに坂を上り、森の茂みをしばらく歩いて行くと、微かに水音が聞こえた。
 奥へ進むにつれその音はだんだん大きくなり、森を抜けると突然、さあっと吹き抜ける風が頬を撫で、目の前が急に開けた。
 足元には大小の石がころがり、その合間にさらさらと清らかな沢が流れていた。
 水面は日の光を受けてきらきらと輝き、底が見渡せるほどに透き通っている。
 その後方では滝の音が厳かに響き渡っていた。
 その手前に、丸太を組み合わせた、見た目には簡素な、家らしきものがあった。
 龍一がそばまで近づくと、目の前の戸が急に勢いよく開いた。
 次いで、一人の髪の長い少女が飛び出して来た。
 そでのない羽織を帯で留めているだけの質素な身なりである。
 この少女は多分、十六年前、まだ生まれたばかりだったという赤ん坊だろうと思われた。
 少女は、父の後ろに立つ龍一の姿を見ると、はたと立ち止まり、驚いた様子で目を見開いた。
「誰?」
 一歩、後ずさる。
 その時、後ろから由紀乃と思われる女が現れた。
 由紀乃は龍一を見るや、
「あなたは……もしや、龍一……さん?」
 黙って頷くと、由紀乃は次の瞬間顔を歪め、急に膝を折り地面に手をついた。
「申しわけありませんっ」
 目の前で深く頭を下げる。
 突然のことに戸惑っていると、父が由紀乃の背に手を触れた。
「おまえが頭をさげることはない。悪いんは俺じゃ」
 由紀乃が顔を上げるや、父は龍一に訴え掛けた。
「龍一、この人はずっと俺に、おまえのところに帰るよう言うとったんじゃ。それを、俺が拒んどった。じゃけえこの人はなんも悪くないんじゃ」
 由紀乃が即座にそれを否定する。
「いいえ、違います。私がこの島を出る勇気がなかったけえ、一朗さんを今までずっと引き止めてしもうたんです。悪いのは私です」
 お互い庇いあう。
 由紀乃をよく見ると、真白い肌にほんのりと唇は紅く、慈悲に溢れた眼差しはどこか憂いを帯びている。
 少なくとも男を誘惑し、たぶらかすような女には見えなかった。
 父は再び口を開いた。
「龍一、俺はこの二人を守りたかったんじゃ。じゃけえ頼む。俺への恨みを、この二人にだけはぶつけんで欲しい」
 龍一は由紀乃を責めるつもりなど毛頭なかった。
 あの宮前のことだ。この女性を無理やりに手籠めにしたことなど、容易に想像出来る。
 だが、この女性を護る方法など、ほかにいくらでもあったはずだ。
 龍一は自分ならどうするか、思いつくあらゆる方法を考えてみた。
 だが……答えは見つからなかった。
 宮前の宮前は、大金を叩いて、どんな手を使ってでもこの女性を探しだそうとしただろう。
 金は湯水のように湧いて来ると思っているからだ。
 村人に土地を貸し、その賃料を毎月のように貪り尽くしている。
 あげくに自身は働きもせず、賭け事に女、村人の苦労など知りもせず遊び惚けているのだ。
 その両親も、くずだ。
 昔から横暴極まりなかったが、息子を甘やかして育てた結果、逆に息子に暴れて手を挙げられるようになり、今ではすっかり身を小さくして暮らしている。
 
 龍一はもう一度、冷静に由紀乃と父を見下ろした。
 由紀乃に対しては申し訳ないが、父はやはり、家族よりもこの女性を選んだのだ。
 それだけは、どうしても許すわけにはいかない。
 母の想い、祖父母の想い、十六年もの間、帰りを待ち続けた家族全員の想い。
 ここで簡単に許してしまえるものでは……ないのだ。
 龍一が言えるのは、ただひとつだけだった。
「俺は、この人に対してなんとも思うとらん。ただあんたと、この人の仲だけは、絶対に認めるわけにはいかん」
「それはわかっとる」
 父は頼りなげに言葉を発した。



 一人、崖の上に佇む龍一は、唇を強く噛み締めた。
 過去にどんな事情があろうとも、やはり父は家族より由紀乃を選んだのだ。
 あらためてそう思うと、怒りよりもはや、もう絶望が込み上げて来た。
 胸の首飾りに手をやり、ぐっと握り締める。
 子どもの頃、一度海へ投げ捨てようとしたが、叔父の説得で、かろうじて留まったことがあった。
 
 かつて、村中に父の噂が流れ、いた堪れなくなって浜を訪れ、海に向かって放り投げようとした時、
「龍一、なにしとるんじゃ?」
 叔父に呼び止められた。
 龍一はびくっとして振り返った。
「なんもしとらん」
 目を背けると、叔父は龍一の右手に目をやった。
「その手に持っとるんは、何じゃ?」
 龍一はそれをさっと後ろに隠した。
 叔父は即座に感づいた様子で、
「それは、お父さんがくれたものじゃないんか?」
 龍一は答えなかった。
「大切にせんといかんぞ」
 叔父の言葉に、それを思い切り地面に叩きつけた。
「こんなもん、いらんっ」
 拳を強く握り締めた。叔父は黙ってそれを拾い上げると、
「龍一、お父さんはきっと、どこにいようと、今でもおまえのことを思っとるに違いない。お父さんは誰よりも一番、おまえを大切に思うとったんじゃ。なにがあってもそれだけは信じて欲しい。これは唯一、おまえとお父さんを繋ぐものじゃ。絶対に、手放したらいかん」
 龍一の手にそれを握らせ、両肩に手を置き、力のこもった声で言った。
 しばらくはじっと、返された首飾りを眺めていたが、やがて顔を上げ、真剣に問い掛けた。
「叔父さん、お父さんは、女の人と一緒に出て行ったんか?」
 叔父は正面から、龍一の目を見つめた。
「人はいろいろ言うが、すべてはただの噂に過ぎん。誰も確かめてもおらんことをただ真に受けてはいかん。もし仮にお父さんが女の人と一緒にいなくなったんじゃとしても、ここを出て行ったんはきっと、なにかわけがあったんに違いないんじゃ。なんもわからんのに人が言うことだけを信じて、お父さんのことを疑うてはいかんぞ」

 その言葉をひたすら信じ、龍一は唯一心の拠りどころとしていたのであった。
 かろうじて道を外すことなく今まで生きてこられたのは、叔父や祖父母の支えと、父を信じたいというひたすらな想いだけであった。
 だが今となってはもう、その証である首飾りを首に下げている意味もなくなってしまった。
 もうなんの躊躇いも未練もない。
 龍一は出来るだけ遠くに投げ飛ばそうとした。
 その時、
「待ってっ」
 背後から声がした。振り向くと少女が立っていた。
「それを、どうか捨てないで、お願い」
「放っといてくれ」
 構わず海に投げようとすると、
「待って、それならどうか、私にくれん?」
 あまりに真剣な眼差しに、どうせ捨てるならと、少女に向かって放り投げた。
 慌てた様子でそれを空中で受け止めた少女は、ほっとしたように安堵の表情を浮かべた。
「あなたに、どうしても見せたい物があるんじゃけど」 
 少女は龍一を見上げた。
「なんじゃ?」
「こっちじゃけえ、付いて来て」
 こちらの返事も待たずに駆け出して行った。
 しかたなく後を付いて行くと、少女は龍一に構わず島の奥へと進んで行った。
 龍一がふと辺りを見回すと、豊富な樹木の数々、たわわに実る木の実や果物、太く雄々しい樹木の合間には、龍一もよく知る薬草などもあった。
 そこここに咲乱れる草花などは、いったいどのくらい種類があるのか数えたらきりがない。
 更に、無数の鳥や虫たちが安心して羽を休め、ここはまさに楽園そのものであった。
 急な坂道に差し掛かるが、慣れた様子で登って行く少女に追い付くと、一瞬、蝉時雨さえも深緑の中に溶け込むような、重々しい雰囲気の漂う空間があった。
 そこを抜け、さらに奥へ進んで行くと、路が少し平らになったところに、目の前に大きな岩が現れた。
 その岩と岩の間から、なんともいえない神々しさで七色に輝く光が幾重にも降り注ぐ。
 光のそばまで近寄ると、ちょろちょろと岩から染み出た水が流れ込む、透明で清らかな泉が姿を見せた。
 厳かで神聖な空気が漂い、周りを取り囲む岩々が、まるでその場所を護っているかのようであった。
 泉の中を、一匹の白い蛇がすうっと泳いで行く姿が見えた。
 龍一はその雰囲気に呑まれ、しばらく魅入られていた。
 この島は人を選ぶといわれている……。
 信じられないが父と由紀乃は、この少女ともども、今までなにごともなく無事に、この島で暮らして来たのだ。
 龍一が複雑な思いでいると、
「見て」
 少女がある方向を指差した。
 龍一が顔を上げると、岩の窪みの部分がまるで祠のようになっており、その中に、多分父が彫ったのだと思われる仏の像と、自分が首に下げていた物と同じ、龍の彫り物が置かれてあった。
「この彫り物は、龍と言うんじゃろう?」
 龍一が、答えずにそれをじっと見つめていると、少女は言葉を続けた。
「おじさんは、毎日ここに来て、これを眺めとったんよ。きっとこれを通して、遠くにいるあなたのことを見ていたんじゃと思う。私は小さい時から、おじさんにとってこの龍というものが、とても特別なものじゃって思うとったけえ、これと同じ首飾りを持つあなたが目の前に現れた時、本当に驚いたんよ。まるでここにある龍が、形を変えて、会いに来てくれたんかと思った」
 龍一は、目の前にある龍の彫り物に目を向けた。
 父は毎日ここへ来ていたと言う。あの時「おまえのことは、一日たりとも忘れたことはなかった」と言っていたことだけは、嘘ではないのかもしれない。だがそれとこれとは別だ。
 黙っていると、少女はなおも話し掛けて来た。
「龍一さん、一朗おじさんは、どんなに遠く離れていても、いつもあなたを思い続けとった。そしてきっと今も、あなたのことを想っているはずじゃ。それだけは嘘じゃない。それだけはわかって欲しいんよ。じゃけえ、どうかこれを簡単に手放したりせんで、お願い」
 首飾りを両手に持ち、せつなく訴え掛ける。
「いや、それだけはもう二度と手にするつもりはない」
 だが、少女は引き下がらなかった。
「おじさんは、私のためにいろいろなものを作ってくれたんじゃけど、唯一こうして身につけるものだけはくれんかった。じゃってこれは、離れとっても常に寄り添っていたいからじゃろう。おじさんの気持ちを、どうか簡単に投げ捨てたりせんで」
「何度言われても、俺の気持ちは変わらん」
 断言すると、少女は困っている様子だったが、
「それなら、いつか龍一さんが再び手にしてもええと思うまで、私か持っとってもいい?」
 そう言って、こちらの目をじっと見つめた。龍一はもう二度と手にする気はなかったが、少女があまりにも必死なのでしかたなく、
「それは、別にかまわん」
 と答えた。
 すると少女は、
「ありがとう」
 と首飾りを固く握り締めた。
 少女のほっとした表情が合図のように、鳥や小動物たちが集まって来た。 
 少女は名をナギといった。
 明るい陽射しの下で見るナギは、少し癖のある長い髪に小麦色の肌、きゃしゃで細長い手足をした可憐な少女であった。
 その瞳は心の奥底まで見透かされてしまいそうなほど透明で、きっと邪心というものがないから動物たちが何の警戒心もなく寄ってくるのだろう。
 言葉もなく見つめながら、きっとナギは、父と母親の愛情を一身に受けて育ったのだろうと思った。
 世の中の汚さなどなにも知らずに生きてきたのだろうと。
 だが、これからは……。
 世の中のことをなにも知らずにこの年まで生きてきたナギが、今後、今までとは掛け離れた世界で、きっと様々な苦難を乗り越えて行くことになるだろう。
 その過程で、透明で曇りのない瞳がいつか陰りを帯びる日が来ようと、自分には関係のないことである。
 龍一はこれ以上ナギを直視出来ず、さっと目を逸らした。

― 第二部 ― 

(ナギ)
 
 一

島の小動物たちにしばしの別れを告げ、十六年の間暮らした島を後にしたナギは、動物たちの姿が見えなくなるまで、ずっと手を振り続けた。
 やがて……その姿が見えなくなると、ナギは船の前方へと体を向けた。
 船が向かう先には、ナギの本当の父親が暮らしているという村だ。
 なぜ、今まで本当の父親と暮らすことが出来なかったのか、その理由を母に尋ねても、母は頑として理由を話してくれなかった。
 ならば自分でその理由を確かめるほかにない。
 そうしてナギは、次第に視界に広がりつつある村の光景に、ただただ驚愕していた。
 今まで見たこともないたくさんの船、家々、そして人、人、人。
 ナギがその光景に内震えていると、母がナギの手を握るや、ギュッと痛いくらいに握り返してきた。 
「お、お母さん?」
 問うと、母は、
「ナギ、ナギ……」
 母は急に顔を歪め、大粒の涙を零した。
「お母さん、どないしたん?」
 母の手は小刻みに震え、体中が震え出し、呼吸もままならない状態になった。
 ナギが母を抱きしめるが、母はある一点を見つめたまま、凍り付いたような表情をしている。
 咄嗟に一朗が母を抱きしめた。
 母は大きく息を吐きながら、どうにか平常に戻ろうとしている。
 ナギは、母が見つめる方角に目を向けた。
 するとそこには、村人たちに混じり、今までみたこともない威圧的な表情で、こちらを凝視する一人の男がいた。
 ナギは瞬時に、それが父だと悟った。
「お……父さん」
 思わず口から言葉が零れる。
 すると母は、鬼のような顔で、
「違うっ、違う、あの人はっ」
 ナギの両肩を両手で握り、今までにない強い口調で、
「あの人は、ナギの父親なんかじゃないんよ」
 誰を父親だとも言っていないのに、母は必死の形相で首を横に振り続ける。
「お母さん、わかった。わかったけえ、もう、お父さんの話はせんけえ」
 ナギがそう言うと、母はほんの少し落ち着いた様子で、両手の力を緩めた。 
 そうしてしばし心を落ち着けるかのように、深呼吸を繰り返した後、
「ナギ、村に、仮にお父さんだと言い張る人がおっても、絶対に認めてはいかんっ。これだけは約束して、ナギっ」
 母は、今までにない強い口調で、ナギの反論を一切受け付けまいとするかのように言った。
 ナギはただ、
「わかった。お母さん」
 素直にそう言った。
 
 やがて船が村の港に辿り着くと、人々はそれぞれ、好奇の眼差しを向けてきた。
 だが一人だけ、あの、男だけは違っていた。
 怒り、の感情だ。
 ナギが初めて龍一を見た時に感じた、怒りの感情。
 男はドスドスと地面を踏みしめながらこちらへ近付いて来ると、母に向かい、
「おまえ、よくもっ」
 拳を振り上げた。
 すると即座に一朗がその振り上げた拳を掴み、由紀乃を庇うように、男の前に立ち塞がった。そして、
「あんたにはもう、家族がおるじゃろう。この人はもう、あんたのものじゃない」
 低く、重い口調で言い放つと、男は「くっ」と唇を噛みしめ、ナギのほうを向いた。
「おまえ……ナギか……」
 男に名をきかれ、ナギが返事をしようとすると、咄嗟に母が、
「違います。この子は、あなたの子どもではありません」
 はっきりと言い放った。
 すると男は、
「なにを言うとる。この子は列記とした、俺の……」
 そう言うが、母は、
「違います。あの子は亡くなりました。ですからこの子は、あなたの子どもではありません」
 そう言った。男は呆然と、
「なんじゃと、それじゃあ、この、子どもは……」
 ナギをまじまじと見つめた。
 母は、
「佐伯さんの子どもでもありません。この子の父親はもう、亡くなりました」
 そう言い放った。
 男は納得できない様子で目をパチパチさせていたが、一朗が、
「そういうことじゃ」
 と念を押し、ナギの腕を掴むと、由紀乃を庇うように男の前を通り抜けて行った。
 

