この曇り空は私と似ていた
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※主人公が自己嫌悪なせいで特に序盤が重苦しい文章になってます。ご了承ください。
ジャンル別ランキングでアルファポリスでは最高8位、エブリスタでは最高5位を獲得した作品です。

1
受験勉強真っ盛りという中三の十月。
    私の学校の象徴でもある紅葉した楓の木が、窓の外で爽やかな風に揺れている。そんなとあるHR。彼はこの学校に来た。
「宇高美華吏(うだかみかり)です。仲良くしてくれると幸いです。よろしくお願いします」
    彼はそう言って礼をする。
    私はその時、机にうつ伏せしていて聞き耳だけをたてていた。だから名前を聞いたときは正直、女かと思った。
    その上何故だか、聞き覚えのあるような懐かしくて不思議な感じがした。
     顔を見れば何か思い出すのかもしれない。
     そう思った私はゆっくり顔を上げる。
     彼は明らかに男だった。学ランを着ていたからだ。
    茶色い瞳もセミロングの髪も名前も女みたい。だけど、男。
    どこかで見たような錯覚にドキリと胸が鳴った。
    だれかに似ている、とかではなく、前から知っている人のような気がしてくる。
    小学校の友達かとも思ったけれど、思い当たる顔がない。
    そして何故だか、さっきからずっと私のことをまっすぐ見つめている。
     一言で言えば、どこからどう見てみても不思議な人。それが彼への第一印象だった。
    この物語は彼が転校してきてから一週間経つ頃に始まりを告げるのであった。

2
「さてさて受験生で忙しいみんな、今日のHRは自分の長所についてです」
    不思議な彼が転校してきてから一週間経ったある日のHR。教卓に立っていた私達のクラス担任である浜崎先生がいかにも張り切っている様子で言った。
    浜崎先生はピュアな教師だ。それはうざくて呆れるほど。
    だから私は今日も教室の窓側の一番後ろの席で浜崎先生の声を黙殺するようにこっそりと本を読んでいた。
    みんなが浜崎先生の話を真剣に聞いている中、私は長所と聞いて本を閉じた。それから頬杖をつき、窓枠に四角く切り取られた青い空を見ながら思う。
     ああ、長所なんてどうせくだらないものなんだろう。
    私には長所が何もない。学校に行ってただやらされているだけの勉強も運動もみんなの平均近く。友好関係はまあまあいいほう。
    ただ家ではめんどくさがりな性格で、家事とか何もやらない人だから母に怒られてばかりだ。
    私はいつも機嫌が悪い。端から見たらおかしい人かもしれないが、自業自得ってのはわかっているのに、直そうとか変わろうとか思ったことは一度もない。別にこんなことをやって未来の役に立つのだろうか。脳裏ではいつもそんなことを考えてしまう。
    そもそも勉強勉強って中三になってからよく親からも先生からも聞く気がする。でもこんな私のことだからいつもめんどくさいと放っておいた。
    だから私は今まで何も頑張ろうとはしなかった。もちろん努力もしたことない。テスト勉強だってやったこともない。だから仕方すらも知らない。
    私は学校が大嫌いだ。そして何もない自分のことも。こんなに息苦しい場所が、ほかにあるのだろうか。本当はこんなところには来たくない。でもさぼれば友達に心配されるし、先生も親にもごちゃごちゃ言われそうだから仕方なく行ってる。
    私はしばらくそのまま、頬杖をついて空を見ていた。すると、
「そこ!窓側の一番後ろのサボりマン!えーと名前……なんだっけ?」
     浜崎先生に注意された。しかも目立つように。
    浜崎先生は眉間にシワをよせて怒ったような顔をしながらクラスの名簿表を見ている。
     実はこの先生、今年の秋からここに来始めたばかりだ。だから生徒の名前もあまり覚えてない。
    おまけにいきなり、サボりマンと私のことを呼んでくるから教室にはどっと笑い声が広がる。
「糸湊清加(いとみなせいか)です」
     私は心の中でため息をつきながら棒読みな口調で名乗った。
    私は自分の名前も嫌いだ。あまりない名字に清らかに生きろって新しいものを色々加えろって母が勝手に私につけた名前。本当にくだらない。つまらない。
「名乗ってくれたのは助かった。でもサボりの罰として、今すぐ自分の長所をこの場で言いなさい」
     浜崎先生はどうやら私の態度に激怒しているらしい。
    そして私はというと、ついさっきからみんなからの視線を感じてしまい、頭の中がむしゃくしゃしている。
    おかげで気分が悪くなってきた。
「体調悪いので保健室に行ってきます」
    私はそう言って教室を逃げるように出ていく。
    その間に聞こえてきたのは浜崎先生のリアルなため息。私はそれをきっぱりと無視して保健室に向かう。
     この態度は恥知らずかもしれない。素っ気ないかもしれない。でもそんなのどうでもいい。私はどうせ何をしたってダメな人なのだから。
    私は無意識に自分が履いている制服のスカートの裾を手で強く握る。
     私は自分のことをダメだと思うと、無意識にそういう行動をしている。その度になぜ私は今を生きているのだろう。ここに生まれてきたのだろうと疑問に思う。そしてそう思う自分がむしゃくしゃする。愚かで惨めな人だと。
    階段を自分の教室がある三階から一階へ降りると、保健室に着いた。私は入り口の引き戸を開けて入る。
「失礼します」
「あら、清加ちゃんまたきっはたん?」
    保健室の桜先生は方言混じりにそう言う。
     ちなみにさっきの言葉の意味はまた来たの?ということ。たまによくわからない方言も使ってくるから関わりにくい奴なのかもしれない。実際、私もそう思ったことはある。けれど性格は優しいし、悩みも聞いてくれる。その上、具合が悪いと言ったらすぐベッドで寝かせてくれるからそこが桜先生の好きなところだ。
「受験生だからね、疲れることもあるさね。だから悩みがあるなら聞かせて。具合が悪いならベッドで寝ててもいいさね」
    桜先生はコーヒーを飲み、一服をしながらそう言った。
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」
    そう言って私はベッドで寝かせてもらうことにした。
    幸い、ここで寝ているのは慣れているのか何も違和感は感じない。そのことが不思議に思うほどだ。
     桜先生がベッドの近くにある肌色のカーテンを閉める。これが仕切りとなっていて外からはもちろん見えない。だから周りの目を気にすることなく寝かせてもらえるのだ。
    私はその肌色のカーテンを見つめながらゆっくりと眠りについた。

3
    どれぐらいの時間が経っただろうか。気づけば時刻は十二時をまわっていた。私はゆっくりと起き上がり、仕切りのカーテンを開く。どうやら桜先生はいないようだった。ということで、『具合が良くなったから教室に戻ります』という置き手紙を残して私は保健室をあとにした。
    私は三階へと続く階段を上がる。その途中、見覚えのあるような人とすれ違う。
「一番ダメなのは自分をダメだと思うことだよ」
    すれ違い様に彼は私の耳に囁くようにそう言った。
     突然の彼の不思議な発言にドキリと胸が鳴った。
     今、彼から何て言われた?
     いや、なんと言われたかはわかる。それなのに私はその言葉の意味が一瞬わからなかった。
    私は段差の途中で立ち止まって階段の手すりと足元を見つめながら考える。けれど、思いもよらない言葉に頭は真っ白になってしまった。
     聞き間違いだよね?
    そう思いながら彼の方を振り替える。
     学ランににあわないセミロングの髪をさらさらとなびかせながら、彼は階段を何事もなかったかのように下りていた。
     嘘でしょ……。
    私の頭の中からは驚きの言葉ばかりが浮かび上がる。
     まるで私の心を見透かされたような、そんな言葉だった。
    彼は最近この学校に来たばかりの転校生だった。確か名前は……美華吏。端からみればどこからどう見ても女。でも、男。
     そんな美華吏はすでにクラスの人気者だ。転校生だからそんなものなのかもしれない。だけど彼の場合はそれ以上の理由がある。
    それは繊細で思いやりの心の持ち主であること。
    たとえば、クラスの集配物を職員室に取りに行ってみんなに配ったり、係りの人が仕事を忘れていたら彼がいつの間にかやっててくれたり、授業の終わりには黒板にたくさん書かれた字をこれほどまでかときれいに消してくれたりなどだ。
     そのせいなのか、クラスではどこか特別扱いされていてみんなから一目置かれている。
     そんな美華吏を見かける度、私はこう思う。
     彼は優しすぎる人だって。
    真面目だし、よく気が利くし、みんなに優しい。一体どこでそんな心を手に入れたんだかが問いただしたくなるくらい。
     それと同時に、情けないくらいに何もない私とは正反対だって。
    私と美華吏を天秤のように比べてみてもきっと釣り合うなんてことは一切ないのだろうな。
    教室に戻れば、当たり前のように互いの机を合わせてわいわいと昼食を食べている人達がたくさんいた。
    私は自分の席につき、鞄の中から昼食を取り出す。
「おかえり。清加」
    ポニーテールで赤淵メガネをかけた小柄な坂道七生(さかみちなない)は穏やかな口調でそう言いながら私の前の席に座る。
「相変わらずだね。清加」
    ロングで童顔な希里陽果(きりはるか)は笑いながらそう言って私の隣の席に座る。
     この二人は私の小学校の頃からの幼なじみ。七生は真面目でいつもテストでは百点が当たり前だ。一方、陽果は天然。そのおかげなのかクラスではちょっとした人気者だ。
「サボりマンなんてよく呼ぶね。浜崎先生」
    陽果はまた笑いながら言った。
    私はわかるわかると言うように頷く。
       そのわりにはサボりマンというネーミングセンスが心底、私にはぴったりだと思ってしまう。
「ほんとほんと。おかげで嫌気がさしたわ」
    七生は私の机の上に昼食を広げながら困った顔で言う。
     その様子を見て陽果も昼食を広げ始めた。
「そういえばさ、清加のお弁当っていつもカラフルだよね。いい意味で」
    陽果はいい感じに焼き色がついた卵焼きを口に頬張りながら言った。
    私の母はおしゃれ好きで何でも彩りがないと納得しない人だ。だからこのお弁当もベーコン入りの生春巻やブロッコリー、スクランブルエッグやなすの味噌漬けというカラフルな組み合わせだ。それがいつも私の食欲をこれほどまでかとそそる。おかげで残したことは一度もない。
「そうかな?母が作ったんだけど」
「嘘?おしゃれすぎじゃない?憧れるわー」
    七生は興奮したような口調でそう言った。
    私にはこの彩りに慣れてすぎてしまっているのか、憧れる意味がわからなかった。
    そのあともワイワイといろんな話をしながら昼食を食べた。

4
「今から進路希望調査表を配ります。今週中に提出してください」
     帰りの会。浜崎先生はそう言って、進路希望調査表をみんなに配る。
     私はその言葉を聞いて机にうつ伏せになった。
    私には長所もないし、やりたいことすらもない。だからもちろん、夢もない。ということで私はいまだに進路が決まってないのである。
    みんなが次々に進路を決めていく中、私はまだ決まらなくてまるで散ることができなかった枯れ葉のように置いていかれているのだ。
    正直、焦ってはいる。いい加減決めなくちゃって。
    私はそう思いながらため息をついた。
    放課後は陽果と七生とで行きたい高校の話をしながら帰路を歩いた。すでに二人は進路が決まっていて、私の焦りも増す。
    正直、高校なんて行く意味はないと思う。自身の未来の役に立つなんて到底思えないし。でも、行った方が就職の時に少しは楽になるって母は言ってた。だからいい加減決めなきゃいけない。わかってる。わかってるけれど。
    私はまたひとつため息をついた。
    家に帰ってみれば母がキッチンで夕食の里芋コロッケを作っていた。
「ただいま」
    私はそう言いながらダイニングテーブルの上に進路希望調査表を静かに置く。
「おかえり、清加」
    母は里芋コロッケを油で揚げながら言った。
「それって進路希望調査表でしょ?」
     へ?私は目を丸くした。そのコロッケを揚げながらでも視界に入ってしまうのが何より不思議なことだと思った。
   きっとまた怒られるんだろうな。
    私は心の中でため息をつく。
「あんたさ、高校行く気はあんの?」
     母はこんな私にうんざりしているような口調で言った。
「それは……」
    ない。でもそう言ってしまえば、もっとこぴっどく叱られそうで私は口をつぐむ。
「まだ決まってないのね?いい加減決めなさい!何かやりたいこととかないの?」
    母は今の私の態度で怒りが増したらしく、声の大きさも増す。
    やりたいことと言っても何もない。そもそも、好きなものが読書以外、なにもない。一つもないよりかはましかもしれない。けれどそのせいで私は夢もやりたいことも見つからない。だから進路も決まらない。そんな私が大嫌い。
    私は慣れているはずの母の怒りの声にいまだに怯えながらも、本当のことを言わないとって口を開く。
「ない……」
    すると、母は深くため息をついた。
     私も心の中でため息をつく。
「それにさ、中三にもなって家事の一つもできんってどういうこと?」
    母は祖母から厳しく育てられたせいか、小学校を卒業するときには洗濯も料理も掃除もできるようになっていたらしい。だからか、私がいつまで経っても成長しないのに焦りがでているんだそう。
     一方、私はといえば、いまだに家事の一つもできない。何をやっても失敗ばかり。そんな自分にもうんざりはしているけど、ただやらされているだけのことだし。気にはしていなかった。
   私は母とは違う。自分ができたからって娘にも必ずできることはないと思う。
    未来への道のりは遠い。遠すぎる。まるで真っ白な霧の中を歩いているように先は全く見えないし、何かの気配すらも感じない。
    そんな現実を受け止めようとする度に、情けなくて愚かな私がますます恥ずかしくなってきた。
    私はまたひとつため息をついた。
「ごめん、母さん」
     私はとりあえずの気持ちで謝罪した。直す気はないけれど。
「もう、いい加減にしてよね。私も疲れるんだから。さて、ご飯食べるわよ」
    母はそう言いながら二人分の夕食をダイニングテーブルの上に置く。
    私には家族と言える人が母しかいない。父は幼い頃に離婚したらしくこの家にはもういないし、顔も見ていない。私の父はどんな人だったのだろうか。いつか知りたいな。
    兄弟はといえば、私は元から一人っ子。幼い頃はきっと寂しいとか思っていたのだろうな。今ではもう慣れているが。
    夕食を食べている間も母からの説教は続き、私は心の中でため息をつくばかりだった。

6
    翌日。目が覚めると、眩しい日差しがカーテンに差し込んでいた。私は目を手でこすりながらおもむろに起き上がり、ベッドから出る。そして机の上に置いてあるスタンドミラーで自分の顔を確認する。
    私は中一の夏からずっと髪をセミロングにしている。というのも朝の忙しい時に髪をくくるのがめんどくさくなったからだ。前髪は眉毛のちょっと下まで伸びていて、それが時々視界の邪魔をする。でもそんなのどうでもいい。本当は自分のことが大嫌いな私のことだから瞳もすっぽり前髪で隠して置きたいけれど、学校の校則があるので思い通りにはいかない。
    瞳は墨のように真っ黒な色をしていて、鼻筋はほんの少しだけ曲がっている。
    私は顔つきからして目立たなそうな感じだし、みんなから一目置かれることも絶対にない。実際、目立ったことなんか一度もないし。
    髪を軽く指でとかし、それから一階へ降りる。リビングに行けばすでに、朝食がダイニングテーブルの上に置かれていた。
    相変わらず母の作る料理は彩りがあってそれがいい意味で食欲をそそる。私はそれを早々に食べ終えて、キッチンに食器を置く。
    部屋に戻り、襟とリボンが水色になっている白い半袖セーラー服を身にまとい、それから身支度をして鍵を持ち、家を出た。
    ふと空を見上げれば今日はどんよりと灰色に染まっていた。雨でも降りそうだなと思い、傘を取りに家の中へ戻る。
    傘と通学鞄を手に私は通学路を歩く。どんよりとしている曇り空は見ていて心地が良かった。きっと似ているからだろう。自分のことが大嫌いな私と。
    通学路を歩くこと二十分。目的地の学校に着いた。靴を履き替え、階段を上る。その途中、私はふと思い出す。昨日、ここで美華吏に言われた不思議な言葉を。
    あの言葉は今、思い返してみても私の心を見透かされたとしかいえない。今まで誰にもばれたことすらなかったのに急に見透かされたとなると、心の中は何ともいえない複雑な感情になった。
    教室に入れば、陽果と七生が私の席の近くで楽しそうに話をしていた。そんなところに入るには一瞬気まずいなと思ったけど、ずっとここで立ち止まっているわけにもいかないし、入るしか道はなかった。
「おはよ」
     私は自分の席に行き、棒読みに挨拶をする。すると二人は元気よく挨拶を返してくれた。
    それと同時に教室の入り口の方から大きな挨拶の声が聞こえたので振り替えってみれば、昨日私に不思議なことを言ってきた、美華吏がいた。
    美華吏はすぐ男子や女子に囲まれてわいわいがやがやと話始めた。その時の表情はいかにも嬉しそうで楽しそう。でも何故だか、少しだけ違和感を感じた。そのことからきっと美華吏にも誰にも話したくない秘密があるのだろうと解釈する。
    人間は誰だってそうだ。誰にも言えないことは一つや二つは絶対にある。実際、私も自分のことが大嫌いと誰にも言ったことがない。
    美華吏にはなぜか見透かされてしまったけど、本音を話すなんてことは絶対にないのだろう。全体的に釣り合うわけない正反対の私達のことだから。
「ちょっと清加。聞いてる?」
    七生の問いかけに私は我に返る。
     どうやら私は美華吏の様子を見ながらぼーっとしていたらしい。こんなことめったになかったはずなのに。
「あー美華吏ね。確かに人気者だよね。転校してきてまだ一週間ってのもあるけど。もしかして気になってる?」
    陽果は興奮したような口調で言った。しかも目をキラキラと輝かせながら。
    確かに昨日は不思議なことを私に言ってきたから気にはなっている。誰にもばれたことのなかった秘密だから理由を聞きたくて仕方ない。
「まあ……ね」
    私は曖昧に返事をした。
「へー、まさか恋?」
    七生も興奮したような口調で聞いてくる。   
    そんな心、あるわけがない。そもそも私は恋愛未経験者だし。男子とか気にしたことなんて一度もない。もしそんな心が私の中にあったとしたら穴があれば今すぐにでも入りたい気分だ。
「そんなわけないよ」
    私は苦笑い交じりにそう言った。
「だよね」
    同時に二人はそう言って、予想通りとでも言うように首を縦に振った。
     その時、朝のショートHRの始まりを告げるチャイムが鳴る。私達はそれぞれの席についた。

7
    二時間目。体育の授業だった。私は七生と陽果と体操服を持って更衣室に行き、着替えて体育館に整列した。
    私の学年は三クラスに別れていて合計すれば八十八人。住んでいるところが田舎の方だからか、人数としては少ない方。
    そして小学校が一緒だった人達も多くて、それは人数の大半をしめている。そのことからか、何も小学校と変わっていないように時々感じる。
「さて、今日の体育はバレーです。六人チームでどんどん試合をしていくのでまずはチームを組んでください」
    体育の先生の指示で私達は六人グループに別れ始める。私はというと案の定、七生と陽果と一緒だ。それと運動が得意そうな二人と苦手そうな人が一人。
    チームごとに並んでいると、美華吏が私の視界に入った。特に仲の良い男子達と組み合っていて美華吏自身もこれから自分達ができるバレーの試合にわくわくしているよう。
    私はバレーが好きかというと、嫌いではない。とはいえ、別に好きでもない。運動音痴じゃないし、球技も得意ではないが苦手でもない。最終的には何とも表せれないが、いたって普通というところだ。
    チームごとに並び終えると、先生が独断でトーナメント表をホワイトボードに書き、それにそっての試合が始まった。
    ボールを打つ音だけが体育館に響く。それはどれも力強い音で聞いているだけで心地よい。
    私もただやらされているだけのバレーをめんどくさがりながらもボールを打った。
    その試合が終わって休憩をしていると、体育館後方から歓声のような声が聞こえた。
「もう一本!」
「やってやれー」
    クラスの人がそう口々に叫んでいた。
    すると、サーブを打ち始める人がいた。それは紛れもなく美華吏の姿だった。
    美華吏は力強くボールを打ち、その打たれたボールは目にも止まらぬ速さで床に叩きつけられるように打ち付けられた。
     私はその様子に一瞬で心を奪われたのであった。
    あとから聞いたことだが、美華吏は前の学校でバレー部のエースを務めていたらしい。それにしてはプロに近い動きをしていた。
    私はまた、彼のことを不思議だと思った。

