君のとなり 後編
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   第三章 貴方の声を聞かせて





「およよ、美桜ちゃん、顔色が良くないね? どうかした?」
 週は明け、空が青く澄み渡った月曜日の放課後。
 取引先での打ち合わせを終えた真代が、運転する社有車の助手席に座る美桜へ声をかけた。
 美桜は一度、顔を上げ、曖昧な笑みを見せたものの、すぐに俯き、言葉を詰まらせる。
 その様子に真代は少し口をモゴモゴさせたが、特に咎めることもなく、苦笑するだけだ。
「あはは、取引先で話題に困った時の私みたいなリアクションしてる。言いたいことがあるなら、言っちゃった方が楽だよ、ハイスクール?」
 真代の屈託のない言葉に、美桜は少し心がほぐれるのを感じつつ、口元を緩めて言った。
「誰がハイスクールですか、誰が。私は真剣に悩んでいるんですから、ちゃんと聞いて下さい」
「そうだねえ。昨日の夜、『相談したいことがあるんですが、明日、時間をもらえませんか?』ってメッセージが飛んで来た時は驚いたよ」
「す、すみません。いろいろ煮詰まっていたので、つい唐突に……」
 美桜の謝罪に、真代はゆっくりとブレーキを踏みながら、赤信号で停車する。 
「いいよ、今日の打ち合わせは京塚高の近くだったし、久しぶりに美桜ちゃんと話したかったから、タイミングも良かった」
「この辺りというと……」
 美桜は頭の中で周辺の地図を広げながら、ダッシュボード上に置いてある書類を手に取った。
「工業用電線の下請けさんが多くいらっしゃる場所ですから、製品の回収と納品ですか?」
「そ。……で、必要な資材をもらって帰社って感じ。数が多いから大変だよ」
 真代が缶コーヒーを口へ運んで苦笑いしたが、一方の美桜は下請けをしてくれている会社の一覧を見て、一つ一つ名前を確認し、安堵のため息を漏らすだけだ。
「大丈夫だよ。今の所、美桜ちゃんの知ってる下請けさんウチがケンカ別れしたとか、取引がなくなったとかはないからさ」
 美桜は書類に記された会社や個人の名前を指先で撫で、トーンの低い声で答えた。
「でも、お父さんが納期やクオリティで無茶を言っていると、聞いたことがあります。腹を立てている下請けさんの方も多いと」
 美桜の指摘に、真代は車を発進させながら頭を掻く。
「まあ……ね。数字至上主義というか、勝利至上主義というか。企業の社長は無茶を言うものってイメージだけど、それを地で行かれると結構辛いね」
「すみません。私が、もう少し何かを言うべきだとは思っているんですが……」
 また俯いてしまった美桜の反応に、真代が吹き出した。
「何言ってるの、ハイスクール! 家族と会社は別だよぅ。美桜ちゃんは性格にもっと遊びを持った方がいいと思うな!」
「あ、遊びと言っても……。これが素ですし、どうしろと言うんです?」
「特別な役割を持とうとするから、気疲れするんだよ。私みたいに仕事を回してもらえない、使えない新入社員になっちゃえば、いっそ楽だよ?」
「ルーキーイヤーは終わったのでは? もう、二年目の春でしょう?」
 美桜の冷めた指摘に、真代は逃げるようにサイドミラーへ視線を投げて答える。
「一年目と、二か月なだけだし。まだ新人気取れるし。本気出せば、もっとできるし……」
「大器晩成型だと?」
「そりゃあ、今の仕事のほとんどは製品の回収と納品で、重要な会議とかに出させてもらえないけどさ。世の中には遅咲きの桜って言葉もあってね?」
「というか、一年前の、『あの事件』が原因では? あれでお父さんに睨まれたんだと思います」
「あのやらかしを掘り返すのは止めて。悪かったって思ってるんだからさ……」
 もう一度赤信号に当たり、車を停めた真代に、美桜は悪戯っぽく微笑んだ。
「まあ、あれがあったから、私は真代さんと知り合えたワケですし、全くのマイナスだとも思っていませんよ?」
「いいこと言うねえ、ハイスクール。おばちゃん、泣いちゃいそうだよ……」
「まだ二十代前半でしょう。悲しい言い方しないで下さい」
 そんなことを言い合い、二人は小さく笑う。
 美桜は心が楽になったことを実感しつつ、本題へ入った。
「それで、相談したいことなんですが……」
「うん、なんだろう?」
「その……気になる人がいるんです」
 美桜の言葉に、真代は目を輝かせて食い付く。
「ほう!? 意外な角度から来たね! いいよ、いいよ、ハイスクール! 盛り上がってきた!」
 拳を握る真代の大きなリアクションに、美桜は顔を赤く染めて両手をぶんぶん振った。
「そ、そういうのじゃありません! ただ、その、気になる内容が内容なので、どうすればいいのか分からなくて……」
「……? 何か、要領を得ないね? あんまり一筋縄ではないヤツかな?」
 真代の声のトーンが少し低くなり、それに合わせて美桜の言葉選びも慎重になる。
「本人に聞くことができれば、ベストなんだとは思います。ただ、上手く詰めなかったら、すぐにかわされる気がして……」
「なるほど、事情があるヤツか。……しかし、かわされるってのは困りものかな」
「それは、どういう?」
「はぐらかされる、なら追い込んで問い詰めれば何とかなる。格闘ゲームで言えば、画面端を背負わせて、攻め続ければいつかガードが崩れる状態だから」
「は、はあ……」
 真代は少し目を伏せて続けた。
「けど、かわされるは違う。回避っていうのは、自分がどこにいて、次に何をすべきか分かっている人間のできる行動だから。……美桜ちゃんは位置覚って知ってる?」
「いちかく……ですか? いえ、初耳です」
 聞き慣れない言葉に、美桜は首を傾げる。
「プロピオレセプションとも言うけど、今、自分が何をしているのかを正しく自覚する力……みたいな解釈かな。本来、身体能力を表現する場合に使われる言葉だけど、今回はメンタル面で考えてみて? 美桜ちゃんが知りたいって思っている人は、それのない人?」
「……いいえ。むしろ、ある方だと思います」
「とすると、捕まえるのは大変かもね。……でも、不可能でもないと私は思う。困難ではあるけど、手間と時間をかければ解決できるんじゃないかな?」
「できる……でしょうか。本当に……?」
「単純なことだけど、ソイツがどんなヤツであれ、今、明日の夕飯に何を食べるかまで考えてはいないだろうし」
「明日の夕飯?」
「そう。美桜ちゃんは分かる? 明日の夕飯、明後日の夕飯、そのずっと先まで」
「い、いいえ」
 真代は肩をちょっとすくめて見せた。
「そんなもんなんだよ、万能に見えるヤツでもね。だから、戦い方なんていくらでもある。先回りして、こっちが決めればいいだけの話なんだから」
「それが、手間と時間をかければ解決できるということ?」
 美桜の解答に、真代は頬に苦い笑いを覗かせる。
「ま、ルーキーイヤーを引きずってるヤツの言葉なんて、聞き流してくれていいんだけどさ」
「そ、そんなの関係ないですよっ。私は相談相手に年齢とか、実績とか、そういうのは求めません。私は……」
 美桜は何かを言おうとしたものの言葉が続かず、太ももの上で両手をもじもじさせて俯いた。
 それを見た真代は目を細め、美桜の頭をぽんぽんと撫でてから、微笑む。
「でも、大事なのはどうやって、だよねー。美桜ちゃんが知りたいのは、そこでしょ?」
「え、ええ。正面から聞いてダメなら、どうすればいいのかと……」
 頭を抱えた美桜へ、真代が得意げに笑って答えた。
「それは簡単だよ。正面から入ってダメなら、裏口から入ればいい。まず外堀からってね」
「外堀?」
 真代は左折のウインカーを点灯させ、ハンドルを切る。
「そ。もし、裏口でもダメなら、窓を開けて入る。望む結果が得られるのなら、その辺りの手段は問わなくていいんだよ。……現状、美桜ちゃんはソイツに関して何を知ってる?」
「え、ええと、放課後はアルバイトをしているとか、妹がいるとかていどしか知りません……」
「知らないことを知ろうとするから無理が出るんじゃないかな? 知っていることから始めて積み重ねれば、やれることはたくさんあると思う」
「知っていることから……?」
 美桜は真代の言葉を復唱しながら、今までの出来事を振り返った。
 確かに、卒業アルバムの件から彼を知ろうとするなら、難しいアプローチとなるだろう。
 教職員まで巻き込むような事情だから、相当に硬いガードを張っていると考えた方がいい。
 なら、その壁はさて置いて、他の筋道を探るというのはどうだろう?
 出発点を、『卒業アルバム』ではなく、もっと身近なものにすればいいだけだ。
 一つ、一つ、思い出そう。
 出会ったあの日、倒れそうになった彼は助けられた後、何か言っていなかったか?
 距離を縮めることのできそうな発言はなかったか?
 そこまで思い至った時、美桜の脳裏にとある言葉が蘇る。
『……ここ、俺のアパートも近いから、家族に迎えに来てもらうよ』
 家族とは、おそらく妹のことだろう。
 美桜自身も、とある用事があってあの場所にいたし、今後もそれは続くと思っている。
 そういう意味で、既に接点はあるのだ。
 だから、その辺りのお互いの事情を上手くすり合わせれば、外堀を埋めることができるのではないだろうか?
 結論を得た美桜はちょっと興奮した口調で、真代へ言った。
「真代さん、少し分かった気がします。できることは、ありそうです」
 真代は満足げに頷き、口笛を鳴らす。
「うんうん、何よりだよ。行動できるというのは気持ちがいいからね。……また、いつでも頼って欲しいかな?」
「はい、何だか少し、悪いことをしてしまいそうな気もしますが、深く考えないことにします」
「あはっ、そうだね! 多少ダーティな方が生きるためには楽だから! でも、仕事をサボっていたと社長に告げ口はダメだぞぅ?」
「安心して下さい。身近な人が、ご飯の食い上げとなるのは心が痛むので」
 美桜はそう言い、したり顔で目を細め、真代も口元を緩めた。
 やがて、真代の運転する社有車は駅近くのコンビニで停車し、美桜はシートベルトを外す。
「真代さん、今日はありがとうございました。相談して、よかったです」
「こちらこそ。就業中に女子高生を助手席へ乗せるのは、なかなかにスリリングだった」
「頼っておいて気が引ける言い方ですが、大丈夫なんですか、それ?」
「よくはない。地元の名企業、株式会社京塚ストラテジーの社長令嬢とは言っても、業務の何かに関わってるワケでもない子だしね? ……だから」
「だから?」
 真代は口端を吊り上げて、にいっと笑う。
「バレないようにやるだけだよ」
「止めると言う選択肢はないんですね……」
 釣られて美桜も苦笑いしてしまったが、そんなに悪い気分でもない。
 美桜は社有車から降り、真代はハンドルを握り直して、去って行く。
 光の尾を引くテールランプを眺めながら、美桜は気を引き締めた。
「さて、方向性は決まりました。後は、結論が出るまで攻めるだけですね!」
 その口調に迷いはなく、多少の喜びすら滲んでいたのだが、美桜は努めてその意味に気付かない振りをした。







「最近、椎名の様子がおかしい気がするんだけど、何かあったのかな……」
 半月ほど時間が流れた六月初旬の夜。
 学校の授業とバイトを終えた航は、帰路に着きながら、ふとそんな言葉を零した。
 別の現場へ入る予定だった先輩が急な体調不良で欠勤してしまい、代打として航が入ることとなったため、時計の針は既に九時半を回っている。
 夕食の当番である妹へ連絡は入れてあるし、仕方がないことと分かってくれているだろうが、やはり心苦しいものはあった。
 自然、アパートへの足が速くなり、航は星空を見上げて、もう一度、呟く。
「何かを考え込んでるような、ずっと疲れてるような? 目標があるのはいいことだけど、頑張り過ぎてもよくないんだけどな……」
 とは言え、自分ができることと言ったら声をかけ、休憩がてらに何か飲み物を奢るていどだ。
 努力することと、夢中になることがごっちゃになるのも悪くはないが、ほどほどにして欲しいとも思う。
「ま、考えすぎか。いくら椎名でも限度は理解してるだろうし」
 そう言って、築年数を声にすることのはばかれる、二階建ての木造のアパートへたどり着く。
 航の住む部屋は205号室……二階の角部屋だ。
 建物の正面に設置されている階段を昇るため、アパートの敷地内へ足を踏み入れると、
「私がどうかしましたか?」
 と、突然横から声をかけられて、航は文字通り飛び上がった。
「びっ!? し、椎名!?」
「はい、椎名です。こんばんは、佐崎君」
 美桜はそう答え、目を細めて微笑んで見せる。
 授業を終えてから家へ帰っていないらしく、白のシャツにベージュのリボン、そしてメイビーとグリーンのスカートという、最近衣替えした学校の夏服のままだ。
「お疲れ様です。今日は遅かったんですね?」
「あ、ああ。急に休んだ人がいて……じゃなくて! な、なんでここにいるんだ!?」
「思うところがあって、外堀を埋めに来たんです。よかった、見つかって」
「いや、何を言っているのか分からないが……」
 航は眉根を深く寄せて、強く下唇を噛む。
「……? どうかしましたか? 酷く動揺しているように見えます」
「実際、してる。結構、怒っているかもしれない。遠からず、こういう日が来るかもって思ってたけど、これはちょっと……」
「怒る? なぜです?」
 航は美桜の問いに答えず、重いため息を吐いて言った。
「いや、こっちの話だ。……とりあえず、家へ入るか。帰れとも言えないし、何も食べてないんだろう?」
「ええ、お腹、ペコペコです。ご家族はいらっしゃるんですか?」
「ああ。妹が何か作ってくれてるはずだ」
 航は後頭部を掻いてから歩き出し、美桜もその背中を追う。
 サビの目立つ階段を昇り、二階の角部屋へ向かい、航はカバンから鍵を取り出した。
 ドアを開け、並んで立つと窮屈な玄関で、航は靴を脱ぐ。
 隣の美桜へ顔を向けると彼女は視線を下へ落とし、
「女学生向けの黒いローファーと痛んだレディースのスニーカー。男物は佐崎君のもの以外はなし……ですか。これだと、家族構成は……?」
 などと呟いている。
 航は不審に思いつつも、玄関横に置いてあるスリッパを手に取った。
「すまん、あまりいいモノじゃないんだが。……普段、来客のない家だから」
「あ、いえ、お気になさらず。ほとんど、こちらの都合なので」
「……? ま、いいや。入ってくれ」
「はい、お邪魔します」
 航と美桜は人ひとり通るのが精一杯なていどの廊下を歩く。
 左手に一つ、右手には二つの扉が並んでおり、美桜が左側のノブを触りながら首を傾げた。
「ええと、ここは?」
「トイレと風呂だ。覗いてみるか? 狭くてびっくりするけど」
 航の悪戯っぽい口調に、美桜は思わず恐縮する。
「す、すみません! つい……」
 そのリアクションに航は軽く笑いながら、リビングへ足を踏み入れた。
 そして、右手の台所で鍋と向かい合っていた小柄な少女へ声をかける。
「可澄(かすみ)、ただいま」
 可澄と呼ばれた少女は顔を上げないまま、返答した。
「遅いよ、アニキ。準備ができてから、何時間待たされたと思ってるんだ」
 航は、その粗暴な言葉づかいと口調に苦笑しつつ、ショルダーバッグを椅子へ下ろす。
 隣に立っていた美桜を見ると、可澄の幼さを残す高い声にびっくりしたらしく、目を瞬かせ、驚いた表情を浮かべていた。
 まあ、そうだろうなと航は思う。
 可澄の身長は美桜より少し低いていどで、身体のラインも細い。
 髪はうなじにかかるくらいの長さで、手入れはされているが、あまりこだわりらしいこだわりもない。
 おそらく、前情報から抱いていた想像とギャップがあったのだ。
 そして当の可澄本人は、右手にお玉を持ち、薄い桃色のゆったりとしたパーカーと腰にフィットしたショートパンツ姿で、美桜の存在に気付いていない。
 航はもう一度、苦笑して、口を開く。
「すまん。メッセージは送ったんだが」
 鍋の煮込み具合が気になるのか、やはり可澄は顔を上げないまま、返答した。
「でも、もう十時だろ。オレもいい加減、待ちくたびれた。……さっさと食べようぜ」
 可澄はようやく航と美桜へ視線を向け、手に持っていたお玉を、「がしゃん」と床へ落とす。
 その顔は小さいが、目は大きく、まなじりも柔らかい。
 可澄は、たっぷり三秒固まった後、顔を赤く染め上げて口を開いた。
「か、母さん! アニキがナオン連れて帰って来た! って、今日は仕事、遅くていないんだったー!?」
「ナオンって。まあ、私、女ですけど、言い方が……」
 美桜が流石に困惑を見せ、航はお玉を拾い上げて、苦笑いするしかない。
「落ち着けって。椎名は大丈夫だから。同級生だ」
 お玉を受け取った可澄は金魚のように口をパクパクさせ、深呼吸して落ち着きを取り戻す。
「あ、ああ。し、しかし、驚いた。突然だったから……」
「驚いたのは俺も同じだ。さっき会ったばかりだからな。……椎名」
 航が視線を横へ向け、美桜は背筋を正し、ぺこりと頭を下げてそれに応じた。
「初めまして、椎名美桜です。佐崎君とはこの春、知り合いました。……夜分に突然、お伺いしてしまい、申し訳ありません」
 美桜の自己紹介に、可澄は眉根を怪訝そうに寄せて答える。
「え、ええ……? 春? 結構、最近じゃんか」
「いろいろ、お世話になったんです……というか、なっている途中と言いますか」
「ふうん? それはそれでいいけど。……アニキ」
 不意に可澄の声が深く静かなものへ変わり、真っ直ぐに航を見つめた。
「いいのか?」
 航は少し何かを考え、一度目を伏せた後、頷く。
「ああ。これでいいと、思ってる」
 航の淡々とした口調に、可澄は軽く両肩を上げて見せるだけだ。
「……そういうことなら、オレからは何も言わない。ええと、美桜さんだっけ?」
「あ、はい」
 可澄は行儀悪く、ぶんとお玉を振って言った。
「オレは可澄。佐崎可澄(ささき かすみ)だ。よろしくな」
 若干、行儀の悪い仕草ではあったが美桜は、「こちらこそ」と頭を丁寧に下げて応える。
 リビングを見渡していた航が、可澄へ問いを投げた。
「母さんは? さっき、仕事が遅いとか言ってたけど」
「ああ、オレのところへメッセが来てたよ。あっちはあっちで、急な欠勤があって、帰るのが遅くなるから、夕食は先に済ませてくれって」
「そうか。なら、三人分でちょうどではあるんだな」
 可澄は皮肉気に口端を歪ませる。
「そうだな。アニキと二人で食事なんて、寒気がする。もう一人、加わってくれて助かったよ」
 その言葉を受け、航の表情に苦いものが浮かんだ。
「可澄、そういうことは思っていても言うもんじゃない」
「へいへい、こんな時間まで働いてくれてるアニキに感謝はしてますよーだ。……ま、オレも働ける立場になったら、それは保証しないけど」
「俺と母さんがバイトすれば、可澄は学生の間、働く必要はないんだ。勉強でもスポーツでも好きなことをして欲しいんだが」
「うわー、過保護! キモい! ……なあ、美桜さんも何か言ってやってくれよ」
「え? ええと」
 突然、水を向けられた美桜は戸惑い、すぐに返答することができない。
 その視線が少し二人の間をさまよったが、やがて腹を決めた様子で、にこりと笑う。
「佐崎君」
「なんだろう」 
「可澄さんの言う通り、私も過保護だと思います。もう少し、気楽でもいいかと」
「変わり身早っ!? ここは俺の味方をしてもよかったんじゃないか!?」
 航と美桜のやり取りに、可澄が愉快そうな口調で手を叩いた。
「あっは! イケる口じゃん、美桜さん! だから、今日の豚汁は美味くできたのかもな!」
 可澄は上機嫌となり、IHクッキングヒーターの加熱を切る。
 味噌の香りが美桜の鼻孔をくすぐり、そのお腹が、「くぅ」と鳴った。
 思わず美桜はお腹へ手を当て、羞恥に頬を染め、航が苦笑する。
「椎名、待っている間、シリアルバーとか齧ったりしなかったのか?」
「買うのを忘れてしまって……。実を言うと、かなりお腹が空いています」
「何か買いに行けばよかったのに」
「すれ違ったら、大変でしょう」
「それにしたって、こんな時間まで待つ必要もないだろう」
 航の指摘に美桜は少し俯き、小さな声で答える。
「……そういうワケにも、いかないんです。気になって、仕方がないので」
 その言葉に、航はリアクションに困り、目を泳がせて頬を掻くことしかできない。
 少し間を置いた後、可澄が戸棚から茶碗を取り出しながら、口を開く。
「ま、積もる話は食べてからでもいいだろ。アニキ、椅子のカバンが邪魔。片付けてくれ」
「酷い言われようだ。可澄、もうちょっと女の子らしい言葉づかいを……」
「あんまりぶつくさ言うなら、豚汁、豚ナシにするぞ」
「悪かったって……。俺も腹は減ってるから、肉は食べたい」
 航はそう言って椅子にあったショルダーバッグを、部屋の隅へ置き直す。
 そして、さっきからキョロキョロしていた美桜に言った。
「リビングの広さは十二帖ほどだから、テーブルとか椅子とか置くと、手狭な感じだろう?」
「……建物の外観と、リビングから推測すると、間取りは2LDK、ですか?」
「ああ。築年数も相当だから、壁や天井にシミを探したりしないように」
「し、しませんよ、そんな失礼なこと。ちゃんと掃除もされてますし」
 美桜はそう言った後、こほんと空咳を挟み、可澄へ声をかける。
「あの、何かお手伝いできることはありませんか?」
 可澄は菜箸で鍋をつつきながら、ひらひらと手を振って答えた。
「ん? いーよ、お客様はドンと構えててさ。出せるものも、些細なモンだしねー」
「は、はぁ……」
「椎名は観念して座っていればいいんじゃないか? そんなに気を使う必要もないし」
 航と可澄はそう言ったが、美桜のバツの悪そうな、居心地の悪そうな顔は変わらない。
 可澄が戸棚から茶碗を取り出しながら、少し苦笑する。
「アニキも座れよ。もう用意は終わるから」
 可澄はそう言った後、お盆にご飯と豚汁、磨り潰したレンコンの入った豆腐、春キャベツが盛り込まれたコールスローサラダを乗せて美桜の横に立った。
 そしてそれらをテーブルへ置き、最後にゆで卵とふりかけの乗った小皿を添え、問う。
「ふりかけの好みがあったら言ってくれ。結構、揃えてあるんだぜ?」
「あ、いえ、シソで大丈夫です。ありがとうございます」
「可澄、俺は鮭がいい」
「何言ってんだ、アニキは自分で取れ」
「……はい」
 可澄の鋭い返しに、航は肩を落とした後、引き出しを開けて鮭のふりかけを手に取る。
 そうこうしている間に、三人分の夕食がテーブルへ並び、可澄は航と美桜の対面となる場所に座って、手を合わせた。
「いただきます」
 三人はそう言って、箸を手に持つ。
 航は一口、豚汁を啜って人心地ついた。
「ああ……美味い。今日はキツかったから、身体に沁みる……」
 美桜も可澄の作った豚汁の暖かな味わいに舌鼓を打ちながら、苦笑する。
「作業が多かった、とかですか?」
 美桜の口調はいつもと変わらないが、手先が少し震えているから、やはり緊張はしているのだろうなと航は思う。
 だから航もまた、平常通りの調子で答えた。
「というより、上がる直前に、別件へも行ってくれないかって言われたのがキツかった。最初から言ってくれていれば、心の準備もできたのに、『よっしゃ! 今日の仕事、終わり!』って気分だった時に言われるとな……」
 可澄が豆腐を口へ運びながら、問う。
「断ればよかったじゃんか。アニキがしなきゃいけない理由なんてあったのかよ?」
「ないけど、頼られてお金をもらえるってのは悪くないから」
「オレ、アニキのそういうロードー観、好きじゃない。美桜さんはどう思う? 馬車馬みたいな働き方って」
「え? ええと」
 不意に話を振られたので美桜は若干、戸惑いを見せたが、少し考えてから答えた。
「私のお父さんなんかは立場のある人間で、稼げる人間が正義! みたいな人ですから、私も働く人間だけが……というより、成果を上げられる人間だけが偉いという価値観は苦手です」
「ほら、聞いたか、アニキ! 長い労働時間ばかりが正義ってのは、時代遅れの価値観だって!」
「い、いや、長いって言っても違法労働してるワケじゃないし、学生だから気を使ってもらえてるし……。それに単純に」
 一旦、言葉を切った航に、美桜と可澄の箸が止まる。
 航は、にっと笑って言った。
「口座にお金が溜まるのはいいことだ。気持ちの余裕が違う」
 美桜、可澄が目を背ける。
「佐崎君……」
「アニキ……。発想が金の亡者だ……」
「な、なんだよ……。たまに良いコーヒー買ったりして、贅沢するのも楽しいじゃないか」
 可澄がコールスローのキャベツを咀嚼しながら、答えた。
「まあ、否定はしねーけど。けど、マジで身体を壊すのはカンベンしてくれよ。母さんだって、その辺、心配してるんだ」
「……覚えては、おく」
 航の口調は、少し歯切れの悪いものだったので、美桜が首を傾げる。
「あの、そういえば、今日はお母さんのお戻りは遅いんですか?」
 可澄が豚汁へ一味唐辛子を足しながら、答えた。
「ん? んー、そうだな。日付は超えないだろうけど、流石にそんな時間まで美桜さんはいられないだろうし、今日は会えないかもな」
「そ、そうですか。会えるなら、会いたかったので、残念です……」
 そんな会話をしている間に食事は終わり、三人は「ごちそうさまでした」と手を合わせる。
「可澄さん、お皿は……」
「可澄でいいよ、美桜さん。後片付けはオレがやっておくから。……時間も時間だ、アニキ」
 航は席を立ち、一度息を吐いた。
「分かってる。……椎名、家まで送るから帰る準備を」
「え? いえ、お気になさらず。勝手に押しかけたんですし、自分で帰ります」
 航は鋭く、強い口調で言い返す。
「ダメだ。これから先、ここへ来る時も、帰る時も俺に一声かけること。……これは絶対だ」
 航は自分の口調が威圧的と取れるものになっていることを自覚しつつも、言葉を続けた。
「これを守れないのなら、二度とここへは来ないで、住所も忘れてくれ」
「……え、ええと?」
 航の声は真剣で、美桜の表情に動揺が滲む。
 少し間を置き、美桜は神妙な様子で頷いた。
「分かりました。これから先は、そうします。……今日、押しかけたのも軽率、でしたか?」
 俯き、自身を咎めるような素振りを見せた美桜へ、航は苦笑して一度、その肩を叩く。
 そして航は美桜の横に立ち、視線を玄関へ向けた。
 最後に美桜が、可澄へ頭を下げる。
「今日はごちそうさまでした。また、折を見て来ても良いでしょうか、可澄ちゃん」
 可澄は美桜へ振り向き、苦笑気味に目を細めて微笑んだ。
「可澄ちゃんときたか。まあ、いいけど。……ああ、いつでも来てくれ。ただ」
「ただ?」
 可澄は目を伏せ、美桜に身体を近づけて、耳打ちする。
「アニキは好んであんな反応をしてるワケじゃないってことは、分かって欲しい」
「望んでいない……ですか?」
「うん。それ以外、どうしようもないから。……それだけなんだ」
「?」
 その謎めいた言い回しに美桜は首を捻ってしまう。
「あの、それはどういう?」
「椎名? どうした?」
 真意を問おうとした美桜へ、航が背後から声をかけ、可澄はさっとシンク前へ戻っていく。
 航は戸惑う美桜を先導し、玄関から外へ出て、夜道を並んで歩き出す。
 航は腕時計で時刻を確認し、いつも通りの口調に戻って言った。
「もう、十時半を回ってるけど、親は大丈夫か?」
「多分、帰っていないと思うので大丈夫かと。それに、いざとなれば、タクシーを使うつもりだったので、ご心配には及びません」
 ぐっと拳を握って得意げな表情を見せる美桜に、航は苦笑する。
「タクシーってまた、大げさな」
「確かにお小遣いに余裕はありませんが、情報のため必要な投資です。お金は、いざという時、派手に使うためにあるんですから」
 美桜の力説に航は、「くくっ」と笑った。
「なるほど、違いない。大事な時にケチると後悔する。……ああでも、椎名」
 航の声のトーンが静かで深いものとなり、美桜は首を傾げる。
「住所はくれぐれも他言無用で頼むぞ?」
「分かりました、必ず守ります。……まあ、それはそれとして佐崎君?」
「ん?」
 不意に美桜が立ち止まり、航を見つめた。
「近い内に、時間をもらえませんか? ゆっくり、話がしたいんです」
「話?」
「安心してください。貴方を問い詰めるつもりはありません。今度は、私の話をしたいんです」
「椎名の?」
 航が戸惑いがちに視線を向けると、美桜は目を伏せ、左胸に右手を当てる。
「尋ねたいことはいくつかあるでしょう? 今日、どうやって家を突き止めたのかとか、出会ったあの日、なぜ私はあの歩道にいたのかとか、なぜ弁護士を志したのか、とか」
「聞いても、いいのか?」
 美桜は静かに優しく顔を綻ばせて、頷いた。
「お答えできる範囲なら……とは言いません。聞かれれば全て話しますし、答えますから質問を考えておいてくれると助かります」
「そう……か」
 航はその言葉に、ささくれ立っていた気分が和らいでいくのを感じ、一度大きく深呼吸した。
 口調が柔らかくなるのを自覚しながら答える。
「なら、容赦なく。気が済むまで問いただそう。それはそれで楽しそうだし」
 航はそんなことを言い、口元に手を当てて、考え始めた。
 その仕草見た美桜が、少し苦い口調になって呟く。
「お腹を見せるのは少し恥ずかしい気もしますが、まあ、いいかって感じですね。なぜか気分は悪くないですし……」
 そして航達は夜道の澄んだ星空を見上げ、美桜の自宅までの道を歩く。
 最後に美桜は、
「あ、当日はジャージか何かで来て下さいね。多分、汚れると思うので」
 と言い、航は首を傾げたが、これも意味のあることなんだろうなと心の中で納得し、頷いた。