 朝陽が顔を覗かせてまだ間もない頃、庭を掃除していたナギは顔を上げ、ふと辺りを見渡した。
 この村に来て、初めは島とはまるで違う世界に、毎日が驚くことばかりだった。
 島にはなかった、電気というものが夜中でも部屋を明るくし、ナギはランプの妖艶な灯りを、まるで吸い込まれそうになりながら、ほうっと眺めていた。
 車、バス、列車、それらを利用し、祖父はいろいろなところに連れて行ってくれた。
 その中でも特に気に入ったのはガラス窓であった。
 向こうが透けているのにそこに存在している。
 恐る恐る手を触れると向こう側にまで手が届かない。
 それが不思議でたまらなくて、空いた時間はいつでもそれに触れていた。
 それになにより、世の中にこれほど多くの人がいるとは思わなかった。それが一番の驚きだった。
 だが、一歩外に出ると周りの人々の目は皆冷たいものだった。
 人々にとって母は、佐伯一朗という男を誘惑し、その一家を不幸に導いた人間であり、招かざる客であった。
 あの男が世間にそう言いふらしたのだと祖父が言った。
 それに反し、一朗が村の人々に、宮前の言うことは間違いだと必死に説得してくれたというが、権力の前にはなす術がないようだった。
 当然、娘であるナギも受け入れられるわけがなく、近所の人々とはまともに挨拶も交わすことが出来なかった。
 一朗は心配し、会いに来てくれたのだが、母がきっぱりと、もうこれ以上世話になるわけにはいかないと告げた。
 それでも一朗は時折、心配げに様子を見に来てくれるが、状況は変わらなかった。
 母は、村に来てから時折体調を崩すことが多くなり、今も自室に臥せていた。
 
 庭を掃き終え、力なく縁側に座り込み、肩を落とすと、障子の向こうから祖父が顔を出した。
「ナギ、ご苦労じゃったな」
 上がるように言われ、履物を脱ぐ。
「なんじゃ、元気がないのう」
 祖父は心配げに声を掛けた。居間のちゃぶ台の前に腰を下ろすと、祖母が冷たい麦茶を運んで来た。
 一口飲んでひと息つくと、祖父が穏やかな口調で問い掛けて来た。
「ナギ、この村の暮らしには、もう慣れたか?」
「うん、だいぶ慣れて来た。でもなかなか村の人とは仲良くなれんで……」
 目を伏せると、祖父は大きく溜息をついた。
「そうじゃなあ。おまえの母親とナギを受け入れてもらえるよう、皆に話をしとるんじゃがなかなか聞き入れてもらえんでな。それでもおまえの母親を昔から知っとる人や、ほかにも理解を示してくれる人は何人かおるんじゃけど、村人の多くは聞き入れてくれんのが現状じゃ。ナギには辛い思いばかりさせてしまうが、もうしばらく、堪えてくれんか」
 労わるように声を掛けられると、張り詰めていた心が急にもろくなる。
「私、一体どうしたらええかわからん。近所の人に話し掛けても、誰も顔も合わせてくれんかったり、私がまるでいないみたいに無視されて」
 祖父は困った様子で、
「そうじゃなあ……わしもどうしてええか、ええ方法がなかなか浮かばんで」
 ともに項垂れていた。
 だが急に、なにか思い出したように「ああ、そうじゃ」顔を上げた。
「ナギ、あそこはどうじゃろう? 佐々木さんの家じゃ。あの人は変わり者と言われとるが、おまえの母親のことを昔からかわいがってくれた人じゃ。ついさっきも野菜を届けてくれた。あそこのおばあさんは一人暮らしじゃけえいろいろと大変らしい。じゃけえ畑の手伝いでもさせてもろうたらどうじゃ」
「佐々木さん?」
 ナギは、その人の家もなにも知らなかった。
「少し遠いんじゃが……」
 祖父は、丁寧に道を教えてくれた。
「私、今すぐ行って来る」
 ナギは逸る気持ちを抑えきれず、駆け出して行った。

「ここ……かなあ?」
 ナギは、集落からだいぶ離れたところに、一軒だけぽつんと取り残されたかのように建つ、古ぼけた木造の家屋を見つけた。
 教えてくれた場所に違いないと思うのだが、家の周りを草花が生い茂り、どうにも入口が見つからない。
 しばらく家の前でうろうろ歩き回っていると、
「あんた、だれじゃ?」
 白髪の老婆が草むらから現れ、訝しげにナギを見据えた。
「あ、私ナギというものです。祖父から、ここで畑のお手伝いをさせてもろうてはどうかと言われて来たんですが……」
 祖父の名を告げたが、断わられるかと思いつつおそるおそる返事を待っていると、老婆はにーっと微笑んだ。
「おやまあそうかい、畑を手伝いに来てくれたんかい。遠いのに、すまないねえ」
 老婆はくるっと背を向けた。
「まずはこっちに、来てくれんかな?」
「はい!」
 やっと村人と接する機会が出来たナギは、喜んで後に付いて行った。
「まずは、ここなんじゃけどなあ……」
 老婆が案内した先には、なんとかかろうじて玄関だとわかる扉が、うっそうと茂った草むらの中に埋もれていた。
 僅かな範囲に草が踏みしめられた跡があり、そこから出入りしているのだとわかるが、とにかく家の周り中、草だらけであった。
「あの……これ」
「ああ、見ての通り、これじゃあ家に入りにくうてなあ、年寄りじゃけえ、草刈もおっくうで、まあ、一日やることと言ったら畑仕事くらいじゃけど、それも最近じゃ体がもたんでなあ。畑もお願いしたいんじゃが、その前に、この辺りを刈ってくれんかのう」
 ナギが畑? はどこかと思いながら草むらを見渡すと、一帯が緑一色に覆われた景色の中に、唯一トマト……らしき赤い物が垣間見える。
「手伝ってくれる人はおらんのですか?」
「家族はもう、だーれもおりゃせん。村のもんは皆、自分の家のことが忙しいけえなあ、無理には頼めん」
「そうですか」
「あんた、手伝うてくれるか?」
 ナギは、これは大変な作業だと思いながら、
「わかりました。頑張ってみます」
 とても一日では終わらないだろうと思いつつ答えた。
 予想していた通り、作業は思いのほか時間を要し、陽が落ちる頃まで頑張ったが半分も出来なかった。
 だがかろうじて玄関の周りが開けたことで老婆はとても喜び、お礼にと、採れたての野菜をわけてくれた。
 畑のある場所に育成する野菜は、すべてみずみずしく、たわわに実っていた。
 老婆は畑を見回しながら、
「花も草も野菜も一緒じゃ。人間が下手に手を加えんでも、強いものは育ち、弱い者は枯れる。そうして自然に大きく育ったもんが残るんじゃ。草じゃって無駄に生えとるわけじゃない。草があるお蔭で、無駄に野菜が虫に食われることもない。じゃけえ私は必要なこと以外なんもせん。ただ見守っとるだけじゃ。なんでもね、自然に任せるのが一番なんじゃよ」
 老婆の言葉はナギの心に染みた。
 その畑で採れたトマトは、一口で力が漲ってくるような感じを覚えた。それはまるで島の植物たちを思い起こさせる味だった。

 日の暮れかけた道を、野菜がたくさん入った籠を両手で抱えながら歩いていると、小さい子どもたちが数人、走りながら後ろから追い抜いて行った。
 その姿をぼんやり見送っていると、急にどんっと背中を押された。
 ふらっとよろめいた瞬間、籠が傾き野菜が転がり落ちてしまった。
 慌てて腰を屈め、拾おうとすると、ぶつかった子どもは一度こちらを振り返ったが、そのまま走り去ってしまった。
 ひとつひとつ拾い集めていると、
「はい、これ」
 一人の少年がトマトをこちらに手渡してくれた。
「ありがとう」
 受け取ると、少年はなおも手伝ってくれた。
 歳の頃はわからないが、立ち上がるとナギの肩ぐらいまでの背の丈である。
 すべて拾い終え、あらためて礼を言うとナギは、
「これ、もろうたもんじゃけど。食べて」
 トマトを一つ差し出した。
 少年は黙って受け取ると、なにも言わず駆けて行ってしまった。
 ナギはほんの少し心が温まった気がして、家路を行く足取りも、心なしか軽くなった。


 早朝、家畜に餌を与えていたナギは、にわとりに混じって小鳥が餌をついばむ姿を微笑みながら見つめていた。
 いつしかナギの両肩や周囲にはたくさんの小鳥たちが集まって来た。
 一日のうちで最も心癒されるひと時である。
 指に小鳥を乗せ、時を忘れて戯れていると、
「ねえちゃん」
 振り向くと昨日出会った少年が立っていた。
「その鳥、なんでそんなに懐いとるんじゃ?」
「皆、友だちじゃけえ」
「友だち?」
「そうじゃ。島におる時から、ずっと友だちじゃったんよ」
 少年は理解できない様子で首を傾げていたが、
「俺が近づいたら、絶対逃げるじゃろう?」
 少年は自分が近づいた途端、小鳥が一斉に飛んで行ってしまうと思っているのか、こちらに来ようとせずその場から尋ねた。
「大丈夫じゃきっと」
「本当か?」
 ナギが小鳥を乗せた指を差し伸べると、少年は恐る恐る近づいて来た。
「ほら」
 肩に乗せてやると、少年は一瞬肩を竦めたが、少しして、小鳥が飛び立つ様子がないことがわかるとほっと肩の力を緩めた。
 するとしだいに、先ほどまで強張っていた少年の顔がしだいに緩んで行った。
「ねえちゃん、俺、昨日もらったトマトの礼を言いに来たんじゃ」
 鳥と触れ合いながら、明らかに先ほどとは違い、口調まで明るくなっている。
「あら、お礼を言うのは私のほうじゃ。落ちた野菜を拾ってもろうて、とても助かったんよ」
 ナギは少年がわざわざそれを言いに来てくれたことが嬉しかった。
「俺、昨日はろくに礼も言わんで帰ってしもうたけえ、悪かったと思うて」
「ええんよ。そんなこと気にせんでも、それよりトマト、美味しかったじゃろう?」
 少年は笑顔で頷いた。
「それなら、今日これからまた、そのトマトをくれた人の家に行くつもりじゃけえ、一緒に行かん?」
 少年は少し躊躇っていたが、
「俺が行ってもええんか?」
 と不安げに言った。
「やることが一杯あるけえ、人の手が欲しいと思っとったんよ」
 少年は、
「それじゃあ、ちょっとだけ」
 と遠慮がちに答えた。
 
 その日、ナギが少年をともない佐々木老婆の家を訪れると、一人でやるより、かなり作業がはかどった。
 老婆は大変喜び、少年にもと、礼に野菜を持たせた。
 翌日少年は村の子どもたちを引き連れて来た。
 そして皆で庭の雑草をすべて刈り取った。
 見違えるようにすっきりとした庭を見て、佐々木老婆は満面の笑みで、
「おやまあ、みんなありがとうよ」
 礼を述べ、子どもたちにもまた自慢の野菜を配った。

 後に、それを食した母親たちが野菜の味に驚き、老婆のもとに集うようになった。
 そうしてその栽培方法を学び、自家の畑に取り入れるようになった。
 次第に、そこに通うナギも、少しずつ、村の人々の中に溶け込むことが出来るようになって行った――。


 ナギは毎日のように、独り暮らしの佐々木老婆の家を訪れ、家の手伝いをするようになった。
 老婆の家はほとんどが自給自足で、野菜以外の食物などは、老婆の弟やその息子夫婦などが届けに来ていた。
 そこでナギも、老婆の負担にならないよう自宅で老婆の分の弁当を拵え、ともに昼に食したりしていた。
 畑仕事を終え、二人で昼食をとっていると、老婆はいろいろな話を聞かせてくれた。
 島に於いて、ナギは母親や一朗から読み書きを習い、書物などはボロボロになるまで読みつくした。だが書物に書かれていないことに関してまだまだ知らないことが多く、祖父母の話をはじめ、こうして老婆の話を聞くことは、なににも代えがたい貴重な体験であった。
 老婆はとくに多くの昔話を多く語り聞かせてくれ、毎日のようにいろいろな物語を語ってくれた。またその語り口が絶妙で、怖い話などは本当にどこかになにかが潜んでいそうで、ナギは思わず震えながら辺りを恐る恐る見回してしまうほどだった。
 その日、近所の子どもたちが訪れる時間に合わせ、ナギがトウモロコシをふかしていると、やがて、
「こんにちわー」
 と、学校を終えた子どもたちが家の手伝いを終え、数人揃ってやって来た。
 子どもや孫のいない老婆が寂しくないよう、毎日のように顔を見せに来てくれるのだ。
 老婆は顔をしわくちゃにして、
「おお、おお、よう来たなあ。ほれ、トウモロコシじゃ、たくさんお食べ」
 と、子どもたちに振舞う。
「ばあちゃんちの野菜は、ほんまにうまいのう」
 子どもたちは「うまい、うまい」と口一杯に頬張る。
 その姿を見て、益々老婆が目を細めた。
 子どもたちも老婆の昔話をとても楽しみにしているのだ。
 ナギにとっても老婆の語りは、何度聞いても聞き足りないほどであった。
 そのうちに、
「おばあちゃん、こんにちわ」
 幼い姉弟を連れた女の子たちがやって来た。
小さな子たちは、大きい子たちと遊んでいるうちに、時折迷子になってしまうことがある。
 ナギはその姿を度々見掛け、小さい子たちをまとめて遊ばせたりしていた。
 兄弟姉妹のいないナギにとっては、こうして沢山の子どもたちと触れ合えることはなにより幸せだった。
 だが……ナギはそれを心から喜ぶことなどは出来なかった。
 自分のせいで犠牲になった龍一のことを思うと、決して笑ってはならないと思うのだった――。
 


 日の暮れかけた岩場で腰を下ろし、海風を頬に受けながら、ナギの口から漏れるのはまた、溜息ばかりであった。
 時折見かける龍一の横顔が以前にも増して暗く沈み、声を掛けようにもなんと言っていいかわからないのだ。
 なにか自分に出来ることはないのだろうか、考えることはそればかりであったが、答えはなかなか見つからなかった。
 その時、
「ナギはよく、ここへ来とるんじゃな」
 ふいに男に声を掛けられ、ナギは驚いて振り向いた。
 人の気配にも気づかないほど、深く考え込んでしまっていた。
「隆生《たかお》さん?」
 龍一と同い年の従兄弟であった。
「なにか、考え事でもしとったんか?」
 彼はゆっくり歩み寄って来ると、ナギの横に腰を下ろした。
 彼とは最近、この浜に来るようになってから知り合った。
 人懐こい笑顔が印象的で、誰にも心を開かない龍一が唯一心を許せる存在であった。
 ナギは、毎日龍一と顔を合わせている彼なら、きっと相談に乗ってくれるかもしれないと思った。
「龍一さんのこと、どうしたらええかわからんの。私には、なにもしてあげることが出来んで……」
 隆生は少し考えている様子だったが、やがて口を開いた。
「ナギの気持ちはようわかるが、こればかりは誰にもどうすることもできん。ナギがいくら悩んでも解決にはならん。それよりもナギが、そのことを気に病んどると、龍一はかえって心配するじゃろう。気持ちを切り替えて、自分の幸せだけを考えればええんじゃ。龍一もきっとそれを望んどるはずじゃけえ」
「でも……」
 ナギには、その言葉を受け入れられなかった。
 出口はどこまでも先が見えない闇に覆われ、ただ暗闇の中を必死に手を伸ばして探っているようである。
 いつかわずかな隙間に光が差し込む日がくるのだろうか。
 今のナギは、ただそれを願うしかなかった……。