8
    掃除前の時間。中三になってから半年ということもあり、掃除場所の分担が大幅に入れ替わった。浜崎先生が独断で決めたらしく、そのせいなのか教室がやけにざわざわしていた。
    私も掃除の分担が書かれている黒板を見る。私の担当場所は保健室だ。それで一緒にやる人はというと、美華吏だった。
     私はそのことに驚いたように目を見開く。でも何度瞬きしたって変わりはない。
     私は美華吏とは関わりがあまりない。そもそも言葉を交わしたことすら昨日が初めてのことだし。おまけに初対面の上に不思議で正反対な人だからか、話しかけるのは気が重くなる。
    私はため息を吐きながら掃除場所の保健室に行った。
     どこかで聞いたことがある。ため息をつけば幸せが逃げていくことを。私はきっとため息をつかなくても一生分の幸せを逃しているような気がする。だからそんなのはどうでもいい。
      保健室に着くと、案の定桜先生がいた。私達は失礼しますと言って中に入る。
「もしかしてここ、掃除するよね?じゃあ、私は邪魔にならないよう職員室行っとくわ。二人で適当にやっておいて」
    桜先生はそう言うと、保健室をそそくさと出ていってしまった。
    いたら邪魔かどうかというと、いてくれた方が嬉しかった。なにしろ今は美華吏もいるし、二人きりというのも昨日、不思議なことを言われたからか、今では気まずい。でも今から桜先生を呼び戻すわけにもいかないし、二人きりで掃除をするしか道はなかった。
    私は心の中でため息をつき、掃除道具を入れているロッカーを開け、ホウキを取り出した。そして美華吏に無言で渡す。すると、
「昨日の言葉は聞こえたかい?」
     美華吏はいきなりそう言った。
     私は確かにあの時、心を見透かされた。今まで誰にもばれたことのなかったことだからか、余計にどうしてかわからなくなる。
「聞こえたよ。でも……どうして?」
「今は言いたくない、言えない」
    そう言って美華吏は私が差し出したホウキを受け取り、掃除を始めた。
    言いたくない、言えない。美華吏は不思議な雰囲気を感じさせるように、そうまわりくどく言ってきた。私はその様子にしばらくぽかーんと口をあんぐり開けていた。
「ほら、掃除するよ」
    美華吏の声で私は我に返る。そしてホウキをもう一つとり、美華吏が掃いている所の反対側から床を掃いていった。
     サッサッサッサッ。
      ホウキで床を掃いている音は聞いていてとても心地よい。たとえ、この状況が気まずいって思っていてもだんだん心が安らいでいく。
    しばらくして十五分間の掃除時間が終わった。私は廊下にある手洗い場にバケツの水を捨てにいく。それから掃除道具を元の場所に戻す。
    すると、
「お前さ、そのままだといずれ壊れるよ」
    美華吏がいきなり穏やかな口調でそう言った。
「それは……どういう……」
    私は言葉の意味がわからなくて戸惑いを隠せない中、ゆっくりと声を出した。
「今のままのお前じゃあ、いけないってこと。さき教室、戻ってるな」
    そう言って美華吏は保健室をそそくさと出ていってしまった。
    また心を見透かされたような気がした。
    今の私のままじゃいけない、いずれ倒れるってどういうことだろうか。
    そんなこと気にも止めなかった。
     確かに母の怒り声を聞くのはうんざりしている。
    私の行動もめんどくさがりすぎにはほどがあるのかもしれない。けれどやる気はわかない。母に言われないとやろうとする気にはなれない。
     いずれ壊れる?
     別にいじめられてるわけじゃないし、そんなことあるわけない。
    私はため息をつき、気を取り直して教室に戻った。
    どこからどう見たって不思議な見た目。
    優しすぎる心。
    そして私に言ってきた不思議な言葉。
    私は美華吏に心を二度も見透かされたような気がする。
    そして今の状況に戸惑いを隠せない私がいる。
    彼は一体____。

9
   美華吏に不思議な言葉を言われてから一週間が経った。
    あれから不思議な言葉を言われたことはない。最近は何も変化がない日常に違和感を覚えながらもつまらなく感じていた。
    そのせいで授業の時もボーッとしているときがあり、まともに集中ができていない。
    入りくんだ通学路を歩いていると、秋の涼しい風が吹いて私の頬を撫でる。
    その途端、少しだけ肌寒さを感じた。
     そろそろ冬服に衣替えしようかな。
    私の学校は更衣期間が設定されていなく、自由に衣替えをしている。
    そのせいなのか、冬でも半袖でいる人がいて風邪をひかないか心配になる。
     私はふと腕につけている茶色い腕時計を見る。
    これは中学校に入る時、母が入学祝いとして買ってくれたものだ。
    それを見ればHRが始まる十分前だった。
     急がなきゃ!
     私は焦るように走り出す。
    そういえば昨日はお気に入りの本に没頭していて夜更かしをしてしまい、そのせいで寝坊したんだった。
    おまけに母にも怒られたから余計に機嫌が悪い。
    走っていた途中でふと足がもつれそうになる。
    でも遅刻すれば、その分先生や母にごちゃごちゃ言われるから遅れるわけにはいかない。
    ここからだと学校までは七分ぐらいなのでギリギリ間に合うぐらいだろう。
    私は交差点の前でふと足を止める。運の悪いことに信号が赤から青に変わったばかりだった。
    私は信号が変わるまでの間、俯いて切らしていた息を整える。
    そうしていると、バタバタと誰かが走っているような足音が聞こえた。
    誰だろうと顔を上げると、焦っているような顔でセミロングの髪をなびかせながら走っている美華吏だった。
    その姿を見ながら通学路、こっちだったんだなんてことを考える。
    美華吏は私の前まできて足を止めた。そのまま息を切らしながら俯きながらこう言った。
「お前も遅刻か?」
「うん。宇高君も?」
    私は美華吏の名字を呼ぶ。名前を呼ぶのは初めてということもあるし、そもそも幼なじみ二人以外とは話すことがないからだ。
まだ初対面ということもあるし、一週間前には不思議な言葉を言われたものだからこの状況はきまずく感じる。
「ああ。ちょいと夜更かししちまったからな」
    その声を聞いて私と同じだなと思う。
    しばらくして信号が変わった。まだほんの少しだけ息切れしているが、ゆっくりしているわけにはいかない。
「行こう。信号変わったから」
「おう」
    私達はまた走り出す。学校に向かって一直線、目的地まではもうすぐだ。
    教室に入ればHRの始まりを告げるチャイムが鳴るのと同時だった。
    幸いのことに担任の浜崎先生はまだ来ていなく、私達は一安心してからゆっくり息を整える。
「セーフセーフ」
「もしかして寝坊?」
    そうクラスメイト達は言いながら美華吏に近づいてくる。
    私は自分の近くに人がいっぱいいるという状況は慣れてないので逃げるように自分の席に向かった。
「おはよー」
    陽果が元気よく挨拶をしてくる。
    すぐに挨拶を返そうとすれば
「遅い。遅刻当然だよ」
    七生が笑いながらそう言った。
「いやいやセーフだって」
    先生はまだ来てないから。
    ガラガラ。
    教室の引き戸が開く音がする。
「はいはい、みなさん席に着いてー」
    そう言って浜崎先生は教室に入り、教卓に立つ。
   その声でみんなはだんだん席に着き始めた。
    私も鞄を机の横に置き、頬杖をつく。
「そろそろお待ちかねの期末テストが近づいてきました」
    浜崎先生は少し楽しそうな口調で言った。
    期末テストなんて誰も待ってるわけがないと思いながらも私はいつも持ってきている本を開け始める。
「ということで、範囲表を配りまーす」
     浜崎先生はさっきと同様、楽しそうにそう言って範囲表を配り始めた。
     配られた範囲表にはそのテストまでにやってくる提出物が教科ごとに書いてあった。
    幸いなことに得意としているところがあったので胸を撫で下ろす。
    それでももちろん、テスト勉強はしない。理由はひとつ。めんどくさいからだ。
   私はその範囲表を受け流して本を読み始めた。

10
     その日の放課後。私は委員の仕事で図書室へ行った。
    別にやりたくて入ったわけではないのだけれど、四月の委員決めの時に浜崎先生が独断で決めてしまったのでこうなった。
    幸いなことに私は中一の頃に母から本を薦められて大好きになっていた。今ではざっと数えて五十冊くらい持っている。
    図書室に入ると、所狭しと並んだ本棚を見て借りたい本を探している人。長机の椅子に座って本を読んだり勉強をしている人がいた。
    その中にふと見覚えのある人物がいた。美華吏だ。
    美華吏は真剣な顔をしながら熱心に勉強をしていた。
    その顔を見て、勉強好きなのかななんてことを思う。
    私は勉強は嫌いだ。つまらないし、未来の役に立つわけないからだ。
    それなのに美華吏はまるでつまらないとか思ってなさそうに見える。
     私は改めて不思議な人だと思った。
    カウンターの方で貸し出しカードの管理をしていると、
「お願いします」
    そう言って一人の男子が貸し出しカードを私に渡してくる。
     私はそれを無言で受け取り、カードをまとめて保管している場所に入れた。
    図書委員の仕事はこの他にも本の整頓や掃除がある。だから暇な時間が多い。私は本を読んで図書室を閉める時間を待つことにした。
    そのあとも貸し出しカードを出しにカウンターに来た人は何人かいた。
    読んでいた本に区切りがついてふと顔を上げると、図書室の中には美華吏と私しかいなかった。
    時計はまだ四時半で完全下校の時間まではまだまだある。
    私は気を取り直して本の続きを読もうとした。
    すると、       
「なぁ、清加。勉強教えてや?」
    美華吏が私にねだるように言ってきた。
     私は反射的に嫌だと思った。私は勉強が嫌いだ。そして得意でもない。ただいつも平均近くをさ迷っているだけ。そんな私が教えれるわけがない。
    私は心の中でため息をつく。
「自分で頑張れば?」
    私は棒読みにそう言ってしまったのをすぐさま後悔した。
    美華吏はついさっきまで熱心に真剣で勉強をしていたのだ。ならばその行動、思いを踏みにじるわけにはいかない。
「俺、次のテストやばいんだよー。だから頼む!」
     美華吏はまた私にねだるように言ってきた。
     私はまたひとつ、心の中でため息をつく。
「私、頼りないかもしれないよ」
    私はそう言いながら美華吏の隣に座った。
「成績、どれぐらい?」
    私は頼まれたのにそう聞き返してくるのはどうかと思ったが、気にせず受け流すように「平均近く」と答えた。
「俺さ、いまだに赤点ばかりなんだ。数学だけは。だからやばいんだよー」
    数学だけがいまだに赤点ばかりとなれば、他の教科はどうなのだろうか。少し気になったけれど、それよりもこのまま美華吏が高校に入学できるのか心配になってきた。
「どこなの?」
「ここ」
    そう言って数学の教科書を見せてくる。幸いなことにそこは私の得意分野である図形だった。
「ここはね……」
    そう言って私は美華吏に数学を教え始めた。
    人に勉強を教えるなんて初めてのことで最初は言葉選びや教え方に戸惑っていたけれど、時間が経っていくうちに少しは慣れてきた。
   それにしても美華吏は真剣な眼差しで勉強に取り組んでいる。やはり勉強が好きなのだろうか。
「勉強、好きなの?」
「いや、嫌いだ」
美華吏はきっぱりとそう言った。
    どうして嫌いなものにそんなに熱心になれるのだろうか。
    そんな話、聞いたことがない。
    私は訳がわからなくなった。
「真剣だなって思って」
「嫌いだけどさ、本当は好きとか嫌いとか関係ないと思うよ」
    私は美華吏のその言葉を聞いて頭の中にクエスチョンマークが浮かんだ。
「どうして?」
「だってさ、親や先生、友達のためにやってるんだもん」
    それは心底、すぐに納得できる理由だった。
    誰かのためにか。私はそんなことも意識はもちろん、していない。だから好きなものが増えないのかもしれない。やりたいことが見つからないのかもしれない。
    私はそう思いながらも、勉強をまた教え始めた。

11
    どのくらいの時間が経っただろうか。気づけば日は沈んでいて辺りは暗がりに満ちている。時計は五時半を差していた。
    美華吏は数学では赤点ばかりらしいから当然のように呑み込みは予想外に遅く、時間がかかったけれど、そろそろ帰らなければ母が心配するだろう。
「今日はここまで」
「終わったー」
    美華吏は嬉しそうにそう言ってのびをした。
「なぁ、清加。この前は変なこと言ってごめんな」
    美華吏は唐突にそう言ってきた。
    私は何のことだろうかと頭の中をぐるぐる探し回る。
    そういえば、一週間前に自分をダメだと思うなとかいずれ倒れるとか言われたんだった。
    きっと数学を教えるのにいつの間にか真剣になってたから忘れてたんだと思う。
    私はただやらされているだけのものに真剣になれたことが今まであっただろうか。
    いや、なかったはずだ。めんどくさがりな私のことだから。
    つまりこうなったのは無意識?
    それとも……。
    どんな理由であれ、私の中ではあり得ないと言って当然のことだ。      
「おーい、聞いてるか?」
    美華吏の声で私は我に返る。
「聞いてるよ」
     私は少しむきになったように言った。
「本当のことだかんな。この前言ったこと」
    美華吏は私に忠告するようにそう言った。
    そして教科書を鞄の中に片付け始める。
    ごめんねと言っておいてそう忠告してくるのはどうかと思ったが、私はそれを受け流すようにこくりと頷いた。
    そして図書室の戸締まりをし、美華吏と別れた。
    それから職員室に鍵を返しに行き、私は帰路についた。
   今日の朝ではこの前不思議な言葉を言ってきたから当然のように気まずい状況だった。
    けれど今はそんなの気にしてない。きっと少し仲が深まったからだろう。
    私は秋の涼しい風に髪をなびかせながら家に帰った。

12
     数日後。
    相変わらず私はめんどくさがりな性格で母に怒られてばかり。
    こういうときはいち早く変わろうとするのが合理的なんだろうけど、こんな私のことだからそれすらもめんどくさい。
    本当、何から何まで逃げてばかりだ。
美華吏との勉強会はなぜかいつも真剣になれる。こんなこと今までなかったはずなのに。
    美華吏は図形のことを大体わかってきてはいて、残すところ文章題だけとなっている。
    最初は心配ばかりだったけれど、これなら期末テストがきても大丈夫であろう。
    そんな中で起きたある出来事。
    私はその日、移動教室をするために廊下を歩いていた。
     するとこんな声が聞こえたのだ。
「あの子、むかつくよね」
「わかるわかる」
「やっちゃおうよ」
「えー、やめときなよって」
   誰に対してむかついているのかはわからない。
    けれど聞いていて居心地が悪くなり、私は逃げるように移動教室を済ませた。
     少しだけ嫌な予感がした。

13
   翌日。
    私は靴箱の前でただ呆然と立ち尽くしていた。
     私の上履きがどこかにいってしまったのだ。
     置き忘れたような場所はあるかというと、もちろんない。
     昨日は確かに靴箱の中に置いていた。
     なのに今はもぬけの殻だ。もはや存在すらもなくしたよう。
    ……誰かの仕業?
    そう考えるのが合理的だろう。
    私は昨日、耳に聞こえてきた悪口のような声を思い出す。
    まさか……。
    そう思った途端、心臓が凍ったような気がした。
    そんなわけないよね?
    私はそう思いながら苦笑いをし、上履きを探すのもめんどくさいので職員室へ来客スリッパを借りに行った。
    来客用スリッパのパタパタという音がただひたすら廊下に響く。
    いつもでは起きないことだからやけに異様な感じがした。
    それに徐々に教室へ向かう足も重くなってきたような気がする。
    私はそれを振り払うようにスカートの裾を強く握りながら階段をかけ上がった。
    さすがに三階までとなると、息が荒くなる。
    HRまで時間はまだあったので、私は階段の踊り場で座り込み、息を整えた。
    しばらくして立ち上がり、私は教室へ向かった。良からぬことが起きていないのを祈りながら。
    教室の引き戸を開けば、途端にざわざわしていたクラスメイト達が静寂になる。そして真っ先に私に集まってきた視線。それからひそひそと話始める。
    私はこの状況に恐ろしいほどに鳥肌がたった。心を安らげようと七生と陽果がいる窓側の一番後ろの席辺りに顔を向ければ、二人はいつもと変わらず楽しそうに話をしていた。
    私はそのことに胸を撫で下ろし、自分の席に向かい、鞄を下ろした。
    すると、
「陽果、あっち行こう」
「そうだね」
    そう言って二人は廊下に出ていってしまった。
    いつもなら挨拶を交わして話をするのに、今日はこの有り様。私は予想外のことに息をのむ。
    どうして……?
    私が何か気に触るようなことをしたのかな?
     一瞬そんな思いが脳裏によぎるけれど、そんなことをした覚えはもちろんない。
    すると、この状況に怯えているのか全身がガタガタと震え出す。
    怖い。
    そう思いながらおそるおそる美華吏の方を見てみれば、浮かない顔をして一人本を読んでいた。
    どうして……。
    いつもならクラスメイト達に囲まれながら楽しそうに話をしているのに。
     この状況、どこからどうみてもどうかしている。
    私はいたたまれなくなって逃げるように保健室へ向かった。
「あらあら、朝からどうしたの?清加ちゃん」
    保健室に入ると、案の定桜先生は驚いた顔をしてそう言った。
「先生、朝から気分悪いので休ませてもらっていいですか?」
    私がそう言うと、桜先生はどうぞどうぞとベッドの方に誘ってくれた。
    私は重たい足を引きずりながらやっとのことでベッドに横になる。
    肌色のカーテンが閉まる音がする。
    それは不思議と私の心を安らげてくれた。きっといつも聞いている音だからだろう。
    私はゆっくりと眠りについた。