 その後、迎えた週末の日曜日。
 航は先日、初めて知った美桜の自宅前で、彼女を待っていた。
 腕時計の針が差す時刻は午前十時。
 六月初旬であるため、まだ雨の気配はなく、からりと晴れた気持ちのいい日だった。
 気温もほどほどに高くて、通気性に優れているジャージが心地いい。
 百円のカップコーヒーを飲んでいると、薄いピンクのパーカーにデニムパンツ姿の美桜が玄関のドアを開けて、顔を見せる。
 美桜は航の姿を見つけ、微笑みながら駆け寄った。
「お待たせしました。いい天気で何よりです。打ち明け話日和ですね?」
「またいきなりだな。どういう日和だ、それは……」
 風変わりな言い回しに、航の表情が渋くなる。
「雨が降っている時にするより、良くありませんか? 今日は口を軽くしていい日なんですから、陽気な方が好ましいです」
「季節によって口が重くなったり、軽くなったりするのか? 気持ちは分かるけど……」
「まあ、その辺りはそれぞれということで。……では、目的地へ向かいましょう」
 航は、そう言って歩き出す美桜の後を追う。
 その方向は初めて彼女と出会った道路へのものだ。
 となると、航から見れば元来た道へ戻ることになるのだが、自宅へ迎えに来たのは自分の方なので、文句も言えない。
 航は美桜の腰まで伸びた髪が風に揺れるのを眺めながら、その後ろを歩いた。
 目的地を聞いていないが、すぐに分かるのだろうと航は判断し、郊外へ続く道路を進む。
 視界の左右に田んぼや畑が目立ち始め、脇道、小道も散見できるようになり、ふと腕時計を見ると、もう三十分ほど時間が流れていた。
 知っている人、用事のある人以外は近寄ることもない場所だ。
 ふと、航が口を開く。
「ここで、倒れそうになったんだっけ」
 美桜は振り向いて、ふふっと悪戯っぽく笑った。
「あのまま、誰も通りかからずに氷像になっていたら、ニュースになっていましたね?」
「止めてくれ、想像するだけで背筋が凍る。自宅近くで凍死とか、笑えない」
「そう言えば、あの後は可澄ちゃんが迎えに来たんですか?」
「ああ、体調管理くらいちゃんとやれって、めちゃくちゃ怒られた」
 美桜が唇に指先を当て、少し考えて言う。
「それでも迎えに来てくれて、良かったじゃないですか」
「……とはいえ、倒れてなかったら、こうして話すこともなかったワケだし」
「うーん、そう考えると、これも奇縁ですね」
 そんなことを言い合いながら、航達は人気のない道路を歩く。
 航のアパートへ続く小道を通り過ぎ、更に郊外へ向かって進み続けた。
 やがて、三階建ての古びた雑居ビルへたどり着き、美桜が迷いなくその中へ入って行く。
「お、おい」
 航は少し慌てながら、その背を追った。
 バイト柄か、ビルの正面玄関の大きなマットへ視線が向く。
 長い風雪や雨を経て、泥が滲み、シミもあって年季が入っているが、定期的に手入れはしてあるようで、みすぼらしさはない。
「誰かが洗ってるってことか。その誰かって……?」
 思わず、下げていた視線を上げると、やや傾斜のキツイ階段を昇る美桜の踵が見えた。
 航は慌てて、それを追いかける。
 最上階である三階まで昇り、その廊下の端にあるドアの近くで、美桜は航を待っていた。
 ドアノブには非接触型のカードリーダー端末が付いており、その隣に何かの看板が並んでいるのを航は見つける。
 名前は入っていないが、『法律事務所』と続いていたことから、ここで誰かが開業していたのだろうと航は思った。
 美桜がパーカーのポケットからカードキーを取り出し、リーダーにそれをかざす。
 ロックの外れる、「ピッ」という電子音が鳴り、ノブを捻ってドアを開けた。
「目的地は、ここです。どうぞ、中へ入って下さい」
 ぎぎ、という金属音が響き、ドアが開かれる。
 玄関の内装はビルの外観やドアに似合わず、ビジネス街のオフィスと遜色ないほどに整えられており、航は思わず目を瞬かせた。
 間取りとしては、まず正面に観葉植物の置かれた、広めのエントランスがある。
 続いて、中央の通路を軸に、左に二つ、右に一つ、部屋が並んでいる感じだろうか。
 壁紙の色も白を基調としたシンプルな安心感のあるデザインだ。
「何か、意外だな。てっきり、底の抜けそうな木製の床とか、拳を当てたら穴が空きそうな壁とかを想像していたんだが」
 航の後を追い、事務所へ入って来た美桜が苦笑する。
「ですよねえ。ここを訪れる方はみんな同じリアクションをしていました」
「だろうな。ビル自体がアレなだけに……」
「そ、それは言わない約束ですよ? このビルには他のテナントさんも入ってるワケですから」
 美桜は渋い表情をしながら、通路右手のドアを開けた。
「こっちが事務室です。とりあえず、こちらへ」
「あ、ああ……」
 航は導かれるまま、室内へ足を踏み入れる。
 そこにあったのは学校の教室の半分ほどの空間で、目立つのは奥に置いてある執務机だけだ。
 その他、いくつかパイプ椅子や本棚も見られるが、全体としてはがらんとして、どこか寂しさの滲む場所だった。
 美桜が執務机の前に立ち、振り向いて、大きく息を吸う。
 そして、意を決した様子で言った。
「ようこそ、椎名法律事務所へ。歓迎します、佐崎君」
「え、ええと? すまん、状況が掴めない。どういうことだ?」
 美桜が少し照れた様子で頬を掻く。
「では、ネタバラシです。ここは私のお母さんが生前、営んでいた法律事務所なんです」
「お母さん? 生前ってことは……」
 航の問いに、美桜は目を伏せた。
「三年前、中学二年生の春、交通事故で亡くなりました。……お母さんは弁護士でした」
 航はしばらく美桜の顔を見ていたが、やがて壁際の本棚へ視線の先を変える。
 美桜はその先を追い、本棚の前に立って、何冊か残っている本の背を撫でた。
「たくさんの法律の専門書や事情報告書が並んでいました。依頼者の方の個人情報なので、お父さんがすぐに処分しましたが、お母さんの私物や弁護士になるために使ったテキストは残して欲しかったと、今でも思います」
「じゃあ、椎名はお母さんの仕事の手伝いをしていたのか?」
 航はその隣に立ち、何も並んでいない棚へ指を添わせながら、問う。
「はい。依頼者の方へお茶を出したり、うっかり電話に出てしまうていどですが」
「うっかりって。いいのか、それは」
 引き気味の航に、美桜は口調に懐かしさを覗かせながら、苦笑する。
「ダメですねえ。借金とか、相続とか、離婚とか。直接プライバシーに関わる部分ですから、好奇心で聞いてみた、は怒られて当然です」
「当然だ! 単語だけで辛いヤツじゃないか!」
「子供だったんですよ。話を聞くていどは、許して下さい」
「三つ子の魂百までというか。当時から困った人に、『大丈夫ですか?』の素養があったワケだ」
 航は頭痛を覚えつつも、これまでの美桜の言動に納得してしまう。
 人の悩みを聞くということはつまるところ、一緒に背負うということだ。
 責任を伴うことだから楽ではないし、積極的に関わりたいかと問われれば、即答も難しい。
 だが椎名美桜という少女にとって、それは幼い頃からの日常だったのだ。
 美桜は指先で頬を掻いた。
「私は依頼者の方から相談を受けるお母さんの姿を見て育ったから、こういう性格になったのかも知れませんね」
「椎名の親父さんは何をしてるんだ?」
 航の問いを受け、美桜の表情に曇りが差す。
 美桜は首を左右に振った後、答えた。
「お父さんは若い頃に起業し、成功を収めて、今は300人ほどの会社の社長をしています」
「つよっ!? 意識高いな、椎名の両親!」
 その言い草が気に入らなかったらしく、美桜は腕を組んで唇を尖らせる。
「そういう言い方はやめて下さい。社会的立場があるという意味で共通していますが、意味が違いますから。法律事務所とは言っても、あるていどの営業努力もしていましたし」
「営業?」
「はい。事務所に関しては、佐崎君もさっき言っていたでしょう? 『ビルがアレだ』と」
「あ、ああ。確かに言ったが。それが……?」
 美桜は、その問いに答えないまま一旦事務室を出て、エントランスへ足を向け、航に玄関ドアの前に移動するよう指示を出す。
 そして、白を基調とした壁紙を背にし、観葉植物の横に立って見せた。
 航は流れのまま、その光景を眺める。
 整然とデザインされた通路と白い壁、手の入っている観葉植物、そして椎名美桜。
「……近代的な印象があるでしょう? 士業とは言え、ボロボロで、ドアにセキュリティもない見た目では成り立たないんです。安心感が違いますから」
「な、なるほど」
「子供の私にも分かるほど、お母さんは弁護士として優秀な人でした。人助けができればいいと思っていた節もあったと思います。ですが、それを改めさせたのがお父さんだったんです」
 航は白い壁を撫でながら頷く。
「きちんと時代に沿うように、助言をしたんだな? それが営業努力ってことか」
「依頼者の要望に応えるということ。それは相談に耳を傾けることだけではない。そうさせる環境を作らなければ、生き残れない時代だと。お母さんとお父さんは、よくケンカもしていましたが、それで噛み合っていたんだと思います。その他にも広告を打ったりして、依頼者の数も増やしていたようですし」
「確かに、ボロボロの事務所と、デザインされた事務所、どちらを選ぶかと言われたら後者だな。時代柄の感性かもだが……」
 美桜はため息を吐いた。
「職業柄、能力はあって当然です。ですが、それだけでいいという時代は終わったんでしょう。お父さんは、そういう部分に厳しいんです。お母さんとは別の意味で激情家というか」
「うーん、ますます意識が高い。……いや、いい意味で、だぞ?」
 美桜は身体をかがめ、観葉植物の葉を撫でながら密やかに言う。
「私の口調はお母さんのマネです。お父さんに対しても、私に対しても、依頼者の方に対しても、誰にも対等に接していて、その姿勢は私の憧れでした。いつか私もそうなりたいと、今もそう願っています」
「それが、椎名が弁護士を志した理由か?」
「はい」
 航は美桜の目を見ながら少し間を作り、問い掛けた。
「辛いと思うことは?」
「……孤独を感じることはあります。ですが、この道を進んでお母さんは弁護士になったんだと思います。だから、どんなに辛くても日々、勉強を続ければ、いつかきっと」
 美桜は胸の前で手のひらを合わせて祈るように言い、一方の航は頭を掻きながら頷く。
「分かった。そこに関して俺にどうこう言う資格はない。……けど、その結果は俺も見届けるから、重いと思ったら、こっちにも預けるように」
「……ありがとうございます。その言葉だけで、少し楽になれる気がします」
 美桜は伏せていた目と、顔を上げた。
「佐崎君と初めて会ったあの日、あの道路に私がいた理由は、定期的にこの事務所の掃除をしに来ているから……です。その帰りに、偶然出会ったという形ですね」
 航は頭を掻いて、ため息を吐く。
「つまり、遅かれ早かれ、顔を合わせる可能性はあったということか。事務所ついでに、玄関マットの交換までする物好きがいるまでは予想できないな……」
 美桜が満足げに頷いた。
「そういうことです。……その他にもいろいろ聞きたいことはあると思いますが?」
「そうだな。家族関係とかも興味があったけど、一番気になることと言ったら……」
「言ったら?」
 航は厳しい表情になり、口調に刺を見せる。
「どうやって俺のアパートを突き止めた? そうならないよう配慮はしていたんだが」
 航としてはかなり重要な質問だったのだが、美桜は得意げに微笑み、胸を張って答えた。
「それは簡単です。新しく接点を作ろうと考えるとムリそうだったので、元々あった接点を利用しただけですから」
「なんだ、そりゃ?」
 意図の掴めない返答に航は困惑し、美桜が再び事務室へ入っていったので、その背を追う。
 事務室内の美桜は道路に面した窓の前に立ち、航を隣へ呼び寄せた。
「ここ、三階でしょう?」
「あ、ああ」
「で、あっちを見て下さい」
 美桜は窓を開け、左手を指差す。
「ここからなら、私達が出会った場所が見えます。佐崎君が倒れた道路も分かるかと」
「た、確かに。見えやすいとは言えないが……。けど、それがどういう?」
 航を見る美桜の目に、子供っぽい喜びが滲んだ。
「では、あの日の出来事を振り返りましょう。佐崎君が倒れ、私が助け、そして可澄ちゃんが迎えに来た……そうですね?」
「ああ」
「私は直接見ていませんが、合流した可澄ちゃんは佐崎君の肩を支えて、自宅アパートへ向かったのだと思います」
「うん」
 美桜は、ぴっと右手の人差し指を立てる。
「あの時、佐崎君は、『俺のアパートも近いから、家族に迎えに来てもらうよ』と言いました。つまり佐崎君の家族も、あの道を使っている可能性が高いということです」
「だ、だが、それだけで俺の家族の性別や年齢は分からないだろう?」
 航は眉根をひそめ、苦い表情になったが、すらすらと美桜は答えた。
「更に、凪紗や森嶋君と出かけた日、『歳の差が三つで、中三の春を迎えた妹がいる』という発言もしています。これらの情報から、『佐崎航の中学三年生になる妹があの道を使っている』という推論が成り立つ」
「……あ」
 航の表情がどんどん険しくなり、一方の美桜の機嫌はよくなっていく。
「そこまでたどり着けば後は簡単です。私はこの事務所から、あの道路を見張り、『中学生ていどの女の子』が通りかかったら自宅に着くまで、その後を追えばいい」
「あ、あのさ、椎名サン。それって……」
 航は非常に難しい顔で眉間に皺を寄せるが、美桜は特に意に介した様子もない。
「『困難ではあるけど、手間と時間をかければ解決できる』とはよく言ったものです。帰宅途中でもなければ、歩かない道と確信していたので、辛い張り込みではありませんでしたし」
「つまり、宝くじは当たりが出るまで、引けばいいだけだと?」
 顎に指を寄せる美桜に全く悪びれる様子はない。
「この場合、確率は問題ではありません。通りかかる中学生女子の数も多くありませんし、まあ、それでも結果が出るのは夏休み近くになるかもと思っていました。ですが七人目で当たりを引いたんですから、上首尾と言えるでしょう。……ああ、でも」
「でも?」
 美桜は、にっこりと笑う。
「佐崎君がバイトから帰って来る時間は分からなかったので、日付が変わるまで、いろんなアパートの前でずっと待っていたのは大変でしたねー。今が六月でよかったです。雪の積もる時期だったら、かなり辛かったかと」
「おまわりさーん! ここにヤバいヤツがいるー! 逮捕、逮捕!」
 かなり引いた様子で半ば悲鳴のような声を上げる航へ、美桜は不服そうに頬を膨らませた。
「その言い方はないでしょう? まるで変質者のようです!」
「変質者そのものだっ! 女子中学生の後を追って住所特定とか、ほぼ犯罪だろう!?」
「私も女の子なので、オッケーです! 言い逃れする自信はありました!」
「発想がヒドい! さっきも、『元々あった接点を利用』とか、『解決できる』とか何とか言ってたけど、そんな入れ知恵をしたヤツはどこの誰だっ!?」
 美桜は両手を腰に当て、お説教をするような口調で答える。 
「入れ知恵なんて失礼な言い方をしないでください! 助言を受けただけです。『先回りして、決めてしまえばいい』と。そして、私は考えました」
「考えたって、何を」
 美桜は、えへんともう一度胸を張った。
「正面から聞いてかわされるなら、裏口から入ればいい。裏口がダメなら窓を開ければいい。望む結果を得られるなら、手段を問わなくてもいいケースだと」
「それで行動あるのみってか!? やっぱヤバいヤツじゃないか! そいつが誰だか知らないが、友達は選んだ方がいいと思う!」
「確かに会社で仕事を回してもらえていないようですが、悪いヒトではありませんよ?」
「仕事を回してもらえない良い人って何だ? 瀬倉とかじゃなく、社会人なのか?」
 もはや、げんなりとしてしまった航の問いに、美桜はハキハキと答える。
「この春で二年目ですね。一年目の春に大きなことをやらかして、肩身の狭い思いをしているようですが」
「ニューマンの春にやらかすって相当……。ん? 一年目の、春?」
 航は脳内に引っ掛かるものを感じ、言葉を選んで問いにした。
「しかも今、肩身が狭い……? 椎名、あのさ、その人って女性?」
 航は敢えて、かなり漠然とした質問を選んだのだが、美桜は特に気に留めた様子もなく頷く。
「そうですが。それが何か?」
「いや……。ついでにだけど、椎名より背は高い?」
 美桜は少し考えた後、答えた。
「私より少し高いですね。……あの、繰り返しになりますが、それが何か?」
 美桜の問いに航は答えず、口元へ手を当てて何かを考え、やがてため息を吐く。
「まあ、気にしないでくれ。……世間って、広いんだか、狭いんだか」
 そう呟く航の顔は表現し難い皮肉気なものだったが、悪い気分でもないらしく、表情はけだるく緩んでいる。
「何だか面白い顔をしてますね?」
「実際、そう思ってるから。……いや、本当に世の中、何が起こるか分からない」
「はあ」
 航は窓から吹き込む湿気を含まない風に、心地よさを覚えながら、脳内を整理する。
 色々な情報は出て来たが、もう少し突っ込んで聞きたいことがあった。
「椎名、親父さんとお母さんのことなんだが」
「はい」
「その……ケンカをしてたって言ってたけど、仲が悪かったのか?」
「私から見れば、良かったと思います。お父さんの経営している会社は、土木系の技術者さんが多くいらっしゃるんですが」
「へえ、意外。今はシステム営業とかいるのに」
「え?」
「気にするな。続けて」
 航は口元に悪戯っぽい笑みを覗かせたが、美桜にその意図は掴めない。
 美桜は流れのまま、会話を続ける。
「元々、電気や通信工事を請け負って設立された会社なんです。私が小さかった頃、よく職人の方が家へ来て、リビングで深夜までお父さんと経営と現場の方針について話し合っていました。……いえ、話し合っていたというより」
「?」
 美桜は当時を思い出し、苦い顔になってしまう。
「怒鳴り合いですね。会社の理想と現場の管理がかみ合わず、掴みかかることもありました」
「か、過激だな。まあ、土木系の職人さんと経営者となれば、そうなのかも知れないが……」
「議論は深夜まで続くこともありました。ああだ、こうだと言い合うお父さんと職人さんの姿を、幼かった私はお母さんの膝に乗っかり、胸に抱かれながらずっと見ていました」
「……」
 美桜の口調が少しずつ、密やかになっていく。
「お母さんは、お父さんの経営方針に口を出すことはありませんでした。……あ、いえ、法に触れるようなことがあれば、激怒しましたが」
「そりゃ、そうだ。何をしようとしたんだ、親父さんは。結構、むちゃくちゃな人なのか……?」
 航はこめかみを叩き、美桜が気まずそうに頬を掻いた。
「それでもお母さんは、そういうお父さんを見るのが好きだったんだと思います」
「どうしてそう言い切れる?」
「……私はそういう両親の子供であることに誇りを持っていましたから。お母さんの膝の上は、私だけの特等席だったんです。ピカピカ輝く、私の宝物でした」
「でした?」
 言葉尻を捉えた航へ、美桜は寂し気な笑みを見せるだけだ。
「ですが、お母さんは亡くなりました。そして、お父さんは変わってしまった。それ以来、会社に泊まり込み、家へ帰らず、職人さんや下請けの方にムリばかり言っていると聞いています」
 航の脳内に、とある女性の言葉が蘇る。 
『数字至上主義というか、勝利至上主義というか』
 彼女は確かに、そういってぼやいていた。
 美桜は続けた。
「唇をうしなって、歯は冷たくなったんです。……それだけの、ことですよ。それだけの」
 何とか自分を納得させようとしているのか、右手で左腕の肘を撫でる美桜の口調には、無理やりな響きがあると航は感じてしまった。
 そして、航は最後に問う。
「じゃあ、瀬倉達の事件の時に椎名が口にしていた、『身の程知らずの夢を見るのは止めろ』と言うのは親父さんの言葉だな?」
「はい……」
 美桜は力なく頷き、航は再び、脳内で情報を整理する。
 これで、椎名美桜に関して知りたかった情報は出尽くした。
 出会った日、なぜあの道路にいたのか?
 なぜ、弁護士を志したのか?
 家族関係はどうなっていて、なぜ、敬語で話すのか?
 どうやって、家を突き止めたのか?
 散らばっていた点と点は線となり、現在の椎名美桜となって繋がっている。
 航は後頭部を掻き、呟いた。
「となると、俺も年貢の納め時ってことか。住所を突き止められたのも、偶然じゃなかったんだし……」
 航の不思議な諦観の漂う口調に、美桜は首を傾げる。
 航は静かな微笑みを見せて答えた。
「こっちの話さ……はもうナシってこと。この期に及んで、俺のことを聞くなとは言わないよ」
「あ、いえ、それは」
「分かってる。椎名はそれを俺に言わせたくて、今日、話をしたんじゃない。ただ、話したいから話しただけだろう?」
「……はい。ただ、佐崎君に知って欲しくて、話しただけです」
「だから、俺も話したくなった。……いや、ずっと誰かに話したかったんだと思う。そのタイミングが来たってことなんだ。ただ」
「ただ?」
 航は意を決した様子で、言う。
「今、ここでは話せない。それはもう一度、俺の家へ来て、夕食を摂った後にして欲しいんだ」
「夕食後……ですか?」
「次は俺の母さんも一緒に。……回り道に見えるかも知れないけど、必要なことだから」
 美桜は首を左右に振った。
「佐崎君が必要だと言うのなら、私に疑問はありません。……いつ、行けばいいですか?」
「次の日曜の夕飯で、どうだろう? 俺の話をするのは、夜になるだろうけど。その時は、この事務所を使わせてもらうことってできるか?」
 美桜は少しだけ考えてから、頷く。
「大丈夫です。買い取った物件なので、出入りに制限はありませんし」
「ん。ありがとう、そういう流れで頼む。……それまでに、俺も心を決めておかないと」
「?」
 美桜が不思議そうな顔をしたが、航は、ふと気になった点があったので、自分の服装を見ながら美桜に問いを投げかけた。
「ところで、今日ってどうしてジャージ指定だったんだ? 話をするつもりだったんだろう?」
 美桜は、にっこりと笑い、航はイヤな予感を覚える。
「ええ、そうです。ですが、それだけだとは言っていないでしょう?」
「つまり?」
 美桜は、どこからか二つの雑巾を取り出した。
「さっき、説明したはずです。掃除をしに来ていた、と」
 航は一瞬、ぽかんとした様子だったが、すぐに察して口端を引きつらせる。
「ま、まさか、汚れるって……」
 美桜が、使い込まれて黒く汚れた雑巾を航へ突き付けた。
「はい、話が終わったから、次は一緒に掃除です! 一人でするのは、いい加減辛かったのでいい仲間ができました!」
「そりゃ、仲間じゃない、道連れだ! 椎名、最初からそれが目的だったんだな!?」
「話自体も目的ですよう。ただ、それだけではなかったというだけの話です!」
「やっぱり、椎名もロクデナシだ! 休みの日にまで清掃業とか、そりゃないだろー!」
 そして、にっこりと笑う美桜とは対照的な、悲痛な航の叫びが事務室に響いた。