 村で夏祭りが行われることになり、ナギは隆生から、気分転換にどうかと誘われた。
 だがとても出掛ける気分になれないと断った。だがそこに龍一も現れると聞くと、それならばと誘いを受けた。
 彼が自分に話したいことがあると言うのだ。
 藍地に色とりどりの朝顔が描かれた浴衣は、祖母がわざわざ反物から仕立ててくれたものだった。
 人の優しさに触れるたび、ナギは心に染みて胸が温かくなる。
 神社に向かうあぜ道を、隆生の少し後ろから歩きながら暗い足元に目を向けると、初めて履く下駄がカランコロンと音を立てて夜道に鳴り響く。
 小気味良い下駄の音に、ふと島での生活が懐かしく思い起こされた。
 島では一朗が、ナギのためにいつも草履を編んでくれた。
 ナギはすぐに草履をすりへらしてしまったが、一朗はその都度、ナギの足に合わせて一生懸命編んでくれた。
 いつも自分のために文句一つ言わず草履を編んでくれるその姿を見て、ナギはもう、すぐにすり減らすような歩きかたはしまいと心に決めた。
 その日から、歩く時には草履を気にしながら歩くようになった。
 ナギは、自分が身に付けるものや口にするもの、その他すべてのものから絶えず恩恵を受けているのだと幼い頃から感じていた。
 どんなものでも大切に扱わなければならないのだと思い、日々感謝の心を失ってはいけないと思っていた。
 今、一朗の作った草履をなつかしく思い、血のつながらない自分のためにいろいろなことをしてくれたことを思い出し胸が熱くなった。
 だがそれは、本来自分が受けるべき愛情ではなかったのだということも決して忘れてはならないと心に留めながら。
 
 提灯の明かりの下、村人が輪になって踊っていた。
 所々に出店が並ぶ参道の端で、龍一が杉の木にもたれて立っていた。
 隆生は駆け寄って行き、手の甲で軽く額の汗を拭いながらほっとしたように声を掛けた。
「龍一、待たせて悪かったな」
 日が暮れてから時折風も吹きはじめ、真昼よりは多少過ごしやすいが、少し動くと汗が滲んでくるほど、いまだ夏の盛りである。
 龍一は顔を上げるとナギに向かい、暗く沈んだ表情で言った。
「ナギ、俺が今日ここへ来たんは、おまえが俺に遠慮して、祭りにも来られんと聞いたけえじゃ」
「龍一さん……」
 龍一は一呼吸おいて、再び口を開いた。
「もう、俺のことは一切構わんで欲しい、俺に遠慮されても、かえって迷惑なんじゃ」
 彼が自分に言いたいことがあるとは、こういうことだったのだ。あまりにも冷たく突き放した言いかたであった。
 隆生が見かねたように口を挟んだ。
「そんな風に言わんでくれ龍一、俺もナギちゃんも、おまえのことが心配なんじゃ」
「それがかえって迷惑なんじゃ」
 龍一は語気を強めた。
 隆生はなにも言い返せず押し黙ってしまった。
 龍一は、再び顔の向きを変え、立ち竦むナギに向かって言った。
「ナギ、過去のことは、おまえにはなんの関わりもない。俺とおまえはもともとお互い存在さえ知らんかった仲じゃ。じゃけえ、もとから俺たちは会わんかったんじゃと思うて、もう俺のことはもう気にせんで欲しい。そして今後一切、俺のことは忘れて欲しい」
「でも……」
「俺は、自分のために誰かが苦しんだり、犠牲になったりすることを望んではおらん。そんな思いは俺だけで十分じゃ」
 龍一は忌々しげに言葉を吐いた。
「龍一さん」
 目を逸らし、言いたいことはそれだけだとばかりに背を向けた。
 背後からナギは訴え掛けた。
「忘れることなんて出来ん。会わんかったことになんて思えるわけがない。龍一さんのせいで苦しむ人なんて誰一人おらんの。みんなあなたを心配しとる、じゃけえ、そんな風に言わんといて」
 龍一は、つと足を止めた。
「俺のためを思うてくれるんじゃったら、俺の望むように、このまま放っておいてくれんか」
「龍一さん」
 彼は二度と振り返らなかった。



 夕日の傾きかけた海辺で、濡れた髪からしたたり落ちる雫をそのままに、ナギはいつものように岩場に腰掛け、揺れる波を見つめていた。
 龍一はあれから益々表情が固くなり、隆生でさえもはや遠慮がちになるほど近寄りがたくなってしまった。
ナギは酷く後悔していた。
 自分のせいで、龍一は自身の存在さえ消し去ろうと更に心を閉ざし、叔父以外、一切の関わりを絶ってしまったのだ。
 まさか自分が、更に龍一を追い詰めてしまうなど、思い図ることさえ出来なかった。
 ナギは自分の愚かさを呪った。
 いっそ自分がこの村からいなくなってしまったほうがよいのだと思った。
 だがそれをすれば、母や祖父母、一朗に申しわけが立たない。
 どれだけの深い愛情を注いでくれたか計り知れない、そんな人たちを裏切ることだけはできない。
 なにかしたいのに、なにもすることが出来ない。
 ナギは必死に、龍一の凍った心を溶かず術はないのか考えた。
 だがいくら考えても考えても、やはり答えは出なかった。
 
 やがて日が沈み、大きく溜息をつきながら立ち上がると、気づかぬうちに後ろに人が立っていた。
 隆生かと思いきやそこにいたのは、あの、村に来て初めて、血のつながりを感じた男であった。
「あなたは……」
 その男は、母がナギと実家に身を寄せるようになってまもなく、一度だけ会いに来たのだ。
 その時の、人を射竦めるような眼光は、村に来て初めて、人に対する恐れを抱かせるものだった。
「ここにおったんか」
 男は威圧するように鋭い眼差しを向けた。
「な、なんでしょうか」
 その眼に捉えられ、怯えつつ尋ねると、男は急に声色を変えた。
「そんなに、怖がらんでええ、俺はおまえを引き取りに来ただけじゃ」
 少しだけ表情を緩めた。
「え? どういうことですか?」
 男には家族がいる。そこに自分を引き取るとは……。
 理解出来ずにいると、
「俺はな、おまえの母親を許してやってもええと思うとるんじゃ。昔のことを水に流してやってもええと思ってな。ほんで、おまえの母親が戻って来る気になれば、今おる家族を追い出してもええと思うとるんじゃ」
「え?」
 驚くナギに構わず、男は言葉を続けた。
「それを、さっきおまえの母親に伝えに行ったんじゃ。そうしたら、戻る気はないと言いよった。俺が折角出向いてやったんに。俺はな、今まで欲しいものはなんでも手に入れてきた。村一番の器量よしと言われたおまえの母親もそうじゃ。それなんに、おまえの爺さんときたら、こぶつきの出戻りじゃが誰かもろうてくれんかと村のもんにふれ回っとったそうじゃ。それを聞いて俺は黙っておられんでな。誰かほかの奴んところにいかせるくらいなら、俺がまたあいつをもろうてやろうと思うたんじゃ。それに、俺には娘のおまえに対して、親としての責任がある。じゃけえ、まずはおまえだけでも俺の家に戻ってもらおうと思うてな。そんでおまえがまず、母親を説得するんじゃ」
 口調は優しいが、目付きは相変わらず鋭かった。
「あなたは、誰ですか? 私のお父さんはもう死んだと……」
 ナギが言うと、
「おまえ、まだそんなことを言うとるのか? おまえは俺の娘じゃ。顔を見れば誰でも納得するじゃろう」
 ナギはそれでも納得出来ずにいると、
「とにかく、俺はおまえに対して責任があるんじゃ。じゃけえ今すぐ俺の家に来い。俺のところに来れば、なに不自由ない暮らしが出来るんじゃ」
 ナギが警戒していると、
「ええけえ、俺の言うことをきけ」
 急に腕を掴まれ、抵抗出来ない力で引っ張られ、
「でも……御家族が」
 そう言うと、男は平然とした顔で答えた。
「今の家族など、体裁を取り繕うだけの存在じゃ。未練なんぞないわ」
「そん……な」
 ナギは絶句した。
 家族を追い出すなどとんでもないことだ。ナギははっきり告げた。
「私は、あなたのところには行きません」
「まあ、なにも今すぐにとは言っとらん。取り合えずおまえには、母親を説得してもらおうと思うたんじゃ。おまえも、今のような貧乏暮らしより、俺の家で暮らしたほうがええに決まっとる。一度来てみればそれがようわかるはずじゃ。一度試しに俺の家に来てみい。おまえも俺の娘なら、すぐに俺が言っとることがわかるじゃろう。それからおまえが、母親を呼び寄せればええんじゃ」
 ナギに反論する間も与えず男は、
「今日はそれを伝えに来ただけじゃ。よう考えておけ」
 終始高圧的な態度で、背を向け立ち去って行った。

 家に戻り、ナギが男の言葉を伝えると、母はやはりとんでもないとばかりに大きく首を横に振った。
 母はあの男に見初められて嫁いだそうだが、当時女は自由に結婚相手を選ぶことは出来ず、親の決めた相手と結ばれることが当たり前であったらしい。
 男は気に入らないことがあると、毎晩のように酔って暴れたのだそうだ。
 母は結婚前、既に自分を身篭っていたという。
 長い間、母が島を出る決心がつかなかったのは、娘である自分を、生涯安住の地で、誰の手によっても穢されることなく自分の手で守り通したかったのだという。
 だがそれが最善の道ではないことも承知しており、そのことで母は随分悩んだのだと言った。
 それになにより、なにも言わずにいなくなったことで長年心配しているであろう、村の両親のことが気がかりでならなかったと。
 だが、父が再婚し子どもを設けたことを知り、ようやく島をでる決心をしたそうだが、その結果まさかこんなことになるとは思わなかったと嘆いた。

 ナギは、母が嫌がるとわかっていて男に従う意志はなく、翌日自分から男にその申し出を丁重に断りに行った。
 男は苦々しげに顔を歪めていたが、その夜になり、急に大声で「戸を開けろ」と怒鳴り込んで来た。
 鬼のように顔を真っ赤にしており、吐いた息からぷんと酒の匂いが漂ってきた。
 かなり酔いが回った様子であった。
 戸を開けるなり、男はよろめきながら居間に上がりこみ、ナギの手を掴むや、強引に連れ出そうとした。
 祖父や、騒ぎを聞いて駆けつけた近所の村人に助けてもらわなければ、どうなっていたかわからなかった。


 その日から、毎晩のように男は酒に酔って現れるようになった。
 用心して家の戸をすべて締め切り、決して中に入れることはなかったが、門の外で大きな声で喚くのだ。
 それが積み重なるにつれ、母は昼間も外に出られなくなり、日に日に衰弱して行った。
 ナギはとても母を見ていられず、何度も、あの男のもとへ行くといったが、母はそれだけは絶対に駄目だと譲らなかった。

 ある夜、家の人が皆寝静まった頃、ナギは突然母に揺り起こされた。
 眠い目をこすりながら起き上がると母は小声で、
「ナギ、今すぐここを出るんよ」
 耳元で囁いた。
「え?」
 驚いて声をあげるナギに、
「お願い、大きな声を出さんで。なにも言わんでお母さんに付いて来て」
 有無を言わせず手を掴み、強引にナギを立ち上がらせた。
 勢いに逆らえず母に従い、連れて行かれるままにやがて浜に出ると、ナギはやっと口を開いた。
「お母さん、いったいどこへ行くつもりなん?」
 だが母は足を止める気配はない。
「とにかくここを離れるんよ、出来るだけ遠くに。あの人が追って来れんところまで」
 ひたすら先へ進む。
 ナギは母の剣幕に押され付き従うしかなかったが、歩きながら、本当にこれでいいのだろうかと思案していた。
 このまま逃げることしか出来ないのだろうかと。
 逃げたところで、いつか見つかるかもしれない不安に怯えて暮らすことになるのではないか。
 それに母と二人、見知らぬ土地でどうやって暮らして行こうというのか。
 島では一朗がいた。
 それだけで十分安心して暮らせた。母がどれほど彼を想い慕っているか、ナギは痛いほど感じていた。
 だがこのままでは、自分のせいで母は一朗のそばからも遠く離れることになってしまう。
「私、行かん」
 ナギは、足を止めた。
「なにを言うとるん。もう、こうするしかないんよ」
 母は聞き入れずナギの手を引っ張り先に進もうとする。ナギはそれでも決して動かず、
「私、あの人のところに行く」
 はっきりそう口にした。だが母は間髪入れず、
「いかんっ。それだけは絶対にいかん」
 声を荒げた。だがナギは一歩も引く意志はなかった。
「逃げても、なんの解決にもならんと思うんよ。それに、あの人は、本当は私の父親じゃろう? 」
 その言葉に、母は驚いて目を見開いた。
「違うっ、あの人はナギの父親なんかじゃないっ」
 だがもう、ナギはその否定を受け入れることが出来なかった。
 ナギは本能で、あの男との血の繋がりを感じていた。ナギの中に流れる血を。
 自分は母に似ていない、あの男によく似ていた。
 あの男が父で、その娘だといえば、誰もが納得するだろう。
 ナギは再び口を開いた。
「真剣に頼めばきっと聞いてくれるはずじゃ。話してわからん人なんておらんと思うんよ。私、お父さんの言う通りあの家に行く。そしてどうするんがええか、答えを探したい」

「いかん、絶対にいかん」
 母は頑として聞き入れようとしない。だがナギはもう心を決めた。
「心配せんで。必ずお母さんのところに戻って来るけえ」
 母の手を振り切り、来た道を戻って行った。
 

 海を臨む高台に、古くからまつられている神社がある。
 その階段を降りた通りの角に、ナギの父親の屋敷があった。
 ざっと見ただけで周りの家の三軒分ほどの広さがある。
 玄関の前でしばし立ち尽くしたナギは、大きく息を吐くと覚悟を決め、呼び鈴を押した。
 ほどなくして、父の後妻が訝しげに現れた。
「なにか、御用ですか?」
 無表情に瞬きもせずに問う。
「あ、あの私、父に、会いに来ました」
 後妻はナギを上から下まで見下ろした後、
「お待ち下さい」
 と、奥へと消えて行った。
 しばらくして後妻が顔を出し、
「お入り下さい」
 と中へ招いた。
 庭に面した長い廊下を渡ると、ガラス越しに見える庭木は一様に丸く刈り込まれ、自由に枝を伸ばす木など一つとしてなかった。
 広い庭には大きな池があり、ひとところに鯉が群れていた。
 後妻は突き当たりの部屋の前で立ち止まった。
「お客様をお連れしました」
 すっと障子戸を開ける。
 和室の奥では床の間を背に、父が胡坐をかいていた。
「よう来たな、ナギ」
 父は煙草を吸いながら、そこへ座れと指の先で指し示した。
 ナギは目の前に座し、深いお辞儀をした後、ゆっくり顔を上げた。
「お願いがあって来ました」
 父を正面から見つめた。
「なんじゃ」
 煙を吐き出し、斜めからこちらを見据える。
「もうあの家に、怒鳴り込んで来たりせんで欲しいんです」
「それはおまえしだいじゃと言うとろうが」
 父は即座に言葉を返した。
 ほかに道はないのだと言わんばかりである。
「では、私がこの家に来たら、言うことを聞いてくれるんですか?」
「じゃけえ、最初からそう言うとろうが」
 父は面倒くさそうに言った。
 ナギは父のことをなにも知らない。
 だからまず父を知りたいと思った。知った上で解決の方法が見つからないなら、自分に出来ることはもう一つしかない。
 今はただ、父を知ることでなにかが変わることを信じたかった。

 その日の夕食は、今までに見たこともない豪華な料理が並んでいた。
「ナギ、この家におったらな、こんなもん毎日食べて暮らせるぞ」
 父は腹をさすりながら上機嫌であった。
 父の両親や、傍らに座る後妻は誰とも目を合わせなかった。
 五歳の義妹と、その一つ下の義弟は母親と同じようにただ、黙々と食べ物を口に運んでいた。
 会話は一切なく、ナギは子どもたちに積極的に話し掛けるが、聞こえていないかのように俯いたままだった。

 夕食後、与えられた部屋に戻ると、戸を閉めるなりナギは膝から崩れ落ちた。
 床には既に布団が敷かれている。
 ナギは持参して来た荷物を開け、その中からある物を取り出した。
 龍の首飾りである。
 それを躊躇いながらもそっと自分の首に下げ、強く握り締めた。