14
    どれぐらい時間が経っただろうか。気づけば時刻は十二時を回っていた。
     震えや落ち着きがないのもなくなり、私は静かに保健室をあとにした。
    寝る前に見てしまったあの状況が嘘や見間違いであることを祈りながら。
    教室に戻れば騒がしくなっていたクラスメイト達が静寂になる。それからひそひそと話始める。
     寝る前と何も変わっていない状況だ。
     また全身は震えと恐怖に包まれる。
     私はおそるおそる自分の席に向かった。
     すると、
    どうしたことだろうかと私は目を見開く。
    机に置いてあった筆箱も鞄も跡形もなく、なくなっていたのだ。
    どこかに置き忘れたかといえばそんな覚えはもちろんない。誰かに盗まれたとかそう考えるのが合理的だろう。
    七生と陽果はというと、教室にはいなかった。昼休み中ということもあり、どこかでお弁当でも食べているのだろう。
    そう考えると、仲間外れにされたような気がしてさらに恐怖が増した。
    美華吏はというと、心配そうにこちらを見ている。
    そのことに胸がドキリと鳴った。
    幸いなことに美華吏の周りには誰もいなくてそれが逆に異様に感じた。
    一体、どうして数日のうちにこうなってしまったのだろうか。
    私は頭の中にクエスチョンマークを浮かべながらも仕方なく鞄を探しに行った。
    鞄がなくなったとか母にばれたらごちゃごちゃ言われそうな予感しかしないからだ。
    とはいえ、どこにあるのかもわからない。
   だからといって助けを頼むわけにもいかない。
    こんな状況では助けてくれる人はおろか、気にかけてくれる人すらもいないだろう。
    私はため息をつき、手当たり次第探すことにした。
     時間をかけて隅から隅まで探し混む。
    こっちにもない。あっちにもない。ここにも……ない。
    私はため息をついた。
    一体どこにあるのよ?全然見つからないじゃない。
    さすがにこんなことをしているのもうんざりしてきて私はその時にいた音楽室の前で座り込んだ。
    もうとっくに昼休みは終わっていて、今は五時間目が始まって三十分経ったぐらいだ。
途方に暮れていた、その時だった。
「なぁ、清加」
    ふと誰かに声をかけられて私は顔を上げる。
    すると、鞄を肩にかけている美華吏がいた。
    おかしい。今は授業中のはず。
「鞄、探してたんだろ?あと筆箱と上履きも」
    美華吏はそう言って私の近くに鞄と筆箱と上履きを置いてくれた。
   その姿を見て私は頭の中がむしゃくしゃする。
    元からダメな人間なんだから放っておけばいいのに。探してくれなくたっていいのに。
「どうして……?」
    私はやっぱり気になって聞いてみた。
「盗まれてたの知ってたから。場所はわかんなかったけど見つかけれてよかった」
     美華吏はそう言って私ににこりと笑いかけた。
    でも授業中っていうところでどこからどうみてもおかしい。
    授業よりもこっちの方が大事だったということ?
    それとも私が勉強を教えたからその恩返し?
    そう考えると頭はむかむかしてきた。
    そんなことしなくたっていいのに。
    けれど心の片隅では嬉しいと思っている自分がいた。
    やっぱり美華吏は優しすぎる。こんなダメな私にも優しくしてくれて、一体どこでそんな心を手に入れたのか、ますます問いただしたくなるぐらい。
「なぁ、清加」
    美華吏は私の顔を覗きこむようにして呼んできた。
    途端に私は我に返る。
「今日、なんか変じゃないか?」
     私は即座にコクリと頷く。
     本当にどうかしている。
「ま、様子見てみようぜ。で、これからどうする?」
    美華吏は少し困ったような顔をしてそう言った。
     どうするもなにも今は授業中だ。教室に行けば問答無用で先生には注意されるだろう。
    おまけに私達は受験生。その分厳しく言われそう。
     私は心の中でため息をつく。
     わがままだっていうのはわかってる。だけど気持ち的には教室に帰るのも気が重いし、このままここにいるか、どこかでさぼるかでもしたい。
   そうでもしないと、またいたたまれなくなって逃げてしまうだろう。
「戻りたくない」
    私は吐き捨てるようにそう言った。
「やっぱりな」
    美華吏はそう言って私に笑いかける。それから私に手を差し出してきた。
    途端に私は戸惑いを隠せなくなる。
    今まで誰かから手を差しのべられたことはあっただろうか。
    いや、当然のようにない。私は何をやってもダメな人間なのだから。
    私は私が大嫌い。それなのにどうして美華吏はこんなに優しくしてくれるのだろうか。
    わからない。
    でも心底、嬉しいと思っている自分がいた。
     だから私は差しのべられた手の上に私の手を重ねた。
    その手は温かい。その温かさはまるで今日のことに怯えていた私を安らげてくれているようだった。
    私はそのまま、美華吏に手を引かれて目の前にあった音楽室へ連れていかれる。
    そこには大きなグランドピアノと黒板。そして均等に並べられた机。ごく普通にどこにでもありそうな音楽室だった。
    美華吏はグランドピアノの近くに置いてあった椅子に座り、鍵盤を適当に鳴らした。
    途端に美しい音が静かな音楽室に響く。
    別に華やかさもなければユニークさもないたった一つの音なのだけれど、その音は私の耳に軽やかに聞こえてきた。
    それから美華吏は鍵盤を押してメロディを奏で始めた。
   そのメロディは小さい頃に聞いたような懐かしい感じがして、私は不思議な感覚を覚える。
    私は音楽が好きかというと、好きな方に当てはまると思う。
     音楽は小説と同じでいつも私の心を安らげてくれて命の恩人だと思う時もある。
    音楽も小説も私の心を豊かにしてくれる。励ましてくれる。ネガティブな私を支えてくれている。だから好きだ。
    美華吏は静かにそのメロディを弾き終わる。
     反射的に私は拍手をおくった。
「お前さ、やっぱこういう時素直だよな」
    生意気そうに言われて私は頭がムカムカした。
    確かに私はいつも、ただやらされているだけだからと適当にやっていた。でも音楽と小説を読む時間だけは大切にしていた。
  それに素直と言われたことはないからやけに不可思議に感じる。
「まぁ、そうだね」
「いつもさ、何かを隠して我慢してるみたいだからさ、なんかこういう清加見てると、新鮮って感じるんだよな」
    美華吏はそう言って私に笑いかける。
    私には訳がわからなかった。
    そもそも私と出会ってまだ二週間ぐらいしか経ってないのに、ずっと前から一緒にいたように感じさせてくる。
    やっぱり美華吏は不思議な人だ。そう思った。
    いつも何かを隠して我慢してる。
    確かにそうだ。私は何もかもダメな人でそんな自分が大嫌いだ。なら変わればいいのだけれど、めんどくさいし、自分に良いところなんて一欠片もないから、きっと何年かかってもできないのだろう。だから最初から諦めている。
「あっそ」
    私はまた心を見透かされたことを受け流すように素っ気なく言葉を返した。
    その時、五時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「じゃあ、俺は六時間目に行くよ。お前は図書室で過ごしてろ。また終わったら来てやるから」
    美華吏は穏やかな口調でそう言って、音楽室を出ていった。
   また来てやるからと言われても、放課後は勉強会してるからどうせそうなるじゃないと思いながら、私は窓から空を眺めた。
    今日の空は快晴に近い。雲が所々にぽつぽつとあって、それは一つ一つ大きさに違いがあり、ユニークと感じた。
    私は上履きを履いて筆箱を鞄の中に入れて持ち、音楽室を後にした。

15
     翌日。
    朝の眩しい日差しで重たい瞼を開けば、厄介なことに直ぐ様ひどい頭痛が襲ってきた。
    体も重くて起き上がるのにも一苦労だ。
    きっと昨日のストレスとかが体調に影響を及ぼしているのだろう。
    そう思いながらカーテンから差し込んでいる日差しを見る。それはいつも心地よいのだけれど今日は憂鬱に感じられた。
    今日はさすがに学校、行きたくないな。
    そう思っても受験生なのだから学校を休むわけにもいかない。
    私はなんキロもある重りを足首にくくりつけて、それをひぎずっているように重たい足を無理矢理動かして身支度をし、学校に行った。
    靴箱に行けば、やはり上履きはまたなくなっていた。
   私の心に凍てつく様な風が吹き込んだ。
    季節は冬でもないのに、身体が寒さに震えて、私は私自身の身体を抱き締める。
     その小さな暖かさが、自分をこの世界に繋ぎ止めているかの様で、ひどく頼りない気持ちになった。
    それから昨日、美華吏が私の上履きを見つけてくれた時のことを思い出す。
    どこにあったのか聞いてなかったな。
   私が隅々まで探しても見つからなかったのに美華吏は授業中なのに探してくれて私の所に持ってきてくれた。
    きっと私も探そうとはしなかった予想外の所にあったのだろう。だとすれば思い当たるのは屋上だけだ。
    実際、昨日は屋上なんかにあるわけないって室内ばかり探していた。だからきっと屋上にあるのだろう。
    私はそう思いたって屋上に向かった。
    足がもつれそうになりながらも階段を一階から屋上がある四階まで一気にかけ上がる。
   靴下で上がっていたので滑りそうにもなったけど、やっとのことでたどり着いたというところで足が止まる。
    厄介なことに今いる屋上へ行ける出入口には立ち入り禁止という貼り紙があった、赤コーンが置かれていた。
    とはいえ、今思い当たるのはここだけ。だから私は赤コーンを無視して屋上へ出た。
    真っ先に広がる青い空。登校していた時に見たのとは違って雲は一つもない。
   そして秋の心地よい風。それが私の頬を撫でていく。
    私はここに生きているんだって当たり前のようなことを思った。
    屋上に手すりはなかった。だから出入口に赤コーンが置かれていたのだろう。
    私は屋上を見渡す。
    私の上履きは見当たらない。ただ隅っこにゴミ箱がぽつんとあるだけ。
   まさか……。
    私はそのゴミ箱を覗きこむ。すると、私の上履きが無造作に捨てられていた。
    寒気が私の体をまたもや襲ってくる。
    きっと昨日もここにあったのだろう。
    そこから美華吏が私にどうして、ここにあったことを教えてくれなかったのか考える。実際、私からも聞いてはいないのだけれど。
   きっと優しすぎる美華吏のことだから、私がガッカリすると思い、言わなかったのだろう。
    やっぱり私と美華吏は正反対だ。
   そう改めて確信しながら私は屋上を後にした。
    上履きを履いてから教室に行けば、昨日と同じくざわざわしていたのが静寂になる。それからヒソヒソと話始める。
   七生と陽果はいつも私の席の近くで楽しそうに話をしていたのだが、今日は二人そろっていなかった。
    きっとまだ登校中かどこかで楽しそうに話してるかだ。それとも……欠席?
   いやいや、あるわけない。
    第一、あの二人が学校を休むなんてめったにないからだ。
    美華吏はというと、昨日とは違って女子数人と話をしている。
    その中の一人が一瞬だけこちらを向いて睨んできた。
    私の足はガクガクと震え出す。
    このことから私の上履きや鞄を盗んで、屋上のゴミ箱に捨てた人はこの子達だと予想した。
     話したことはあるかというと、七生と陽果以外に友達はいないのだからもちろんない。
    でも今までに何度かクラスが同じになったことはある。確か名前は……佳奈。リーダーシップがあって今年の夏までは女子バスケ部の部長を務めていたらしい。
    私からの佳奈の第一印象は今まで、運動神経のある頼りやすそうな人だったのだけれど、今はそう思わない。私の鞄とかを盗んだとされる容疑者みたいなものだ。
    私はため息をつき、いつも通り本を読み始めた。
    すると、どうしたことだろうか。内容が全然頭の中に入ってこない。
   きっと昨日と今日のことで疲れているのだろう。
    私は本を閉じ、頬杖をついた。
    これは紛れもなく私に対してのいじめだ。
    受験生だから誰かをいじめている余裕なんかないはずなのに、どうしてこうなのだろうか。
   どこかで聞いたことがある。私みたいに自己嫌悪な人は何もかもうまくいかないって。
    まさにその通りだ。私の人生は何もかもうまくいってない。でもめんどくさがりな性格だから仕方ないだろう。
    そんな私はどこからどうみてもダメな人間でいじめられたりされて当然の存在だ。
    また、今まで自分が変わろうとしてなかったばちがあたったようにも感じる。
    私はいいの。いじめられたって嫌われたって。もう私はこの人生にとっくにうんざりしてるから。  
    私はそのように自分に言い聞かせて、怯えている心を保とうとした。

16
    数日後。最近は相変わらず鞄や上履きや筆箱が盗まれるばかりだ。
    美華吏に聞いてみればやはり佳奈達の仕業だったらしい。
    捨てられている場所もころころと変わり、頭が混乱することもある。怯えることもある。けれど毎日、いじめられたままで全然いいって自分に言い聞かせて今も穏やかな心を保っている。
    そんな中で迎えた期末テスト前日。涼しくなってきて一週間前から制服も衣替えした。
    わめんどくさい提出物は既に終わらせている。美華吏との数学の勉強はというと、ちょっと心配なところだ。
    今日も私は図書室に行く。すると当たり前のように美華吏がいた。相変わらず真面目に勉強できる姿が私には羨ましく見える。私だったらすぐめんどくさいって逃げてしまう人だから。
    最初の三十分ぐらいは貸し出しカードを出しに来る人もいるので、本を読みながらその管理をし、二人きりになったら勉強会を始める。これがいつしかルーティーンになっていた。
「明日のテストは大丈夫?」
    美華吏に数学を教えている途中、さりげなく聞いてみた。
    美華吏が苦手としているところは図形と連立方程式などの難しい計算だ。
     呑み込みも教え始めた時には遅すぎる方だったけれど、今では少し遅いになっている。でもまだ心配だ。受験もあと四ヶ月ぐらいであっという間に来てしまうから、せめて半分は点数をとって欲しいところだ。
「提出物、終わってねぇ」
    美華吏は苦笑いをしながらそう言った。
    本当に明日は大丈夫なのだろうか。余計に心配になる。
「どれなの?教えれる所なら教えるからさっさとやろう」
「おう。ありがと」
   美華吏はそう言ってから持ってきていた提出物を出して長机の上に置く。
    それは国語のワークでどうやら文法の所だけがわからないらしい。幸いなことにここも私の中では得意分野だ。
    私が問題を解くヒントをあげて最終的には美華吏自身が答えを出す。呑み込みは少し遅い方だけれど、数学をやってる時よりかは少し早くなっているような気がする。
     終わる頃には時刻が六時になっていた。ちょうど完全下校しなければいけない時間だ。
「そろそろ帰ろっか」
「おう」
    そうして私達は図書室を後にした。
     テスト当日。天気は快晴だ。
     勉強は提出物以外にしたかといえばもちろんしてない。けれど美華吏に数学を教えていた影響もあり、数学だけはいつになくすらすらと解けた。
    ただ問題なのは苦手教科の英語だ。英文を一から作らなきゃいけない問題が特に苦手である。とりあえずテスト前に教科書をパラパラと見返しておいた。
    ところが、どうしたことか。苦手な問題しか出てこなかった。単語もわからなくて日本語で書いてしまったやつもあるし、さすがに半分も点数はとれないかもしれない。
    得意な社会も平均近くはとれそうだけど、今まで一番低い成績となってしまうだろう。
     そんな不安ばかりで終わってしまった期末テスト。
    結果は悲惨としか言えなかった。どの教科も平均は超えれてなくて、唯一数学だけが高得点だった。
    美華吏の方はというと、半分はあっていたようでお互い嬉しくなり、ハイタッチを交わした。

17
     季節は十一月に入り、まだ秋のはずなのに冬のように寒く感じる。
    きっといじめられているせいだろう。
    いじめられたって全然いいって心の中に言い聞かせてるけど、いつまで持てるかどうかはわからない。
    そんな孤独の中で私を支えてくれているのは美華吏の優しすぎる心だけ。
     彼はいつも私のことを心配してくれて最近では迷惑なんじゃないかって思うときもある。
    けれど助けてくれる人が誰もいないよりかは何倍もましでいつの間にか彼の優しすぎる心に頼ってばかりいた。
    今日は雨がざあざあと降っていた。さしていた傘もずぶ濡れで、おまけに風も吹いているからか今にも飛びそう。
    私は傘の持ち手を強く握り、風に耐えながらも重たい足を動かして学校へ向かう。
    朝食を食べていないからか、胃はからっぽだ。
    寝坊したわけではないのだけれどここ一週間、ごはんが喉を通らないし、彩りがよくても何の意味もないように食欲はでてこない。 そして味すらも感じない。私が今、この世に本当に生きているのかわからなくなるぐらいだ。
    ため息をついてから教室に入る。最近は周りの景色を見るのも、他人の話し声を聞くのも嫌になってきて、校則を無視して長くした前髪で視界を遮断し、本を読んで現実逃避ばかりしている。
   体育の時にはさすがに本を読むわけにもいかないので、保健室に逃げてベッドでごろごろしている。
    時々浜崎先生とかに心配されることもあるけれど、大丈夫だって自分に言い聞かせるように伝えていた。
     その日の放課後。委員の仕事で図書室へ向かった。
    すると、静まりかえっている図書室に美華吏だけがいた。
    美華吏は浮かない顔をして窓から見える夕焼けをぼんやりと眺めている。
    勉強会はとっくに終わっているのにどうしているのだろうか。
    そんな疑問を抱きながらカウンターの方へ行こうとする。
「なぁ、清加。本当に大丈夫か?」
    美華吏は心配しているような顔でそう言った。
    二人きりになる度、この言葉をいつも聞いているような気がする。
    相変わらず苛立つけれど、やっぱり心底嬉しいと思っている自分がいてそれでも辛いっていうことは言えなくて、心の中では絶望の涙が溢れてくるばかりだ。
    私はそんな気持ちを振り払うようににこりと笑っていつものように「大丈夫」と返す。
    美華吏と私は正反対。だから話したって私の心がわかるわけない。
    それに心配させたくないし、迷惑もかけたくない。
   だからこれからも美華吏の前では明るく振る舞っていよう。
    そう改めて心の中で誓った。
「素直じゃねぇな。清加は。本当は辛いんだろ?」
    そう言って美華吏は私の体を背後から温かく包んでくる。
    予想外の展開に私は状況が呑み込めずにいた。
    ドクドクとなる心臓の音が耳にまで聞こえてくる。
    いけない。いけない。このままでは本音を明かしてしまいそう。
「ほら、受け止めるから話してよ。全部」
     美華吏は穏やかな口調で言う。
    今までそうとう私のことを心配してくれていて、もう見ていられなくなったのだろうか。だからこんなことをしてまで無理矢理話させようとしているのか。
    そう考えると、いらいらしてきた。
    美華吏と関わり始めて、まだたったの一ヶ月。それなのにどうしてこんなにも優しくしてくれるのか私にはわからない。
     本当、バカみたい。
    私のこと何も知らないくせにいきなり心を見透かしてきたような言葉を囁いてきた。それに不思議だと思っていたら、頭はバカでただやらされているだけだった勉強を教えることになった。そして私がいじめられるようになれば優しくしてくれて、いつも気にかけてくれて今だって私は彼の優しさに安らぎを覚えている。
    何にも知らないくせに……。
    本当、ムカつく。
「……いて」
    あえぐような吐息とともに、私の唇から、洩れた声は、かすれて震えていた。
    美華吏は「へ?」とキョトンとした顔で聞き返してくる。
    話したって私の心なんかわかるわけない。私達は白と黒のように正反対だから。
「ほっといて!」
    叩きつけるように言って、私は美華吏の腕を振り払い、逃げるように図書室を出た。
    私のこと心配してくれなくたっていいのに。放っておけばいいのに。どうしてこうなるのよ。
   もう心配させたくない。迷惑なんかかけたくない。本音なんか話せるわけがない。
    私はいじめられたままでいいの。ダメな人間当然の存在だから。
    こんな人生、もううんざりだ。