「おー、美桜さん! こんばんは、来てくれて嬉しいぜ!」
 そして一週間が過ぎ、訪れた日曜日の夕方。
 家まで迎えに来た航と合流し、アパートへ姿を見せた美桜を、笑顔の可澄が玄関で出迎えた。
 美桜は白のブラウスに薄藍色のカーディガン、ベージュのロングスカート姿で、目を細めて微笑み、頭を下げる。
「こちらこそ、ご招待いただき、ありがとうございます。厚かましくも、また可澄ちゃんのご飯を食べに来てしまいました」
 少し茶目っ気を覗かせた美桜のコメントに、可澄は、「ははっ!」と笑って答えた。
「いいリップサービスだよ、美桜さん! ヘッポコアニキは滅多に褒めてくれねーからさー!」
 その指摘を受けた航は眉根を寄せ、苦い顔で反論する。
「いや、ほどほどに褒めてるだろ」
「分かってねえなー。頻度の問題だよ、頻度の。アニキの『ほどほど』は、オレにとっちゃ、『ごくまれに』なんだ」
「そんなバカな」
 航と可澄のやり取りを聞き、美桜は小さく笑った。
「個人的には可澄ちゃんの味方をしたいところですねー。佐崎君、女性は何事も男性の三倍は気にしているものですよ?」
 玄関でパンプスのかかとを整えていた美桜の言葉を受け、航は不可解そうな表情になる。
「三倍って。何に関して?」
「それが分からねーから、アニキはアニキなんだよなあ」
「何だ、そりゃ。ものすごく理不尽なことを言われているような気が……」
「でも、可澄ちゃんの言うことも分かります。もっと褒めて欲しいと思う場面はあるんですが」
 美桜が、ぽろっと言ったセリフに、航はガックリと肩を落とした。
「なんかもう、ワケわからない。二対一とか卑怯だぞ……」
 一方の美桜と可澄は、狭い玄関でクスクス笑い合うだけだ。
 やがて、可澄がアパートの奥のリビングを指差して言う。
「じゃあ、上がってくれよ、美桜さん。料理の準備はしてあるからさ」
「可澄、母さんは?」
「オレの部屋で寝てるから、起こすよ。アニキと美桜さんは先にリビングへ行っててくれ」
 可澄はそう言い、右手のドアを開けて、部屋へ入った。
 美桜と航はその横を通って、廊下を歩く。
 美桜が疑問を口にした。
「あの、寝てるというのは……? もう夕方ですが」
 先を歩く航は振り返らずに答える。
「今日は体調が悪くて、横になってんたんだ。パートが休みの日だったから、助かったよ」
「え? なら、ムリして起きなくても……」
「大事を取ってるだけだから、そこまで気にしなくていい。そろそろ起きて、少し身体を動かした方がいいし。休日に夕方まで寝てることは椎名にもあるだろう?」
 リビングへ足を踏み入れた美桜は、少し考えて頷いた。
「そうですね。夜遅くまで本を読んでいたり、動画を観ていたり、そういうことはあります」
「まあ、個人的には……」
 航の苦い口調に、美桜は小首を傾げる。
「テレビとネットは繋いであるんだから、もっと定額配信とか見てくれてもいいと思うんだけど。母さんはずっと普通のテレビしか知らなかった分、取っつき辛いのかも知れないが……」
「へえ、サブスクを入れてあるんですか?」
「ああ。契約とか配線とかやったのは俺だから、どうせなら使って欲しいんだ」
「主犯は佐崎君なんですね……」
 美桜は苦笑気味に答えたが、椅子の隣に立つだけで、自分から座ろうとしない。
 航は頬を掻いた。
「椎名、そんなに気を使わなくていい。座りたければ座っていいし、テレビやエアコンも好きに触っていいから」
 航の言葉を受けた美桜が、梅干を噛んだような酸っぱい表情になる。
「ど、どうにも慣れなくて……。他人の家での立ち振る舞いというか、何と言うか」
 美桜は躊躇いを見せたが、少し間を置いた後、その背中にしっとりとした落ち着きのある声が掛けられた。
「自分の家だと思って、くつろいでくれていいのよ。私もそうしてくれると嬉しいから」
 美桜は聞いたことのない声に、「え?」と振り向き、驚きの表情を見せる。
 その視線の先には可澄と、旅館などで使われるような浴衣を着た一人の女性が立っていた。
 少し大きめの生地には薄紫の円状の花が刺繍され、背は美桜より少し高いていど。
 細身である上に華奢で、目元も伏せられているため、頬骨の肉付きの薄さが際立って見えてしまう。
 美桜は顎を引き、背を正して答えた。
「こ、こんばんは、椎名美桜です! 佐崎君のお母さん……ですか?」
 女性は頷く。
「ええ、こんばんは。佐崎千知(ささき ちさと)です。貴女が椎名美桜さん?」
「は、はいっ。は、初めましてっ!」
 美桜の上擦った声がリビングに響き、千知は少し目蓋を上げた。
「こちらこそ、初めまして、美桜さん。そう堅くならないで。航と可澄もいることだし……ね?」
 千知はそう言って、微かに笑う。
「そうだぜ、美桜さん。細かいことはいいからさ。まずは腹を一杯にしてから話そうぜ?」
「そ、そうですね。そのために、お腹を空か」
 最後まで言い切る前に、美桜のお腹が、「くぅ」と鳴った。
 美桜は真っ赤になり、航が少し呆れた表情で言う。
「気にしているんじゃなかったのか、三倍」
「く、空腹を努力で満たせる人など、いませんっ! 演出です、演出!」
「誰に何を演出しているのか、イマイチ分からないが……。まあ、いいや」
 航はそう言ってから椅子を引き、そこへ座った。
 その隣に美桜が、対面する場所に千知が腰を下ろす。
 可澄は鼻歌交じりに台所へ立ち、改めて夕飯の準備をし始めた。
 航が、ややつっけんどんな口調で言う。
「母さん、体調は?」
「充分休んだから大丈夫よ。休日だからと言って、寝てばかりというのも身体に毒でしょう?」
「昨日のパートは……六時間だっけ?」
「ええ、五連勤だったから、少し疲れてしまったよう。連勤というなら、航もそうなのに」
 航は目線を逸らせ、ぶっきらぼうに答えた。
「俺は平気だからいいんだ。その日に休めば、充分だし。……けど、母さんは疲れやすいんだから、セーブした方がいい」
「そうね、そのバランスがまだ上手く取れないみたい」
 美桜は、淡々としつつも、どこか穏やかではない会話に、内心で動揺を覚えてしまう。
 その時、可澄がお盆に鶏の甘辛から揚げ、ごぼうと水菜のサラダ、ご飯、味噌汁を乗せて、テーブルへ歩み寄った。
「アニキ。……オレ、アニキのそういう言い方、嫌いだ。もうちょっと、言葉を選べよ」
 可澄は不満を言いながら、料理をテーブルへ並べる。
 航の表情が硬くなり、頬に手を寄せたが、すぐに美桜が料理へ目を向け、大げさな調子で声を上げた。
「あ! このサラダ、新発売のゴマのドレッシングを使ってますね! いい香りです!」
「お、さっすが美桜さん! 分かってるぅ! アニキ、こういうところだよ、こういうところ!」
「けど、毎日言ってたらクドイじゃないか」
「まあ、それだと嘘くさいな。一辺倒っていうのもアレだし」
 可澄の返答に、航はテーブルへ肘を立て、手の平で頭を抱える。
「どうしろと。白でも黒でもNGじゃないか……」
 そんな航の嘆きを聞いた美桜は、彼の肩に手を置いて、苦悩をねぎらった。
「機微ですよ、機微。そうだ、試しに私を褒めてみてはどうでしょう?」
「椎名を褒める……?」
 航は少し考えて、答える。
「ダメだ。調子に乗る」
「そ、そんなことないですよっ。私は常に誠実で、心穏やかですから!」
「いや、割と過激な言動が目立つことは自覚した方がいいと思う。案外、瀬倉辺りに聞いても、同じ答えが返って来るんじゃないか?」
 航の口から初めて出て来た名前に、可澄が目を瞬かせた。
「セクラ? 誰だ、それ?」
「瀬倉凪紗、私の友達です。佐崎君ともちょっと、付き合いがあって、みんなで一緒に出掛けたこともあるんですよ」
「あ、こら、椎名」
「え? 喋ったら、ダメでしたか?」
 美桜が慌てて、両手を口に当てたが、航は渋い顔だ。
「ダメとは言わないが、何と言うか気恥ずかしいから、あまり喋って欲しくない感じがする」
 だが、可澄は目を輝かせ、航の主張を無視する。
「へぇ! 聞きたい、聞きたい! アニキ、学校での話とか全然しないからさ、ちゃんとやってんのかって気になってたし!」
 美桜は口に当てていた両手を、片手だけにして、問う。
「……佐崎君?」
 航は大きなため息を吐いて、項垂れた。
「分かったって。話してもいい。……ただ」
 美桜は頬を緩ませて、航の耳へ口元を寄せ、密やかに囁く。
「大丈夫です。可澄ちゃんとどう接すればいいか悩んでいたことは話しません。……ですが」
 航は首を傾げ、美桜が表情を綻ばせて人差し指を立てて見せた。
「一つ、佐崎君に対する切り札を得られました。これは収穫ですっ」
「だから、そういうところな? 誠実はどこへ行った?」
 そんな美桜と航のやり取りを見ていた千知は静かに微笑み、可澄が首を傾げながら言う。
「ま、その辺は後で聞けばいいとして、とりあえず食べようぜ? 味噌汁が冷める」
 可澄はそう言って千知の隣へ座り、テーブルに四人と料理が並んだ。
 全員が揃えて、「いただきます」と手を合わせた後、料理を口へ運ぶ。
「あ、美味しい。鶏の唐揚げが、カリっとしてて、ソースの甘みと辛さもバッチリです」
 美桜の感想に、可澄は嬉しそうに白い歯を見せて笑って見せた。
「だろ? 今日は特に上手くできたんだ! 来客だと思って、頑張ってよかったよ!」
「これは……にんにくと生姜も入っていますね? とてもいい塩梅です!」
「へへっ、美桜さん、誉め言葉も完璧じゃん!」
 美桜の賞賛に可澄も頷き、二人は笑い合う。
 そんな会話が進む中、可澄がふと、
「あ、そろそろ、テレビ見ないと」
 と行儀悪く箸を咥えたまま、テレビのコントローラーを手に取った。
 年季の入ったファミリーサイズの液晶テレビの電源が入り、可澄はチャンネルを合わせる。
 操作に迷いもなく、映し出された画面の文字に、美桜は目を丸くした。
「これ、魔法少女モノのアニメ……ですか?」
 美桜の指摘に可澄が、「へへっ」と笑う。
「いいだろ? 四月に始まったヤツなんだけど、話も中盤で盛り上がってきてさー」
 航がため息を漏らした。
「椎名が来てるんだし、録画もしてるのなら、今度でもいいじゃないか」
「リアタイで見てワクワクしたいんだよ。スマホ触って、イヤな情報を拾ったらどうするんだ」
「俺はニュースが見たいんだが……」
 美桜が航の横腹を肘で突っついて、その発言を咎める。
「それはあまりに夢がないと思います。いい回だったか、悪い回だったかは自分で見てから、判断するのが正しい在り方でしょう?」
「そーだ! そーだ! つまらないかどうかは、アニキも見て考えればいいじゃねーか」
「む」
 可澄の見解に思うところがあったのか航は箸を一旦止めて、口をモゴモゴさせた。
「まあ、見るくらいなら……。食べながらだし」
 その口調は少し不満げだったが、腕を組む可澄は満足げだ。
 千知は変わらず目を伏せていたが、美桜は何も言わない。
 そこから、四人は無言でテレビを見ながら、食事を進めた。
 そして、箸を置き、番組が終わった頃、航は苦々しい声で零す。
「……オモシロカッタ」
 可澄が、にたーと意地悪く笑った。
「え? 何? もう一回」
「〜〜っ! 普通に面白かったって。中盤からって言っても、話の筋は分かるし。……これ、配信で見られるのか?」
「見られるけど、リアタイで見たくね? それとも、ニュースを優先する?」
「ぐっ……。今季だけだぞ、チャンネル権」
「やりぃ! 来週から、気兼ねなく大きな画面で見られる! スマホは迫力が足りねーよ!」
 拳を握る可澄と、誘惑に屈して肩を落とす航を見て、美桜はクスクスと笑う。
 ただ一人、千知だけはゆっくりと箸を進めていたが、やがて、ぽつりと言った。
「ごめんなさい、もう、お腹がいっぱい」
 それを聞いた美桜が目を向けると、皿にはまだ料理が四割ほど残っており、思わず首を傾げそうになってしまう。
 だが可澄は何事もなかったように頷き、千知の皿へ手を伸ばした。
「じゃあ、片付けるか。アニキ、手伝ってくれ」
「あ、悪い。先に椎名を家まで送るから、皿洗いは後でいいか?」
「あー、そっか。了解、皿洗いはいいよ。ちゃんと美桜さんを送り届けてやってくれ」
「ん」
 航は軽く頷き、美桜に視線で玄関を指して、席を立つ。
 美桜は頷き、椅子から腰を上げて言った。
「で、では、私はこれで失礼します。今日はありがとうございました。可澄ちゃん、ええと」
 口ごもった美桜へ、千知は静かな口調で答える。
「千知で大丈夫よ、美桜さん」。
「は、はい……。千知、さん」
 千知は目を伏せ、囁くような声で言った。
「ごめんなさい、もう少し、上手く話せればよかったのだけど」
「い、いえ、そんなことは。佐崎君も可澄ちゃんもよくしてくれましたし……」
「そう言ってもらえるなら、何よりよ。そしてもし、貴女がよかったら」
 千知は一度言葉を切り、静かに言った。
「また、来てくれると嬉しいわ。それには、覚悟が必要かもしれないけれど」
「覚悟……ですか?」
 美桜が首を傾げ、可澄は歯がゆそうに視線を床へ落としている。
「即答しなくていいわ。ゆっくり考えて判断してくれればそれが、航にとっても、可澄にとっても一番いい選択だから」
「……はい」
 美桜は戸惑いを隠せない様子だったが、やがて毅然と顔を上げて答えた。
「考えます。一生懸命。それは約束します」
「……そう。貴女はとても、真摯な人なのね」
 最後に千知はそう言い、美桜も、もう一度頭を下げる。
 先に玄関へ向かっていた航を追い、靴を履いてアパートを出た。
 通路に設置された階段を下り、美桜と航は並んで歩きながら、夜空へ息を吐く。
 そして航は美桜の家ではなく、先日訪れた事務所の入っている雑居ビルへ足を向けた。
 美桜は口元を結び、姿勢を正した後、その後ろ姿を追いかける。
 航は背中を向けたまま、淡々と言った。
「じゃあ、話をしよう。俺の話を」
 そして美桜は歩きながら静かに、
「はい」
 と決意を秘めた口調で頷いた。







「へえ、ビルの出入りは自由だけど、事務所のセキュリティは24時間、生きてるんだな」
 事務所へ移動した後、カードキーでセキュリティを解除した美桜へ航が、ぽつりと言った。
 すっかり日は沈み、雑居ビルの廊下には仄かなLEDだけが灯っている。
 休日の夜ということと、無人であることが重なり、奇妙に寒々しい雰囲気だっただけに、航の素直な感想を聞けた美桜は少し安心した。
「扱っていた情報が情報ですし、その辺りはお母さんの要求でもありました。お父さんとしては、オフィスセキュリティの試験導入を兼ねていたようですが」
「なるほど。抜け目ない話だ」
「実際、お父さんの経営する会社のセキュリティも、こういう非接触型カードリーダーですよ?」
「電子マネーみたいな感じで、リーダーにカードをかざせばいいんだよな?」
「はい。私もお父さんの会社のセキュリティカードを持っていたりしますし」
 そんなやり取りをしながら、美桜はドアを開く。
 航の声は何気ないようで、トーンが低い。
 今の会話だって、本題へ入る前の緊張をほぐすためのものだと美桜も理解していた。
 だからこそ、事務室のドアを開く美桜の手は震えてしまうのだが、それは多分、どうしようもないものだ。
 中へ入り、電気を灯し、航が中を進んで、夜闇を背負う窓の前に立つ。
 その背後には薄く星々が光っているが、美桜にはやけに頼りないものに見えた。
 航はまた、「ふう」と息を吐いて話し始める。
 美桜の心臓が、強く高鳴った。
「さて、まず前置きだ。今から話す事件は、こういう目に合ったという主張じゃなく、解決済みのものだってことを覚えておいて欲しい」
「は、はい……」
 航が右手の人差し指を立てる。
「それと、できるだけ順番に沿って話すけど、いろいろ脈略がなくなるところもあるだろうから、意味不明になったらその都度、聞いて欲しい」
「わ、分かりました。あの、それで話というのは……?」
 美桜の問いかけに、航は淡々と答えた。
「実は今さ、一家離散中なんだ」
「え?」
 全く予想していなかった言葉に、美桜の声が強張ったが、航は意に介した様子もなく続ける。
「親父が酒飲みで、物心ついた時から、いつも家で母さんを殴って蹴ってた。……俺は、ずっとその姿を見て育った」
「……えっ? えっ?」
 唐突すぎ、また突飛すぎて美桜の頭の理解が及ばない。
「親父は酒だけを飲んで、働いてなかった。生計は母さんが立てていた。朝早くに仕事に出て、夜遅くに帰って来てた。……まあ、そのお金も酒と借金と女遊びに消えてたワケだから、どうしようもない話なんだけど」
「ちょ、ちょっと、待って下さい! それは、え……? ビックリしすぎて理解が追い付かないんですが……?」
 航は困った風に肩をすくめるが、月が雲に隠れているので、その表情は見えない。
「そうだと思う。けど、まだスタートだから、ここでバテると最後までついてこられないぞ?」
「こ、これでスタート……。わ、分かりました。覚悟を、決めます」
 美桜は卒業アルバムの件もあって、何が出て来ても驚かない決意を固めていたのだが、今から語られるのは想像を遥かに超える内容なのだと身を震わせてしまう。
「俺が自分の家庭が友達のものと違うって感じ始めたのは、小学生の頃……一年生か二年生くらいだな。何か違うって思ってたけど、母さんは今以上にやつれていたし、授業参観とかにも絶対来なかったから、ズレを意識することは多くあった」
「それは、ズレで済むものとは思えないんですが……」
 美桜の指摘を受け、航の口調に苦笑が滲んだ。
「だろうな。小学校へ上がりたての頃は殴られたり、蹴られたりする回数は母さんの方が多かった。俺にも矛先が向くようになったのは、身体が大きくなってからだ。……まあ、俺が止めに入ったりしてたのが、親父としては面白くなかったんだと思う」
「……っ。そ、それは、それはもう……」
 一つ一つ言葉を選んで告げられる航の過去に、美桜は戦慄を覚え、背筋に寒気が走るのを感じてしまう。
「可澄は保育園へ通ってたけど、できる限り母さんが迎えに行ってた。……時々、親父が親の顔して行ったこともあったけど、ああいう二面性みたいなのは俺から見ても気持ちが悪かった。可澄は、家でいつも泣いてた。俺は家に帰りたくなかったけど、可澄を親父のいる家に一人にしたくなかったから、学校が終わったらすぐ家へ向かった」
 美桜の脳裏に、うなじに届くていどの髪先を揺らし、台所へ立つ可澄の笑顔が浮かんだ。
 どうやっても、航の話す過去の彼女と今が、繋がらない。
「家に入ったら、すぐ可澄を自分の部屋に隠してた。親父も気付いてはいただろうけど、俺が壁になる限り、可澄は無事だったし、意味もあったと思う」
「あ、あの、可澄ちゃんは、その……」
 航は数歩下がって、窓に背を預け、変わらない口調で話し続ける。
「大丈夫だ。可澄は一度も殴られないし、蹴られてもない。……ただ、怖かっただろうって思う。結局、俺や母さんが暴力を振るわれている所を何度も見せてしまったし、それを忘れられるとも思えない。部屋に匿われていたとはいえ、色んな音とか、悲鳴が聞こえるのは、その年頃の子供には辛いよ」
「そんなの……」
 美桜の足が、知らず知らずのうちに一歩、後ろへ引きそうになったが、それは決してしてはならないと踏みとどまる。
「俺も、目の前で起こっていることの意味が分かってなかった。母さんが床にうずくまって、背中を蹴られたり、腹を殴られたりする姿を見て、どうしてそうなっているのかが理解できなかった。危機感だけが募って、親父を止めようとしたり、外へ逃げたりしたこともあった」
 航は一度、美桜から視線を逸らし、窓の外へ顔を向けようとした。
 だが、それが成されることはなく、すぐに視線は美桜へ戻る。
「けど逃げたら、母さんがもっとひどい目にあうのは分かってた。実際に見てたから、想像するまでもなかった。もし、可澄へそれが向かってしまったらって思うと、心臓が引き裂かれるような気持ちだった。……例えば、椎名。適当に空の星を指差してくれないか?」
「え、ええ」
 美桜は言われたまま、窓の外の星を指差す。
 窓と航からは少し距離があり、角度としては微妙だったので、美桜は意識して強めの光を放つ星を選んでいた。
 航が歩み寄り、拳を作ってみせて、ゆっくりと美桜の頬へ寄せる。
 実際には触れることなく、寸前で止まっていたのだが、美桜にもその意味は理解できた。
「父親が……殴るんですか? なぜ? 言う通りにしたのに」
 近くで見る航の顔は青白く、目も伏せられている。
 その脳裏によぎっているであろう記憶を想像し、美桜は体温が冷たくなるのを自覚した。
「意味不明だろ?」
「め、めちゃくちゃですよっ! そんなの、酷過ぎます! どうして、そんな!」
 航は美桜の目を見て言う。
「暴力に理由なんてない。手を上げろと言われたからそうしたら、なぜ上げたと殴られて、足を上げろと言われたからそうしたら、なぜ上げたと蹴られる。脈略はない。人に暴力を振るって、従わせることに快感を覚え、それに慣れ切った人間は、そういう衝動に抵抗することができないんだ」
「酷過ぎます! それはただの犯罪者で、病人です!」
 美桜の怒りの滲んだ叫びに航は背を向け、再び窓の近くに立って答えた。
「そうだと思う。ただ、小学生の俺にはそれが分からなかった。状況を判断する能力自体が育ってなかった。ただ、行き場のない閉塞感だけを持って、場所を選ばす吐いたり、頭が割れそうな痛みを覚えたりしながら、生きるしかなかった」
「あんまりです、そんなの……っ」
「全身が震える。めまいがする。食欲がない。目の裏が痛い。自分がここにいるって感覚がない。……そういう環境で、俺は何年も育った」
 その体験を思い、美桜の心から反論しようとする意思の力が消えて行く。
「母さんが階段から蹴落とされるのを見た。熱湯を浴びせかけられるのを見た。泣いて土下座させられた後、お金を渡しているのを見た。……寝ていたら母さんの悲鳴と親父の怒鳴り声が聞こえ、汗まみれで飛び起きて、間に入った。当時の俺に、安心して寝た記憶はなくて、学校に居ても、家に居てもずっと緊張してた」
 心をえぐられる事実の連続に、段々と美桜の呼吸が不安定になる。
 もし、自分がそんな環境にいたら、どうなっていただろう。
 どうやって、そこから逃げ出せばいいのか。
 いや、可澄がいるのに、逃げることなどできるのか。
 ふと、千知の大きめの浴衣が思い出される。
 ゆったりとしたサイズの布地をめくった裏に、何が隠されていたのか。
 航が、「疲れやすい」と言ったのは、最後まで食事を摂れないのは、なぜだったのか。
 脳内で激しく明滅する問いに、美桜の意識が大きく混乱する。
 航は静かな声で続けた。
「けど転機は来た」
「て、転機?」
「ああ。中二の一月だ。家に帰ったら母さんがぐったりして、床に倒れてた。『……ああ、いつものか』って思ったけど、何度話しかけても起きなかったんだ」
 美桜の心臓の鼓動が、強い緊張を覚えて跳ね上がる。
「少し気絶してただけで、目は覚ました。けど救急車を呼ぼうとしたら、親父がそれを止めた。そんなの呼ぶのは絶対に許さないし、仮にこのまま死んでも、責任を取らないと親父は言った」
「さ、佐崎君、それは……」
 航の口調が、重いものへ変わった。
「俺は母さんに、仕事へ行くふりをして医者へ行けと言った。でも、母さんは冷めた口調で、こう答えた」
 美桜は網膜が不自然にキリキリ痛むのを感じながら、息を飲む。
「『もういい。私達はここで死ぬの』って。……その言葉で、俺がずっと抱えてた危機感が爆発した。ああ、このままだと本当に死人が出るなって。それは母さんに限らず、いつか俺にも、可澄にも来るって直感的に思った」
「そんなの、そんなのは……。親子とは、家族とは言えません……」
 美桜は思わず、耳を塞ぎそうになるが、それを一生懸命堪えた。
 それができて、何になる。
 それで自分を守れるならいいが、航はそうではなかった。
 目を閉じ、耳を塞ぎ、口を閉ざしても、何も変わらない現実の中にいた。
 ただ、命と時間とお金が失われる……いや、奪われる環境にいた。
 それを話すのだって、相当の勇気と苦痛が必要だろう。
 その相手として自分を選んでくれたのだから、耳を塞ぐことは許されない。
 美桜はそう結論付け、歯を食いしばって、顔を上げる。
 航は話を淡々と続けた。
「実際、中学へ入ってからの俺も相当ヤバい状態だった。……今度、親父が殴って来たら、包丁で刺してやろう。その準備をしよう。何年耐えたと思ってるんだ。いっそ、苦しめて殺そう。生きたまま、苦しめよう」
「で、も……それは……」
「そうだ、殺人だ。俺は親父を殺したかった。毎日、毎日、親父をどう殺すかばかり考えて、でも、一方でそうしてはいけない理由を探してた。親だろう、子供だろう、人だろう。テレビやネットを見れば、殺人のニュースなんてありふれてる。たまたま乗ったバスに貼ってあった、指名手配中の犯罪者のポスターを見て、『自分もあそこへ並ぶのか』って思ってた」
 美桜は激しく下唇を噛み締める。
 思いっ切り力を込めたので、かなり痛かったが、そのていどが何だと自分へ言い聞かせた。
「中学生二年生が、ですか?」
「ああ。今思い出しても、まともじゃなかった。最終的には、裁判所で罪に問われても、『反省はしてないし、するつもりもない』、『逆に、あの状況で自分や母や、妹を助けるために、殺してはいけなかった理由を教えて下さい』って問い返すつもりだった」
「殺してはいけなかった、理由……」
 美桜は呆然としてしまう。
 その状況がこれからも続くと、高い確率で母か妹の命が奪われてしまうというのに、手をかけてはいけない理由がどこにある?
 単純に、『殺人は犯罪だから』で立ち止まることができるのだろうか?
 美桜は眉根を寄せて深く悩んだが、それを見る航の口調が少しだけ軽くなった。
「ま、その問いの答えはもう得てるから、後で話すよ。大事なのは、ここからなんだ」
「え、得ている? ここから?」
 思いもしない言葉に、美桜は目を白黒させてしまったが、航は一気に話した疲労をため息で拭って、先を話す。
 両手を上げ、苦笑するような仕草に、美桜は驚いてしまった。
「だって、そうはならなかっただろ? 俺は今、ここにいる。最初に言ったが、伝えたいのは、こういう悲惨なことがあった……じゃなくて、こうやった解決したなんだ。それは、椎名にとっても、聞く価値のあるものだと思う」
「どうやって解決したか、ですか?」
「だって弁護士ってそういうものだろ?」
「……あ」
 美桜のリアクションに、航は悪戯っぽく、また苦笑する。
「ああでも、それも言い訳だな。俺が話したくて、椎名美桜って人間に分かって欲しいだけだから、その辺りは気楽でいいよ」
 そう言って頭を掻く航の口調に、さっきまでの危機感はない。
 美桜の心臓の鼓動は以前高いままだ。
 だが、その表情を見て一番辛い箇所は過ぎたのかも知れないと美桜は思う。
「ところで椎名、ここ冷蔵庫とか、ないか?」
「あ、ありますけど、何でしょう?」
「いや、そう警戒しなくていいって。長く喋って、少し口が寂しくなったから、何かないかって。……自分で言うのもアレだけど、キツイ話だっただろう?」
「え、ええ……。確かに、一息入れたいです」
 美桜はそう答え、事務室脇に置いてある2ドア式の少し大きめの冷蔵庫へ視線と足を向けた。
 六月の夜で湿気はないが、じっとりと嫌な汗が下着に滲んでいたので、冷えた二リットルのスポーツドリンクを選び、二つのマグカップを持って、元の場所へ戻る。
 二人でそれを飲み、一息ついた。
 航は一度、夜空を見上げ、美桜もそれにならう。
 来る途中に見たように、流れ星が空を走った。
 一瞬の光の尾が美桜には、ひどく悲しいものに見えてしまう。
 きらきらと星々は輝いて、冷え冷えと広がる空が、奇妙に深く、怖い。
 航が執務机にマグカップを置く。
 窓の前の二人の距離はさっきよりも近いが、美桜にはまだ寒々しいもののように感じられた。
 航は大きく息を吸って、吐いた後、再び話し出す。
「さて、ここからは方法論だ。この状況を解決するために椎名なら、どうする?」
「ど、どうすると言われても……。正直、手詰まりのように思えます」
「俺一人だったら、そうだと思う。可澄と母さんもどうにかしなきゃいけないし。……ま、解決法は簡単だよ」
「簡単……とは?」
 航は腰に手を当てて、答えた。
「警察と役所に相談する。それだけ」
「え? ええと、それは、そうですが……。え?」
「テレビとかネットとかでいつも椎名みたいに、『大丈夫ですか?』って言ってくれている人に頼ったんだ」
「公的機関へ相談した、ということですか?」
 美桜の指摘に、航は腕を組んで頷いた。
「ああ。学校へ行った振りをして、俺一人で警察へ行った。で、洗いざらい話した」
「そ、それでどうなったんですか?」
 航はまた、右手の人差し指を立てて見せる。
「まず、命の危機を感じたら必ず通報するのを前提に、次の日、改めて母さんと一緒に役所の会議室で話し合うことになったんだ」
「話し合い……」
 内容が具体的になってきたと美桜は思い、視線で先を促した。
「半ばムリやり母さんの手を引っ張って、役所へ行った。……で、二階の会議室へ通されたんだけど、驚いたよ」
「驚いた?」
「かなり大きな会議室に、十人以上の人が集まってた。警察の偉い人、現場の人、市役所の人、支援センターの人……あと可澄がいるから児童相談所の人。ドア近くの席に座ろうとしたら、『いえ、あなた達は奥の中央へ』って言われて」
「ドラマで言う社長が座るような場所、ですか?」
「そう。で、座ってから改めて、集まった人達の顔を見て思った。……ツラ構えの違う人が来たって」
 美桜は告げられた面子と、航の置かれていた状況を思い出し、口元が引き締まるのを感じる。
「命に関わるから、ですね」
「ヘンな言い方になるが、本当にヤバい事態なんだって実感した。家での扱いに慣れきっていて、自分の状況が分かってなかった」
 美桜は眉根を寄せ、考えた。
 それはそうだろう。
 未成年が警察へ助けを求め、その状況を聞いたなら、対応は絶対だ。
 だから、その義務を果たすための方法を話し合う場が持たれたのだ。
「そう……ですね。相談を受けた後、怪我人、或いは殺人が起こったとなれば、ニュースどころの騒ぎでは済みません」
「椎名、それは違う」
 美桜の言葉に、鋭い声が航から向けられる。
「あの会議で、俺の話を警察や役所の人が聞いてくれたのは、ニュースがどうこうって理由じゃない」
「ニュースでは、ない?」
 航の声は酷く厳しい。
「あの人達は、こういう時、助けを求める人の力になるために勉強を、仕事をしていた。給料をもらっているからじゃなく、これが自分のやるべきことだと厳しく理解していたんだ」
「やるべき……こと?」
「普段忘れそうになる常識を持っていた。……どんな理由があろうとも、暴力は絶対に許さない。それだけだ」
 有無を言わせない迫力に、美桜は黙り込んでしまう。
 それは当たり前のこと。
 当たり前なのに、見栄やニュースなどの情報に惑わされて、自分は大切なものを見失っていたのだと美桜は思った。
「……すみません。軽はずみな発言でした」
 航は首を左右に振った後、話を続ける。
「そこから改めて、時間をかけて状況を説明した。眉根をしかめて頭を抱える人もいたし、表情を変えずに淡々と聞いている人もいた。ただ、危機感は一緒だった。これはマズいって」
「それはそうでしょう。今、私が聞いても頭痛がしますし……」
「ちなみに椎名だったら、ここからどうする?」
「え!?」
 突然の問いに、美桜の声がひっくり返った。
「いえ、どうしろと言われても……。うーん?」
 とは言え、何も答えないというのも抵抗があるので、美桜は額に手を当てて考える。
 最優先は航、可澄、千知の生命だ。
 財産……は残念だが父親が食いつぶしている以上、手の打ちようがない。
 蓄えもないだろうから、その状況でお金に関してできることは何もないだろう。
「となると……被害届を出して、父親を逮捕するとか」
「それは俺も母さんへ言ったけど、恥ずかしいとか、事を大きくしたくないとか、そういう感じで断られた」
「えぇ……?」
 一瞬、美桜は航の言葉の意味を理解できず、固まってしまった。
「そ、そういう場合ではないのでは?」
 航も苦い表情で頷く。
「あの頃の母さんは完全に諦め切っていたからな……。俺としては打てる手は全部打ちたかったんだが、そういうワケにもいかなかったんだ。親戚にも頼らせてくれなかった」
 美桜はさすがに釈然としないものを感じつつも、別の手段を考えた。
「となると……家庭内暴力のためのシェルターへ逃げる手もあると思います」
「そうだな。実際、そういう話にもなったけど、それらの手段を取る上で、一番大事な要素がある。基本的に、警察や役所もそれを元に動くことになるんだが」
「大事な要素?」
 美桜は、今まで読んで来たテキストや本、ネットや新聞の記事などを総動員して頭を捻る。
 こういう場合に大事なこととは、何だろう?
「以前、椎名も口にしていたな。少し考えれば、当然のことなんだが」
「?」
 含みのある発言に美桜はしばらく考えたが、とある結論にたどり着き、それを口にする。
「被害者の意思、ですか? 真相を究明するか、感情の納得を求めるか」
「そうだ。……で、それが何だったかは、今の俺を見ればすぐに分かると思う」
「今の、佐崎君?」
 もう一度、美桜は唸った。
 だが、航と経験したこれまでの出来事……特に、父親のいない今のアパートでの生活を思い出すと、結論はすぐに出る。
「父親からの避難……ですね? 逮捕とか、そういうのを抜きにして、さっさと距離を取ってしまいたかった。だから今、この土地にいる」
「そうだ。そして、その結論は、『あの状況で自分や母や、妹を助けるために、父親を殺してはいけなかった理由』を理解できたから出せたものだった」
 美桜は、ごくりと喉を鳴らし、
「そ、その理由って……?」
 と、問う。
 航は一度、大きく呼吸をした後、サバサバとした口調で答えた。
「『バカバカしいから』だ」
「バカバカ……しい?」
 当たり前と言えば当たり前の解答を受け、美桜はオウムのように言葉を繰り返してしまう。
 そんな美桜を見て、航は少し皮肉気な口調になった。
「だって、そうだろ? そんな父親のために手を汚して、裁判所へ行って、刑務所で罪を償った後、どこでどうやって生きる? 生活はできるかもしれないけど、楽なものじゃない。裁判官に、『どうして殺してはいけなかったのか?』って答えたとして、『言ってやったぞ!』みたいな達成感はあるかもしれない。けど、その後は? そんな俺に誰か関心を持って就職先を紹介してくれるのか? 可澄や母さんの生活の面倒を誰が見る?」
「そ、それは……」
「そんな事件が起これば、ニュースにはなるだろうけど、ちょっと世間を騒がせるていどで、誰も覚えてなんてくれない。ワイドショーのネタにしかならない。冗談じゃない、俺の人生はそこまで安くない。……そう考え抜いたら、復讐には呆れるくらいに意味がなくて俺は、『バカバカしい』って思ったんだ」
「……だから、離れるという選択ができたんですね」
 航はまた、苦笑する。
「そんな当たり前にたどり着くまで、ずいぶん時間がかかった。だけど、行動を起こしたら、すぐに迷いは消えた。縁を切るなら、徹底的にやればいいだけなんだから」
 美桜は航の、心をも底冷えさせるかのような口調に、背筋が寒くなるのを感じつつ、問い返した。
「でも、具体的にはどんな行動を?」
「まず必要なのは避難先だ。一時保護のシェルターもあったけど、即日でどうにもならない状況だったから、母さんの言い分は横に置いて、親戚へ逃げる場所がないか相談した。学校の先生にも相談したし、必要なら母さんの職場の上司へも聞こうと思ってた」
「せ、攻めますね……」
 航の声が低く、沈む。
「目的のために、手段を選ぶ必要はなかったし、そのつもりもなかった。判断ミスをして可澄に何かあったらって、いつも気が気じゃなかったから。……その辺りは警察や役所、児童相談所の人に話を聞いてもらえて自信を持てたって面もある」
「自信?」
 首を傾げた美桜へ、航は一口、スポーツドリンクを飲んでから答えた。
「みんなが、『それは父親が悪い。もっと早く相談して欲しかった。逃げるなら協力する』って言ってくれた。ヘンな言い方だけど、そんな風に認めてもらって、味方がいるって思えて、サポートを受けられる自信があったから、俺は容赦なく行動ができた」
 航の言葉を聞く美桜の心に、奇妙なしこりが生まれる。
 父親に関しては今、美桜が聞いても、どちらが悪いかなど考えるまでもない。
 そして航はそういうことが分からない人間ではないはずなのに、行動に移すまで大分時間がかかってしまったという。
 第三者から見れば、すぐに理解できることでも、家庭という密室と、常態化してしまった環境下だと、こうも人は狂ってしまうのか。
 経験したことのない悪寒を覚え、美桜の背筋に冷や汗が流れた。
 もし、自分がその状況に置かれていたとして、同じ判断と行動ができただろうか?
 道を誤らなかったと言えるだろうか?
 美桜の心の中で答えが出ないまま、航は続ける。
「避難するって目的が決まっても、どうやって逃げるか、どこへ逃げるかは、やっぱり揉めた。逃げたとしても引き取り手がなくて、結局に親元へ戻るしかなくなった……じゃ意味がないから」
 美桜の脳裏に、何かのニュースで聞いた内容が蘇った。
 確かに、そういうケースはある。
 それはつまり。
「逃げるなら、事前に計画を立て、最後まで逃げ切らなくてはいけない、ということですね?」
「ああ。俺だって親父からの報復は怖かったから、転校の手続きとか、ハンコとか通帳とか、そういう大事な書類を深夜に隠れてまとめながら、逃げる先を必死に探した。さっきも言ったけど、母さんは状況を投げていたし、小学生の可澄に、下手に知らせることもできなかったから、俺が全部一人でやった。……命の危機を感じたら絶対通報するように、って警察から言われてたけど、正直、生きた心地がしなかった」
 そう零す航の口調は厳しい。
「万が一、避難までの間に可澄か母さんが怪我をしたり、最悪、死んだりしたら、俺の責任でもあったから。そうなったら親父は逮捕されるけど、多分、俺はまともでいられなかったと思う。殺人とは違う意味で、俺は二人の命を背負って生きることになるから」
「……っ」
 美桜は胃の表面が激しく痛むのを感じ、俯くしかない。
「ただ、椎名、これは誤解しないで欲しいんだ」
「誤解?」
「揉めたと言っても、警察や役所の人は責任の擦り付け合いをしてたワケじゃない。避難するという結論ありきで、最速で確実に問題を解決するためにみんなが動いてくれてた。……その父親は病人だから、強制入院させられないか? それなら住居を変えなくてもいいのでは? 万が一、バレたとしてどんな対応が必要? あらゆるケースを俺を交えて、ずっと話し合った」
「細い……糸ですね」
「けど、手繰り寄せられるなら、細い太いは関係ない。どんなに細い橋であっても、渡り切れば勝ちだからな」
「……確かに」
 そういう意味では被害者の意思……つまり、航の意思がはっきりしていたと言う点は、関係者にとっても大きな意味を持っていたのだと美桜は思う。
 ゴールが分かっているのなら、そこへ向かって舵を切ればいい。
 後は航の言う通り、方法論の問題だから、頭数を揃えて手段をひねり出すだけ。
「となると、残る問題は解決までの時間……ですね?」
「ああ。親父はいつ、何をするか分からない。俺や警察や役所の人にとっても、ギリギリの判断の連続だった。万が一のリスクは想定しつつ、バレないように各所へ相談して、逃げ切るための準備もする、と」
 美桜は頭がキリキリ痛むのを感じたが、実際に対処した航の比ではないのだから、弱音など言えないと、強く歯を食いしばって、話の先を促す。
「幸い、家に入れることはできないけど、地方に使ってない廃屋があるから、そこへ逃げたらって言ってくれる親戚が見つかった。俺は、すぐに動いた」
「な、なるほど。じゃあ、そこへ逃げたんですね?」
「ああ。結果として、家を出たのは相談してから一週間後だった。……中学二年の一月だ。あの日のことは、忘れられない」
 航は目を伏せ、神妙な口調になった。
 美桜もまた、息を飲んで、その話に耳を傾ける。
「親父が酒を飲んで眠った、酷く寒い朝。……必要最小限の貴重品だけを入れたカバンを持ち、母さんと何も知らない可澄の手を引いて、アパートのドアへゆっくりと歩いた。音を立てないように、そっと。……万が一、見つかった時は、すぐに通報して、暴れるであろう親父を羽交い締めにしながら、警察を待つイメージを頭の中で作ってた。目の裏がチカチカして、頭がズキズキして、ドアまでは一分もなかったけど、あんなに長い時間を俺は知らない」
 美桜は自分自身の呼吸すらも重苦しくなっていることを自覚し、水中にいながら息のできなくなった金魚のような気分になった。
「ドアを開け、アパートを出て、鍵を締め……。すぐ警察署へ走った。通された署内の一室で息を吐いた時、どうしようもない解放感と脱力感が襲ってきた。母さんは、どこを見てるか分からない目で、ぼんやりとしてて、可澄はワケも分からず、泣いていた。……俺はただ可澄を抱き締めて、呆然としてただけだった」
「……っ!」
 あまりの痛ましさに、美桜は俯いてしまう。
 航は目を閉じ、浅い呼吸を繰り返しており、その心境を想像することもできない。
 一番大きな問題をクリアし、警察署へ入ってしまえば、当面の身の安全は保証されるだろう。
 だが、心は?
 距離を取りました、安全になりました、だからもう大丈夫です、などとは言えまい。
 そこへ至るまで、あまりに多くのものを失い過ぎた。
 その先の身の振りに関して、想像はできる。
 件の廃屋へ移動し、そこでの生活を始め、住める場所を探した。
 航の言う、『地方』が、現在の土地を指していることも分かる。
 避難したのが中二の一月で、転校し来たのが中三の四月。
 時期は一致している。
 航は一度、大きく深呼吸をした後、続けた。
「避難した後もやることはいっぱいあった。俺と可澄の転校母さんの退職、離婚手続き、住民票の閲覧制限、銀行口座解約、新しい仕事とアパート探し……。正直、うんざりもしたけど」
 口調に苦笑を滲ませた航へ、美桜は目を瞬かせる。
「時間はあった。……安全な時間が。今挙げた問題は、手間と時間があれば解決できるものだったから、奇妙なほど安心して行動できた。今までの自分の生活がいかに異常なものだったか、実感したよ。……本当に、『バカバカしい』って」
 航の口調に皮肉はなく、静かで済々としている。
 美桜は何か言おうとしたが、頭の中が真っ白で何も出て来ない。
 何を言うべきか、分からない。
 あまりに壮絶で、言葉を口にすることができない。
 大変でしたね?
 大丈夫ですか?
 今は、問題ないんですか?
 どれもが酷く空々しく、無責任に思えて仕方がない。
 そのどれもが、彼の心に届くもののように思えない。
 そもそも、この場合、ふさわしい言葉など、この世に存在するのだろうか?
 俯き、言葉を失ってしまった美桜へ、航が静かな口調で言った。
「以上が俺の……佐崎航の物語だ」
 その声音は淡々としていて、冷たくて、落ち着いていて、底が知れない。
 ただ酷く透明だと美桜は思い、半ば呆然としたまま、顔を上げる。
 そこに立っていたのは、どこか清々しい表情の航だったので、美桜は戸惑ってしまった。
「こら、椎名。俺の言いたいのは、そこじゃないぞ?」
 航に、ぴんと額を右手の人差し指で弾かれ、美桜はきょとんとする。
「最初に言っただろ? この話は、こういう目に合ったって訴えじゃなく、困った時は誰かに助けを求めれば、何とかなるってものだと」
「何とか……なる?」
「そうだ。現に、俺はここにいる。可澄も、母さんも。……目を向けるなら、そっちの意味を考えてみて欲しい」
 そして航は静かに微笑み、背後の夜空で、一筋の流れ星が走って、消えた。