 翌朝、鳥の鳴き声で目を覚ましたナギは、早速家の手伝いをしようと起き上がり布団をたたんだ。
 台所に向かうと、野菜を刻む音が聞こえ、魚介の出汁の香りが漂って来た。
 父の後妻がせわしく朝食の用意をしているところへ声を掛けた。
「私も手伝います」
「あなたは、そんなことせんでええんです。仕度ができたら呼びに行きますけえ、部屋で待っとってください」
 こちらへ顔を合わせる余裕もない様子で、湯気が噴出す鍋の蓋を開ける。
 魚の焼け具合が気になったナギが菜箸を手に取り、確認しようとすると、
「やめて下さい。私が主人に叱られるんです」
 後妻は慌てて菜箸を取り上げた。
「でも……」
 ナギがそれでも手伝いたくてうずうずしていると、
「早う、部屋へ戻ってください」
 後妻はきっと睨み付けて来た。
 ナギがそれでも立ち去る気になれず留まっていると後妻は、
「わからんのですか。なにもせんでください。私が怒られるけえ、言うとるんです」
 激しい剣幕で怒鳴られた。
 ナギはなにも言い返せず後ろ髪引かれる思いで、すごすごと部屋へ下がって行った。
 手持ち無沙汰で部屋に戻ると、ほどなくして後妻が呼びに来た。
 朝食もやはり、父以外は皆静かだった。父も夕べのように酒を飲んで上機嫌な時とは違い、朝はあまりしゃべらなかった。
 食事時はいつも、皆と語らうことが楽しみであったナギにとって重苦しい雰囲気であった。
 ナギは父親に、この家で世話になる以上、家の手伝いはさせて欲しいと願った。
 父はそんなことは必要ないと言うが、どうしてもと頼むと、勝手にしろと言った。
 すると父は、そんなことより身の回りの物を揃えようと言い、ナギは買い物に誘われた。
 だが、必要なものは持参して来たのでいらないと言うと、
「ええけえ、黙って付いてくればええんじゃ」
 凄んだ眼で睨み付けられた。
 だがナギは怯むことなく言い返した。
「私のためじゃったら、いらんと言うとるんです」
「おまえ、親に歯向かうつもりか」
 気が付くと周りの者は皆、黙ってこちらの様子をうかがっている。
「歯向かっとるわけじゃありません。おことわりしとるだけです」
 きっぱり言い切ると父は、
「おまえのために言うとるのに。なんで言うことを聞かんのじゃ」
 バンっとテーブルを叩く。
「聞けんものは、なにを言われても聞けんのです」
 怯むことなく訴えると、父は再びなにか言いかけた。
 が、次の瞬間思いがけず肩の力を抜き、呆れた様子で、
「まあええ、おまえにはここを気に入ってもらわんといかんからな」
 そう言うとおもむろに立ち上がった。
 去り際に、
「その言いかた、まるでおまえの母親にそっくりじゃ」
 呟いて自室に戻って行った。
 
 だがことわったにも関わらず、父はその日、大量に服や靴、その他身の回りの物を買って来た。
 ナギはいらないと言ったが、強引に部屋の中に運び込まれてしまった。
 だがナギは、その一切に手を触れる気はなかった。


 この家で暮らすようになって数日が経過した。
 相変わらず後妻は、必要なこと以外口をきいてはくれず、祖父母はまるで、そこに存在していないかのように存在していた。
 宮前は余計な出費を嫌い、使用人は一切雇わず、家のことは父母や妻子にやらせていた。
 ナギは日中、やりたいことは自由にやらせてもらえたが、家のことは、後妻になに一つやらせてもらえなかった。
 そんな中、早朝、ナギが皆に気付かれないよう戸外で庭の草むしりをしていると、背後に気配を感じ振り返った。
 そこには義弟が、ナギをこれでもかと睨みつけていた。
 いけないことをしてしまったとナギが立ち上がり、
「ごめんなさい。余計なことをしてしもうて」
 謝ると、義弟はふんっと鼻息を荒げ、草をむしりはじめた。
 ナギは恐る恐る、
「ちょっとだけ、手伝うてはだめ?」
 問うが、更にきつく睨まれ、しかたなく部屋に戻らざるを得なかった。
 ナギは、当然だと思った。
 自分にとって義弟は、後妻や義妹ともども、その身を脅かすだけの存在なのだ。
 勿論ナギにそのつもりなどなかったが、この先どうすべきか、突破口がなに一つ見つからない今、無力さを悔やむばかりだった。

 その日、日暮れ時になり、ナギが佐々木老婆の家の手伝いを終えて帰宅すると、宮前の屋敷の手前辺りで義弟が立ち往生していた。
 見ると、向かい側で一匹の黒い中型犬が、義弟に向けて牙を剥き出し、低い唸り声をあげている。
 この辺りでは見掛けたことのない犬で、毛並みは荒れ、所々毛が剥げ落ちている箇所もある。
 何処かから行き場を失い、この土地に辿り着いて来たのだろうか。
 犬は、義弟が一歩でも近づけば、即座に襲いかからん勢いであった。
 ナギはなぜこんなにも犬が怒っているのだろうと不思議に思った。
 だが、よくよく目を凝らすと、犬の額に僅かに血が滲んでいた。
 そして義弟の右手には、掌からはみ出すくらいの石が握られている。
 ナギが、
「もしかして、石を投げたん?」
 囁くように言葉を掛けると、義弟は小さく頷いた。
 それによく見ると、犬の右足が僅かに曲がっている。
「あの足も? あなたが?」
 問うと義弟は、
「あれは父さんが」
 そう答えた。
 ナギは愕然とした。
「なんてこと……」
「じゃって、この間も、家の残飯をあさっとんじゃ」
 義弟は犬を痛めつけるのは当然だと言わんばかりにそう言った。
「きっとお腹が空いとっただけじゃ。なにも痛めつけることはないじゃろう」
 ナギの言葉に、義弟はなにも答えなかった。
 犬の怒りは当然であった。
 ナギはゆっくりと、犬の動きをうかがいつつ、義弟の前に歩み寄った。
 そして腰を落とし、右手をそっと差し出した。
「ごめんなさい。私の父と弟が、あなたに酷いことをしてしもうて。許してなんて言わん。代わりに、あなたの受けたその痛みを、私にぶつけて」
 犬の目を見つめ、そう語り掛けた。
 犬は尚も攻撃の姿勢をやめず、唸りながらナギを睨みつけている。
「さあ」
 ナギが右手を更に伸ばすと、犬は躊躇なくナギに襲い掛かって来た。
 ナギは、犬を丸ごと受け止める覚悟で、微動だにしなかった。
 犬は容赦なくナギに牙を剥く。
 義弟が、
「ねえちゃん、避けろ」
 叫ぶがナギはピクリとも動かなかった。
 犬の鋭い牙が、ナギの右手をまるごと噛みちぎろうと大きく牙を立てた。
 ナギの右手から、つうっと一筋の血が流れ落ちる。
 ナギがその痛みに顔を歪めた時。
 急にぴたり……と犬の動きが止まった。
 そしてしだいに攻撃の姿勢をやめ、ナギの傷をペロペロと舐め始めたのだ。
 ナギは、
「ごめんね。本当にごめんなさい」
 なんども犬に謝った。
 義弟は、
「ねえちゃん……」
 呟くと、しばらく犬を眺めていたが、
 やがて犬に向かい、
「俺も……」
 そう言って頭を下げた。 
 
 その後、犬はナギの母親の家で飼うことになった。
 義弟は時折、犬を訪ねて行くようになった。
 もともと犬が欲しかったようで、一旦犬と戯れると、日暮れまで帰らないこともあった――。


 ナギは、宮前の家で暮らしていくうちに、この家族について不思議に思うようになった。
 父の妻子は皆おとなしく、ナギのように逆らうことなど決してない。
 父も子どもに対しては、逆らいさえしなければ普通に接し、毎日が穏やかに過ぎ、父が家族を追い出す必要などどこにもないのではと思われた。
 ナギは父のいる部屋を訪れ、その疑問を投げ掛けた。
「おまえは、俺が幸せに見えるか?」
「はい、十分幸せに見えます。なんの問題もなく毎日が平穏に感じます。それなのに、なぜ、大切な家族を追い出してまで、この家に来ることを嫌がる母を、わざわざ呼び寄せようとするんか、私にはわからんのですが」
 父は少し間を置いた。
「俺は、今まで欲しいものはなんでも手に入れて来たと言うたじゃろう。おまえの母親をもろうた時、誰もが俺を羨んだんじゃ。なんといっても村一番じゃけえな。じゃけえほかの誰かに盗られるんは、絶対に嫌なんじゃ」
 拳を強く握り締めた。
「でも……」
 ナギにはその理由が理解出来なかった。器量がどうこう言うなら父の後妻も決して周囲に引けを取らない。本当にそれだけが理由なのだろうか。どうもそれだけではない気がしてナギが納得出来ずにいると、父は少しだけ口調が穏やかになった。
「まあ、また逃げられても面倒じゃけえ、今度は俺も少しはあいつの言うことを聞いてやってもええと思うとる。あいつだけじゃったんじゃ。俺に唯一逆ろうたんは」
 ふっと煙を吐き出した。
 そのひと言に、ナギは少しだけ、父の心を垣間見た気がした。
 父の周りには誰も逆らうものはいない。誰もが父を恐れ、本気で向かおうとしないのだ。
 そう思うと、父には心から打ち解けられる相手がいないように思えた。祖父母でさえ父には遠慮がちである。
 誰も寄り付かない父は常に孤独なのではないか。
 父自身がそういう現状を作り出してしまったこともあるが、逆らわないのはそのほうが楽だからだ。
 ナギも出来るなら波風立てず穏やかにやり過ごしたい。
 だが、受け入れられないものは頑として無理なのだ。
 父を説得したいのではない。ただわかって欲しいだけだ。
 母もきっとそうだろうと思った。逆らっているわけではなく、自の主張を訴えているだけだと。
 父とわかり合うことは難しいのかもしれない。
 だがナギは、そのことを父にわかってもらえなければ、現状は変わらないのだと思った。
 

 父は相変わらず、毎日ナギになんらかの贈り物を用意した。
 いらないと言っても強引に部屋に運ばせるのだった。
 そんなある夜、ナギの持参してきた荷物がすべてなくなっていた。 
 驚いて父に尋ねると、
「ああ、あれは全部捨ててやった」
 ことも無げに言った。
 言葉も出ず、唖然とするナギに、父は服の内ポケットからあるものを取り出した。
「首飾りじゃ。おまえの持って来た物はもうそれだけじゃな。そんなもんみすぼらしゅうてかなわん。代わりにこれを着けろ」
「いりません」
 ナギは隠すように、胸の首飾りを握り締めた。
 不安で押しつぶされそうな時、この首飾りを身に付けることが唯一の慰めだったのだ。
 父は、ナギがあまりにも、その好意を受け取ろうとしないことに、とうとう苛立ちを募らせたのか、
「ええけえ、俺の言う通りにするんじゃ」
 この時ばかりは引き下がろうとしなかった。
 それでもナギが拒否しつづけると、父は声を荒げた。
「黙って俺の言うことを聞くんじゃ」
 ナギの首もとに手を伸ばし、首飾りの鎖を握り締め、ぐいとそのまま力任せに引きちぎったのだ。
「あっ」
 驚くナギを尻目に、父はそのまま庭に面した渡り廊下に出ると、池に向かってそれを放り投げた。
「なんてことをっ」
 あわてて庭に下り、裸足のまま池に飛び込むナギに、父は威圧的に言い放った。
「おまえが言うことを聞かんけえじゃ。あんなもんじゃのうて、これからはこの家にふさわしい物を身に付けるんじゃ。そうすれば、おまえにも少しずつその良さがわかるはずじゃ」
 暗闇の中、ナギは池の底を探り、必死で首飾りを探した。
 だが、なかなか見つからなかった。
 散々探した挙句、もう空が明るくなってからでなければ難しいだろうと一旦諦めた。
 夜が明けたらすぐにでも探そうと思い、しかたなく部屋に戻ることにした。
 だが、玄関を開けようとすると、なぜか鍵が掛かっていた。
 不思議に思い、窓に向かうがどこも開かない。
 入り口はすべて確かめたが、どこからも入ることが出来なかった。 
 戸を叩き、大声で叫んでみるが反応はない。
 父がそうさせたのかと思ったその時、障子戸がすっと開き、後妻が顔を出した。
「あ、開けてください」
 頼むと、無表情のままさっと閉められた。
 ナギは愕然とし、これが答えなのだと思った。
 父の家族がナギの存在を快く思っていないことはよくわかっていたが、やはり本心ではここにいて欲しくはないのだろうと。
 ナギはその夜、明け方まで納屋で過ごさなければならなかった。

 
 時折生暖かい風と冷たい風が入り混じる。ふと、どこかから一片の花びらが風に運ばれ、足元へと舞い落ちた。
 ナギはそれをそっと拾い上げた。
 家の裏手で汗を流しながら薪を割っている龍一のもとに、この花びらのように自然に近づくことが出来たら、と思いつつ家の影からそっと眺めるしかなかった。
 夜の冷え込みは思った以上にきつく、昨夜一晩中外にいたせいか身体が少し熱かった。
 明け方ようやく首飾りを探し出し、中に入れてもらえたが、濡れた衣服を見て父は、
「なんじゃ、まだ探しとったのか」
 と呆れ顔であった。
 ナギはもうあの家にはいられないと思った。かといって母のもとへ戻ることも出来ない。
 戻ればまた、父が毎晩騒ぎ立てるだろうし、ほかに頼れる当てはない。
 そうなれば結論は一つしかなかった。
 自分さえいなければ父は母の前に現れることはない。
 ならば行くところはひとつしかない。幾度も帰りたいと願った、あの島である。
 父が必ず連れ戻しに来るかもしれないが、頑として拒む覚悟だった。
 それでも父のことだ、強引に連れ戻されてしまうかもしれない。
 もし、抵抗虚しく再び連れ戻されたなら、精一杯の抗議をするつもりだった。
 要求が受け入れられるまで、食事など一切口にするつもりはなかった。
 
 だが……その前にひと目龍一に会いたいと思った。
 声を掛けようと思ったが、やはり出来ないと諦めて帰りかけた時、ふいにさあっと、舞い上げるような強い風が吹いた。  
 そのせいで、龍一が首に掛けていた手拭いが地面に落ちてしまった。
 拾い上げ、少し汚れてしまった部分を軽く払っている姿を見て、ナギは懐から自分の手拭いを取り出し、そっと近づいて行った。
「龍一さんこれ、代わりに使うて」
 振り向いた龍一は、
「いや、かまわんでくれ、どうせ汚れるもんじゃ」
 再び肩にかけ、また作業に戻ってしまった。
 ナギはさりげなく、手拭いをそばの木の枝に掛けた。
「さよう…なら」
 震える声でつぶやく。
 龍一はそのまま作業を続けている。
 その凛々しい横顔を見つめながら、ナギは絶対にここで泣くわけにはいかないと必死に堪えた。
 だが、自分の意志と裏腹に込み上げるものは止められず、それを見せまいと顔を背けた。
 別れる間際になって、初めて自分の気持ちに気がついた。
 ナギは幼い頃から一朗を父のように慕っていた。
 その面影を持つ龍一に初めて出会った時、胸が騒ぐのを感じた。
 また、その悲しみと怒りに満ちた瞳の奥にさえ、永年ともに暮らしてきた一朗と同じ誠実さと深い思いやりが溢れていた。
 それはどんな境遇にあっても本質は揺らぐことになかった証であり、その厚い壁を取り除けば本当の素顔が見られるのではないかと思った。
 それに彼は、ナギを突き放す言いかたをして、負い目から解放してくれようとした。
 だが願っても叶わず、彼の心を開けぬままに突然別れはやって来てしまった。
 そのことは一番の心残りである。と同時に、二度とその姿を見られないのだと思うと、悲しみが込み上げ、自然に涙が溢れてくるのだ。
 親切で優しく、笑顔で接してくれる隆生よりも、なぜこれほど龍一に気持ちが傾くのか自分でもわからなかった。
 だがその気持ちは永遠に胸の中に留めておくことになるのだろう。
 彼に聞こえないよう風の音に紛らせ再び「さようなら」とつぶやくと、ナギは下を向いたまま走り去って行った。
 首飾りを返さなければ、そう思いつつ、また放り投げられてしまうかと思うとやはり出来なかった。
 いや本心ではこれだけが今、唯一の心の支えであり手放すことが出来なかった。
 