18
    どこに行くかもわからないまま、私は廊下を走る。
    幸いなことに先生はいなくて内心安心した。
    その時、ある考えが思い付く。
   そうだ。自分を投げ捨てればいいんだ。この人生に終わりを告げてしまえばいいんだ。ならもう大嫌いな自分ともさよならできるし、美華吏も私を心配しなくなる。
    七生と陽果のことは正直どうでもよかった。もう仲間外しにされてばかりだから友達と言えないのも当然だし、二人にも迷惑はかけたくない。
    私はこの人生をうんざりするほど充分に生きた。だからもう、終わりにしよう。
    そう思いたった時にはもう、足が屋上へと向かっていた。
    息を切らしながらも必死に階段をかけあがる。
    どうして今までこんなこと、思い付かなかったのだろうか。
    私の頭の中にそんな疑問が生まれる。
    即座に理由を見つけようとするけど、思うようにはいかない。
    そんなことを考えているとついに屋上についた。
    私は立ち入り禁止の貼り紙がある赤コーンをまたもや無視して屋上に出る。
    朝に降っていた雨は止んでいて、どんよりとした曇り空が広がっている。
    放課後の校舎はいやに静かだ。
    聞こえてくるのは陸上部の掛け声とテニス部や野球部のボールを打つ音。そして吹奏楽部の金管の響きだけ。
   その静かさは私の心を徐々に安らげてくれる。
    普段の学校はいつもさわがしくてそれに苛立ちを覚えていたからだ。
   立ち入り禁止に甘えているのか手すりはなく、自殺には絶好の場所だと思いながら屋上の縁に足を置いた。
     下を見れば私の学校の象徴でもある紅葉した楓の木が爽やかな風に揺られていた。
    私はひとつ呼吸をした。それからどんよりとした曇り空を見る。この曇り空は似ている。自分のことが大嫌いな私と。
    最後に見る空がこの曇り空でよかった。一番好きな空模様だから。これで心置きなく人生を終えれる。
    私はまたひとつ呼吸をした。それから足元を見つめる。
    恐怖は不思議なほどにこれぽっちもありゃしない。人生に別れを告げれる嬉しさと喜びの方が断然大きかった。
    けれど心の片隅には悲しみがあった。美華吏とはもう会えないからだ。
    最後に別れでも告げて置けばよかったな。
    心置きなく人生を終えれると思っていたのに今更のようにそんな後悔が生まれてきて、私は寂しくなる。
    けれど、いつまでもこうしてるわけにもいかない。誰かに気づかれてしまったら、せっかく決めた決意を踏みにじんでしまうことになるからだ。
     自然と息を止めた。
    右足を宙に投げ出し、飛び降りようとする。
    さよなら、大嫌いな私。優しすぎる美華吏。
    足が屋上から離れようとする。
    その時、誰かに腕を捕まれたような感覚がした。

18
   誰かに腕を捕まれたような感覚がして、私は慌てたように振り替える。
    そこには泣きそう顔をしながら私の腕を掴んでいる美華吏がいた。
     せっかく決めたことなのに。
      私はダメな人間なのに。
     どうして……?
      私のことなんか放っておいてくれたらいいのに。
      見捨てくれればいいのに。
      嫌ってくれればいいのに。
      しかもどうしてそんな泣きそうな顔をしているの?
    私の頭の中にはネガティブな言葉と疑問ばかりが生まれる。
    その間に私は美華吏に腕を引かれて屋上に引き戻される。
    その力は痛くなるほど強くて、それだけ美華吏の思いは強くて深いものなんだと感じた。
    けれどやっぱりせっかく決めたことなんだから踏みにじりたくない。
    私は無理矢理、美華吏の手を振り払い、もう一度飛び降りようとする。
    それでも彼は私の腕をもう一度掴んできた。
「おいおい、自殺しようとすんなよ。俺が守ってあげるから」
     美華吏は少し怒ったような口調で言った。
     私は確信した。何度私が自殺しようとしたって彼はまた私の腕を掴んで助けようとする。私がしようとした行動は無駄なんだって。
    私は諦めてその場に座り込んだ。それから両膝を抱え、その上に顔を埋めた。
    最悪だ。まさかこんなことになるなんて。
    しかも守るだなんて何も知らないくせにできるわけがない。
「守るって何?宇高君はさ、私の何を知ってるの?」
    私は少し怒ったような口調で言った。
    せっかく決めた思いを踏みにじられたし、やはり彼は不思議すぎる人だと思ったからだ。
「お前さ、やっぱ自分のことダメだとか思ってるな?」
     美華吏はそう言いながら座り込んでいた私の隣に腰を下ろした。
    質問を質問で返してくるのはどうかと思ったけれど、私はコクリと頷いた。
    そうでもしないと、美華吏は私の何を知っているのか教えてくれないだろう。
「自分で自分のこと傷つけてないでいい加減俺を頼れよ」
     美華吏は泣きそうな顔でそう言って笑いかけてくる。
      私が私を傷つけている?
     そんなこと考えたこともなかった。
      何をやってもダメで長所も見つからなくて、そんな自分が大嫌いでそれでも今まで生きてきたこの日常。
    いじめられ始めてからは、一日を過ごし終えるのもやっとのことだった。
    いじめられたっていいって自分に言い聞かせて怯えている心を必死に保とうとしていた。
    なのに……。
    その心を傷つけていたのは私自身だったんだ。
「最初に言っただろ?いずれ壊れるって。清加はさ、ついさっき自殺しようとしていたろ?なら壊れたも当然だ」
    確かに私は最初いじられているわけじゃないからそんなことないって受け流してた。
    いずれわかるってこういことだったんだ。
    自分でも傷つけて他人からも傷つけられてそりゃ自殺したくなるのも当然だよね。
    私はそう思いながら埋めていた顔を上げた。そして美華吏の方を向く。
     やはり彼は今にも泣きそうな顔をしている。
     どうして……?
「俺さ、他の人が辛そうにしているとこ見てたらいつもこうなるんだよな」
    そう穏やかな口調で言って制服のポケットからティッシュを取り出し、今にも溢れそうになっている涙を拭った。
    もしかして……私のために泣いてるの?
    私はまだ泣いてないのに本当はどっちが辛い思いをしているのか、わからなくなってしまうじゃない。
    そう思っていれば私の瞳からも雫が零れた。
      やはり美華吏は優しすぎる。
      めんどくさがりでいいところが何もない私とは正反対すぎる。
    その上繊細すぎてそんな美華吏の前で私の本音を言うなんて余計に辛くなる。
    やっぱり……。
    何度私が自殺しようとしたって彼はまた私の腕を掴んで助けようとする。私がしようとした行動は無駄なんだって。
    そう確信したはずなのに私はまた、自殺しようと座り込んでいたその場から立ち上がった。
「待てよ。そうやってさ、自分を犠牲にしないでくれよ。やっぱり清加って俺と似てるな」
    美華吏はそう言って私に笑いかけた。
   美華吏と私が似ている?
   いや、そんなわけない。
   私はただやらされているだけの運動も勉強もみんなの平均近く。めんどくさがりな性格のせいで母に怒られてばかり。おまけに今は友達からもまるで裏切られたかのように仲間はずしにされてるし、鞄や上履きは佳奈達に捨てられるばかり。
    それに対して美華吏はバレーが得意で前に聞いた話だけど勉強は数学以外は得意らしくてその上誰にでも優しく接することができる。その心は繊細すぎて優しすぎる。
    そんな私達が似ているわけない。
「どういうこと?」
「俺さ、父さんに優しすぎるって言われたことがあるんだ。それと同じで清加も優しすぎるんだよ」
    美華吏はそう言って私の髪を優しくくしゃくしゃにしてきた。
「くすぐったいって」
「ごめんごめん」
    美華吏は笑いながらそう言う。
     優しすぎる……?
そんなわけない。
   私はいつだってめんどくさがりで、母には怒られてばかりで、いじめられてもいるのに。
「訳わかんない」
「自分を犠牲しようとしてしまうところ、辛いのに無理に大丈夫って言っちゃうところ。そして今まで必死に耐えてきたところ。本当に優しすぎるんだよな。清加は」
     美華吏は穏やかな口調でそう言った。
     その時、風を感じた。秋らしい涼しくて爽やかな風だ。
     私のセミロングの髪がひらひらとはためく。
     きっとこれは青春の風だ。そう思った。
     私の長所は何にもないはずだった。めんどくさがりで裏切られていじめられてそんな自分が大嫌いだった。
    でも美華吏の言葉で私の灰色に染まった冷たい心は、だんだん色を取り戻していくように明るくなっていく。
    そっか。これが私の長所だったんだ。
    そう思いながら空を見上げれば、ちょうど分厚い灰色の雲の隙間から眩しい太陽の光が差し込みだしたばかりだった。
「ありがとう。私と宇高君、正反対だと思ってたんだけど、違ったんだね」
    私は微笑みながらそう言った。
   私と美華吏の長所は優しすぎる。
    美華吏は誰にでも優しく接することができて、その心は誰よりも繊細で強すぎる。
    私はめんどくさがりでダメな人間だけど隠れたところには優しい心がある。
    そんなものを犠牲にしようとしていたなんて最悪だ。
「清加?お前……泣いてるぞ。大丈夫か?」
    美華吏はそう言ってティッシュを差し出してくる。
    それに気づいた時には、自分でも意味がわからなかった。
    涙は私の瞳から容赦なく溢れだしていて、頬をつたっていく。
    涙を流すのはいつぶりだろうか。なぜかは知らないけど小四以来のような気がする。
    私は美華吏が差し出してくれたティッシュを受け取り、涙を拭った。それでも涙は容赦なく溢れを止めないから、落ち着くには時間がかかるだろう。
     美華吏は私の背中をさすってくれる。その手は太陽のように温かくて私の心は瞬く間に明るくなっていく。
    こんな美華吏と私が似ていたなんていまだに信じられないと思ってしまう。
    いや、待てよ。
    私はあることを考え出す。
    私と美華吏が似ているのなら、大嫌いな私のことをわかってくれるのかもしれない。
    無責任な思いのはずなのに、そう思い立った時には口を開いていた。
「私、今まで……」
    そう言って、私は大嫌いな自分のことを話始めた。
    まだ涙は溢れてやまないから時々、美華吏からもらったティッシュで涙を拭った。
    話せば話すほど、私はなんキロもある重りを背中にせおって、それを倒れそうになりながらも運んでいたように重たかった体は、不思議と軽くなっていくような感じがした。
    美華吏は私の話が終わるまで何も言わずずっと黙ったままだった。
    私は今まで誰にも、話したことがなかった本音をすべて話してしまった。
    優しすぎて繊細すぎる美華吏の前で本音を言うなんて、余計に辛くなっていた私だったのに。
    せっかく止まっていた涙はまた溢れだした。
「辛かったな。助けてあげれなくて本当にごめん」
    美華吏はそう言って私の頭を優しく撫でてくる。
     私は恥ずかしくて美華吏から目を逸らした。
    私はいじめられてる中でも美華吏の優しすぎる心に支えてくれたからここまで耐えれたんだと思う。
    そう思えば、美華吏が謝る必要なんてこれぽっちもない。
「うんん。ありがとね」
    私はそう言って無理やり笑顔を作った。
「なぁ、清加。長所がない人ってこの世界にいると思う?」
     美華吏は唐突に聞いてきた。
   そんなこと考えたこともなかった。
    自分には長所がないと思っていたし、そんな中で毎日を暮らすなんて息苦しくて今まで耐えれていたのも奇跡だと思う。
    それなら長所がない人がこの世界にいなかったらいい。
   でもみんな人それぞれだからそういう人もいるのかもしれない。
「いると思う」
「俺はいないと思う。だってさ、長所が一つでもないとこの世界生きていけないじゃん」
    前に母から聞いたことがある。私はまだ子供だけど外の世界は厳しいって。
    それを思い出せば確かに長所がなかったら生きていけないと納得できた。
「誰にでも長所は一つ以上あるって俺は信じてる。ないと思うならまだ、それに気づけてないだけさ」
   そう言われると私には長所があるって気づけたのに、まだそれを受け止めれていないように感じた。
「気づいてるよ。宇高君と同じで優しすぎる」
    私はむきになってそう言った。
   でも自分で自分の長所を口にするだなんて、恥ずかしいとか誰かに否定されたりしないかなって思った。
     いや、美華吏ならそれはないだろう。
    いつだって優しすぎる人だから。
「よかった。やっぱり清加は昔と変わらないな」
    私はその言葉にきょとんとした。
     聞き間違いだよね?
「ごめん。今の忘れて」
    美華吏は少し恥ずかしい顔をして、私から目を逸らす。
    その様子を見て私は今の意味不明な言葉を受け流すように
「そろそろ帰ろう」
    と言ってその場から立ち上がった。
「おう」
    美華吏もその場から立ち上がる。
    そうして私達は屋上を後にした。

19
    その日の夕食後。私は母に今までのことを順を追って話した。いつも怒られてばかりだから話すかどうか迷ったけれど、学校のことは全然話したことなかったからそうしてみるのもいいかもって思ったのが根本的な理由だ。
「辛かったね。清加。それなのに私はいつも怒ってばかりで申し訳ないわ」
    私がすべてのことを話終えると、母は優しい顔をしてそう言った。
    予想外の母の反応に私は息をのむ。
    確かに私は怒られてばかり。だけど元から悪いのはめんどくさがりな性格である私だ。そう考えれば、母が私に謝る必要なんてありゃしない。
「いいの。悪いのは私だし」
「母さんもさ、昔いじめられてたな」
    私はその言葉を聞いて、驚いたように目を見開く。
    母は祖母から厳しく育てられたせいか、小学校を卒業するときには、洗濯も料理も掃除もできるようになっていたらしいという話は何度も聞かされたことがあったけれど、その中でもいじめにあっていたなんて初耳の話だ。
「でもいじめられていいことなんてめったにないよ。清加はさ、その……宇高君だっけ?これからも仲良くね」
    私はコクリと頷いた。
    正反対だから釣り合わないって思っていたけれど、その中でも似ているところがあったからきっとわかりあえる。
    そう思っていると、なんだか胸がドキドキとしてきた。
「あと自分を大切にしなさい。その心は優しすぎるよ」
     自分を大切にすることって、家事の一つもできなくて、すぐダメ人間だと思ってしまう私にできるのだろうか。
    わからない。
「あっ!そうだ。めんどくさいでも一度やってやりなさいよ。ほらほら明日の弁当の材料作り手伝って」
    母は張り切ってキッチンへ行く。
   母のこんな姿を見るのはいつぶりだろうか。なぜかは知らないけれど、六年ぶりだと思う。
    その姿に私は少しばかりやる気がでてきて何年ぶりかにキッチンに立った。母が冷蔵庫からほうれん草を出してまな板の上に置く。
「何切り?」
    久しぶりすぎてどうやって切ればよいかわからなくて私は聞いてみた。
「普通に四センチぐらいにカットして」
    母はそう言って鼻歌を歌いながら、フライパンでベーコンを炒め始める。
私は頷いてから包丁を持つ。
   すると、どうしたことだろうか。突然全身は恐怖に襲われた。
     私は震えた手で包丁をまな板の上に置いた。
    どうして……?
    わからない。久しぶりすぎて。こんな感覚は初めてで思い当たる理由も見つからない。
    私はそのまま逃げるように自分の部屋に引きこもった。
   そしてこんな時は寝て忘れてしまおうとベッドにもぐった。
    その夜、私は不思議な夢を見た。
    小四ぐらいの身長の私と、同じくらいの少年がいた。
    周りの景色はというと、薄いピンク色の花びらを咲かせた花と、淡い青色の花びらを咲かせた花が花畑として、一面に広がっていた。
   なんだか懐かしい感じがする。でも思い出せない。この花の名前すらも。
    そして少年の顔はというと、白いぼやっとしたのがかかっていて、何も見えない。でも体つきからして、誰かと似ているような気がする。
    少年がなにかを呟く。でもその声はあまりにも小さすぎて聞こえない。
「ねぇ、なんて言ったの?」
    私の声に少年は動じず、空を眺めていた。
    私はそのことをなんとか頭の中で受け流してから、少年と同じように空を眺める。
     空は灰汁を掻き回したような夕立色の曇天だった。
    なぜ周りの景色は薄いピンク色の花と淡い青色の花で鮮やかに染まっているのに、空は快晴ではないのだろう。なんでもないことのはずなのに、不思議に思えた。
    この花の名前はなんだろうか。
    この少年は誰なのだろうか。
   そしてこんな美しい景色があるのは、どこなのだろうか。
    その答えは見つからなかった。

20
     翌日。
    朝、少しだけ軽く感じる瞼を開けば、ザァザァという雨の音が聞こえてきた。
    ちょっと軽くなった体を起こして、緑色のカーテンを開ける。窓には大小様々なたくさんの水滴がついていた。
   その水滴はどれもきれいで、まるでこの世界の美しさを表しているよう。
    私は久しぶりに自然な笑みを浮かべた。
「おはよー、清加」
    母がそう言って私の部屋に入ってくる。
    珍しいことだけど、私のことを思ってやってくれたのだろうなと思いながら、私は挨拶を返した。
「今日はねー清加の大好物出してあげるからたまには朝食ぐらい食べなさいよ」
    そう言って母は私の部屋を出ていった。
    私の大好物はからあげだ。いつもレモンの汁を上にかけて食べている。
    さっぱり柔らかな鶏ささみで作っていて、脂濃さとレモン汁の甘酸っぱさが上手く絡み合っていて、抜群のおいしさだ。
   そのおかげで久しぶりにごはんが喉を通った。
    空っぽだった腹がからあげによって満たされていく。
「いつ食べても最高だよ。母さん天才!」
    おおげさだけど私はにっこり笑って母を誉めた称えた。
   このからあげを食べたのもいつぶりだろうか。私はそれに懐かしさを覚えた。
    母は私の言葉を聞いて、優しい笑みを浮かべた。
「辛くなったらいつでも言ってね。自殺なんてごめんよ」
    そうだ。自殺しようとしていた私がバカだった。
    私には怒られてばかりだけど私を育ててくれている母がいた。
    こんな私にも優しくしてくれた、美華吏がいた。
    大切な人を思ってそんなこと考えなければよかった。だけど長所を知れた。
    幼なじみ以外の人とたくさん話ができた。
    それだけで今は、この上なく幸せだ。
    私はそれから食欲が増してきて、からあげを十個以上頬張ってしまった。
「清加。学校遅れるよ。それとも今日は休む?」
    母にそう言われて私はふと時計を見る。それから大慌てで身支度をし、外に出た。
    すると、
「おはよ、清加」
    そう笑みを浮かべながら言った美華吏がいた。
    鞄を肩にかけ、傘を手に持っていた。
    私は思わぬことに目を丸くする。
     けれどすぐに理解した。昨日は屋上で話した後、一緒に家まで帰ったのだ。
「おはよー宇高君」
    私はそう言いながら傘をさす。
    一緒に登下校をしたりするのは、幼なじみとしかしたことがなかったから、なんだか少し緊張する。
「元気そうだな」
    美華吏は笑顔でそう言った。
    朝、機嫌がいいのも何年ぶりかのように久しぶりだ。
「今度あいつらがやってきたらいい加減やめさせるから」
    あいつらとはいつも私の鞄や上履きを盗んでいく佳奈達のことだ。
私はその声を聞いて、ふと足を止める。
    美華吏がいるけどやっぱり、学校に行くには気が重い。
    空っぽの靴箱を見るのが辛い。
    何も置かれていない机を見るのが辛い。
    あんな日々はもう、うんざりだ。
    全身には鳥肌がたって足がすくんだ。
「大丈夫。俺がいるから」
    そう言って美華吏は私の震えていた右手を優しく包んだ。
    誠に使い勝手の良い労りの挨拶だけど不思議と私も大丈夫と思えて足を前に進め始める。
    私はふと美華吏に繋がれた右手を見る。
    今にも心臓が口から飛び出しそうになった。私はその気持ちを顔に出さないように堪える。
    それにしても美華吏の手は、カイロのように温かい。そして誰かと手を繋いだのは初めてのはずなのに、不思議と懐かしさを感じる。
「清加さ、あんまり自己嫌悪になるなよ。いいところあるんだから無駄にしないほうがいいぜ」
   美華吏はそういつもの穏やかな口調で言った。
    とはいえ、私は元からめんどくさがりだし何をやってもダメなのだから、そんなこと言われても無理だと思ってしまう。
     私は結局、どうしたらいいのだろうか。
    長所が見つかれば夢も見つかると思っていたのだが、なかなかうまくいかない。
     私は美華吏に聞こえないように、心の中でため息をついた。
    それからいろいろな話をして、あっという間に学校へ着いた。
    どうせ靴箱は空っぽなんだろうな。
    そう思いながら靴箱を見れば、私は目を丸くした。
    いつも佳奈達に盗まれているはずの上履きが、今日は盗まれていなかったのだ。
     どうして……?
     幸いのことのはずなのに、動揺が隠せない。
「ほら、大丈夫って言ったろ?」
   そう言って美華吏は手を握り返してくる。
   ドクドクという鼓動が耳にまで聞こえてきた。
    佳奈達がただ、上履きを盗むのを忘れただけかもしれない。けれどいつもと違う靴箱を見るだけで、私の心は温かくなった。
    教室に入れば、途端に繋がれた右手が解放される。そのことに不思議と寂しさを感じた。
    ざわざわとしていた教室は、いつものように静かな雰囲気に包まれる。それからまた、ヒソヒソという話し声が聞こえてきた。
    体はまた恐怖に襲われる。私は美華吏から言われた、大丈夫という言葉を自分に言い聞かせながら、ゆっくりと自分の席についた。
    陽果と七生は当たり前のように今日もいない。
    二人の席に鞄は置かれてあったので、どこかで楽しそうに話でもしているのだろう。
    そう思えばまた、肌寒さを感じた。