「目元は……大丈夫ですね。クマの心配もなさそうです」
 翌日、朝の校門近くで、美桜は手鏡を手に小さく頷いた。
 家を出る時間が少し遅かったせいもあり、登校する生徒達の姿はまばらだ。
 とは言っても、遅刻ギリギリでもないので空気に緊張感はなく、あくびを噛み殺す生徒、談笑する生徒、気だるそうな生徒、それぞれが思う形で朝の時間を過ごしている。
 だが美桜の表情は冴えず、大きくため息を吐いて、右側頭部へ手を当ててしまった。
「うう、頭が痛いです……」
 航から聞かされた話の衝撃もあり、あまり眠れなかったのだ。
 昨晩は遅い帰宅となってしまったものの、相変わらず父親の姿はなかった。
 航の家で可澄の夕食をご馳走になっていたので、すぐにシャワーを浴び、呆然としたまま、自分の部屋へ戻って、寝間着になった。
 そして勉強机の前に座ったものの、長い時間、何も考えられず、視線を落とすことしかできなかった。
 頭の痛みが鈍くなったり、鋭くなったりを繰り返す中、白い天井を見上げ、どのくらい過ごしたのかは記憶にない。
 ただ、視線がふと机の上に置いてある卒業アルバムへ落ちた時、一気に物事の理解が進んだ。
 コンビニに長居できない、公園へ入りたくない、ファミリーレストランで名前を書けない。
 そして、卒業アルバムに写真も名前もない理由。
 その場にいた痕跡を……アリバイを残してはいけなかった事情を理解した。
 彼は父親の待ち伏せや、街中でばったり会ってしまうことを避けていたのだ。
 だから凌太と友達でありながら、一緒に出掛けることがなかった。
 できなかった。
 万が一、出会ってしまえば、今が……積み上げた全てが壊れてしまうから。
 避難したのが中二の一月で、今が高三の六月中旬だから、三年以上の時間が流れてはいる。
 父親から見れば突然、家族は忽然と姿を消し、入れ替わりに警察や児童相談所の人間が、『保護を求められた』ことを説明しに来た形となる。
 具体的に口頭で警告があったかなどは分からない。
 だが警察が間に入った時点で、父親が家族の後を追うことには、リスクしかない。
 航と可澄は転校済み、千知も退職しているし、親戚が何かを話すこともない。
 日本のどこにいるのかも分からない家族を探すなど、雲を掴むような話だ。
 可能とするには、それこそ探偵などの専門家に頼むしかなくなるが、依頼を受けてもらえるかどうかも微妙だ。
 また、仮に航達を見つけたところで、どうするのか?
 接触し、何らかの危害を加えてしまったら、犯罪とみなされても仕方ない。
 一度、警察と会っているのに、そんなことをしたら今度こそ、逮捕という可能性は高い。
 航が保護を求め、警察へ相談に行った時点で、その父親は詰んでいるのだ。
 だが、航は今も油断していない。
 もう三年以上経っただろうと言う判断もあるかもしれないが、彼にとってはまだ三年なのだ。
 逃げ切ったと言えるほど、距離も時間も開いていないということなのだろう。
 だから、今もひとところに長居しない。
 そこまでは、昨晩の美桜にも理解できた。
 問題は、その先だ。
 美桜が眠りにつけなかった本当の理由は、他にある。
 航の発言の中に、どうしても理解できないものが存在し、それらが美桜を悩ませているのだ。
 美桜は校門をくぐり、水色の青空と、透き通った陽光が照らす敷地内を歩く。
 横を歩く生徒達の騒めきを、どこか遠くで聞きながら、結局、一晩かけても答えを出せなかった問いの一つを呟いた。
「そこまで徹底していたのに、どうして、私達と一緒に出掛けてくれたんでしょう……?」
 安っぽい理屈で引っ掛けて、強引に公園へ誘ったあの日。
 断ろうと思えば、断る理屈などいくらでも作れる状況だったのに、彼は来た。
 リスクを理解した上で、彼は待ち合わせ場所に立っていたのだ。
「あれは……どうして?」
 何度、その問いを口にしても、美桜は答えを見出せない。
 美桜は航の願いを理解したいのに、何かが足りないのだ。
 これまでの出来事を経て、ピースは出揃っているはずなのにと、美桜は酷くもどかしい気持ちになってしまう。
 眉根を寄せ、胸に寂しさが滲むのを感じながら、正面玄関へ入る。
 その時、背後から声をかけられた。
「よう、椎名。おはよう」
「っ!」
 驚いて振り向くと、制服姿の航が手を上げて立っていた。
 いつも通りの白いシャツに、メイビーとグリーンのスクールスラックスとショルダーバッグ。
 何も変わらない姿に美桜は頭が、くらりとするのを感じつつ、努めて平静を装った。
「お、おはようございますっ。きょ、今日は、過ごしやすい陽気ですねっ」
 やや挙動不審ではあったものの、挨拶を返すことができてよかったと美桜は思う。
 航は目を細め、襟元へ手を当て、パタパタして苦笑した。
「まあ、この先は湿気の季節になるけどな。雨が降るとマットとかモップの交換が大変で、憂鬱なんだよ、これが」
「そ、そうですか。確かに、それは難儀そうです……」
「難儀て」
 美桜の言葉のチョイスに、航はまた苦笑する。
 そのまま二人で玄関を進み、航はスチール製の下駄箱を開けながら、首を傾げた。
 美桜は、じっと見つめられて目をパチパチしてしまう。
「な、何でしょう?」
「いや、ここ、A組の下駄箱だと思って。椎名はC組だろう?」
「あ」
 指摘されて初めて、美桜は何も考えないまま、航の背に付いて来てしまったことに気付いた。
 どうしてだか、なぜだか、離れがたくて、その姿を追ってしまっていたたらしい。
 美桜は心臓が不自然な鼓動を打ち始めていることを自覚しつつ、視線を外して、空々しく苦笑する。
「あ、あはは、そう……ですね。どうして、こっちへ来てしまったんでしょう?」
「いや、俺に聞かれても」
 航は不思議そうな表情を浮かべながら、下駄箱から内履きを取り出し、足元へ置いた。
 美桜は、その姿をじっと見つめ、航が内履きのつま先を、トントンと突く。
「椎名、そっちも早く履き替えないと……っ?」
 航は言葉の途中でぎょっとなり、美桜の顔を見た。
「え、どうしたんですか?」
 美桜は意味が分からず、きょとんとしたが、一方の航はそれ以上の困惑顔だ。
「椎名、な、なんで泣いてるんだ?」
「え?」
 指摘された後、美桜は目尻に、右手の人差し指を当てる。
 そこには、航の言う通りの涙が滲んでいて、美桜自身がびっくりしてしまった。
 指の背に滲む水滴が自分のものだと、理解が及ばないまま、美桜は問い返す。
「あ、あれ? どうして、私は泣いているんでしょう……?」
「俺に言われても……」
 航は声に動揺を滲ませ、視線を左右に泳がせる。
 それを見て、美桜はもうダメなのだと思った。
 航のシャツとスラックスが視界の中で歪み、胃が鈍痛を訴える。
 ぽろぽろと涙が溢れ出て、止まらなくなった。
「……っく。どうし、て……」
 昨晩、話を聞かされてから一生懸命、塞き止めていた言葉が流れ出す。
「どうして、そんな……。あまりに、酷い……」
 下半身に力が入らなくなり、膝をその場に付いて、美桜は俯いてしまった。
 自分の知っている今の佐崎航と、過去の佐崎航がどうしても一致せず、美桜は苦悩する。
 父親から怒鳴られ、殴られ、蹴られ、可澄と千知の壁になっていた日々。
 母親の稼いだお金は、酒と異性交遊に使われ、どれほどの不自由と不平等を強いられたのか。
 心と身体を休めるべき家庭という場は、彼にとって苦痛でしかなかった。
 同世代の友人が与えられている家族の暖かさは彼になく、それを自覚する力もないまま、未来は奪われ続けた。
 美桜が家で母の膝に乗り、父の背を見ていた時、彼はどう過ごしていたのか。
「それはあまりに理不尽です……! 許されるはずがないのに……っ!」
 だが、それは実在した。
 許すか、許されないかは美桜の価値観でしかなく、航の現実と何一つ関係がない。
 その理不尽さに、目尻の涙が熱くなることを美桜は感じつつ、両手で顔を覆ってしまう。
 一度堰を切った涙は留まることを知らず、瞳に動揺を写す航を置き去りにする。
 ニュースや新聞で、そういう情報を目にすることはあった。
 だが美桜は、それが身近に存在するものだと、存在したものだと実感したことがなかった。
 増して春先に出会った、佐崎航という同級生に、そういうものは不釣り合い過ぎた。
 だから、美桜の理解が追い付かない。
 美桜の心情を察したらしい航が、ゆっくりと膝を下ろし、視線を向けた。
「……すまない。やっぱり、一度に全部話したのは、まずかったか?」
 美桜は胸に痛切な感情を覚えながら、航の過去と現在の印象が、噛み合わない理由に血を通す。
 食い違いの原因は目の前の人が、こんな風に他者を気遣ってしまうからだと美桜は思い至った。
 あんなに酷い目にあったのに、想像もできないほど苦しい経験をしたはずなのに、そういう姿勢をなくさない。
 美桜は、しゃくりあげながら、昨晩から解けない問いを口にする。
「なのに、どうして貴方からは日常の匂いがするんですか? どうして? 貴方には、それを知る場なんて与えられなかったはずなのに……っ!」
 巨大ハンモックに釣られたり。
 迷子の子供の頭を撫でようとして、迷ったり。
 妹との接し方に悩んだり。
 母に対しては、少しつっけんどんだったり。
 今、目の前で、内履きのかかとを叩いたり。
「どうしてもう、貴方はこっち側にいるんですか? 誰かが導いてくれたワケでもないのに……っ!」
「椎名……」
 航は難しい顔をした後、ゆっくりと静かに美桜の右肩へ手を置いた。
「昨日も言ったけど、一人で解決したワケじゃない。助けてくれる人がいて、俺もそれを求めたから、ここにいる。……悩むときはいつも一人だけど、完全に一人ぼっちじゃなかったから、俺は生きていられるんだ」
 その言葉は、じわりとした暖かさを持って、美桜の心へ沁みて行く。
 今、左肩に置かれた手は、妹と母を守り、警察のドアを叩き、役所で多くの書類に署名し、転校の手続きを済ませ、アルバイトをしながら生活を支えている手だ。
 制服越しにも分かる温もりが、今の美桜には、途方もない奇跡のように思えてしまう。
 美桜は顔を上げ、心配そうにこちらを見て来る航の頬へ、右手の人差し指を沿えた。
 航の目尻に触れ、すっと頬を撫でて指先を下ろす。
 かつて彼が一人で泣き、既に乾いてしまった涙の軌跡を美桜は想った。
 今の航は道を踏み外さず、真っ当に生きているように見える。
 だが美桜は、それは違うのではないかと考えてしまう。
 彼はもう、何度も踏み外した。
 頭の中で実の父を痛めつけ、苦しめて、殺した。
 家庭内の暴力が常態化した環境で、それが何度だったかと問うことに意味はない。
 ただ、常軌を逸した世界の果てで、落ちて行った崖の下で、殺人の意味を理解しただけなのだ。
 『バカバカしい』という答えを。
 テレビやネットで流れる殺人のニュースや、指名手配犯の中に自分も入ること。
 そこに自らの未来を覗き見たのは、その結論の裏付けに過ぎない。
 全ての行動の根には、『俺の人生はそこまで安くない』という確信があり、それが根拠となったのだ。
 そうやって彼は別の道を選び、そこでアクセルを踏んだだけ。
 航は美桜の肩へ置く手に、少し力を込めて言った。
「椎名、俺は以前、『他人から見れば何の成果も残せなかったように映るかもしれない。けど、その人だけがたどり着ける結末は必ずある』と言った。あれは正しいとか、間違ってるじゃない、ただの実感なんだ。そして俺は、それでよかったんだと思ってる」
 その言葉を聞いている間も美桜の涙は、ぽろぽろと流れ続け、酷い顔になっていると分かっていても、視線を逸らせない。
 美桜は声が上擦っているのを自覚しつつ、口を開く。
「でも、でもっ。私にはどうしても理解できない言葉があるんです……っ」
 それは、美桜がどんなに考えても納得できない一言。
 凪紗達との事件の後、下校途中に彼が口にした言葉だ。
「どうして貴方はあの時、『救われた』なんて言ったんですか? 貴方にいつ、そんな瞬間があったと言うんですか……っ?」
 美桜の脳裏に、その時の言葉が蘇る。
『椎名、自信を持て。結果を出せてないなんてことはない。……少なくとも俺は救われた。その事実だけじゃ足りないか?』
 どうして、そんなことを言うのか。
 救われるのはこれからじゃないか。
 生命、財産、時間。
 彼は多くのものを奪われた。
 付き合いのあった地元の友人達とも、関係を断たざるを得なかったはずだ。
 そんな風に何もかもを傷付けられたのに、なぜ『救われた』なんて言えるのか。
 何か、大きな転機があったと言うのか。
 美桜はもう一度、指先を航の目尻に沿えて、思う。
 今まで航が口にした言葉達。
 それらは全てが、既に救いを得た人間のものだった。
 悲しみに打ちひしがれ、全てを憎み、世界を恨んでいる人間は決して、『救われた』などという言葉を口にしない。
 だから、それは紛れもない彼の本心なのだ。
「どうして貴方の心は」
 さっきと同じように、涙の軌跡を指先で追う。
 そして、航の頬に手の平を当て、伝わって来る暖かさを感じながら言った。
「そんなに、眩しいんですか? いっそ」
 航の頬に触れる手の平に力がこもる。
「貴方が、それらを理由に他者を傷付けても、何一つ省みない人だったら」
 こんなに、どうしようもなくならなかったのに。
 美桜は、その言葉を口にしなかったが、一方の航は不思議なほど穏やかな表情で、目を閉じて微笑んだ。
 美桜の手の甲に、航の手の平が添えられる。
「……ありがとう。やっぱり、俺は救われてた。椎名と出会えて、本当に良かった」
「っ!」
 その優しい声音が、美桜の最後の抵抗を壊した。
 始業のベルが鳴り、玄関から生徒の姿が消え、世界に二人きりになったかのような静寂の中、美桜は涙が枯れるまで泣き続けた。





   第四章 新しい土で咲く花





「あ、美桜さん。その大皿は、上から二段目の棚だよ」
 玄関での一件があった週の日曜日。
 昼食を終えたアパートの台所で、美桜は可澄の指示に従い、忙しく身体を動かしながら皿を戸棚へ運んでいた。
「分かりました、ここですね。このマグカップはどこへ入れますか?」
「それはアニキのだから、適当でいいや。シンク下でも、どこでも」
 そんな二人の背中を、航はテーブル近くの椅子に座り、黙って見ていたが、流石に耐え切れなくなって、つっこみを入れる。
「ちょっと待て。それ、安物だけど、お気に入りなんだ。大事に扱って欲しいんだが……」
 可澄が唇を尖らせ、不満を口にした。
「えー、人にやらせておいて文句言うなよー。美桜さんは小間使いじゃなんだからな?」
「そんなこと思ってないけど、急に押し掛けて来てる身じゃないか。状況も掴めてないし」
 航は少し愚痴っぽい口調で言って、ため息を漏らす。
 その指摘を受け、美桜は苦笑気味に頬を掻きながら、答えた。
「ま、まあ、事情はおいおい話しますよ。行き場所がなくなったので、とりあえずお世話になれたらなーって思っただけだったんですが……」
 可澄が、「あははっ」と笑って、腰に両手を当てる。
「いいよ、いいよ! 困った時はお互い様って言うし!」
 一方の航は、渋い表情だ。
「カプセルホテルみたいに言われてもなあ。……まあ、マンガ喫茶に長期滞在とかされるよりいいけど」
 美桜がリビングを見渡して、頭に疑問符を浮かべる。
「あの、千知さんは? 部屋でお休みですか?」
 その問いに、可澄は皿を洗いながら答えた。
「母さんはパートだよ。今日の戻りは夕飯の後になるかなあ」
「……そう、ですか」
 そう言う美桜の口調には少し含みがあったので、航と可澄は少し首を傾げてしまう。
 だが、今問いただしても何も答えは得られそうだと航は思い直し、椅子から腰を上げた。
「で、今日からしばらく、ここに泊まるのはいいとして、布団とかはどうするんだ?」
 美桜が濡れた手をタオルで拭いて、答える。
「事務所に置いてあるので、それをこちらへ持ってきて使おうと思います。……一緒に取りに行ってもらえると助かるんですが」
「そんなのあったのか、あそこ……。一度ガサ入れした方がいい気がしてきたが、まあいいや」
 航はそう言って、冷蔵庫横にぶら下げてあったアパートの鍵を手にした。
「可澄、そういうワケで、少し椎名と出て来る。距離的にすぐ戻れると思うから、その間に」
「ああ、オレの部屋は掃除しておくよ。そうすれば、美桜さんの布団も置けるしな」
 美桜が少し気後れした様子で、頭を掻く。
「すみません。ご面倒をおかけして……」
 しかし、可澄は嬉しそうに口端に白い歯を見せ、笑って答えるだけだ。
「気にしない、気にしない。さっきも言ったけど、困った時はお互い様!」
「ありがとうございます。しばらく、ご厄介になります」
 そう言って、目を細める美桜の口調は軽快だ。
 変に責任を抱えてもらっても問題だが、半ば確信犯的にも見えて、航は複雑な気持ちになる。
「頼られるのは悪い気はしないが……。ま、そこもおいおいか。椎名、力仕事は先に済ませてしまおう」
「あ、はい。では、事務所へ行きましょう」
「道すがら、事情の説明も、よろしく」
「分かりました」
 航の言葉に美桜は頷き、二人は玄関を出る。
 もう暦は六月の下旬へ差し掛かりつつあるものの、空は快晴で湿気もなく過ごしやすい。
 航は首元に触れる襟に、少し暑苦しさを感じつつ、隣を歩く美桜へ問いを投げかけた。
「で、朝、急に電話してきて、どうしたんだ? さっき、行き場がないとか、穏やかじゃないこと言ってたけど」
 美桜が苦笑気味に、ちろりと赤い舌を出して答える。
「実はお父さんとケンカをしてしまいまして」
「ケンカ?」
「はい。先日、新しいテキストを買ったんですが、それを見られてしまって」
「えーと、怒られたのか?」
 美桜は後頭部を掻き、頷いた。
「『勉強は止めろと言ったはずだ! お前は俺の言うことだけ聞いていればいいんだ!』と」
「雰囲気は察していたつもりだけど、むちゃくちゃだな……。勉強をして怒るってことは、結果がどうこうもあるけど、自分の言うことをきかせたいだけなんじゃないのか?」
 航の指摘に美桜は困ったように肩をすくめる。
「否定はしません。で、そこからは売り言葉に買い言葉です。それでも頑張りたいと伝えたんですが、どうにも響かず……」
「けんもほろろも、いいとこだな。それで?」
「『衣食住を親に頼っている立場で、偉そうに!』と怒鳴られたので、つい」
「つい?」
 航はイヤな予感を覚えつつも先を促し、美桜が、にこっと笑って答えた。
「『なら、お父さんに頼らずに、やってみせます!』と反論してしまいまして」
 会話の内容に反して、妙に上機嫌な美桜の表情を見た航は、額に手の平を当て、もう一度、ため息を吐く。
「それで、こっちへ来たってワケか。椎名は椎名で、結構むちゃくちゃだな……」
「め、迷惑だったでしょうか?」
 思わず視線を落とした美桜へ、航は軽く笑って見せた。
「いや、いいんじゃないか? 椎名の親父さんが、『娘は自分に頼らなければ何もできない!』と思っているなら、そうじゃないと見せつけてやればいいだけの話だし」
「でも、私が何を言っても届かない気がしていて、それで悩んでいるんです」
「それは戦うフィールドが悪かっただけだ。親父さんの手の平の上じゃなく、別の場所で戦えばいいんだ」
「別の場所?」
「ああ。風のない球場で勝てないなら、風の強い球場で勝てばいいってだけ」
「え、ええと?」
 航の例えを上手く飲み込めなかったらしく、美桜はきょとんとした表情を見せる。
 そうこうしている内に二人は事務所へたどり着き、航は正面玄関前で、美桜へ問いを投げた。
「ところで、なんで事務所に布団があるんだ? 無人なんじゃないのか?」
 すると、美桜は乾いた笑いを浮かべ、視線を逸らす。
「じ、実は、家で気まずい感じになった時、避難所にしていたことがありまして……」
 航は一瞬、目を瞬かせたが、側頭部を右手で掻いて、またため息を漏らした。
「本当にガサ入れが必要なやつじゃないか。生活用品とかもあったりするんじゃないだろうな?」
「セ、セキュリティは入っていますし、いいじゃないですか」
「ボディガードがいるからは、ヤクザのシマへ踏み入る理由にならないと思うが。……布団って、俺一人でも運べるサイズ?」
 航の問いに、階段を昇り終えた美桜は事務所のセキュリティを解除しながら答える。
「はい。布団というより、持ち運び前提の折り畳み式マットレスですし。……懐かしいです、高校へ入学した時、頑張って運びました」
 美桜は、右腕でぐっと力こぶを作り、勝気に笑って見せた。
「威張って言うことかなあ。……とは言え、椎名」
 事務所へ足を踏み入れ、背中を向けたまま、航は問う。
「いろいろ、聞きたいこともあったから、ちょうどよかった。学校だと確認しづらい内容だし」
 その口調は神妙なものだったので、美桜は背を正し、口元を引き締めて頷いた。
「はい。覚悟は決めていますから、何なりと」
 そう答える美桜の声は、不思議なほどに落ち着いたものだったので、航は目を細め、
「なら、かさばるものは、さっさと運んでしまうか! 幸い、今日は良い天気だし!」
 と返答して、にっと笑った。