― 第三部 ―

(龍一)



 夕方から降り出した雨は、夜になり、しだいに激しさを増していた。
 祖父の用事で出掛けていた龍一は、家に戻るや軒下で傘のしずくを払った。
 ふと人の気配を感じ顔を上げると、暗闇の中から誰かがこちらに近づいて来るのがわかった。
 やがて玄関の明かりの下、照らし出された人物はナギの父親、宮前であった。彼は渋い顔をしながら尋ねて来た。
「ナギが、ここに来とらんか」
「ナギが?」
 龍一は玄関を開けて祖母を呼び、彼女が来ているかと訊いた。だが来ていないと言う。
「来とらんようじゃが」
「そうか」
「実はな、夜飯の時間になってもまだ帰って来んのじゃ。母親のところにもおらんで、思いつく場所はすべて手当たり次第に捜し尽くしたんじゃが、もう残る場所はここしかのうてな」
 龍一はふと、日暮れ前に現れたナギを思い出した。思い返せば様子がおかしかった。
「なにがあったんじゃ」
「いや、なんでもないんじゃ。おらんのならしかたない。ほかを探す」 
 龍一はなにか嫌な予感がした。宮前本人が探し歩くなどよっぽどのことがあったに違いない。
 龍一はすぐさま彼の横を通り過ぎ、降りしきる雨の中、飛び出して行った。
 その後ナギを見かけたという情報もあり、一朗や漁師仲間なども加わり、大規模な捜索がはじまった。
 だが、皆総出で探し回ったがどこを探しても見つからなかった。
 龍一はもしやと思いながら船着場へ向かった。
 舟が一艘なくなっていた――。
 すぐさま船に乗り込みいち早く出立したが、風雨によって波は荒れ、視界は最悪の状態であった。
 龍一はもしかしたら、ナギは島に向かったのではないかと思った。
 ナギが父親のもとで暮らし始めたということは知っていた。
 だがそれが彼女の意思だと聞き、それならしかたがないと思っていた。
 その先のことまで思い図る気持ちの余裕はなかったのだ。
 だが日暮れ前に現れたナギはどことなく思い煩った様子で、なにか人に言えない苦しみを内に秘めた様子であった。
 ナギは自分に別れを告げに来たのだ。
 そして彼女が行こうとする先は……。
 

 ようやく島に辿り着くと、舟が一艘打ち上げられていた。
 龍一はすぐさま船を飛び降り、即座に走り寄って行った。
 すると舟のすぐそばに、ナギが倒れ込んでいたのだ。
 龍一はすぐさまナギを抱え上げ、一刻も早く医者のもとへ連れて行こうと船へ向かった。 
 その時、
「待つんじゃ、龍一」
 父の一朗が立っていた。
「父さん」
「これ以上船を出すんは危険じゃ。村のもんにも、俺と龍一だけで行くと伝えて来た。ここは俺を信じて、この島にある俺の家にナギを運んでくれんか?」
「じゃが……」
 龍一が躊躇っていると、
「俺と由紀乃とナギが、十六年間この島から一歩も出ずにやってこれたんは、なぜかわかるか?」
「…………」
「頼む。とにかくここは俺の言うことを黙って聞いてくれ。わけは後で話す」
 龍一は父の真剣さに押され、言う通りナギを家へと運ぶことにした。
 家の中に運び込み、取り敢えず早急に濡れた衣服を着替えさせると、ナギは荒い息を繰り返し、呼び掛けても応える気力さえもう残っていないようだった。
 あの時、ナギの顔は少し赤く心なしか息遣いも多少荒かったように感じたが、もしそのような状態でしかも雨の中、雨から身を守るための術をなにも持たず、ずっとあの浜で雨に打たれていたのだとしたら相当危険な状態である。
 やはりすぐにでも医者に連れて行くべきだと思うが頼みの父は「すぐに戻る」と言い残し、夜の暗闇の中に消えてしまった。
 なにもしてやることも出来ずただ、ナギの流れでる汗を拭き続けていると、しばらく経って、
「すまん、遅くなった」
 父がようやく戻ってきた。
 その手には木製の水入れがあり、蓋を開け、
「これを、ナギに飲ませるんじゃ」
 と差し出した。
「これを?」
「ああ、俺を信じて、飲ませてやってくれ」
 龍一はとにかくここは父の言うことを信じ、ナギを少し抱き起こした状態で、それを口に含ませた。
 だが口の端から零れ落ちるばかりで喉の動きが僅かにも認められない。
 龍一は今度は自分がそれを口に含み、口移しにナギに与えた。
 すると今度は零れ落ちることなく受け入れたようだった。
「これはなんじゃ?」
 少し口に苦味を覚えつつ父に尋ねると、
「薬草を煎じたもんじゃ。ここに来てどんなに酷く体調を崩しても、これで大概はようなったんじゃ」
「薬草……」
「ああそれにな。なんといってもここの水じゃ。ここの水はな、特別なんじゃ。多少の切り傷なら数日水で傷口を洗うだけでいつの間にかなにもなかったかのようにようなってしまう。ここで三人で暮らしてこられたんも、ここの水のお蔭なんじゃ」
「水の……」
 そういえば、と龍一はこの島にきてナギに島の奥に案内された時、促されて泉の水を口に含むと、なんとも言えず精気が漲るような心地がしたことを思い出した。
 ナギは、しばらく苦し気に顔を歪めていたが、そのうちに気を失うかのように眠りについてしまった。


 小鳥のさえずりに目を覚ました龍一は、傍らに眠るナギの顔色をうかがった。
 開けた窓から差し込む日差しは、ナギの体を少しずつ暖めていくようだった。
 ナギはもう高い熱にうなされている様子はなく、だいぶ呼吸も整い落ち着いて眠っていた。
 龍一は……ただただ驚きを隠せなかった。
 たった一夜でここまで回復するものかと。
 始めは父の言うことが信じられず、ナギの容態が悪化するようならすぐにでも村へ連れて行こうと思ったが、あれからナギは危険な状態に陥ることもなく、かえって容態は徐々に安定していったのだった。
「ナギ、大丈夫か?」
 呼び掛けると、わずかに目を開けた。
「龍一……さん」 
 龍一は安堵しつつ、水を汲みに行っている父に、ナギが目を覚ましたことを伝えに行こうとすると、入口の扉がそっと開き、由紀乃が顔を出した。
「ナギっ」
 由紀乃は娘の姿を確認するや、すぐさま駆け寄ってきた。
 叔父が連れてきたようで、叔父は家の外からこちらに目くばせした。
 由紀乃はナギの顔や体に手を触れ、ほっとした様子で、
「良かった、無事で……本当に、良かった」
 涙交じりに呟いた。
「お……母さん。ごめんなさい」
 ナギが謝ると、
「謝らんといかんのはお母さんのほうじゃ。ごめんねナギ、本当にごめんね」
 ナギの手を、由紀乃は強く握りしめた。
「お母さん、私」
 ナギがなにか言い掛けた時、バンっと荒々しく戸が開き、宮前が現れた。
 地元の漁師に大金でも渡し、連れて来させたのだろう。
 宮前はどかどかと家の中へ押し入ると、
「帰るぞ、ナギ」
 遮る由紀乃を振り払い、ナギの腕を掴んだ。
 すかさず龍一が、
「あんた、なにしとるんじゃっ」
 一喝すると、
「俺が娘になにをしようと、おまえに関係ないじゃろう」
 宮前はナギを強引に立たせようとした。
「やめるんじゃ。ナギはまだ、安静が必要な状態なんじゃ」
 そう言うと由紀乃がナギに覆いかぶさり、
「もう、止めて下さい」
 懇願した。
 ナギはその様子を見て、辛そうにその身を起こした。
「お父さん、やめて。私はもう、あの家には戻りません」
 だが宮前は聞き入れようとしない。
「どこへ逃げても無駄じゃ。おまえの帰る場所は、ひとつしかねえんじゃ」
「それでも出て行きます。何度でも」
 そばにいた由紀乃も訴えた。
「お願いです。もう、私たちのことは放っておいてください。この子が、自分からあなたのところに行くと言うた時、本当は強引にでも引き止めるべきじゃったと今は後悔しとります。あなたのことを知れば、この子もきっと私のところに戻って来ると思うとりました。そうなればまた、どんなことをしても、あなたから遠く離れた場所に逃げるつもりでした。この子をこんな目に合わせたんは私のせいです。あなたを僅かでも父親として信用した私が間違うとりました。もう、娘はあなたとは暮らせんと言うとるんです。じゃけえもう本当に、本当に関わらんで下さい。お願いです」
 必死に訴える。
「なんども言わせるな、逃げても無駄じゃと言うとろうが。それにな。お前が俺のところに戻りさえすればすべてが解決するんじゃ。おまえはもう、俺からは逃げられんのじゃ。どこへ逃げても必ず見つけだしてやる。じゃけえもう諦めて、二人で俺のところに戻って来い」
 吐き気がするほどのしつこさだった。
 だが龍一は、ナギと由紀乃を苦しめているのは、この自分でもあると思った。
 ナギをここまで追い込んでしまったのは、この自分であると……。
 三人が、お互い一歩も引かず睨みあっているところへ、龍一は堪らなくなり、宮前に詰め寄った。
「あんた、いい加減にせんか。こんなに二人が嫌がっとるのに、どこまで苦しめる気じゃっ」
「俺はおまえにそんなことを言われる筋合いはない。引っ込んどれ」
 まるで虫でも追い払うような言いかたであった。
 だが龍一は引き下がるつもりはなかった。
 そして、宮前に対してというより、自分自身に対して声を発した。
「俺は、まさかナギがこんなことになるとは思わんかったんじゃ」
 そこまで言うと、
「この責任は俺にある。じゃけえこれ以上二人を、俺のせいで苦しめるわけにはいかんのじゃ」
 鋭く宮前を睨みつけた。
「はあ? おまえになにが出来る。この二人をどうしようと言うんじゃ。また、どこぞの島へでも連れて行くとでも言うんか? じゃが、どこに行こうともう……」
「違う、二人を守るんは俺だけじゃない」
 龍一は次の言葉を一瞬飲み込んだ。
 由紀乃とナギを救えるのはたった一人、永年ともに暮らした父だけである。
 二人が互いに抱く感情など龍一はすでに見抜いていた。
 だが父を許すことはその過去を受け入れることになる。
 それだけはどうしても踏み切れずにいたのだ。
 だがそのせいで犠牲になったのはなんの罪もないナギであった。 
 自分が父と由紀乃の仲を認めてさえいれば、こんなことにはならなかった。
 だが怯える二人を見るほどに、もう言わざるを得なかった。
「俺の、父親じゃ」
 由紀乃が驚いた表情でこちらを見る。
 すると、父の一朗が戻ってきたようすで、
「龍一……」
 信じられないような顔で呟いた。 
 龍一は、
「そう言うことじゃ。じゃけえ、もう二人には構うな」
 だが宮前は、龍一を睨み返しながら凄む。
「この二人は俺のもんじゃ。誰にも渡さん」
「あんたにはもう、それを言う資格はない」
「俺は諦めんぞ、絶対に」
 この期に及んでまだ諦める素振りさえ見せない。
 だが龍一は、更に語気を強めた。
「あんたがそう言うなら、俺も黙っちゃいない」
「おまえになにが出来る」
「俺がこの二人に、絶対に手出しさせん」
 二人押し黙ったまま睨みあっていると、ナギが間に割って入った。
「あの……」
 宮前は顔つきを変えることなく、鋭い眼を向けた。
「なんじゃ」
 ナギは少々怯えながらも口を開いた。
「あの、私、もうあの家に行くつもりはありません。でも、お父さんには、時々会いたいと思うとるんです」
 思いがけないひと言であった。すると宮前はおろか、由紀乃も驚いた様子で、
「なにを言うとるん、ナギ」
 娘を咎めた。
 だがナギは臆せず続けた。
「じゃって、お父さんはこの世でたった一人しかおらん。じゃけえこれっきりにしとうないけえ」
「本当……か?」
 拒絶されるとばかり思っていたのだろう、宮前は疑わしげに問い掛けた。
「おまえは俺を、嫌うとらんのか?」
 ナギは真顔で答えた。
「嫌ってなんかいません」
 宮前はナギの顔を、しばらくじっと見つめた。
 だが龍一も、ナギの言葉が信じられなかった。あれだけのことをされて、どうして憎まずにいられるのだろうかと。
 自分ならとても許すことなど出来ない。
 だがナギは嫌うどころか会いたいとさえ言っている。
 龍一には信じられなかったが、その言葉が、宮前の心に変化を生じさせたことは確かだろうと思えた。
 それに宮前にも、この状況が不利であることをわからないわけではないだろう。
 龍一がこの親子を父親に任せると言った以上、由紀乃もナギもこの先、一朗のもとへ行くことになる。
 それを宮前にはもう、阻止することなどできないのだ。
 誰かのものになる前に由紀乃を取り戻したかったようだが、こうなってしまった以上、もう手出しは出来ないことは宮前にもわかっているはずだ。
 わかっていながらどうしても諦められなかったようだが、娘のナギは宮前のところへは行かないというが、会いには行くと言っている。
 宮前はしばし黙り込んでいた。
 が、やがて呟くように言った。
「おまえの部屋はいつまでもあのままじゃけえ。いつ来ようと構わん」
 次いで、由紀乃に顔を向けた。
「おまえも俺のところに来んか。おまえのために、俺も少しは変わろうと思うとったんじゃ」
 だが由紀乃は首を横に振った。
「今の御家族を、どうか大切になさって下さい。ナギがあなたを訪ねたいというのなら敢えて止めはしませんが、娘を辛い目に合わせることだけはもう絶対にしないと約束してください。あなたが求める幸せは、必ずしも私や娘が望むものではないと、娘と暮らしていてわかったはずです。あなたが今、手にしているものがいかに尊いものであるか、もっと素直に見つめなおしてください」
 宮前はただ、ただ深く項垂れた。



 岩場に向かうと、潮はしだいに引いていき、だいぶ遠くのほうまで足を延ばすことが出来た。
 あらためて龍一は、こんなにたくさんの魚介類を今まで目にしたことがあっただろうかと目を見開いた。
 まさにここは海の宝庫と呼べるものであった。
 あれから父は「すまない」と何度も頭を下げたが、龍一はまだはっきりとは自分の気持ちに区切りをつけることはできなかった。
 先ほどからしばし、澄み渡った海原を眺めていると、ナギが岩と岩の間の大きな窪みを見つけ、そのまま海の中へ頭からすうっと飛び込み、波しぶきさえ上げずに海の底へと消えていった。
 龍一がしばらく待っていると、やがて穏やかな波間にパシャっと顔を出し、片手を上げた。その手には大きな貝が握られている。
 龍一は上着を脱ぎ捨て海へ飛び込んだ。
 やがて岩場の魚を掴み海面から顔を出すと、ナギは再び海へ潜り魚を獲り始めた。
 そこへ龍一が近づき、今度はともに魚を捕まえた。
 ひとしきり収穫した後、龍一とナギは岩場に腰掛け、濡れた体を乾かしていた。
 そばに置いたかごにはたくさんの魚や貝、海藻などが溢れるほどにある。
 龍一はいつの間にか自分が笑っていたことに気付き、驚いていた。
 ナギは衣を羽織り、濡れた髪をほどいた。
「ありがとう、龍一さん」
 澄んだ瞳を向ける。
 村の生活で、様々な辛い思いをしたにも関わらず、彼女の瞳が曇ることはなかった。
 それは龍一にとって唯一の救いでもあった。
「この島で暮らすんは難しいが、またいつか一緒に渡ろう」
「ええの?」
「おまえが望むなら」
 ナギは再び
「ありがとう」
 とはにかんだ。
 ふいに、彼女はなにか思い出したように懐に右手を伸ばした。
 龍一の目の前に、ある物を差し出す。
「それは……」
 かつて手放した、龍の首飾りであった。
「これ、やっぱりこれは龍一さんのもんじゃけえ、どうかまた身につけて欲しいんよ」
「いや、もうおまえにあげたもんじゃけえ、ええんじゃ」
「これは、私じゃのうて龍一さんが持つべきじゃと思うんよ」
 強く言われると、龍一はそれ以上ことわる理由が浮かばなかった。 
 拒めば、彼女は再び落胆するだろうと、黙ってそれを受け取った。
 一度は手放したものだ。それにもうこれからの自分にはもう必要のないものかもしれない。
 だがこれは、やはり自分が持つべきものなのだと思った。
 父の過去は決して今でも割り切ってしまえるものではない。
 一生許すことは出来ないのかもしれないが、父が息子である自分のために、失われた時間を取り戻そうとしてくれていたのはわかっていた。
 それに、かつて由紀乃とナギを連れて島へ渡ったのは、二人を宮前から遠ざけるためだったことも承知している。
 父の額には、戦争で負った深い傷跡が残っていたが、それ以外にも、体の至る所に無数の傷跡があった。
 あの時、父がこの島で二人を守り通す自信がなくなったというのは、多分、そういうことだろう。
 由紀乃を愛していながら、それを決して表に出すことはなく、ひたすらに自分以外の人の幸せを優先している。
 その姿に龍一は、自分の中で徐々に感情が揺れ動いているような気がしていた。
 