21
  その日の休み時間。
   私はいつも通り読書にひたっていた。
「ねぇねぇ、糸湊さん」
    頭上から私の名字を呼ぶ声がして、私は誰だろうと顔を上げる。
    顔を見れば瞬間的に寒気がした。
    声の主はいつも私の鞄や上履きを盗んでいく佳奈だった。後ろにはつれもいる。
    私は恐る恐る美華吏の席の方を見た。けれどそこにいるはずの姿はいなかった。
    私は驚きながらも辺りを見渡す。
     教室にもおらず、どうやら友達とどこかへ行ったようだ。
「昼休み、体育館倉庫へ来てくれない?私達、そこで待ってるから」
    佳奈は上から目線な目つきをしてそう言った。それから私を一瞬睨みつけて離れていく。
    私は硬直した。思いもよらぬ事態になって思考が停止してしまったのだ。
    何をされるんだろう。
    そもそも佳奈達はどうして私の物を盗むのだろう。
    恨まれるようなことをしてしまったのかな。
    いや、してないはず。私は今、美華吏としか関わっていないのだから。
    授業開始のチャイムが鳴る。先生が入ってきたのを確認してから黙殺するように私は読書を始めた。
   しかし、どうしたことだろうか。さっき佳奈にあんなことを言われてしまったからなのか、ものすごく寒気を感じて内容が頭に入ってこない。
    私はため息をつきながら本を閉じ、空をただ眺めた。
    昼休み。私は震えている足を無理矢理動かして体育館倉庫へ向かった。
     どうか、良からぬことが起きませんように。
    そう雨があがったばかりの曇り空に祈りながら中へ入る。
「来たわね」
   佳奈がそう言って私のところに近づいてきた。
    つれもいてクスクスと笑っている。
    足がガクガクと震えてやまない。
「ねぇ、どうして美華吏君から離れてくれないの?」
    佳奈は怒ったような目付きで言った。
    私は思いもよらぬ言葉にドキリとする。
    嘘……。美華吏はまだこの学校に来てから一ヶ月しか経ってないのに、そんな彼を好きになっている人がいるなんて。
    いや、まさかそんなわけないよね?
「私はね、美華吏君のことが好きなの!邪魔しないでくれる?」
    佳奈はぶっきらぼうにそう言って私を睨み付ける。
    自分がダメな人間だからそのばちが当たったのかと今まで思ってた。でもそれは違うかったんだ。
    しかし、あくまで私は恋愛見経験者。人を好きになる気持ちなどわかるわけがない。
   とはいえ、美華吏が佳奈達の方へ行ってしまうのは、自分の友達が一人もいなくなってしまうのと同じことで、私は答えを出せずにいた。
    佳奈が私の目の前に立ち、睨んでくる。
    そしていきなり顔を叩かれた。頬がジンジンと痛む。
    私は美華吏にただ頼まれたから数学を教えて、佳奈達に盗まれた鞄や上履きを探しだしてくれた。そして私の長所を見つけて教えてくれた。
    そんな美華吏と離れなければいけないなんて嫌だ。
    そう思った時だった。
    バタン!
    背後から勢いよくドアを開けるような音が聞こえてきた。
    途端にその方を振り替えれば、息を切らしてながら立っている陽果と七生がいた。
    どうして……?
   私とはもう、何も関係を持っていないはず。ただの元幼なじみ。
    何をするつもり?
    突然の出来事に頭は混乱して真っ白になっていく。
「いつまでも私達が、命令聞いてると思ったら大間違いよ」
     陽果が怒ったような口調でそう言う。
    命令?
    何のことだろうかと私はきょとんとする。
「いじめなんかやったって無駄よ!いけないことだって授業で習わなかった?」
   七生は相変わらず冷静で真面目な言葉を言い放った。
    そのことで私を助けに来てくれたんだと理解し、顔がぱっと明るくなる。
「今度したらそんときには許さないから。ほら行くよ。清加」
    陽果はそう言って私を手招きした。
    私は訳もわからない中でも、とりあえずこの場をしのごうと、陽果と七生についていく。
「待って!」
     背後から佳奈の声がして振り替える。
「許さなくていいけど謝らせて。ごめん!受験生だってのにこんなことやってる私達がバカだった」
    佳奈はそう言って頭を下げる。続くようにつれも頭を下げた。
    確かに佳奈達が私にしてきたことは最悪とも言っても過言ではない。
    人の物を盗むなんて成人してたら逮捕されててもおかしくはない。それも捨てられている場所がいつもゴミ箱だし、本当に常識はずれだと思う。けれどこんなことが起きなければ私は自殺しようとはしなかった。つまり自分の長所に気づかないままだった。母も私を慰めてくれたりはしなかった。だから変な話かもしれないけど、今ではいじめられてよかったと思う。
    これからの私にいじめは必要ない。
    結局夢もやりたいことも見つかってないし、何をやってもダメなめんどくさがりな私だけど、長所を見つけれた。それだけで今はこの上なく幸せだ。
    それにこんな日々はもううんざりだ。
「許すよ。受験、頑張ろうね」
    嘘。私が受験勉強なんか頑張るわけがない。けれど今はこの言葉が一番ぴったりな答えだと思う。
    陽果と七生は体育館倉庫を出る。私も続くようにそこをあとにした。
「ひゃっほーい!大成功だね」
     嬉しそうな口調でそう言って、陽果は七生とハイタッチをしようと両手を広げる。
「もう、無茶なんだから」
    七生はそう苦笑いしながらもハイタッチをする。
    そんな中でいまだに状況が、呑み込めずにいる私がいた。
「あの……これってどういうこと?」
    あまりの混乱で言葉がうまくでてこない。
     裏切られている仲間はずしにされているとずっと思っていたのに。
     今更、どうして私を助けたの?
「説明が遅れてたね。私達、佳奈達に命令されてそれで清加を避けてたの。本当にごめん!」
「私も本当ごめんね」
    二人がそう言い、手をあわせて謝る。
    命令ってどんな内容だったのだろうか。今の流れでいうと、たぶん佳奈達が私を仲間はずしにするように二人に命令したのだろう。
    それならそれでいいと思う。私は長所を見つけられたし、幼なじみ以外の友達も作れた。だから今は感謝の言葉を返しておきたいところだ。
    それに本当に悪いのは佳奈達の方だ。だから二人は悪くない。
「助けてくれて、本当のこと伝えてくれて、ありがとね」
    私がそう言うと、二人の顔はぱっと明るくなった。
「もう、当たり前のことをしたまでよ」
    七生は照れたようにそう言った。
「これからもよろしくね」
    陽果はそう言って、握手とでも言うように、手を差し出してくれた。
     私はこくりと頷いてからその手を取った。
     その上に自然と七生の手が置かれる。
    それから微笑を浮かべて同時に手を離した。

22
「ねぇ、清加。昨日の話で伝え忘れていたことがあるの」
   その日の夕食後。母が唐突に言ってきた。
    昨日の話……。きっと私が今までめんどくさいで何事からも逃げてきたことだろう。
「めんどくさいって言ってたら、いつまで経ってもできないわよ。めんどくさがらずにやれば、きっと何でもできるようになるから。今の清加、もったいないよ」
    母は真剣な顔でそう言った。
    めんどくさがらずにやれば何でもできるようになる?
    そんなわけない。私は元から何をやってもダメな人なのだから。
    確かに今の自分は、未来への可能性を自分で打ち消してばかりいるから、もったいないと言われても過言ではない。
    いつまでもこのままではダメだとはわかってはいる。
    だけど……。
「そんな保証がどこにあるのか、わからないって顔してるね」
    そう言って母は私の頬を人差し指でつつく。
    全くもってその通りだ。過去に家事ができていたという話なんかあるもんか。
って過去?
    心の中でそう思った途端、恐ろしいほどの寒気を感じた。
    この感覚は一体____。
「それはね、過去にあるのよ」
   私は頭をぐるぐると回って記憶を辿った。
   しかし、どうしたことだろうか。
    小四の頃の記憶とその前の記憶も、まるで空白の答案用紙を見ているかのように、何も思い出せない。
    どうして……?
「教えて、母さん。過去の私はどうだったの?」
「それはね……」
    そう言って母は私の過去について話始めた。
   
22
   ____時は五年前に遡る。
    夏の風物詩でもある蝉の鳴き声がけたたましく響いていたある日、私は今日も眩しい日差しで目を覚ました。
    のびをしてからベッドを出て、大急ぎで一階へ降りる。
    早く朝食を作らなくちゃ。
    そう思いながら私はリビングに行き、キッチンに立つ。
   私は小三の夏頃から母に料理を教えてもらっていた。最初は不慣れな手つきで一品作り終えるにも一苦労だった。
    特に揚げ物や蒸し物の料理は難しく、苦戦して失敗したことも何度かあった。けれど今では手慣れた手つきになり、一品作り終えるのもなんの苦労もなく、揚げ物や蒸し物は失敗することがなくなっている。
    朝食のメニューはいつも一緒だ。レタスやきゅうり、ブロッコリーやトマトをマヨネーズで和えて作ったサラダ。あとトーストした食パンと目玉焼き。ぱぱっと二人分を作り終えると、テーブルの上に並べた。
「おはよー、清加。お!今日もできてるね」
    母が嬉しそうにリビングに入ってくる。
     私はこの頃には既に家事が何でもできていた。料理はもちろん、掃除や洗濯など母よりも優秀で理想の娘だって褒められることもあった。
「ねぇねぇ今度はさ、車を洗ってみない?」
    トマトを頬張りながら母が提案してきた。
    やったことはないものだ。でもこれまでもいろいろ挑戦してきて結局はできるようになっていた。だから今回も大丈夫だろう。
「うん!やってみる」
    そう元気そうに返事をしながら時計を見る。
    それから私は少し急いだ気持ちで朝食を食べ終え、彩り豊かな弁当を作り、身支度をして家を出た。
    空は快晴。太陽は眩しいほどに照らされていて気温も真夏日のように暑い。時々タオルで汗を拭いながら通学路を歩く。
    しばらくすると、後ろから走ってくるような足音が聞こえた。
「よいしょっと!おっはよー!清加」
    そうやって元気よく私の隣に来たのは陽果だ。今日もロングの髪を風にひらひらとなびかせている。
「ちょと待ってよー、陽果。あ!おはよ、清加」
     七生は息を切らしながらそう言った。
    私は二人の様子を見て、相変わらずだなと笑みを浮かべる。
「ちょっとさー算数の宿題、後で見せてよ」
     陽果がねだるように言う。
     きっとやるの忘れたんだろうな。よくあることだから。
「いいよ」
    私は何も文句を言わず、許可した。
    私の答えがあってるかどうかは知らない。けれど、忘れ物になるよりかはましだろう。
「ありがとね。本当、いつも助かる!」
    陽果は興奮したような口調でそう言った。
    このように私は、小一の頃から何も文句言わずに、プリントやノートを陽果やクラスの子に貸していた。おかげであっという間にクラスの人気者になり、今も幸せな生活を送っている。
「いつまでも忘れ物してないで、ちゃんとやってよ。あと、清加も答え見せてたら陽果のためにならないじゃん」
    七生はかけている赤淵メガネを指でくいっと押しながらそう言った。
    確かに答えをいつまでも見せてたら、勉強にもならないし、テストでも役に立たない。メリットは忘れ物にならなくて済む。ただそれだけだ。
    私は「だよね」と言いながら、苦笑いをした。
    学校に入れば、桜の大木が並立している道がすぐにある。桜の花びらはすでに散りきっていて、誰もが桜の大木であったことを忘れたかのように、葉っぱばかりになっていた。
「おはよー清加ちゃん」
「よっす!清加」
    教室に入ればそんな声が聞こえてきた。私は反射的に挨拶を返す。そして自分の席に着いた。
    黒板にはいつも通り担任からの挨拶の言葉が白いチョークで書かれていて、その字はパソコンで打ち込んだ字のようにとてもきれいだ。幼い頃に習字を習っていた影響があるんだそう。
   その挨拶の終わりにはいつもこう書かれている。
『糸湊さん、今日もクラスのみんなをよろしくね』
    私はその字を見て微笑む。まるで私の方が先生なのかと、思ってしまうほどだ。
    小二の頃から学級委員をやっていて、頼りがいがあったからか、いつしかこうなっていた。
「清加ちゃん、ちょっと聞いてよー。この前うちのクラスの……」
    そう言ってあるクラスメイトが愚痴を話してくる。
    私は相づちをうちながら話を聞く。
「それはさんざんだったね」
    そのクラスメイトが話終えるのと同時に私はそう言った。
    このように愚痴を聞くことも、毎日のようにある。別に嫌とかめんどくさいとかは思わない。
    人間はいろいろ溜め込むといつかは壊れるって、わかっているからしているだけだ。
    授業の始まりを告げるチャイムが先生の登場と共に鳴る。
    私は席に着き、国語の教科書の適当なページを開いて机の上に置く。それから「起立」とみんなに号令をかけた。
    これは学級委員の仕事の一つだ。他にも出席簿の管理や授業が終わったら黒板を消す、あとは放課後は戸締まりをしっかり行い、鍵を閉め職員室にそれを返す。それぐらいだ。
    最初は忘れることもあったけれど、今じゃ日々のルーティーンになっている。
「じゃあさっそくだけど、この前やった一学期漢字テストを返します。では、出席番号順に取りに来て」
    号令が終わり、みんなが席に着いたのを見て先生はそう言った。
    それと同時にクラスメイトが、ぞろぞろと立ち上がり始める。私も席を立ち、教卓の方へ行った。
「はい、糸湊さん。今回もいい成績よ。さすが学級委員ね」
    にこにことしながら先生はテストを私に返してくれた。私は笑顔でそれを受け取り、自分の席に戻りながら点数を見る。
    結果はほぼ満点と言っても過言ではない、九十八点だった。私は小さくガッツポーズをしながら席に着く。
    私のテストの成績はどの教科も同じぐらいだ。つまりいつも九割は点数がとれているということ。そのおかげで先生からも私の評判はいい。家に帰っても母に褒められるばかりだ。
    先生は全員分のテストを返し終わり、一つため息をついてからこう言った。
「今回のテストの平均点と最高得点を発表します」
    そう言って先生は黒板に白いチョークで数字を書き始めた。
    もちろん平均点は余裕で超えていた。そして最高得点も今回は私の点数だった。
    いつも真面目で頭がいい七生と、ライバルのように点数を争っているから、心配だったのだ。
    私はもう一度、小さくガッツポーズをし、それから筆箱から赤いボールペンを取り出した。テストを返してくれた時に貰った模範解答を見ながら見直しをする。
    とはいえ、間違っているのは五十問中たったの一問だけだ。しかもとてもおしい。
    それは輪という漢字の部首をごんべんにしていたことだ。確かにそういう漢字もある。だけど答えにはあっていない。唯一幸いなのは七生より上の点数をとれたことだ。
    そのあとも授業が続いた。気温は暑いし、蝉の声もうるさいしで集中が途切れそうになることもあったけれど、真面目にノートをとった。
「ねぇねぇ、清加。テスト何点だった?」
    休み時間。七生がくいいるように聞いてきた。
「このクラスの最高得点とっちゃった」
    私はドヤとでも言うように答案用紙をちらりと見せる。
「こりゃ負けたわ。ま、二点差だけどね」
   七生は苦笑いをしながらそう言った。
    私はあぶなと思いながら、鉛筆を筆箱の中にしまう。
「二人ともさ、なんでそんなにとれるの?私なんか三十点よ」
    陽果は困ったようにそう言った。
    確かに天然な陽果にとっては、難しいテストだったかもしれない。それにしても今回は悪い点数の方だ。いつもは五十点ぐらいのはずなのに。
「どこ間違えたの?」
「それがさ、十問くらいは部首間違えであとは空白にしてたりしてなかったり。あと全然違う漢字書いていたり」
    陽果はそう言いながら、答案用紙を見せてきた。
    明らかに空白が多い。勉強はしたのか問いただしたくなるほどだ。とはいえ、私は昨日テストに出そうなところを、見返しておいただけで九十八点を出している。つまり問いただせる立場ではない。
「次、頑張れ。それとも私、教えようか?」
「お願い」
    陽果はねだるようにそう言う。
「あっ!私も」
「俺にも教えてくれ」
    私達の様子を見ていたクラスメイトがそんなことを言ってくる。
    私は人に勉強を教えていることが多い。特に算数では毎回満点をとっているからか、教えてと頼んでくる人が多い。
    そのおかげなのか私は相変わらず、猫の手を借りたいほどの人気者。別に迷惑とか思ったことはない。自分にも相手にも頭が良くなるというメリットがあるからだ。
「了解。先着順だから陽果からね」
    私はそう言ってから、陽果に国語を教え始めた。とはいえ、漢字はとにかく書くことが一番大事である。だから私から教えることはあまりない。頼んでくる人達も、どうしてそうしてくるのか、わからなくなるほどだ。

24
    くたくたになりながも家へ帰れば、不運な出来事が待っていた。
    私の家族はついこの前、離婚したばかりだ。原因は三ヶ月前、父が浮気をしていたことから毎日のように喧嘩になり、私も母もうんざりしていたからだ。
    その父は今、引っ越しの時に持っていき忘れた物を取りにここへ帰ってきている。そのひょうしに母とまたもや、喧嘩になっているということだ。
「私と他の女、どっちが大事なの?」
    リビングから母の怒鳴り声が聞こえてくる。
    私はため息をつきながら、靴を脱いで逃げるように二階へと行った。
    自分の部屋へ行き、父が出ていくまでここでいようかとも思ったが、時間は夕方五時。夕食を作らなければいけない時間だ。
     私はランドセルを机の上におき、仕方なくリビングへと足を踏み入れる。
   その途端、込み上げてきたのは恐怖ばかりだった。全身に鳥肌がたち、手も震えている。でも立ち止まっているわけにはいかない。
    私は重たくなった足を引きずりながらもキッチンに立ち、冷蔵庫から食材を取り出す。
    今日の夕食は母の大好物、カレーだ。私はこれで母の機嫌をとり、いつもの調子に戻ってくれることを心の中で祈りながら、人参やきのこ、とまとやタマネギを冷水で洗う。
    そしてまな板の上に乗せ、震えた手で包丁を持つ。
    そこであることを思う。
    このまま震えた手で洗った野菜を切ってしまえば、間違って指を切ってしまうのではないか。
    そうなれば即病院行きだ。クラスのみんなも心配するだろう。ならば今は冷静に包丁は置いといて、母と父の喧嘩を止めるのが先だ。
    わかってる。夫婦の問題に私は口を出すべき人ではないと。でも、このままでは料理ができない。手はずっと震えたままだったら必ずどこかで失敗してしまう。だから無理到底のことだけど、やらなければいけない。
私は母と父の所に行こうとする。
「俺の事はもうほっといてくれ!」
    父がそう言ってダイニングテーブルの近くにあった、一つの椅子を母に目掛けて投げようとする。
    母さんが、危ない!
     私は母を庇うように父の前に立ちはだかろうとする。
     その時だった。
    ドンッ。
     父が投げた椅子が私の頭に当たった。
     私はそのまま床に倒れた。