「ごちそうさまでした。可澄ちゃんって、お料理が上手いんですね」
 航とマットレスや最低限の生活用品をアパートへ持ち込んだ後、可澄の作った夕飯を食べ終えた美桜は手を合わせて、そう呟いた。
 可澄が皿を下げながら、少し照れた様子で頬に赤色を滲ませる。
「おそまつさま、美桜さん。まあ、そこそこだよ」
 美桜もまた自身の分の皿を手に取り、台所へ立って、水に浸け置きした。
「アニキも美桜さんみたいに褒めてくれたらいいのになー? 作り甲斐がさー」
 憎まれ口を叩く可澄だったが、皿を片手に持つ航は渋い顔だ。
「この間も言ったけど、ほどほどに褒めてると思うんだが……」
「えー、だって、アニキは直球ばっかり投げるから。変化がないと刺激にならないだろ?」
 美桜に続いて皿を浸け置きする航は、がっくりと肩を落とす。
「そんな無茶な。食レポじゃないんだから」
「気づかいだよ、気づかい」
 困惑する航と、どこか楽しそうな可澄のやり取りを、美桜がクスクスと笑いながら見守る。
 可澄に洗い場の前から追い払われた航は、不服そうな表情で椅子へ座り、美桜はちょっと居場所に迷う。
 視線を迷わせた美桜に気付いた可澄が、ひらひらと手を振って言う。
「ああ、美桜さんは座ってていいよ。基本的に家事担当はオレだから」
「でも押し掛けた身で、座っているだけというのも……」
 美桜の返答に可澄は、「あははっ」と笑った。
「美桜さんは真面目だなあ。ドンと座って、働かなくていい時は、とことんだらしなくなる方がラクだぜ?」
「可澄、寝てるだけでお金がもらえるバイトがあったら、やればいいみたいなテンションはどうかと思う」
「なんでだよ、やればいいじゃん」
 航が、がりがりと頭を掻く。
「そんな都合のいい話があるワケないだろ。いつかしっぺ返しがくるやつだ」
「アニキも石頭だなあ。そこそこもらってから、責任を問われる前に身を引けばいいじゃん」
「誰に似たんだ、その思考……」
 割と激し目な頭痛を覚えたらしい航が、頭を抱え、美桜もまたリアクションに迷う。
 可澄はそんな二人を尻目に、冷蔵庫を開けて、首を傾げた。
「あ、もう麦茶がない。スポーツドリンクも切らしてるな。……アニキ、ドラックストアへ行って買って来てくれないか?」
「ん。他に足りないものはあるか? 椎名もいるし、何か必要なら、まとめて買って来るけど」
 可澄は冷蔵庫の中身を確認して、首を左右に振る。
「他は大丈夫。さっき母さんからメッセがあって、夕飯はパート先で食べて来るって言ってたから、食材も要らないかな」
「分かった。自転車、使うぞ」
「あいあい」
 可澄は適当に返事をしながら、冷蔵庫の扉を閉める。
 航が自転車の鍵を手にして、美桜へ言った。
「じゃあ、少し出て来る」
 美桜は一度椅子から立ち上がり、目を細めて答えた。
「はい、いってらっしゃい」
「うん」
 航はその一言だけ残してアパートを出て行き、シンク前の可澄と椅子に座る美桜だけがリビングに取り残される。
 かちゃかちゃという皿と、水の音だけがその場に響いたが、美桜は不思議と息苦しさを感じない。
 会話のない数分が流れた後、可澄が背を向けたまま、ぽつりと言った。
「美桜さん、アニキから全部、聞いたんだな」
 椅子に座る美桜へ投げかけられた声は淡々として、奇妙に静かだ。
 美桜は小さく頷く。
「……はい。全て、聞きました」
「そっか。じゃあ、オレから言えるのは一つだけ」
 可澄は背中を向けたまま、皿を洗う手を止めない。
「アニキのこと支えてあげて欲しいんだ。オレは結局、最後までアニキと母さんに守られて、ただ泣いていただけだから」
 美桜は心に爪を突き立てられたかのような痛みを覚えながら、答える。
「でも、どうしようもなかったと思います。可澄ちゃんは、まだ子供だったんですから」
「それは分かってるよ。……で、最近になってから、色んなことが見えるようにもなったんだ」
 可澄はスポンジに少し、洗剤を足しながら続けた。
「アニキは中二の一月に、オレと母さんを連れ出してくれた。オレは今、中三の六月。……もし、オレがアニキの年齢だったら、同じ判断ができたかなって」
「それは……」
 美桜は即答できず、言葉尻を濁す。
 同じ問いかけを、美桜も自分自身へ投げたことはあった。
 航の話した境遇で、年齢で、精神状態で、その実践ができたかと考えると、頭がキリキリと痛んだのだ。
「オレは……自信がない。正直、父さんを一発殴って、反抗して見せて……みたいなのが、限界だ。もちろん、それはダメなんだけど」
 可澄は振り向いて、苦笑しながら頬を掻く。
 年相応の発想と、その仕草が美桜には悲しいものに見えてしまう。
「オレ、思うよ。どうしてアニキには、あんな行動が取れたんだろって」
 美桜は、この一週間、一生懸命考えて出した答えを口にした。
「それに、私なりの解答はあるつもりです。簡単なものだと思いますよ」
 可澄が目を、ぱちくりとさせる。
「へえ、聞きたいな。どうしたら、できるんだ?」
 美桜は一度、大きく息を吸って、吐いてから答えた。
「考えて、手段を選び、行動する。……それだけです。佐崎君は、困難な状況だったからこそ、他者へ助けを求めるという、簡単で常識的な方法を取っただけです」
「えーと? それこそ、難しいことのように聞こえるけど?」
 美桜は苦笑する。
「そうですね。そういう意味で、佐崎君は良識的だったんです。……良くも悪くも、それは彼を苦しめたとも思いますが」
「リョーシキ……? ええと?」
 字面と意味が分からず、首を傾げてしまった可澄へ、美桜は微笑んで補足した。
「可澄ちゃんが大切だったというだけのことです。佐崎君はその感情があったから、今、ここにいられる。……後の理屈は付け足しです」
「う、ううん……?」
 美桜のストレートな言葉を受け、可澄は照れた表情を浮かべた後、再び背中を向ける。
 その耳先がほんのりと赤くなっていたが、そこへつっこみを入れるのは控えておこうと美桜は思った。
 やがて、やや上擦った声で、可澄が言う。
「ま、まあ、いいや! 美桜さんがそこまで分かってるっていうんなら、オレがとやかく言うのも野暮だしな!」
 美桜は微笑んだ。
「……ええ。できる限りを尽くすつもりです。佐崎君は、どうにも普段、ケロっとしているのが困ったところですし」
 可澄が背中越しにも分かるほど大仰に、肩を落とす。
「そうなんだよなー。あれはよくないよ。周りと温度差があることに、慣れ切っちゃって」
 可澄は油汚れの酷い皿をごしごし洗いながら、言葉を繋げた。
「だから、美桜さんに頼みたいんだ。アニキが美桜さん達と出掛けたっていうのも、安心できる人が傍にいるって理由があったからだろうし」
「きょ、恐縮です……。期待に応えられれば、いいんですが……」
 美桜は頬を掻いて肩をすくめ、可澄が続ける。
「自分勝手な願いだって分かってる。でも、美桜さんにフォローして欲しいんだ」
 トーンの落ちた可澄の口調が、美桜の心に刺さった。
 だが、美桜は努めて明るい声を出して、自分の胸を叩く。
「はい、ドンと任されました! これからも夕飯を食べに、ちょくちょく来るので、一緒に考えればいいだけの話でしょう?」
 美桜の返答に可澄は、「ししっ」と笑って頷いた。
「違いねーな。一人で悩むなんて、やることじゃねーよ」
「そうですとも」
「それにオレにも、夢はあるんだぜ? それがあったから、ここまで来れたってやつが」
「夢……ですか? 興味深いです」
 可澄は手を止め、悪戯っぽい口調になる。
「へへっ、でも、それはまだ秘密。いつか、話すと思うけどさ」
「う、うーん、今は秘めるが花ってやつですか?」
「そうそう」
 可澄の口調は上機嫌だったので、美桜も深く追及はしない。
 目標があるのはいいことだし、口振りからも、そんな無茶を望んでいる様子でもない。
 ふと、美桜は思い当たったことがあったので、口を開く。
「あ、でも可澄ちゃんと千知さんには一つずつ聞きたいことがありまして」
「うん? 何?」
 美桜は率直な疑問を口にした。
「可澄ちゃんの、その口調って、早く大人になりたいから……で合ってますか?」
 ぴたり、と可澄の手が止まる。
 可澄は振り返らないまま、淡々とした口調で問いを投げ返してきた。
「どうして、そう思ったんだ?」
 美桜はもう一度、自身の胸に手を当てて、答える。
「私もそうでしたから。私の口調は、三年前に事故で亡くなったお母さんの真似だったから」
「だった?」
「はい。佐崎君と出会い、自らの行為を省みて、思いました。誰かと同じ道を歩くことなど、できるものなのだろうかと」
「どうしてだ? お母さんが目標なら、同じ道だろ?」
 美桜は首を左右に振った。
「私のお母さんが出会ったのは、お父さんです。そして、私が出会ったのは、佐崎君です。同じ人間は二人といませんから、歩む道は似ているだけの別のもの……。私はきっと初めから、自分だけの道を歩いていた。ただ……」
「ただ?」
「自信がありませんでした。不甲斐ないことです。だから、誰かと同じ道を歩けばいいと思ってしまった。それで、安心していた」
 可澄はまた、ごしごしと皿をスポンジで洗う。
「自信かあ。難しいところだな……。それで?」
 美桜は脳裏に宿る、暖かな記憶を思い出しながら、胸元へ両手を寄せた。
「佐崎君に言われたんです。『結果が出てないなんてことはないから、自信を持て』って。……その日から私は、私だけの道を歩いていると実感できるようになりました」
「うわー、アニキも恥ずかしいこと言うなあ。まあ、それだけ美桜さんがへこんでたってことなのかもだけど?」
 可澄のからかうような口調に、美桜は頬を膨らませて不満を漏らす。
「そ、それは言わない約束でしょう! 真面目に話していたのに!」
「あはは、ごめんごめん。……けど、そうだよな」
 可澄は手を止めて、ぼんやりと中空へ視線を投げた。
「オレは、オレ自身が幸せになることでしかアニキに返せるものはない。……すぐに忘れそうになるけど」
「そう……ですね。繰り返し、不甲斐ないことですが、本当に忘れてしまいがちです……」
 ぱん、と可澄は両頬を叩く。
 頬に泡が付いてしまったことに気付き、タオルで拭いた後、振り返って、口端に白い歯を見せ、勝気に笑った。
「ありがとな、美桜さん。何か、スッキリした」
「いえ、こちらこそ。こんな風にいろいろ話せる場を、これからも設けていきましょう」
「ああ!」
 可澄が嬉しそうに頷いた時、アパートのドアが開く音が美桜の耳へ届く。
 美桜は買い出しに出ていた航が帰って来たのかと思ったのだが、リビングへ顔を出したのは、長袖の白いシャツにデニム姿の千知だった。
 美桜が慌てて椅子から立つ。
「お、お邪魔しています! あの……」
 パート上がりの千知は、静かに微笑んだ。
「いいの。可澄から聞いているわ」
「は、はい……」
 思わず美桜は恐縮してしまったが、可澄は特に気にした様子もなく千知へ問いを投げかけた。
「母さん、夕飯を済ませて来たんなら、シャワー浴びて休むか?」
「ええ。……でも、その前に」
 千知は美桜へ視線を向ける。
「美桜さん、少し外で話をしないかしら?」
 可澄の声のトーンが低くなる。
「母さん、それは」
 千知の口調は変わらず静かだ。
「大丈夫よ、ドアの外で話すだけだから。もし、何かあったら、その場で警察へ通報する。……航から強く注意されているでしょう?」
「っ!」
 何も隠すことのない千知の言葉に、美桜は息を飲む。
 美桜がここにいるという事実だけで、おおよその事情を千知は理解したらしい。
 千知は目を細めて、微笑んだ。
「じゃあ、外の空気を吸いに行きましょう、美桜さん」
 その口調は不思議なほどに穏やかで、却って美桜の心は激しく騒めいた。







「ごめんなさい、待たせたかしら」
 十分ほど時間が流れた後。
 アパートから出て、外気へ晒される通路に立っていた美桜へ、千知が声を掛けた。
 千知はシャツとデニムから着替えたらしく、初対面の時と同じ、薄紫の花が刺繍された大きめの浴衣姿だ。
 パートの後ということもあってか、肩口に疲れが滲んでおり、どこかに心細さを呼び起こすような佇まいであったので、美桜は少しどきりとする。
「いえ、それほどでも……」
 美桜の口調は、やや歯切れが悪かったものの、千知は特に気にした様子もない。
 その流れのまま、通路の手すりの前に並んで立ち、二人は六月下旬の夜空を見上げた。
 冬の星座は姿を隠し、天の頂には牛飼い座が瞬き、夜闇の中、オレンジ色の一等星であるアークトゥルスが静かに光っている。
 やがて、千知がゆっくりと口を開いた。
「何か、言いたいことがあるんじゃないかしら? 美桜さん」
「え?」
「さっきは、私から話があるように言ったけど、伝えたいことがあるのは、美桜さんの方だと思ったのだけど?」
 千知の声音は静かだったが、奇妙に落ち着いていたので、美桜は驚きつつも心の中で、言いたかった言葉を字面にする。
 その残酷さ、辛辣さを自覚しつつも、美桜はやはり、口に出さずにはいられなかった。
「……先日、佐崎君から今までの出来事を聞きました」
「……」
 千知は何も答えなかったが、美桜はそのまま続ける。
「その中に、気になる言葉があったんです。危機を訴える佐崎君に対し、千知さんは、『もういい。私達はここで死ぬの』と答えたと」
「……ええ」
 頷く千知の声は、粛々としていた。
 ただ、視線は夜空から手元に落ちており、美桜は下唇を噛み、口調に怒りを滲ませる。
「それは……どんな状況であれ、親が子供へ口にしてはいけない言葉だと思います。そんなことを言われたら、子供は絶望するか行動するかしかなくなってしまいます。……何か思うところはないんですか?」
 美桜は手すりに乗せる手の平へ、力を込めた。
 それが、可澄に示唆していた千知への問いだった。
 美桜は自身の価値観が幸せな土壌で育ったものであること、そして、彼らのそれとの違いをこの一週間考え続けた。
 理不尽なことを言っている、一方的な理屈を言っているという自覚はある。
 だが、どうしてもそこは譲れなかった。
 航が警察へ相談に行った後も千知が、「恥ずかしい」という旨を口にしていたことから、本来、一緒に背負うべきだった荷があったように感じられたのだ。
 千知は、一度、深い疲れの滲む大きな吐息を漏らす。
「貴女の言う通りだと思うわ。言い訳はしません。……当時の私は無責任だった」
「でも、それで」
「ええ、私が今更それを認めたところで、航に押し付けた重荷はなくならない。……何より航は、もう荷を下ろしつつあって、あの出来後を過去にし始めているから」
 美桜は心に苦いものが滲んでいることを自覚しつつ、頷いた。
「自己完結しつつあることを掘り返しても仕方ないと、私も思います。でも、佐崎君だって、全部を一人で背負うことはできなかったはずなんです」
「そうね。本来なら、立ち止まって、悩んで、時には親に八つ当たりをしながら出す答えもたくさんあったはず。でも、航にその時間を与えることが私にはできなかった」
 千知は右手で、左手首にかかっている浴衣の裾を直す。
 もうすぐ七月だというのに仕事の際には長袖のシャツを、今はゆったりとした浴衣を着ている理由を美桜も察している。
 衣類の下に隠れた素肌が、どういう状態なのかは、聞いた話から察して余りあるからだ。
 長身でやや細身だが、全体的に華奢で肉付きの薄い身体。
 航は、「疲れやすい」と言い、夕食においても箸が遅く、最後まで食べきることのできないという現実。
 それらを思うと、美桜は自身のしていることが酷く罪深いことのように感じられてしまう。
 千知は、やはり粛々と続けた。
「結果、航は年齢に見合わない大人びた考え方をする子になってしまった。これは、私の罪よ」
 美桜は言葉を失い、何も返せない。
 佐崎千知という人間は、元々聡明な人物だったのだろう。
 ただ、相手やタイミングや優しさの在り方を間違えてしまった。
 いろいろなものが重なって、気付いたら千知本人にもどうにもできない状況になってしまったのだ。
 それを一概に、罪と言っていいのか、美桜には分からない。
 罪という言葉が、千知本人の口から聞きたかった返答だったのは確かだ。
 だが、それを成果と言ってしまうと、どうしようもなく虚しいものが心に滲む。
 もう、戻らないものを追及したところで、何の意味もないのだ。
 ないのに、そう分かっているのに、感情のまま、「罪悪感はないのか?」と問いにしてしまったことが美桜には許せなかった。
 意味がないという点で言えば、今、目の前にいる人を糾弾するほどのことはないはずなのに。
 美桜は俯き、目尻に熱いものが滲むのを自覚しつつ、言った。
「ごめんなさい。千知さんはもう、お仕事を頑張っていて、食事を摂ろうとして、立ち直ろうとしているのに。私は自分勝手な感情のために、貴女を責めています……。でも」
 言葉を繋げようとする美桜の口調を、千知は静かに遮る。
「いいのよ。貴女はきっと、裁く人ではなく、許す人なんでしょう。その貴女が許せないと感じたのなら、それは正しい怒り。だから、口にしなければならない。……それは過去の私ができなかったことだから」
 その発言の含む意味に美桜は、はっとしたが、千知は目尻を細めて微笑むだけだ。
「美桜さん、私はこの土地へ引っ越して来て、三年になるわ。ここの冬は、よく雪が降るのね。首都圏と違って、背の高い長靴や雪かきが必要でしょう?」
「え、ええ」
 突然の話題に美桜は戸惑いながら頷く。
「最初の一年は、外へ出ることもできず、寝込むだけだった。記憶は真っ黒で、どうやって生きていたのかもおぼろげ。航と可澄には負担をかけたのだと思う」
 千知は淡々と独白を続けた。
「そうして迎えた二度目の冬。とある夜。今、立っているこの場所から私は、空を見ていた。ちらちらと雪が降っていた。……静かな夜だった」
 千知は顔を上げ、六月の夜空を見る。
 その瞳に何が写っているのかは、美桜には分からない。
「テレビか本で、雪の結晶には二つとして同じものがないと言っていたことを思い出していた。私は視界一杯に舞い散る雪を見ながら、『この世界には一晩でこんなにも惜しみなく生まれて、惜しみなく消えるものがある』と知った。それは圧倒的で、不意に何かを許された気がした」
「許された?」
「ええ。そう実感した時、涙が溢れて、一人で泣いた。そうしてようやく、航と可澄を抱き締めて、『ごめんなさい』と言えたの」 
「っ!」
 強烈な原体験の告白に、美桜の胸が詰まり、声が出なくなる。
 千知は隣に立つ美桜を見て、優しく微笑んだ。
「そこから、少しずつ、少しずつ。食事をして、短期のお仕事をして、眠って。……そうして今がある」
 千知は頬に手を当て、苦笑した。
「まだ途中であるけれど。ちゃんと働ける身体になりたいし、航と可澄にはできるだけ不自由をさせたくないから。でも、それだけじゃないの」
「それだけじゃ、ない?」
「ええ。今は仕事ができることが嬉しくて、ご飯を食べられることが嬉しくて、何かをできることが楽しい。充実した時間を過ごすことが、何より二人のためになると考えることにした」
「楽しむ……」
「そう。例えば、ええと、なんて言ったかしら、さくすぶ? すくさぶ?」
 突然出て来た謎の言葉に、美桜は首を傾げたが、以前のやり取りから思い出せるものがあったので、それを口にする。
「サブスク、ですか? 動画や音楽配信サービスの」
「ええ、それ。私は家で塞ぎ込みがちだから、航が気を使ったんでしょう。多少、生活ペースが乱れても、観たい時に好きな番組が観られることには感動したわ。今は、こういうこともできる時代なんだって。……私は全てに取り残されたと思っていたから、その辺りもちゃんと気にした方が幸せなんでしょう」
 そして千知は、ぽつりと呟いた。
「一人で絶望するなんて愚かなことよ。生きていれば、楽しいことは一杯あるのに」
 それが、佐崎千知の答えなのだと美桜は理解する。
 自分の考えの小ささ、体験のなさを痛感し、俯きそうになってしまった。
 だが、千知はそれを許さない速さで、美桜へ告げる。
「だから、ありがとう。美桜さん」
「え?」
 美桜は下がりそうになった顔を上げた。
 そこにあったのは不思議な安らぎを宿して微笑む、千知の表情だった。
「私は誰かに、『間違っている』と言って欲しかった。航や可澄は事情を知っているから、言うことができなかったけれど、私が私自身に諦めとだらしなさを許さないために、必要な言葉だったの」
「だ、だらしないなんて、そんなことは……。ちゃんと働いてもいるのに……」
 酷い目に会ったのは貴女も同じはずなのに。
 美桜は慌てて、そう否定しようとしたが、千知はゆっくりと首を左右に振るだけだ。
「いいえ、間違えそうになったら、道を踏み外しそうになったら、それを正す人間が必要なの。航も、可澄もそう。一人だけでそんなに強くなれる人間はいない。そうやってうぬぼれたら、人はどこまでも堕ちていくものだから」
 美桜は、元の夫のことを言っているのだと思った。
 その一方で、千知自身のことでもあるような気もしたが、彼女はただ静かに微笑んでいるだけで、問うことはできなかった。
 その静寂が、美桜には酷く寂しいもののように感じられてしまう。
「だから、ありがとう。辛い言葉を言わせてしまったわね」
 千知はそう言って、美桜の肩に手を置いた。
 服越しにも、肩にその暖かさが伝わって来る。
 千知は少し熱に浮かれたような口調で最後に言った。
「私はまた、ここから進んで行ける。貴女のお陰。……本当に、ありがとう。そして、これからも航を支えてあげて欲しい」
 美桜は千知の背後に六月の夜空を見る。
 そこに散りばめられた星の輝きが、冬の粉雪のように思えてしまい、堪えていた涙が一筋、美桜の目尻から零れ落ちた。
 惜しみなく生まれ、惜しみなく消えて行くもの。
 その瞬きは儚く見えるが、ゆっくりと移ろい、やがて春先の雪となる。
 暖かな陽光に照らされ、溶けて消える名残の雪。
 それが、途方もない救いのように、美桜には思える。
 肩に乗せられた暖かな手の平だけが、美桜の意識を現実に繋ぎ止め、脈打つ心臓の鼓動を自覚しながら、しゃくりあげて泣く。
 自分自身の母親と夢の中で会えなくても、もう寂しくない気がした。







「へえ、何だかすっきりした部屋ですね」
 千知と話し終えた後、買い出しから戻った航の部屋へ移動した美桜は、キョロキョロと周りを見渡しながら、呟く。
 美桜のリアクションに航は少し、居心地が悪いような気まずいような表情だ。
「特に見られてマズいモノもないけど、あまりジロジロ見られるのも、アレなんだが……」
「そうですか? 別に普通の部屋だと思いますが」
 美桜は答えながら、またキョロキョロする。
 部屋の広さは七畳ほどで、二人入ると手狭ではあるが、隅に布団は畳んで置かれているし、机もホームセンターなどで売られている組み立て式のコンパクトなもので、圧迫感はない。
 他に置いてものといえば、小さな本棚と少し古い型のノートパソコンくらいだろうか。
 掃除もされていて、清潔だというのが美桜の率直なイメージだった。
「ノートパソコン……ですか」
 美桜は唾を飲み、パソコンを開こうとするが、後頭部を掴まれて、動けなくなってしまう。
「何をしようとしてるんだ、何を」
「痛む腹があるんですか?」
「見たいというのなら止めない。けど、勝手に人のプライバシーを覗き見て、ダメージを受けたとしても、それは椎名の責任だからな?」
「うぅ、それは確かに。まあ、本題は、それじゃないですしね」
 航は、「そうだな」と頷いて、座布団を美桜へ勧め、自らも腰を下ろした。
「さて、じゃあ、今後の作戦会議と行こうか。……けど、その前に最終確認だ」
「?」
 真剣な表情になった航を見て、美桜は居ずまいを正す。
「いろいろ聞きたいことはあったんだが、さっき、可澄と母さんの顔を見て必要なくなったと思う。けど、どうしても確認しておかなきゃならないことが一つあるんだ」
「どうしても、ですか。何でしょう?」
 美桜の問い返しを受け、航は神妙な口調になった。
「今日の朝、椎名は実家に俺を呼び出した。このアパートへ一人で直接来ることもできたのに、そうしなかった。……気付いたということでいいんだな?」
 その問いの含む意味を美桜は考える。
 直接、一人でアパートへ向かわず、航を呼んだ理由。
 それは。
「分かっています。佐崎君と関わりを持つということは、お父さんからの危害が私へ向く可能性を持つということは」
「……」
 航は真っ直ぐ、美桜の瞳を見つめている。
「振り返って見れば、ここを探し当てた日以外、私がこの周辺へ立ち寄る際、いつも佐崎君は一緒にいました。佐崎君が痕跡を消しながら行動しているのはもちろん、現住所と可澄ちゃん、千知さんを守るためだと思います。そして……」
 薄く目を伏せた航へ、美桜は続けて告げた。
「それは私を守るためでもありました。お父さんは親ではなく治療を受けるべき、ただの病人です。距離を取ったから、時間が空いたからを理由に油断していいとは思えません。逆恨みして、佐崎君に関係する人物、全てに報復行動を取る可能性は充分にある」
 航は口を閉ざして何も言わないが、美桜から視線をそらさない。
 美桜も、それは同じだった。
「でも、それでも私は」
 美桜は、右手を胸元へ当てる。
「私は、ここへ来ること選びます。不安がないとは言いません。いつ、どこで危害を加えられるか分からない恐怖。その始末の終えなさが、暴力の本質なんでしょう。……けれど」
「けど?」
 美桜は自身の口調に不思議な安らぎが宿っていることを自覚しつつ、頬を綻ばせて微笑んだ。
「その分、佐崎君が傍にいてくれるんでしょう? なら、私は何も心配しません。私もまた、貴方のために自分の身を守り通すことを約束します」
「……っ」
 航が息を飲む。
 美桜の言葉に、彼の心が何を感じたのかは分からない。
 だが、長い時間、凍り付いていた頑なさが解け出しているように、美桜には思えた。
 やがて航は、ぱんと両手を打つ。
「分かった。じゃあ、これ以上は問わない。これからは、椎名を信じるよ」
 その表情は清々しいものだったので、美桜はまた微笑んでしまう。
 本当にこれが、色々なものの最後の確認だったのだろうと美桜は思った。
 ここに来るまで、彼にどれほどの苦しみと痛みが伴ったのか。
 それはもう、振り返っても仕方のないことだけど、共有することで少しでも和らいでくれたら、と美桜は願うしかない。
「じゃあ、改めて作戦だ。まず最初にだけど」
「あ、ちょっと待って下さい。その前に」
「?」
 話を遮った美桜へ、航は不思議そうな表情を見せた。
 美桜は膝を床にとんとんと突いて、航へ向かって進み、ぽすんと彼の肩口に額を乗せる。
 突然の展開に、航はびくっと大きく身体を揺らした。
「ど、どうした? 急に」
 美桜は一層、強く顔を肩口に押し付ける。
「よかったと」
 美桜の声は穏やかで、密やかだ。
「本当に、よかったと思っているだけです。しばらく、このままでいさせて下さい……」
「……」
 航は息を飲んだ後、なすがままになり、美桜は深い安堵を覚えながら、しばらく瞳を閉じる。
 額越しに伝わる体温が暖かくて、それが心にじわりと滲むと、身体全体に刺激のあるぴりっとした辛みが走った。
 美桜は身体が火照っているのを自覚しつつ、寄せていた身体を離す。
「ありがとうございます。もう、充分です」
「あ、ああ。うん……」
 お互い、顔を見られない雰囲気となり、照れくさい空気が流れたが、美桜は心の中で苦笑してしまう。
 充分、と言ったのは本当だ。
 だが身体を離すと、もうちょっと足りないという気持ちが生まれて、自身のワガママさに笑ってしまったのだ。 
 航は苦い表情で後頭部を掻く。
「椎名、こういう時、笑うのはアレだからな? 控えるように」
「え、どうしてですか?」
「どうしても。なんか、身のやり場に困るから」
 もしかしたら、初めて見るものかもしれない航の強い動揺に、美桜はまた笑ってしまう。
 しばらくそんな時間が過ぎた後、航は話題を元へ戻した。
「さ、さて……。改めて、椎名は親父さんと、これからどうしたいんだ?」
 美桜も気を取り直し、答える。
「弁護士になるという夢を認めてもらいたいです。私は勉強を続けたい」
「なるほど。しかし、うーん……」
 航は腕を組み、難しい顔になってしまい、美桜の言葉に不安が混じった。
「関係修復は困難、でしょうか?」
「そうだな。親父さんの性格と、今の状況から綺麗に丸く収めようって言うのは無理がある」
 その指摘を受け、美桜の心に苦いものが滲んだ。
「やっぱり私の言葉が、どうやっても届かないのがネックですよね。解決法を見出せないというのが、正直な所です」
「そこなんだが、そもそも丸くまとめる必要ってあるのか? この場合」
「どういう意味です?」
「絶対にバットに当たらないボールを振っても、意味がない。ヒットにするには、まず、当たる状況に変えないといけない」
 美桜も腕を組んで、昼間の会話を思い出す。
「つまり、風を吹かせろということですか? 球場を変えると?」
 航は、にっと笑った。
「そうだ。バットにボールが当たらない……椎名の主張が通らないのは、椎名が親父さんのお膝元……つまり、『家』にいたからだ。なら、ロケーションを変えればいい。幸い、もう『家』は出てるワケだから、第一段階はクリア済みだ」
「前向きですねえ」
「目指すのは完全勝利、かつ勝ち逃げだからな。前向きになって悪いことはない。利用できるものは全て使おう」
「勝ち逃げ……ですか。具体的に、どういう形のものを目指せばいいんでしょう?」
 航は眉間を、とんとんと叩きながら答える。
「相手の一番得意な土俵に立って、こっちが勝つのがいい。そっちの有利な場にいたからだ、とか言い訳できない状況で何とかしたい」
「ううん?」
 美桜は、途方もなくレベルの高いことを求められているように思えてしまい、眉根をしかめる。
 航の状況に関する捉え方というか、感じ方には独特なものがあると思ってはいたが、今回のものはどうにも難解だ。
「以前、俺は最悪の事態は起こるものとして行動するって言ったが、その逆をやるんだ」
「逆?」
「ああ。親父さんが最高の状況、もっとも守られていると考えている環境で説得できれば、椎名の言葉は同じだったとしても、意味が変わるから」
「あのう、ちょっと頭が付いてきません……。いえ、ついでなので、聞いてみたいんですが」
「ん?」
 首を傾げた航に、美桜が率直な問いを投げかける。
「このアパートって、きっと佐崎君が選んだ一番安全な場所、なんですよね?」
「そうだな」
「だからこそ万が一、お父さんが乗り込んで来た場合、どうするかなどは考えているんでしょうか?」
 美桜の疑問に一瞬、航は、きょとんとしたが、やがて底の見えない不敵な笑みを見せた。
 そして、床に置かれていたスマホを手に、返答する。
「それはまさに最悪の状況だが、だからこそ、考えてある」
 この答えに美桜は冷たい汗が背筋を流れるのを感じた。
 佐崎航という人間の性格上、想定していない方が不自然なのだが、こうもあっさり肯定されるとやはり驚いてしまうのだ。
 航はスマホを振りながら、答える。
「俺か可澄か母さんのスマホから、警察へ連絡が行けば、ここの住所と事情を知っている部署へすぐに繋がることになってる。自治体によって運用に違いはあるだろうけど、電話が繋がれば、会話がなくても警官は来てくれるって流れだな」
「な、なるほど……」
「もし親父がここへ来てしまったら、通報して逃げるだけでいいって、可澄と母さんにも言ってある。戦ったり、言い負かす必要はない。ただ、逃げればいいだけ」
「つ、つまり、お父さんは何かしらの行動を起こした時点で」
「詰みだ。周りと協力していれば、勝つための手段は戦いでなくていい。それでも何かをしでかそうっていうのなら、その代償がどれほど高いか、身をもって知ってもらうことになるが」
 要するに後手にはなるが、環境を味方にすることで、どう転んでも負けない状況を作っている、ということなのだろう。
 美桜は額に手を当てて、大きく息を吐く。
「これも一つの位置覚というか……。節々で感じてはいましたが、つくづく敵に回したくない人ですね、貴方は。大人びているというより、これが素だと思いますよ、千知さん……」
「俺も必死なだけだ。椎名と方向性は違うが、頑張ってはいるつもり」
 航はそう言い、少しやるせなさを滲ませて、肩をすくめた。
 美桜はその仕草に申し訳なさを覚えつつ、話題を元へ戻す。
「ええと、勝つためにはロケーションが大事だということは分かりました。でも、それって、実現可能なことなんですか?」
「まあ、俺と椎名だけだと不可能だな」
「え」
 あまりにあっさりと答えが返って来たので、美桜は唖然としてしまう。
 だが、一方の航は至って平常運転だ。
「単純な話だ。俺と椎名だけでどうにもならないなら、誰かの手を借りよう。幸い、面白がって乗ってくれそうな人に心当たりもある」
「そんな人、いましたっけ?」
 航は軽く両肩を上げて、苦笑するだけで誰とは言わない。
「据え膳は俺が用意するから、当日、椎名は好き放題、暴れてくれればいい」
「好き勝手やるだけ……ですか?」
「ああ。難しいことは何もない。今までの鬱憤を晴らしてやるぞー、ていどに構えていてくれ」
「き、気楽すぎませんかっ!? そもそも、ロケーションって、いつのどこなんです!?」
 動揺する美桜に、航は片目を閉じ、右手の人差し指を立てて不敵に笑って見せた。
「週明けの金曜日、午後十七時。場所は、株式会社京塚ストラテジーの五階、社長室」
 唐突に出て来た具体的な指定に、思わず美桜の声が上擦る。
「えっ? それって」 
「ちなみに椎名は会社のセキュリティカードを持ってるんだったな?」
「持ってはいますが、レベルは『1』ですよ?」
 美桜は混乱するが、一方の航は人の悪い笑みを口端に浮かべるだけだ。
「持っているなら、それで充分。……そこが椎名の最後の戦場だ。当日は、大いに暴れて来るといい」