 龍一の母は、父とはもともと親同士が決めた仲だったというが、それでもそれなりに幸せな結婚生活を送っていたという。
 実際、龍一も申し分のない家族だと思っていた。
 だが、父が由紀乃と駆け落ちをする前に、母は父の心の変化に薄々気づいていたらしい。
 父が出て行った後、とうに心通わぬ夫をいつまでも待ち続けることなど耐えがたく、その後、龍一を連れて出て行くと言ったのだ。
 龍一は母の申し出を拒み、父を待つと言ったのだが、だがそのことは、父が再婚するまで、母は龍一に心情を明かすことはなかった。
 母として、それだけは子どもに明かす心の内ではないと、固く固く口を閉ざして来たのだ。あくまでも愛し合う両親のもとで龍一は育ったのだと、龍一が物心つくまで、そう思わせていたほうが、龍一が救われると思ったのだ。
 それゆえに、母は父に恨みを抱いてはいないようだが、それでも母は十六年の間、ただひたすらに、再婚など考えもせず、龍一のために父の帰りを待ち続けていたのだ。
 そして母と同様、龍一は、この十六年の間、心休まる日など一日もなかった。
 だが……この先自分の心にどんな変化が生じるかわからない。
 こうして少しずつ自分は変わってゆけるのかもしれない。ただ、ナギの笑顔だけはいつまでも絶やしたくはないと心から思う。
 この先、ナギはたくさんの人間と出会い、恋をし、様々な経験を積み重ねて行くであろう。その果てに彼女がどんな男を選ぼうと、彼女が笑顔でいてくれたらそれでいい。
 ナギを想うこの気持ちはまだはっきりしないが、今は純粋にそばにいて欲しいと思う。いつもその癒される笑顔を見ていたい……。
 龍一は、まるでこの心のように揺れ動く波を、いつまでも見つめていた。
 
― 第四部 ―

(ナギ)

 一

 炊き立ての栗おこわを持参し、ナギが宮前の屋敷を訪れると、
「おお、ナギか、よう来たな」
 いつものように煙草を吹かしながら、父は上機嫌でナギを迎えた。
「栗おこわを作ったけえ、お父さんに食べてもらおうと思うて」
 風呂敷を広げ重箱を差し出すと、父は蓋を開け、
「これは、美味そうじゃな」
 しばらく眺め、
「すまんな、ナギ」
 ゆっくり蓋を閉め、顔を上げた。
 あれから父は、幾分顔つきが穏やかになり、口調も柔らかくなった。
 母はまだ、ナギが父のもとへ通うことを快くは思っていないようだが、あの時、自分だけは父を見放すことは出来なかった。
 心が、それを許さなかったのだ。
 ナギが父に微笑みかけると、障子の向こうから後妻が声を掛けて来た。
「お客様が、みえとりますが」
「だれじゃ?」
 父がたずねると、
「それが……」
 後妻はそっと障子を開け、父のもとへ行くと、口元を手で覆いながら耳打ちした。
 父は途端に不機嫌になり、
「追い返せ」
 声を荒げた。
 後妻は即座にその言葉に従い部屋を出て行ったが、しばらくして戻って来た。
「どうしても……お会いしたいと言うて、帰ってくれんのですが」
 後妻は困った様子でそう言った。
 父は益々機嫌を悪くしたようで、苛立ちながら立ち上がった。
「なんじゃ、折角ナギが来とるというんに」
 そのままドスドスと足音を立てながら玄関へ向かって行く。
 ナギがその場で父を待っていると、しばらくして父の怒号が、ナギのいる奥の間まで響いて来た。
「駄目なもんは駄目じゃ。諦めて帰らんかっ」
「お願いじゃ。このままではとてもとても家族を養っていかれん。じゃけえお願いじゃ」
 懇願する声が聞こえる。
「知るかっ。約束は約束じゃ。守れんほうが悪いんじゃ」
 父の言葉に、ナギはいたたまれず立ち上がり、玄関へ向かった。
 そこには土間で土下座する村人の姿があった。
「なにが、あったんですか?」
 尋ねると、
「ああ、あんたもどうか聞いてくれんか。どうしても、どうしても今月の支払いを待って欲しいんじゃ」
 村人の縋るような目に、
「お父さん、とても困っとるようじゃ。なんとかならんの?」
 ナギが口添えすると、
「おまえには関係ない話しじゃ。余計な口出しするな。部屋に戻っとれ」
 父は、聞く耳など一切ないとばかりにそう放った。
「でも……」
 そう言われて引き下がるわけにもいかずにいると村人が、
「もう……嫁の体の調子が悪うて、どうにもならんのじゃ。ほかに頼るあてものうて仕事もままならん。それでもなんとかしようとしてみたんじゃが、育ち盛りの子どもがおるのに、食べさせて行くのがやっとじゃ。俺一人ならどうなっても構わんが、家族は……」
 苦し気に訴える村人に、ナギが再度、
「ねえお父さん、本当にどうにかならんの?」
 問うと、
「なにを言うとる。どんな事情があろうが俺には関係ない」
 父はまったく聞く耳をもたなかった。
「そう。それなら私が、なんとかする」
 ナギはいたたまれずにそう言った。
 父は驚いて、
「はあ? おまえには関係ないじゃろうが」
 呆れた様子で言った。
 ナギは村人に向かい、
「私が、私がなんとかしますけえ。待っとって下さい」
 そう言うと、
「そうか? すまん、どうか頼む。本当にどうにもならんのじゃ」
 村人はナギの言葉に少しほっとした様子で帰って行った。

 その日の夜、ナギは家族にそのことを相談してみた。
 なんとかする。とは言ったものの、具体的なことまでなにも考えていなかったからだ。
 自分に出来ることは、とにかくあの村人の家に行き、村人の妻の看病をしたり、子どもの世話をすることくらいだった。だがそれだけではやはり、賃料のことまではどうにかなりそうにない。
 ナギがそのことを家族に話すと一朗が、
「そうか、わかった。あいつはいつもぎりぎりまで人に頼らんやつじゃけえ、俺も気がついてやれんかった。大丈夫じゃ、俺が村のもんに声掛けて、なんとかしてみる」
 そう言ってくれた。
「お願い、一朗おじさん」
 一朗ならきっと力になってくれるだろうと思った。
 一朗は、ナギにとって今、義理の父親になったのだが、昔から一朗おじさんと呼んでおり、その呼びかたは今でも変えなかった。
 それは龍一に対して、一朗を父と呼ぶことなど出来なかったからだ。
 あくまでもナギにとって父親は宮前であった。
 だが、本当の父親、義理の父親、同じ父でも、宮前と一朗はまるで正反対だとナギは思った。
 今、ナギの父親は二人になったのだが、ナギにとってはどちらもかけがえのない父親である。
 それでも宮前のことはどうしても理解出来ないところがあった。
 宮前の家では毎日テーブルを埋め尽くすほどの豪華な夕食ばかりだったが、この家では、それほど豪華ではないが、たとえ質素でもすべて愛情のこもった料理ばかりが並んでいる。
 宮前の家では、その日のうちに食べきれないほどの量であったが、ここでは必要以上の贅沢などしておらず、過剰に料理が余るということなどない。
――必要なものが、必要なだけあればいいのに、どうしてそれ以上のものを欲しがるんだろう。
 このことは以前からずっと感じていたことだが、多分それを宮前にたずねても無駄だということはわかっていた。 
 
 翌日、早朝から早速、ナギは村人の家を訪ねた。
 門の戸を叩くと、二歳くらいの男の子を負ぶった村人が顔を見せた。
「ああ、あんたか」
「あの、家の手伝いに来ました。お金のことは、一朗おじさんが村の人に声を掛けて、なんとかしてくれるそうです」
 そう言うと、
「え? 一朗さんが? そんな……あの人にだけは迷惑をかけたくなかったんに」
 口惜しそうに、唇を噛みしめた。
 するとその男の子が、
「ちっち」
 と村人の背中からひょこっと顔を覗かせた。
 その愛らしい姿にナギは、肩の力がすっと抜けた。
「あの……困った時は、お互い様じゃと一朗おじさんは言うとりました。私も以前、村の人たちには大変な迷惑を掛けてしまいました。あの日、あの雨の中を、村の人たちは私を必死に探してくれたそうです。そのことは、謝っても謝り切れません。だから私も、自分に出来ることはなんでも。精一杯恩返ししたいと思うとるんです」
 そう言うと、村人はしばし黙り込んでいたが、
「……すまない」
 とだけ言うと、息子を厠へと連れて行った。
 家の中へ上がらせてもらうと、村人の妻が、青白い顔をして朝食の用意をしていた。
 村人が、用を足し終えた様子の息子を、急いで抱えて来て、
「俺がやるけえ、おまえは休んどれ」
 声を掛けるが、
「大丈夫じゃ。病気じゃないんじゃけえ」
 と、妻は半ば倒れそうになりながら、釜戸に木をくべていた。
 大きい子どもたちは二人いて、それぞれ学校へ通う前に家畜の世話をしたり、畑の草刈りをしたり、母親の代わりに洗濯物を干したり掃除をしたりしていた。学校へ通うまでの時間にやり終えるには、とても母親の手伝いなど出来そうにない状態であった。
 妻は、もう歩くのもままならないようで、ずっと腰を曲げた状態で、懸命に食事の支度をしている。
 通常ならばきっと、妻が下の男の子を負ぶいながら朝食の支度をしていたのだろうが、とてもその状態では無理だっだのだろう。
 かといって子どもたちが負ぶうには、その男の子は二歳くらいでもかなり重そうで、まだ体の細い子どもたちにとってかなり労働の負担になるだろう。
 そこで村人は、妻の食事の支度を手伝いつつ、下の子の面倒をみていたのだろう。
 ナギが声を掛けようとすると、妻は急に「うっ」と口元をおさえ、そばにあった水桶に顔をうずめた。
「大丈夫ですか?」
 ナギが体を支えると、
「ちょっと、つわりが長引いとって……。今までこんなことなかったんじゃけど、でもまあ、ええ時もあれば、今日みたいに体が言うことをきかん時もあって。すぐに、ほんまにすぐにようなると思うんじゃけど」
 それ以上はどうあがいても立てないようで、それでも懸命に立ち上がろうとするが、気力だけではどうにもならないようだった。
 ナギが、
「私に手伝わせてくれませんか?」
 そう願うと妻は、
「いけん、いけん、あんたにもやることが沢山あるじゃろう? 家のことはどうにかなるけえ、ええのよ。私もじきにようなるじゃろうし」
 首を横に振った。
 この家は分家のようで、村人は両親と暮らしてはいなかった。
 どの家も、他所を手伝う暇もないほどに忙しいことはナギにもわかっている。
 ナギは日頃、家の手伝いのほかに、佐々木老婆の家の手伝いや、近所に住む小さい子どもたちの面倒をみたりしていたが、ナギの家のほうは祖母も母もおり、そちらのほうは手が足りている。
 そのことを伝えると、妻はしばらくなにか考えているようだったが、そのうち、一人の子どもが台所を通りかかり、
「お母さん、この際姉ちゃんに頼んだらどうじゃ? このままじゃお母さんの体が心配じゃ」
 そう口添えした。母親はじっと、自分の代わりに忙しく動き回る家族の様子を見渡していたが、しばらくして、
「ほんまに……ええの?」
 申しわけなさそうにナギを見上げた。ナギは喜んで、
「お願いします。やらせて下さい」
 そう申し出た。
 
 その日からナギは、村人の家の食事を作りに行くようになり、下の子を連れ、今までのように、近所に住む小さい子どもたちの面倒もまとめて見るようになった。
 村人の妻は、その後しばらく安静にし、体を十分に休められたことで、しだいにつわりも治まっていったのだった。
 一朗は、村の人々に声を掛けてようやく賃料分の金をかき集め、その後、村人は心置きなく漁に出られるようになった。



 神域として崇められていた「神守島」だったが、一朗や由紀乃、ナギが十六年もの長い間暮らしていてなにごともなかったことがわかり、少しづつ村人たちの意識が変わって行った。
 宮前も、かつてはほかの村人と同様に祟りを恐れ、実際、過去に島に近づこうとした際に原因不明の酷い病に侵され、それから一切近付こうとしなかったのだが、あの日、ナギを連れ戻しに島へ渡った後、なにごともなかったことから、ある時、急に大枚を叩いて島をまるごと買い取ってしまったのだった。
 そこで一切、人の出入りを禁じたのだ。
 そしてある日、宮前はナギにともに島へ渡ろうと誘った。
 船を頼んだのは龍一にであった。
 宮前が心を許せる人間は唯一ナギだけだったが、龍一に対しては、純粋にただ、ほとんどすべての事柄に対し龍一がまったくの無欲であることから、自分を脅かす存在ではないと感じ、同行を求めたのだ。
 龍一は宮前に同行を求められた際、即座に断ったらしいが、ナギがともに行くと聞き、しぶしぶ船を出してくれたのだった。