25
    目を覚ませば見えたのは見慣れない景色だった。
    白色の天井。肌色のカーテン。
     ここはどこ?
「よかった。母さんもう、清加と話せないのかと思ってた」
    そう言って泣きながら私の体に抱きついてくる。
    母さん?
   清加?
    懐かしい感じがする。だけど何も思い出せない。
「ここは……どこ?私は……誰?」
    その声はかすれたように出てきた。
    それを聞いた母さんと名乗る人は信じられないとでも言うような顔をしていた。
「……ここは病院よ。あなたは……清加。私の最高の娘よ」
    母は涙を流しながらも、穏やかな口調でそういった。
    どうして私は、病院なんかにいるのだろうか。
    思い出そうとするけれど、そうすればそうするほど、頭の痛みは増してくる。
    ガラガラ。
    引き戸を開く音がして白衣を着た男性が入ってくる。きっと医者だろう。
「目が覚めましたか。ちょうど結果を伝えにきたところだったんですよ」
   そう言って医者は、私の顔を見てニッコリと笑う。それから近くにあった椅子に腰掛けた。
「娘は助かるんですか?」
    母さんと名乗る人は、食い入るように医者に問いただした。
     私、何か怪我でもしたのかな。そういえば頭に何か巻かれているような……。
「はい。命に別状はありません。ただ頭を打ってしまったことで患者さんの記憶が失われている可能性があります」
    そう言った医者は寂しい目をしていた。
    そして病室に取り付けられていた、四角い窓から空を眺めれば、どんよりとした灰色の分厚い雲が広がっていた。

26
    母の話を聞いている間、私は何も言えなかった。信じられないほど優秀だった自分。母を庇った自分。そして頭を打ち、記憶を失っていた自分。
    手が震えていた理由は、あの時感じた感覚はこれだったのか。
「つまり私は……小四のその日からずっと記憶喪失だったの?」
「ええ。もう大変だったんだから」
    母は優しい笑顔でそう言って、安堵のため息をついた。
    私は言葉を失った。
    小四の私が愛情いっぱい注いでくれていた母のこと。頼ってきてくれたクラスメイトのこと。浮気をしていた最悪な父のことも。そして優秀な家政婦そのものになっていた自分自身のこと。すべて、忘れてしまっていたんだ。
    気づけば瞳からは涙が溢れ出して、それが頬を伝っていた。
「清加はさ、あれから一度も記憶を失う前のことを思い出すことはなく、何もかもにやる気を無くしてしまって、いつの間にかこうなってたの」
   そう言う母の瞳からも涙が溢れだしている。  
    私はキッチンから箱ティッシュを取って一枚を母に差し出し、もう一枚で自分の涙を拭った。
    私は最悪な人だ。記憶を失う前は頼られてばかりだったのに、今は誰かに迷惑かけてばっかり。こんなの本当の私じゃない。
「今まで黙っててごめんね。清加」
    母は私が差し出したティッシュで涙を拭いながらそう言った。
    私はいつの間に自分の個性という色を見失っていたのだろう。まるで埋められたまま、長年忘れ去られていたタイムカプセルのよう。
    そんな私の眩しい過去をどうして母は五年も話してくれなかったのだろうか。
    いや、母は私が聞いてくるのを待っていたのかもしれない。そうじゃなければ、心から本当の私に気づくことはできなかったと思う。
「あの頃の清加はね、優しすぎて真っ直ぐでその上優秀で理想の娘だった。けれどひとつだけ欠点があったの」
    母は真剣な目をしながらも、穏やかな口調でそう言った。
    あの頃の私には話を聞く限り、いい所しかないような気がする。
    私は首を傾げた。
「いつも誰かのためにって無理しすぎよ。正直、いつか壊れちゃうんじゃないかって心配してた。だからまた無理しすぎないように五年も隠してたの」
    母はそう言ってからまた溢れてきた涙を拭う。
    あの頃の私は人間はいろいろ溜め込むといつかは壊れるって、わかっていたはずだった。だから愚痴を聞いたり、気を使って行動していた。けれど、本当にわかりきってなかったのは私自身だったんだ。
     瞳からはまた雫が溢れ出してくる。私はもう一枚ティッシュを取り出し、それを拭った。
「なのに……清加ったら変わってないわね。自己嫌悪になってたのも、いじめられてたのもずっと黙って自殺しようとするまで、耐えてたじゃない。それじゃ無理しすぎてるのと同じよ。だからいい加減話してあげなきゃって、私の中でも決心がついたのよ。ありがとう」
    そう言って母は私の頭を撫でた。
    そうだったんだ。私は本当の自分の色を一滴残らず消し去っていたのではなかったんだ。何かは同じじゃなきゃ、私は過去の自分には永遠に気づけないでいたのかもしれない。
『お前さ、そのままだといずれ壊れるよ』そんな言葉が頭の中で蘇る。確か、いつかの美華吏が私に言ってくれた言葉。
    もしかして美華吏は私の記憶を思い出させようとしてくれていたの?似た者同士だって教えてくれようとしていたの?
    尚更考えてみても、やっぱり美華吏の正体はわからない。けれどこれでようやく、私は一歩を踏み出せた気がする。変われる方法を見つけれたのだから。
    何事も真っ直ぐに全力でやってみること。そして無理しすぎないよう、時々母に相談したり大好きな読書で心を落ち着かせたりして明るい未来を生きていこう。私はそう決意した。
「母さん、ありがとう。私、これから変われそうな気がする。うんん、変われるようにやってみる」
    私がそう言うと、母は少し驚いたように目を見開いて、やがて花開くようににっこりとほほ笑んだ。
「ようやく心を入れ替えてくれたわね。母さん嬉しいわ。そこでひとつ提案なんだけど」
    母は楽しそうにそう言う。
    まさか……。
「数学の先生、目指してみない?今からでも遅くはない。きっとあなたならなれるはずよ。だってこの前のテストでも数学が一番点数が高かったじゃない?」
    母は目をキラキラさせてそう言った。
    確かに私はまだ進路が決まっていない。数ヶ月前から散ることができなかった、枯葉のように置いてかれていて、正直に焦ってはいた。
    数学は小四の時にクラスのみんなに教えていた。数ヶ月前では美華吏に教えていた。評判がいいか悪いか、そんなのは知らないけれどやってみる価値はある。
「うん!私、やってみる」
「じゃあさっそく明日の放課後、先生に話しておくわ。勉強、頑張りなさいね。志望校もちゃんと決めておくのよ」
    私はそれに元気よく返事をしてから二階へ行った。吹っ切れたように軽くなった足で、自分の部屋へと向かい、机に向かう。そして教科書を置いてある棚の中から高校のパンフレットをいくつか取り出した。
    私が住んでいる市には高校が四つある。それぞれのパンフレットをくまなく見て、一番夢を叶えやすそうな高校を選ぶ。
    それはこの市で二番目に偏差値が高い、コスモス高校だった。普通科と理数科と商業科の三つがあり、どこも魅力的だ。入学するならもちろん、理数科にするだろう。私の成績的にも充分に受かりそうなところだ。
    行事や部活もたくさんあった。中学ではめんどくさいからと言って帰宅部にしていたが、高校では何かの部に入ってみようと思う。そこで興味を持ったのは補習部だ。珍しそうな部活だが、パンフレットに書いている限り、ただ部員同士で、勉強を教え合うだけの部活なんだそう。
    それからしばらく勉強をして気づけば夜の十時。苦手な英語を真剣にやってみたので頭が働きやすく、自分の中でテストをしてみれば、予想外に解けた。
    私は本気を出してやればできる人なんだ。そう実感させられた夜だった。

27
    翌朝。珍しくいつもより、早くに目が覚めた。
    ゆっくりと起き上がりベッドから出て、一階へと行く。キッチンから包丁で野菜を切る音が聞こえた。
    小四の頃の私を思い出すことができたのなら、包丁に対する震えにも打ち勝たなくてはいけない。そうしないと、料理は永遠できないままだろう。
「おはよー母さん。私にも野菜切らせて」
「あら早いわね。じゃあ人参切ってみる?」
    そう言って母は包丁をまな板の上に置き、私を手招きする。
    私は軽やかな足取りでキッチンへ行った。そして包丁を持とうとすると、またもや恐怖が込み上げてきた。
    私はこのままではいけない。いい加減変わらなくちゃ。大丈夫。私は本気になればやれるんだから。きっと失敗したりしない。
    呼吸をひとつし、それから包丁で人参をゆっくりゆっくり千切りにしていく。切れば切るほど震えは収まってきて、不思議に思った。
「久しぶりにしては上出来よ」
    朝食と弁当を作り終わった時に母はそう言った。
    確かに上出来だとは思う。でもまだまだこれからが大事だと思ったので、「そう?」と曖昧に返した。
「そうよ。やっぱり料理の才能あるわね」
    母はそう言ってふふっと笑いを零した。
   とはいえ、作ったものといえば、卵焼きときんぴらごぼうなどという、小学生では普通に作れそうな料理ばかりだ。これではまだ、才能あるとは言えないだろう。
    席につき、朝食を食べ始める。自分で作ったからなのか、その分おいしく感じた。
    それから身支度をし、家を出た。
    すると、私は突如として目を見張った。
    目の前には肩に鞄をかけた、陽果と七生がいたからだ。
「おはよー清加」
「久しぶりにこういうのもいいかなって来ちゃった」
    二人は呑気そうに挨拶してくる。二人と登校するのはいつぶりだろうか。あの頃以来ぐらいの、懐かしい感じがする。
    私は機嫌良さそうに挨拶を返し、三人揃って通学路を歩き始めた。
「てか、寒くない?」
    陽果がそう言いながら手を震わせる。
「もう十一月下旬だもんね」
    七生はわかるわかると頷きながらそう言った。
    もうそんなに時が経ったのか。美華吏が転校してきた十月中旬は、たったの一ヶ月前のはずなのに、すでに遠い思い出のよう。
    思えば最初は、私の心を見透かしてきたような言葉を言ってくるもんだから、心臓が口から飛び足すかと思った。
    あれからいじめが起こって、自己嫌悪な私は弱くて、早々に自殺しようとしていた。
    そんな私を助けてくれて、長所を教えてくれた美華吏。母が教えてくれた、私の中の空白であった記憶を思い出せた今なら、私に大切なことを教えてくれようとしてくれていたことがわかる。
    私は佳奈達にいじめられて、本当におかしな話だけど、よかったって改めて思った。
    それはさておき、陽果と七生も私が記憶喪失だったことを知っているのだろうか。いや、知っていたとしても覚えてくれているのだろうか。答えはわからない。けれど、二人は小学校から一番仲良しだった幼なじみ。きっと知っているだろう。
「私ね、思い出したの」
私はぽつりと呟くようにそう言った。
「それって……記憶のこと?」
    七生はきょとんとした顔から、信じられないとでも言うような顔に、ころっと変えながらそういった。
    そのことに心底、胸を撫でおろす。
「あっ!小四の頃、頭打って記憶なくしちゃったこと?」
    陽果は七生の言葉を聞いて、思い出したように大きな声で言った。
「しっ!近所に聞こえちゃうじゃない。本当、天然なんだから」
    七生は怒った顔でそう言った。
    あの頃の記憶を思い出して、今と比べてみても、相変わらず二人は変わらない。二人らしい反応だと思った。
    そのことに思わず、噴き出してしまう。だけど二人は何も動じなかったので内心ほっとした。
「大変だったんだからねー。先生からも母からも清加には言うなって、口止めされてたんだから」
    七生はぶっきらぼうにそう言って、口をとがらした。
    陽果もその声に、そうそうとでもいうように頷いている。
    確かに口止めされて、五年も黙っておくのはとても大変だ。するりと口に出してしまいそうで、怖かった時もあっただろう。
「ごめんね。なかなか思い出せなくて」
「じゃあ、あの頃のクラスメイトにも伝えておくね」
    陽果はふるふると首を振りながら言った。
「佳奈もそのひとりよ」
    七生はぶっきらぼうにそういった。
    佳奈も私が記憶喪失だったことを知っていたなら、私があの頃の記憶をなかなか思い出せなくて、ムカついたこともあったんだろう。
「ということは……夢は見つかった?」
    陽果は目をずっと封印されていた、宝箱を見つけた子どものように、キラキラさせてそう言った。
「うん!数学の先生」
   私は反射的にそう答えた。
   できれば、クラスの担任とかもやってみたいな。猫の手も借りたいくらい忙しいだろうけど。
「だよねー。そう言うと思った」
    七生は安心したような笑みを浮かべる。
    私はふいに思う。前に二人が行く高校は聞いたけど、夢は聞いていない。
    七生は真面目だから、私と一緒で先生を目指しそう。その一方で、陽果は天然だから、目指す夢も想像ができないな。
「二人の夢は何?」
「私は国語の先生」
七生は躊躇いもなく、そう言った。
    確かに七生は国語のテストで、毎回のように満点をとっている。ならば国語の先生になる夢が、未来で叶っていたとしても、おかしくはない。
「私はまだ決まってないや」
    陽果は夢がある私達を、羨ましがるように言った。
   夢は人それぞれだ。それに私達はまだ十五才。見つけれていなくてもおかしくはない。
「ゆっくりでいいんじゃないかな。まだ時間はあるし」
「ま、あっという間だけどね」
    七生は苦笑いをしながら言った。
    当たり前のようにこの中学校生活も、いよいよ大詰めを迎えようとしている。今更進路を決めた私は、焦らなければいけない存在だ。
「そういえば美華吏とはどうなのよ」
    ふいに思い出したように、陽果は言う。
「ど、どうなのって……」
    いきなりのことに戸惑いを隠せない。
「昨日も一緒に登校してたよね?なんかあったの?」
「聞かせて聞かせて」
    二人は目をキラキラさせて、食い入るように聞いてきた。
   もしかしてこれって……恋バナというやつ?
   もちろん私は恋愛未経験者だから自分から話すことはなかった。七生や陽果の恋バナは聞いたことある。めんどくさがりだったから、恋愛とか興味なくて、棒読みに答えてたけれど。
    ついさっき美華吏という名前を聞いただけで、胸が締め付けられるような感覚がした。ということは私は美華吏に恋をしているのではないか。
    いや、そんなわけない。元々恋心なんてどんなのか知らないし、受験生なんだからそんな余裕あるわけない。
   それはさておき、自殺しようとしていたら助けられたというのを話す気にはなれない。
避けられたって幼なじみというのには変わりないから気が重い。
「秘密」
    私がそう言うと、二人はつまらないような顔をしてすかさず話題を変えた。
   躊躇いがあったからか、安堵のため息をつく。
    そのあとは笑いあったりしながら話をした。こんなに楽しい気分でいられる朝は久しぶりだ。きっと陽果と七生がいるからだろう。
    空を見れば、家を出る時は雲の奥に月光の気配がわずかにうかがえるような曇り空だったのに、いつの間にか雲ひとつない晴天になっていた。

28
    その日の授業は全力で取り組んだ。そしたら予想外のことに、苦手な英語の小テストでは満点がとれたり、体育では「糸湊、どうした?いつもとなんか違うぞ」なんて先生に褒められたりした。
    おかげで気分は絶好調。こんなに学校が楽しいと思えたのは久しぶりだ。
    いつかに聞いたような、ピアノの音をふいに思い出して、鼻歌でリズムをとりながら、掃除場所へ行く。
    掃除場所である保健室に入れば、既にホウキで床を掃き始めている美華吏がいた。
「なんか、ご機嫌だな」
    さっきの鼻歌が聞こえてしまったらしく、嬉しそうに言う。
    私は「そう?」と恥ずかしくなりながらも答えた。
「その鼻歌さ、俺が前にピアノで弾いた曲だよね?」
    言われて思い出す。私が初めて鞄と上履きを盗まれて途方に暮れていた時、授業中というのをわかっておきながら、それを見つけ出してくれて、おまけに音楽室でピアノを聞かせてくれた。その時のメロディとぴったり同じだ。
「そうだよ」
    その言葉を返しながら頭の中で、あのメロディを思い出してみると、どこかで聞いたことがあるような、不思議な懐かしさと心地よさを改めて覚えた。
「明後日の夕方、あの場所へ来てくれないかな?そこでピアノを弾きながら待ってるから」
    どこか不思議な雰囲気を感じさせるように、美華吏は言った。
    まるで私達が前に逢ったことがあるかのように感じる。実際、彼のことは入学当時から優しいながらも、どこか不思議な存在となっていた。
    もしかして、私はまだ思い出せていない記憶があるのかも。そこにきっと美華吏の謎は封印されたように隠されている。
    あの場所というのもよくわからない。少なくとも前に行ったところがある場所なのだろう。でも美華吏と昔に逢ったかっていうとやっぱり思い出せない。
「あの場所じゃ、わからないよ」
「やっぱり覚えてくれてないんだな。大丈夫。清加は絶対に明後日、そこにたどり着けるから。今はどこかわからなくても」
    自信に満ち溢れたような顔をして、美華吏は言った。
    その自信はどこからやってくるのだろうか。わからない。けれど、私にはまだ思い出せていない記憶があることは自覚した。
    私は気を取り直して、もう一度まだ空白が少しある、あの頃の記憶を思い出そうとする。
    家事が得意で堂々と優等生だった私。そんな私を、無理をしているのではないかと心配しながらも、関わってくれていた母や陽果や七生。浮気をしていたという父。
    今、思い出せているのはそれぐらい。美華吏の記憶はどこにも見当たらない。
「ねぇ、本当に思い出せれるの?」
「百パーセントとは限らないけどさ、清加ならきっと思い出せる」
    迷いもなく美華吏は言う。きっと私がいくら不安を口にしたって、その自信を曲げようとはしてくれないだろう。
    そもそも美華吏から直々に伝えてくれればいいのに。彼はどうして、まわりくどく言ってくるのだろうか。
「宇高君からは教えてはくれないの?」
「ああ。その時はまだ早い。それに自分の空白は自分で見つけるもの。そうだろ?」
   わかってはいた。ここでいくら言っても美華吏は話してくれないと。
    やっぱり美華吏は不思議な人だ。だけど、自分の空白になっている、記憶の最後の人欠片ぐらいは、自分で思い出さないといけないもの。確かにいつまでも人に頼っていては大人になれない。
    私は頭にクエスチョンマークを浮かべながらも、掃除の終わりを告げるチャイムがなったので保健室をあとにした。