「およよ? 航君、何かいいことあった?」
 美桜と約束を交わした週明けの月曜日。
 航は契約先……株式会社京塚ストラテジーの正面玄関で、真代から唐突にそんなことを言われ、驚いて顔を上げてしまった。
「いいこと、ですか。うーん……」
 航はここ最近の記憶を掘り起こし、沸き上がる感情を感じながら頭を掻く。
「そうですね。ありました。嬉しいこと」
「へえ、いいじゃない、ハイスクール! 春先から表情が明るくなってきたなーって思ってはいたから、よかったよ!」
 そう言って背中をバンバン叩いてくる真代は以前と変わらず、柔らかなパーマをかけたショートカットだが、やや毛先をいじったらしく、それらが左右へふわりと跳ねていた。
 真代は毛先を掴んで苦笑する。
「こっちはちょっと、失敗しちゃってさ〜。髪先に同じようなアレンジ入れちゃって、ヘンに目立つんだ。あんまり、可愛くないよねー」
「別に、それはそれでいいと思いますけど。真代さんは、最近どうです? 仕事やってます?」
「やる気は充分だよ! ただ、仕事は回してもらえないし、数字至上主義、勝利至上主義には拍車がかかりつつあるねー。下請けさんが悲鳴を上げてるよ。正直、私の仕事よりそっちを解決する方が急務」
「全部、社長が一人で決めようとして、役員がゴタゴタしてる、とか?」
「お、ハイスクールが踏み込んだこと言うね。まあ、いつか外へボロが出る状態だよ、これは」
「な、なるほど……」
 想像より大分切迫しているらしい状況に、航は驚きながら、作業報告書を真代へ差し出す。
 真代は、「ん」と受け取りながら、内容を確認した。
 航は、「さて、ここからが本番だ」と内心で覚悟を据える。
 美桜に提示した、「週末、十七時に社長室」の約束を果たすためには真代の協力が不可欠だ。
 だが露骨にそれを求め、彼女が応じたとなれば、社内で問題となってしまうだろう。
 今だって、正面玄関の監視カメラで録画されているだろうし、出入りのある業者の人間から、真代が良からぬ接触を受けていたという証拠を残すワケにもいかない。
 だから、いざとなったら言い逃れができるような、自分達にしか分からないような暗号というか、合言葉というか、そういうものが必要だ。
 航は覚悟を決めて、口を開く。
「ところで、真代さん」
「はいはい」
「次、俺がこのビルへ清掃に入る日って、知ってます?」
「んー? 週末の金曜だね。今日は清掃業務が主だったけど、その日は全階のマットやモップの交換がある日」
「ええ、その通りです。で、その日なんですが」
「?」
 航は、四月に交わした会話を思い出しながら、さらっと言った。
「サイバーパンク探偵ごっこ、しません?」
「え?」
 その言葉の意味が、真代にどこまで通じたのかは分からない。
 ただ、美桜が五階の社長室へ入るためには、そのフロアのセキュリティが解除され、当日、航の持っているゲストカードや美桜の持つレベル『1』のカードでも、それらのドアが開く状況になっていなければならない。
 そうなると航と美桜だけではどうにもならず、協力者が必要となるのだ。
 真代は、「ふうん」と低いトーンの声で息を漏らし、薄く口元へ笑みを滲ませた。
「まあ、謎の天守閣は気になるよねえ。でも、それ以外にも何かあるのかな?」
 横目で悪戯っぽく見られ、航は目を逸らす他ない。
 真代へ伝わればいいのは、「サイバーパンク探偵ごっこ」をするために、五階のセキュリティを解除して欲しいということだけだ。
 流石に美桜が社長室へ入ることまでを、彼女が察することはできないだろう。
 そうやって双方が持つ情報に食い違いを持たせ、肝心なところを、ぼかしておくのが、ベストなのだ。
 それが航の思惑だったのだが、真代は首を横に振り、両肩をすくめて見せた。
「それはできないかなー。私って、給料をもらってる社員さんだしねー」
「そう……ですか」
 その解答に航は結構がっかりする。
 この人なら、乗って来てくれると思っていたのだが。
 結構、表情に影を落としてしまっていたらしく、真代は面白そうに笑ってボールペンを手に取った。
「あはは、初めて見たよ、航君のそんな顔。……いい出会いが、あったんだね?」
「……」
「心配してたんだよ? ハイスクール。年齢に見合わず、悟ったようなところあったから、あんまりいいことじゃないなーって」
 ボールペンを手元でクルリと回す。
「でもまあ、今の君は好きだよ。だから、自由にやればいいじゃないかな?」
 そう言って、航へ突き返してきた報告書には、『里中真代』のサインが入っていた。
 航が改めて真代の顔を見ると、一度、悪戯っぽく赤い舌を小さく出して、微笑む彼女がいる。
 航は、ずっと気になっていたことを聞いた。
「あの、真代さん。少し、教えて欲しいんですが」
「お? 何、新社会人みたいなこと言い出して」
「以前、何かやらかして仕事を回してもらえなくなった……みたいなこと言ってましたけど、何をやったんですか?」
 航の問いに、真代の表情が露骨に歪む。
「あ、あー。それか。うーん、まあ、この局面で黙っているってのヘンか……」
 真代は空咳を一つ挟み、懐古した。
「あれは……入社したての四月だった。日々、仕事を覚えようと頑張ってた私は、あることに気付いちゃったんだ」
「あること?」
「そう。いつも、夕方の十七時くらいになると、社長室へ一人の女子高生が入って行って、ずっと出て来ないこと……」
「……ん?」
 何か、色々と思い当たった航だったが、同時にかなりイヤな予感が脳裏を満たしていく。
「そしてある日、見てしまった。社長室から出て来た、その女の子が泣いていることに……」
「ちょ、ちょっと、待って下さい! それは、きっと……」
 航の制止も構わず、真代は芝居がかった調子で独白を続けた。
「これはダメだ! と思った。私も以前は学生だった身。何に困っているのか知らないけど、それはいけないと」
 航の背筋に冷たい汗が流れる。
「で、気が付いたら、女の子が入った後の社長室のドアを蹴破って、『そこまでだ! それ以上のパパ活は許されない! 不純異性交友を持っているなら、言語道断!』って言っちゃってた」
 航は口を開いて、ただただ唖然とする他ない。
 一方の真代は、もう一度、ちろりと舌を出して、後頭部を掻きながら苦笑するだけだ。
「ま、フタを開けてみれば、二人は親子で、進路で揉めてただけだったんだけどねー?」
「よくクビになりませんでしたね!? 仕事回してもらえないていどで済んだなら、まだ幸運ですよ!?」
「まあ、それがあってから、社長にはすこぶる嫌われてるけどね! それこそ、蛇蝎の如く!」
 予想外の事情が出て来て、航は頭を抱えてしまった。
「そりゃ、そうでしょうよ……」
「冷静になって考えれば、そうだよね。ドアの鍵開けたまま、淫行に走るはずがない。バーンって、蹴破ったし」
「言葉を選んで下さい! 新入社員が社長にそんなことって。むちゃくちゃだ……」
「あはは、まあ、そうだよね。今、言葉にして改めて、私もそう思った」
 今、こうなってしまっている経緯を理解した航は項垂れ、真代は背中を向けて歩き出す。
「ま、つまり、無茶が許されるのは、ハイスクールまでってことだよ」
「え?」
 フロアを歩く真代の背中が、遠ざかっていく。
 真代は背中越しにひらひらと手を振った。
「じゃあね、ハイスクール! 年頃らしく、無謀に生きてくれると、私は嬉しいな!」
 そして、そんな捨て台詞を残して、真代は所属する部署のある二階フロアへ戻って行った。 







「ふん、つまらん」
 そして迎えた週末、金曜日の午後十六時四十五分。
 取引先での会議を終え、自社の駐車場へ戻り、社有車のエンジンを切った椎名重弘は、不機嫌そうに愚痴を零した。
 資産価値と節税を兼ねた高級車で、乗り心地はいいのだが、如何せん、下らないやっかみを受けることが多く、重弘個人から見ればデメリットの多い車だ。
 買った値段と使う年数、そして売却する値段などを考えると、出て行く金額は確かに大きいが、高すぎるほどでもない。
 だが、それを理解せず、「ずる賢く、金に汚い男」と他者を評する人間のなんと多いことか。
「今日の会議もそうだったな。まったく、下らん。物事の本質を見ていない」
 重弘は唾を吐きかけるかのような口汚さで文句を言いながら車から降り、ドアを閉める。
 同様に、テレビやネットを通した情報は、事実を元にした誇張が目立ち、非効率極まりないとも考えた。
 会社のホームページなどには、可能な限り正確な情報を乗せているし、更新もさせているのだが、取引先で「随分、儲けているんですねえ?」と手を握られた時の、怖気たるや、思い出すだけで悪寒が走ってしまう。
 そんなことを考えながら、顔を上げると、正面玄関へ続く道の途中に、三人の若い男女がいた。
 正確には、たむろっていた。
「何だ、あれは?」
 重弘の口調が一段と苦くなる。
 男一人、女二人の三人組で、男は痛みと穴の目立つ黒のアウター姿で、一見して髪にシラミでも飼っているかと問いたくなるようなみすぼらしい風貌だ。
 女の方も、一人は胸元まで届く派手な金髪と右耳にピアス、そして灰色のジャケットを着て、一昔前でももう少しセンスがあったと言える珍妙な形のサングラスをかけていた。
 最後の一人も、何かを勘違いした雑な輪切りジーンズに、薄汚れたけばけばしいピンクのシャツ、不自然に存在を強調する大きなまつ毛を付けているが、白いハンチング帽だけは、奇妙に品がある。
 重弘は威圧感を滲ませて、問う。
「なんだ、お前らは。ここは下品なコンビニの駐車場じゃない」
 男が、ヘラヘラ笑いながら、答えを寄越した。
「そっちこそ、誰だよ、おっさん。俺ら、ここでガム食ってるだけじゃねーか? 犯罪か? あ?」
 如何にも軽薄な言葉に、重弘の頭に血がのぼる。
「常識がないのか、お前らは。いちいち、ガムを噛む場所すら、マニュアルに書かれていないと何もできない人間なのか?」
 金髪の女が嬉々として食いついた。
「え? そんなマニュアルがあんの!? やばっ、欲しっ! おっさん、売ってよ、あたしらにさ! このジャケットと交換でどお!?」
 その甲高い声に重弘は頭痛を覚えつつ、あっちへ行けと手を振る。
「ふざけているのか、頭が悪いにも程がある! 自分で考えろ!」
 思わず怒鳴ってしまった重弘だったが、ハンチング帽の女が馴れ馴れしくすり寄って来た。
「やだぁ、ケチ! こわぁい! でも、カバンのメモ帳でもいいから、アタシにくれると嬉しいかなぁ? ジャーナリズムが騒ぐんだぁ?」
「ジャーナリズムが聞いて呆れる! ええい、警備員は何をしている!?」
 重弘は苛立ちを隠さず、正面玄関に併設されている警備員室へ視線を向ける。
 すると、その窓口には、童話の世界から飛び出してきたかのような、メルヘンチックな赤いフリルがたくさん付いたドレス姿の、小柄な少女が警備員と話をしていた。
 少し、舌足らずで、たどたどしい会話が聞こえて来る。
「だから、ここにお婆ちゃんを食べたオオカミさんがいるって、私、聞いたんですぅ!」
 初老の警備員が戸惑いを隠せないまま、対応した。
「い、いや、オオカミと言われてもね? というか、お嬢ちゃんは、行く場所を間違っていると思うんだ」
「ど、どこだって言うんですかぁ? お婆ちゃんを食べられた赤ずきんに、帰る場所なんてないんですぅ!」
「う、うん、そうだね? でも、そうじゃないとおじさんは思うんだ。その、ご両親か、病院へ連絡を……」
 そんな押し問答が繰り返され、重弘の頭痛が激しいものになる。
 なんだ、この状況は。
 バカは、やはりバカを呼ぶのか。
 付き合っていられない。
「ぺっ!」
 心境のまま、重弘は駐車場へ唾を吐き、悪態をつく。
「いい加減にしろよ、ガキども。聞き分けのないことを言えば、大人がいつまでも構ってくれると思っているのか?」
 重弘の言葉を聞き終えたアウターの男が腕時計を見て、小さく呟いた。
 その声は、不思議と静かだ。
「十六時五十四分……。ま、こんなとこか」
 男がちらりと金髪の女へ視線を投げ、女は小さく頷き、再び重弘へ向かい合う。
「だねー! ごめんねえ、おじさん。綺麗な駐車場だったから、つい入り込じゃったんだあ?」
 ハンチング帽の女が頷いた。
「そうそう! 蛾は眩しい光に群がるってぇ?」
「何を言っているんだ、お前らは!? さっさと消えろ!」
 再び怒鳴ってしまった重弘だが、三人は特に意に介した様子もない。
 やがて、警備員室の前にいた少女も合流する。
「ごめんねー、待った? 次は落とした斧を探して、別の泉へ行きたいなあ?」
 重弘から聞けば、意味不明も極まった言葉だったが、四人は満足そうに頷き、駐車場出口へ向かって歩き出した。
 嵐のように現れ、去って行った四人の背に、重弘は心の底からの忌々しい視線を投げ付ける。
 そのまま、正面玄関から会社へ入り、慇懃無礼に頭を下げる要職持ちや社員達とすれ違った。
 苛立ちを抱えたまま、エレベーターで五階へ移動し、社長室へ入って、セキュリティのロックを掛けた後、ようやく一息つく。
「ふん。つくづく、下らん。どいつもこいつも、バカばかりだ」
 誰にも届かない愚痴を言いながら、執務机の上の書類の処理を始めようとした時、ドアのセキュリティが外れる、「ピッ」という電子音が響いた。
「誰だ? 俺がここにいる時は、ここへ誰も入れるなと言ってあるのに……」
 口調には明らかな不快感が滲んでいたが、ドアを開いて現れた人物の姿を見て、書類を持っていた手が止まる。
 社長室へ入って来た、白いシャツとメイビーとグリーンのスカート姿の人物は、にこりと笑って挨拶した。
「こんばんは、お父さん。お仕事の進捗はいかがですか?」
「美桜……? なぜ、お前がここにいる?」
 重弘は状況が理解できず、気持ちをそのまま口にして、戸惑いを見せる。
 美桜は、もう一度、目を細めた。
「さて、どうやってでしょう?」
「お前の持っているカードキーのセキュリティレベルは、『1』だろう? ここは、『4』だ」
 その質問に、美桜は不敵に目を伏せて、口元に微笑みを浮かべるだけだ。
「それも含めて、話をしましょう、お父さん。……最後の進路相談です」
 社長室の壁掛け時計は、ちょうど十七時を指していた。







 少し、時間はさかのぼる。
 駐車場を出て、距離を取った四人は緊張を解いた様子で肩の力を抜いた。
「へっ、なかなか、キモの冷える仕事だったな?」
 わざとボサボサにしたカツラを取りながら、凌太は悪戯っぽく笑う。
 その言葉に金髪の女、こと瑠衣が渋い表情でサングラスを外した。
「ふん、道化もいいところ。ナメられるのは趣味じゃないのに」
 ハンチング帽の女、凪紗がピンクのシャツの裾を掴みながら、悪戯っぽく喉を鳴らす。
「えー、でも、楽しんでたっしょ? ただナメられるならアタシもイヤだけど、本当にちょろまかしてるのは、こっちなんだし?」
 最後に、赤ずきんのような恰好の小都が、少し恥ずかしそうな表情で感想を述べる。
「な、何だか不思議な気分だったね? バカにされるのが目的って分かってたら、そうされても意外と平気だったし」
 瑠衣が、「くっく」と笑った。
「いやしかし、堂に入ってたね、小都? 日々、そういう妄想でもしてるとか?」
「し、してないよ! 楽しくはあったけど、そういうイメージは持たないで!」
 必死に否定する小都を見て、三人はまた笑う。
 やがて、凪紗が凌太へ問いを投げかけた。
「森嶋もむちゃするねえ。バスケ部のエースがここまでやるなんて、思ってなかったよ?」
 凌太の口調は軽快だ。
「ま、危ない橋ではあるけどな。断るワケにもいかねーよ。……だって」
 一度句を切った凌太に、三人は首を傾げる。
 凌太はウィンクして答えた。
「航とは三年以上の付き合いだけど、頼られたのは初めてだったんだ。『社長室には十七時に居て欲しいから、それより早く帰って来たら足止めして欲しい』なんて意味不明なものでもな?」
 小都がため息を吐いて、苦笑する。
「本当に意味が分からないよね……。佐崎君、聞いても答えてくれなさそうな感じだったし」
 瑠衣は眉間をとんとんと叩いた。
「つーか、佐崎は何で、社長の車種とナンバーを覚えてたんだ? こっちとしては、一目でターゲットが分かって助かったけどさ」
 小都が航との会話を思い出しながら、答える。
「誰かから何かの役に立つかも、みたいなことを言われたからって。でも、覚えるかどうかは別問題だよね……」
「まあ、そういう所が航なんだけどな……。つーか、俺から見ればお前らが、頼みを飲んだ方が驚きだ。なんか、事情でもあったのか?」
 凌太の問いに瑠衣は鼻を鳴らし、そっぽを向いて言った。
「……別に。椎名には借りがある。いつか返すって約束してたから」
 その素直ではないリアクションに、凪紗は小さく笑った後、腕時計で時刻を確認する。
 針は、「十六時五十八分」を指しており、航と美桜がいるであろうビルを一度だけ振り返った。
「ブン屋のリテラシーってね。野暮なことは聞かないよ」
 そして、最後にハンチング帽のツバを右手の指先で撫でながら、
「……頑張れ、美桜」 
 と密やかに呟いた。







 更に別の時間、別の場所にて。
 ビル二階フロアの壁時計が、「十六時四十五分」を指した時、窓から駐車場を見下ろしていた真代が神妙な口調で呟いた。
「およよ、遂に社長のお帰りかあ。さてさて」
 手に持っていたカップコーヒーを乱暴に飲み干し、「ふぅ」と息を吐く。
 定時が近くなってはいるものの、先輩社員達は忙しくフロアを動き回っており、真代へ注意を払う者はいない。
 真代は大きく背伸びして、こきこきと肩の骨を鳴らした。
「じゃあ、始めますか」
 そう宣言して、自身のパソコンデスクの前に座る。
 デスクトップ上に並んでいるアイコンの中から、自社開発のセキュリティソフトを選び、社員一人一人に付与されているログインIDとパスワードを入力する。
 立ち上がって来た画面を確認し、真代は腕まくりをした。
「ふむ、万事、事も無く平穏かな」
 ソフト自体は中小企業向けのもので、レイアウトは単純だ。
 画面は四分割され、防犯、防災、ドアの入退出とセキュリティログ、最後に出退勤管理へのショートカットメニューが並んでいる。
 真代はドアの設定へ進み、セキュリティレベルやリアルタイムで入退出のアクセスログが横で流れ続ける画面を確認した。
 ここまでは、一般社員でもアクセスできる範囲だが、目的のセキュリティレベルの変更画面は、もっと先だ。
 その深部へ触れるには、まず技術者専用のメンテナンス画面へ進み、設定を変更する必要となる。
 自社システムではあるが、セキュリティ管理は厳しく、社員のパソコンからサーバーへアクセスしてもログが残り、逆にサーバーから社員のパソコンへアクセスしてもログが残る。
 そして、そのセキュリティレベルを元としたドアの入退出も常にログが保存され、常に同期を取り合っている。
「つまり、三すくみ。どれかに異常が発生したら、すぐに警備会社へ連絡が行く……と。困った、困った」
 ちらり、と壁時計へ視線を投げると時刻は、「十六時四十八分」を指していた。
「目的は簡単なんだけどねえ……」
 真代は背もたれに体重を預け、ギシギシと音が鳴る。
 五階フロア、セキュリティレベル『4』のドアを一時的に解除し、どのカードでも開けられるようにする……それだけだ。
 技術者専門のメンテナンス画面へのアクセス方法も簡単で、キーボードの決められた4つのボタンを同時に押せばいい。
 そんな仕組みになっているのは、導入してもらった一般企業の社員さん、パートさんが間違って触れられないようにしているだけで、コマンド自体なら京塚ストラテジーに所属している人間なら誰でも知っている。 
「もちろん、社外秘ではあるけど。問題はアクセスするとログが残ることなんだよね……」
 もし、それを元に、『里中真代』が特定され、処分を受けたとなれば、航が、『サイバーパンク探偵』と表現をぼかした意味がなくなってしまう。
 彼の懸念を避けるためには、三か所で同時に取っているログをどうにかしなければならない。
「ま、もちろん、そんなのは無理。なら」
 真代は両手を手術前に、「メス」という医師のように広げた後、画面を一旦、縮小化し、セキュリティソフトのレジストリを開く。
「システムのデータベースそのものをいじって、一定時間、五階フロアだけログが残らないプログラムに書き換えればいい、と」
 画面に表示されたツリー上のファイルを開き、もう一度、息を吐いた。
「さて、能ある鷹が爪を見せますか……!」
 真代はそう宣言した直後、目を見開き、高速で的確にレジストリの数値を変更して行く。
 キーボード上を絶え間なく指先が走り、一つ一つのファイルを選択して、書き換えていくスピードに迷いは無い。
「伊達に一年、社内で放置されてたワケじゃないってね。どこをいじれば、どうなるかていどは分かってるし。正確には、どこを触ったら壊れるか、だけど。……いやー、パソコンのレジストリいじるなんて、学生時代以来かなー?」
 その頃、スクラップにした中古パソコンの数は記憶にもないな、と苦笑する。
 まあ、数十は下らないだろうなあという感じだ。
 バイトしては中古パソコンを買い、壊してはまた働いて買うを繰り返した。
「まったく、何をやっていたんだか」
 そんなことを思い出しながら、もう一度、壁時計へ視線を向ける。
 時刻は、「十六時五十四分」。
 航がマットやモップの交換を予定通り進め、五階フロアへ入るとしたら、十七時以降だ。
 事前に含みを持って来た以上、その時間は守るだろうし、怪しまれないよう、五階での交換作業も、極力いつも通りに行うはず。
 その上で、『天守閣』を調べるとして、ロックを外し、ログを残さない設定が許される時間は、どの位だろうと真代は手を休めずに考える。
「長くて、五分ってところかな……。ただ、あの雰囲気だと、目的は一つじゃなさそうなんだよね。レンジを、『天守閣』に限らなかった以上、社長室にも用があるとか……?」
 思考の深さと手先の速度は変えないまま、もし、侵入者が他にもいたとしたら、それは誰だろうと考える。
 その答えはそれほど難しくない。
 一年間、彼の言動を見て来たが、それほど交友関係が広い感じではない。
 バイト先以外の社会人に知り合いはいないだろうから、繋がりがあるとしたら、同年代。
 となると、彼と同じ学校の生徒と考えるのが妥当で、なおかつ、『社長室』と関わりがある人間と言ったら、一人の少女しか思い浮かばない。
 航の表情に変化が見られるようになった時期と、少女が何かと物思いに耽るようになった時期は、今年度の春だったという点も一致している。
 その結論へ至った真代は、思わず苦笑いしてしまった。
「いやあ、世間って、広いんだか狭いんだか。まあ、広いと言った方がいいのかな? ……全く、生きてると面白いことがよく起こる」
 そうこう言っている間に、変更の必要なレジストリファイルの残りが一つだけとなる。
 数値を変更し、決定ボタンを押す前に真代は口元を緩めて、微笑んだ。
「さあ、ショータイムだよ、美桜ちゃん。みんなで作った五分間、楽しんでね?」
 そう告げて真代はギターのピックを弾くように、人差し指でエンターキーを押した。
 