 島に着くなり宮前は、
「俺がなんでこの島を買うたか、じきにわかるじゃろう。龍一、おまえにはいろいろと手伝うてもらわんといかん」
 そう言ってさっさと二人の前を歩き出した。
 龍一は返事もせず、そっぽを向いていた。
 辿り着いたのは、あの神聖な泉であった。
 宮前は、泉を囲う岩壁を指差した。
「これじゃ」
 その岩壁は、所々透明に光る岩が含まれており、得も言われぬ輝きを放っていた。
 至極幻想的な雰囲気で、昼は尚のこと、夜になると厳かな輝きを放つ。
 宮前は、
「あの日、この場所を見つけてな。この岩の欠片を少し持ち帰ったんじゃ。そうしたらな、知り合いに高値で買い取ると言われたんじゃ。磨き上げれば、かなり値打ちのある石になるそうじゃ。じゃけえこれから、この岩をまるごと運びだすつもりじゃ。そうすれば、この島を買い取る為に叩いた金なんぞすぐに取り戻せる。いや、それ以上じゃ」
 一体この光る岩が何で出来ているのか、名前さえもわからなかったが、宮前はかなり興奮状態だった。
 ナギは、
「ここは白蛇の棲家じゃ。この岩はなにがあっても崩してはならんて一朗おじさんは言っとった。この岩は、たとえどんなに値打ちのあるものだとしても、ここにあるべきじゃって。この場所にあるから、輝きを放つんじゃって。この景色は、ここだけのものじゃって。誰も侵してはならんて」
 そう言うと宮前はバカにしたように笑い、
「ふんっ。あの男はどこまでアホなんじゃ。こんな値打ちのあるもんを放っておくとは。つくづくバカな男じゃ」 
 感触を楽しむかのように、岩壁に手を触れた。
 そして、龍一に頼んで運ばせた荷物の中から、カケヤと楔を取り出した。
 ナギは再び、
「やめて、お父さん」
 訴えるが、宮前の耳には響かなかった。
 ナギは真剣に問い掛けた。
「ねえお父さん。お父さんは、どうしてそこまでしてお金が欲しいん? もう、一生使い切れんくらいお金があるじゃろう。もう欲しい物はなんでも買えるじゃろう。これ以上なにが欲しいと言うん?」
 訴え掛けると、
「なにを言うとるんじゃナギ、金はいくらあってもええ。俺はもっといろんなものを手に入れるんじゃ。この世にはなあ、金がいくらあっても買えんもんがまだまだ沢山あるんじゃ」
 そう言われナギは、
「そんな…………村には、僅かなお金を必死にやりくりしとる人もたくさんおるのに、そんな人たちから絞りとったお金なんて……お父さんはそれでもええの? もしお父さんが村の人たちからもらうお金をもっと少なくしたら、皆がもっと楽になるんよ。そんな、村のひとたちの犠牲の上に手にした物に囲まれて、お父さんはそれで幸せ?」
 訴えると宮前は、
「うるさい、ナギ。たとえお前でも、これ以上なにか言うたら許さんぞ」
 ナギの言葉など一切心に響かない様子で一喝した。
 宮前が、岩に楔を打ち込もうと構えたその時、岩の合間から一匹の白蛇がぬっと顔を出した。 
 宮前は、
「なんじゃ。蛇か」
 と、手で追い払う仕草をした。
 だが、白蛇は自分の棲家を荒らそうとする者に対し、攻撃の姿勢を見せている。
 見かねた龍一が、
「あんた、いい加減にせんか。なんでナギの言うことがわからんのじゃ」
 そう言うと、
「おまえは黙っとれ」
 宮前が一瞬、龍一のほうを向いた途端、蛇が隙をつき、宮前に向かって襲い掛かって来た。
 宮前が手にしている楔で応戦しようとすると、その切っ先が蛇に当たりそうになり、ナギがその手をおさえようと宮前の腕を掴んだ。
 すると宮前はその手を思い切りはねのけ、ナギは後方に跳ね飛ばされた。
 その時、岩肌に後頭部を強く打ち付けられ、ナギは強烈な痛みとともに、その場に倒れ込んだ。
 しだいに薄れゆく意識の中、龍一が自分の名を叫ぶ声だけがしだいに遠くなって行った……。
 
― 第五部 ― 

(龍一)

 一

 岩壁に頭を強く打ち付けたナギはそのまま倒れて気を失い、すぐさま龍一が島を出て診療所に運んだが、意識を取り戻した時、まるで人形のように目はうつろで、話し掛けてもひと言も言葉を発せず、食べものはおろか飲むものさえ、一切口にしなかった。
 一日のほとんどが眠った状態で、ただ呼吸だけを繰り返しているような状態であった。
 由紀乃は必死にナギの口へ飲み物を運ぶが、たとえ強引に流し入れたとしても、すぐに吐き出してしまうのだった。
 龍一も以前のように、島から水を汲み、かつての方法で飲ませようとしたが、一度受け入れたように見えても、その後すぐに口の端から零れ落ちてしまうのだった。
 由紀乃が、
「お願いじゃナギ、一口でええからこの水を飲んでっ」
 半ば半狂乱になりながらナギに訴えかけるが、ナギは一向に応える気配がなかった。
 診療所へ連れて行き、点滴を試みたが、異常なほどナギは日に日にやせ細っていった。  
 
 龍一は、まさか、こんなことになるなどとは思わなかった。
 あの日、龍一は宮前から島へ連れて行って欲しいと頼まれた時、断るつもりでいたのだが、ナギをともなうと聞き、しかたなく承諾した。
 それに宮前が、なにかよからぬことを企んでいる気がしたのだ。
 そうして案の定、宮前はあの岩壁に目を付けていた。
 昔から、この島に訪れる者は、この岩壁に辿り着く前に体に異変を感じ、近付くことさえ出来なかった。
 だが、龍一も感じていたことだが、近年、村の暮らしが楽になるにつれ、海が少しずつ、穢されていくような感じがしていた。
 あの日、宮前がこの岩壁に辿り着くことが出来たのも、はっきりとは分からないが、龍一にはきっと、その辺りの影響ではないかと思っていた。
 あの時、白蛇が宮前に襲い掛かった時、龍一は宮前が襲われても構わないと思った。
 宮前のふるう楔など、白蛇はいともたやすく避けられるとみていたのだ。
 まさかあの場で、ナギが宮前の手を掴むことまで読めなかった。
 その上に宮前に振り払われ、はずみで岩壁に頭を強く打ち付けられるなどと。
 自分があの時、宮前を止めてさえいれば。
 もしあの時、もしあの時もっと自分が……。
 龍一は悔やんでも、悔やんでも悔やみきれなかった。
 立ち尽くしたまま奥歯を噛みしめていると、父が龍一の肩に手を触れた。
「龍一、おまえのせいじゃない。決して、おまえのせいじゃない。これ以上気に病むな。それよりもナギの容態が良うなるよう天に祈るんじゃ。もう、それしかない。それしか」
 父もすっかり衰弱し、その頬はこけ、やつれ果てていた。

 宮前はあれから、あの岩肌の光る石を次々と削っては売りさばき、巨万の富を得、そうして自らの屋敷のほかに、村人を追い出して買い占めた土地に、城のような建築物を建立し始めた。
 宮前は上機嫌で、ナギのことなど一向に気にしていない様子で、それでも時折診療所に顔を見せることはあっても、
「ふん、俺に逆らわんかったら、こんなことにはならんかったんじゃ」
 と捨て台詞を吐いていた。

 数日が建ち、龍一の家族は皆、憔悴しきった状態であった。
 皆、食事も喉を通らず、会話もなくただ、無言でちゃぶ台を囲んでいた。
 俯きがちに肩を落としていた祖母がふと顔を上げ、
「宮前さんじゃけどねえ……」
 話を切り出した。
 父が、
「あいつのことなんて、どうでもええ」
 吐き捨てるように言うと、
「そうじゃねえんじゃ」
 祖母は、なにかを思い出すように言葉を続けた。
「村のもんがなあ、なんでも、皆で団結して、賃料を半分以下しか払わんて言い出したんじゃと」
 龍一は不思議に思い、
「ん? どういうことじゃ」
 祖母に尋ねた。
「それがなあ。村のもんが皆、宮前さんのやっとることがもう許せん言うて、一人では無理じゃけど、皆で結託しよったら、なんとかなるんじゃないかって言うて、皆、賃料を半分も払わんようになったらしいんじゃ。ほんで宮前さんが一軒一軒怒鳴り散らして回ったそうなんじゃけど、皆でその家に付いて行って、塩まいて追い出したそうじゃ」
 龍一は驚いていた。
 宮前の横暴さには誰もが辟易していたが、まさか村人がここまでやるとは思わなかった。 
「ほんで、どうなったんじゃ?」
 問うと祖母は言葉を続けた。
「それがなあ、宮前さんもあの、島の宝石を売った金が山ほどあるけえ、この際もう賃料なんてどうでもええ言うて、承諾したそうじゃ」
「そうか……」
「ほんでなあ、それだけじゃねえんじゃ」
「ん?」
「村のもんがなあ、それでもどうにも気がおさまらん言うて、宮前さんの家にだけ、魚や野菜を分けんようになったり、奥さんもお子さんもまるきり無視されてなあ、ほれ、由紀乃さんやナギちゃんがやられたようにじゃ。今度は自分たちがそれをやられるようになったんじゃ」
 因果応報だと龍一は思った。
「それで、どうなったんじゃ?」
「ほんでなあ、奥さんもお子さんも、耐えきれんで出て行ってしもうたんじゃって」
「そうか……」
 その外にも、宮前の父親は家の金を持ち出して失踪し、母親はすっかり耄碌し、家のあらゆる場所に糞尿を垂れ流し、宮前が叱責すると、村人が母親を引き取り、どこかへ連れ去ってしまったと祖母が語った。


 その後宮前はすぐに新しい妻を迎えたが、村人の風当りが思いのほか強く、耐えきれずに出て行ってしまったということだった。
 そうなると、宮前がどれだけ多くの女たちを家に招き入れても、翌朝、金だけ持ち出してどこかへいなくなってしまったそうだ。
 そうして、宮前の建立しようとしていた城のような建築物も、そのうちに作り手が放棄し、そのまま放置されてしまった。
 宮前はもうどうにもならなくなり、追われるようにこの土地を離れ、遠くへ行くことにしたそうだが、ある時寝ているうちに泥棒に入られ、気が付くと手元の金は皆、盗まれてしまい、駐在所に届けたが、誰も真剣に動いてはくれなかったという。
 わずかな賃料だけではもう暮らして行けなくなったようで、あれほど暴君だった宮前がすっかりやつれ果ててしまったという。
 だが龍一には、そんなことはもう、どうでもよかった。


 ナギの容態は一向に良くはならず、悪くなっていく一方だった――。 
 村の落葉樹から、はらりと葉が落ちる頃。
 まだ夜が明けぬ時、医者が家族を呼び、皆がナギの枕元を囲んだ。
 ナギの周りで、由紀乃も父も、祖父母も止めどなく涙を流していた。
 ナギの眠るベッドの傍らで、由紀乃は跪き、ずっとナギの手を握っていた。
 由紀乃もナギと同じく、ずっと食物を口にしておらず、その手はかなりやせ細っていた。
 その細い手で、時折ナギの頬を触れながら、
「ナギ……ナギ……」
 何度も娘の名を呼び続けていた。 
 父もほとんどなにも食べておらず、その目にはもう生気さえなかった。
 龍一も同様に、かろうじて生気を保っているような状態であった。

 その時、病室のドアがゆっくりと開き、うす汚れたよれよれの服装で宮前が弱弱しく近寄って来た。
 龍一がすかさず、
「なにしに来たんじゃ」
 凄むと、
 宮前はナギのもとへ、とぼとぼと歩み寄って行った。
「ナギ……」
 その手で頬に触れようとし、瞬時に龍一はその手をはねのけた。
「触るなっ」
 龍一は、ぎろっと睨みつけた。
 宮前は項垂れ、その場に崩れ落ちた。
「ああ……許してくれ、ナギ……。俺の、俺のせいで……」
 宮前は顔を覆って嗚咽した。

 龍一は、信じたくなかった。
 このままナギに会えなくなるなど、考えたくもなかった。
 もしこのままナギがいなくなったら、自身の生きる意味さえなくなると思った。
 抗いたかった。
 なんとかして抗いたかった。
 龍一は、一縷の望みを託し、島へ渡ることを決断した。
 皆に向かい、
「ナギを、島に連れて行ってもええか?」
 そう尋ねた。
 由紀乃も父も否定せず、涙ながらに頷いた。
 龍一はナギを抱え上げた。
 すると宮前が、
「俺も、俺も連れて行ってくれ」
 そう言うが、龍一は再び睨みつけ、
「おまえは来るなっ」
 怒鳴りつけた。
 だが宮前はしつこく、
「頼む、俺はナギの父親じゃ。頼む」
 土下座した。
 龍一が黙って睨みつけていると、
「ナギだけじゃった。ナギだけが、俺に、心から、笑いかけてくれたんじゃ……」
 そう言って項垂れる哀れな姿に、龍一はなにも答えず、そのまま部屋を出て行った。
 
 龍一がナギを抱えて診療所を出ると、深夜だというのに佐々木老婆はじめ、村人たちや少年たちまでが、門の外で祈るように顔の前で両手を合わせていた。
 その中には、宮前の息子の姿もあった……。
 宮前の息子はかつて、ナギが失踪した際、必死にナギを探していたのだ。
 そして龍一の顔を見るなり、
「俺、姉ちゃんを家に入れようとしたんじゃ。でも、母ちゃんが駄目じゃって、どうしても駄目じゃって、泣いとって、俺……」
 そう言って鼻水を垂らしながら泣きじゃくっていた。
 龍一はその息子の頭を撫で、
「心配するな、俺が必ず見つけだすけえ」
 と約束したのだった。
  
 佐々木老婆は二人の姿を見るなり、
「ナギちゃん、ナギちゃん、目を覚ますんだよ。あんたが逝くのはまだ早い。私があんたの代わりになる。私を代わりに連れてっておくれよ。お願いじゃよ、お願いじゃけえ」
 老婆は泣き崩れ、少年たちもナギのもとに駆け寄り、
「ねえちゃん逝くな、ねえちゃん」
 と泣き叫んだ。
 隆生と叔父も、目に涙を浮かべている。
 皆がナギの死を拒み、天に祈っていたのだ。
 龍一は皆に深く頭を下げ、船着き場へと向かった。 


 
 島に渡り、龍一が向かったのはあの、白蛇の棲む神聖な泉であった。
 やはりこの場所に、連れて来てやりたいと思ったのだ。
 辺りはまだ薄暗く、龍一は持参したろうそくに火を灯した。
 龍一は、ナギの口元にそっと泉の水を湿らせた。
 その後、少し口を開いて与えるが、しばらく経っても、やはりなにも変わらなかった。
「ナギっ」
 ナギの体を強く抱きしめるが、わずかに残っていたぬくもりさえ、次第に感じられなくなって行くようだった。
 その時ふと、なにかの視線を感じて振り返ると、岩の合間からこちらを覗く狸がいた。心なしか心配そうにこちらを見ているようだった。
 見回すと、狸以外にも、狐や鼠、蝙蝠まで、ナギの様子を心配そうに見つめている。
 龍一は、
「おまえたちも、心配しとるんか?」
 そっと問い掛けた。
 動物たちはしばらくじっと動かなかったが、龍一がなにもしないとわかると、そのうちにそろそろとこちらへ近づいて来た。
 そして龍一がいるにも関わらず、ナギを取り囲み、狸も狐も鼠も皆、ナギを温めるかのように体を摺り寄せてきたのだ。
 体の小さい鼠は、ナギの体の隅に入りこみ、ナギを満遍なく温めようとしている。
 それでも……。
 ナギの様子に変化は見られず、由紀乃と父が駆けつけた時には、ナギの鼓動は徐々に徐々に弱まって行った……。

 後方から、宮前がよろよろと歩み寄って来た。
 父が憐れんで、連れて来たらしい。
 宮前の姿を見た途端、動物たちは再び岩陰に隠れてしまった。
 宮前は、
「ああ……俺のせいじゃ、俺のっ、俺のっ」
 目に涙を浮かべ、その場に崩れ落ちた。
 その時ふと、岩の間から一匹の白蛇が現れた。
 宮前を睨みつけるかのように見据える。
 白蛇の棲家は無残に荒らされ、もうあの、得も言われぬ光を放っていた岩壁は、もう跡形もなかった。
 宮前は自分を見据える白蛇の眼差しに気付いたようで、
「そういう……ことか……」
 と言うや、ゆっくりと体を起こした。
 そしてすぐそばに落ちていた楔を、おもむろに拾いあげたのだ。
「お前が許せんのは、俺じゃろう」
 そう白蛇に向かってそう言うと、
「もう……俺にはなんもない。そのうえナギがいなくなってしもうたら、本当に、もう……なにもかも……」
 宮前はしばしナギを見つめた後、再び口を開いた。
「ナギだけが……ナギだけが……俺の生きる支えなんじゃ……」
 そう言うと、楔を首にあてがい、
「ナギを殺すくらいなら、俺を殺せっ。奪うなら、俺の命を奪えっ」
 思い切り切っ先を首に向けて振り下ろした。
 龍一は宮前がとうとう気が狂ったのかと思ったが、
 即座に、
「待てっ」
 と叫んだ。
 その声に宮前が一瞬動きを止めた。
 