29
    翌日、昼食後。空は相変わらず鉛を張ったような曇り空。風は爽やかに吹いていて秋らしい。
    私は自分の部屋の扉に身を任せて、両膝を抱えて座り込み、そこに顔をうずめていた。
    相変わらずまだ空白になっている、記憶はなかなか思い出せない。自分で思い出さないといけないものというのはわかってはいるけれど、人欠片もでてこない。まるでないはずのピースをずっと探しているみたいだ。
    私はどうしたらいいのだろうか。
    タイムリミットは明日の夕方。それまでに空白の記憶を思い出して、”あの場所”へたどり着かなければいけない。
     ”あの場所”とはどこのことなのだろうか。
必ず行ったことがあるから、この言い方をしているのはわかるんだけど、ぐねぐねとした迷路に迷ってるみたいに全然答えは見つからないし、手がかりすらつかめない。
    だからってこのまま、ずっと座り込んでいても見つからないのは一緒だろう。
    私はふと立ち上がり、棚からアルバムを取り出す。
    アルバムなら写真がいっぱいあるし、そこから手がかりを見つけれるのかもしれない。
    アルバムは棚に二冊並べられている。どの順番で並べられているかはわからないから適当に一冊を手にしてパラパラと捲る。
     そこには小学五、六年生の時の写真がたくさんあった。学級写真や行事の時に幼なじみと撮った写真、母と一緒に海に行った写真などいろいろだった。
    それにしてもやけに重みがある。アルバムではあるあるなのだが、久しぶりに手に取ったからか、その分重みを感じた。
    しばらく懐かしさと心地よさを覚えながら、パラパラとページを捲る。頭の中で当時のことを思い出して、ふと笑みを浮かべたこともあった。
    もう一冊の方も手に取って、パラパラと捲ってみる。
    中学一年生から現在までの写真があった。月日なんてあっという間だなと入学した頃になつかしさが胸にこみ上げ、その姿形のすべてが心の中にある思い出の像と焦点を合わせながら、ページを捲る。
   二冊目を読み終わったところでふと思う。
   どうして小五から前のアルバムがないのだろう。
    母が捨ててしまったのだろうか。はたまた私が捨ててしまったのだろうか。いや、そんなことがあるわけない。
    アルバムは昔の何気ない日々を唯一、見返すことができるものだ。新たな発見をすることもある。そんな大切なものを捨てるわけがない。
    それならばどこへいって、しまったのだろうか。
    私は母に聞きに行こうと、一階へ降りて、リビングに入った。
    母は椅子に座り、緑茶で一服をしていた。
「母さん。聞いてもいい?」
「なんか、悩み事?」
    母は穏やかな口調でそう言う。
「さっきね、アルバムを見てたんだ」
「懐かしいわね。ひょっとしてこの前の記憶の話を聞いて見たくなったのかしら?」
    母はそう言って優しい笑みを浮かべた。
    正確には美華吏が言った”あの場所”を探るためにアルバムを見ていた。
    でも母が美華吏のことを知ってるわけないよね。血の繋がった家族でもない、ただのクラスメイトなんだもの。
「うん。そのことなんだけどね、小四の時の写真もその前の写真もなかったんだ。なんか知らない?」
「残念ながらね、父さんが私と離婚してこの家を出ていく時に、持っていてしまったのよ。本当、最悪よね」
     母はため息をついてから言った。
     まさか浮気していた、父が持っているとは予想外だ。でも幼い頃、父とはよく遊んだことを覚えている。旅行にも連れていってくれたっけ。
「どうして?」
「わかんない。いつの間にか無くなってたから。気づいたときにはもう、完全に父がでで行ったあとだったから」
    母はまたため息をつく。
    そんな……。
    私はアルバムを見て”あの場所”の正体を自分で見つけ出したかったのに。
    これじゃたどり着けない。でも他のきっかけといえば、
    私がそうやって頭を抱えていると、
「そうだ。清加、ちょっと頼まれてくれない?」
    母はふいに思い出したような顔をしてそういった。
    それどころではないけれど、肩をすくめながらもうなずいた。
    さっきアルバムを見たのは結局のところ、何も思い出せなかったから、取り越し苦労といっても、おかしくはないだろう。
    今度こそ私が、まだ思い出せていない記憶と関係しているのかもと、ひそかに期待を寄せながら。
「この前、久しぶりに庭にあった倉を開けてみたら、ピアノが出てきたの。それで今から売りに行こうと思うんだけど、手伝ってくれない?」
    庭にそんなものがあったのか。十年以上も住んでいた家のはずなのに知らなかった。たぶん、記憶喪失の影響で思い出せなくなった記憶の一つだろう。
    しかもピアノって、美華吏と関係している。何か手がかりが掴めるかもしれない。
    それから庭にあった倉の方へ行く。倉はずいぶん古そうな感じだった。
    さびついた青色の瓦屋根。近年に塗り直したかのように漆喰できれいに仕上げられている側面。そして、もう外れかけになっていた扉。
    側面に塗られている漆喰以外はすべて年季があるように見えた。
「いつからあるの?」
「わかんない。ここが実家だったわけでもないしね。きっと随分前にここに住んでいた人が建てたんだと思うの。壁に塗ってある漆喰はね、元がすごくさびていてカビもあったから、業者に頼んで父と離婚する前に塗り直したんだ」
    母はそう言いながら、倉の扉に近づいていく。私もそれについていった。
    扉は年季があるのか、いつ壊れてもおかしくないぐらい、さびていてドアノブも回らないほど固かった。
    やっとのことでそんな扉を二人で開けると、中では天井から雪のようなほこりがはらはらと舞っていた。
    中にあるのは古いものばかりだ。金庫や着物を入れたタンスなど、どれも相当劣化していた。
    その中にひとつだけ真新しいものが見える。
    それが今から売りに行くというピアノだった。
    黒色をベースとしたアップライトピアノは、少し埃を被っていたが、使えるようではあった。
「このピアノはね、清加が小学になる時に買ったの。よく弾いてたわでも……記憶喪失になってからは触らなくなっちゃってということで倉入りしたのよね」
    母はそう言いながらピアノのふたを開け、それから近くにあった椅子に座り、軽く鍵盤を押す。
    シャープのレの音が倉の中に響く。
    その音は何気ない一音なのに、とても心地よさを感じた。
「使えるわね。他の音も試してみるわ」
    母はそう言ってにこりと微笑むと、鍵盤をランダムに弾き始めた。
    音と音が重なってメロディを奏でていく。
    それは聞いたことがあるようなメロディだった。
    そう。美華吏が私のために弾いてくれたメロディだ。
    母はこのメロディをどこから知ったのだろうか。弾きなれているように母の指はすらすらと動き、鍵盤が弾かれる。
    母も美華吏も知っている曲ということは少しは有名な曲なのだろう。
    元々母は音楽を好きかというと、好きではなさそうな方だ。歌いたいからカラオケに行くわけでもないし。ただ機嫌がいいときに鼻歌を歌うだけ。
    そんな母のことだったから、ピアノを弾くところを見るのは、生まれて初めてと言っても、過言ではなかった。
    それはさておき、やっぱりこのメロディには不思議と懐かしさと安らぎを感じる。まるで幼い時に聴いていたみたい。
    そんなことを考えてるうちにメロディは終わりを告げた。
「よーし。大体は使えるわね。久しぶりに弾いたわ。ピアノなんて」
    母はそう言いながらのびをする。
    久しぶりに弾いたということはいつぶりに弾いたのだろうか。考えてみればどうでもいいことかもしれない。
「前はいつ弾いたの?」
「いつだったかしら?もう覚えてないわ」
    首を傾げながら母は言った。
    母もこの人生を生き始めて、もうすぐ五十年が経つ。記憶が曖昧になることだってあるだろう。
「そのメロディ、どこから知ったの?」
    やっぱり気になっていたことを聞いてみた。
「知ってるも何も、私が作った曲だもの」
    母はきょとんとした顔で言った。
     予想外すぎる言葉に、私は目を見開いた。
     私の母は作曲家だっただろうか。いや、そんなわけない。元から歌はあまり歌わない人だし。
「ど、どういうこと?」
「清加がね、まだ幼かった時に子守唄として鼻歌で歌ってたの。適当に作ったから歌詞はないけどね」
    適当に鼻歌で歌ってたわりには今、ピアノで弾けてたし、安定感のあるメロディだったから相当考えて作った曲だと誤解してしまう。
    とはいえ、子守唄というのは、大体は安定感のあるメロディだ。その方が眠気を誘いやすい。
「だから懐かしさを感じたのか」
「そうよ。いい曲でしょ?」
    それは自画自賛なのだろうか。はたまた母を褒めてと甘えているのだろうか。私にはわからない。だけどいい曲と思っているのは変わりない。
「うん!メロディが好き」
    そう言いながら一つの疑問を浮かべた。
     母が作った曲なら、なぜ美華吏は知っているのだろうか。家族や友達だったわけでもないし、顔見知りでもない。ただ不思議で優しい彼。とても不可解に感じた。
「ふふっ。作曲家じゃないけど、作った曲を褒めてくれたのは嬉しいわ。さてと、運ぶわよ」
    母は少し笑って、立ち上がりながら言う。
     私もピアノを持つ体勢を整える。
    大きさ的には二人で運べるのか心配だけど、近所に頼れる人がいるわけでもないし、仕方がないだろう。
「せーの!」
   母の掛け声と共に、私達はピアノを持ち上げる。
    思ったよりずっしりとしていて、持ち上げるのも一苦労だ。
    その時、外で風がビュンビュンと音をたてて、強く吹き始めた。
「ちょいと降ろすわよ」
    母にそう言われて、私達はピアノを降ろした。
「風、強そうだね」
「また今度にしよっか」
   母は呑気に言って、手ぶらで家の方へ戻る。私もそれについていった。

30
   翌日の昼過ぎ。空は相変わらずの曇り空だ。
    私は今、とても焦っている。空白になっている記憶をいまだに思い出せていないからだ。
    時は二時半。どれぐらいの距離があるかわからないし、早めに家を出た方がいいだろう。
    そもそも”あの場所”の正体がわからなければ、いつまでもたどり着けないじゃないか。
    言ってくれたらいいのに。どうして答えを明かしてくれないの。見つけれないの。
    朝に部屋中を部屋の掃除をするついでで、何か記憶に関する物はないかと探していたのだが、全然見つからなかった。
    だから今はこうして、部屋に一人、うずくまっている。
    こんなことしてる場合ではないのに。
    気づけば、私の瞳からは悔し涙が出ていた。それが頬を伝っていく。
    途方に暮れていた、その時だった。
    ピアノという言葉が頭に浮かんだ。
    きっと昨日のことを思い出したのだろう。
    やっぱりあのピアノの存在は不可思議だ。
    私はピアノを生まれてから一度も弾いたことがない。だから弾ける曲もない。母は幼い頃によく弾いてたと言っていたが、誰かと間違えたのだろう。
   もし”あの場所”がわかってもすぐいけるように、肩掛けの黒いトートバッグの中に、最近買って貰ったスマホと、交通手段を使うかもしれないから財布を入れて、ドタドタと階段を降りる。
「清加、どこへ行くの?」
    そうやって心配してくる母をよそに
「ちょっと散歩」
    と素っ気なく返して私は急いで靴を履き、倉へと向かった。
    壊れかけの扉は毎回外すのも手間がかかると母が言って、外しぱっなしにしていた。だからか、倉の中は外から丸見えだ。
    昨日売りに行こうとしていたアップライトピアノも、次回の時に持っていきやすいように、入り口付近に置いてある。
    私は何か手がかりはないかと、ピアノをいろんな方向から見てみた。
    もちろん、そんなのあるわけない。どこにでもある普通のアップライトピアノだ。
    夕方というタイムリミットは近い。刻一刻と腕時計の針は進んでいく。焦らなきゃいけないのはわかっている。
    私はピアノのふたを開けてみたり、引き出しを開けてみたりして手がかりを探した。
    そして楽譜立ての裏を覗いてみた時にそれは見つかった。
    一枚の写真だ。
    二種類の花が一面に咲いている花畑。その真ん中にはなんの変哲もないアップライトピアノがあり、それを弾いている少年を撮った写真。
    それを見た途端、瞳からは涙が溢れだしていた。
    私はとても大切な記憶を、そして不思議な美華吏の正体を、やっと思い出したのだ。

31
     ____時はまた、五年前に遡る。
     ある日の夏の夕方。リビングでは相変わらず父の浮気による、母との喧嘩が勃発しようとしていた。
    私はというと、ある少年と一緒に階段の途中で怯えたように座り込んでいる。そして息を殺し、聞き耳をたてていた。
「あなた、いい加減にしてちょうだい!もう、離婚よ!離婚!」
    母はそう、耳を塞ぎたくなるほどの怒鳴り声を上げる。
「今、離婚って言った?」
    少年は口から出た微かな声でそう言った。母達に聞こえないように気を使っているのだろう。
    私の体は震えていた。父が浮気をしていたことは前から知っていたし、いつ離婚してもおかしくはなかった。でもやはりその言葉をいざ耳にすると、震えがやまない。
    そして瞳からは雫が今にも、溢れだしそうになっている。
    そんな雫を気にしながらも、私は少年の方を向いた。
    少年は髪をショートにしていて、瞳は茶色。顔立ちもよく整っている。
「怖い、怖いよ」
    私は震えた声でそう言った。
    父と離ればなれになるのが怖いのだ。浮気をしてなかった頃はよく、旅行に連れていってくれたからだ。
    離ればなれになるということは、もう父とは旅行に行けないこと。それは私にとって寂しいことであった。
「行こう」
    少年はそう言うと立ち上がる。
こんな夕方にどこへ行こうとしているのだろうか。迷子になるかもしれないのに。
「どこに?」
「それは秘密だ。行くぞ」
    囁くようにそう言って、少年は私の手を引いた。
    私はまだやまない震えを抑えながらも立ち上がる。
「こんな時間に?」
「母の怒鳴り声を聞くのももう、うんざりだろ?」
    少年は真剣な顔をして言うと、私の手を引いたまま玄関へ行った。
    確かに母の怒鳴り声を聞くのには、私もうんざりしている。だからと言って家出をするなんて、度が過ぎていると思う。
    とはいえ、行く場所は秘密と言っていたから決まってはいるのだろう。
     私達は靴を履き、家を出た。
    体はまだ震えたままで足も上手く動かない。そんな私の手を引いて迷いもなく進んでいく少年。
     空はすっかり夕暮れで、透き通った茜色に染まっていた。雲は一つもなく、夕陽は眩しいほどに光を放っていて、目を瞑りたくなる。
    曲がり角が多い道を少年に手を引かれるまま引きずられるように下っていく。河川敷についたら次は林を抜け、その先にあるのが目指していた場所だった。
    そこには二種類の花が一面に咲いていた。淡い青色の小さな花をたくさんつけ、川岸でひっそりと咲いている花。もう一種類は薄いピンク色の花を咲かせている。花色の変化に光の陰影が加わって、ピンクのグラデーションが複雑に交わっていた。
「きれいー」
「だよな。ピンクのはコスモスってわかるんだけど、もう一つはわからないんだよな」
    少年はそう言って頭をかかえる。
    コスモスの花言葉は「優美」。私はこの頃、臆病な優等生だったので、そんな私にぴったりの花だと思った。
    もう一つの花の名前はなんだろう。見たことのない花だ。だけど淡い青色の花びらからは優しい感じがした。
「じゃあ、名前を知れた時に、また来よう」
「そんな、別れるんじゃないんだからさ」
    少年はそう言って、冗談だろうと笑う。
    もし離婚というのが本当ならばこの少年はどっちに着いていくのだろうか。厳しくておしゃれ好きな母か、子供思いだけど浮気をしてしまう父か。
「ねぇ、離婚するならどっちに着く?」
    私なら迷わず、母に着いていく。母は私にたくさんのことを教えてくれた。料理や洗濯、掃除の仕方まで。
    料理はまだ始めて一年半だからもう少し上達させた方がよいだろう。それに家計簿やスケジュール帳の付け方とかも習いたい。そうすればきっと自立するときに役立つから。
「俺は父さんかな。ピアノもバレーも教えて貰ったからもっと上手くなりたい」
    少年は目を輝かせながらそう言う。
「じゃあ、お兄ちゃんとは離ればなれだね」
    父とも少年改め、兄とも離れてしまうなんて寂しい。生まれてきてからずっと、一緒に暮らしてきたのに。
「お兄ちゃんなんて、俺達は双子だろ?同じ日に生まれてきたから兄妹とか関係ないよ」
     そう。私達は僅かな時間差で同じ日に生まれた、いわゆる双子だった。
    生まれてきてからずっと一緒で、私が作った料理を美味しいと言って食べるお兄ちゃん。時にはピアノを聴かせてくれた。
    兄がでるバレーの試合に家族と行ったこともあった。彼には才能があり、小四のわりにはチームのエースになっていた。特にサーブは強烈で、目にも止まらぬ速さでボールを打ち、相手から点数をもぎとっていく。
    そのおかげで大会で優勝をとっていたことも数えきれないほどあった。
    そのことから父に着いていく理由は充分に理解できた。
「じゃあ、美華吏?」
「前からそう呼べっていってるだろ?」
    そう言って美華吏と名乗る兄は、私の頭をわしゃわしゃと撫でる。
    少しくすぐったい。だけど不思議と優しさを感じた。
「俺のこと、忘れんなよ。清加」
    寂しそうな目で私の頭を撫でながら美華吏は言う。
「忘れるわけないよ。約束する。美華吏」
    私はそう言って寂しいのを我慢するように無理矢理笑顔を作った。
    忘れるわけがない。私の大切な家族なんだから。
    そう思いながら空を見上げると、さっきの夕陽はもう沈んでいた。というか、雲がかかってきていたせいで見えなくなっていた。その雲の色は寂しい灰色に染まっていた。

32
    私はその記憶を思い出した途端、持っていた写真をジーンズのポケットに入れ、走り出した。動きやすい青色のパーカーを上に着てきたので良かったと思う。
    いつか夢で見たあの少年は私の兄だった。髪型は違ったけれど、美華吏というのは変わらない。
    あの時、忘れないって約束したのに。どうして忘れてしまっていたのだろうか。
    思い当たる理由は一つだけ。そう、父のせいで記憶喪失になったことだ。
    元は浮気した父も悪い。あげくに椅子を投げてきたから悪者当然だ。だけど母を庇って頭を打った私も、おかげで記憶喪失になってしまったから美華吏に申し訳ない。
    私は力の限り走る。
    美華吏に逢いたい。