「進路相談だと?」
 深い警戒を含んだ重弘の言葉を受けた美桜は、足を一歩前へ踏み出して答えた。
「ええ。以前、お父さんは私に言いました。『遊んで暮らせばいい』と。その答えを伝えに来たんです」
 美桜の返答に重弘は、オーダーメイドの高級椅子へ大仰に背中を預け、鼻を鳴らす。
「ふん。ようやく意思を固めたのか」
 重弘の口調は、傲慢と偏見の入り混じった堅いものだ。
 だが、美桜は自分の心が不思議なほどに落ち着いていることを自覚しながら、頷いた。
「はい。お父さんの言う通りだと思います。私は身の程知らずな夢を捨て、お父さんの言葉に従って生きます」
 重弘の口元が吊り上がり、何かを言おうとするが、美桜はそれを制するように言葉を重ねる。
「ただし条件があります。それを満たしてくれるのなら、私は一生、お父さんに逆らいません」
「条件だと?」
 眉根を寄せた重弘へ、美桜は決然と告げた。
「簡単です。今、私がどうやってここへ立っているのか? それを推理し、言い当ててくれたなら、生涯の服従を約束します」
「どうやって……だと?」
「お父さんの得意分野はリスクマネジメントでしょう? 利益と損失を天秤にかけ、適正なバランスを保つことで、会社を経営し、成功を収めてきました。その経験を活かし、今のこの」
 美桜は両腕を大げさに開いて見せる。
「状況を説明し、私を納得させ、退室させればいい。難しいことではないはずです」
「……この状況を説明?」
 重弘は少し目線を落とし、その内容を考え始めた様子だったが、間を置かない内に、その表情が曇り始めた。
 神経質に机を指先で叩き、徐々に頬に歪みが滲む。
 美桜は隙を見て、壁掛け時計へ視線を投げた。
 時刻は、「十七時一分」だ。
 航からは、「頑張っても稼げるのは五分ていどだろう。それ以上になると、俺や協力者が疑われる」と聞いている。
 重弘が答えを出すのを待つ余裕はない。
 完全勝利し、勝ち逃げするためには、重弘に負けを認めさせることが前提条件だから、手段を選んでもいられない。
 美桜は努めて余裕ぶった声音で言った。
「答えが出ませんか?」
 重弘は苦く、重い口調で答える。
「共犯者がいるはずだ。さっき、駐車場でも妙な連中と会った。あれが時間稼ぎであったなら、他にも誰かが……」
「なるほど、その通りです。ですが、私一人で不可能なら、協力者がいるはずというていどの推理は、誰にでもできます。この場合、大事なのは誰が、どうやって、どのタイミングで動いていたのか……つまり、真相の究明です。感情の納得ではありません」
「……」
 重弘が黙り込み、額に脂汗を滲ませるが、美桜は一気に畳みかけた。
「そうでなければ、私は首を縦に振れない。お父さんの言葉が説得力を持っていたのは、私が今まで、『家』という環境にいたからです。ですが、私は先週、ケンカをして家を出ました。お父さんが会社に泊まっていたのか、『家』にいたのかは分かりませんが、どこにいたにせよ、『娘は自分の手元にいないと何もできない存在』という認識は甘かった。……それは事実ではありませんか?」
「危機感に欠けていたというのか?」
「全てを疑い、情報を集め、合理的判断を下す。そのために、あらゆる出来事の原因と結果の検証を止めない。それがお父さんの強さの源です。最悪の状況を徹底的に避け、損失は常に最小限だから、周囲の人間は誰も文句を言えなかった。……結果、社長室に閉じこもり、全ての判断を委ねることを許してしまった」
「それの何が悪い? 営利が悪だと言いたいのか?」
 美桜は首を左右に振る。
「いいえ、企業として正しい選択です。ただ、お父さんは一人で決めることに慣れ切り、それで全てが片付けられると思い込んでしまった」
「実際、そうだろう。だから、この立場にいられるし、儲けも出している」
「それもその通りです。それがお父さんの築き上げた正しさ。そして、その到達点がこの」
 美桜は右手の人差し指を床へ向けた。
「『社長室』です」
「繰り返すが、それの何が悪いというんだ?」
 重弘は苛立ちを隠さず、眉根を歪めて椅子から立ち上がる。
「悪くはありません。ですが、その場所に……お父さんにとっての聖域に、『椎名美桜』がいる。その理由と経緯を説明できず、立ち去らせるだけの説得力を持てない。それは大いに問題なのでは?」
「屁理屈を言うな! お前は黙って……!」
 重弘が声を荒げるが、美桜の心は変わらず、平静としていた。
 春の出会いから、今に至るまでの人達の言葉が、支えてくれているのだと美桜は思う。
「言うことを聞け! は、通用しません。もう一度言いますが、説得力を持たせたいなら、真相を……原因と結果を示し、私を納得させて下さい。でなければ、お父さんの正しさは成立しません」
 重弘の頬が歪み、引きつり、怒りのまま拳を机に打ち付けた。
 『家』に居た頃、感じていた恐怖を美桜の心は抱かない。
 美桜は、感情が激しさと冷静さの間を、気持ちよく行き来しているのを自覚しつつ、指摘した。
「最悪の状況を避けるのではなく、最悪の事態は起こるものという前提を持ち、行動をしていたなら結果は違っていたかと思います。自分の城へこもりきりにならず、周囲の声を聞いていれば、それは可能だったかもしれません。……ですがそれはもう、後の祭りでしょう」
 そう言いながら、時間を確認する。
 もう、残りは一分も無く、重弘は苦悶の表情を見せるだけだ。
 だが、タイムリミットを迎え、セキュリティを解除できなくなり、社長室から出られなくなってしまったら、目も当てられない事態となってしまう。
 余裕はない。
 だから、美桜は最後の一押しをした。
「私の主張は以上です。何か、反論がありますか?」
「……っ!」
 重弘は忌々し気に歯を食いしばった後、悔しさを隠さない口調で言う。
「最悪の事態は起こるもの……か。それが、俺とお前の差だと?」
「差ではなく、違いです。言葉や数字で格差をつけて争う……数字至上主義、勝利至上主義はお父さんの領域です。それが間違っているとは言いません。ですが、真相の究明ができていないこの場で、その正しさは機能していないのでは?」
「く……」
 最後の攻撃をかわされた重弘は、奇妙なおどろおどろしさを湛えた瞳で美桜を見た。
「差ではなく違い……か。小賢しい理屈を覚えたな、美桜」
「環境を変えれば、同じ言葉でも違う意味を持つということです。私の主張は今、『家』ではなく、この『社長室』で言うから説得力を持っている。……少し考えれば分かることではありますが、随分と時間がかかってしまいました」
 重弘は、「ふん」と鼻を鳴らした後、美桜の前に立ち、見下ろす。
「いいだろう。何が望みだ?」
 美桜は真っ直ぐにその目を毅然と見上げて、答えた。
「私は弁護士になります。勉強を続けたい。これは、お母さんの背を追うのではない、私自身の意思です」
 重弘は、じっと美桜の瞳を睨む。
 秒針がいくつか刻まれた後、重弘は背を向けた。
「……好きにしろ。俺はもう、お前のすることに口を挟まない」
 美桜は静かに頷く。
「ありがとうございます。私が言いたかったのは、それだけです」
 そう言い切った後、美桜はタイムリミットに焦りを抱きつつ、踵を返してドアへ向かった。
 ポケットからカードキーを取り出し、端末へかざそうとした時、背後から重弘の問いが届く。
「最後に聞かせろ。……美桜、何がお前を強くした?」
 時間がない。
 でも、その問いには答えなければならないと美桜は感じ、背を向けたまま口を開いた。
「信じてくれる人と出会えたんです。ただ、それだけです」
「そんなことのためにか?」
 美桜は幼い頃、自分を膝に乗せてくれた人を思いながら、答える。
「はい。かつて、お母さんがお父さんにそうしたように、私は私を信じてくれる人と出会った」
 端末が、「ピッ」と鳴り、ドアのセキュリティが解除された。
「私はただ、それが嬉しくて、幸せなだけなんです。望めるのならお父さんにも、あの時の気持ちを思い出して欲しいんです」
 最後に美桜はそう言い残し、社長室を後にした。





   終章 君のとなり





「もうすぐ期末試験なのに、事務所の掃除とかしてて大丈夫なのか?」
 それから二週間ほど過ぎた、七月中旬。
 初夏の光は事務所へ向かって歩く制服姿の美桜と航の肌を容赦なく照らし、道路の先にはゆらゆらと陽炎が見える。
 放課後の熱気は相当なものだが、湿気はそれほどでもなく、まあ、まだ過ごしやすい時期だと美桜は思った。
 とはいえ、肌着がすぐに汗で濡れてしまうというのも考え物で、着替えや制汗剤も持ってきてはいるが、愉快かと問われれば、苦い顔をせざるを得ない。
 美桜はため息交じりに答える。
「気分転換ですよ。ちゃんと勉強はしてますし、何とか赤点は回避できるかと……。佐崎君はどうですか?」
 その問いに航も軽く苦笑いした。
「赤点取ったら、可澄が怒るからなあ……。バイトも減らされるし、頑張ってはいる」
「勉強に限って、果報は寝て待てとはいかないのが辛いところです」
「全くだ。寝てお金がもらえる職業とかあったら、いいんだけど」
「以前もそんなこと言ってましたね……。人類が死滅しますよ。生ける屍です」
「冗談だって。そんな怖い顔しなくても」
 航が気まずそうに頬を掻き、美桜はクスクス笑う。
 並んで歩き、美桜の首筋に汗が一滴、流れた時、航が問いを投げかけた。
「それで、親父さんとは最近どうなんだ?」
 美桜は記憶を呼び出しながら、答える。
「相変わらず、会話はほとんどありません。ですが」
「ですが?」
 美桜は目尻が細くなっていることを感じつつ、続けた。
「以前よりずいぶん、家へ帰って来てくれています」
「そっか。それは、よかった……のか?」
 航は少し悩ましい様子で唸り、美桜は頷く。
「ええ。いいことだと思います。何となく、雰囲気も変わったように思うので」
「ふうん?」
「あの、それで、私からも貴方に聞きたいことがあるんですが、いいでしょうか?」
「うん、何だろう?」
 美桜の眉に、憂いが宿った。
「協力者さんは大丈夫でしょうか? バレてクビになったり、していませんか?」
「あ、ああ、それか。最近、本人から直接聞いてびっくりしたんだが、俺が話を持ちかけた時、バレてもバレなくても、仕事を辞めるつもりだったらしいぞ」
「え!? そ、それで、今は!? 路上生活とかになってませんよね!?」
 美桜は流石に驚きを隠せず、声が上擦ってしまう。
 航は笑ってそれに答えた。
「何でも、あの出来事から数日後、退職届を出す前に、個人的に社長室へ呼び出されて、『証拠は押さえている。腕があるなら働け』って圧をかけられたとか」
「じゃ、じゃあ……?」
「今も元気にやってるよ。スキルがあるのがバレたから、会議に現場に、引き回しの刑にあってるとか。この間も、『眠い! 眠いんだよ、航君! この時世にあって、寝る暇もない労働っておかしくないかな!?』って訴えられたし」
「は、はあ……。息災なら何よりですが、ううん?」
 首を捻った美桜に、航が疑問を投げかける。
「どうした?」
「いえ、私の周りにも最近、仕事を回してもらえるようになって、半泣きで、『社会人ってこういうものなのかな!?』と言って来た人がいたような気がしただけです。……あれ、誰でしたっけ?」
 何かが繋がるようで、なかなか繋がらない美桜に、航は何も言わないが、口元だけが小さく笑っていた。
 航は両手を上げて、苦笑する。
「飼い犬に手を噛まれたっていうのに、能力があるなら使い倒そうとするあたり、椎名の親父さんも相当にアレだと思うけどな?」
「うぅ、身内としてどうにもコメントに困るところです……。ま、まあ、それはいいとして。もう一つ、気になっていることがあるんですが」
 航が視線で先を促し、美桜は続けた。
「あの日、私がお父さんと話していた時、貴方はどこで何をしていたんですか? まだ、教えてもらっていないんですが」
「あー……。まあ、気にはなるよな、それ。うーん……」
 航は歩道を歩きながら、青空を見上げ、考えを整理して答える。
「五階フロアには社長室と、『天守閣』……『開かずの間』があったんだ。セキュリティレベルが『4』で、人の出入りはあるのに、何があるのか誰も知らない部屋が」
「そ、そんな場所があったんですか。じゃあ、そこを調べていた、と?」
「ああ。会社の裏帳簿か、機密データの入ったサーバーか。一つ行動を起こすなら、二つ以上の効果があった方がいいだろう?」
 美桜の頬が引きつり、口調が渋くなった。
「相変わらず発想が道を外れているというか、何と言うか……。結局、何があったんですか?」
 その問いに航はまた考え、言葉を選んで答える。
「あそこは、『休憩室』だった。……そういうのが一番正しいと思う」
「『休憩室』ですか?」
「ああ。窓があって、机があって、ベッドがある。……それだけの部屋」
 美桜は自らの顎に手を当て、少し考えた。
「つまり、お父さんは自分が疲れて、休んでいる姿を誰にも見られたくなかった、と? それだけのために、最高セキュリティレベルの部屋を作ったんですか?」
「そういうことになる。……そういうものだと、思う」
 含みのある返答に美桜は内心で首を傾げながら、納得する。
 言われて見れば、父親の弱っている姿を目撃したことはないし、それを娘にすら知らせていないのだから、部下へなど言語道断というところなのだろう。
「全く、強情なお父さんです」
「本当に。……ただ」
 呟くように言う航の声は密やかだ。
「机の上には、写真立てがあった。……優しそうな人が写ってた」
 そして、航は美桜の横顔を覗き見る。
「椎名も成長したら、あんな女性になるのかもしれないな」
「え、それって……?」
 航は正面へ視線を戻して、言った。
「いつか、分かることさ。マットの汚れが少なくなって、家へ帰ることが多くなった。……今は、それでいいんだと思う」
「?」
 美桜はよく意味が分からず、頭に疑問符を浮かべたが、航はまた、苦笑するだけだ。
 美桜が追う航の視線の先では、街路樹のポプラの並木が初夏の風に吹かれて揺れている。
 自分達と同じように放課後を迎えた学生の姿がちらほらと見られ、雑居ビルのテナントから白いワイシャツ姿の男性サラリーマンや、事務職と思しき、若い女性が正面玄関で水を撒いている。
 隣を歩く航の足は止まらない。
 不意に、美桜は色々なものが終わったのだと思った。
 奇妙に寂しい気持ちになったが、通り過ぎればこういうものという気もした。
 ふと気付くと、隣を歩いていた航がこちらを見て立ち止まっている。
 美桜も足を止めた。
「どうかしましたか? 事務所はもう、目の前です」
 航の表情は穏やかだ。
「椎名」
 改まった声に、美桜は思わず姿勢を正し、口元を引き締めてしまう。
 航の口調が優しいものでなかったら、緊張していたかもしれないと美桜は思った。
 航は大きく息を吸って、吐き、顔を上げて言う。
「俺はきっとこれから、椎名にたくさんの理不尽や苦労を強いるんだと思う」
「……はい」
 美桜はゆっくりと頷き、航もその目を見て言葉を紡ぎ続けた。
「ヘンな目で見られることもあるだろう。俺は椎名からもらってばかりだし、何を返せるか分からないけど、出来る限りのことはする。だから」
 航は右の手の平を差し出して、目を伏せる。
「椎名にはいつも隣にいて欲しい。俺の望みは、それだけだ」
 その言葉を聞いた時、美桜の胸に、多くの記憶が去来した。
 父が会社の仲間とケンカをしていた夜の大声、母の膝に乗って感じていた温もり、凪紗にもらったネックレス、瑠衣や小都のいざこざ、真代と乗った社有車、可澄と千知とのやり取り。
 今まで脈略のなかった出来事が唐突にひとつながりとなって、四季の移ろいのように美桜の心を一杯にする。
 その中でも、航と出会った日の記憶は胸の奥で、色あせることのない密やかな花だ。
 最初は何でもなかったのに、時間が流れるほどに彩を増す、不思議な花。
 彼にとっても、あの日の記憶がかけがえのないものであるのなら、これ以上望むものはないと美桜は思った。
 どうか、その輝きが、その心を満たし、胸で刺となっているであろう悲しみも、春の雪のように溶けることを願うだけだ。
 そのために、自分のできることを精一杯やる。
 そこから始めるのが正解で、そして全てだ。
 今、胸をよぎっている感情がきっと、幸せと呼ばれるので、そこへたどり着くなんて簡単なことだったのだと思う。
 難しいものなんて、何もない。
 誰の隣にいたいのかを心に定め、その祈りのまま、移ろい、巡って生きていけばいい。
 美桜は、頬を林檎のように赤く染め、少しでも嬉しさが伝わるよう、目尻を細めた。
「はい。……困ったことがあったら、言って下さい。いつでも力になります」
 差し出された手へゆっくりと、自らの指先を重ねる。
「そして願わくば、貴方の未来が幸多きものであることを」
 最後に美桜はそう答え、目元を緩めて微笑んだ。





   エピローグ 彼方まで続く夢





「今頃、アニキと美桜さんは何してんだろ……?」
 八月を目前に控えた、七月の下旬。
 燦々と陽の照るアパートのベランダで、可澄は空を見上げながら一人、呟いた。
 コンパクトサイズの物干し竿で色とりどりのティーシャツが風に揺れ、うなじより少し長いていどの髪先が日光の熱を宿す。
 横では古くて大きめの室外機がごうごうと唸り、エアコンが室内を冷やし、広がる空はどこまでも青い。
 可澄は手すりに肘を立てて苦笑した。
「しっかし、赤点回避したと思ったら、即遊びに行こうって誘う美桜さんも凄いよなあ。しかも、特急で三つ離れた地方都市とか……」
 リビングで一緒に夕食を摂っていた時、唐突に美桜が言い出した後の兄のリアクションは忘れられない。
 兄は、ぽかんとした後、「え?」と、心の底からの動揺と戸惑いの声を漏らしたのだ。
 その声音は初めて聞くものだったので、可澄は思わず笑ってしまったのだが、さもありなんだ。
「ま、近場の外出だとアニキが悩むからなあ。知らなきゃ行かないようなマイナーな場所を選ぶって発想は、正しくはあるんだけど」
 詳しい場所まで聞いてはいないが、あの兄が納得したというのだから、美桜もかなり気を使ったはずだ。
 だが、父親の影を意識せず、自由に楽しめる場所であるのなら、兄の心も休まるだろう。
 これからの兄にはそういう時間が必要だ。
 それらを積み重ね、心が移ろう時間を持って、変わっていけたらと可澄は願う。
 ふと振り返り、視界へ入るリビングに人の姿はない。
「母さんも、泊まりでパート先のおばちゃん達と温泉旅行だし。いきなり、一人の時間ができちゃったなあ」
 可澄はもう一度、苦笑して頬を掻く。
 母もまた、出掛けて家にいないのだ。
 パート先に友人くらいいるだろうと思っていたが、温泉へ誘われたと相談された時は、正直驚いた。
 そんな風に誘ってくれるほどの仲だったこともだし、行きたいと言ってきたことが、可澄には何より嬉しかった。
 きっと、それは兄も一緒だったのだろう。
 行き先をしっかり聞き、大丈夫だと判断した後、兄は首を縦に振った。
 兄の表情はいつも通りだったが、大きな肩の荷を下ろしたようにも見えて、可澄の胸にも安堵が滲んだ。
 そして今、家には自分以外、誰もいない。
 可澄は、「はあ」と大きく息を吐いた後、空を見上げて目尻を細める。
「ああ、これで、オレの夢も叶ったなあ」
 そう呟くと意図せず、頬を涙が流れ落ちた。
 美桜に語った、佐崎可澄の夢。
 それは家に誰もいないこと。
 記憶を掘り起こせば、いつでも家に誰かがいた。
 父か、母か、兄がいた。
 こっちへ引っ越して来て、母や兄が仕事でアパートにいないことはあった。
 その時、可澄は一人だったが、それは冷たい孤独の時間で、一人きりで、胸がきしむように痛かった。
 だが、今は違う。
 遠く視界の先では空と街が滲んで混ざり合い、不確かな像を描いている。
 そうやって、何かを曖昧にできることが可澄には嬉しかった。 
「今日は、みんないないから。……ああ、幸せだなあ」
 そんなことを言う間にも、涙はとめどなく流れ続ける。
 家に誰もいないことが嬉しくて、可澄はベランダで空と街を見ながら一人、泣きじゃくる。
 なんて幸せな孤独なんだろう。
 どうしてこんなに胸が満たされるんだろう。
 なぜ涙が止まらないんだろう。
 可澄は、その問いの答えを焦らない。
 もう、その必要はない。
 だってこの先、兄の隣には美桜がいて、美桜の隣には兄がいることが分かるから。
 だから可澄は安心して、一人で泣く。
 そして、そんな泣き方をするのも、今日で最後だ。
 やがて、可澄は泣きはらした顔を上げ、涙で滲む視界を腕で乱暴に拭った。
 頬に涙の跡が残る顔で精一杯、微笑む。
「へへっ、次の夏がもう、来てるんだな!」
 その瞳には青く、広く、果てしない夏の空が映っていた。
サイド 

2021年04月11日(日)18時03分 公開
■この作品の著作権はサイドさんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
こんにちは、サイドです。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。

気になっている点として、小学館ライトノベル大賞(ガガガ文庫)へ応募予定ですが、航の過去など重い描写もあるため、ライトノベルとしてカテゴリエラーなのではないかということです。
となると、ライト文芸などになるのかなあと思うんですが、その分野がよく分かっていない状態です。
応募するのなら、このジャンルの、このレーベルに近い作品が以前あったというご意見をいただけたら、とても助かります。

前編にも書きましたが、感想、ご批判をいただいた際は、必ず感想返しをさせていただきますので、よろしくお願いいたします。


この作品の感想をお寄せください。

2021年05月17日(月)19時58分 サイド  作者レス
ふじたにかなめさん、こんにちは。サイドです。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
作者レスが遅れてしまい、申し訳ありません。
忙しいって、いやですねえ。(苦笑


>卒業アルバムのシーンは謎が深まって良かったと思いました。

楽しい休日と、その落差が出ていたならよかったです。
ちょうど折り返し地点ですし、機能はしていたのかなって感じですね。


>美桜と真代が知り合いだったので、意外な偶然で面白く感じました。

「学校内における親友ポジ」とは違う立ち位置の人物を出す(年齢差がある)ことで、多面性が出たらと思っていました。
真代は年上ぶってますが、根がダメ人間なので、航も美桜も気楽に素を出せる人物になれていたらと思います。


>主人公の過去話。

他の方のレスにも書いたんですが、ここ数年、仕事を通してこういうケースをよく見たので、僕自身の心の整理を兼ねて設定していました。
書き上げてみると、想定していた以上にエンタメから離れたエピソードになってしまいましたが、普段扱わない「暴力」というテーマを限界まで突き詰め、こういう終わり方にできて、個人的にはスッキリしています。


>美桜とお父さんとの対決。これはキレのある雰囲気が出て、よかったですね。

ありがとうございます。
四章は、航も美桜もいろいろ悩んだ後なので、「最後は祭りだー! みんなで暴れるぞー!」的なエピソードで、ノリだけ楽しんでもらえればと考えてました。
少年ジャ〇プ的な、アレです。(笑


>この解決シーンが山場かな?って思ったんですが、山場に行くまでに、盛り下げがないように感じたので、山場が弱く感じる恐れがあると思いました。

プロットを書き上げた時点で、「これ、航の過去の真相を山場にして、可澄と千知のエピソードをカットし、美桜と父親の問題を一章の時点でコンパクトにまとめれば、朝の下駄箱のシーンで『君のとなり 完』じゃね?」と思っていました。
仰る通り、盛り上げ、下げのコントロールという意味で、力を入れる場所を間違えたなというのが、今作の反省の一つですね。


>最後にハッピーエンドで、割と好みな内容だと思いました。

重いモノを抱えさせた分、僕自身も納得できる終わり方にできて、ホッとしています。
偏った方向へボリュームを出した作品でしたが、マックスまで出した分、今後はコントロールできそう……な気がします。
できたらいいなあ、うん。(願望


>美桜ちゃん、赤点回避したみたいですけど、勉強だけはちょっと心配でした(^_^;)

美桜は父親との関係や、目標を話せる存在がなく、力が出せなかっただけなので、今後は伸びていくと思います。
作中にもありますが、「困難ではあるけれど、時間と手間がかかるだけで、不可能ではない」精神ですね。
結構、図太いというか、ふてぶてしいところもありますし。(笑


>御作が恋愛小説なら無くて大丈夫かなぁって?って気になりました。

感覚としては恋愛小説というより、ドキュメンタリーみたいな感じで書いていたんですが、それにしても仲良くなるまでのエピソードとか、糖度とかいろいろ足りていないですよね。
確かに、一緒に勉強するシーンとかは入れればよかったです。
同じ課題について考えても、全然違う発想が出て来て、すれ違ったり、ぶつかったりさせた方が感情移入できますよね。
というか、学園モノってそういうモンだぞ、俺。(汗


>彼が苦しんでいるわけじゃないのに特に理由なく踏み込んでいいのかな?とも思いました。

ここは失敗だった点です。
美桜が航のプライベートへ踏み込む際、「美桜=読者のアバター」みたいな感覚でいたんです。
「アルバムの件はあったし、読者の方は航の過去に興味を持ってくれているはずだから、航が話すなら、無条件に聞いてくれるはず」みたいな僕自身の思い込みですね。
航が苦しんでいて、美桜がそれを助けたいと思うエピソードとかあれば、もうちょっと違った気がしますね。


>また、話のメインが「美桜が弁護士になるのを応援する」だと思ったんですが、
>中略
>彼女が航に惹かれて彼の謎を追う話でもいいんじゃない?みたいに少し感じました。

視点が前半は「航→美桜」、後半は「美桜→航」としてしまったことで、「美桜が航の過去を追う話」なのか、「航が美桜を応援する話」なのか分からなくなったのだと考えています。
テーマが二つあるんですよね、この話。
だから、読んでいてどれが軸なのか分かりにくい。(汗

ダブル主人公の物語として、それぞれの過去を乗り越え、最後は共通の敵(美桜の父)をみんなで倒すというコンセプトだったんですが、いろいろ盛り込み過ぎた感じです。
結果、尺も長くなってしまいましたし……。(滝汗

なので、下記されている、1〜4の構造で、「美桜の物語」なら美桜のモノとして、視点をどちらかに固定すればよかった思います。
男性向けコンテンツとするなら、「メインは航が美桜を助けるエピソードで固める。それによって美桜から好意を持たれる」ことに重点を置き、「過去」はいっそカット。
家族関係に悩んでいるとしても、「可澄が思春期で接し方に悩んでいる」ていどにすれば、家庭的な面もあるみたいな感じでバランスが取れる感じがします。


>また、これが恋愛小説だと認識させるには、
>中略
>流れが必要だと思うんですが、それが御作では2と3が少し弱かった気がしました。


今、「ひげを剃る。女子高生を拾う。」とか「1LDK、そして2JK。 〜26歳サラリーマン、女子高生二人と同居始めました〜」とか、「カノジョの妹とキスをした。」とか一気読みしてるんですが、ふじたにさんの仰る、1〜4の段階をもっと踏む必要があると痛感しています。
あと、僕の作品には糖度が決定的に足りない。
もっとイチャイチャしよう。(笑


>恋愛的な心理描写が少ない気がしました。

変な話ですが、今回のような話を書くことで、恋愛的関係性重視で、糖度高め、殺伐とした事件性はなし、の小説を読むのがすごく楽しくなりました。
技術的な勉強という意味でだけではなく、単純に自分の好みってここなんだなーって。
なんやかんやで航と美桜が会話してるシーンだけでも書いていて楽しかったですし。


>サプライズで過去に転校して行った友達が遠くから誕生日に会いに来る予定だったとか

あー、確かに。
一人で判断出来なかったからと言う方が、身動き取れない感がありますね。
その方が、人間関係を大切にする感が出た気がします。


>美桜は未成年者なので、彼女を保護者の許可なしに勝手に泊めるのは、法律的にはダメだと思うんですよね

この辺り、最近シビアですよね。
上記した、「ひげを剃る。女子高生を拾う。」って、主人公が家出した女子高生を自分のアパートでかくまうって話なんですが、アニメ一話が放送された時、フェミな人達が怒りましたし。
ただ、確か一巻だったかのあとがきで、作者が、「これはそういうフィクションとして楽しんで下さい。ですが、家出した女子高生をかくまったら、犯罪です」みたいなのをしてたはずですし。


>エンタメの技術を評価シートで得られるので勉強になると思うからです。

今困っているのが、「君のとなり」は、ガガガ固定の尺で書いてしまったため、(規定原稿150枚でこの話は147枚)、他のレーベルへ出すとしたら、30枚分くらい削る必要がありまして……。
やるとしたら、「航の物語」か「美桜の物語」として固定し、大分直す必要があるので、どうしようかって感じです。
そこまでやるなら、新しいの書いた方がいいと思うんです。
特に航の過去に関しては、エンタメ受けする要素ではないので、ずるずる引っ張ってもアレかなあって。


なんか長くなってしまいましたが、たくさんのご指摘いただけて、とても嬉しかったです。
ふじたにさんの作品、選考通るといいですね。
また、何かの機会がありましたら、よろしくお願いいたします!

pass
2021年05月08日(土)19時53分 ふじたにかなめ  +10点
先日は丁寧な感想をありがとうございました!
応募も無事に終わったので、サイド様の作品を読ませていただきました。
章ごとに感想を述べたいと思います。


第二章 海老で鯛を釣る試みについて

森崎君が主人公の航について謎を提起してますね。気になりますね。
卒業アルバムのシーンは謎が深まって良かったと思いました。

第三章 貴方の声を聞かせて

美桜と真代が知り合いだったので、意外な偶然で面白く感じました。
主人公に急接近の美桜ですね。おうちでご飯、ウキウキですね。
主人公の過去話。

第四章 新しい土で咲く花

美桜とお父さんとの対決。これは仕組みを理解できなかったけど(私の頭の問題です)、面白いやり方だと思いました。これはキレのある雰囲気が出て、よかったですね。
この解決シーンが山場かな?って思ったんですが、山場に行くまでに、盛り下げがないように感じたので、山場が弱く感じる恐れがあると思いました。
何かピンチ的なイベントを起こすと良かったかもしれません。
もしかしたら、美桜の家出がそれに該当しているのかもしれませんが、美桜がどうしようって追い詰められていないので、危機感が演出されてないように感じたかもしれません。

最後にハッピーエンドで、割と好みな内容だと思いました。
美桜ちゃん、赤点回避したみたいですけど、勉強だけはちょっと心配でした(^_^;)

ただ、面白く感じるところはあるんですが、最後まで読み終えて気になったのは、4つです。
1、最初の謎解きに違和感があったこと
2、勉強シーンがないところ
3、先ほど書いた山場について
4、応募のレーベルによっては、未成年者の保護は作中で配慮が必要かも。