 すると……。
 しばらくして、宮前を見据えていた白蛇がすぅっと身を翻し、岩の中に消えて行った……。

 宮前がその姿をぼうっと見つめている。
 刹那、岩陰に隠れていた動物たちが、再びナギのもとへ近寄って来た。
 そしてまたナギを取り囲み、狸も狐も鼠も皆、再びナギに体を摺り寄せてきたのだ。
 体の小さい鼠は、僅かな隙間さえ埋めようと、また再びナギの体の隙間に入り込む。
 すると徐々に、ナギの様子に微かな変化が現れた。    
「ナギ?」
 龍一の声に、ナギの口が、微かに動いたのだ。
「……………ぅ…………」
「み……ず……?……水か」
 即座に父が泉の水を汲み、龍一に手渡した。
 動物たちはナギから少し離れ、龍一の動向を見守っている。
 龍一がナギに水を含ませると、ナギの微かに喉元が動き、あれほどなにをしても受け入れなかったのに、僅かだが水を受け入れたのだ。
 龍一は信じられなかった。
 まさか、と思ったが、いつどうなってもおかしくないような状態だったナギが、水を、水を受け入れたのだ。
 由紀乃はすぐさまナギに駆け寄って来た。
「ナギっナギっ」
 必死に呼び掛ける。 
 その声にナギは答えなかったが、由紀乃はおもむろにナギの胸に耳をあてた。
 そしてゆっくり顔を上げると、深く息を吐いた。
 そして天を仰いで目を瞑り、涙を流しながら顔の前で両手を合わせた……。
 動物たちは再び、ナギの体を懸命に温めだした。



「ナギ、具合はどうじゃ」
 龍一がナギの寝所へ訪れると、ナギはようやく粥が飲めるまで快復していた。
 あれから……宮前の行動を知った村人は、彼を受け入れるようになった。
 後妻と子どもたちは、なぜかわからないが宮前の元へと戻ったということだった。
 後妻は、生家に於いて、出戻りであることから、相当肩身の狭い生活を送っていたらしい。
「だ……じょ……ぶ」
 ナギは後遺症からか、言語に障害が残っていた。
 ナギに重湯を食べさせていた由紀乃は、食べきれずに少し残った椀を盆にのせ、静かに部屋を出て行った。
 窓の外から、小鳥の鳴き声が聴こえてきた。
 ナギがなにかを訴えるようにゆっくりと腕を上げて窓を指差し、龍一はその要求を受け、窓を開けた。
 すると、待ちかねたように一羽の小鳥が寝所へと入って来た。
 ナギは小鳥を指に乗せた。
「外に、出てみるか?」
 尋ねると、ナギは小さく頷いた。
 龍一は、ナギを抱えて起こした。
 ナギはまだ完全に一人で歩けるほどには快復しておらず、龍一はその体を支えながら表へと出た。 
 龍一はナギを縁側に座らせた。
 庭から遠くに見渡せる島の木々が、赤や黄色に彩を変えている。
 隣に座ると、途端に小鳥たちがナギのもとに集まり、ナギは心から幸せそうに微笑んだ。
 その横顔を見つめながら、龍一は、なぜもっと早く、父を許せなかったのかとあらためて悔やんだ。
 自を、悔やんでも悔やみきれなかった。
 今までに、ナギを救おうと思えばその機会はいくらでもあったのに、憎しみで心が一杯になり、被害者は自分のほうだと、ほんの僅かでも思いやることさえ出来なかった。
 結果、なんの罪もないナギがたった一人、犠牲になったのだ。
 それなのにナギは、なにをされようと人も憎まず、ただ純粋に人を愛した。
 ナギは常に人を想い、人を愛する。そのことに分け隔てなどない。
 それはあの宮前の心を動かすほどに……。
 龍一は胸が苦しくなり、
「すまん、ナギ」
 深く、深く頭を下げた。
 ナギは驚いて龍一に振り返り、顔を上げてとばかりに龍一の肩に手を触れた。
 龍一は目に涙を溜めながら再び、
「本当に、すまんかった。すべては俺のせいじゃ。謝っても謝り切れん」
 苦しみに喉を詰まらせた。
 ナギは、違うとばかりに首を横に振り、龍一の背に両手を回した。
「だ…れ…も……わ……る……くな……い」
 その言葉に、龍一は涙が溢れて止まらなかった。
 龍一はナギを強く抱きしめた。
「俺が、一生かけて償うっ。おまえを、一生かけて守るっ」
 ナギの体は折れそうなほどに細く、これ以上力を入れて抱きしめたなら、壊れてしまいそうだった。
「りゅ……いち……さ……ん」
 ナギの声に、龍一は体を離した。
「い……い……の…わ…た…し…の…こ…とは……。りゅ……い……ち……さ……んは……し……あ…わ……せ……に……な……って」
 そう、声を振り絞るように懸命に語り掛けるナギの瞳は、溢れるほどの慈愛に満ち溢れており、龍一は胸が締め付けられそうなほどの痛みを覚えた。
 龍一は再びナギを強く抱きしめた。
 この先、ナギを守るためなら、自分の命など、どうなっても厭わないと思った。

 まるで二人を包み込むかように、暖かな光が降り注いだ。
 鳥たちが頭上を旋回し、やがて島の方角へと飛び立って行った……。
  
 
日乃万里永 
http://https://www.ameba.jp/home
2021年11月06日(土)09時45分 公開
■この作品の著作権は日乃万里永さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
人を愛することしか知らない少女に、やがて襲い来る悲劇……。死の淵に追いやられた少女を救う手立ては……。

どうぞ、ご意見、ご感想いただきたく、よろしくお願いいたします。


この作品の感想をお寄せください。

2022年01月22日(土)10時48分 日乃万里永  作者レス
志稲祐様

お読み下さいまして、ありがとうございました。

ラノベというカテゴリーではないと思いながら、この場所に投稿させていただいてしまいました。

地の文が説明的になってしまうのは、前々からよく言われてしまことで、悪い癖だと思っております。

この度は、最後までお読み下さいまして、ご感想下さったこと、心からお礼申し上げます。


 

pass
2022年01月19日(水)21時04分 志稲祐  +10点
初めまして。志稲と申します。
作品を拝読させて頂きました。
文芸作品寄りの文体は、地の文がかなり多いにもかかわらず読み難さが一切なく、スラスラと読み進めることができました。ひらがなと漢字の分量が絶妙だからなせる業であるように見受けられ、勉強になります。
「悪いことをするとバチが当たる」という暗示が見事に作品に込められていて好印象でした。
ラノベ作家のワナビが急増する昨今、こういった作品を最後まで書き切ることのできる方は希少であるように思います。
ただ、お話の要素やジャンル的に、相性の問題などもありますが、全体的に盛り上がりに欠け、緩急が少ないため強烈に心に残るような要素が薄かったです。
キャラクターも書けてはおりますが、大半が地の文で説明されてしまっているために描写のバランスが悪く、あまり生き生きとした印象がありませんでした。


以下、誤字脱字報告です。
第二部
低く、重い口調で言い放つと、男は「くっ」と唇を噛みしめ、ナギほうを向いた。→唇を噛みしめ、ナギのほうを向いた。



今後も応援させて頂きます。

27

pass
2021年11月07日(日)11時31分 日乃万里永  作者レス
金木犀 gGaqjBJ1LM様

お読み下さいまして、ありがとうございました。

戴いたご意見を元にさせていただき、あらたに書き加えました。

一朗がなぜ島へ渡ったのか、龍一の心情、時代背景など、私も気づかないことばかりでしたので、とても参考になりました。

ありがとうございました。

ナギが最後、昏睡状態に陥りますが、それは、ナギ自身が自分に暗示をかけたからです。
作中でもふれましたが、ナギは要求が通るまで、なにも口にするつもりはなかったと書きましたが、ナギはそれを無意識に実行したのです。
白蛇にもどうすることも出来ませんでした。

この話、ファンタジーの要素もあるかもしれません。

ナギが島を出た理由は、一朗が二人を守り切れなくなった。年々島の力が弱まり、侵入者を防ぎきれなくなったからです。

ご意見、ご感想、本当にありがとうございました。

心から感謝いたします。
ありがとうございました。

pass
2021年11月07日(日)05時58分 金木犀 gGaqjBJ1LM
 おはようございます。

 拝読いたしましたので感想を落とさせていただきます。

 以前も拝読しようとしていたのですが、すぐに削除されてしまいましたよね。
 こうしてまた読めて、個人的にはとても嬉しかったです。

 さて、作中の時代の価値観、昭和初期の香りが香る作品でした。ラケンの中でも異色の作品となっていて、読み味がいつもと違い、にやにやしながら読ませてもらいました。

 宮前が起こすトラブルを中心に、物語が展開されていたのが印象的でした。
 なんでそうなるんや、と若干ついていけない部分もありましたが、主人公たちが暮らした時代の価値観が反映されていると考えると、味わい深くもあります。

 作中に漂う懐古的な雰囲気がこの作品の魅力だと私は思います。

 一方、時代の価値観を、今の読者に伝えるところが、うまくいっていないようにも感じました。

 宮前の横暴さに耐え切れず、見かねた一朗が由紀乃とその娘ナギを連れて神守島に駆け落し、いつまでもこのままではいられないと戻ってくる……。

 うん。やっぱり一朗身勝手やな、と思ってしまいました。いまさら戻ってきて、顔合わせて息子である龍一に頼み込む心理ってのがちょっとわかりませんでした。引け目とか感じているなら、謝るよりなんかもっと複雑な感情みたいなのがあっていいのではないでしょうか。
 のこのこと戻ってきて頼み込めるほどの内容とは思えなかったかな。
 本当に息子を愛している父親のすることではないと思いました。

 また龍一も、納得はいかないかも。
 なんというか、失踪した父親に対して抱く葛藤、ナギに惹かれていく経緯、そうしたエピソードが全体的に足りてない気がします。

 ナギにしても、とてもいい子なんですが、父親が取り立てるお金により村人が苦しんでいる、という具体的な経緯を知っている様子はなかったので、土下座している村人を気にかけて、口を出すのはあまり賢いことには見えなかったですね。ま、その後のエピソードで具体的な出来事を書いてはいるんですが、もうちょっとここらへん、時代の背景を描いて、なんでこんなトラブルが起きるのか教えてほしかったです。

 ところで宮前はすがすがしいまでのクズっぷりでしたね。
 ここまで身勝手だと、いっそすがすがしさがありました。

 また後半、白蛇ののろいにかかり、ナギが昏倒してしまうというのは唐突感がありました。
 ファンタジー要素が急に出てきたな、という印象です。
 ここがこの作品の肝ではあるのですが、白蛇と神守島をもっと絡めてよかったかもしれません。なぜ村人がそこまで恐れているのか、白蛇の民話とか持ってきてもよかったかもしれませんね。


・「いや、俺はもう年じゃ。この頃では、このまま二人を守り通す自信ものうなって来た。今ではもう、村の様子もいろいろと変わっとる。それでこの際、戻って来ようと思うたんじゃ」

→この台詞で暗に娘がいることを示してはいるのですが、私は軽く混乱しました。
 続く部分で、「父」が失踪した同じ時期に生まれたばかりの赤ん坊も行方不明になっていることが提示されたのですが、私は父親の娘として受け取っていたので。
 重要な伏線なのですが、非常に惜しく感じました。違和感を誘う書き方になっています。
 父親が駆け落ちしたかもしれない理由として、最初の部分で書いちゃってもよかったかもしれませんね。

・由紀乃は頑として「娘と二人で暮らしたい」と言っていると記述されていたので、ナギが神守島を簡単に出る話にすでになっていたのは拍子抜けでした。なにかしらの理由があり、説得しにいくものだと思っていました。
 ナギのほうはずっと村を出たかったわけですね。なんであっさりと由紀乃は許したんでしょうか。ここはもうちょっと葛藤があるはずのシーンではないかと。

 あと地主宮前が前妻ということはさらっと説明されてはいるのですが、そこらへん「どういう関係なんだろ。離婚したってこと? それとも何かの風習?」と私はうがってみてしまいました。

・夕日の傾きかけた海辺で、濡れた髪からしたたり落ちる雫をそのままに、ナギはいつものように岩場に腰掛け、揺れる波を見つめていた。

→素敵な描写でした。滴る水滴が、うまく想像を誘う。そこはかとない色気みたいなのが出てますね。

・隆生かと思いきやそこにいたのはあの男だった。

→これでは誰かはわかりません。もうちょっとナギの父親らしき人物だとわかる特徴がほしいですね。


 いろいろと気になる点を書きましたが、気分を害されたら申し訳ない。
 
 とても思いのこもっている作品を読めて、私はとてもホクホクでした。
 久しぶりに心をこめて読むことができました。ありがとうございます。


 どうか、これからもこの作品を大事に、何度も何度も読み返せるよう、大切に大切に書き続けていただければと思います。

 執筆お疲れ様でした。


44

pass
2021年11月06日(土)20時45分 日乃万里永  作者レス
サイド様

お読み下さいまして、ありがとうございました。


龍一の心の動きですが、自分ではちゃんと書いていたつもりだったのですが、まだ書き込みが足りなかったのだと思います。

龍一は母親の苦悩に対して、父親を許せなかったのですが、その辺りをもう少し付け加えたいと思います。

ネックレスは、宮前がそう言ったと思いますが、考えてみたいと思います。

ご感想くださいまして、本当にありがとうございました。
心から、お礼申し上げます。

pass
2021年11月06日(土)19時24分 サイド  +30点
こんにちは、サイドです。お久しぶりです。
作品、読ませていただきました。

まず、とても静かな物語だと思いました。
僕自身、ここ最近は日本人が日本語で書いた本(変な言い方ですが)を読む傾向にあったせいか、自然や風土などの描写の仕方、言葉選びに惹かれるものがありました。
時代設定もあり、横文字が出て来なないのが心地よかったですし、瑞々しさも随所に感じられて、よかったです。


作品の中でも、自然や生活感の描写は普段そういう方面へ目や感性を向けていなければ書けないものだったと思いますし、日乃さんが無理をしてそれを書いているという力みがあまりなかったんですね。

何よりよかったのは読み手として、「読むために頑張りが必要ではなかった」ことです。
肩に力を入れず、書いてあることをそのまま読み進めて、読み終えたという感じで、その雰囲気が、「静か」と感じられるものだった、というか。
自然体と言った方がいいかもしれませんね。


物語の要素として、家族内、村の愛憎(こう言うほど強くはないかもしれませんが)や、龍一とナギの関係性、島を代表とする神秘的な雰囲気などはあります。
ですが、言い争いはあっても目的が、対立ではなく、調和(思いやり)のためという感じがあったので、それも「静か」で、東洋的というか、日本的な要素として働いていたように感じました。

個人的には佐々木老婆の、

「ただ見守っとるだけじゃ。なんでもね、自然に任せるのが一番なんじゃよ」

の辺りが象徴的で、機械を入れ、自然は人間が征服すべきものという近代的な風潮との差別化があ示されているように感じました。(的外れだったらごめんなさい


作者コメントで、「人を愛することしか知らない少女」とありますが、どう育てられたかは深掘りできても、想像に委ねるというか、あまり難しく考える必要はないように思いました。
単純に元々心が穏やかだったとも言えますし、それを家族や自然が育んだというていどで、人格形成とか分析するのは野暮というか。


御作では、設定を文字にするより、そんな感じで想像して楽しむというのが、個人的には正解であるように思います。
最後、龍一とナギがどうなったのかなども、何となく察して余韻を楽しむのがいいのかなーと。

途中で出て来る、宮前もいい仕事してたように思います。
こういう刺激的というか感情をゆさぶってくる人物は必要ですし、因果応報だけど悲惨になりすぎないていどの描写でした。
そういう面は煽り過ぎてもよくないので、この位がちょうどいいように思います。


視点の入れ替わりなども特に違和感はありませんでしたが、龍一の心の移り変わりを、もうちょっと詳しく書いて欲しいというところはありました。
まあ、ここは願望と言うか、大して気にしなくてもいい所ですので。(笑


このご時世、自然や人間関係についてこういう描写ができる感性を持ち続けるというのは大変かと思いますが、個人的には好きな作風なので読んでいて落ち着く物語でよかったです。

あ、でも一か所だけ、首飾りを「ネックレス」と呼ぶシーンがあり、そこだけが違和感でした。
検索してみてもそこだけだったので、単純なミスかと思いますが。(笑

以上です。
執筆、お疲れさまでした!
47

pass
合計 3人 40点


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