33
    私は”あの場所”という名のコスモスと名知らぬ青い花が一面に咲いている花畑へと向かっている。
    花の名前はもちろん、わからない。でも美華吏なら知っているかもしれない。あの時から五年も経っているからだ。
    曲がり角が多い道を下っていき、河川敷へと向かう。
    美華吏に会ったらなんて謝ろう。臆病な優等生だった私を、同じ優等生として双子の兄として、私を支えてくれていた美華吏。そんな大切な人を忘れてしまっていたなんて、みっともない。穴があったら入りたい。
   あの時、母を庇わければよかった。
    そう思った瞬間、後悔する。
    私が庇わなかったら最悪の場合、母が亡くなっていたのかもしれない。そう考えればそれをかばった私も亡くなっていたのかもしれない。だから今を生きれているのは不幸中の幸いだ。
    ようやく河川敷に着いた。アスファルトから陽炎が立ち上っている。
    思い出した記憶を辿れば、林の先に”あの場所”はある。そして美華吏はそこで私を待っている。
    美華吏は母が作ったあの子守唄を知っている。衝撃のことだったが、双子の兄とわかった今なら知っていてもおかしくはない。
    私はふと腕時計を見る。
    針は午後三時を差していた。まだ夕方とは言えない時間だ。
    とはいえ、タイムリミットは今もなお、刻一刻と近づいてきている。
     河川敷を勢いよく走る。
     一瞬足がもつれそうになった。でも今はそんなことで立ち止まってる場合じゃない。
     三メートルぐらいある楓の木の林に入っていく。中は薄暗い。早く抜けないと陽が暮れてしまうだろう。
    そしたら迷子になるのも当然だ。いや、もうすでに迷子になっているのかもしれない。ただ美華吏に逢いたい。約束を守れなかったことを謝りたい。そしてこんな私でも優しくしてくれたことにありがとうを言いたい。そんな気持ちで夢中に走っていたから、道も周りの景色もあまり覚えていない。
    楓の木からは時々、枯れ葉がひらひらと舞い降りてくる。冬が近づいてきているという証拠だ。
    私は最初、散ることのできなかった枯れ葉のように置いていかれていた。夢もなければ長所もなく、母に怒られてばかりの最悪の私だった。
    そんな私が美華吏と出会い、最初は長い髪に女かと思ったり、心を見透かしてきたような言葉を言ってきたりして、不可解に感じることもあった。
    それも今ならわかる。あれは記憶喪失になっていた私を助けてくれようとしていた美華吏の優しさだったんだって。
    ただやらされているだけの勉強も運動もみんなの平均近くだった。そんな私に数学を教えてと頼みにきてくれた。
    あの時はめんどくさいと思っていたけれど、美華吏にとっては私に記憶を思い出させるためにやってくれたことかもしれない。
    私の鞄と上履きと筆箱を盗まれた時は授業中にもかかわらず、見つけ出して途方に暮れていた私のところに持ってきてくれた。そして慰めの意味でピアノであの子守唄を弾いてくれた。
    懐かしさと安らぎを感じたのは、母が作ったからとそれを美華吏が弾いたからだと思う。
    私が自殺をしようとしていた時には、私の長所を教えてくれて、灰色に染まっていた私を救いだしてくれた。
    あのまま私が自殺していたとしたら、過去に優等生な自分がいたとは気づかなかっただろうな。
    そして美華吏の正体についても、思い出せなかっただろう。
    だからこれからは美華吏に感謝して、記憶喪失だった私をここまで育ててくれた母に恩を返していこう。
    それが今の私にできる一番のことだと思うから。
    耳をすましてみれば、ピアノの音が微かに聴こえる。
    きっともうすぐ林は抜けれる。そして美華吏と会える。
    そんな時に地面にあった大きな石で足をつまづいて転んでしまった。
    痛い。血も出てきている。
    だけど……。
    こんなところで立ち止まってる場合じゃない!
     私は痛みを我慢して走った。
     未知なる世界の中にようやく光が差し込んでくる。
「美華吏ー!」
    そう叫ぶと同時に私は林を抜けた。
    目の前にはコスモスと名知らぬ青い花が一面咲いている。
    その真ん中で一人、ピアノを弾いている美華吏がいた。
    美華吏は私の叫び声が聞こえたらしく、こちらを向いてにっこり笑っている。
    私はきれいに咲いた花達を踏まないように走り、美華吏の元へ行った。
    息が荒い。苦しい。
    やっとのことでゴールにつき、私は立ち止まって息を整える。
「思い出せたんだな。信じてたよ」
    美華吏は相変わらず優しい。今もああいいながら私の頭をポンポンとしてくる。
    美華吏という大切な人のことを、忘れていた私は最悪な人と言われて当然なのに。
「なかなか思い出せなくてごめん!でも思い出したよ。美華吏は過去に臆病で優等生の私を支えてくれていた、私の双子の兄、だったんだね」
   そう言った瞬間、瞳からは涙が溢れだす。
    この感情は一言では言い表せない。なかなか思い出せなかった悲しみと申し訳なさ。それでも優しくしてくれた嬉しさ。それが複雑に混じりあっている。
「そうだよ。この時をずっと待ってた」
    美華吏は穏やかな口調で空を見上げながら言った。
     私も空を見上げる。
    目の前にはきれいな夕焼けが広がっていた。
    林に入る前は曇り空だったのに。
「この写真から思い出したんだ」
    私はそう言いながらジーンズのポケットから写真を取り出して見せる。
    淡いピンク色の花を咲かせたコスモス。優しい青色の花を咲かせた名知らぬ花。その二種類の花が鮮やかに一面を彩っている。
    その真ん中でピアノを弾いている、小四の頃の美華吏の写真。
    髪の長さは違うけれど、やっぱり美華吏はあの頃の面影を今も残して生きている。
「あの倉にしまったピアノ、まだあったんだ」
     嬉しそうな顔をしながら美華吏は言う。
「メロディは母が作った子守唄だったんだね。有名な曲かと思ってた」
「あれ、いいメロディだよな」
    そう言って二人で笑いあう。
    美華吏に再会できてよかった。もしも思い出した時がもうちょっと遅かったら、こんな幸せな時間という奇跡は、訪れなかったかもしれない。
「この花の名前、知ってるか?」
    美華吏はそう言いながら、青色の小さい花をたくさんつけ、川岸でひっそりと咲いている花を指差す。
    もちろん、その花の名前はまだ知らない。
     私は首を傾げた。
「勿忘草だよ。花言葉は『私を忘れないで』」
     勿忘草とつけられた花は、爽やかな秋風に揺られている。
    小四の頃に交わした約束と一緒だ。私はあの約束を守れなかった。でも、五年という時をえて、ようやく思い出した。
「ありがとね。私に思い出させてくれて」
    そう言って満面の笑みを浮かべる。
「ああ。思い出してくれてありがとう」
    きっと今までのことがなかったら私は一生、思い出せなかっただろう。思い出したとしてもその時に、美華吏は近くにいないかもしれない。そしたら一生、後悔することになっていただろう。
    それはさておき、幼い頃に旅行によく連れていってくれた父は元気だろうか。
「父は、あれからどう?」
「それがさ……」
    美華吏は急に寂しい顔をして言う。
    きっと良からぬことでもあったのだろう。
「清加が自殺しようとしていた前日に、流行り病で亡くなった」
    私は衝撃のあまり息を飲む。
    でも私の記憶を失わせた、そして浮気をしついた悪者だからざまあみろと思った。
「これからどうするの?」
    父が亡くなったということは、今は一人暮らしということ。寂しいだろうし、受験生ということもあるから大変だろうに。
「そこで一つ提案なんだが、一緒に住ませてもらえないか?」
    美華吏は顔の前でお願いと手を合わせながら言う。
    確かに私達はまだ社会人ではない。一人で生きていけないのは当然だ。金がなくなるのも時間の問題だろう。
    私はいいとして母はそれを承諾してくれるのだろうか。厳しくておしゃれ好きだからわからない。
「やっぱりここにいた」
    噂をすれば母が林を抜けたところに立っていた。
     どうしてここにたどり着けたのだろうか。思い当たる理由は一つだけ。小四の時もここに迎えに来てくれたからだ。
「遅いから迎えに来ちゃった」
   そう言って私達の所に駆け寄ってくる母。どうやら私の隣にいる美華吏には気がついてないらしい。
「お疲れ様。遠かったでしょ?」
    私はそう言いながら腕時計を確認する。
    ちょうど四時半だ。そろそろ帰らなければ陽が暮れてしまうので、グッドタイミングだと思った。
「私をなめないでよ。って……美華吏!?」
    母はそう言って口をあんぐり開けている。
     それもそうだろう。生き別れで五年も離れていた実の息子にやっと再会できたのだから。
「久しぶり。母さん」
    美華吏は花開くような笑みを浮かべる。
    こんな感動の場に私がいていいのだろうか。咄嗟に申し訳なくなった。だけど、逃げるところもないし、ここにいるしかないだろう。
「清加ー。言ってくれたらよかったのに。どうりで宇高っていう名字、聞いたことあるなと思ってた」
    母は口を尖らせながら言う。
    言えるわけがない。二時間前に思い出してここまで走っていたのだから。
「だってー」
「まぁ仕方ないわよね。記憶喪失で忘れてしまっていたこともあるかもしれないし」
    いや、あった。私は記憶喪失のせいで美華吏のことを忘れていた。怖がりな優等生の私を支えてくれていた大切な家族の一人、だったのに。
「今日はうちで泊まっていきなさい。父には私から言っておくわ」
    そう言って母は林の方へ戻ろうとする。
「それが実は……」
    美華吏はそう言って母に父が流行り病で亡くなったことを伝えた。
    帰ったら夜ご飯に何を作ろうか。肌寒いからシチューとかどうだろうか。いや、もしくは美華吏の大好物の方が喜ぶのではないか。てか何を考えてるんだ。気をしっかりもて私。血が繋がってたのだから恥ずかしくなるな。
    私は首をぶるぶると振って気を取り直す。
    確か美華吏の大好物は私と同じ唐揚げ。さっぱり柔らかな鶏ささみで作っていて、脂濃さとレモン汁の甘酸っぱさが上手く絡み合っている唐揚げだ。
    揚げ物は久しぶりだから上手くできるかわからないけれど、やってみる価値はある。
「それなら早く言ってよーもう。これからよろしくね。美華吏」
    どうやら美華吏の話は終わったらしく、母が握手と手を差し出している。
「よろしくお願いします。ほら、清加も」
    私は一瞬戸惑う。握手とか美華吏がいるからか恥ずかしく感じる。だけど母もしてるし、一緒にならいいだろう。
    それに私達は一度生き別れたけれど、こうやって再会できた家族。まだこれからどうなるのかわからないけれど楽しく暮らせていけるような気がする。
「改めてよろしくね。美華吏」
    そう言って私達は手を取りそれから微笑を浮かべて同時に手を離した。

34
  その日の夜。私はささみの唐揚げを作った。
    ささみを一口サイズの大きさに切り、パン粉ととき卵で衣をつけ、油で揚げていく。
     久しぶりだったけれど、作り方は記憶喪失が治ってきたおかげで思い出せた。
     いい感じに焼き色がついてきたら、サラダと唐揚げにかけるレモンと一緒に、皿にもりつけて、あとは炊飯器で炊いた白米を茶碗によそえば完成。それをテーブルに並べ、席に着く。
「わー。懐かしの清加の唐揚げだ!」
    美華吏はわくわくした顔でそう言って席に着く。
    私はその様子が可愛く見えて、噴き出してしまった。
「ふふっ。よかったわね。喜んでもらえて」
    母は噴き出しながらそう言って、私にウインクする。
    もう、彼氏じゃないんだから。と少しムカつきながらも緑茶を入れたコップを持った。
「では、家族の再会を祝しまして、カンパーイ」
「カンパーイ」
    その声と同時に触れ合ったコップ同士がカチャリと音をたてる。
    それから私達の新しい生活は、始まりを告げるのであった。

35
   翌日の昼休み。空は雲ひとつない青空が果てしなく広がっていて、風も心地いいほどに吹いている。私達は中庭の芝生の上でお弁当を食べていた。
「じゃあ、今度こそすべて思い出したのね」
    七生は私の昨日の話を聞いて、厚焼き卵を頬張りながら言った。
「兄のこと、全然口に出さなくなってたからわざとそうしてるのかと思ってた」
    陽果はすっきりとした笑顔を浮かべながら言う。
    確かにもし覚えていたままだったら、臆病な私のことなので美華吏と離れてしまった悲しみや寂しさを思い出したりしないよう、そういうことをしていたかもしれない。
「ま、臆病な清加のことだからあるかもな」
    美華吏はそう言いながら、昨日の残りの唐揚げを美味しそうに一つ食べる。
    私がそれに苦笑いをしていると、
「あの、ちょっといいですか?」
    後ろからそう声をかけられて振り替える。
    咄嗟に私は息を飲んだ。そこには美華吏のことが好きで少し前までは、私の鞄や上履きや筆箱を毎日のように盗んでいた、佳奈がいたからだ。
    七生と陽果がそのいじめを止めてくれた時には、こんなことしてる自分がバカだったとか言っていたけれど、今頃にまた話にきたということは何かがあるのだろうか。
「記憶、思い出したんだよね?」
    佳奈は確認するように聞いてくる。
    佳奈は私が記憶喪失になる前も同級生であり、よく愚痴を聞いていた。バスケが得意でよく部長を頼まれていた。
    私はゆっくりと頷く。
「そのことなんだけどね、実はその……いじめは美華吏君のことが好きでやってたわけじゃないの」
    私は思わぬ言葉に目を見開いた。
    その一方で、美華吏は俺のこと好きだったの?って言ってそうな顔をしている。どうやら初耳だったようだ。
    好きでなかったのなら、どういう理由で私をいじめたのだろうか。いじめが悪いことであるのに変わりはないが、理由は知りたい。
    まさか……。
「作戦だったの。清加ちゃんに記憶を思い出させるための。本当にごめん!」
    そう言って佳奈は頭を下げた。
    確かに私はいじめと美華吏と母のおかげで記憶を取り戻すことができた。でも作戦だったとはいえ、いじめというのは度が過ぎていると思う。
「もう佳奈ったら無茶苦茶だよ」
「いきなり避けろとか言われて動揺したよ」
    陽果と七生は笑いながらそう言っている。
    確かに佳奈は意外なアイディアを思い付くことが多い。今回のは過剰だったけれど、それが美華吏と母がいたことで、うまい具合にいったようだ。
「ありがとね。思い出させてくれて。これからまた、よろしくね」
    私はそう言って無理矢理笑顔を作った。
「ごめんね。これからもよろしく」
    苦笑いを浮かべながら佳奈はそう言い、私達のもとを去っていった。   

36
   あれから私達は精一杯、受験勉強に専念した。
    時には佳奈を含めた五人で図書室で勉強したり、冬休みには補修にも行った。
    正月には家族と初詣で神社へ行き、合格祈願をした。
    目指す高校は私と美華吏と七生はコスモス高校、あとの二人はそれぞれ別の高校へ行ってしまう。
    あと何ヵ月したら毎日のようには会えなくなってしまう人もいる。卒業への日が近づく度、その寂しさは増していった。
    そんな中でも迎えた受験日。重たい不安とちょっぴりの自信を抱えながら私達は受験する高校の校門をくぐる。
    コスモス高校の偏差値は六十五。最近のテストでは八十点ぐらいを多くとっていた。だから充分に受かると思う。
    試験は五教科の筆記テストと面接だ。苦手な英語では、文を作る問題が出てきて頭を抱えたが、なんとか解けた。
     その一方で、得意な数学は空白がひとつだけ残り、どうしてもわからなくて悔やんだ。
     面接では、何度も陽果達と練習したおかげで緊張はあったものの、自信を持って質問に答えることができた。
    そして迎えた合格発表の日。空には雲がたなびいていた。
「清加、美華吏ー。起きて」
    一階から母がそう言い、私は目を覚ます。まだ少し眠気があるが、合格発表ということでわくわくしている。
「おはよう、清加」
    部屋を出て階段を降りようとすると、後ろから美華吏の声がした。振り替えって挨拶を返す。
     それから一階へ降りると、朝食を作り洗濯物を干す。大分慣れてきたから家事をこなすペースも速くなり、今では時間が余ってしまうほどだ。
「上達してきたわね」
    そう褒めてきた母に私は照れたように「そう?」と返した。
「おう。記憶喪失だったのが、嘘のように」
    美華吏はそう言って私の頭を撫でる。
    大袈裟のように思えたけれど、嬉しい気持ちは変わらなかった。
    それから身支度をして、重たい不安と少しのわくわくを抱えながらコスモス高校へと向かう。
「美華吏的にはあるの?自信」
    コスモス高校に向かう車の中で、私は気になったので聞いてみた。
「おう。余裕だな。あれぐらい」
    自信に満ち溢れた顔をして美華吏は言った。
    苦戦していたところがあった私にとっては羨ましい限りだ。
「いいなー。私は……どうだろう?わかんないや」
    私がそう言いながら首を傾げると、「大丈夫」と励ましてくれた。
    そう言われると大丈夫な気がしてくる。おかげで不安は少し軽くなった。
    走行するうちに車はあっという間にコスモス高校へ着いた。校門では七生が待ってくれている。
「おはよー七生」
    私から挨拶をすると、彼女は元気よく返してくれた。どうやら少しの不安はあるものの、受かっていると信じているらしい。
「結果、見に行こっか」
    私がそう言うと、二人は私を挟んで並び、三人で結果を見に行く。母達はその後ろを楽しそうに喋りながら歩いていた。
    私は唾をごくりと飲み、覚悟を決めた。
    精一杯やってきたんだから、結果がどうであれ、後悔はしない。
    体育館前に結果が貼り出された。私達はすぐに自分の番号を探す。
    私の受験番号は九十一。さて、あるのだろうか。並べられている番号を目でおっていく。
「あった!」
    自分の番号を見つけた途端、思わずそう叫んでしまった。
「俺も」
「私もあったよ」
    二人はそう言って吹っ切れたような笑顔を浮かべる。
    すっかり不安は重みをなくしていた。今は受かれたことへの嬉しさと安心感に満ち溢れている。
「あっ!佳奈と陽果はどうかな?」
    ふと思い出したように七生は言い、制服のポケットからスマホを取り出し、メッセージアプリを確認する。
「二人共に受かってるって!」
    七生は吹っ切れた笑顔のままでそう言った。
     私は安堵のため息をつく。
    ここから始まる私達の高校生活。それぞれの夢に向かって私達は羽ばたいてゆく。

37
   七年後。私は大学を出て、はれて数学教師となった。
    あれから陽果は音楽にはまり、幼稚園の先生になったんだそう。一方で佳奈は地域の人達のためにイベントを企画するイベントプランナーの道へと進んだ。
    そして美華吏はというと、近所にバレークラブをつくり、そこでバレーを子供達に教えている。
    今日から新しいクラスの担任と数学の授業を受け持つことになる。
    数学教師になってからもうすぐ一年が経とうとしている中、私が受け持つことになったクラスは受験生だった。
    これは私の教え方がいい評価を受けた結果なのだろうか。確かにこの一年、生徒からは人気の先生ではあった。時には悩み相談も受け付けてその解決に向けて行動したこともある。そして先生同士での仲も良く、頼れる新人として親しまれていた。
    うまくできるかわからないけれど、頑張ろう。
    私は深呼吸をして、新しく受け持つクラスの教室へ入った。
「では、今から授業を始めます」
    私がそう言うと、生徒はぞろぞろと自分の席から立ち上がる。
    その中に一人、つまらなそうな顔をしてめんどくさそうに立ち上がる少女がいた。
    窓の外を見てみればどんよりとした曇り空が広がっていた。
    なんだか記憶を思い出す前の私と似ているな。
     私はそう思いながら、微笑みを浮かべた。
    今の私を空模様で例えれば、迷いなく快晴と言うだろう。自分で言うのもなんだが、時々日記に友達の愚痴を殴り書きしてストレス発散をしている、頼りがいのある数学教師だ。
     私の新たな日々はここから始まる。
                                                                       完 
霞祈 rmqv1VznqE

2020年09月21日(月)10時32分 公開
■この作品の著作権は霞祈さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
こんにちは、霞祈です。
    「この曇り空は私と似ていた」を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
    七作目です。今回は描写を重視して書かせていただきました。まだまだ表現力が足りてないような気がしますが。
テーマは「長所」「優しすぎる」「記憶」の三つです。
    私は好きだった人に嫌われたことで長所を知り、小説を書くようになりました。
    ちなみに私の長所は美華吏や清加と同じの「優しすぎる」です。
    だから変な話ですけれど、あの人に嫌われて良かったと今では思っています。
    そのことからこの物語を思い付きました。
     執筆途中でタイトルがしっくりこなくてころころと変えちゃいましたが、最終的にはこうなりました。
    この物語を通して伝えたいのは「長所は誰にでも一つ以上ある」ということです。
     ダメな人間なはずだった清加にもあったのですから、きっと読者のみなさんにも長所が一つ以上あると私は信じています。
    長くなりましたが、良ければ感想指摘よろしくお願いします。


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