弁護士になりたいから頑張っている、応援するってシリアスなやりとりがあったので、これから弁護士を目指して二人で勉強するシーンがメインで出てくるんだろうなって思ったんですが、それは「最近仲が良いんだって?」って感じで、端折られていたので、二人の関係性が急接近したシーンがないのは、御作が恋愛小説なら無くて大丈夫かなぁって?って気になりました。現状では、二人が仲良くなった後に、色々と美桜が彼に関して気になるって感じだったんですよね。好きな男じゃない人のためにおめかししたり、彼の家を突き止めたり、ストーカーちっくなことはしないと思うんですよ。じゃあ、それまでに彼との恋愛的な関係性が増えた場面はあるかと言うと、ないような気がするんですよ。好きになったんだろうなって察せられるんですけどね。また、彼の過去が原因で二人の仲が進展しないわけでもないんですよね。彼の行動の謎が気になるのは共感できるけど、彼に理不尽に避けられたとか、彼が苦しんでいるわけじゃないのに特に理由なく踏み込んでいいのかな?とも思いました。

彼の家で食事したり過去を知ったりして仲が深まってはしているんですけど、彼の過去に近づく前に、彼に惹かれた場面はあった方がいいと思うんですよね。なんというか彼女の動機というか、感覚的で申し訳ないんですけど。

あと、二人の勉強シーンがなかったので、読み終わった後に、「応援するって、本当に応援するわけじゃなかったの? 頑張ってねー(俺は何もしないけど)の社交辞令だったの?」って一瞬思っちゃいました。最後に美桜の父をびっくりさせるために主人公が手助けしていますけど、その時の二人の関係性なら約束なしでも彼なら手を貸すよねって感じました。

また、話のメインが「美桜が弁護士になるのを応援する」だと思ったんですが、それとはそれほど関係ないエピソード(会社の新人さん)で後半に向けての伏線を仕込んでいたので、私自身せっかちなので、「これって何の関係があるんだろう」って不審に思いながら読んでいました。
主人公を遊びに誘うのも、「主人公の謎を解明するため」だったので、読んでいて楽しかったんですけど、その後に主人公の過去話がくるので、彼の問題がメインを食っちゃった感じがしました。だからなのか、その頃に最初から主人公は美桜にして、彼女が航に惹かれて彼の謎を追う話でもいいんじゃない?みたいに少し感じました。
もし、美桜が弁護士になるために頑張る話(成長)なら、「1、美桜の問題を描く(父に反対されている、成績が悪い)」、「2、努力と成功に近づいているシーン(勉強と成績アップ)」、「3、不安と葛藤(やっぱり父に認められず、美桜が諦めそうになる)、「4、問題解決(でも、何とか父に認められる)」って感じの流れが必要かなって思いますが、御作で1と4はあるけど、2に該当するシーンを感じず(母の事務所の掃除では該当しなかったです)、3で父との衝突を端折って家出しているのでちょっと弱い感じです。なので、それも主人公の過去に押される原因にもなっているかも?って思いました。

また、これが恋愛小説だと認識させるには、1、冒頭で関係性の話だと示唆することと、2、二人の関係性が深まる場面と心理描写と、3、二人の関係性の障害(山場の前の盛り下がり)と山場が描かれていること、4、両思いになる。って感じ流れが必要だと思うんですが、それが御作では2と3が少し弱かった気がしました。

恋愛要素があっても、ほかの部分(例えば謎解きや冒険系など)がメインなら、恋愛の心理描写は察せられる程度でも大丈夫ですけど、恋愛小説は心情の過程がメインで描かれる必要があると私は考えています。なので、御作は二人の関係性がメインならば、恋愛的な心理描写が少ない気がしました。
もし、規定枚数内に収まりにくいなら、私ならですが、メインの心理描写を削るのではなく、二人の恋愛とは関係ないシーンを駆け足気味に書くと思いました。

前回の感想で美桜を応援するといった主人公に共感しづらいと書きましたけど、彼に何か応援する理由があるけど今は言えないなら、私ならですが、「彼には応援すると決意するだけの理由があった」みたいな説明を目立つように入れて、気になる要素にするかなって思いました。

最初の「BとCが理由を言えなかった理由」についてですが、サプライズで過去に転校して行った友達が遠くから誕生日に会いに来る予定だったとか、一人の判断で真相を告白できない理由などが有れば、理由を言えなかった理由に共感しやすかったかなぁって後から思いつきました。

美桜は未成年者なので、彼女を保護者の許可なしに勝手に泊めるのは、法律的にはダメだと思うんですよね(違ったらすいません)。彼女を庇って泊めるのは共感できるので、未成年者を泊めるのは本当は法律的にはダメだと作中で説明する必要があると思いました。これは若い読者への配慮ですね。

執筆おつかれ様でした。公募、応援しております。
男性向けのレーベルについては、ちょっとよく分からないので、コメントの質問に答えられず、申し訳ないです。
ただ、GAの結果発表の後にガガガに応募できるスケジュールだった気がするので、私ならですが、最初にGAに応募して評価シートをいただいてフィードバックを増やすと思いました。エンタメの技術を評価シートで得られるので勉強になると思うからです。

自分のことを棚上げして色々と気になる点を書きましたが、あくまで個人の意見なので、合わなければ流してくださいね。

ではでは、失礼しました。

54

pass
2021年04月24日(土)22時26分 サイド  作者レス
>キャラに魅力を持たせるため主人公を深堀するのはまっとうだと思いますが、もっと世界観に近づけた設定の方が良かったように思います。


どうして航のキャラクターをこういうものにしたのかという理由は、僕自身がここ二、三年間仕事を通して、今作で挙げられているような「家庭内暴力」「離婚」「借金(作中には直接出てきませんが)」の問題を持つ方と関わり(今は別の仕事をしています)、適切に通報などがなかったら相談者の命が失われかねないみたいな、普通に生きていると触れる事のないストレスを受けたことが大きくあります。
警察、役所、相談者の方の生々しい現実と関わったことによって、大きく価値観が揺さぶられ、日常とその裏に対して、行き場のない不安や辛さを持つようになったんですが、同じ境遇におかれても幸せにたどり着く物語(主人公とヒロイン)を書くことで楽になりたかったんだと思います。
作中の航の境遇と解決法も、実際に見たケースの組み換えですが、個人的に伝えたかったのは、そういう悲惨な現実があることを嘆くのではなく、「助けを求めれば、ツラかまえの違うプロが出て来て、何らかの改善はされるし、幸せになれるケースが多い」ということだったんです。
事実を元にしたという意味で、この物語は私小説という位置づけが近いかもですね。
Wikiで調べた限りだと、「自己を掘り下げることと自分の生活を調和させる代わりに制作意欲を減退させた調和型心境小説」の枠に入る気がします。

まあ、「今まで使わなかった『暴力』という要素を使うんだし、どうせなら徹底的に突き詰めるか!」と意気込んだ結果がコレだよ! ってやつなんですが。(笑

ただ、それによって、今の自分の思う、「父親」「母親」「兄」「妹」「恋人」「親友」「罪」「罰」「恥」「復讐」「殺人」「憧れ」「夢」「救い」などが像を結んだので、今、結構肩を撫で下ろしているところです。

それらの価値観を物語を通じて明確にできたというだけでも、大きな一歩だと感じていますし、今後何かを書くことがあったら、それらを土台にできるかなーと。


>DV父との辛い過去を乗り越えた航が、困っている美桜をラストで助ける展開は熱くはあるのですが。そこに至るまでの航の過去が、足を引っ張る感じがする。

プロットを組んだ時点でも、「コレ、序盤で美桜の父親とのいざこざは解決したことにしておけば、朝の下駄箱のシーンで『君のとなり 完』じゃね? その方がスッキリ終わらない?」と思っていました。
最後に派手な大暴れシーンが欲しかっただけだったんですが、それにしたって航の過去が重すぎですよね。(苦笑


>その反面と言いますか、キャラの心理がほとんど見えてこなかった。

最近文字よりもアニメや漫画に触れることが多いから、書き方が分からなくなっているんだと思います。
心理描写の足りなさは他の方からもご指摘を受けたので、書き終えることで気持ちに余裕もできましたし、気軽な爽やかラブコメを読んで、心を洗い直したいと思います。


>読んでいて、セリフとセリフの間の地の文が苦しそうだなと、物書き目線で感じます。

はい、その通りです。
書き上げて、視点や「〜〜た」が連続していた部分を直していた時、「視線を投げかけた」って表現多いなって語彙のなさに悩みました。
上記した通り、色々読んで勉強します。


>ほんわかとした日常パートも、『もっと心理描写が欲しい欲しい欲しい!』と読んでいて思いました。

ガガガ文庫の規定が規定のwordテンプレで150枚なんですが、現状で147枚で、心理描写をガンガン削ったのが、よくなかったんだと思います。
この辺りはもう、経験のなさが露呈した感じです。


>前後しますが、ちなみに一番のお気に入りのシーンは三章中盤あたりの、美桜がストーカーを正当化しようと会話しているシーンです。

僕も作中で一番美桜が輝いていたシーンはここだと思っていましたので、ご指摘いただけて嬉しいです。
一概に、美桜のメンタルは母だけからもらっていたわけではないという点にも気付いていただけて、とても嬉しいです。
完全にヤベー奴ですよね、あそこの美桜。w


>あと真代さんの『ハイスクール?』も繰り返されるとツボってくる。

真代のコンセプトは、「気軽にグチを言い合えるダメ大人」でした。
家庭、学校では息が詰まりがちな航と美桜にとって、遠慮のない会話のできる大人の存在って必要だなというのがあったので。
でも真代自身は、「ハリウッド映画で見たカッコいい言い回し」を真似ているだけなので、「ハイスクール!」には大した意味もなかったりします。(笑


>いろいろ書きましたが、使えないと思われた部分は容赦なく切って捨ててくださいませ。

いえ、こうやってレスを書くだけでも、いろいろ頭を整理できた気がしています。
重苦しく辛い執筆でしたが、吐き出すこともできたので、今後は軽いノリでバッサバッサやっていく作品を書けそうです。
こちらこそ、読んでいただき、本当にありがとうございました!


pass
2021年04月24日(土)22時17分 サイド  作者レス
日暮れさん、こんにちは。サイドです。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。


>ボーイミーツガールというたったこれだけでもう、物語のジャンルを予測して読み始めれたので良かったと思います。

入り口でハードルを上げてもよくないと思い、ベッタベタにしました。
「君のとなり」は一人の男の子と一人の女の子の物語なので、こんな感じかなーって。

>独特な比喩に目が留まりました。
>一度読んで意味が理解しきれなくて、もう一度読んで意味を考える。そして「面白い表現をするなと」理解する。

普通の言葉で、何かヘンなことを言わせているシーンは多いと思います。
美桜が途中で使っている、「唇を失って、歯は冷たくなった」みたいに当たり前のことを言っているけど、含みがある会話を書くのが好きなので、それが出たのかと。
でも同じく格ゲーで例えると、ちょっと見えづらい中段攻撃みたいなものなので、読まれたらあっという間に対応されるとも思います。(笑


>なにやら不穏な空気……少女は何故か朝から一人で図書室にいて、会って話しても昨日と様子が違うようだし。そして残された数学のテスト用紙。(優しい導入)

この辺りはサクサク話を進める為に、ゲームのキーアイテム的な感じでしたね。
教室の雰囲気、昨日との態度の違いなどに、何かしらの予感を持ってもらうため、違和感を散りばめたシーンでした。


>次に森嶋凌太が出てきましたね。ギャルゲーに出てきそうな主人公思いの陽キャといった印象で、航にアドバイスする姿はキャラと立ち位置が分かりやすくて良かったです。


俗に言う親友ポジのやつですね。
美桜における凪紗と同じ立ち位置ですが、男だけのバカな会話をするシーンとかも欲しかった感があります。


>ちなみにこの章は、全章の中でトップ2の面白さでした。 
>この辺でちょっとだけ、俺ガイルとか氷菓を思い浮かべたりしました。なんとなく、ですけど。

第一章の目的は、「簡単な事件を起こし、航と美桜のキャラクターを伝えること」だったので、最低限の形にはなっていたのかな、と少しほっとしています。
プロットを組んだ時点で、「君のとなり」の序盤をご指摘されている「俺ガイル」「氷菓」のような、学園ミステリー、ジュブナイルに寄せていたところはあります。
それこそ、「私、気になります!」と同じ構造で、美桜がすぐ、「大丈夫ですか?」と言ってトラブルへ首を突っ込み、航が頭を抱える……みたいな方向性もあったと思います。
航は本当に普通の学生として存在し、美桜がトラブルメイカーとして事件へ首を突っ込むという物語の構造を繰り返し、第一章のようなイベントを重ね、最後は「相棒モノ」みたいな感じでフィニッシュというのが王道なんだと思います。(そうしなかった理由は後述します。


>凪沙登場。髪型は忘れてしまったけど(すみません)、随所に出てくるハンチング帽は最後まで印象に残りました。気さくな女の子。

僕自身も序盤にこんなに人数出されたら分からなくなる自信があったので、瑠衣(金髪)、凪紗(ハンチング帽)、小都(弱気っ子)と一つずつ属性を盛りました。
個人的には最後に、やんちゃさせられたので、満足な三人です。w


>雰囲気変わって美桜視点に。場面転換に違和感はなかったです。

視点の変更に関して他の方からもご指摘は受けていないので、とりあえずほっとしています。
物語の展開として、序盤は航、終盤は美桜の視点となったんですが、二人の主人公として機能していたらいいなあと思います。


>オヤジさんの取り付く島もない感じは、読んでて辛いね。『あなたの娘だろ、もっとちゃんと話聞いてあげなよ!』と思ってしまうね。


ラスボスになるヤツなので、とびきり嫌なやつを意識して書きました。
娘に対して、「損切りしたい」とか、マジで酷い。
中盤、終盤を通して、ただの話聞かない嫌な奴でもないことが伝わっていたらと思います。


>小都は結局勘違いで時間を間違えたのか……うっかりちゃんだな

小都は弱気、周りの意見に流されがちな性格なので、「う、ううん? そう……なのかなあ?」と何となく対応してしまったという形ですね。


>主人公たちが介入しなくても、ABCは自力で問題を解決して仲直りできたのではないか。

そうですね、時間をかけて話し合えば解決できるトラブルでした。
まあ、ここは、上記した「航と美桜のキャラクターを伝える為の舞台装置」的な側面が強かったので、こじれさせず、あっさり解決したという感じですね。


>二章になってからは、なんとなくですが、展開が遅くなった気がしました。

第一章は「掴み」としてキャッチ―なイベントを用意し、もし興味を持っていただけたなら、航、美桜のバックボーンへ向かおうという意図だったので、サクサク感は大分無くしています。
二章の終わりに、アルバムの件を持ってきていますが、分かりやすく大きな事件も起きていませんし、航と美桜の日常の振る舞いを知ってもらうためでもあったので、展開が遅くなったのだと思います。


>私は第一章を読み終えた時点で、この小説は『湧いて出た問題に首を突っ込んで、小気味良くバッサバッサと解決していく痛快謎解きモノ』だと勝手に思ったのですが、どうやら違うようでした。思ったより重く、深い……。

他の方の感想を見ても、最初に持って来た第一章がああいう作りだったので、「謎解きメインの物語」と誤解をさせてしまった面はあったと思います。
ですが、「君のとなり」は一番最初のテーマが、「求めれば、手を差し伸べてくれる人はいるから、どんなに辛くても助けの声を上げて」だったので、ああいう中盤、終盤の流れとなっています。

うん、でも、上記した通り、一章のような事件を起こし、「相棒モノ」みたいな感じで航と美桜がバッサバッサやるのがエンタメの王道ですよね!(苦笑

一旦、句切ります。


pass
2021年04月24日(土)19時11分 サイド  作者レス
十二田 明日さん、こんにちは。サイドです。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。


>前編で他の方も書かれていますが、文体はかなり良いと思います。
>過剰な比喩や詩的表現を多用した回りくどさがなく、非常に読みやすくて状況が分かりやすいですね(羨ましい)

ありがとうございます。
今回は視点の移動や、風景描写などに気を使い、ストレスにならないようと思っていたので、そう言っていただけると嬉しいです。


>卒業アルバムに写真がないという事が判明するという展開には、とても『先が気になる』という引きの強さを感じました。

章を跨ぐ上で、引きとなっていたならよかったです。
お出かけイベントの、ほのぼので上げて、最後に下げる、みたいな感じですね。


>ただ、その先の展開には少しついていけなかったというのが、正直な感想です。
>どうにも各キャラの心理がイマイチ掴めなかった印象ですね。

航の視点で進むなら、航の心理描写、美桜なら美桜の心理描写を多くすればよかったのかなと思います。
個人的な読書だと、「足りないていど」の書かれ方が好きなので、それを真似て淡白になってしまったのかと。


>事務所で航の過去について話す一つ前の場面ですが、どうにも唐突な印象を受けます。

美桜に航の住所を突き止めるため、真代に相談させたり、ストーカーじみたことをさせたりしているんで、読者様の興味を引く演出になったかなと思っていたんですが、まだ足りなかったようです。
足りなかったというのは情報ではなく、おそらく上記した心理描写だと思うので、調整はできそうですね。


>後は最後のヒロインの父親を説得するシーン。
>どういう理屈で何を納得させているのか

美桜と父親の最終決戦は個人的には、「少年誌的、最後の大暴れ。理屈は知らない、物理でハデに殴れ」のシーンで、読者様には、「何か理屈は分からんけど、ねじ伏せたらしい」という印象だけ与えられれば、それでいいと考えていました。

航の過去と美桜の夢にケリをつけるため、父親には分かりやすい敵として君臨してもらった感じですね。


>そこに主人公と主人公の過去がほとんど関係していないというか。
>あそこまで主人公の過去を分量を割いてえがくなら、最後の盛り上げどころでも、そんな過去を経験した主人公と関わったからこその方法で、父親に立ち向かって欲しかったです。

ここは耳の痛いところです。
作者的な狙いとしては、「美桜は、ああいう過去を克服した航ならではのユニークなアドバイス(戦うなら勝てる場所で勝て、みたいな)があったからこそ、父親に立ち向かえた」みたいな繋がりを作っていたつもりだったんですが、機能しなかったようで……。
まあ、彼、決行当日は完全に黒子になって「開かずの間」を探ってただけですしね。(笑


>総括として、絵(外面的情報)は非常に分かりやすいので、キャラの心理(内面的情報)が伝わるようになれば、グッと良くなると思います。

今まで、外的情報を上手く出せていないとご指摘をいただくことが多かったので、ひとまずそれはいい結果が出たということですね。
心理描写についても、応募の尺に合わせて風景>心理の優先順位で削った記憶があるので、その順位をいじれば改善はできそうに思います。


>お互い新人賞に向けて頑張りましょう。応援しております。

こちらこそ、感想頂き、ありがとうございました。
お互い、いい結果が出ればいいですね!



pass
2021年04月23日(金)11時04分 日暮れ  +10点
拙作への感想ありがとうございました。
ちょうど時間がありまして、さっそく『君のとなり』を一気読みで読了させていただきました。

読み終わってから書いているので、抜けがあったら申し訳ない。

・プロローグ
ボーイミーツガールというたったこれだけでもう、物語のジャンルを予測して読み始めれたので良かったと思います。
危険な状態を少女に助けられる。王道、だがそれが良い。
ここでの二人の印象は、『佐崎航は苦労人なのかな。それでいて病弱、あるいは、自己管理が甘くて抜けてる系男子なのかな』と『少女は知らない他人に気遣いのできる優しい子。衣服の汚れより気遣い優先、天使か?(笑)人気の少ない夜道を歩いていたのは、今のところは謎として残る』
少女の落とした生徒手帳を皮切りにして、今後物語が進展していくんだなと期待して、次の章へ〜。

ここで気になった点も書いておきます。二つ。
一つ。独特な比喩に目が留まりました。
>「なら、良かったです。突然、足の折れたカカシみたいに倒れたので、びっくりしました」
これ以外にも、独特な比喩が作中で結構な頻度で出てきたと思います。
一度読んで意味が理解しきれなくて、もう一度読んで意味を考える。そして「面白い表現をするなと」理解する。
目が留まるってことはテンポの悪化が考えられますが、場を効果的に印象付けるって意味では有効だとも思います。ここぞって時に使うと決まる必殺技的な。(でも連発すると威力が落ちていく……格ゲーのシステムに似ているかもです)

二つ。人通りのない歩道で少女が接近してきたら、接触する前にその存在に気付くのでは?と思いました。
ここからは私の想像ですが、少女は道路に膝を突いた航を心配に思って、駆け寄ったんじゃないかな、と。作中では突然現れた感じですが、足音などの気配で先に察知できそう。でも航は体調不良だったし、それで気付かなかったとも考えられますね。

・第一章 すれ違いと勘違いの最初の事件
思ったとおり生徒手帳を渡しに行くところから始まって、安心しました。
なにやら不穏な空気……少女は何故か朝から一人で図書室にいて、会って話しても昨日と様子が違うようだし。そして残された数学のテスト用紙。(優しい導入)
第一章のタイトルにあるように、航はもうすでに何かの事件に足を踏み込んでいっているんだろうなという予感がありました。楽しい予感です。
次に森嶋凌太が出てきましたね。ギャルゲーに出てきそうな主人公思いの陽キャといった印象で、航にアドバイスする姿はキャラと立ち位置が分かりやすくて良かったです。
顔を赤らめて「わー!わー!」と慌てる美桜かわいい。あざとい感じじゃなくて、無邪気な可愛さを感じた。
ABCという記号が出てきて、本格的な推理が始まりそうなので、こっからは気を引き締めて読みました。
二時間待ちぼうけ、そりゃA怒るわ。時間を間違えたB、うんあなたが悪い。C……なぜBを庇った?
色々と謎めいていて面白かった。ちなみにこの章は、全章の中でトップ2の面白さでした。 
この辺でちょっとだけ、俺ガイルとか氷菓を思い浮かべたりしました。なんとなく、ですけど。
Aが美桜に判断を委ねたシーンでは、『え?』ってなりましたが、航も同じ反応をしてくれて共感できた。展開としてそれほど突飛なわけでもなく(ラノベだしね)、物語の歯車がグルグル回っていく感じがしますね。
凪沙登場。髪型は忘れてしまったけど(すみません)、随所に出てくるハンチング帽は最後まで印象に残りました。気さくな女の子。
さらっと転校生情報が出たので、大事そうなのでとりあえず覚えておく。それより今はABCの今後が気になる。
航が凪沙に、椎名の誕生日を訊いたあたりで、事の顛末の予測が立ちました。予測を裏切られるのをちょっと期待。
雰囲気変わって美桜視点に。場面転換に違和感はなかったです。良いタイミングで合間に滑り込ませたと思う。
オヤジさんの取り付く島もない感じは、読んでて辛いね。『あなたの娘だろ、もっとちゃんと話聞いてあげなよ!』と思ってしまうね。
解決シーンで驚きはなかったです。Aに同情、Bが悪い、Cはなぜ庇った、という私の考えに変化はなかったです。
BとCを許すAもとい瑠衣はええ子やな。小都は結局勘違いで時間を間違えたのか……うっかりちゃんだな(出来れば別の理由が欲しかった気がする)。

この章で気になったこと。二つ。
一つ。これを言ってしまうと身も蓋もないのですが、主人公たちが介入しなくても、ABCは自力で問題を解決して仲直りできたのではないか。BCに悪気はなく、Aには二人を許す度量の深さが既に備わっているように思います。主人公たちが場を整えた、という点に於いては功労賞ものではありますが。

二つ。苗字、名前、記号が飛び交っていて、覚えるまでに苦労しました。たんに私の頭がアレなだけという可能性は大いにあります。聞き流しても良いかと。


・こんな風にガッツリ書くのは初めてなので、とりあえず詳しく書くのはここまでにします(ちゃんと書けている自信がないのです……)。
ここからは気になったことを書いていきますが、私の好みが多分にして含まれますので、気に入らない点はスルー推奨です。なんなら、返信する必要すらないまであります(汗

二章になってからは、なんとなくですが、展開が遅くなった気がしました。伏線と思しき色んな謎が浮上して、分かりそうで紐解けない謎が読者視点で積み重なっていくイメージです。
一つ目の謎が出てきて解けそうになったら、中断されて二つ目の謎が出てくる。二つ目の謎が解けそうになったら、中断されて三つ目の謎が出てく……といった具合で。

私は第一章を読み終えた時点で、この小説は『湧いて出た問題に首を突っ込んで、小気味良くバッサバッサと解決していく痛快謎解きモノ』だと勝手に思ったのですが、どうやら違うようでした。思ったより重く、深い……。

美桜とオヤジが初めて対峙したシーンで、シリアス展開は予期していたのですが、さらに強力な航の過去が伏兵のように現れて、私の心を抉って去っていった……。
キャラに魅力を持たせるため主人公を深堀するのはまっとうだと思いますが、もっと世界観に近づけた設定の方が良かったように思います。
ラストで美桜が超えるべき壁の高さを、航の過去が一足お先に飛び越えて(食って)しまっているように感じたのです。
DV父との辛い過去を乗り越えた航が、困っている美桜をラストで助ける展開は熱くはあるのですが。そこに至るまでの航の過去が、足を引っ張る感じがする。

・文章に関して。
私は皆様の意見と異なるようですので、たぶん私が間違っていると、先にお伝えしておきます。
文章は読みやすい。状況が分かりやすい。そう思います。
その反面と言いますか、キャラの心理がほとんど見えてこなかった。
『何を持ってこのキャラは発言しているのか?』『何を持ってこのキャラはそう動いたのか?』言動の理由が掴めなくて、事あるごとに唐突にキャラが動いているように見えました。
切り口は違いますが心理描写と関係あることなので書きますが、同じ描写が多いのも気になりました。
具体的には、『問いを投げかけた』『眉or眉間』『〜する他ない』『渋いor苦い顔』『ひらひらと手を振る』などです。
思うに、心理描写の希薄さが、同じ表現を多用してしまう主な一因なのではないでしょうか。読んでいて、セリフとセリフの間の地の文が苦しそうだなと、物書き目線で感じます。
ほんわかとした日常パートも、『もっと心理描写が欲しい欲しい欲しい!』と読んでいて思いました。ここって、キャラの魅力をいかんなく発揮できる所で、読者としても登場キャラの内面にメロメロになりたい所だと思います。
逆に日常パートが淡々とした説明文で書かれてしまうと、状況やキャラが読者と乖離した感覚になる。(感情移入できなくて、いわゆる、浮いて見える)

なので、一章までは勢いで読みましたが、二章くらいから読みにくさをやや感じました。(私だけかもしれません……一応参考程度に)

前後しますが、ちなみに一番のお気に入りのシーンは三章中盤あたりの、美桜がストーカーを正当化しようと会話しているシーンです。
マジでヤバいやつじゃん(笑)。美桜の優しさは母親譲りだと思いますが、ちゃんと父親の血も入っているんだなーと(笑)ちょっと思った。面白かったです!

あと真代さんの『ハイスクール?』も繰り返されるとツボってくる。ジワジワとくる面白さがありました。喧嘩売ってるっぽく聞こえそうなものなのに、真代さんが言うとそうとは聞こえない、不思議。

いろいろ書きましたが、使えないと思われた部分は容赦なく切って捨ててくださいませ。
執筆お疲れ様でした。長々と失礼いたしました。
49

pass
2021年04月20日(火)22時09分 十二田 明日  +10点
サイド様、コメントが遅くなり申し訳ありません。
『君のとなり』最後まで拝読させていただきました。


前編で他の方も書かれていますが、文体はかなり良いと思います。
過剰な比喩や詩的表現を多用した回りくどさがなく、非常に読みやすくて状況が分かりやすいですね(羨ましい)
特に前半はスルスル読めました。

また、狙ってのことか分かりませんが、冒頭から何かあるなと匂わせていた主人公の事情の一端、卒業アルバムに写真がないという事が判明するという展開には、とても『先が気になる』という引きの強さを感じました。


ただ、その先の展開には少しついていけなかったというのが、正直な感想です。
どうにも各キャラの心理がイマイチ掴めなかった印象ですね。

例えば
>「尋ねたいことはいくつかあるでしょう? 今日、どうやって家を突き止めたのかとか、出会ったあの日、なぜ私はあの歩道にいたのかとか、なぜ弁護士を志したのか、とか」
この美桜のセリフや

> 航は背中を向けたまま、淡々と言った。
「じゃあ、話をしよう。俺の話を」
 そして美桜は歩きながら静かに、
「はい」
 と決意を秘めた口調で頷いた。
事務所で航の過去について話す一つ前の場面ですが、どうにも唐突な印象を受けます。

十二田としては読んでいる段階で、
(そこまで相手の事情を知りたいか? 知りたがってたか?)
と首を傾げてしまいました。
もしかしたら、どこかに主人公(もしくはヒロイン)がヒロイン(もしくは主人公)の事情に興味を持っている描写があったのかもしれませんが、読んでいる分にはその印象が薄くて、
『何でコイツは急に自分語りをしているんだろう?』
ってなっちゃいましたね。
特にどちらも自分の事情について、相手に問われてではなく自分から語りだしているので、その印象が強くなってしまった感があります。
聞かれてもないのに、急に自分語りする人がいたら怖くないですか? 作品全体がシリアスかつリアル寄りな今作だと、浮いている気がします。

後は最後のヒロインの父親を説得するシーン。
どういう理屈で何を納得させているのか――すみません、ちょっとよく分からなかったです。
また最後の山場としては、ちょっと盛り上がりに欠けるかもしれません。
ヒロインが父親を説得して自分の夢へ向かうという、主人公と関わって成長したヒロインを表現するとても良いシーンなのですが、そこに主人公と主人公の過去がほとんど関係していないというか。
それぞれのエピソードが相互に結びついておらず、優しい主人公に勇気をもらって父親と向き合うヒロインを描くだけなら、主人公の重たい過去がなくても成立してしまうんですね。
あそこまで主人公の過去を分量を割いてえがくなら、最後の盛り上げどころでも、そんな過去を経験した主人公と関わったからこその方法で、父親に立ち向かって欲しかったです。


作品のコメントはこのくらいですね。
総括として、絵(外面的情報)は非常に分かりやすいので、キャラのの心理(内面的情報)が伝わるようになれば、グッと良くなると思います。


長々と自分のことを棚上げして書かせていただきましたが、一意見として少しでもサイド様に資することがあれば幸いです。

お互い新人賞に向けて頑張りましょう。応援しております。m(__)m

49

pass
合計 3人 30点


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